夢魔の撃退法についての一考察
家の中で、ひとつしかないソファを分け合って二人はそれぞれ本を読んでいた。
リーマスは魔法生物の生態に関する研究報告を、シリウスは預言者新聞の縮刷を終えて魔法・錬金術日報に取り掛かっている。
さして大きくもないソファでは、いくら痩せたとはいえ大の男が二人も座ると互いの体温が伝わるくらいには接近する形になる。
ふと、自分もシリウスも互いが側に在ることにだいぶ慣れてきたんだな、と思う。
シリウスがここへきてはじめの一ヶ月は、互いに長いこと他人と空間を共有することのなかったせいで、距離をとることがうまくゆかずにギクシャクして生活した。
『夢魔は極めてありふれた魔法生物であり、魔法使いのみならず、マグル社会においてもある程度の対処法が知れ渡った存在である。
あまりに人間の近くに在り、有効な対処法もそれなりに存在するこのちっぽけな生物は、しかし、時に人の生命を奪うほどの影響を精神に及ぼすことがある。
夢魔の生態は一種独特である。彼らは人の精神に寄生するが、大半は一過性で人から人へ渡り歩く。彼らは健康な精神に長期間接触することを好まないためだ。これは逆に特定の傾向を持つ人間を非常に好むということである。』
リーマスは、人狼に咬まれた幼い時分から夢魔との精神的共同生活を余儀なくされていた。
不本意ながら、中年になろうとするこの年まで彼らとの縁が途切れたことがなかった。
闇の生物の対処法は一通り身につけながら、このちっぽけな魔法生物が自分に集るのをどうにも出来なかった。
人の意識とは面白いものだ、と思う。
一年と半年前、シリウスと再会して、誤解が解けるまで、自分の元を訪れる悪夢はあの事件だった。
繰り返し繰り返し再現される記憶。
取り憑いた夢魔を追い払う気力すらないほど現実が自分を打ちのめした。
けれど狂うことも出来ないなら、やはり人はそれに慣れていく。
どれほど自分が擦り減っているのかわからなくなっても、慣れていくのだ。
12年という時間をかけて、リーマスにはそれが悪夢だという感覚すら無くなっていた。
あのホグワーツでの最後の夜。
真相を知って、それは新たに痛みを伴うものでもあったのだけれど。
リーマスは自分を脅かし続けていた恐怖が一つ瓦解するのを静かに眺めた。
次の満月を数日後に控えた夜。
後任への手紙を書き終えた後で、おそらくハリーのことを考えたからだろう。
新たな夢魔はリーマスの中の古い恐怖をほじくり返すことにあっさり成功した。
内容は学生時代に見たものの改訂版のような代物で斬新さは感じられなかったが、その衝撃は相変わらずだった。
いや、かなりひさしぶりに見た分、よけいに強烈だった。
その夜、がたがたと震えながら、飛び起きた体を支えようとした。
悪寒と動悸と混乱した意識の中で噛み切った唇の血の味を認識したとたん、激しい嘔吐感に襲われた。
かろうじてバスルームにたどり着いて、リーマスは胃の中に残っていたささやかな夕食をすべて吐き戻した。
自分のどこにそんな繊細さが残っていたのかと思ったほどだった。ヒステリックな笑いがこみ上げそうになって、鏡の中の青く引きつった自分の顔をにらみつけると12年ぶりの夢魔払いの呪を口にした。
この夢魔を追い払ったところで、またすぐに別のが取り憑くだけとわかっていても。
不愉快さは変わりようも無かった。
それにすらリーマスの精神はゆっくり慣れていく。
ただ、慣れていくはずだった。
ダンブルドアの命を受けてここへシリウスが来てから、二人は改めて互いにどれほど相手が 深い傷を負っていたのか確認せざるを得なかった。
さして広くもない空間で、二人きりの人間であれば嫌でも向き合わざるを得ない。
夜の闇の中で、シリウスが眠ることを恐れるように過ごしていることに。
相変わらず、リーマスがもう一つの本質に脅かされていることに。
リーマスがうなされると、シリウスが彼を現実へ引き戻した。
シリウスがうなされるときはリ−マスが。
いつもいつも。何度も。
互いに消耗していきながら、相手を癒すことが出来ないもどかしさに傷ついた。
それが、何度か同じベッドで寝るようになってから、急速に距離を測ることに慣れたことをリーマスは自覚している。
普段の生活において互いが接触することに怯えを感じなくなってきた。
そこまで考えてため息をつく。
それにしても、なんとまぁ。
またずいぶんと説明に困る関係になってしまった、と思う。さすがに他人に説明する事態は考えたくないなとぼやく。
いくら、人付き合いの感覚がおかしくなっていたからといって、ここまでずれなくても良さそうなものだ。
窓の外には雪がちらつき初め、冬の午後の日はたまにカーテンの端を染める程度だった。
そこまで考えて、まあいいかと、再び本に目を落とす。
あんな顔の友人を見続けるよりは。
汗に張り付いた髪、極度の緊張に憔悴した顔、絶望に溺れかかった弱々しい意識。
剥き出しの弱さに打ちのめされた友人を放っておけるわけが無い。
ホグワーツに入学したての頃、リーマスを悪夢から救ってくれたのはジェームズだった。
考えてみれば彼は当時から異様に気配に聡い人間だったのだ。
自分が何かを知るはずもないのに、人と頑なに関わろうとしない自分を彼が悪夢から目覚めさせる。
「平気だから。もう寝て」
何度目かにそういった自分の言葉をジェームズはあっさり蹴飛ばした。
「平気な顔には見えないよ、リーマス」
そういって自分が眠るまで手を握ってくれた。
「大丈夫、夢は目がさめれば終わってしまう」
彼の手から伝わる熱は夢魔を近寄せなかった。
君達がどんな気分で私に手を差し伸べたのかいくらかは理解できそうだ。
あのときの私は困惑と何より感謝でそんなことを考える余裕も無かったのだけど。
ああ、まったくだねジェームズ。
夢は目が覚めれば終わってしまう。
けれど悪夢を終わらせるには悪夢の底に潜む自分の恐怖を完全に終わらせなくてはならない。
『大抵の悪夢は自分が夢魔の形作った恐怖の本質を見極めることで崩壊する。
恐怖の原因を絶たなくては悪夢の迷宮は完全には崩壊しない。どこかに恐怖の痕跡が残っているかぎり、夢魔をいったん退けても、次の夢魔がそれをすぐに更に大きな悪夢に育て上げる。』
全くその通りだ。
そのことを知っていてなお、抜け出すことは不可能だった。
悪夢の原因は自分を取り巻く現実そのものにあり、夢と現実が足を揃えてリーマスの精神を叩きのめした。そしておそらくシリウスも。
13年間、私の(そしてシリウスの)目の前にあったのは目がさめても終わらない悪夢だったよ、ジェームズ。
私達は君を失った。考えつく限りの最悪のやり方で。
そうして、私たちは互いに手を差し伸べる。
それは彼の抱える恐怖に対する共感という甚だ消極的な理由であり、出来ることといえば、せいぜい枕元で彼の手を握り、悪夢に再びうなされるならたたき起こす程度のことだったのだけど。
彼と接触してる部分から熱が伝わる。
本を膝におろす。
考えてみると、互いが側にいるときは悪夢を見てないね。
ぼんやりとシリウスの整った横顔を眺める。
まあ、一緒に寝た時は疲れるからかな、と思っていたけど。
これまでの経験からいけば、夢魔の能力はその程度の疲労には左右されない。
触れたところから熱がゆっくり伝わる。
ああ、そうか、と思う。
この熱が夢魔を遠ざけるのだ、と。
納得したとたん、笑いがこみ上げる。
何だかんだ言いつつ、自分は何度もこの熱に助けられて、その効果を体験してたんじゃないか。
幼い頃、母が抱きしめて守ってくれたように。
学生の頃、ジェームズの手が悪夢の水面から自分を引き上げたように。
この小さな熱が、確実に夢魔を遠ざける。
それなら簡単だ。とても簡単だ。
今夜から一緒に寝ようと提案してみよう。
互いの部屋へ交代で起こしに行かなくても良くなるだろう。
だいたい、うなされた人間をたたき起こすにしても近くにいるほうが効率がいい。
夢魔に集られることの不快さに比べれば、多少の暑苦しさなど問題にもならない。
そこまで考えて、リーマスは本をテーブルに載せると欠伸を一つついた。
シャツの肩越しにさらさらと触れるものがあって、シリウスは視線を本から上げた。
所々銀色混じりの頭がふらふらと揺れている。
何となくその髪に触れてみたくなって、ゆっくり手を伸ばす。
かくり、とリーマスの頭がこちらへ落ちてきた。
はずみで、痩せた首の後ろの鬱血痕が目に入る。
それを認識したとたん、シリウスは一気に耳まで真っ赤になって、居たたまれないような、そこから逃げ出したいような気分に襲われた。
けれど、リーマスを起こしたくはない。心中まさに嵐のような葛藤となったが動くこともできなかった。
しばらく硬直した後、大きなため息を吐いて、肩の力を抜き、彼は床に落とした本を拾い上げ、再び読みはじめた。
えーと、某サイトマスターへのクリスマスプレゼントでした。
初めて書いたハリポタでシリルがこれ・・・。
ええ、「彼」の未来を暗示しています。
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