5.扉のむこう




その夜は満月だった。

上級生たちとシリウスは気付薬を飲まされて簡単な手当てで寮へ戻った。表向きリーマスはそのまま病棟に置かれることにされて、マクゴナガルの事情聴取もそこそこに夕刻前屋敷へ移った。

昼間から続く雨はそのまま止むこと無く、空は雲で覆われ、暗闇の中リーマスは埃っぽいシーツの上で考える。

今夜は変身しなくてもすみそうだった。
リリーはどうしただろう?
大騒ぎになったことはまちがいなかった。教師たちが何人も駆けつけてきた。
蔦に巻き込まれたシリウスは大丈夫なんだろうか?
リリーは、真っ白な顔で教師に向き合っていた。
いったい、自分たちはどんな罰を受けるんだろう?
不安はリーマスの中で渦を巻き、雨の音を聞きながら、眠りもせずに朝を迎えた。
久々に痛みのない朝を迎えることが出来たのに、気はまったく休まらなかった。

夜明けと共にマダム・ポンフリーのもとへ走ったが、リリーは夕べ熱を出して病棟へ泊まったと聞かされて身が縮まるおもいがした。
「彼女のことは心配しないで、君は寮に戻りなさい。今日は授業を受けられるわね?」
熱を出して眠っているリリーを起こすわけにもいかないのだから、リーマスはその言葉に頷いて、寮に戻ることにした。トラブルに巻き込んだのはリリーだけではない。
早く謝って、終りにしよう。
それにしても、一体どんなことになるんだろうかと指が凍えるほど不安だった。
トラブルを起こしても、自分も他の子と同じように減点や罰掃除で済むのだろうか?
雨上がりで冷えた石の床を見つめながら漠然とそんなことを考えた。


いつのまにか身につけた音を立てない動きで半ば無意識に部屋のドアを閉めた。かなり早朝だったから、部屋の住人たちが起きているとは思っていなかった。

「―おかえり、リーマス。もう大丈夫?」

リーマスは突然かけられた声に飛びあがった。
「おかえり、とりあえず元気そうだね、何よりだ」
狼狽したままピーターとジェームズ、対称的な二人の少年の顔を見比べ、かすれた声でおはよう、と呟いた。未だ早い時間なのに、二人とももう着替えている。
それから二人の後ろに立つ背の高い少年に気付く。
彼は綺麗な顔を不機嫌そうに口をへの字にしており、リーマスの勇気をさらに削り取った。
ごくり、吐息を飲んで一歩近づく。
「あの、シリウス・ブラック、昨日は巻き込んでごめんなさい…」
「…べつに、同室の人間が絡まれていたら誰だって助けるっ…」
鈍い音がして、シリウスが俯いて静かになり、いつのまにか傍に立っていたジェームズが眼鏡の奥で笑った。
「安心していい、リーマス。そもそもこの程度は彼には怪我のうちには入らないし、常のケンカに比べれば昨日の被害者は軽いうちだ。
…それにしてもシリウス、せっかく掴んだ機会なんだから生かすべきだろう?
そんな仏頂面じゃリーマスが怯えるじゃないか
素直に君の力になれて何よりだといえば良いのに」
「ってめこのジェームっ!」
明らかに身長差の在る少年をどういう方法なのか鮮やかに押さえ込み、ジェームズはウィンクをして見せた。「ともかく、たいした怪我がなくて良かった。帰ってこないから3人で心配してたんだ。ああ、昨日はピーターに先生たちを呼びに走ってもらったんだ」
「え、あ、…ありがとう」
「え、ううん、僕とろいから遅くなっちゃって…」
「まったくだ。後3分早けりゃ、蔦でぐるぐる巻きは免れた」
「なかなかない経験じゃないか。女の子を甘く見るなって教訓だね。
リリー・エヴァンスは戻ったの?」
「未だ病棟…」
「そうか…後で御見舞いにいこうかな。
でもまあ、とりあえず朝食を食べに行こう?」

「うん、早起きしてたからペコペコだよ」
「ピーターは何時もペコペコだろ?」
軽く金色の頭を叩きながらシリウスがこちらを見た。
「先行くぞ、ジェームズ。…お前も来いよ、リ−マス」
固まっていたリーマスのローブをジェームズが軽く引き、笑いかける。
事態が飲みこめないまま、リーマスは半ば挟まれるようにしてホールへ向かった。



朝食は目の回るような忙しさだった。

ジェームズとシリウスは火花の様に昨日の騒ぎの光景を再現し、その間にリーマスの皿に焼きトマトやベーコンを放りこむ。
「君はもう少し食べないとね。同じような連中に接触したら、また吹っ飛ばされてしまうよ?」
ジェームズが覗き込む様にいうと、シリウスも頷いた。
「…まったくだ。細くてがりがりじゃねぇか。腹へらねぇのかよ?
ピーター、お前はスープ残すな」
「にんじん嫌いなんだもの」
そういったピーターの目の前にはフルーツのヨーグルト和えが山盛りになっていた。
「リーマスは嫌いなものあるの?」
「…」
食べ物にすきとか嫌いとかを考えた事がなかったので首を振る。
「えらいなあ、僕はにんじんとかレバースープとか食べられないの」
「食べられないんじゃなくて食べてないだけだ」
「好き嫌いはないほうが良いけどね。ちゃんと食べないとまた授業中にお腹が好くよ?」
あんまりにぎやかで、リーマスは胸もお腹ももう一杯だ、と思った。


リリーは授業が始まっても姿を見せず、昼食にもこなかった。
思いきって放課後に病棟へ行ってみたが、まだ眠っているからと面会できず、リーマスは途方にくれた。
談話室の入り口が見える椅子に座って、リリーが現れるのを待った。
朝食も昼食もジェームズ達がまわりにいて、たくさん食べろと進められたせいで、リーマスは常にないくらい食べた気分になっていた。
なので、夕食の時間はホールへ降りず、彼らの目に入らない様に椅子の背に隠れていた。
長くなり始めた明るい時間も終りを告げ、雲が切れたのか、カーテンの裾から青い月の光が時折見えた。
いつのまにか考え込んでいて、生徒たちの姿が消え始めた事にも気がつかなかった。
すでに人との係わり合いでも、事態の複雑さでもリーマスの手には余る。どうしたら良いのかわからないし、どうなるのかも予想がつかなかった。
最悪は退学ということになるのだろうか?
今日1日、呼び出される事もなく、今だ減点も罰も言い渡されていないだけ怖かった。やっぱりリリーに会わなくては。
会って、昨日のことを謝ろう。
早く。
ふらふらと入り口に近づく。
「リーマス、」
かけられた声に飛びあがって振り向く。
黒髪の少年が少し目を開いて、直ぐ安心させる様に微笑んだ。
「もう直ぐ消灯だよ?」
「…あっ」
「見舞うなら、明日にしたほうが良くない?」
それはそのとおりだったが、リーマスはリリーが本当に無事なのかを自分で確認したかった。
会って謝って、終わりにしたかった。

かといって、消灯後に寮の外をうろつくなど論外だ。ましてや昨日の今日である。
俯いたリーマスをどう思ったのか、ジェームズは小さく笑い声を立てた。
「君がどうしてもって言うなら、手伝おうか?」
リーマスの怪訝そうな視線の先にそれまで見た事もないような楽しそうな笑顔が浮かんでいた。
「ちょっとした冒険だよね」
眼鏡の奥でキラキラする目がウィンクした。


秘密兵器だ、と少年がポケットから取り出したのは透明マントで、確かにこれなら見つからないかもしれない、と思った。
暗い廻廊を彼は恐れ気もなく進んでいく。
リーマスはといえば、人と接近する事にためらいがあり、また見えない事を確かめたものの回りの気配が気になってつい遅れぎみになる。そのたびにジェームズが歩調を落とし、彼を引き寄せた。
「…これって、ゴーストにも見えないの?」
「それは確認してないな…今度試してみるよ」
この少年は怖い事がないんだろうか?

シリウスもこの少年も明らかに強い力が在り、何をやらせても飛び抜けていた。何恥じる事もない純血でその上飛び切りのいたずらを仕掛けては学校中の話題になるような人間である。
何より、彼が心底楽しそうに見える事がなんだか少し羨ましかった。

「昨日の事はあんまり心配しなくもいいと思う。マクゴナガル先生には君がされた事も、リリーがされたことも全部話した。あの場所は3階の廻廊から丸見えなんだ。他にも見ていた上級生がいたしね」
「…リリーは悪くないよ」
「うん、上級生の男子に暴力を振るわれそうになったら、とても怖かったと思いますって言っておいたよ。
二人のしたシリウスが無罪放免になるかは微妙だけど、リリーは大丈夫だと思う。
連中もまさか下級生に絡んだ挙句、女の子に急所を蹴り上げられて乱闘になりました、なんて教授陣に言えるとは思えない。」
その言葉に目を丸くする。さも可笑しそうにジェームズの目がくるりと動く。
「うん。すごくきれいなキックだった。これは余り見られていないと思うから先生には内緒にしたけど」
ほんとになんでも楽しいんだな、と溜息をついた。


寮と違って病棟の扉は常に開放されている。
ジェームズは周囲をうかがいながらすばやく静かに病室へ滑り込んだ。
ベッドのカーテンは半分開いたままだったが、リリーは未だ眠っていた。
「ああ、ほんとに熱があるみたいだね。なにか顔が赤い…って、まずいな、これって失礼に当たりそうだ」
眠っている顔はとても静かで、不安はやっぱり解消されない。
本当に大丈夫なんだろうか?
そう思うと泣きそうになった。
「…せっかくだから、置いていこう」
ジェームズがポケットから小さな紙包みを取り出してリリーの枕元へ置いた。
「…なに、それ?」

「ん?お見舞いに手ぶらもなんだしね。お菓子を持ってきたんだ。一緒に食べようと思って」
そんなことをまったく思いつかなかったリーマスは、一瞬不安も忘れ、ほとほと感心して少年の顔を見る。
不意にジェームズが腕を引き寄せ、二人のマントを掛けなおした。
マダム・ポンフリーが病室へ入ってきたのだ。
すぐあとにはマクゴナガルの姿が続いた。
「…あら早速?」
「息子に怪我をさせた生徒をここへ呼べと喚いたのよ!」
低く押さえられていたものの、マクゴナガルの機嫌はたいそう悪そうだ。
「校長が、貴方のご子息を簀巻きにした女子生徒は乱暴されたショックで寝こんでいる、といったら引っ込んだけど、あの顔!納得してないし、するつもりもない。要注意だわ、本当に!!」
「静かにね、ミネルバ」
あわててマクゴナガルが口元に手を当てた。
「リリー・エヴァンズはどう?」
「夕食にもあまり手をつけなかったけど、熱さましは飲んだわ。明日は寮へ戻れるでしょう。これは知恵熱のようなものだから」
マクゴナガルがはっきりとわかる溜息をついた。
「…ただ今回のことでずいぶんショックを受けていたから、しばらくは注意した方が良いわね」
「…こんなふうに力を現わす子はめったにいないし…私も驚いたわ。緑の魔女の能力って下手な魔法使いより強力なのね。
マグル出身で都会育ちだから、同調が直ぐ出来るとも思っていなかったし…
やはり、力の説明をして自覚を促すべきかしら…」
「…ミネルバ、少なくとも彼女が力のことを冷静に考えられる様になるまで待つべきよ」
「――そうね。あせっても仕方ないわ」
「リーマス・ルーピンはどう?」
自分の名前が出たことにリーマスは総毛だった。
一瞬で頭の芯が冷える。
二人がこのままあのことを話題にしたらどうしよう。
側の少年は明らかに聡くて機転も利く。僅かな言葉でも自分の秘密に気がつくかもしれない。
焦っていたとはいえ、こんな人間と行動を共にした自分の迂闊さを悔やむ。
「今日はさすがに落ち着きはなかったけど、身体の方は良いようよ」
「良かった。一つは安心ね。ミネルバ、貴方も少し休みなさいな。
…安眠茶をだしましょうか?それとも美顔茶?」
「――安眠茶で十分。ご馳走になるわ」
二人の姿が控え室に入ってしまうと、ジェームズがそっとリーマスの腕を引いた。

 

『緑の魔女』という言葉をリーマスは知っていた。
『魔法使いとマグル―その迫害史―』、ほかにも幾つかの本に載っていた。

緑の魔女と言うのは一種の称号だ。森と泉…特に植物や動物の再生、保護と癒しの力を持つ。男も女もいたけれど実際には魔法使いだったものはほとんどいなくて、魔女狩りの嵐で絶えた血筋だった。真の魔法が使えなかった彼らは迫害で命を落とした。それでもたまに同じような力を持った者が現れる。
もしかしたら、リリーの先祖にはそういう魔法使いがいたのかもしれない。
なるべく彼に歩調を合わせるように歩きながら、漠然と考えていると、ジェームズが呟くのが聞こえた。
「…マグルが魔法使いになるって大変なんだな」
「…うん」
「彼女は怖かったんだろうか?」
その呟きに少し驚いて少年の顔を見る。
「ん、なに?」
「あ、ううん、なにが怖いの?」
「彼女、自分のした事が解ってなかった。あの時、とても驚いていたんだ。
…自分のなかに自分が知らなかったり、いうことを聞かない力があったりしたらとても怖いよね」
「…うん」
「彼女は、僕らの当たり前をこれから知らなくちゃいけないんだ」



よく解らない感情が渦巻いている感じがした。





’040611



戻る