omake. 規範と公平性の調和について
闇の中、足下が血の色に染まっている。見渡す限りの地面が血に覆われている。 一歩踏み出すと、足首まで埋まる。
自分を捕らえる、生きた肉のように温かい泥。
もがく自分の前を、子供が歩く。白い服を纏ったからだの歩いた跡、血と泥の上に白い輝きが散る。白い子供、その細い体が誰なのか思い出した。リーマスだ。
ただ前を見つめ歩く彼の跡には白い光が次々と零れる。
彼を捕まえようと焦るのに、足を早めるのに、前よりもっと足が動かない。
追いつけない自分はリーマスが遠ざかるのを見ているのに、その表情を見ている。
じわじわと手にも足にも血と泥が登り始める。身体が沈み始めて、泥ではなく血の臭いが、鼻を、口を覆う。
リーマスの残す跡にふっと緑が浮かぶ。輝く緑の触手が次々伸びていく。それはまるで喜びの歌を謳う様だ、と考えた。泥の中に沈んだ自分の身体にもそれはからみつき、上に下に更に広がっていく。
沈黙し、遠ざかるリーマスの代わりに高らかに謳い広がる。
沈む自分の頭上で天蓋の様に緑が広がる…
シリウスは声にならない悲鳴を上げて飛び起きた。
異国の夏の朝日はまだだ。
夏とはいえ、この国では夜明けはずっと遅い。
傍らのベットに眠っていたはずのリーマスの姿は無かった。
トイレもバスルームも空で、ただ備え付けのバスタオルが一組無くなっていた。どうやら温泉に入りに行ったらしい。
結界から戻ってから、食事もほとんど摂らずに倒れる様に寝こんでいたくせに、と呆れたが、それこそ大浴場で倒れでもしたらと思うと、結局部屋で待つ事も出来なかった。
光量を落とされた廊下を歩く。
初めはバスローブで外を歩くのかと仰天した『浴衣』は、まあ慣れたが、スリッパで廊下を歩くと言うのはどうも心もとない。結局、ホテルの中で麻のサンダルを買って使っている。
思っていたより自分は柔軟性の無い人間らしい。
階段を降りて大浴場へ向かう廊下で、ふと見えた白い小柄な影にぎょっとする。ぱたぱたと少し走り気味だった少女の歩調がこちらに気がついて緩んだ。
短い髪の下で子供の様に華奢な首が軽く会釈してすれ違う。白く見えたのはホテルの浴衣だった。
…ずいぶん幼く見えるが、まあ、20歳前後なのだろう、と考え、あの圧倒的な気配は感じなかったのに、と苦笑する。
浴室の並んだバスケットの中にリーマスのシャツを見つけて少しホッとする。このホテルの中には幾つか大きな入浴施設があるから、すぐ見つかるとは限らなかったのだ。
ちょっとしたプールみたいな室内の風呂に彼の姿は無く、外へ出るガラス扉を押す。
すっと冷気が流れこんで体を包む。
朝は流石に空気がすっきりしていて気持ちが良い。
リーマスは、灰褐色の大きな岩が組み合わさった露天風呂で、岩の縁にちょこんと腰掛けて、ぼうっと明けかかる空を見上げていた。
呆れた事に、湯に使っているのはせいぜい足首だけだった。
いくら熱帯の国でも、山間部の夜明け前はそれなりに気温が下がる。
静かに近づいて声をかけた。
「おはよう」
「ああ、…おはようシリウス、」
「身体のほうはもう平気なのか?」
茫洋としたリーマスの顔に、何処か疲れたような笑顔が浮かんだ。
室内より露天のほうが湯温が低い…だろうが、シリウスは一応用心して足首だけ入れてみる。とりあえずのぼせない温度と判断して身体を沈めた。
「今日も、温泉に行くのか?」
リーマスは笑いながら、ゆっくり首を振る。自分のすべき事は終わったのだ。もはや出来る事は無い。
ホテルのベッドで眠りながら、何度もあの森の階段を上っていた。
誘われる様に少女の後ろを上っていく自分。
来るなと言う声が何度か自分を弾き飛ばし、その度に部屋の天井やシリウスの顔をみて場所を確認する。そのくせとろとろと眠りに飲みこまれるたび、森を歩くのだ。
時折白い少女がこちらを見ている。
目覚める前に見た最後の夢は、少女が自分にその手を差し出そうとしていた。
耳元で怒りのような声がして強く突き飛ばされるような感覚があった。ぼんやりと湯を覗き込む。硫黄臭も酸味も無い透明の湯はくるくると小さな泡を生じながら動く。湯の中、手のひらの上で銀色の粒が転がる様に動く。輪郭の定まらない意識は身体から流れ出ていきそうになる。
少女の手をはっきりと思い出せるのに、目覚めたはずの今までの記憶はどこか曖昧だった。
「大分明るくなってきたな」
「…うん、もう星は見えないけどきれいだよねぇ…」
見上げて気がつくと、リーマスの身体はほとんど濡れていない。そして、湯に浸かっていたにしては白い。 嫌な予感がして訊ねると、案の定な応えが出てきてシリウスは怒鳴るのを押さえ込んだ。湯の中に蹴り落としてやろうか、などと考えてみる。
「…リーマス、とにかく湯に浸かってろ。」
おとなしく湯に浸かったリーマスと逆にシリウスは上半身を外へ出した。
「お前な…風邪引くぞ。まったく」
「…うん、」
急にリーマスが笑い始める。
訳がわからないシリウスが聞くと、
「君はまるで母親みたいなことを言うよね」などと、実にむっと来るような科白が出た。
シリウスの顔が憮然とする。そして、不快なものに気がついて、語気が強くなる。
「血じゃないか?」
「え?」
言われて動かすと左腕にかすかな痛みが生じて、見ると何処で切ったのか肩から腕にかけて数カ所に薄く血がにじんでいた。
「転んだのか?」
「…ああ、…気が付かなかった。」
『夢』を言葉にする気は無かった。
シリウスの秀麗と言っても良い顔がさっと紅潮する。彼は嘘が嫌いだ。陶にリーマスのある種の嘘に関して異様に鼻が利く。
ぼんやりとまた怒らせたかなと思っていると、その手が伸びてリーマスの手を捕らえる。
シリウスが溜息をついた。
「…お前、身体を雑に扱いすぎるぞ。」
傷を確認して、部屋へ戻ったら直してやるから、と言う彼の声をどこか遠いもののように聞く。
湯で温まった身体はお互いの境を曖昧にする。
普段なら、自分と彼の体温はくっきりと違うのに。今日は何処までが自分の身体なのかわからない。
現実感がごっそり抜け落ちている。
見つめている手は誰のものだろう。
自分の手を押さえるシリウスの手首に舌を這わせた。
びくり、とその手が硬直した。
「…リーマス、」
顔をあげると、シリウスが真っ赤になってこちらを睨んでいた。身体の感覚がなくても、自分の意思じゃない動きをするのだからこれは別の身体なのだろう、と考える。
「…寝てるわけではないんだな…」
「…? はぁ?」
それなのに、この奇妙な頼りなさはなんだろう、とリーマスは自問する。
意識が半分体から離れかけているような浮遊感が消えない。
「…おまえな、ここが何処かわかってんのか?」
「…ホテルの風呂、」
「そうだ。プライベートビーチでもプライベートプールでもない。」
「うん、知っているよ、」
超特大の溜息が漏れる。こういうときのリーマスには何を言ってもほとんど無駄だ。
普段シリウスがこういう行動をとれば、場所や時間に応じて一つ二つ文句を言うのは彼のほうなのだが。
曰く、昼間なのに(してはいけないという常識と云うのは聞いたことは無い)。
曰く、カーテンが開いてる(窓際でキス以上の行為に及んだ事は無いし、さすがに及ぶ予定も無い)。
曰く、子供じゃないんだから(恋人としてのスキンシップとの区別くらいつけろ子供じゃないんだから)、等々。
そのくせ時々、無自覚で挑発してるのは詐欺じゃないか、と思う。
その中でも今回のはかなり性質が悪い。
ここは思いっきり公共空間で、場所と時間を考えればいつ他人が現れてもおかしくない状況だった。
いくら挑発されたからって、その気になったからって街中のカフェでキスするような訳には行くまい。
とは思っても、これまでの心配や、腹立たしさは簡単に消えない。
フェアじゃないだろう、と思うのだ。
リーマスは『常識』が好きだ。それはシリウスも認める。
けれど、それは『一般人』がそうしているからであって、彼自身が必要としているわけじゃない、と手痛い指摘をしたのはリリーだった。そして、それを不安に思って彼を責めるのはフェアじゃない、とも。
口の悪さで彼女の夫に匹敵する人間をシリウスは今だ知らないが、時々容赦の無さでは彼女のほうが上ではないか、と考える。
呼ばれて、リーマスが顔を上げる。
どこか憮然とした顔でシリウスがキスを落としてきた。
リーマスは笑いながら唇を受けとめる。
しかし、深くなる前に離れた唇は、明確な距離をとる。
笑いながら覗き込んでいるリーマスの目は、まだどこか茫洋としている。
もう一度、ゆっくりと笑っているリーマスに唇を落とし、今度は深く重ねた。
首の後ろに回した手が、反射的に引こうとする動きを押さえ込み許さない。
幾度か角度を変え、リーマスの呼吸を邪魔する様に舌を捕らえ、口腔を掻き回した。
確かに、リーマスと自分の『倫理』が違う事を見せつけられて、不安になって彼に当たるのはフェアではないと思った。それから今ここで他の客が入ってきたら言い訳の仕様は無いな、とも。
たいして時間はかからなかった。
膝の上で無防備に捕らえられたままだった左手が急に強張って、身体が逃れようとしたところで彼を解放する。顔は紅潮し、息は上がっていたが、今度はちゃんと視線を捉えていることに安堵した。やれやれ本当に世話が焼ける、とシリウスは内心で今朝何度目かの溜息をつく。
「続きは部屋のほうが良いよな?」
耳まで見事に真っ赤になった恋人を見て少し溜飲を下げ、にやりと笑った。
「じゃ、先に戻るからな?」
「あ…? う…シリウス…、」
場所と状況がようやくつながったらしいリーマスがわたわたと狼狽するのを楽しみたいが堪える。
「…流石にこんな所でのぼせるのは御免だ。」
「…ああ、」
シリウスのつぶやく声に先日の騒ぎを思い出し、ようやく余裕を取り戻したのか、頬に熱を残したままリーマスはくすくすと笑い始める。
それを後ろに聞きながら、ドアには忘れずに『起こすな!』のカードを下げておこう、と思う。折角の休暇なのだから、多少の自堕落は多めに見てもらいたい、とつぶやきながらシリウスはガラス扉に手をかけた。
つぶやき
先生の入浴シーンも足りなかったな〜と付け足したらなんか変な方向へ。
ここまで書いちゃうと正直、5では?と云う気がしないでもないが、ホテルの公共空間でいちゃつくのはどうよ、と思ったので。
でもこの程度だったら良いのかな(…すでに反社会的思想)。
いや、でもここで私が見ず知らずのおっさんで朝風呂〜、とか言いながら空けたドアの向こうでこんな光景が繰り広げられていたら…何が起こってるのか理解できないと思う。うん、女風呂なら見物客が出るかも知れ…(その前に犯罪だ)
'03.12.01
今度こそ終り