生命のいれもの

 

 

 

午前も終わりに近づこうかという頃にリーマスが帰宅したとき、その顔を見て俺は血相を変えた。

4日ぶりに見た友人の頬には大きな判瘡膏が貼られ、下唇の端にはざっくり切った痕があったからだ。

俺の顔を見て彼は困った様に苦笑した。

「いや、仕事の怪我じゃないよ。…さっきマリオン夫人の梯子にぶつかったんだ」

もらっちゃった、といって俺に差し出された籠には小ぶりの赤い桃が幾つかと瓶詰めが入っていた。

 

マリオン夫人は、二軒ほど離れた近所の住人だ。

70になろうかという小柄だがかくしゃくたる老婦人で趣味は果樹作り。

そう、庭ではなく。彼女の庭先は先立たれたご主人が残したという果樹園になっていて、彼女自身は庭師の情熱と農夫の技術によって小さくて美しい楽園を管理していた。

俺が来てからというもの、パディの散歩をするために外出する事が多くなってきたから、ご近所に声を掛けられる事がとても増えたのだと友人は言っていた。

その中でもパッドフットをことのほか可愛がるかのご婦人を気に入っているらしい。

通りがかりに挨拶すると、ぶどうの摘果をしていたマリオン夫人から桃がいるかと聞かれたのだという。

彼女の腕前に常々感心している友人はその申し出をありがたく受け取った。

そして、ぶどう棚から桃の木の下へ移動された脚立は、主を乗せてからスローモーションで傾いた。

偶々ネズミ穴にはまった脚立がはまったらしい。

珍しく反応した身体はすぐりの生垣を飛び越え、どうにか婦人を受けとめたが、そこへ脚立が倒れてきたという事だった。

お前はそそっかしいんだから慌てて行動するのは止めろとか、運が悪ければつぶされて怪我をしてた、とか、食事の用意をしながら文句を言っていると、いくら私でも高いところから落ちそうなご婦人を黙って見ていられるわけが無いだろう、と憮然とした声が返って来た。

だからって、自分が怪我をしてどうするんだ?と危うく口に出しそうになって思い留まる。朝食の席を気まずくするのは友人の食欲によくない。

溜息一つでポットから茶を注ぐと友人の前にカップを置く。

小言が途切れたのにホッとしたのか、いつもの穏やかな笑顔になった。

「親切で言ってくれたのに迷惑掛けるし、こんなにたくさんもらってかえって悪かった」

などといいながらどこか嬉しそうなのはたぶん気のせいではない。籠の中には桃だけでなく、自家製のジャムやらジェリーやらが5、6個入っていた。夫人は料理の腕も確かだ。

「…いい年のばあさんが骨折して治療にかかる時間を考えたら安いもんだと思ったんだろう」

「失礼だよシリウス」

今度は友人の声が御小言モードになりそうなので肩をすくめる。

ポットの脇には赤い桃の実が置かれている。

いつもはシロップ煮にするが、今年はこの暑さですばらしく甘くなったからこのまま食べてみてといわれた、と友人が言うので朝食というより早めの昼食は果物のデザートつきとなった。

 

 

手で剥けるほど紅く熟した実はすばらしい香りだった。

確かにこれでシロップ煮を作るのはもったいないような気がする。

友人の顔は甘い果物に、傍目で見ても嬉しそうだった。

お茶の時間にはジェリーを出してやろう、と考える。

食器を片付け終わってから傷薬を探し、本をもってソファへ移動した友人に声を掛けた。

「リーマス、傷見せてみろ」

「ああ、たいした傷じゃない。魔法で治すには及ばないよ」

「良いから見せろ」

リーマスは痛みに対して結構な耐性があるせいで、自分の怪我の程度を過小評価しやすいのだ。

 

そうっとテープをはがすと強くこすったような傷がくっきりと残って血がにじんでいたが、痕になりそうなものではないようでホッとした。

「…まあ、これくらいなら直ぐ治るか…」

「うん、大丈夫だよ」

回復薬を丁寧に頬の傷に塗る。

赤く腫れた口唇と傷がまるで果物みたいだ、と思う。

口唇の傷に舌を這わせると彼の身体が微かに強張るのがわかる。

まだ桃の匂いがする。

小さく笑ってそう呟くと友人が憮然とする。

「…失礼な。食べた後きちんと拭いている」

「それくらいじゃとれないんだよ、この香りは」

笑いながら口唇の傷にも薬を塗る。

そう、この香りは皮膚に浸透する。

この果実を生命の形と言ったのは誰だったか。

東洋では生命の象徴として石榴や桃の果実を使う。

果実は種のいれものだから、象徴としてはわかりやすい。

安定感のある形。

鮮やかな紅は祝福の色だ。

欲望と歓びはコインの裏表だ。そして本来、生物において欲望とは本能と一体だ。

連想した印象に沈黙した。

こんな天気のよい午後とのほほんとした友人の表情にあまり相応しいものじゃなかったからだ。

 

 

黙り込んだ俺に、ふっとリーマスの顔が近付いた。

甘い香りが鼻を掠める。

先刻自分がしたのと同じようにリーマスの舌が俺の口唇のはしを舐めた。

一拍置いて驚愕した。

「…味は残らないんだね」

しれっと友人がつぶやく。

俺はといえば、心臓が音を立てて鳴っているのに、カオは驚きで硬直したまま動かなかった。

「くだもの味の君はなんかすごくおいしそうだなと思ったんだけど」

何を返していいか混乱したまま、友人を見上げていると、彼はまだとびきり上手いものでも食べているような顔をして笑った。

さっき自分が連想した事を実行しようかと数瞬迷って、結局俺は降参の合図を送った。

 

欲望と歓びはコインの裏表だ。

歓喜の香り。生命の手触り。

薄くてもろい皮。甘く薫る果汁。生命のいれもの。

 

それから…それから時々中には『サプライズ』が入っている。

そういえば彼はそんな悪戯が得意で大好きだった。

せっかくの赤いくだものを楽しむため、シャーベットを作る用意をしながら、大きな溜息をついた。

 

 

 

 

 

つぶやき

日常(昼日中)において、先生から黒田さんへのはじめてのキス(舐めてもキスかなぁ)。
こういう形のつきあいになってしかし8ヶ月目。
先生は木なんだよ。ナラとかハルニレとか。のんびり大きくなるんだよ。シリウスはポプラ(職場の近所では強風でしょっちゅうひっくり返る…いや特に意味は…ごにょごにょ)。

’040824


戻る