日本の高校の授業科目「倫理」の参考書からの抜粋

<<   作成日時 : 2014/05/26 08:13   >>

【はじめに】

「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草の夢。階前の梧葉すでに秋声。」(中国・宋代の朱子:1130〜1200)

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中(よのなか)にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」(鴨長明:1153〜1216『方丈記』)

「不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕(ゆうべ)を待つことなし。」(『方丈記』)

「抑(そもそも)、一期(いちご)の月影かたぶきて、余算(よさん)、山の端に近し。たちまち三途(さんず)の闇(やみ)に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。そのとき、心更に答ふる事なし。」(『方丈記』)

【友情と恋愛についての断章】(ボナール『友情論』)
・人々から離れたときこそ、友だちは見つかる。
・真の友だちとは、ともにいる孤独な人たちだ。
・俗物どもが仲よくなると、たがいに心おきなく無作法になる。これに反して、本当の友だちは、他の人々に対するより、おたがい同志のほうがずっと礼儀正しい。
・多くの人々に無視され、少数の人に認めれれるということは、心楽しい。
・友情が嘘のおかげで滅びることがあるように、恋愛は本当のせいで滅びることがある。
・恋愛は人をより強くすると同時により弱くもする。友情は強くするばかりだ。

「わたくしたちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。はじめは、人間に生まれ、つぎには男性か女性に生れる。」(ルソー『エミール』)

【ドイツの哲学者シュプランガーによる人間の六つの性格類型】
1.理論人・・・理論的で、真理探究の立場から物事を客観的に考えていく。
2.経済人・・・富・金・利益などの追求に最大の関心を示す。
3.審美人・・・美的なものの追求に最大の価値をおき、情緒的に生きる。
4.宗教人・・・絶対者・超越者を求め、いかに生きるかに関心を持つ。
5.政治人・・・権力に最大の関心を持ち、人を指導・支配しようとする。
6.社会人・・・福祉・奉仕に関心を示し、人間関係を大切にする。



【ギリシア哲学】
「万物の尺度は人間である。有るものどもについては有るということの、有らぬものどもについては、有らぬということの」(プロタゴラス)
【すべてのものの尺度の基準は人間ごとによって異なり、皆同じということはあり得ないか、あるとすれば異常なことである。主観的判断の内容を即真理とすることはできない。】

【無知の知】
「彼らは知らないことを知っていると思い込んでいるが、私(ソクラテス)は自分が何も知らないということを知っている。」(ソクラテス)

「汝自身を知れ」(ソクラテス:デルフォイのアポロン神殿の扉に掲げてあったといわれる言葉)

「ダイモニアが現れるときは、いつでも私が何かをしようとしているのをさし止めるのであって、何かをなせとすすめることは、いかなる場合にもない。」(ソクラテス)

「イデアは永遠の存在で、生成も消滅も、増大・減少もしない。絶対的な性格。形をとってあらわれぬ。それ自身で独立してあり、単一の形相を持つ。イデア以外のものはイデアを分かち持つ。また、イデアは一つではなく数は多い。三角形とか、男性、女性、正義、美などのイデアである。」(プラトン)

「理性が気概と欲望を制御するときに人間の魂は健全になるのである」(プラトン)

「知恵・勇気・節制・正義」(ギリシアの四元徳)

「形相は、素材の目的であり、可能態としての素材を現実化していく」(アリストテレス)

「観想的生活(テオリア:真理探究の生活)こそが最高の善にして幸福である」(アリストテレス)

「多くの人々から逃れた平穏な生活こそが最善である。そのような生き方には思慮深さが求められる」(エピクロス)

「人間には理性のみでなく情念(パトス)もある。これは激情ともいい、過度の衝動である。情念は反理性的であり、苦悩・恐れ・欲望・快楽を主なものとする。情念は心の病であり、人間の精神を不健康にする。ここから逃れるためには理性を働かせ、アパテイアの状態になることである。アパテイアとは情念を否定し、消し去った状態のことをいい、心の平静さとも言える。理想の生き方は、アパテイアの状態であり、自然に従って生きることである。」(ストア学徒)


【中国の古典】

「学んで思わざればくらし。思うて学ばざれば殆(あやう)し。」(孔子)

「自分は鳥獣(のような人間)と共に生活することはできない」(孔子)

「子曰く、弟子、入りては則考、出でては則弟、謹んで信あり、汎く衆を愛して仁に親づき、行いて余力あらば、則以て文を学べ」(孔子)

「これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ、これ知なり」(孔子)

「怪(物怪)、力(怪力)、乱(非合理)、神(精霊)を語らず」(孔子)

「鬼神(死後の霊魂)を敬してこれに遠ざかる」(孔子)

「子曰く、吾かつて終日食わず、終夜寝ねずして思う、益なし、学ぶに如かず」(孔子)

「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」(孔子)

「孔子の求めた道徳の内容をなすものが仁である。愛としての仁、忠恕としての仁、克己復礼としての仁がある。人間にとっての親愛の情が、最も典型的に表現されているのが、親子の間の愛(考)と兄弟の間の愛(悌)である。」

「考悌なるものは、それ仁を為すの本たるか」(有子:孔子の弟子『学而』)

「仁は、自己の内に向かう忠と、外(人倫)に向かう恕という両面を含んでいる。「己に克つ」とは、仁の内に向かう主体的面を表現する。「己」とは私欲(自我)のこと。私欲を制御することにより、人間は自己の心の本来性に忠実になることができる。「礼に覆る」の礼は、仁の実践の客観的形式もしくは規範である。一切の行為(視・聴・言・動)において欲望(私欲)を制御して、実践の規範である礼に従うことが礼である。」(儒教の基本)

「人に忍びざるの心とは、他人の不幸を見過ごすことのできない心のことである」(孟子)

「人間には生まれながらにして、他人を思いやる心(惻隠の心)、悪をにくむ心(羞悪の心)、人を敬う心(辞譲の心)、善悪を分別する心(是非の心)がある。この四つの心が「仁・義・礼・智」の端である。」(孟子)

「五倫とは(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり)といわれる、社会を構成する基本的人間関係(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)と、そのあり方『親(したしみ)・義・別(くべつ)・序(じゅんじょ)・信(まこと)』のことである。」

「荀子は(礼)を重視し、性悪説を唱えて、孟子に反対した。人間は、生まれつき利益を求め、人を嫉み、感覚器官(耳目)による欲望に従う存在であるので、これをこのまま放置するならば、騒乱が起こり、社会秩序が乱れる。この悪なる性を後天的に矯正しなければならず、人は自己の欲望を放任するのではなく、それを限界づけるものとしての礼に従わなければならない。」(荀子)

「大道廃れて仁義あり、慧智出でて大偽あり、六親和せずして孝慈あり、国家昏乱して忠臣あり」(老子)

「南の海の帝を粛といい、北の海の帝を忽といい、中央の帝を混沌という。粛と忽とは、あるときいっしょに、混沌の所で会った。混沌は大いにもてなした。粛と忽とは、混沌のもてなしに報いようと相談し、人間には皆七つの穴があって、視たり、聴いたり、食べたり、息をしたりしているが、混沌にはそれがない。ためしに掘ってやろうと、日にひとつずつ掘っていったら、7日にして混沌は死んでしまった。」(荘子)
【この寓話で粛と忽といわれているのは、作為すなわち、人間による相対の世界のことである。したがって、混沌とは、無為、すなわち道のことである。道(混沌)は、人間の分別知によってとらえることのできないものであり、人間の作為が加えられると死んでしまうものであることを示している。この人間の作為を超えることが荘子の課題であった】



【西欧文化:(宗教・哲学)】

【モーゼの十戒】
1.あなたはわたし(ヤーヴェ)のほかに何ものをも神としてはならない。
2.あなたはどんな偶像も拝んではならない。
3.みだりにわたしの名を唱えてはならない。
4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。
5.あなたの父と母を敬え。
6.あなたは人を殺してはならない。
7.あなたは姦淫してはならない。
8.あなたは盗んではならない。
9.あなたは偽りの証言をしてはならない。
10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

「神への愛と隣人への愛、これは言葉を変えていえば、神と隣人のために自己愛を放棄することである。人間が罪を犯すのは自己愛が強いためである。自己愛が強いと自己中心的な生き方になり、他の人々のことまで考えが及ばなくなる。イエスが求めた神への服従とは、なんらかの権威に対して盲目的に従うことではなくて、神が求めるところの正しさを知的に把握し、自分の自由な決断によって、自発的にこれを受け入れていく態度である。イエスは道徳的問題の決断を、一人ひとりの個人の良心にもとづいて問いかけている。」

「善をなすことのできなくなった人間は、悔い改めてキリストを信ずるときに初めて、失っていた意志の自由も回復し、善をなすことができるようになる。善なる意思を失っている「人間が悔い改める(善き行為である)」ことができるのは、原罪を受け継いでいる人間の自由意志によるものではなく、神の恩寵によるのである。悔い改めた以上、悪をなさず、善をなさなければならない。」(アウグスティヌス)

「理性を信仰に優先させるのは傲慢で許されないが、信じるだけで理性を用いないのは怠慢である。真理探究にあっては、信じることが優先するが、次の段階では、信じるところを理解しようと努めることが、義務として課される。」(アンセルムス)

「理性と信仰の間に矛盾があるとすれば、それは人間の探求のしかたにまちがいがあったのである。理性は神が人間に授けたものである以上、理性のはたらきによって発見したものは、神の真理と矛盾しない。神は人間の能力を超えているので、人間は理性のはたらきのみによって神の御業の全てを知り尽くすことはできないが、人間には理性を働かせる義務がある。トマスの唱える自然法とは、神の永遠法を理性的被造物といわれる人間が分有したものである。人間は理性の力だけで自然法を認識できる。良心は、理性が自然法にもとづいて発する判断の声で、それは『善をなし、悪をさけよ』と呼びかけてくる。トマスは、良心に従う義務は、目上の人の命令に従うよりも高度の義務であるとした。」(トマス・アクィナス)


「ルネサンス(再生)は、14世紀に北イタリアの諸都市で始まった。この辺の都市は富裕になり、市民層は、中世的な神中心、教会中心の秩序や倫理に反発し、現実的で個性的な新しい文化を求めた。古典文化全般の復活、さらには、自由で自然な人間像の復活を意味する概念として用いられるようになった。古代ローマの古典の研究がその端緒となり、ギリシアの古典、プラトンやアリストテレスなどの哲学の原典を研究するに至り、真の人間としての生き方を追求する運動になっていく。この運動が人文主義と呼ばれ、ペトラルカやエラスムスが代表者とされる。人文主義における人間中心主義の思想は、カトリック教会により形成された神の被造物としての無力な人間という見方を打破し、自由で無限な可能性を持ち、それを能動的に実現していくという人間像をうちたてた。ここに築かれたルネサンスの理想的な人間像が万能人または普遍人と呼ばれている。中世のカトリック教会のもとでは、神だけが全知全能で、世界を支配されているとされ、神の前では人間は全く無力の存在とされていた。これに対し、近代の人間は、自己の能動能力を自覚してきた。ここに、人間の自由意志と、神の意志の表現である「摂理」とが、両立させられるのか、とい問題が生じてきた。人間に自由な意志があることこそ、他の動物と異なる点であり、他の動物と異なる点であり、人間の尊厳の根拠であるともされた。しかし、現代の哲学・思想では、人間に自由意志があることは否定されており、人間が社会関係や物質的実践あるいは無意識に拘束されていることは常識となっているので、この運動にも限界が来るのは当然であった。」

「ルターは、従来、聖職にのみ用いられた召命(calling)という言葉を世俗的な職業にも用いた。ルターは、あらゆる職業が神による召命であり、それゆえに神聖なものであるとした」

「カルヴァンは、救済された者と滅びに至る者とは、永遠の昔に、神によって決定されている、とする予定説を主張した。彼によれば、人間の社会生活というのは、神の呼びかけに応じて、神の意志を実現し、神の栄光が実現されるべき場所である。それゆえ、神によって救済されているか否かなどは考えず、人間はひたすら神の召命である職業に励むべきで、その結果、自己の生き方が自己吟味に耐えうるようになれば、神の救済の予定を確信することができるようになる。このように、エゴイズムを廃し、どこまでも神の栄光のためにその仕事に励む生活の結果、神の賜物として利潤を得、富を蓄積することは許される、とカルヴァンは説き、中世からの市民の職業倫理を大きく変化させ、近代資本主義の精神的基盤を形作ったとされる。」

「パスカルの『パンセ』の全体を貫くものは、キリスト教弁証論であり、キリスト教信仰によってのみ人は幸福になれるという。彼は、人間の特性、人間が人間である条件として「思考」をあげた。人間には二つの本性がある。それは本能と理性である。パスカルは人間の本能的部分を人間のみじめさと呼び、自分が即物的で、みじめであることを知ることができることにおいては偉大であるとする。つまり、人間には「みじめさ」と「偉大さ」とがある。その偉大さとは、理性があることである。「思考に人間の偉大さ」がある。ここから、人間の尊厳さを「考えることにある」とし、「よく考えることに努めることに道徳の原理がある」とした。空間によって宇宙は私を一点であるかのように包み込むが、思惟によって宇宙を包容できる存在が人間なのだという。」

「〜するためにという条件のついた命令を仮言命法といい、条件のつかない命令を定言命法という。カントは、道徳法則は定言命法でなければならないとした。道徳法則に従うことが人間の義務であり、義務のために義務をするような行為だけが道徳性を持つのであって、それ以外の行為は道徳性を持たない。適法性(合法性)のある行為でも道徳的とは言えない。悪い意志をもつ人が善きものを所有すべきだろうか。この世界はもとより、この世界以外にも、無制限に善といえるものは、善意志以外にはない。カントの道徳説は動機説である。善意志による行為の結果に効果がなかったとしても、善意志そのものは光り輝く。道徳法則とは理性の声のことである。理性は人間の行為が利己的になったり、不正に向かうのを可としない。これを実践理性という。理性のもつ能力のうち、道徳的な能力を主としていうとき実践理性といい、認識をなし得る能力を主としていうとき理論理性という。理性の声を道徳法則という形にして自分に課するのは、他ならぬ私自身である。理性の声も、それが私の理性である以上、私の声に他ならない。しかし、それは自分勝手な利己的な私ではなく、本当の私である。したがって、道徳法則を自分に課すというのは、私が私以外の権威に従ってすること(他律)ではなく、私の理性によって行うこと(自律)である。カントは、人間は自律性を持つがゆえに人格であるという。自律性は人間が自由なる意志をもつ存在者であることを示している。人間は、道徳法則を自らに課するとき、あるいはこれに従うとき、自分が自由意志をもつ存在者であることを自覚する。ものはどんなに価値があっても、それがものであるかぎり何かほかの等価物に置き換え得る。しかし人格は価値を超越していて他のものと置き換えがきかない。カントはこのような思想を次のような道徳法則に表現した。『汝は、汝の人格および他の人格において、人間性を常に同時に目的として使用し、単なる手段として使用しないように行為せよ。』カントは、この道徳法則によって、人々が互いに尊重し合う共同体を目的の国と呼んだ。カントのように、人格に最高の価値をおく考え方を人格主義という。」(カント)

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」(ヘーゲル)

「実存(existence,exist:'存在する'の名詞形)という言葉は、ギリシア語・ラテン語に由来しており、”ex+sistere"つまり”・・・・から外にでて立つ、「現れる」”という意味で、その名詞形”existentia”は「目の前にあらわれている存在」を意味する。この「存在・ある」というのは、「現実的個別的存在」である。一方、「人間は理性的動物である」という表現にも「存在・ある」という言葉は使われるが、この場合の「存在」は事物一般の本質をあらわしているので、「本質的存在」と呼ぶ。こうして「存在」には、「現実存在」と「本質的存在」の二義が含まれる。「実存」は、まずは本質的存在(essentia)に対する現実的存在(existentia)を意味する。しかし、実存主義という場合の実存は、キルケゴール以来「人間的現実存在」の意味に用いられている。しかもそれは人間一般ではなく、歴史上、また世界のなかにあって、ここに唯一人存在する一箇の人間そのものを意味する。それだけほかの何物にもかえがたい「今ここにいる自分の存在」を自覚したうえで、「なぜ自分はここにいるのか、またいなければならないのか」という存在の究極的意義を究明しようとしたのが実存哲学であり、そのような考え方の普及が実存主義の流行となった。こうして実存主義は、人間の普遍的理想的真理ではなく、現実的存在から出発して、現実の人間が抱くさまざまな苦悩・愛・罪・正・死といった問題を課題とし、そのなかに自己のあり方を見失った人間自身の存在忘却を指摘する。そして、人間存在の究極的意義を考えたとき、その有限性が強く自覚されてくるのであるが、そこに二つの方向が考えられる。すなわち、有限性を超えた超越的存在(神)を認めるか、あくまで有限性のなかに留まる(神を無視する、または否定する)かの方向である。前者の立場をとる者にはキルケゴール、ヤスパース、マルセルらがおり、後者の立場にはニーチェ、ハイデガー、サルトルらがいる。現代の官僚制組織と機械文明の進行する社会において、個人が大衆として個性を喪失する危険性があるかぎり、人間存在の原点を探ろうとする実存主義は存在価値を持つであろう。1960年代になると、フランスを舞台に構造主義と呼ばれる研究運動が盛んになり、実存主義と論争が展開された。構造主義は、実存主義が人間をとらえるのに主体中心の立場をとっていたのに対して、主体の思想や構造を決定づける「構造」を重視した。人類学のレヴィ・ストロースは、未開社会の親族組織や神話の構造を解明し、社会哲学の分野でフーコーは、文化史に明確な構造を見出し、精神分析でラカンはフロイトの「無意識」の世界の構造を明らかにするなどの多くの成果を構造主義はもたらし、人間的主体は構造の中の一要素にすぎないとして、人間観・社会観に大きな転換をもたらした。構造主義によれば、人間は完全に自由な意志など行使できないことが分かる。」

「J.S.ミルはベンサムの功利主義の修正者として有名であるが、ミルは快楽には質的な差異があるとした。幸福とは快楽であり、苦痛がないことを意味している。しかし、ここでいう快楽は豚の快楽ではない。これは、エピクロス派の人々が侮蔑的になぞらえた動物で、低級な、畜産の快楽、動物的感情、単なる感情的快楽をさしている。単なる感覚的な快楽では人は幸福感を味わうことはできない。精神的な高度な快楽を味わうとまた人は幸福にひたれるのである。それは例えば知性や想像や心情に基づいたものである。それは肉体的な快楽よりも安定しており、永続性があるなどの点で価値があり、優れているのであるとしている。人間が価値ある快楽を選び取るのは何故だろうか。ミルはこの問いに対して、それは、人間の性格の高貴さ(尊厳、sense of dignity)であるとしている。これは、自らをより下劣な存在に落とそうなどとは決して考えない人としての高級な能力ということができる。このことから彼は「満足した豚であるよりも、不満足な人間のほうがよく、満足した愚者であるよりも、不満足なソクラテスであるほうがよい」と語る。ミルは功利主義倫理の完全な精神は、キリスト教にある黄金律、すなわち「人からして欲しいと思うように自分も人にすること、つまりあなたの隣人をあなた自身の如く愛しなさい」という神の愛(アガペー)の精神であるとする。
 人をして道徳の基準に合致させる強制力として、ミルはまず、他人への愛情と共感、神への愛と畏敬の念をあげている。ミルは重要な内的な強制力として「良心」をあげている。これこそが、すべての道徳の究極的な強制力だとミルは述べている。」


「キルケゴールが学問(哲学)に向かう態度は、「主体的真理」(ヘーゲル流の学問が追及する体系的・客観的真理に対するもので、個人的関心に根ざし、自己の生死をかけても知ろうとする真理)を求めるためであった。幼少のときから彼のなかに深く根ざしていた罪の意識のうえに、さらに不安が、憂愁が、愛の躓きが加わる。この苦悩に学問はどうかかわるのか。ヘーゲル哲学を代表とする学問が追求するのは、文献の読み方、普遍的・体系的理論、要するに客観的真理だけである。それを知ったところで、今の自分に何のかかわりがあるのか。自分が求めるのは、「私がそれのために生き、そして死ぬことを願うようなイデーを発見すること」(ギーレライエの手記)である。そのためには、自己の生き方を思考の対象にするのではなく、自己の決断と選択によって生きる(実存する)のでなくてはならない。彼はそのような生き方(実存、自己形成)を三つの段階で展開した。それは「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」の三段階である。詳しい説明は省く。快楽も道徳も絶望の深遠に沈み、人はただ一個の人間として神の前に立つからである。その神は人間の形をしたキリストであり、十字架に死んだ神である。それにまた躓くか、信ずるかは一人ひとりの人間の自由と決断に任されているのである。ここにおいてキルケゴールは、自己が無限に自己に関わるという、終始かわらぬ本来的なあり方を示したのである。しかも「絶望」という状態のもとに、「絶望」こそ「死に至る病」であり、それは死の原因というのではなく、死ぬにも死ぬことのできない、死に達するまでつづく病なのである。であるから神を信ずる以外に救済の道のないことが知らされるのである。かくして「神の前に立つ単独者」としての生き方が主張されるのである。」


「マルセルの人間の存在(実存)への問いかけは存在の神秘へと向かう。「神秘」といっても不可解な謎の意味ではない。「存在」を合理的に対象化するのではなく、思索する者自身への潜心・沈思することによって、「存在」は、対象として所有するのではなく、「ともにある」ことにおいて輝きでるのである。人間が「所有」ではなく、「共有(兄弟愛)」の精神にかえるならば、自己中心的な傾向から開放され、「希望」によって、人間より大きな存在(神)との出会いも可能となる。」


「深い信仰が行為にあらわれるとそれは愛、愛が行為にあらわされるとそれは奉仕。マザー・テレサは敬虔なクリスチャンだが、宗派にこだわらず、貧しい人たちに、「あなたも生きている」と自覚させ、自分が見つめられ、「必要とされ」ていることを知らせようとした。」

「何をもって幸福と考えるかは、各人の価値観とも関係している。ベンサムの「幸福」は福祉という意味が強く、それは幸福のための一条件に過ぎない。幸福とは精神的なものである。快楽と異なる真の幸福とは、偶然に与えられたものでも、一時的な感覚上のものでもなく、純粋に道徳的または精神的な努力の結果得られる、満足の感情である、と先哲は考えていた。アリストテレスは観想の生活を幸福とし、カントは道徳的に生きた結果として得られる心の状態を幸福とした。アリストテレスは快楽とか富とか名誉などを幸福と考える立場を否定して、幸福は何か他のもののためにではなく、「即時的に望ましい活動」であり、徳に即した活動であり、理性(ヌース)をはたらかせる活動にある。そしてこれは知(ソフィア)に即しての活動であり、観想(テオリア)の生活であるとした。ソクラテスにあっては、知と行と徳と幸福は全て一致すべきものであった。カントの道徳論のなかでは、幸福ということは否定されているようにも見える。確かに、カントは、自己の幸福のために行為すること、幸福を目的とした行為は否定した。自己に対する義務としては「自己の完全性」を求めているが、同時に他人に対する義務としては「他人の幸福」を目的とせよと述べている。カントの考えは、幸福を受けるに値するように生きよということで、道徳法則と合致した生活に見出されるものである。「生きるしあわせ」のことを日本では「生きがい」ともいう。「生きがい」の意味には、生きがいの源泉または対象となるものをさす場合と、生きがいを感じている精神状態(生きがい感)をさす場合がある。」

「真理は役に立つことにおいて初めて真理たりうる」(ジェームス)

「私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない。昆虫などと人間が共存するためには、さまざまな生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。」(レイチェル・カールソン)

「今や資源枯渇以前に地球環境の破壊が生じてしまうという問題の方が重要になっており、環境倫理が叫ばれている。」

「フロイトは、人間の心の構造を、その機能から三つの層に分けている。まず第一はエスまたはイドと呼ばれる無意識の層である。この層は心的エネルギーの源泉であり、さまざまな欲望の潜んでいる部分であり、意識下に抑圧されたものとしてある。エスは欲望が満たされなければ緊張を高め不快感を引き起こす性質を持つ。つまり、快を求め苦痛を避ける、という快楽原則に従う。第二の部分は自我と呼ばれ、現実に即してエスの欲求を少しずつ満足させていく、現実原則に従う部分である。第三の部分が超自我と呼ばれ、自分自身の内部から欲求を抑圧し、禁止する道徳的意識である。これはこどものころ、両親から叱られたり、注意されたりするなかで形成される。自我はエスと超自我の調停役であるが、うまくいかないと神経症になる」



【仏陀の言葉】
「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と」これが修行を続けてきた者の最後の言葉であった。」(大パリニッパーナ経)


【日本】
「日本は大陸から孤立した島国であったために異民族による征服を受けることもなく、同質的な民族文化を保持することが容易であった。また大陸から半島へ、半島から列島という流れの中で、文化は凝縮し、小型化され精緻なものに(反面では矮小なものに)なっていったといわれている。」

「日本では、自然は人間と対立し、人間を拒否するものではなく、人間をその大きな懐へ包み込むものとして感じられた。西洋でいわれる自然は、全知全能の神によって創られた「もの」であり、動植物も当然そこには含まれ、法則によって支配されている。しかし日本の伝承神話では天地はすでに存在するものであり、そこから神が現れ国土や万物を生んだのであって、万物は神と血縁関係を持っていると考えられた。自然は単なる自然ではなく、神であり霊的存在と考えられた。万葉人は、清なるものに強くひかれた。日本の古代の人々は、清き明(あか)き心を重んじたが、清明さを自然の形容にまで用いたのは、自然が美しいというだけでなく、そこに聖なるものを感じとったからである。清らかで美しい自然の中に、人々は、人間の世界にも訪れることが望ましい理想の姿を見出した。仏教が浸透してくる時期には、人生の無常に対し、自然は永遠で聖なるものであった。自然は、日本の神観念の発生に大きな影響を及ぼしたが、時に人の生命を脅かすことはあっても、生命を育くみ豊穣をもたらすものであった。古代の日本人は、人間を含め全ての生命の源泉が自然の中にあると信じ、その生命力を賛美し、自然に対して限りない信頼を寄せていたのである。」

「古代の日本人は、平和な生活を脅かすものをすべて「つみ」「けがれ」として忌み嫌い、悪とみなしていたようである。不潔や不浄を嫌うところから、道徳的な善をあらわす場合には、「清い」とか「赤い」という表現を用い、悪については「きたない」とか「黒い」という感覚的ないい方がなされてきた。そこから、人として望ましい心のあり方は「清き明き心」と呼ばれている。これは、素直で正直な心であり、人間関係においてわがままな私心を捨て、明るい態度で人々と融和する心である。それは、水田耕作など共同体のあり方に深く関連していると考えられるが、思いやりを大切にして生きようとする道徳的自覚がはっきりとあらわれている。後世の人々が「清明心」と呼んでいるこの心情は、外来思想の影響を受けて「正直」や「誠」として自覚され、伝統的心情として継承されている。清明心に対して、利己心にとらわれ、他人をかえりみない心を「暗き心」「きたなき心」と呼んだ。それは、共同体に反逆する心であり、集団の結合を破壊し生成発展を阻害する心である。今でも私たちは、自分のことだけしか考えないやり方を「きたない」ということばでいうことがある。共同体に同調する態度が「公」であるのに対して、共同体に反逆する態度は「私」といい、私的なものはきたないものであるというような考え方が強かった。そのため個人的な人格の自覚という面が十分に発達しなかったということにもなるが、そこには権力への屈服ではなく、和を大切にしようとする日本人の特性を見ることができる。罪に対しては、宗教的権威を背景とする裁きや罰があるのが普通であるが、『古事記』の世界などにおいては罪に対するきびしい裁きというようなものはみれれない。「地獄における裁き」という考え方が一般にひろまったのは仏教伝来以後のことである。死者の魂がいくところは黄泉と呼ばれていた。それは暗くきたない所であり忌み嫌われてはいたが、生前の罪に対して裁きをされるという恐れはなかったという。善悪をはっきり突きつめず、寛大に処置するという特色は、恵まれた風土に深くかかわっているといえそうである。」

「古代の日本の神観念の特色として、祭られると同時に祭る神という性格をもっていた。究極神(絶対神ともいう。ヤーヴェのような神。)がはっきりしないということは、外来思想の受容がその後比較的容易に行われたということと関連が深い。これはまた、キリスト教における神と大いに異なるところである。神は祭られることを求め、人間は神の保護を求めるという神と人間との相互関係の関係は、古代日本人の固有信仰のひとつであるといわれている。人々は、感謝の念を持って神を祭り、神意を問い、神の意志に従って行動すれば、その恵みを受けることができると信じた。祭りとは神のたたりから人々を守り、神意にそうように地上を整えるということでもあった。ここに祭事と政事との一致(祭政一致)がみられた。但し、これは古代でのことであることをお断りさせて頂く。古い時代には、天皇の信託にももとづいて政治が行われたから、祭事を背景とする天皇の権威にそむくということは、共同体の存続にかかわることだったのである。長い伝統を持つ皇室の祭事は、天皇の私事として一部は今日でもつづけられている。」

「神道には一般に教義や経典はないが、次のような特色ある性格がみられる。@絶対神がなく多くの神々の存在を認めている。A人間を神聖なるものと考え、個々の人間ばかりでなく人間と人間とのつながりを大事にしている。B共同体意識が強い。C自然に対して親近性をもっている。D明るさや善意、清浄観がみられる。E現世中心的である。F他界についての観念が乏しい。このような考え方の背景には、自然に恵まれたわが国の風土がある。」

「一身独立して一国独立す」(福沢諭吉)

「個人の独立をはかる際に重要なことは学問である。「ただ学問を勧めてものごとをよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人になり、下人となるなり」(学問のすすめ)とある。ただし、この場合の学問は、観念的世界に遊ぶ学問ではない。功利主義の発想や、彼自身の内にあった考え方から、彼は学問は何よりも実生活に有用であることが必要な条件であった。「ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しむ」などは実用的な学問とはいえない。「いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、そろばんのけいこ」等々や、地理や歴史等々を学ぶことが実学なのである。また、この実学には、「事実を押さえ、物事の道理を求め」るという実証的な精神が必要である。こうした実学の考え方は、前に述べた一身独立ために必要な条件となるものである。福沢諭吉の実学の考え方は、彼自身の教育活動などを通して、日本の教育の歴史にも大きな足跡を残した。」

「倫理学のテーマとする人間の善とは、法や権威に従う他律的なものではことはない。理性・快・意志に合致するを持って善とする自律的なものでもなく、それらをすべて含む人格の要求に合致するものである。人格の実現とは、真の自己を発揮することであるから、その要求に沿うことが善である。そしてこの要求は個人の作為的なものではなく、まさに自然の事実であるから、個人的要求のように思われる善行が同時に、人類全体への愛に直結するのである。自己修行によって自己によって真体(純粋経験)に達することが「真の善行」となるのである。」

「西欧の倫理学はややもすれば西欧的個人主義のなかで、倫理(道徳)の問題を個人の意識に還元してとらえようとする。それは、個人や社会がそれぞれ独立して存在するという考え方からくる。しかし、この考え方はけっして人間の実体を正しくとらえていない。個人・社会という表現は、人間自身の二つの契機(側面)なのである。つまり、人間とは字の示すように、もともと人と人との間、すなわち間柄、社会であり、また同時に社会を構成している個人でもある。社会という場合、それは人間の個人としての独立性を排除した共同性を強調するものであり、個人というのは、人間の共同性を否定し、自由で独立した存在を強調したものである。人間は社会または個人としてとらえられるものではなく、両存在が動的に統一されて、初めて人間の正しいあり方がとらえられるのである。「倫理」とは「人倫(友、仲間)の理法」の意味であるから、個人の意識から考えるのではなく、人間という二つの側面を持った存在を同時に可能にするような秩序でなければならない。このような秩序の構成は、個人と社会のいずれかを優先させるのではなく、いわば個人と社会とは根源を等しくするものと考えなくてはならない。つまり人間が個人として社会(集団)のなかに埋没せず、独立した自我を自覚するが、同時に個人的自我を否定し、己の属する社会全体を存続させる言動に立ち戻るところに、倫理の成立がある。個人と社会は相互否定という動的な関係を保ちながら、個人となり、社会となるのである。この相互否定(否定の否定、絶対的否定性)が倫理の根本となる。この相互否定が保持されるところに善が成立し、その反対に動的統一が破れて、個人が個人として、社会が社会としてとどまるとすれば、それは悪ということになる。」





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