閉鎖空間
3.キーワード
リーマスは、塔の誰もいない空間で、風の匂いをかぐと思いっきり身体の中にそれを取り込む。石造りの空間で、人に囲まれているときにはどうしても縮こまってしまう身体をすみずみまで伸ばすように深呼吸する。
イースター休暇が明けると、外の空気はどんどん熱を持ち始め、木々の緑はいっせいにその若草色で空間を占めていく。
この間、一度だけ塔でリリーの姿を見つけ、リーマスはひっそりとその時間を彼女に譲った。
自分がいるときにリリーを見ることも無かったから、おそらく彼女も同様だったのだろう。
今日の午前の授業は、ちょっとした騒ぎがあった。
授業の半ばで教授がリリーに質問したときだ。
質問にはすらすらと答えたリリーだったが、教科書を出していないことを指摘された。
「ミス・エヴァンズ、私の講義に教科書など必要無いと云うつもり?」
「いいえ、先生。私の教科書は見当たらないのです。」
リーマスの席の横で、数人の女生徒達が妙に耳障りな忍び笑いを漏らした。
「忘れたのならそうおっしゃい。見苦しい。」
うつむき加減になったリリーは、すぐに顔を上げ、少し語気を強めた。
「私は、教室まで本を持ってきました。」
彼女の首が熱を持つように紅くなった。
教師の顔が不愉快そうにしかめられる。その口が開かれ、グリフィンドールの減点を叫ぶ、とリーマスは思った。
彼女は、変わっているものが好きではない。例えば、マグル出身の優秀な生徒。授業中に平気で教師に悪戯をしかける生徒や、クラスに紛れ込んだ狼人間も。
真っ赤な顔をしたリリーが、教科書を『呼び寄せ』たのは次の瞬間だった。
リリーの声が呪文を詠唱し終えたとたん、ドンと音がして、教卓の中から茶色の革表紙の本が飛び出した。
大きな音に、薬草学教授は飛びあがる。
本がリリーの手元にすとん、と落ちた。
「すいません、先生。授業中に静かに『引き寄せる』事が出来なかったので、我慢してました。これで、私が本を忘れたわけではないと言うのはお判りいただけたでしょうか?」
教科書を放り投げ、黒板に貼りつくようにしてリリーを見ていた教師は生徒たちのくすくす笑う声で正気に戻った。
真っ赤になった教師が引きつるような声を張り上げた。
「グ…グリフィンドール、5点減点!!」
午後の授業にリリーの姿が無かったとき、リーマスはあの塔を思い浮かべた。
自分はなるべく係わらないようにしなくては。
そう思いながら、うつむき加減になった、一瞬強く唇をかんだリリーの顔が浮かぶ。
だめだ、自分は目立たないようにしなくては。
自分の同室の二人組みほどではないが、リリーもまた、目立つのだ。出身だけではなく、授業中の態度や立ち居振舞い全てが。襟までの短い髪は女子の中ではかなり珍しいし、一年生の中では背が高くて、すらりとしている身体がきっちり背を伸ばして歩く姿や、鮮やかな緑の目と赤い髪はとても目立つ。リリーはかっこよくてきれいだ、とリーマスは思う。談話室で、上級生たちが囁いているのを聞いたこともあったから、そう思っているのは自分だけではないのだろう。
シオラ達が彼女にちょっかいを出すのは多分そういうことでもあるのだ。
係わらないほうがいい。
そう思いながらつい足はあの場所へ近づく。
自分は目立つわけにはいかない。
塔への入り口の前はいつものとおり人通りが無い。
それから、思い出す。
リリーはこの頃、授業の前にさっさと教室へ入っている。一人で本を読むか、教科書を広げているかだった。
最近は他の女子生徒たちもリリーと口を利かなくなっていた。ついこの間まで、一緒に食事をしていた子達とも。
手が、扉に掛かった。
傾きかけた日の中で本を投げ出し、リリーは足を伸ばしていた。
首を傾けてこちらを見たリリーに、リーマスは言うべき言葉が見つけられない。
どうすれば良いのかもわからないまま、こんな場所にいる自分を呪いたくなる。
「あ、あの、ああ云うこと、もしかして…」
もごもごと問い掛けたリーマスに、リリーは、少し肩をすくめて見せた。
そんなことを確認してどうするつもりだろうと自問する。
「あ、先生に話したら…?」
「…先生たちにはどうにも出来ないよ。証拠が無ければ。」
リリーがちょっと困ったように笑う。
「誰がやったかなんて、想像がつくけど、それは私の想像なの。
でも、今日は…いつものくすくす笑いをされたら、連中に飛びかかってひっぱたいてた気がする。彼らがやったと言う証拠が無いのにそんなことしたら、私が怒られるだけだ、ばかばかしい。」
そう言ってからとても大きな溜息をついた。
「…でも判ってても止まりそうな無かったから、だから、ここで、頭を冷やしてたの。」
そこまで一気に言うと、ふう、と息を吐いて肩の力を抜いた。
「…まあ、大抵なじめば収まるし、なんとかなるでしょ。」
動物には毛色の違うものが群れに入ってくると、しばらくは突つきまわす習性があるのだし、といって、笑う。
「どうして…どうしてリリーは笑えるの?」
リリーはマグル生まれかもしれないけど、普通なのに。
そんな言葉を飲みこむ。
一緒に零れそうになった涙も飲みこんだ。
「泣いても解決できないから。」
ふいに響いた声に叩かれたように顔を上げてしまう。
リリーがこちらを見て、少し怪訝そうな顔をした後、苦笑して呟いた。
「泣いたら、気持ちは楽になるけど事態は変わらないの。変えられないの。泣く体力があるなら、その分対処方法を考えたほうが、確実だと思う。…これは受け売りだけど、私は正しいと思うから。
まだ…まだ。泣き喚くのは最後の手段だよ、きっと。」
どうしてこんな風にいえるんだろう。
俯いて顔を覆ってしまった自分にリリーは理由を聞いてこなかった。
空気が薄青くなり始めるまで、何を話すでなく二人ともが壁際に座り込んでいた。
「大きな月だね…」
膝を抱え込んで空を見上げていたリリーが呟いた。
夕空にぽかりと上り始めたそれ。
「…うん。」
あと、2日で満月になる。
「すごくおいしそう…」
「…リリー?」
「だって…チーズスフレみたいで…今なら一台でも食べられそう…」
「…リリー、お腹へってるの?」
「めまいがするくらい…へってるみたい。」
慌ててポケットを探ってみるが、こういうときに限ってチョコレートもキャンディも入っていない。
「…僕、もって来る。」
「リーマス?」
急いで立ちあがると、すでに暗い階段を走りおりた。
ホグワーツへ来て、初めて誰かのために何かしてあげたいと思った。
塔に戻る途中、上級生にぶつかり、運んでいた夕食のプディングをぶちまかした。
寮で着替えて結局自分のお菓子を持って階段を上り始めたときには、リリーが寮に戻ってしまったかもしれない不安がひたひたと寄せていた。
これだけ待たせてたら、リリーは待ちぼうけを食わせたと考えたかもしれない。
その考えは自分の指先を冷やす。嫌なくらい心臓がどきどきし始め、不安で眩暈がしそうになりながらドアを開けた。
「…リーマス?」
リリーの声を聞いたとたん、どっと安堵が押し寄せた。
「…よかった、いた…あ、遅くなってごめんなさい、これ、」
「…ありがとう」
リリーのその声が胸に落ちて、初めて聞く言葉のように響いた。
ひどく久しぶりの感覚が自分の中に生まれた。けれどそれが何というものなのかが思い出せない。
「…リーマス?」
固まってしまった自分にリリーが不思議そうに呼びかける。
「あ、えと…よかった。」
そうだ。この気持ちは『うれしい』だ、と自分に答える。
誰かに喜んでもらってうれしい。リリーに喜んでもらえてうれしいのだ。
おいしい、と呟くリリーに更に安堵してもう一度考える。
どうしよう。
係わってしまった。
でも、リリーはマグル生まれだ…。
そう、彼女は生粋の魔法族じゃない。
…ぐずぐずと言い訳を探しているのは、誰かと、こんなふうに話せるようになりたかったからだ、ということにリーマスはまだ思い至らなかった。
つぶやき
リーマス少年はこの半年、秘密でいっぱいいっぱいなのです。誰かに何かをしようと思ったのはこれが最初。
ちなみにぶちまけたプディングはシリウスの頭に落ちて『光の右手』へ。