意識的時間の流れの 断続 逆行 一方向性

現在における 記憶としての過去から

予期としての未来への 時間の流れ


時間の流れを考える 5(完)

時間進行の2次元表現

(2007年4月29日記載)

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木下眞二

 

逆行して行く 意識的時間の流れ

 睡眠・夢のページで考えたように、「夢」の中の日で、1日過去の日は、「明日」であることが考えられます。また、「夢」と「現実」との鑑別は困難なようです。

そうすると、次のグラフに示すように、意識的時間は、「明後日」から「明日」へ、「明日」から「今日」へ、そして、さらに「今日」から「昨日」へ、「昨日」から「一昨日」へと、逆行して流れて行く「可能性」が考えられます。

 NHKの朝の連続ドラマのビデオを、日付を逆にして、毎日見るようなものです。

しかし、「夢」のところでも述べたように、「その日」では、「明日」の「予定」を準備したり、「昨日」の「記憶」を話し合ったりしています。

つまり、「その日」の時点では、「昨日」から「今日」へ、「今日」から「明日」へと、時間が流れて行くと信じています。

「その日」の時点での、「意識的時間の流れ」は、常に「過去」から「未来」へと「一方向性」に向かっているということができます。

 この「可能性」を、さらに進めて行くと、一日より短い「一つの瞬間」から「それより一瞬過去の時点」へと、絶えず「逆行」して流れて行く「可能性」を考えることができます。

次のグラフは、この「可能性」を示したものです。

 テレビのビデオを、あるいは、映画のフィルムを、巻き戻しして見るのと同じように逆行して行きます。

しかし、この場合も、「その一コマの時点」の映像に出てくる人間は、カレンダーの「明日」を指差して、「予定」をメモしたり、「昨日」撮った写真を見ていたりします。

つまり、この場合も、「その瞬間」の時点での、「意識的時間の流れ」は、常に過去から未来へと「一方向性」に向かっているということができます。

(なお、この他に、「ゼノンの矢の逆行」や「自己意識の分裂」などの可能性が考えられるが、それぞれのページを参照してください。)

今日だけ

今だけ

 眠っているうちに、急激で強烈な「脳出血発作」を起こして、目覚めることなく、「意識」が、断絶してしまう可能性があります。

つまり、「今日」の「意識」は、断絶して、次に流れて行かない「可能性」が考えられます。

さらに、次のグラフに示すように、「意識的時間の流れ」は、「今日だけ」という「可能性」も考えられます。

 しかし、ここでも、「今日の時点」では、「過去」と「未来」があって、「過去」から「未来」へと、「意識的時間」は、「一方向性」に、流れて行くと信じていることでしょう。

NHKの朝の連続ドラマの録画で、中間の1回分だけ見るようなものでしょう。

 さらに、次のグラフに示すように、「今だけ」という「可能性」も考えられます。

 この場合も、「過去」と「未来」があって、「今」という「瞬間」の「意識的時間の流れ」は、「過去」から「未来」へと「一方向性」に、流れていると信じていることでしょう。

テレビのビデオを、あるいは、映画のフィルムを、一コマだけ見るようなものです。

素時間における 意識的時間の流れの方向

時は流れる

 これまで考察してきたことから、次のように、考えられるように思います。

 「意識的時間」は、「分割可能」であるが、限りなく短い、「長さ」の無い、一つの「点」にまでは、分割できないように考えられます。

静止した、「瞬間の現在時点」だけではなく、「その一瞬過去の時点」と、「その一瞬未来の時点」をふくんだ、微小の時間の長さをもった「素時間」より構成されているものと思われます。

生物は、遺伝子をふくむ「細胞」より構成されており、化合物は、「分子」より構成されており、物質は「素粒子」より構成されています。

いずれも、その本質を保ったまま、無限に小さく分割できないのと同様に、「意識的時間」も、「微小の時間の長さ」をもった「素時間」より構成されていて、それより微小な「長さゼロの時間」にまでは、分割できないように思われます。

次のグラフは、前のグラフで示した「今だけ」の「時点」で、「素時間」として、示したものです。

 ここでは、「意識的時間」の長さをt;「暦時間」の長さをTとしてあらわしています。
     
「意識的時間」の最小構成単位である「素時間」の長さは0ではなく、微小の長さΔtをもっています。

その「素時間」の中には、「現在」の時点(黒丸)と、一瞬「過去」の時点(赤丸)と、一瞬「未来」の時点(青丸 )が、ふくまれています。

 この「素時間」は、Δtの時間を進行する間に、縦軸「暦時間」T方向に、ΔTだけ進行しています。

そして、常に、その勾配 ΔT/Δt> 0 であります。ほぼ、+1前後の勾配となります。

つまり、この「素時間」は、常に、上向きの勾配をもっており、一瞬「過去」の時点(赤丸)から、「現在」の時点(黒丸)を経て、一瞬「未来」の時点(青丸 )へ、常に上向きの方向性をもっています。

(交通信号のように、赤信号()の方向には進まれず、常に「一方向性」に、青信号()の方向に進みます。)

この「現在」の時点では、「時は流れず」ではなく、必ず未来に向かって「時は流れる」と信じられます。

 現在の時点では、このような、ゼロではないが、極めて短い長さの「素時間」が存在することは、確かであるが、遠い「過去」と「未来」の「意識的時間」の存在は、上述のように「無い」「可能性」があります。

しかし、いつもの私たちは、生まれてから、これまでの長い「過去」があり、これから死ぬまでの長い「未来」があると信じています。

そうなのです。これまでの2次元グラフでは示されていない、もう一つの次元(ディメンション)の「時間」があるのです。

 以下の説明では、「現実」に、もどって、2次元グラフではなく、もう一つの次元を加えた3次元グラフで、「現実」の「時間の流れ」を、考えてみたいと思います。

現在における 記憶としての過去から
予期としての未来への
 時間の流れ

 次のグラフでは、これまで説明して来た、「暦時間T」の縦軸と「意識的時間の長さt」の横軸の2次元の他に、もう一つ「時間Tm」の軸が加わって、立体的な3次元グラフとなっています。

 前ののグラフで示したように、「暦時間T」と「意識的時間t」の面では、現在の時点において、未来に向かって進んでいる、時間の流れが存在することだけは、確信されます。

しかし、このグラフにも示すように、この面の中に存在する「素時間」より、「過去の意識的時間」と、「未来の意識的時間」の存在は、無い「可能性」があります。

 この3次元グラフでは、もう一つの時間軸Tmが、「意識的時間」の軸の「現在」の「原点」から、「暦軸ー意識軸の面」に対して、垂直方向に出て存在しています。

この時間軸Tmでは、「記憶としての過去」と「予期としての未来」の時間を示しています。

 次のグラフは、分かりやすくするために、「現在」の「意識的時間」のところで、「暦時間軸T−時間軸Tm」の面をあらわしたものです。

 この時間軸Tmのゼロ時点は「現在」です。マイナス方向に「過去の記憶」の時間の長さ、プラス方向に「予測としての未来」の時間の長さを示しています。

 前述のように、意識的時間では、「現在」しか存在せず、「昨日」も「明日」も、「無い」かもしれません。

しかし、「現在の意識」の中に、「過去の記憶」と「未来の予測」が、存在することは確かです。

上のグラフの面では、「暦時間」で「現在」「50歳」であるとします。

そうすると、「現在の意識」の中に、50年前に生まれてから、昨日をふくめて現在までの記憶があります。昨日の仕事のことや、合った人の記憶があります。

そして、現在から明日をふくめて死ぬまでの人生の予測があります。明日の仕事の予定や合う人の予定があり、10年後くらいには、定年になって、その後、80歳くらいまでは、人生を楽しみたいと思っていることでしょう。

 このように、あらわした2次元フラフは、初めのページで最初に示した、「暦時間ー意識的時間」の2次元グラフでの、生から死までの直線とまったく同様となります。

横軸が「意識的時間」から「記憶予測の時間」に代わっただけです。

 つまり、「意識的時間」を「記憶予測の時間」に代えれば、この前のページまで考えてきたことは、すべて可能のことであると言うことができると思われます。

信じる者は救われる

日日是好日

 次のグラフは、前のページで考察した「前世」「後世」について、「意識的時間」の横軸を「記憶予測の時間」に代えて、まったく、前と同様に示すことができることを、あらわしています。

 (「現在」の時点の「私」は、「意識的時間」は、過去から未来へ向かっていると「確信」しているが、)「意識的時間」の流れでは、あるいは、存在していないかもしれない「前世」「後世」を、「記憶」として、「予測」として、「信じる」ことができるのです。

 (初めの表現に従って赤線で示しましたように)安楽な「後世」が、あると予測して「信じる」ことが可能です。

そのようなことを「信じる」ことによって、「後世」だけでなく、明日からの生活が、達観したものとなることも予測されます。

さらに、これらの「予測」を「信じる」ことによって、「実在」している「現在」が、快い心境になることでしょう。

 「信じる者は救われる」と、言えると思います。

 さらに、前のページで考察した,「輪廻転生」「極楽浄土」「永遠の生命 不老」「千の風になって」なども、「信じる」ことによって、可能となることでしょう。

 結論として、このように、「記憶としての過去」「予測としての未来」を、意義あるものとして「信じる」ことによって、「実在」している「現在」、そして「自分」では、昨日から明日へ向かっていると「確信」している「今日」という日が、「日日是好日」であることが大切であると思います。

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