私立大学の教職員会議でのことです。私とほとんど関係の無い議題が長く続き、ちょっと居眠りをしてしまった時のことです。
「えんのう」「ふとうこう」という発言が繰り返し聞こえてきます。「援農」「不凍港」という昔懐かしい言葉が、何で問題になっているのかと不思議に思ったところで、目覚めました。 学生の授業料「延納」と「不登校」が問題になっていることに気付いて、現実に戻された.のでした。
「えんのう」「ふとうこう」という同じ発音の言葉でも、私たちが学生であった60年昔と、今とでは、まったく意味が違うようです。
援農
今年の8月は、太平洋戦争の終戦から60周年です。終戦の時の8月、私は旧制中学、北海道庁立小樽中学校の3年生で14歳でした。
空知郡南幌向字晩翠、今の南幌温泉の近くで、農家に泊り込み、勤労奉仕で農業を援助していました。
日本全国で、12歳から15歳の中学生が、働き手の男が戦場に行って手薄になっている農村に、「援農」に行っていたのです。
今でも、右手の人差し指と中指が、田植えの動作と、それに、「敬礼」の動作を記憶しています。
ランプの下で数学の古教科書を読む
中学4年のうち、半分は勤労奉仕で授業は無かったようです。しかし、今から振り返ってみると、必ずしも、マイナスでばかりではなかったように思います。
夜は、植物性灯油ランプの明かりで、兄の古教科書で、数学を勉強しました。結局、5年生の分まで終えてしまったようです。
私だけでなく、みんなが、自主学習で学力を付けて行くという能力を身に備えたようです。今の学校教育は、「教え過ぎ」のように思います。
樺太眞岡の不凍港
終戦までは、樺太(今のサハリン)は日本の領土でした。
樺太の眞岡は、日本最北の不凍港でした。真冬でも、海水はシャーベット状にはなるが、完全に凍ることはなかったのです。
当時は、「ふとうこう」と言うと、眞岡の不凍港のことに決まっていました。
登校は「とこう」
当時は、学校へ行くことは、「とこう」と言いました。登校、下校は、「とこう」「げこう」です。
登山、下山が、「とざん」「げざん」;登城、下城が「とじょう」「げじょう」であるのと、同様です。
戦時教育では、勝手に、学校へ行かないことなどは、まったく許されることでなく、そのような言葉さえ無かったように思われます。
戦後になってから登校拒否を「不登校」と言う
戦後になって、人権が尊重されるようになり、登校拒否が問題にされるようになってきます。
それとともに、「登校」に対し、「不登校」という言葉が出てくるようになります。
しかし、「とこう」に対し、「ふとこう」では、言いにくいので、「とうこう」「ふとうこう」と言うようになったのではないかと思います。
今では、パソコンの漢字変換でも、「えんのう」「ふとうこう」は、「延納」「不登校」しか出て来ません。
終戦60年で、大きく、政治、社会、経済が変わってしまったが、言葉もまた大きく変わってしまったようです。
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