におい
彼は私に比べるといろいろと身体機能が優れている。
例えば古い椅子が少し歪んでいたり、窓枠が歪んでいたりするのに気がついては、
それを正確に調整して直し、かすかな壁紙の変色に気がついて雨漏りを防ぐ。
いち早く食品の変質に気がつき、鮮度の良い材料を選び出し、
バランスのとれた味つけと程よい加熱の料理を出してくれる。
それはもう、自分のような人間にはただ感心することしか出来ないほど優れた機能だ。
だが、その能力は、同居人としてはやや不都合な面もある。
同じシャツを3日も着てると叱られるし、天気が良いのに部屋の空気を入れ替えないと身体に悪いと怒り出す。
そう、なにより彼は私の体調不良や怪我に敏感に反応する。
自分ではあまり表に出さないと思うのだが、長年の付き合いがある友人は、たぶん顔色や、動作の変化、そして薬品の匂いに気がつくのだ。
私のような持病を持つものにはつきものですらあるそれらに、彼は不機嫌という返答をよこす。
一緒に暮らすという関係の中で、それは私にとって楽しい状態ではない。
そしてなによりこの仕事をするものには付きまとう危険は、それだけでも彼の精神に負担をかける。
それに気がついてからは、件の仕事のあとは、必要があれば必ず傷をなおして、自分に残る血の痕跡を消して帰宅する。
いささか長期間に及んだ仕事が無事終了して気が緩んだためか。
あんがい柵の修理中、いきなりの雨に濡れたせいかもしれない。
夕食時、熱があると気がついたのはやはり友人で、私は早々に寝室へと追われた。
寝る前にシャワーを使うつもりだったのに、熱が下がってからだ、とブロックされて、実際どうでも良いかと言う気分になった。
まあ、つまり体調が良くなかったのだろう。
それから、夜となく昼となく、目が醒めても夢うつつの状態で数日を過ごした。
喉の乾きはともかく、食欲も出ない。
友人が持ってきたスープすらうっとうしく、治らない!と叱られると、すこし理不尽だとも思った。
心配そうな子供のような表情をされると、こちらが悪いような気がするのだ。
うん、まったく理不尽だ。謝りそうになるなんて。
すぐ治るから、心配しないで。
たぶん口にするとまた叱られるから言わなかったけれど。
鳥の鳴き声が聞こえた。
ああ、今日は晴れた、とぼんやり考え、胸とお腹がふさがれるような感覚も無くなって、身体が楽だった。
お腹が減ったと思った。
ああ、熱が下がって、食欲が戻ったんだ、とようやくはっきりした頭で考える。
階下からはシリウスの動く気配があって、たぶん彼が朝食を用意している。
でも、ずっと熱を出していて、たぶんこの4日くらいシャワーも浴びていないし、朝食の前にさっぱりしたい。
同居人は必ず毎日シーツとカバーを変え、パジャマの着替えも(半ば強制的に)してくれた。
しかし、やっぱりそれでは足りないな、と思うし、たぶんそれは普通の欲求だと思う。
ベッドから出て、着替えを取り出す。
パジャマではなくシャツを持って、ドアに手をかけて、少し考える。
心配性の友人にクレームをつけられるかもしれない。
でもすっきりしたい。
なにか言われたら、自分はもう治ったから大丈夫だと説明しよう。
そう決めてドアを開けると、今まさに手を上げた状態の友人がいた。
「あ、おはよう、シリウス」
「…おはよう、リーマス」
彼の目が私の持っているシャツに向けられて、どこから説明しようかと頭が考え始める。
友人は、ひさしぶりに(私の気分的には)笑顔になった。
「ああ、もう熱は下がったな。
良かった」
あれ、とおもう。
彼は私の額にも手にも触れていないのに、パジャマの上からみても体温がわかるのか、とおもった。
そしてすぐ、いくら目が良くても無理だろうと考えなおす。
たぶんそれが顔に出て、彼はますます笑顔になる。
「今日はもう、いつものお前の匂いになってる」
「匂い?」
「乾いた草みたいなやわらかい匂いになってるよ、
俺の好きな匂いだ。
だからちゃんと治ったとわかったのさ」
この心境をどう言えば良いのか。
わたしは彼を殴りたい衝動に駆られた。
猛烈に恥ずかしくて居た堪れない。
そしてとにかくシャワーを浴びたいと思った。
熱は完全に下がったし、食欲も戻ったみたいだけど、とにかくすっきりしたい、と私は早口で説明して
彼の横を通りすぎる。
「髪を洗ってやろうか?」
背を向けたまま必要無い!と返して、私はバスルームへ突き進んだ。
それ以来なるべくこまめにシャワーを使う。
彼が言ったのがそういう意味ではないと判っていても。
これは気分の問題なのだ。
'07.06.09
つぶやき
こんな人間を恋人にしたら、さぞかし気苦労だろう(お互いに)
割れ鍋にとじ豚(…字が違う)