母の想い出(音楽と詩と短歌集)(荒井公康著)


母の想い出のためにこの歌集を残すことにしました。
(私の母荒井操[昭和6年5月13日~平成14年10月28日享年71歳]のために)


言の葉の終わるところに立つしじま心開かば遠き追憶

モノクロの古き写真に目がとまりそっと重なる幼かりし日

人生はわずかに長い夢のようでもこの夢は神様のもの

雪の夜に深い悲しみめざめをりもし投げ出さば星は消えうす

命とは夢とはほかのものかはとうつせみにあれば言ふも悲しく

月を問う幼かりし日今はもう老いゆく母に問うも悲しく

還らない少年の日の夢の中今はまどろむ春の日の朝

オルゴール遠い昔を思うよう懐かしき音幼きこころ

内にある子供心に出会う夜なぜか寂しく目を閉じてみる

過ぎ去ればみな懐かしく秋の夜昔の写真今だにここに

いつまでもという心は捨てたのに老いゆく親を見るが悲しさ

雨上がり若葉に置きし白露のはかなき命輝きにけり

たらちねの母の病に思いけり生きとし生けるみなあわれなり

いかに生きいかに死すべき身にあれや我ひとりにて問う人もなく

水彩画の如き淡き追憶に心のなかは霧たちこめる

目を病みし母を手伝う台所慣れぬ手つきに何故か悲しき

限りなき寂しさの中ふと薫る花のすがたの春のおとずれ

子供らを無事見届けて秋を知りひまわりの花こうべを垂れる

病みてなお子の身案ずる母の愛その優しさに涙あふるる

時よりも速く過ぎるは命なり桜の花をまた幾度見ん

ぼんやりと母との別れ思われて秋の夜空は涙ににじむ

懐かしい桜の花咲く小学校この手つなぎし母の温もり

辛き時楽しき時もともにいた母の面影春の霞に

桜散り我が悲しみはまさりぬる病に伏せる母の傍ら

犬たちに挨拶しつつ土手ぞいを今日も行くなり母を見舞いに

お爺さん孫と遊んで楽しそう陽を追いかける向日葵の花

他のものはただひとつさえ変わらずに考えがたき母なき世界

人は皆いつか死すべき身にあれど病の母の夏は悲しき

かくまでも移ろい易き命かないつしか消えて記憶となるや

母死なばまた住む所みつけなむ人知れぬ我が心のなかに

秋の夜に涙がひとつ本に落つ母の命と神のみこころ

最後まで我を守りし我が母は心の中に優しくいます

ひととせを病の母と過ごしきぬいつも一緒に幸せなりき

愚かなる身にもあわれは知られぬる天に召される母を見つめて

秋雨に妙に元気な母をみて心の中がうれしくなりぬ

秋雨は天から落ちる涙かもこの悲しみを知るかのように

木枯らしは今年初めて吹きにけり母は病のひととせなりき

秋の夜の母なき家に吹く風は我が身にしみて寂しかりけり

病の母の傍らにいるだけでただただ心悲しくなりぬ

正月を病の母も無事迎えなにはさておきめでたき心地

どうしてか涙止まらぬ秋の夜何が悲しい何が悲しい

ゆるやかなワルツの調べに思い出す幼心と母の優しさ

夜の雨空から落ちるワルツかとおもてに出れば濡れるばかりなり

想い出は闇の中へと消えいりて寂しきワルツを紡ぎておりぬ


    想い出
シャガール
緑と赤と空飛ぶ人
幻想
女のたわごと
気をつけよ
単純で理解しやすい話に
シャガールが絵の中に愛を入れたと?
表参道の古いアパート群
ここを通ると
自分の知らない想い出があふれてくる
これは母が持っていた記憶の欠片か
何故か母のことが今は思い出せない
今私は公園にいるのだろうか
目の前にルソーの絵のような風景がある
鳩や名も知らぬ鳥の群れ
噴水の音
人々の戯れ
私たちはこんなに近くにいながら
決して語り合うこともないのでしょう
冬に咲くすみれの花
子供の声
冬でも緑の常緑樹
私は祈った
神よ私を見出して下さい
母はどこへ行ったのです


    落ち葉
赤や黄色に色付いた落ち葉たちは
公園の地面をカーペットのように敷きつめる
その上を子供達が走り回る
風に舞い上がる落ち葉たちは
秋の光を受けて
時折、宝石のように輝く
この宝石のような落ち葉を集めて
母に捧げよう
驚き、沈黙、祈り
存在の欠落を悲しみが満たすこの瞬間



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