随筆集

音楽豆知識と自動作曲システムの仕組み

♪もしも、ジャズが作曲できたら〜〜
        −自動作曲システムについてー      

音楽の好みは人さまざま
  一口に音楽と言っても、クラシック、ジャズ、ロック、ポピュラー、歌謡曲などさまざまなジャンルがあります。そのうち一つのジャンルの音楽をとってみても、多面性があり、音楽のどの面に着目するかは人間のタイプによるようで、音の構成に注目する人、音の醸し出す感じに酔う人、音楽よりは音そのものを好むような人、音楽の背後にある不可解な何かに心を躍らせる人など、人さまざまです。したがって、同じ音楽好き同士で話をしているつもりが、いつの間にかお互いに不可解な人だと思ってしまうようなこともよくあります。
  心理学者のユングは、人間のタイプを思考型・感情型・感覚型・直感型の組み合わせに、外向型・内向型の組み合わせを交叉させている。思考型の人はショパンのマズルカとワルツの区別などの分類や解説に熱中したり、感覚型の人はプレーヤーなどの機械の音質に凝ったりし、直感型の人は音楽そのものを味わう傾向があるそうですが、本当かどうかはわかりません。
  告知性を特性とする言語と異なり、告知性の欠如を特徴とする音楽は、明けの明星と宵の明星を同じものとみなす指示的意味論の立場から見れば、外界に対象物を持たず、音楽の意味とは、霊感に導かれた作曲者の感情・感覚そのものであったり、ハンス・リックによれば「響きつつ動く形式」です。音楽はよく分からないという人もいますが、音楽を聞いた後にあたりを見回して対応するものがなければそれももっともなことで、逆に自分の内面になにか変化を感じとることができれば、十分にその音楽を鑑賞したことになると思います。告知性の欠如は、音楽に安らぎや楽しみを求める者にとって好ましいことです。それ故あらゆる芸術は音楽の状態を憧れると言われるのかも知れません。

音楽の理論性をとらえた自動作曲システム
  一般に、作曲者はかならずしも感性だけに頼って作曲するわけではなく、論理的に作曲することも多く、そこには計算機による自動作曲の可能性があり、そのために「響きつつ動く形式」に関して、計算機に載せられるように形式化する必要があります。具体的なことはここでは述べず、自動作曲システムの背景を説明致します。
  乱数によって計算機に作曲をさせようという試みは計算機の歴史と同じくらい古く、多くの人によって試みられましたが、ほとんど失敗に終わっています。全くでたらめに音列を作っても面白くないのは当然です。計算機の出現以前にも、古くから、サイコロを振って作曲をしようとする試みの歴史は長く、自動作曲は人類の夢のようです。
  自動作曲の一般的な方法は、音楽を確率的なプロセスとみなし、確率・統計的なデータ処理により音楽の構造を決定し、ある音楽における個々の音の出現確率をマルコフチェーンなどの確率関数として求めておき、次にそれに従う乱数を発生させて作曲するものです。これは一種の模倣です。有名なものにイリノイ大学のヒラー、アイザクソンによる弦楽四重奏のためのイリアック組曲(1957)があります。また、最近よく耳にする言葉に1/fノイズという言葉があります。Vossの研究によると、約12時間古典音楽だけを放送する放送局の音響信号の音圧変動を二乗検波したところ、その音響パワーの変動と、音響信号のzero-crossingから求めた音高の変動の、FFTより求めたそれぞれのパワースペクトルの形がある周波数領域で比較的きれいな1/f型になることが示されました。これは、ホワイトノイズとブラウン運動のパワースペクトルの中間であるため、1/fと解析された音楽または1/fノイズにより作曲された音楽はホワイトノイズほど無相関でなく、ブラウン運動ほど相関が強くないので、ちょうど心地よいとの解釈があります。
  これらのことから、乱数を使って作曲するにしても、全くの無秩序では駄目であり、なんらかの制約条件のもとで乱数を発生させる必要があります。私たちの自動作曲システムも乱数を使用していますが、ケーデンスの生成にはある状態遷移図、メロディーの大局的秩序の形成にはコード進行、メロディーの局所的秩序の形成にはコードスケールをそれぞれ制約条件として、乱数を発生させながら、階層的・段階的に作曲を行っています。制約条件として確率関数などのかわりに音楽の知識を直接利用しているのが特色です。この点は人工知能的です。ここでいう音楽の知識とは、主としてジャズの理論のことです。
  ジャズというと米国の黒人の音楽から発達した軽快な音楽ということになっていますが、理論面を見ると、トニック、サブドミナント、ドミナントなどの古典的概念の使用、コード進行のパターン化、コードと様々なコードスケール(旋法の一種)の結合などを特徴としています。トニック、サブドミナント、ドミナントなどは、ある調の音楽における響きの状態を表しています。トニックとは調性を代表する中心的存在であり、開始・終了に用いられることが多く、そのことによって、その性格が強調され、安定感が感じられる状態です。ドミナントとは導音とトライトーン(減5度の音程)を含むコードの集合で表され、これらのコードの響きは不安定で、トニックへの解決を暗示する性格を持っています。サブドミナントはその調性の中で最も開放的で、優美な明るい女性的な性格が感じられる状態です。これらの状態間を遷移して、響きが移り変わると、音楽らしい変化感が生じます。また、これらの状態はコードの集合で表されます。コードとは長音階または短音階の上に3度の間隔で音を3つまたは4つ積み重ねたものですが、クラシックの複雑な曲やジャズではそのまま使われることはあまりなく、転回型やテンションノートと呼ばれるコードスケールからコードの構成音を除いて残った音を含んだ和音が使われます。4度重ねの和音の使用や、テンションノートを利用して、2度、7度、9度の音程を強調するとジャズらしい響きが生じます。また、元のコードの上に、テンションノートを含んだコードを同時に弾く、USC(アッパー・ストラクチャード・コード)と呼ばれるものもあります。これは、ちょっと緊張感のある響きになります。9度の音程が強調されるためです。テンションノートをベースにもっていくと、コード構成音のいずれかと7度の音程を作り、これもジャズらしい響きになります。これに、他の音程による微妙なニュアンスが加わります。
  音階とはある民族または地域固有の音楽から、高さの異なる音を抽出し、音高順に並べて、その音楽の構成音を表すもので、すでに統計的処理済みのものです。旋法も同じようなものですが、逆に旋律の型を規制するという意味合いが強くなります。コードスケールも旋法の一種で、特にドミナントの状態は不安定で無調性の感じが強く、全ての音を使うことができ、様々なコードスケールを使用できます。このため、ハ長調の曲のつもりでも、12音すべてが出現し無調にみえることもあります。変な音が出てきたら、ドミナント7thのコードが当てはまり、特殊なコードスケールが使われていると考えて構いません。ちなみに長音階と短音階は中世の教会音楽で使われていた八種類の教会旋法のうちイオニアとエオリア旋法が発展してできたもです。ドミナント7thのコードのところでは、教会旋法(イオニア、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディア、エオリア、ロクリア)以外にも、alt,comd,Hmp5,lyd-7,スパニッッシュなど様々なコードスケールが使えます。但し、規則があります。詳しいことが知りたい方は私たちの教室へお越し下さい。話が逸れましたが、現在でも、長音階と短音階だけでは限界があるため、様々な旋法の多様性を創作に取り入れようとする動きがあります。多様な旋法が長音階と短音階へと収束しましたが、また逆方向の動きが生じているということでしょう。無意識に生じた音階を、作曲家は意識的に旋法と捉え、旋律を規制するわけです。ジャズもこの方向にあります。
  以上のように、ジャズは、コード名、コードスケール名などの記号を多く使う音楽の分野で、人工知能的にみても興味深く、Lispなどの記号処理用プログラミングが適用可能です。

西洋音楽の土壌
  洗練されたジャズを聴くと、サティ、ドビュッシー、ラベル、フォーレなどのフランス近代音楽を思い浮かべます。ジョージ・シアリングのピアノ・ソロやスウィングしていないビル・エヴァンスなどを聴いてみてください。ドイツには、転調の多用、調的崩壊、無調の混乱を経て十二音音楽につながる長短調の機能和声の流れがありました。同じころ、フランスではその系列とは別のグレゴリア聖歌と同じ源を持つ八種類の旋法音楽の土壌がありました。ドビュッシーは旋法の音楽と全音音階の体系的な総合を行い、ラベルは印象主義的な音感に形式的・調性的な古典的な整いを与え、旋法的旋律の流れにも調性的機能を持たせました。こういうと、フランスの音楽とジャズは、理論的に似ているようです。実際そのとおりのようで、「ラウンド・ミッドナイト」という映画を観た人もいるかと思いますが、その映画の中で、デクスター・ゴードン扮するサックス奏者がドビュッシーやラベルからの影響を述べる場面がありました。聴いた感じでも、フランス近代と一部のジャズは共通点が多いようです。

  ANTONIO CARLROS JOBIN(アントニオ・カルロス・ジョビン)の作曲した「イパネマの娘」という曲のジャズの理論による構造をLisp言語のS式で表現すると

     ((FM7 ion) (FM7 ion) (G7 lyd-7) (G7 lyd-7)
     (Gm7 dor)(C7 mix alt comd)(FM7 ion)(Gm7 dor C7 mix alt comd)
     (FM7 ion)(FM7 ion)(F#M7 ion)(F#M7 ion)
     (F#m7 dor)(B7 lyd-7)(AM7 ion)(AM7 ion)
     (Am7 phr dor)(D7 alt hmp5 comd)(B♭M7 lyd ion)(B♭M7 lyd ion)
     (Bm♭7 dor)(E♭7l lyd-7)(Am7 dor phr)(D7 alt hmp5 comd)
     (Gm7 dor)(C7 mix alt comd)(FM7 ion)(FM7 ion)
     (G7 lyd-7)(G7 lyd-7)(Gm7 dor)(C7 mix alt comd)
     (FM7 ion)(Gm7 dor)(C7 mix alt comd)(FM7 ion))

ジャズのミュージシャンはこの表記をもとに即興演奏を行います。その過程をプログラム化すれば自動作曲システムを作ることができます。このような表記を生成するのも興味深いですが、話が長くなりますので、省略します。上の表記の(FM7 ion)のFM7はコード名、ionはコードスケールの名前です。lyd−7などもコードスケールの名前です。コードスケールが複数書いてあるところは、いずれのコードスケールも使用可能です。音階ドレミファソラシドには半音と全音が含まれています。ミとファ、シとドの間は半音、その他の音の間は全音(半音の2倍)になっていることは周知のことと思います。このようにコードスケールの性格はどのように半音と全音が配置されているかによって決定されます。半音は短2度の音程、全音は長2度の音程です。但し、コードスケールによっては短3度の音程を含むものもあります。
  次に簡単に知識表現について述べます。半音の距離を0.5、全音の距離を1.0、短3度の距離を1.5とすることにより、様々なコードスケールを表現することができます。例えば、C ionは

          ド    1.0
          レ    2.0
          ミ    3.0
          ファ   3.5
          ソ    4.5
          ラ    5.5
          シ    6.5

のように数値と対応させておきます。その他のコードスケールとコードも同様に表現しておきます。
  次に上の表記のS式から旋律を生成するには、テンションノートとコードの3度と7度の音をまとめて一つの集合にし、その集合の巾集合を作ります。この巾集合を一つとり、その要素をランダムに任意の個数取り出し、任意にリズムを当てはめることにより、旋律を生成することが可能です。この他、UST(アッパー・ストラクチャード・トライアド)の構成音の集合からも、その巾集合から同様の方法で旋律を生成できます。他の方法の一例として、テンションノートからコードスケールをランダムに回転させ、任意の長さで切断し、任意のリズムを当てはめても旋律になります。この他にも、テンション・リゾルブなど、いろいろあります。詳しく知りたい方は、私たちの教室へお越し下さい。これらの手順を人間が行えば、作曲が行えます。これは機能モードと呼ばれる手法です。
  テンションノートという言葉が出てきましたが、これはコードスケールからコード構成音と1オクターブ上で短9度の音程を作るアヴォイドノートを除いて残った音のことで、C ionではレとラがテンションノートになります。但し、ドミナント7thコードに対しては短9度ができても構いません。9、#11、13を普通のテンションノート、♭9、#9、♭13、#13をオルタードテンションと呼ぶこともあります。また、テンションノートはコードの属性ではなくコードスケールの属性です。したがって、ドミナント7thなどのコードでは、どのコードスケールを使用するかによって、テンションノートは異なってきます。一般にドミナント7thコードが解決する時のテンション及びコードスケールは次のようになります。

    A)メージャー系のコードに解決する時は、mix, lyd-7, alt, comd
    B)マイナー系のコードに解決する時は、hmp5, alt, comd
    C)半音下降で解決する時は、lyd-7

alt, comdは調性をあまり感じさせません。その他のコードついては、あまりコードスケールの選択の余地はなく、ほとんどの場合、一意に決まってしまいます。少し面倒な感じがするかも知れませんが、要は慣れです。
  テンションノートについても、コードとコードスケールと同様の知識表現をします。テンションノートは旋律の重要な要素ですから、覚えておきましょう。
  以上、コード、コードスケール、テンションノートをしっかり表現し、把握していれば、旋律を作ることは自由自在です。生成された旋律が単純であれば、アプローチノート、イ音、逸音、経過音、補助音、刺繍音、係留音、先行音など用いて更に変化させることができます。この考え方はアドリブにつながります。
  クラシックの理論では、テンションノートを適切に表現できないので、このような手法では自動作曲は行えません。クラシックでは、そこを人間の感性で補っているところがあります。
  以上の方法で生成された旋律は、何かを手本にしたわけではないので、全くオリジナルなものになります。この理論をもとに作った自動作曲システムに関しては、情報処理学会第41回(平成2年於東北大学)全国大会で「カデンツの一般化およびコードスケールを考慮した自動作曲」という表題で発表しました。参考文献としては、飯田敏彦著「やさしく学べるジャズハーモニー 1、2 (コード進行の発展及びヴォイシングとアドリブ)」(全音楽譜出版社)などがあります。ジャズの教科書は大体同じような内容のものが多いようです。このシステムはNHKや新聞などでも報道されました。


補足1:ピッチクラス集合論との関係

ピッチクラス集合論では、次のように定義されます。

ある2つの音があって、その周波数がx,aであるとする。このとき、X=(2^n)aとなるような整数nが存在するとき、x,aはオクターブに関して同値であるといい、x〜aとあらわす。ここで、{x|x〜a}であらわされる集合をピッチクラスといい、これには整数による音名を与えることにする。

具体的には次のような対応をとります。私のシステムでの対応も示します。

ピッチクラス値   私のシステム   音名(平均律)
----0-------------1.0--------------ド
----1-------------1.5-----------ド♯ レ♭
----2-------------2.0--------------レ
----3-------------2.5-----------レ♯ ミ♭
----4-------------3.0--------------ミ
----5-------------3.5--------------ファ
----6-------------4.0-----------ファ♯ ソ♭
----7-------------4.5--------------ソ
----8-------------5.0-----------ソ♯ ラ♭
----9-------------5.5--------------ラ
---10-------------6.0-----------ラ♯ シ♭
---11-------------6.5--------------シ

ピッチクラス集合論では、周波数についての物理的モデルに基づいて対応を取っていますが、私のような対応を取っても、代数的には同じことです。

以上の対応を取れば、調性の音楽でも、無調の音楽でも、同様の扱いが可能です。  


補足2:コード進行生成手法例と作曲法

コード進行の生成の仕方について述べます。まず、ハ長調で使われるコードをランダムに並べると次のようになります。

((Em7 phr) (FM7 lyd) (Am7 aeo) (-DM7 lyd) (Bdim7 dim) (G7 mix lyd-7 hmp5 alt comd wt) (Fm7 dor) (+Fm7-5 loc)
(-D7 lyd-7) (-BM7 lyd) (F7 lyd-7) (B7 alt) (-AM7 lyd) (Dm7-5 loc+2) (Dm7 dor) (CM7 ion) (-A7 lyd-7)
(Bm7-5 loc) (-B7 lyd-7))

この後は人間(私)の出番でする。ジャズの理論を駆使して(大した理論ではないが)、上のコード群をスムーズに繋ぎます。具体的には、セカンダリードミナント、ディミニッシュコード、平行和音、トゥー・ファイブ、4度進行、半音進行、偽終止の導入などで、コード間のギャップを埋めます。これによって、例えば、次のコード進行が作れます。(実は基のデータをなくしてしまい、次に示すコード進行は上記コード群とは関係ありません。)

((C "work4")
("CM7" ion) ("+Fm7-5" loc) ("B7" alt) ("E7" hmp5)
("Am7" aeo) ("D7" hmp5) ("Em7" phr) ("A7" hmp5)
("Dm7" dor) ("G7" alt) ("Cm7" dor) ("F7" lyd-7)
("-BM7" lyd) ("CM7" ion) ("+Fm-5" loc) ("B7" alt)
("Em7" phr) ("A7" hmp5) ("Dm7" dor) ("G7" alt)
("+Fm7-5" loc) ("Fm7" dor) ("-B7" lyd-7) ("-Em7" dor)
("Dm7" dor) ("G7" alt) ("CM7" ion) ("D7" hmp5)
("Gm7" dor) ("C7" alt) ("FM7" lyd) ("-BM7" lyd)
("A7" hmp5) ("Dm7-5" loc+2) ("G7" alt) ("Em7" phr)
("-Em7" dor) ("-A7" lyd-7) ("-DM7" lyd) ("CM7" ion)
("Fm7" dor) ("-B7" lyd-7) ("-EM7" lyd) ("-AM7" lyd)
("-DM7" lyd) ("-Am7" dor) ("-D7" lyd-7) ("CM7" ion)
("G7" alt) ("+Fm7-5" loc) ("Bm7-5" loc) ("CM7" ion)
("+Fm7-5" loc) ("Bdim7" dim) ("Em7" phr) ("A7" hmp5)
("-A7" lyd-7) ("Dm7" dor) ("G7" alt) ("CM7" ion)
("Gm7" dor) ("C7" alt) ("FM7" lyd) ("Fm7" dor)
("CM7" ion)))

次に各コードに対して、コードスケール、UST、テンションノート、などの情報を計算機に列挙させます。

以上の情報を基に作曲を行うのが私の基本的パターンです。既に知られている曲のコード進行をそのまま利用することもあります。

上記情報が与えられれば、慣れれば、簡単に作曲できます。この時に、いろいろな音楽知識が使われるのでしょうが、その音楽知識を明示するのは人間にとって難しいことです。暗黙知と呼ばれるものを明示すること自体、研究課題でしょう。


補足3:旋律の生成アルゴリズム

対(コード、コードスケール)の適当な列を与えた場合、最も単純な旋律生成アルゴリズムには次の二つのものがあります。

1.ガイドトーンとテンション・ノートをランダムに配置する。
2.テンション・ノートからコード・スケールを適当に回転させる。

1.2.の応用として、次のアルゴリズムも有効であることが判明しています。

アルゴリズム
A.ガイドトーンとテンション・ノートからランダムに一つの音を選ぶ。
B.その音がガイドトーンならばそのまま旋律の要素にする。
C.その音がテンション・ノートならば音程を上下させコード・トーンに解決させる。(テンション・リゾルブである) (解決しなくとも、そのまま伸ばしてもよい)
D.(A.B.C.)を繰り返し適当な長さになるまで繰り返す。

以前はA.の段階でガイドトーンの代わりにコード・トーンを使用していたが上手くいきませんでした。また上のアルゴリズムではガイドトーン以外のコード・トーンも出現し、多様な旋律を生成できます。ワルツの作曲も可能です。ガイドトーンとはコードの3度と7度の音のことです。

対位法の基礎

対位法の基礎

2声対位法

●1対1
(1)両旋律が平行の場合の両旋律間の音程は、3度または6度とする。ただし3回以上同じ度数で平行進行しないほうがよい。
(2)両旋律が同度または8度になる場合は、原則として和音の根音とする。同度または8度は曲の初め、曲の終わり、弱拍部、または経過的な場所に使う。同度または8度で平行進行してはならない。
(3)4度は、増4度ならば3度と6度と同じように使えるが、完全4度は1対1では使わないほうがよい。
(4)5度も、減5度と増5度は3度や6度と同じように使えるが、完全5度は経過的な弱拍部と、使い方によっては曲の初めと終りに使うことができる。
(5)2度と7度は1対1では使わないほうがよい。
(6)旋律は原則として4小節で1句をなすようにつくり、1つの頂点を作るようにする。
(7)旋律が2度上下することを順次進行するといい、3度以上上下することを跳躍進行するという。旋律の跳躍は原則として8度までとする。
(8)完全協和音程から完全協和音程へは反進行または斜進行しなければならない。
(9)不完全協和音程から完全協和音程へは反進行または斜進行しなければならない。

●1対2
(1)1対1のときには使わなかった2度と7度を使うことができる。
(2)定旋律と対旋律とが同時に弾かれるときが強拍部で、対旋律に1音残るときが弱拍部である。
(3)弱拍部に残る1音符は、強拍部で作った和音内の音にする。これが第1法である。
(4)第2法は経過音とする。
(5)第3法は後打音とする。
(6)強拍部にイ音、弱拍部を協和音程の本音符にする。イ音とは定旋律と9度、7度、4度、2度の不協和音程である。ジャズでいうテンション・リゾブルである。
(7)イ音を前小節に用意しておき、掛留音を作る。
(8)初め2小節ほどの動機(旋律型)を考え、それに対する対位型を決めて、それ以後の部分は上下の旋律を同時に、あるいは交互に書いていく。
(9)模倣を用いる。模倣には厳格な模倣と自由な模倣の2様式がある。
(10)高音旋律と低音旋律はなるべく反進行させる。

●1対3
(1)経過音は対旋律3音符中の第2音か第3音に入る。
(2)イ音は第1拍と第2拍に現れる。
(3)掛留は1対2と同じ。掛留解決後に残る1音は和声音にすることが多い。
(4)補助音を使用できるようになる。

●1対4
1対3までの規則と基本的に同じである。

●1対5,6,7,8
経過音と補助音の使用が多くなり、イ音、後打音、掛留音、先打音の使用は稀になる。

●自由対位
1対1より1対8までの対位法を自由に使って2声の対位法作品を作ること。


3声対位法

●1対1:1
(1)三和音は基本位置と六の和音を用い、四六の和音は経過的な場所以外では用いない。
(2)減三和音は六の和音の形で使って、基本位置では使わないほうがよい。
(3)高音と中音、中音と低音などの2声間の進行は3度、6度、減5度、増4度のほかに、7度、2度の不協和音程も、1度、8度、5度、4度の完全協和音程も使うことができる。但し、5度や8度で平行進行する平行5度と8度は禁止されている。平行1度も禁止。
(4)平行4度進行は、それが高音と中音の間で行われ、低音が六の和音の状態で平行する場合にかぎり使うことができる。平行5度は六の和音でも使用できない。
(5)高音と低音の間に生じる隠伏平行5度と隠伏平行8度の進行は行ってはならない。但し、楽句の段落や楽曲の終止では構わなく、普通である。
(6)旋律の進行は2声の場合と同じく順次進行を基本にし、それに跳躍進行を挿入するが、3声同時に同方向へ跳躍してはならない。2声が同時に跳躍したら、他の1声は反対方向に順次進行させる。
(7)高音と低音はなるべく反進行させる。このとき、中音と高音が平進行になる場合が多くなるが、平進行を長く続けないで反進行に移るようにする。
(8)2声が平進行するときは、他の1声を反進行させるのが普通であるが、稀に3声が平進行することがある。
(9)3声各旋律を独立独歩させるため、各旋律の頂点を別々の場所に作り、同時に頂点にならないようにする。低点は低点で同時にならないようにする。

●1対1:2から1対1:6まで
これは2声における1音符に対して2音符を対位する1対2の対位法と全く同じで、3声であるから、2声よりも三和音を完全に表すことができる。

●1対2:1から1対4:1まで
中音部に、経過音を使うのと掛留音とイ音を用いるのでは、曲想が全く異なってくる特徴がある。

●2対1:1から4対1:1まで
今までの応用。

●1対1:2(3)、1対2(3):1、2(3)対1:1の混用
実際にはこのような混用が多い。

●1:1:4、1:4:1、4:1:1の混用。
これも同様である。

●1対2:2
対旋律と対旋律の間の進行は、できるだけ反進行にする。

●1対2:3
ここに至って、各旋律がお互いに独自のスタイルをもって対位しあうようになる最初の対位法である。

●1対2:4
このリズム・パターンを3声間に順序よく置き換えると、次のような6種のリズム・パターンができる。
(S:A:B)=(1:2:4),(1:4:2),(4:1:2),(2:1:4),(2:4:1),(4:2:1)
これは、上の1対2:3でも同様である。非和声音の種類や転調の導入により様々な曲想が生じる。


4声対位法
3声対位法までと同じように考えればよいが、リズム・パターンなどのバリエーションが非常に多くなる。自ら試して下さい。


二重対位法
上下逆転して用いることを予定して書く対位法。


フーガ
対位法の中から生まれた音楽形式のうちの最高の形式で、まず短い主題を単声で先行させ、その主題がいちおう終わったところで、他の声部がその主題を一定の音程で模倣しながら入ってくる。それに対して、主題を先行した声部が、こんどは対旋律として、主題に新しい旋律を対位していく。さらに3声めが2声めと同じように最初の主題を一定の音程で模倣しながら入ってくる。先行した2つの声部は、それに対して新しい対旋律を対位してゆく。このように、1つの主題をめぐって、いくつかの声部が互いに主題を演奏したり伴奏にまわったりして進んでゆく形式で、3声フーガ、4声フーガなどがある。


ストレッタ
フーガ形式で、主題提示部で提示した主題と主題の間隔をせばめて、畳み込むように主題を重ねてゆく部分。ソナタ形式の展開部に相当する。


縮小模倣・拡大模倣
フーガ形式で、主題の音符を2分の1に縮小したりすることを縮小模倣、縮小とは反対に、旋律の音符を2倍、3倍、4倍などに拡大して模倣することを拡大模倣という。

「落語と哲学・宗教・言葉・論理・数学(蒟蒻問答:漱石の夢十夜:モデル理論)」

【「蒟蒻問答」】

 落語には哲学的なところがあるものがある。それは、「蒟蒻問答」という題の落語である。
 安中在の無住の寺に、流れ者が、世話好きな蒟蒻屋の薦めで、住職になって住み込む。このにわか住職は、道楽者のなれのはてで、経一つ読むことすら知らないのだが、別に葬式もないのを幸いに、毎日、下男を相手に、酒を飲んで暮らしている。そこに、旅の禅僧がやってきて問答を申し込む。問答に負けたら寺を乗っ取られると聞いて慌てたにわか住職は、「住職は別の人間で今は留守だ」と言って旅の僧を一旦宿に帰し、蒟蒻屋に住職に化けてくれと頼み込むと、仏教については何にも知らない点では同様の蒟蒻屋が、大胆にも引き受ける。
 翌日、再びやってきた旅の僧がいくら問を重ねても、蒟蒻屋の化けた大和尚は黙っている。「さては無言の行だな」と思った僧が、それではというので、身振り手振りで問をしかける。すると、今度は蒟蒻屋も、身振り手振りで答を返す。それが一々肯綮にあたっているものだから、旅の僧はすっかり恐れ入り、「われらの遠く及ぶところではない」と退散する。これだけでは、まことに不思議な話ではあるが、これには言葉による絵解きがある。
 例えば、僧は、指で小さな輪を作って示す。すると蒟蒻屋は、大きな輪を作って見せて答とする。これを、僧は、「日の本は」と聞いて「大海の如し」という答を得たものと解している。しかし、蒟蒻屋の方では、「お前のところの蒟蒻はこんなに小さいんだろ」と聞かれたと思い、しゃくにさわって、「馬鹿をいえ、こんなに大きい」と答えたつもりだったのである。次に、僧は、「十方世界は」と聞くつもりで両手を拡げて差し出したところ、片手を拡げて見せられたので、「五戒を保つ」と答えられたと考える。蒟蒻屋の方は「十丁でいくら」と聞かれて「五百」と答えたつもりである。最後に僧は、三本の指を出して「三尊の弥陀は」と尋ねたつもりだったところ、右の人差指を眼の下にあてた答、即ち、彼の解釈では「眼の下にあり」という答をもらって、すっかり敬服してしまうのである。蒟蒻屋の方では「たかいから三百に負けろ」と言われたととり、けちな坊主だと腹をたて、あかんべをしてやったつもりなのである。
 この場合には、第三者には、この絵解きがあるが、僧と蒟蒻屋とは、おたがいに、相手をまったく誤解したままで別れたのである。それでも一方は、「良い教えを受けた」と喜んで次の旅に出立したのであるし、他方は、「うまいこと、言い負かしてやった」とご機嫌だったのだから、話はハッピー・エンディングになっているわけである。
 これは、身振り言葉の場合であるが、実は、話し言葉の場合にも、同じことが起こりうるのではないか。こういう疑問を誘うところが、この落語の哲学的なところなのである。実際、汽車の中で乗り合わせた人の一方が、能の話を始めたところ、相手は終始一貫、それを農(業)の話だと思い込んで調子を合わせていたという実話がある。
 虎を描いたつもりの絵が他人には猫に見えたとか、椿を描いたつもりの絵が他人には苺に見えた、とかいった話もあり、絵を見せてそのモデルを察してもらおうと思っても、誤解を招くことがある。
 モデル理論の教えるところから、実は、言葉のモデル、つまりその表現内容を一義的に決めるのは、不可能な場合が多い。このことは、別に困ったことではなく、数学が多方面で応用されるのは、言葉の持っているこの性質を利用してのことであることも少なくないのであるが、このことから、哲学上の諸問題にとって重要な結果が導かれる。
 なお、言葉の持つこの不確定性ともいうべきものには、禅の方でも早くから気づいていたようである。そこで、言葉によって教義内容を固定することを排し、「不立文字」などというのであるが、それにも拘らず、禅僧は問答を好み、その結果、勝ったの、負けたのといって大騒ぎしている。「蒟蒻問答」は、禅における、このような風潮への、皮肉にもなっているのである。
 禅も宗教と言われるが、日本では落語家からもこのように茶化される始末なのである。これも無宗教を基本とする日本人の特徴というものが、よく伺われる話である。


【漱石の「則天去私」(「夢十夜」より)】

 明治の文豪・夏目漱石(1867〜1916)に「夢十夜」という作品がある。一夜ごとの夢の話10話を集めたものだが、その第二夜は、「悟り」を開こうとして呻吟する侍の話である。悟りを開こうとするが、なかなか開けない侍。雑念ばかりが頭のなかをよぎる。あげくには、和尚にからかわれる。

和尚曰く
 「お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が言った。そういつまでも悟れぬところをもってみると、お前は侍であるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと言って笑った。口惜しければ悟った証拠を持ってこいと言ってぷいと向こうをむいた。怪しからん。」

 侍は決心する。置き時計が次の刻を打つまでに悟って入室し、この「悟り」と和尚の首を引き替えにしてやろう、と。悟れなければ自刃しよう。侍が辱められては、生きていけない。だが、無情に、時は過ぎるばかりである。和尚の声が聞こえる、「−−州曰く無と」。侍は焦る、「無とはなんだ、糞坊主め」と。和尚の嘲笑った声が聞こえてくる。侍は、ますます和尚が憎くくなる。

侍曰く
 「悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だというのにやっぱり線香の香がした。なんだ線香のくせに。」

 自分の頭を殴っても、奥歯を噛んでも「無」は出てこない。侍は、腹が立ち、無念になり、口惜しくて涙を流す。出口のない、残酷な状態である。そのうち蕪村の襖画も、畳も、行燈もあってないように見えてくる。それでも、「無」は現前しない。
 話は、こう終わっている。

 ただ良い加減に座っていたようである。ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴りはじめた。
 はっと思った。右の手をすぐ短刀に掛けた。時計が二つ目をチーンと打った。


「父母未生以前の因縁を知れ」
 この言葉の意味が判らず、夏目漱石は禅寺を訪れる。山道を登る途中で僧に出会ったが、その僧は、「上に行っても何もありませんぞ」と言って、飄々とすれ違い去っていった。

これは有名な逸話であるが、ご存知であろうか。



【モデル理論】 
 モデル理論(英語: model theory)は、数理論理学による手法を用いて数学的構造(例えば、群、体、グラフ:集合論の宇宙)を研究(分類)する数学の分野である。モデル理論における研究対象は、形式言語の文に意味を与える構造としてのモデルである。もし言語のモデルがある特定の文または理論(特定の条件を満足する文の集合)を満足するならば、それはその文または理論のモデルと呼ばれる。モデル理論は代数および普遍代数と関係が深い。この記事では、無限構造の有限一階モデル理論に焦点を絞っている。有限構造を対象とする有限モデル理論は、扱っている問題および用いている技術の両方の面で、無限構造の研究とは大きく異なるものとなっている。完全性は高階述語論理または無限論理において一般的には成立しないため、これらの論理に対するモデル理論は困難なものとなっている。しかしながら、研究の多くの部分はそのような言語によってなされている。モデル理論は構文と意味の双対性と密接に関わっている。すなわち、モデル理論では対応する言語の統語論的要素の手段によって意味論的要素を分析する。ChangおよびKeisler (1990) の一ページ目を引用すると:

普遍代数 + 構造 = モデル理論.
モデル理論は1990年代に急速に発展し、より現代的な定義はWilfrid Hodges (1997) によって与えられた:

モデル理論 = 代数幾何学 ? 体.
証明論と同様に、モデル理論は数学、哲学、および情報科学にまたがる学際領域に位置している。モデル理論の分野で最も重要な専門組織は記号論理学会である。

 モデル理論の不完全かつ幾分恣意的な下位区分として、古典モデル理論、群および体への応用、および幾何学的モデル理論がある。ここに含まれていないものに計算可能モデル理論があるが、これは論理学の独立した下位分野として見ることができると言っても良い。ゲーデルの完全性定理を含む古典モデル理論初期の定理の例は、上方および下方レーヴェンハイム-スコーレムの定理、ヴォートの two-cardinal 定理、スコットの同形定理、タイプ排除定理 (omitting types theorem) 、そしてリル=ナルゼウスキの定理がある。モデル理論が体へ応用された初期の結果の例は、タルスキの実閉体についての量化記号消去法、疑有限体 (pseudo finite field) 上のAxの定理、そしてロビンソンの超準解析の開発がある。古典モデル理論の発展において、安定理論の誕生が(非可算カテゴリー論 [uncountably categorical theory] 上のMorleyの範疇性定理およびシェラハの分類プログラムを通して)重要なステップとなった。この安定理論は、理論が満たす構文条件に基づくランクと独立性の算法を発展させた。この数十年で、応用モデル理論はより純粋な安定理論と繰り返し融合してきた。この合成の結果は、この記事では幾何学的モデル理論と呼ばれている。幾何学的モデル理論は、古典幾何学的安定理論と同じく、例えばo-minimalityを含むために利用されている。幾何学的モデル理論の例は、関数体についてのMordell?Lang予想のフルショフスキーによる証明がある。幾何学的モデル理論の目標は、純粋なモデル理論の研究において実際に開発されたツールによって、さまざまな数学的構造における定義可能集合の詳細な研究を行い、数学の地理学を提供することである。

オントロジーと現象学

オントロジー(ontology)とは、「ギリシャ語のon(ものごとが“ある”)ということの意味を問う存在論」を意味する。特に、人工知能や知識表現の分野では、この意味を転じて、「対象とする世界に存在するものごとの体系的な分類と、その関係を明示的・形式的に記述する」という意味で使われる30)。
別々のコミュニティーでつくられたオントロジーを共有し、相互運用性を高めることを目的として、2004年に、RDFを拡張したOWL(Web Ontology Language)が勧告された31)。
OWLは概念を体系的に記述するための言語である。確かに、OWLはコンピュータ同士の間でのデータ共有を容易にしたが、その一方で、人間同士が概念そのものを完全に共有するには至っていない。概念自体を共有するためには、客観認識が大勢の間で一致して成立しうることが前提となる。
残念なことに、人間の理性によって客観的な認識が成立可能と考えられていたのはアリストテレスの時代の話であり、現代哲学では、一部の数学的概念を除き、この前提は成り立たないと考えられている。特に、分子生物学のように五感で捉えきれないミクロな世界の現象の表現にメタファーを多用する分野では、概念を厳密に定義できないケースが多い。
OWLのような記述言語を用いることで、ひとりの人の世界観をオントロジーとして体系的に表象することは可能だが、他者がそれを理解することは非常に難しい。後述する現象学によれば、概念と現象を直接結びつける客観的な方法などは存在しない。代わりに、“現象学的還元”というプロセスによって、お互いの認識を漸近的に近づけていけるだけである。
現象学とは、人間の意識の中に認識が確立されていく過程を分析する学問であり、我々研究者がよく口にする「客観的」とか「主観的」という区別が、いかに不安定なものであるかを教えてくれる。
フッサール以前の近代哲学は、理性に対する信頼が揺らぎ始めていた時代であり、「意識と対象、対象となるモノ自体について、その客観認識がはたして可能か」ということが大問題となっていた。フッサールの現象学は、この難問に決着をつけた。というよりも、「認識問題の要諦は、“モノ自体についての議論”にはなく、“意識と対象の信憑構造”にある」と主張し、そこへ問題をシフトさせた。その方法が現象学的還元である。
例えば、今、目の前にリンゴが見えるとしよう。我々は、無意識のうちに、そこにリンゴが存在していると思いこんでしまうが、フッサールの方法では、その思い込みをいったん保留にし、なぜ、自分はそのような思い込みをするに至ったかを振り返ってみるのである。目に映る赤、光沢。手に取ったときの質感や匂いなどのクオリア。目を閉じたり開いたりしても、それら原体験が絶えず迫ってくることによって、自らの意識が、リンゴの存在をこれ以上疑うことを断念し、ついには客観的に存在していると認めるに至る。このような意識の信憑構造こそが、認識問題の要であるとフッサールは主張している。
人間同士のコミュニケーションで認識の違いが生じた場合、現象学的還元によって、それぞれの判断のもとになった原体験を一緒に振り返えることで、人間に生じやすい思い込みを修正することが可能になり、両者の認識の一致する方向へと志向していく。
特に、自然科学者にとって現象学的還元は非常に大切な行為である。彼らは、自らの判断の根拠について疑義が生じたときは、常に実験ノートにまでさかのぼり、思い込みのもととなった原体験を内省する。フッサールの現象学的還元はなぜそのような思い込みをしたのかを反省し、原体験であるクオリアにまでさかのぼる行為であるため、自然科学者にとっては比較的実践しやすい。
(一方、フッサールが提唱している“フォーマルオントロジー32)”は、形式的なレベルのみを記述対象に限定し、具体的要素である“マテリアルオントロジー”を徹底的に排除しようとするため、分子生物学になじみにくいという欠点がある。)
そこで、現象学的還元が容易なシステム設計が生命科学では重要になる。上述のセマンティックリンクの問題点は、リンクの意味をシンボリックに表象した段階で、実際の現象体験から切り離されて、ひとり歩きしてしまう点にあり、別の人がシンボルと実際の現象体験とを結びつけて理解しようとしても現象学的還元ができないという問題点があった。
生命科学では、人工知能的な推論よりも、まずは、機械可読な知識モデリングにまで辿りつくことが重要なマイルストーンとなる。そこで、我々は、機械可読性というセマンティックリンクの長所を残しつつも、そこに現象体験を含めておくことができる新しいセマンティックリンクが必要であると考えた。ここでは、簡単に“現象データ付意味リンク”と呼ぶ。
このリンクは、従来のように概念的な意味を表すと同時に、そのリンクの始点と終点にある具体的なリソースを包含する“現象”全体を、“インスタンス(外延)”として表す。このため、図4のように、リンク自体を1つの具体的な現象としてみなし、それらを他のリンクで結びつけることが可能である。
さらに、その現象体験を与える元になったデータをリンクに関連付けておくために、各リンクにフォルダをつけて、そこに人間にとっての現象的な情報(実験データやイメージデータや自然言語による文書など)を整理して置けるようにした(図4)。
このため、バイオロジストが最初につけたセマンティクスを、別の人(例えば、対象モデリングのエキスパート)と共に定義しなおす場合に、具体的なデータを眺めながら現象学的還元ができるようになっている。
このようにして、セマンティック・ウェブを共同で構築していくための情報基盤システムが後述のSWF(Semantic Web Folders)である。理化学研究所(理研)から公開されるデータを、SWF経由でも公開しようとしている。

【「強迫神経症と肛門期性格と芸術」】

私が強迫神経症である可能性が非常に高いのは間違いがありません。汚い話になりますが、私は小学校1年生頃から、大便を排泄するのをこらえることに、快感を覚えていました。左側の腹痛を頻繁に覚え、両親も心配していました。栄町医院の女医さんに診てもらいました。盲腸は右側が痛くなるので、あり得ないが、心臓が右側にあるならば、盲腸かも知れないと、心臓の位置を調べられました。両親は浣腸をすれば治ると思って、浣腸をされたこともあります。盲腸の場合は浣腸は危険だそうです。最終的に川崎の太田総合病院で検査を受けました。注射を打たれながら、時間を掛けて、腸の状態を調べられました。結果は左側の腹部に便が詰まっているとのことでした。野菜を沢山食べるようにするように言われましたが、内科医でしたので、これは今考えればピントはずれのアドヴァイスだったと思います。実際に、私はいろいろなものを溜め込む性格があります。知識、本、CD、LP、お金、卑猥な表現物(誤解を受ける可能性のある表現ですので説明しますが、昔は現在のような極端に直接的で卑猥な表現物はありませんでしたし、芸術的なものとの評価が多く、母なども芸術的なセンスと結びつけて考えていました。従兄弟もプレイボーイや平凡パンチなどを愛読していました。現在はあまりにも露骨なものが多いと思います)、電線、鉄砲玉、小さな独楽、ビー球、商品のオマケなどを集める傾向が子供の頃からありました。確かに母(父や学校の教師も同様です)は躾に厳しかったのは事実です。以下に、フロイトによる精神分析に基づく説明を紹介します。

フロイトの性的発達理論と肛門期性格(anal character)
精神分析学の創始者であるS.フロイト(1856-1939)は、人間の精神発達過程を説明する理論として性的精神発達理論(リビドー発達論)を提唱した。リビドー発達論ではリビドー(性的欲動)を充足する「性的部位」によって発達段階を考えるので、「口愛期(0歳〜1歳半頃)・肛門期(1歳半〜3歳頃)・男根期(エディプス期,4歳〜6歳頃)・潜伏期(6歳〜12歳頃)・性器期(12歳以上の性器統裁の段階)」という発達段階に分類されることになる。リビドーの性的欲動というのは生物学的な快楽原則によって生まれるものであり、「心理的・生殖的な性欲」や「文化的なエロスのイマジネーション」とは直接的な関係はない。生まれたばかりの赤ちゃんは口唇を母親の乳房に押し付けて母乳を吸うことによって快楽を感じるが、その際に心理的な性欲が伴っているわけではない。

同様に、男根期あたりまでのリビドー充足は、それ以降の心理的・文化的に喚起される性欲とは質的に異なるものであり、それらはまとめて部分性欲(幼児性欲)と呼ばれることがある。口唇・肛門・相手のいない自己の性器など「部分的な自己愛」の段階に留まっているものを「部分性欲」と呼ぶが、12歳以降の性器期では対象(好きな相手)のいる「全体性欲」が生まれてくるのである。肛門期(1歳半〜3,4歳頃)の子どもは両親(養親)から自分自身で排泄するためのトイレット・トレーニングを受けることになるが、この発達段階の子どもは大便の保持と排泄に伴う「象徴的な対象関係」を内面で体験しているとフロイトは考えた。幼い子どもが大便を上手く排泄できた時に、両親は「よくできたから偉いね。これで一人でトイレに行けるようになるね」といった賞賛と肯定の言葉を子どもに投げかけるが、このオペラント条件付けの繰り返しによって子どもは大便に象徴的価値を見出すことになる。

子どもの精神内界では、(トイレット・トレーニングの成果である)大便が貨幣や黄金など価値あるもののメタファーとなっている場合があり、その場合には大便を親に見せようとしたり強い関心を示し続けたりすることがある。反対に、両親が子どもの排泄行為を極端に嫌って、トイレット・トレーニングが上手く進まない子どもを馬鹿にしたり厳しく怒鳴りつけたりするような時には、子どもは排泄行為を罪悪感や自己否定感の感情と結び付けてしまい、肛門期性格という特徴的な性格を形成してしまうことがあるという。

精神分析的に生理学的な排泄を考えると、肛門括約筋による自己の身体と他者(親)の感情のコントロールという意味合いを持ち、精神分析的な精神病理学ではサディズムやマゾヒズムの性格形成とも深いつながりがあるとされている。大便を保持(貯留)するか排泄するかの葛藤によって、自分の身体や大人の態度を無意識的にコントロールしようとするところにサディズム的な攻撃性(マゾヒズム的な自虐性)が芽生えることがあるのである。

肛門期の発達段階にリビドーが停滞することによって形成される性格傾向が肛門性格(anal
character)であり、その特徴として『倹約・吝嗇(ケチ)・頑固・几帳面・神経質・強迫的』などを上げることができる。倹約やケチなどの特徴は、大便の保持によるリビドー充足への固着であり、お金・利益・時間を必要以上に保持することにつながっている。融通の効かない頑固さや偏屈さというのは、トイレット・トレーニングを強制してくる母親への抵抗への固着であり、受動的攻撃性を持つ特異な性格構造につながっている。強迫的な几帳面さや礼儀正しさは、肛門期特有のサディズムに対する反動形成の現れであり、肛門性格では特定の行動や規範に対する従属性が見られることがある。強迫性障害と肛門性格の関連性について指摘した精神分析家の意見は多いが、エビデンスベースドな心理学では強迫性障害の生物学的原因(セロトニンの分泌障害)が重視されている。


肛門期-Wikipedia

肛門期(こうもんき、独: Analen Phase、英: Anal stage)は、ジクムント・フロイトが主張する5つの性的発達段階(独: Triebtheorie、英: Psychosexual development、リビドー発達段階)のうちの2番目の段階であり、口唇期に次いで表れる。

フロイトによれば、この時期の小児性欲の中心は肛門である。子供は排便を意識し、コントロールの方法を教えられ、適切なときと場所でトイレに行くという「トイレットトレーニング(排泄訓練)」が可能になる。時期については諸説あるが、おおむね2歳から4歳頃までとされる。この時期の子供には自己中心的、情動的な傾向が強い。そのため自分の欲求を即座に満たそうとする場合がままある。何も教育しなければ、どこでもうんちをしてしまう子供であるが、排泄という肉体的反応を適切に行なえるようになることで、性格や自己規律に対して何らかの影響があるとされる。

親は、この時期の子供に対して規則正しく衛生的に排便するように教育することが求められる。そうした親からの働きかけが社会的圧力となり、「適切な排泄行為をしなければならない」という規律と、「母親の要望にこたえられた」という達成感や充実感を得る。このような教育が子供に徐々に適切な排便を身に付けさせていく。

子供は排便のタイミングを自分で判断するようになると、「自信」や「ものを諦める能力」や「我慢する能力」が発達し、自律のための重要な一歩を踏み出す。ただし、この時期の肛門を自分の意思で自由にコントロールできる感覚をしっかりと身に付けなければ、子供のパーソナリティにさまざまな問題が生じる可能性があると言われる。

肛門期への固着

トイレットトレーニングの過剰と失敗は子供のパーソナリティに様々な影響を与える。

例えば、トイレに無理矢理行かせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎると、ものを捨てるのを嫌がるようになったりする。ためこみ屋でけちな性格になることがある。これは過度なトイレットトレーニングが子供に自分のうんちを溜め込みすぎるのを良しとするためである。フロイトによると几帳面で節約家で強情になりやすいと言う。

それに肛門期固着は小児性愛の源泉となる事もある。フロイトは論文で、子供はうんちを幼児やお金に象徴交換して、それを代わりに手に入れたり溜め込んだりするような傾向があると指摘している[1])。

逆にしつけを疎かにすると、子供はいつでも排便する事が良い事だと思い、お金を湯水のごとく使ったり、不潔のままになったりと、整理する事を学ばなくなってしまう。これは自分の欲動をトイレットトレーニングを通してコントロールすることを学ばなかったからである。このような子供は我慢することを知らず、自分の好き勝手に何でもやりたい放題になるとも言われる。

芸術との関連も指摘されている。肛門期は自分の体内の一部であるうんちを作って対外に排出するという活動を象徴していると言われ、それは創造的活動などと比較される。また汚いものを排出することとの関連で妄想症が考えられたりもしている[2]。



フロイトの発達段階理論の「肛門期」の固着について

[質問]

男根期へのリビドー固着により、『外向的な行動力(活動性)の高さ・尊大な自信家・派手な異性関係(多婚的な浮気性)・自己顕示欲求の強さ・権力志向(虚栄心の強さ)・共感性の欠如』という男根期性格になりやすいというのは、なんとなくイメージとして掴む事が出来ます。

口唇期についても、面倒見の良さや依存性といった性格も分かる気がします。

肛門期への固着によりなりうる肛門期性格、つまり「頑固で意地っ張り、几帳面、融通が利かない」…どうしてそうなるのか、おしりの穴とそういう性格がどう結びつくのか、どうしても分かりません。



[回答]

食べる,飲むなどの幼児の物理的な行動は,すべて外から中へ受け入れる行動です。
排尿は,脱力だけで出来るので,意志が必要ありません。それで,おむつをしているわけです。

ところが,排便は,それが物理的行動として「力(りき)む」必要があるボリュームがあり,同時に,中から外へ出す,という行動として特別な性質があるわけです。
それで,幼児期には,この排便が,自分の積極的な努力の結果として生み出すものとして喜びを感じさせるものであり,かつ,汚れを嫌う親がトイレトレーニングによって外から規制してくるために細心の注意をもって行うべきもの,という特別な位置づけになるわけです。

このような事情から,フロイトは,この排便を主体的にコントロールできるようになる時期を「肛門期」と名づけ,排便の快感は性的快感と本質的に同じものだと考えたわけです。

そして,この肛門期にトイレトレーニングの過程で排便に満足感を覚えることができない体験をしてしまうと,後に,その不満足が,便(うんち)とは別のものを代わりの対象にして満たされようとするという無意識との関連性を洞察したのです。

それは,お書きになっているようなネガティブなものだけではなくて,肛門期に満たされなかった思いが,自分が力をこめて創造しきれなかった「うんち」の代わりに,現金や金(ゴールド)に向かえば「資本家」になるし,芸術作品に向かえば「芸術家」になる,というポジティブな側面もあるということになるのです。


〔補足〕
フロイトは,幼児と観察と精神疾患の患者の診察から,多くの概念を抽象しました。
医師でなければ精神疾患の患者に会うことはほとんどないので,完全に理解するのに限界がありますが,幼児を日常的に見ていると,なるほどフロイトの言うとおりだということを発見することも少なくないと思います。
フロイトの原著(邦訳を含む)では,幼児の観察についてはもちろん,精神疾患についても症例をあげて説明しています。
フロイトについてどのように勉強されているか分かりませんが,フロイトにしてもユングにしても,本人の書いたものを読むのが一番納得がいくと思います。
「心理学総論」とか「フロイト入門」などの他の人がまとめたものだと,専門用語ばかりが続々出てきて,さっぱり納得のいかないことばかりになりますので,ぜひ原著を読むことをお勧めいたします。


タバコについて考える(特にハゲ防止対策のために)

 今日は、いつもの通り、7時半に自転車で川崎方面に散歩に出かけ、途中で市場町のサンクスに立ち寄り、伊藤園の緑茶を買い、飲みました。帰り際にまず、さくら薬局鶴見栄町店で「コラージュフルフル育毛ローション(女性の髪と頭皮を考えた)」という女性用の薬用育毛剤を購入しました。私は昔から髪の毛が人よりもかなり多く、床屋さんでも鋤いてもらうことが多かったですが、今後禿げになる可能性は完全には否定できません。まだ禿げてはおりませんが、早めに禿げ対策をしたほうが賢明と思われます。女性用であろうと男性にも効果があるはずだと思います。その後、平安朝にあるセブンイレブンで納豆巻きを買い食べました。ここのマダム・フセインと挨拶を交わしました。実家の傍のLawson100に立ち寄り、卵とトマトジュースを210円で買い、店員さんと少しお喋りをしました。昨日、マツモトキヨシで腕時計を1079円で安く買えたことなどを話しました。父の形見であった時計が何故か止まってしまいました。修理に出そうかと思っていましたが、探してみても、時計屋さんが鶴見にはないようです。どこかにないでしょうか。
 母の預金も少し残っているので、鶴見区役所に立ち寄り、謄本を取り寄せました。区役所の入り口で知り合いと出会い話を少ししました。スーツを着てネクタイを締めて古風なグレーのコートを着ていたので、いつもと違う感じですね、と言われました。こんな服ばかり沢山持っているんですよ、と答えました。Olympicで鮭弁当を398円で購入後、2階に行って、グレーとブルーのズボンを買いました。買い物を終えて、自宅に戻り、昼食を摂りました。一時半に弁護士さんの事務所に出かけ、相続の件で相談致しました。うまく分割協議書を作成できればと思っております。
 弁護士さんとの相談の後に、まずBook Offで本を物色していましたが、偶然、私が通っている教会に来ているアフリカのガーナから来られた若い女性と出会い、挨拶を交わしました。豊岡通りにあるオデオン堂というCD屋さんで、CDを2枚買いました。「THE BILL EVANS ALBUM」と「MEL TORME Again」というアルバムです。前者は少し硬派のJazzアルバム(ピアノ・トリオ)ですが、「THE TWO LONELY PEOPLE」と「SUGAR PLUM」という曲は大変気に入っています。最初の曲は詩人キャロル・ホールからビルに贈られた詩に音楽をつけるように作曲したものだといいます。ワルツ・テンポのバラッドで、ロマンティスト、ビルの面目躍如たる佳曲佳演です。2番目の曲は前曲と逆に、ビルの友人で詩人のジョン・コートが、ビルのレコードのなかのアド・リブ・ソロの一部(4小節)に惹きつけられて詩を書いたという話をきき、すっかりうれしくなり、そのよろこびから生まれた曲だといいます。印象的な4度の上昇音、5度の下降音を軸にしたすがすがしい曲想が、スタインウェイ、フェンダー・ローデス・ピアノ(エレクトリック・ピアノ)を使い分けてビルは爽やかにアドリブを展開しています。正にフランス近代新古典主義のM.ラベルを彷彿とさせる曲想です。
 夕方5時頃、カレー専門店で牡蠣フライカレーを食べました。私はカレーが大好きです。母が存命中は、母が食べ物全てにカレーを塗してくれていたことがあります。この話を聞いて笑い出した人もいました。その後、FamilyMartで明日の朝食用の調理パンと菓子パンと野菜ジュースを買いました。本当にいろいろなコンビニにはお世話になっています。店員さんも少しだけ話し相手になってくれるので、嬉しいですね。
 MEL TORME(メル・トーメ)という人はご存知ない方も居られるかも知れませんが、作編曲家であり、ヴェルベット・フォグと呼ばれたソフトでスウィートな声が印象的なJazz歌手でした。彼が作曲した「クリスマス・ソング」という曲は有名で、私も好きです。ご存知の方も居られるかも知れません。ナット・キング・コールもこの曲を歌っています。意外と複雑な曲ですが、転調が印象的な美しい曲です。クリスマスも近いですし、皆さんにもお勧めします。
 昨年、父を亡くし、相続の話やら、去年の9月からいろいろとあって、少し疲労気味です。しばらく、少し、休養をとるつもりです。人生は短いですし、自分の人生なのですから、好きなことをして今後も静かに過ごしていきたいと思っております。教会にも通って、聖書の勉強や聖歌の合唱をしていきたいと思います。ピアノ、リコーダー、ギター、作編曲、ソフト作りなどを中心に、創作活動や読書をして静かに暮らしていきたいですね。私は生活には困らない人生のようです。羊年生まれの人は皆そうだそうですよ。私はストレイ・シープに過ぎませんけれどね。この表現は夏目漱石の「三四郎」に出てくる魅力的な登場人物の里見美禰子が最後に言った科白でした。大学の三四郎池は懐かしいです。学生時代によく散歩しました。生活のことは本当に亡き父のお陰です。友人も少し増えるといいですが、あまり沢山いては混乱してしまいます。ほどほどがいいですね。何事も中庸が必要ですね。
 大分寒さが増してまいりましたが、皆さん、お体に気をつけてお過ごし下さい。私ももうすぐ眠りにつくつもりです。よく眠れないと精神的に参りますからね。静かな環境は人間にとって大切ですね。一人で静かに過ごす時間もある程度必要でしょうね。
 タバコには様々な害がありますが、特に女性ホルモン(エストロゲン)、コラーゲンの分泌を抑えてしまいます。細胞を傷つけて老化を引き起こす活性酸素を発生させます。男性でも女性でも、男性ホルモンと女性ホルモンを持っており、髪の毛に関しては男女ともエストロゲンが関与しています。巷では、髪が薄い女性や完全に禿げた男性も見受けます。禿げてしまったら、頭を卵の白身やワックスで磨いて世の中を明るくするくらいしか、社会貢献ができなくなりますし、いかにも絶倫であるかのような誤解も受けてしまいます。なるべく若い時からハゲ防止対策をしたほうが良いと思います。ハゲ防止用の育毛剤としては、持田製薬が女性用に「コラージュフルフル育毛ローション(女性の髪と頭皮を考えた)」【抜毛を防ぎハリ・コシのある髪に(薬用)無香料・無色素】(4種の有効成分と天然植物エキス配合)というものを販売しており、男の私も購入致しました。男性でもおかしな所に吹き付けなければ安全でしょう。
 タバコにはハゲ以外にも様々な悪影響がありますので、禁煙に勤めましょう。もはや、タバコの葉っぱを栽培しているところは少ないはずで、現在は在庫処分をしている段階でしょう。今後、タバコの値段はますます高騰し、1000円を超える日も遠くはないでしょう。いろいろな意味でも、今から禁煙に勤めるよう努力するのが賢明と思われます。

May peace prevail on earth !


日本政府の不可解な見解について

1.憲法を改正して集団的自衛権を保障するというのはおかしな話である。憲法と集団自衛権とは何ら関係のない話で、憲法を改正して集団自衛権を保障するという主張は何ら意味をなさない。何故ならば、集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使すかどうかは各国の自由であり、通常第三国は武力攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない。そのため米州共同防衛条約、北大西洋条約、日米安全保障条約などのように、締約国の間で集団的自衛を権利から義務に転換する条約が結ばれることもある。現実には既に、日本では日米安全保障条約によって、集団的自衛権は保障されているからである。日本国憲法の問題ではなく、国際法上の問題であり、政治家には全く常識が欠如しているようである。

 集団的自衛権は、1945年に署名・発効した国連憲章の第51条において初めて明文化された権利である。憲章第51条を以下に引用する。

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

 上記のように国連憲章には「固有の権利」として規定されたが、個別的自衛権(自国を防衛する権利)は同憲章成立以前から国際法上承認された国家の権利であったのに対し、集団的自衛権については同憲章成立以前にこれが国際法上承認されていたとする事例・学説は存在しない。

 個別的自衛権は国連憲章成立以前から認められた国家の慣習国際法上の権利であり、上記の国連憲章第51条において個別的自衛権を「固有の権利」としているのはこの点を確認したものである。国際慣習法上、相手国の攻撃が差し迫ったものであり他に選択の余地や時間がないという「必要性」と、選択された措置が自衛措置としての限度内のものでなければならないという「均衡性」が、国家が合法的に個別的自衛権を行使するための条件とされる。

 集団的自衛権行使のためには上記のような個別的自衛権行使のための要件に加えて、武力攻撃を受けた国がその旨を表明することと、攻撃を受けた国が第三国に対して援助要請をすることが、国際慣習法上要件とされるとした。第三国の実体的利益に対する侵害が存在するか否かという点を要件とするかについては現在も意見の相違がある。つまり、第三国の実体的利益に対する侵害が集団的自衛権行使の要件として必要とする立場では第三国も攻撃を受けた国と同様に単独で個別的自衛権を行使できる場合にしか集団的自衛権行使は認められないとするのに対し、第三国の実体的利益に対する侵害が要件として不要とする立場では集団的自衛権は攻撃を受けた国の武力が不十分である場合に国際平和と安全のため行使される共同防衛の権利であり、第三国の実体的利益への侵害は無関係であるとする。

 憲章51条によれば、集団的自衛権を行使した場合、安全保障理事会の決議により、国連平和維持軍による制裁が発動される可能性があることも考慮すべきであろう。日本国憲法とは関係なく、既に1945年に集団的自衛権は国連憲章51条で保障されており、日本政府の見解は不可解としか言いようがない。場合によっては、下手に集団的自衛権を行使すれば、国際司法裁判所で裁かれることになるのではないか。ニクアガラの例がある。

 蛇足ながら、冷戦期に、特にアメリカ合衆国とソビエト連邦はその勢力内での反体制活動を抑えるため武力行動を行い、その法的根拠として集団的自衛権を主張した。しかしこれらの武力行動は外部からの武力攻撃が発生していない状態で行われたものであり、これらの武力行動を集団的自衛権として正当化することは困難である。


2. アベノミクスとやらを単純化してしまえば、物価を上昇させて、人件費を増大させよう、という話であるから、既知外じみた話なのである。日本の物価が世界中でも極めて高く、人件費が極めて高いために、昔は新興国であった人件費の安い中国その他の新興国に対抗できなくなったというのが現実である。物価を上昇させ、人件費を増大させれば、更に国際競争力が失われるだけである。更に不況を推し進めようという趣旨になっているのである。実際は、近隣の店舗では、値下げが行われているのが現実で、そうしなければ商売ができないのは当たり前である。「薄利多売」が商売や経営の大原則である。このようなことは、私の世代では小学生でも知っていたことで、私と同じ年齢の安倍首相はどこの国の人間なのであろうか。不可解としか言いようがない。価格破壊などと言って儲けていた企業もあった。デフレと景気は関係ないと思う。
 デフレの原因には諸説があり、いくつか挙げると、「中国安値輸入デフレ説」「流通の簡素化による中抜きデフレ説」「生産性の向上デフレ説」「銀行の貸し渋りデフレ説」「低生産性デフレ説」「生産年齢人口減少デフレ説」がある。ところが、現在はデフレは貨幣現象であると称し、日銀の金融政策だけを問題にし、日銀に責任にしているが、日銀に決めることができるのは公定歩合(金利)だけであるから、実体経済の主体でもない日銀に景気回復の期待を寄せることは筋違いというものだろう。一度に一つのことしか考えられないというのは日本人らしくない発想である。私などは技術者として「生産性の向上デフレ説」に関与していたようである。技術者にとってコストダウンは至上命令ですからね。
 株価の上昇も景気回復の指標にはならない。投機マネーの動きに過ぎないからである。景気が回復すれば、市中銀行などの金利が上昇するはずで、それを目安にすべきである。経済成長率が2%くらいになれば、財政状況も改善できると言っているが、これもあり得ない話で、8%程度の経済成長率がなければ、財政状況は改善できない。1980年代のバブル期に一時そのようなことになり、政府部門も黒字になったことがある。
 現在は金利は実質的にゼロであるから、計算上はデフレを脱却しインフレになることはあり得ない。経済がグローバル化した現在、デフレと賃金の引き下げが世界標準になるまで進まないと、景気回復は無理だと思う。あくまで確証がある意見ではないことをお断りしておく。
 しかし、デフレと言われて久しいが、むしろ低所得層にとっては、生活がし易くなっていたのではないだろうか。これは私の生活上の実感として言えることなのであるが。本当に不況になると餓死者が出るというが、そのようなことはなかったはずである。実際は物価は僅かに上昇してきていた。
 デフレ脱却をしてインフレにする位ならば、消費税を上げれば同じことであるし、同時に財政状況も改善できることにもなる。現実に、国のほうでも、北欧並みに消費税を25%程度にしなければ、日本の財政破綻は防げないとの試算をしている機関もある。それを財源にして、社会保障などを賄えば、生活し易くなるだろう。
 エネルギー問題にしても、発電手段だけを問題にしたり、原子力発電所の安全性についても、活断層が何であるか分からずに、活断層だけを問題にして、どちらも、同時に一つだけのことに拘り、日本人の発想とは思えないのである。活断層があれば地震が起こると思うとは信じがたい話である。これが、科学技術の発達した日本での発言とは思えないのである。津波が発生する場所も、日本では数箇所の地域に限られることも知らないのは、やはり日本人の発想とは思えない。頭が悪いことを自覚して降りてもらいたい。本当にどうなっているのであろうか。この件に関しては、また改めて記述するつもりである。


3.この話は、あなた方の将来の生活に関わる話です。10年後にでも深刻な事態になる可能性があります。共産党は大企業が嫌いなようですが、東芝などは昔から赤字体質で、賃金も低く、内部留保金の1%でも出す余裕などありませんよ。内部留保金と言っても流動資産だけではなく固定資産がほとんどですし、負債もあることを忘れないほうが良いでしょう。財務体質から見れば東芝などはいつ潰れてもおかしくない企業なのですが、社会的影響が大きすぎて潰せないのです。重電部門を持つ企業など、5社くらいしかありませんし、潰れれば電力を供給できない世の中になります。東電も原子力で儲けてきたような話を、今日NHKの日曜討論会で政治家が言っていましたが、東電も賃金は低く、研究費を、政府に代わって、関連企業に回していた不思議な会社でした。政府には民間企業に渡すお金などありませんからね。逆に民間企業が税金を支払っているのですからね。私も東芝に勤めていた時には、研究費として年間300万円ほど東電から貰っていました。東電はやたら電気を使ってもらって儲けようというような企業ではなかったのです。東芝も東電の下請けみたいなものですから、福島の原発事故以降は大変だと思いますよ。製造業は大企業でも賃金は安いですよ。内部留保金を一部渡して、社員の賃金をこれ以上減らせとでもいうのですか。東芝が潰れちまうのは可哀想じゃないですか。中小企業や自営業の人などのほうが賃金が高い傾向がありますよ。これは私の母がよく言っていました。弟の話によると、東電は全て資産を売却したそうです。父が入所していた有料老人ホームも東電関連企業が経営していましたが、現在は大和ホームが経営しています。電力会社はいわば電力関連企業の頂点でしたから、多数の関連企業も大変な状況にあり、原子力が使えなくなるとなれば、円安の状態で化石燃料を輸入すれば、電気料は高騰して、国民の生活も苦しくなるでしょう。最近は円高になりましたが、しばらく円安だったのは日銀が介入していたからのようですが、国際世論が許さなかったのでしょうね。再生可能エネルギーに簡単に転換できると思いますか。50年以上は掛かりますし、電力の安定供給や電気の品質が低下して、精密機械工業などは成り立たなくなります。お天気次第の電力供給になり、天気予報ならぬ、電気予報が必要になるでしょうね。太陽光発電なども大規模になれば農業などの食糧生産と競合してしまいます。風力発電所もどこに、誰がお金を支払って作るのですか。電力会社にも政府にもそんなお金はありませんよ。更に国債を発行するのですか。電気は発電だけすれば良いというものではありません。発電手段や発電所の場所が変われば、送変電システムも新たに構築しなければなりません。マスコミや政治家が言っているのは、発電手段のことだけです。ラジオに例えれば、電池のことだけ言っているようなものです。電池だけで、ラジオが鳴るはずがないでしょう。他の部品も沢山必要です。電力系統も同じで、発電所があって、ただ電線で家庭や工場に繋いでいるわけじゃありません。発電手段や発電所の場所が変わっても、発送電分離とか言って、今までの既存の送変電システムをそのまま使えると思っているようですから、お目出度いですよ。電力供給の自由化などをすれば、電力供給量は制御不可能になるでしょうから、止めたほうが良いですね。多くの企業が参入したら、どうやって電力需要に対して電力供給量を調節できるのでしょうかね。無駄な発電量が増えてしまうかも知れませんね。場合によっては電力供給量が足りなくなり、停電が頻発するかも知れませんね。大規模な発電所を沢山作るわけにはいきませんから、規模の経済が成り立たなくなり、逆に不経済な話になって、電気料金は高騰するでしょうね。電力供給にまで自由競争という経済原理を適用するのは無茶ですよ。何のために、電力会社が半官半民の公益企業であったかよく認識すべきです。

まぁ、代替エネルギーとやらが完成する前に、このままいけば、日本は財政破綻するでしょうね。こういうことを考えるのもかなり辛いですよ。皆、知らぬが仏で、呑気な顔をしていますね。代替エネルギーなど30年以上前から考えられていましたが、日本化学会誌や電気学会誌を見ても何の進歩もありませんし、技術の蓄積もないのですよ。福島の原発事故以前には電力関連の技術は成熟したものと考えられていましたから、本気で代替エネルギーなどを研究している人や企業はありませんでした。再生可能エネルギーによる発電で、不安定な出力の電力が増えて、それが大量に既存の電力系統に加わると、どうなるか専門家にも分からないのですよ。かなりやばいみたいですよ。発電機が壊れる可能性もあります。今は老朽化した火力発電所を修復してフル稼働して、なんとかぎりぎり間に合っていますが、いつ故障して、大停電が起こるか分かりませんし、新しく火力発電所を作るお金も電力会社にはもうないですよ。政府にもありませんよ。電力需要に供給が少しでも追いつけなくなれば、すぐに大停電になります。現在は間に合っているじゃないかと言って、原発は必要ないと主張している人たちもいますが、ぎりぎりで賄っているということがどういうことか分からないようですね。火力発電所がどんなに複雑で大規模な構造物か知らないのでしょう。電力会社は装置産業ですから規模の経済が当てはまり、かなり大規模な発電設備を持たないとコストが高くついてしまいます。あなた方のお金で作るしかありませんが、そんなお金はないでしょう。火力発電で発生する二酸化炭素で地球温暖化が確実に進み、南極や北極の氷は既に以前から大量に解け始めていましたから、東京都の一部は水没するかも知れませんね。

まぁ、私はあなた方よりも、早く死んじまうでしょうから、無責任でもいいのかも知れませんが、あなた方は将来餓死してしまうかも知れませんよ。母でさえ、そんなことを言っていました。放射能も自然拡散しますから、福島の事故での放射能レベルでは、あまり影響はないと思います。むしろ、海に流してしまったほうが、放射能は海中や海底に拡散して、ほぼ無限希釈されますから、そのほうが安全です。元々核燃料は自然界にある濃度の低い核物質を遠心分離法などで濃縮したものですから、それと逆の操作をして自然界に拡散させて戻せばよいだけの話です。もともと濃縮された核燃料はそういう濃度の低い状態で自然界に存在していたものであり、自然界の核物質全体の量が増えたり減ったりすることはありません。拡散と濃縮は逆の現象です。自然界の核物質の量は質量保存の法則に従っていて一定ですから、濃縮しておくよりも拡散させてしまったほうが安全です。必死で汚染水を海に流さないようにしていますが、大した放射能の量ではないと思いますし、狭い場所に閉じ込めておけば、放射性物質の濃度が時間とともに、増えてしまうのは当然で、本当に馬鹿馬鹿しい努力をしていますね。タンカーで海洋に運んで海中に放出してしまえば済む話です。エントロピー増大の法則に従って放射性物質も自然に拡散してしまうので、逆に自然に濃縮されるという現象は放っておけばあり得ないというのが自然の法則(熱力学の法則)です。そうすれば無限希釈され危険性はなくなります。人間食っていかなければなりません。生きていくにはリスクがつきものです。原発を再稼動しなければ、財政破綻が早まるだけで、本当にあなた方は餓死するかもしれません。福島の原発事故の原因になった地震による津波などは1000年に一回くらいの確率でしか起こりません。このまま行けば、150年後は人口はゼロになるという試算がなされています。無責任に子供を生んでも、餓死させるだけです。共産党には許せない意見かも知れませんが、キチガイの爺の言うこととして勘弁して下さい。

5.今後のエネルギー政策についての意見

昔の知人へ

脱原発、再生可能エネルギーへの転換を唱えているようですが、電力系統は発電部分だけで作られているのではありませんよ。私は東芝で送変電システム関係の仕事をしましたが、送変電だけでも非常に複雑な話になります。電気学会誌などを読むと、不安定な再生可能エネルギーが既存の電力系統に加わった場合のシュミレーションが行われている段階に過ぎず、それもかなり単純化した等価回路モデルを用いたものですが、実際にどういうことになるか正確な予想はつかないようです。安定な電力供給がでいきるかどうかは疑問です。電気の品質であるいろいろな安定性は損なわれるでしょう。安定性にはいろいろなものがあります。電力系統には様々な外乱が入り、過渡現象にも対処しなくてはなりません。研究室と実世界は違いますよ。
発送電分離などと簡単に言いますが、再生可能エネルギーが導入された場合、既存の送変電システムをそのまま利用可能と思いますか?それとも新たに送変電システムを再構築する必要と思いませんか。既存の電力系統のままならば発送電分離も可能でしょうが、政治家の言うことは支離滅裂です。
蓄電池による平準化についても、負荷変動が大きくなれば、蓄電池の寿命もかなり短くなるのではないですか。使い物にならないでしょう。
私は原子力は使えるだけ使ったほうが良いと思います。でなければ電力会社が債務超過に陥り、日本が破綻する時期が早まるだけです。日本の財政状況から見て、どうやって再生可能エネルギーへの転換費用を捻出するつもりですか。我々老人が将来世代から借金をして踏み倒すしかありませんね。しかし、将来の世代が借金を返せるはずもありませんから、消費税を25%にするしか手がありません。国の財政だけならばこれで済むでしょうが、再生可能エネルギーへ転換となると、更に費用を賄わなければなりませんから、電力会社が軒並み赤字となると、更に国債を発行しなければならず、最悪日本は破綻する可能性もありますよ。ユーロ圏を見れば分かるでしょう。今は国が破綻する時代です。ユーロ圏ならば、加盟国がしぶしぶ援助してくれますが、日本は右傾化して孤立化していきますから、助けてくれる国は少ないでしょうね。現実には電力会社が原発再稼動して、儲けてもらって、時間と費用を稼ぐしかないでしょう。
所詮、原子力廃棄物の半減期以内に、人類は滅びるでしょう。それまでは、放射能処理技術開発に努力したほうが現実的でしょう。それに伴い徐々に再生可能エネルギーを増やすしかありませんよ。



7. 安倍首相は国会で「戦後50年」と述べたが、実際は戦後70年であり、若年性認知症ではないかと思われる発言をしています。20年という誤差をどう説明したらよかろうか。私と同じ年齢でありながら、靖国神社に拘るのは、理解に苦しむばかりです。太平洋戦争の当事者は一人として生存しておりません。反戦の誓いをするならば、昭和天皇の玉音放送を思い出すに如くはありません。「戦後は終わった」と言われて久しい現代において、現在の日本のアナクロニズムぶりには首を傾げるばかりです。昔の戦争映画を見すぎて、時間感覚を失い、現実と空想の世界が区別できないのではないでしょうか。安部首相は、自分も戦争を体験し、B29による空爆から逃げ回っていたと思い込んでいるのではないでしょうか。現在の80歳以上の人たちの経験を自分も経験したと錯覚しているならば、この20年という誤差を上手く説明できます。亡き父母から、上記のような経験を聞かされた覚えがあります。私が子供の頃には、確かに、戦争にまつわる、国内外のテレビドラマ、洋画、邦画が多かったのは覚えております。安倍首相はそれらの映画を見て、没入するあまり、自分も体験したと思い込んでいるのではないでしょうか。私も戦争ごっこをして遊んだことを覚えていますが、安倍首相が本当に自分が参戦していたと思い込んでいるのではないでしょうか。戦争ごっこをして遊んでいたのは、もう、45年以上も前のことですよ。信じられませんよ。国民の誰かが安倍首相に頼んだのでしょうか。それとも幻聴が聞こえるか、妄想を抱いているのでしょうか。頼んだ人がいるとすれば100歳以上の人でしょうし、あり得ないと思いますがね。幻聴か妄想に基づく発言としか思えず、精神科に受診したほうが良いと思います。政治家には、知能検査、適性検査、Pertチャートなどに関する知識のテスト、論理学や数学のテストを義務付け、定年制を導入したほうがよいと思います。わめき散らして、怒りっぽく、極端に単純な話を強迫的に繰り返す、認知症による症状によるものとしか思えない言動をする政治家が多くなったようです。選挙人にも認知症の人が多いのではないでしょうか。なにしろ、少子高齢化の社会ですからね。自然の成り行きかも知れませんが、ヤバイですよね。どうすればいいのですかね。
 反戦の誓いを述べるにしても、格調の高い昭和天皇の玉音放送を凌ぐのは無理と思われ、国民が戦争を願っているかの如き誤解を外国に与えるだけではないでしょうか。誰も戦争を望んでいないはずなのに、反戦の誓いを安倍首相が述べれば、国内に戦争を望んでいる国民がいて、安倍首相がその感情を抑えているが如き誤解を諸外国に与えるだけと思われ、私も困惑しております。本当に私と同じ世代とは思えません。
以下に、昭和天皇の玉音放送を記述しておきます。


朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

私の服用薬

1.メイラックス(マイナートランキライザー)
概説 気分をリラックスさせるお薬です。不安や緊張感をやわらげたり、寝つきをよくします。
【働き】
このお薬は、おだやかな作用の心の安定薬です。不安や緊張感をやわらげ、気持ちを落ち着かせます。神経症やうつ病など精神的な不具合にはもちろん、心身症のような体の不調が前面にでる病気にも使われます。心身症は、精神的な要因や自律神経の乱れがもたらす体の不具合です。たとえば、ストレスで血圧が上がったり、胃腸の調子が悪くなったり、心臓がドキドキしたり、また、女性では生理不順を起こしたりします。
実際の処方例としては、不安神経症やパニック障害など各種神経症を中心に、上記のような症状を呈する心身症、うつ病や不眠症、自律神経失調症、更年期障害などに処方されています。 さらに、筋肉をほぐす作用があるので、緊張型頭痛や頸椎症、腰痛症、肩こり、けいれん性の病気などに応用されることも多いです。このように、この系統の薬は副作用が少なく安全性が高いこともあり、各診療科でいろいろな病気に幅広く使われています。
【薬理】
脳のリラックス系の神経受容体「BZD受容体」に結合することで、リラックス系の神経を活性化させます。抗不安作用のほか、次のような作用をあわせもちます。
抗不安作用..おだやかな作用で不安や緊張感をやわらげます。
鎮静・催眠作用..興奮状態やイライラをしずめたり、寝つきをよくします。同系の薬で、とくに催眠作用の強いものは睡眠薬として用いられています。
筋緊張緩和作用..筋肉のこわばりや、つっぱりをほぐす作用があります。そのため、がんこな肩こり、腰痛、緊張型頭痛などにも応用されます。
抗けいれん作用..けいれんを予防したり抑えます。
【特徴】
ベンゾジアゼピン系の緩和精神安定剤(マイナートランキライザー)です。抗不安薬とか心身安定剤とも呼ばれます。安全性が高く、耐性や依存も少ないです。
同類薬のなかでは、作用がやや強く、作用時間も長いです(作用/時間:中〜強/超長)。
【効能】
神経症における不安・緊張・抑うつ・睡眠障害。心身症(胃・十二指腸潰瘍、慢性胃炎、過敏性腸症候群、自律神経失調症)における不安・緊張・抑うつ・睡眠障害。
2.ユーパン(マイナートランキライザー)
上記のメイラクッスと同系統のベンゾジアゼピン系の薬で、メイラックスと同じ効果。
3.ベンザリン(眠剤)
 中枢神経に作用して、眠りに導く催眠鎮静剤です。眠りに導く作用はバルビツール酸系催眠鎮静剤に比べると弱いのですが、薬物依存におちいる危険が少ない薬です。
 不眠症の治療のほか、麻酔の際の補助薬として使うこともあります。また、神経症、うつ病、心身症(消化器の病気、高血圧、自律神経失調症など)における不安・緊張・抑うつ、睡眠障害にも効果があります。
 非バルビツール酸系催眠鎮静剤の代表的な薬がベンゾジアゼピン系催眠鎮静剤で、自然な入眠効果を発揮し、副作用の少ない安全性の高い薬で、睡眠剤の中でもよく使用されています。ニトラゼパム製剤は、けいれんを止める作用もあるので、てんかんの治療にも使用されます。塩酸リルマザホン製剤は、作用時間が比較的短いため翌日に効果が残らず、呼吸器系に対する影響が少ないため、高齢者にも安全な薬です。ロルメタゼパム製剤は、催眠効果が強く、排泄(はいせつ)が早いため、長期に使用しても安全性の高い薬です。
 酒石酸ゾルピデム製剤は、超短時間型の催眠剤で、不眠症(統合失調症や双極性障害に伴う不眠症は除く)に用います。
 そのほか、ブロチゾラム製剤は、睡眠持続時間が長く、ふらつきなどが残らないことから、老人性不眠症や神経症の不眠の治療に適しています。
 クアゼパム製剤は、不眠症の幅広い症状に有効で、ふらふら感が比較的少なく、目覚めたときの気分にもすぐれた特長があります。
4.レボトミン(眠剤)
 気分を落ち着ける作用があるので、統合失調症のほか、躁病やうつ病などいろいろな精神症状の改善に使われます。寝つきをよくする作用もあるので、不眠に用いることもあります。この薬だけは、上記三つの薬とは系統が異なり、少し危険性がありますが、眠れないので仕方ありません。



横浜市立東高等学校の修学旅行の記録

 私は横浜市立「東」高等学校の出身です。「平家物語の舞台を中心に歴史と文化を探る」という目的で修学旅行に行きました。昭和46年、二年生の時のことです。信じられない話と思うかもしれませんが、私は保健委員長を勤めました。その時の記念冊子が残っていて、私の文章が載せられています。いやはや、私の文体や性格は当時とほとんど変化していませんね。以下、その文章を掲載致します。他の人たちの文章も掲載されていますが、当時の高校生は文章もきちんとしていて、成熟していましたね。時々私のブログに寄せられる訳の分らないコメントや最近のSNSやMLで流される文章より、余程まともです。当時の高校生以下の大人が増えているのには驚いています。他の生徒の文章も読んで欲しいですが、それを公表するのは問題になりますから、控えます。


以下が、私が書いた文章です。

【保健活動を通して考えたこと】
保健委員長  荒井公康

 わたくしたちの修学旅行は、日本で初めて(?)、荻市内と嵐山嵯峨野を班で見学しました。萩市内では、高杉晋作の誕生地や松蔭神社、それにもまして明治維新を感じさせたのはその武家屋敷のたたずまいでした。高杉晋作の勉学の寺では「杉作や勉強せいよ。」と木久蔵のことを思い出しました。杉作とは高杉晋作の幼名かな。嵐山の祇王寺はしっとりと落着いていて、いとおもしけれ。班行動は大変意義深いものでしたが、集団生活という意味で旅館内での生活も重要だと思います。
 厳密にいえば大部分の人にとって旅館での生活のペースは乱れていたようです。旅行の前に、保健の先生から今から生活のペースを旅行の時間に合わせておくようにと言われていましたが、事、男子においては全く守られませんでした。教訓:遅寝早起きは疲れる。ある人にとって修学旅行の最大の楽しみは、既知外じみた騒ぎにあったようです。病人の前で(実は僕と同じ部屋から病人が出た)プロレスをした班は異常です。これはいかに、人間相互の連帯性があてにならないかということです。人間は無力なものです。人間は、自分が死ななければならないとか、偶然の手にゆだねられているとか、不可避的な状況を前にして為す術がありません。現在の科学進歩も、人間ひとりにして成り立ったのではないのは明らかです。人間は自己の無力をさとり、人間の相互扶助により、ロックに言わせれば契約をもって契約社会を作りました。しかしそこにおける連帯性も全くあてにならないものです。困った人に対して、自分の命を投げ出せるような人は極めてまれだからです。
 保健活動の一つに、生徒の安全に注意するという項目で旅館での非常口の確認がありましたが、これも完全に出来たとはいえませんでした。さっきの不可避的な状況に際して、人間は、現在存在する具体的な状況、自分が努めて変化しうる状況にのみ係わって対処するしかありません。
 もう一つ保健活動に清掃に関することがあります。これもグループによっては、よく出来ていないところがありました。「旅の恥はかきすて」は困ります。たとえ東高二年という集団において、初めての班行動に落伍者が出なかったとか、ケガ人や病人が少なかったという事実に関して、成功したといえても、他の集団に対する影響も考えなければならないことです。
【終わり】


 これが16歳の高校二年生が書いた文章なのですよ。ある意味、私自身もこの自分が書いた文章を読んで驚いています。私ばかりではありませんよ。私の世代は詰め込み教育が頂点に達した世代ですので、理科系志望でも、平家物語、徒然草などの古典や漢文の読解力は必須で、古文や漢文が散りばめられた小林秀雄の本は大学入試対策として必読書でした。哲学書を高校生が読んでいても不思議がない時代でした。
 もちろん、現在でも、学術学会誌その他できちんとした文章を書く人がいるのは現実です。むしろ、そのようなことは日本人ならば当然のことです。多くの日本人がきちんとした文章を書けるのは当然で、稚拙な文章ならば外国人が書いたと思うのが普通でしょうね。私が英語を書くにしても、単純な文章表現になるのは当然でしょうからね。英語でも、どこの国の人が書いたかは分る人には分るそうです。

 ここに、平家物語の序文を引用しておきます。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、・・・・・・」

 NHKでも平家物語に基づく大河ドラマがありましたが、思想的に無茶苦茶で、視聴率は低かったようですね。



冬将軍

 今日は猛雪といってもよい日だった。何十年ぶりであろうか。二年前にも少し雪が降ったが、これ程ではなかった。この雪では、さすがに、あのいかれた連中も、車を乗り回したり、歩き回ったり、騒ぎまくることはできないようだ。今は夜だが、雪は音を吸収する効果があるのでとても静かである。夕食を買いに外に出たが、街頭の灯りが降り積もった雪で反射して、夜でも明るい。自宅の前にも街灯があるので、庭も明るく見える。久しぶりに気分が落ち着いている。一日中、CDでジャズのピアノ・ソロを聴いていた。
 よく、集団ストーカーという表現があるが、あの連中は金魚の糞みたいなものだな。馬鹿の考え休むに似たりで、木に登りて魚を求むるが如く、陸上の街頭に金魚を求めておったのか。俺が金魚に見えるとはね。高校時代には確かに金魚に似ていると言われたことがあるが、現実にはそんなものおらぬわな。やられた人たちも数知れず。金魚ではないことを知って諦めてきた阿呆どものようだ。知識の幅と理屈では束になっても連中には適わないのも分らなかったのかね。負けると知りつつ一戦勝負をかけてみたか。高学歴がお好きなようで、金儲けの方法でも知りたかったのか。昔、そんな奴がいたがね。今は家に引篭って、城を枕にくたばるつもりのようだ。これが本当の戦というものよ。
 エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。一九四四年六月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。」と述べている。
 1945年1月から5月にかけての戦線1月からはソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまった。2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。
 ナチス・ドイツの敵は人間ばかりではなかった。連中はナチス・ドイツと同じだと言われている。ナチス・ドイツの敗因のひとつは「冬将軍」であった。人間様ではない。
 ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがソ連の大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。ソビエトの大地は春と秋には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・秋の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが要塞であり、毎年早くに訪れる冬将軍も侵略者を苦境に陥らせるのである。
 今日の冬将軍は戦の終わりを告げるものなのか。まぁ、知能戦であったが、向うも無駄と判断したほうが賢明だろう。馬鹿は死ななきゃ治らない。末法愚人即ち馬鹿ないし阿呆は死ななきゃ治らないのだから、馬鹿という病気が致命的になって苦しむ前に死んじまうほうが楽じゃねえのかね。



英語名言とエッセイ

気に入った英語名言を八つほど挙げよう。

1. Your only obligation in any lifetime is to be true to yourself. --- Richard Buck

2. An idle brain is the devil's shop. --- a proverb 

3. When a man points a finger at someone else, he should remember that three of his fingers are pointing at himself. --- anonymous

4. I don't pay much attention to critics. The world is divided into two kinds of people; those who can and those who criticize. --- Ronald Regan

5. The easiest thing to be in the world is to be you. The most difficult thing is to be what other people want you to be. Don't let them put you in the position. --- Leo Basiave

6. I don't have to be what you want me to be. --- Mohammed Ali

7. If you insist that I might have mental disorders, you are nothing but a blockhead. --- K. Arai

8. Being a man is hard to bear. --- Torajiro Kuruma


**************************************
英語エッセイ
1.Reading the newspaper, I hit upon a joke. I seem to be clear-headed, intelligent and brainy today. If you read it by enjoying it, I'm happy. Now I'll write the joke bellow.

Do you know why peas roll off the plate when tilted? If you don't know the reason, you must be square. I think you should smooth down the rough edges of your characters.

Some people ask us a strange question. "If you were an animal, what animal do you think you resemble?" I always answer, "I look very much like a goldfish." More often than not, they laugh out loud. I don't know why it's so hilarious. I think it deserves to be praised to investigate why the answer makes people laugh. This is a very interesting question, isn't it?


2. When I was checking web-zines as usual, I came across strange news. I'd like to believe that it is a kind of joke. This is too important and serious to be the truth. The news said,

The worst fears of triskaidekaphobics and paraskevidekatriaphobics heve been realized. A survey by a psycologist suggests that they are probably more unlucky than people who treat 13 like any other number.

***** vocabulary ******
triskaidekaphobic = a person who is afraid of the number 13
paraskevidekatriaphobic = a person who is afraid of Friday the thirteenth

Do you believe this complicated suggestion? The ability of the psychologist for making new concepts in Latin is undoubtedly amazing. As for me, I'd like to believe that the only thing to be praised is his or her peculiar ability to devise new technical terms. This theory is so sophisticated that I could'nt believe. By the way, I'm afraid of 4 and 9. What are you afraid of?


3. I heard a rumor that the mayor of Yokohama has declared "ladies' night" and says he will fine any men found out in the evening, in an attemt to encourage them to stay at home and do the chores. I've got sick of the world to hear the news. I'd like to believe the rumor is an untruth. But I might be a bit drunk tonight. Lately I often stumble on strange ideas. I'm sorry if I guess wrong.


4. I usually sit in meditation at night. When I sit in meditation, I think nothing. In other words, I'm one of the greatest and stupidest people in Japan. In eastern philosophy, naught or emptiness means formlessness. For that reason naught can embrace everything in any forms. So naught is deeper than love and ens. So when I sit in meditation, I always try to bring myself to naught, although it is difficult to do. However, with alcohol this will be always successful. I assure you. It takes long time to awake. I'm a kind of trainee monk. I know I'm not sufficiently trained. It's difficult for me to distinguish the difference between dreaming and awakiening. I always wonder whether I'm dreaming or awaking. After all I must admit I'm not trained at all. So have a good dream, everyone.



5. In 2003 British astronomers warned of a potential - but remote - threat of a newly discovered asteroid striking Earth in 11 years' time. The asteroid, called "2003 QQ47" and weighing 2.8 billion tons, could strike earth on March 21, 2014, the Leicester, English-based Near Objects Information Center, or NEO, said in a statement.

The year 1999 has passed in peace against Michel de Nostredame. I've got another headache again. I wonder if I could sleep well till March 21, 2014. The 11 years is long. How should we cope with this threat?

One of my friends said, "Are there different opinions among other astronomers? Did you worry about Nostredame's prediction? I did not. I wouldn't worry about it if I were you. Chances are rather low, I guess. Even if it does happen, what can we do about it anyway. Let's not worry about something that we have no control over. Okey?"

This is good advice. But we must admit the end of the world might be coming soon.



6. I heard every second Germany cheats on or has cheated on their partner, according to a new survey published in 2003. In Japan the rate seems to be more often than in German.

I'm lucky not to be married. I'm too old to idealize a woman and get married. But I fall in love too easily. I don't know why. I'm falling in love with the piano now. She is so cute. What kind of fool am I? But isn't it romantic? What is this thing called love? You don't know what love is. I have ears only for the piano. And I have eyes only for you. The way you look tonight..... By the way, would you mind my asking you to tell me who you are?



7. Wohin besteht der Unterschied zwischen einem Psychotiker und einem Neurotiker? Der Psychotiker denkt, dass zwai plus zwai fuenf ist. Der Neurotiker weiss, dass zwai plus zwai vier ist, aber es laesst ihm keine Ruhe.



8.They say using music as a healing medium dates back to ancient times. I don't know how they could have proved it. Anyway it is known that music therapy is effective at promoting relaxation, relieving anxiety and stress, and treating depression. Now I understand why I'm always relaxed, quite free from anxiety, completely stressless, and distantly related to mental disorders. That's because I love music. Let me show the proof. Listning to music makes me forget myself and when the music stops I come to myself. In other words to forget myself may be the secret of mental health. By listning to music I can forget myself and reality. I think music is a second cause. How do you think of this point of view? Is it a little bit sad?



9.Asteroid 2003 QQ47's Potential Earth Impact in 2014 Ruled Out

Newly discovered asteroid 2003 QQ47 has received considerable media attention over the last few days because it had a small chance of colliding with the Earth in the year 2014 and was rated a "1" on the Torino impact hazard scale, which goes from 0 to 10. The odds of collision in 2014, as estimated by JPL's Sentry impact monitoring system, peaked at 1 chance in 250,000, a result which was posted on our Impact Risk Page on Saturday, August 30. Impact events at the Torino Scale 1 level certainly merit careful monitoring by astronomers, but these events do not warrant public concern. In fact, each year several newly discovered asteroids reach Torino Scale 1 for a brief period after discovery; 2003 QQ47 is the fourth such case this year.

As astronomers continue to monitor an asteroid and measure its position, more precise predictions can be made. On September 2, new measurements of QQ47's position allowed us to narrow our prediction of its path in 2014, and thus we could rule out any Earth impact possibilities for 2014. In our Impact Risk Page for 2003 QQ47, the entry for the year 2014 has now disappeared, although a number of potential impact events remain for later years. We expect that these too will be ruled out in the coming days as astronomers continue to track the object and we refine our orbit predictions.

These seemingly large day-to-day changes in impact predictions for newly discovered asteroids are just what we expect. In the few days after an asteroid is first discovered, its orbit is known only very approximately. The range of possible positions in future years is wide and can easily encompass the Earth, but as the object continues to be tracked, the range of possibilities shrinks quickly, allowing us to rule out any possibility of impact. This process is ongoing for 2003 QQ47, and could take days or even weeks before all potential impacts are ruled out.


ブール代数&神経回路網&実験計画法の直交表
以下、a,b,c,dは0または1の値をとる論理変数とする。また、次のように基底項を定義する。
n=2(変数の数が2の場合)の時
{a b ab}
n=3(変数の数が3の場合)の時
{a b c ab ac bc abc}
n=4(変数の数が4の場合)の時
{a b c d ab ac ad bc bd cd abc abd acd bcd abcd}
このように基底項を定義すると任意のブールの論理代数の論理関数は

      基底項の線形結合+定数項(1または0)

で表される。n=2の場合の例を以下に挙げる。

論理和 A∨B=a+b-ab
論理積 A∧B=ab
排他的論理和 A●B=a+b-2ab
否定論理積 A NAND B=-ab+1
否定論理和 A NOR B=¬(A∨B)=¬A∧¬B=(1-a)(1-b)=-a-b+ab+1
含意 A⇒B=¬A∨B=(1-a)+b-(1-a)b=-a+ab+1

n=3,n=4の場合の例をいくつか挙げると

A∨B∨C=a+b+c-ab-bc-ac+abc
A∨B∨C∨D=a+b+c+d-ab-ac-ad-bc-bd-cd+abc+acd+abd+bcd-abcd

A●B●C=a+b+c-2ab-2bc-2ac+4abc
A●B●C●D=a+b+c+d-2ab-2ac-2ad-2bc-2bd-2cd+4abc+4acd+4abd+4bcd-8abcd

A∧B∧C=abc
A∧B∧C∧D=abcd

これらの表記の求め方については、次のページを参照のこと。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/kaiki.html (ブールの論理代数の多変数への拡張とその応用)

ここで、基底項について説明する。n=4の時、基底項は

{(a b c d)(ab ac ad bc bd cd)(abc acd abd bcd)(abcd)}

となる。このうち(ab ac ad bc bd cd)は4つの変数(a b c d)から二つの異なる変数を選んだ場合の数で、全部で4から2個を選ぶ場合の数4C2=4!/2!2!=6通りある。同様に(abc acd abd bcd)は4つから3つを選ぶ場合の数で4!/3!=4通りある。

論理変数と神経細胞は同じではないが、共に0,1の値をとるものと抽象化することにより、類比的に考察することができる。即ち、神経細胞も0、1の値をとると仮定することができる。様々な論理関数が

      基底項の線形結合+定数項(0または1)

で表されることが分かったが、このうち、論理変数の積の形で現れる非線形項は何を表すのであろうか。有名なヘッブの規則によれば、神経細胞どうしで同時に発火する確率が高いほど、お互いの結合が強くなる。すなわち、非線形項はヘッブの規則を表したものと考えられる。例えば、ばらばらな神経細胞a,b,c,dがあったとすると、線形項と非線形項の組み合わせにより、様々なパターンの論理関数が現れる。最初に、ばらばらな神経細胞がいくつかあった時に、学習、連合、条件付け、環境との相互作用などにより、ヘッブの規則が適用され、非線形項が変化することにより、神経細胞のアンサンブルの挙動が変化していくのである。

神経細胞の集団の挙動には、分子の集団などの運動とは異なり、ヘッブの規則が適用され、非線形項の出現により、様々なパターンが現れるようである。

逆に、神経細胞が三つあるとする。それをa,b,cで表す。a,b,c個別ではそのまま出力し、ヘッブの法則によりa,bの結合、c,bの結合、a,b,cの結合が生まれ、全体としてそれらが抑制的に働くと仮定した場合の挙動を示すためには、

      a+b+c-ab-cb-abc

の計算をすることになる。具体的には

________a__b__c__-ab_-cb__-abc_______a+b+c-ab-cb-abc
________0__0__0___0_____0______0___________________0
________0__0__1___0_____0______0___________________1
________0__1__0___0_____0______0___________________1
________0__1__1___0____-1_____0___________________1
________1__0__0___0_____0______0___________________1
________1__0__1___0_____0______0___________________2
________1__1__0__-1____0______0___________________1
________1__1__1__-1___-1____-1___________________0

のように論理関数のような挙動を示す。このように「基底項の線形結合+定数項(1または0)」が全て論理関数になるわけではない。論理関数になるためには、抑制性と興奮性の結合のバランスが必要である。

a,b,c,dなどは神経細胞ひとつの出力として考えてきたが、a,b,c,dなどには、アンサンブルとして論理関数として振舞う集団を代入することができる。例えば、論理積A∧BのAに「P⇒Q]、Bに「Q⇒P」を代入すれば、双条件と呼ばれる論理関数が現れる。すなわち、

   A∧B=ab=(P⇒Q)∧(Q⇒P)=(-p+pq+1)(-q+pq+1)=pq-pq-p-pq+pq+pq-q+pq+1=-p-q+2pq+1=P⇔Q

論理変数ではなく、神経細胞の場合も類比的に考えることが可能である。ここで、p^2=p,q^2=qとなることに注意。

次に、最も基本的な推論形式 P∧(P⇒Q)⇒Qも次のように証明できる。

   「P∧(P⇒Q)⇒Q」=1-p(1-p+pq)+p(1-p+pq)q=1-(p-p+pq)+(p-p+pq)q
               =1-pq+pq=1

となり、この推論形式は恒真式(トートロジー)になることが分かる(三段論法・肯定式)。他の推論形式も同様に計算される。



餅は餅屋、松屋は牛丼屋
 貧乏人の私は、牛丼屋で食事を済ませることが多い。豚肉は牛肉よりも、不飽和脂肪酸、ビタミンB群が多く含まれ、栄養価が高い。日本自体が貧乏だった昭和40年代までは、すき焼きでも、牛肉よりも豚肉を使うことが多かった。貧乏人でも栄養には気を付けなければならないので、牛めしよりも豚めしを食べることにしていた。最近、牛丼屋間で値下げ競争が激化して、とうとう松屋の牛めしも240円に値下げされた。豚めしよりも安い値段である。早速私も豚めしから牛めしへ注文を変更した。
 食べてみると、牛丼屋だけあって、汁の味付けは牛肉によく合っていることに気付いた。元々松屋は牛丼屋だ。餅は餅屋である。卵、野菜サラダと味噌汁付きで380円は有り難い。デフレも貧乏人にとっては福音である。
 今晩も牛めしにするしかないか。

十二音技法の特徴
 十二音技法を用いて作成した旋律に和声を付けようとすると、どうしてもドミナント7thコードが当てはまる場合が多くなる。これは十二音技法に基づく旋律が不安定感ないしは緊張感のあるものであることを意味している。通常の調性音楽ならば、ドミナント7thコードを安定なコードに解決させる(偽終止を含む)ことができるのであるが、十二音技法ではこれは不可能なことである。これが十二音技法による音楽を聴きにくい音楽にしている理由である。通常の音楽の基本的な動きである、緊張ー弛緩(ないしは不安定ー安定)の原則を満たさない音楽ができるので、どうしても緊張感や不安感だけが強調され、聞きやすい音楽が作れない。緊張感を解決させればよいのだが、十二音技法の範疇の範囲では原理的に不可能である。
 十二音技法とは人間によるランダムな自動作曲であるとも言えるので、誰にでも作曲ができる特徴がある。ただし、人に愛される作品はできないと考えてよい。このような欠点はあるにしても、人間はランダムな発想が苦手であるので、十二音技法を作曲の訓練に使うことはできると思う。調性音楽でもランダムな発想が創造性の源になっている。
 誰にでもある種の音楽を作れることを示した点で、十二音技法を考案したシェーンベルクの貢献は大きい。しかし、聴きやすい音楽への回帰という意味では、現在のところ、調性音楽に戻る以外にはないのではないかと思う。調性崩壊の代償は大きい。

脳の男女差
 男性の脳の重さが女性の脳の重さよりも重いと知った時、私は思わず「勝った!」と思ったが、イルカや象の例もあるので、脳の重さは決定打ではなさそうだ。右脳と左脳を連絡する脳梁や前交連という部分は、男性より女性のほうが大きいという。つまり、女性は右脳と左脳とで情報を男性よりも上手くやりとりし、脳全体としてのパフォーマンスを向上させ、容量を補っているらしい。分かりやすくするため、極端な式で表すと

    男脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー ー 0.06*(右脳パワー*左脳パワー)

    女脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー + 8956*(右脳パワー*左脳パワー)

くらいになっているようだ。大きく分けて言うと、右脳は感情、左脳は論理を司るので、女性がときとして見せる矛盾と不可解さも上の式で近似的に理解できるかもしれない。
 ノーベル章を受賞した根岸英一さんが、教育でも競争を重視するように提案したのも、女性を牽制してのことではなかろうか。競争に興味を示すのは女性よりも男性に多いから、競争を強調すれば、まだ男性が優位に立てるとの計算があるのではないか。それが証拠に、科学技術関連予算を巡る事業仕分けでも、「世界一じゃなくてはいけないんですか?」とふと本音を漏らした女性議員がいたではないか。いや、男である私自身も、「世界一」派ではなく「オンリーワン」派なので、世界一の連発はあまりよく分からないのだが。つまらないことでも、オンリーワンならば競わずしてナンバーワンだと思うのだが、ちと不精か。一面から見れば、あの仕分けは男性原理と女性原理の対立に見えた。
 女性の社会への進出は目覚しいものがある。その勢いで私のような人間は肩身の狭い思いをしなければならない世の中になった。一般的に言って男性が暮らしにくい世の中になったとは言えるようだ。


      伝えること
私が「私」という言葉を覚えた頃
私はまだ美しい田園風景の残っていた
東京の片隅に住んでいた
その当時の私には
私が生まれる以前から
こんなに美しい世界があったことが不思議に思えた
渾然一体となっていた世界と私が
その時に分離し
私は世界と対峙したのだ
やがて、私は気づいた
遠い昔から
この世界を先人たちが築き、守ってきたのだと
私は感謝した
ありがとう
もう、あの田園風景はもうないけれど
私も次の世代に何か残さないといけない
まだ間に合う
残っている美しい世界を
次の世代に残そう
私たちの先人たちがしてくれたように


人工無能と呼ばれても
 昔、精神科医を真似たDoctorとかElizaという人工無能(人工知能じゃなくて)のプログラムが作られたことがあり、それもかなり巧妙に作られていて、人目を避けてまで、それらのプログラムとの対話に熱中する人もいたという話です。私も計算機に知識を埋め込んで、普通の言葉で質問すると答えるようなプログラムを随分昔に作ったことがあります。知識を入れ替えると観光案内システムなどにもできました。私もこういうことには興味があって、人間よりも話しやすいシステムを作ることは意義があると思います。DoctorもElizaも、相手を理解している訳でもないので、人口無能などと揶揄されましたが、よく考えてみれば、人間だって話し相手をちゃんと理解している訳ではないと思います。これらのプログラムはかなり改良されていて、現在では人間とほとんど区別がつかないそうです。私も挑戦してみたい分野です。悩んでいる人を癒すシステムは魅力的だと思いますし、自然言語処理や人工知能などの現在の技術を使えば、可能ではないかと思います。


外見
 人間にとって、自分の外見がどのようなものであるか客観的に把握しておくのはよいことだと思う。中身で他人を判断しようとする人などいないものだ。実際、外見で判断するしかないのである。相手の中身など知りようがないのである。私は禄でもない印象を与えるようである。例えば、「口も利けない馬鹿」「子供にもなめられるタイプ」「自閉的」などと言われる。しかし、こう言ってくれる人たちとは、細くても長い付き合いになる傾向がある。最初の会社でも、人間は中身だけじゃ駄目だ、と盛んに言われた。
 しかし、どういう訳か、外見をよく見せたいと思うことはない。何故なら、自分の外見を客観的に把握しておけば、相手の嘘が見抜けるからである。お世辞や嘘ばかりの人間とまで無理して付き合いたくないと思う。外見を偽っても長続きしないし疲れるだろう。力を抜き、ありのままにいるのが一番楽である。
 どうも最近は周りに嘘つきが多くなったようであるが、気のせいであろうか。いささか疲れる。


印象に残った言葉

あらゆる経験・享楽・幸と不幸の状態に関して、私は持つ、しかし持ったということもないだろう。(アリスティポス)

現世の生活への必然的な関与に関して、あたかも関与しないかのごとく、関与せよ。(パウルス)

仕事をせよ、しかし仕事の成果を求めるなかれ。(アガヴァット・ギーター)

無為によってなせ。(老子)


バナナとトマト
 久しぶりに外へ出た。気温も平年並みに戻ったようだ。新緑が瑞々しく、五月の風が清清しい。自転車をこぎながら、何を考えるでもなく、外の風や香りや色に触れていた。
 しばらく本ばかり読んでいて疲れてしまった。本に答えが書いてあるわけではない。そもそも何を自分は問うているのかも分からない。疲れるはずだ。
 八百屋さんでバナナとトマトを買い、緑茶を自販機で買い、自宅へ戻って食べた。トマトの味を思い出した気分。mixiを覗いて、大貫妙子の曲を2曲、YouTubeで聴いていたら気持ちが良くなった。
 少し汗をかいたら、疲れがとれたようだが、もう少し休もう。いい季節になった。


室温付近で歌う有機物質
 物質に電場や磁場をかけると、物質固有の応答をする。室温付近で電荷秩序化する分子性物質について電流制御の非線形伝導を測定したところ、260K以下、約100マイクロアンペア付近で、約1kHzの電圧発振が見出された。この発振周波数は、可聴範囲にあり、印加電流と線形の関係があることを利用して、数秒間続く発振を「ちょうちょ」のメロディーに編集した。2010年の正月明けに仙台市で開かれた、新学術領域研究「分子自由度が拓く新物質科学」の第3回領域会議で、この歌う有機物質について報告したところ、「雑音が少なくて澄んだ音がしている」「有機物質らしい音がする!?」と好評であった。

以上は「化学と工業」に掲載された、東京大学物性研究所教授の森初果さんによる解説からの抜粋である。

もしかして、自然界には人知れず歌を歌っている物質があるのかも知れない。


ヤスパースの哲学入門 
 この本を愛読書としてから40年以上になる。最初は何が書いてあるか分からなかった。30代の頃には内容空疎に思えたこともあった。しかしこの本はまるで鏡のように自分の姿を映してくれるようなのだ。
 この本から何らかの知識を得ようとするならば、得られるものは何もないのかも知れない。何故ならこの本は読者を哲学的信仰に導く本だからだと思う。この本を読んで変化するのは私の「知」ではなく、私の「意識」なのである。宗教の本ではないが、神と実存とを巡る点で、信仰に関する本なのである。哲学の本を読んでも良く理解できないことがあるのは、知識が書かれているのではなく、読者を内省に導いて、意識の変革を齎すことを言外に要求しているからだろう。
 私の人生は世俗的な幸福や成功とは無縁のものであった。しかし、この本の表現を借りれば、私も神の手の内にあったと言える。今振り返って見れば、不可思議なことに導かれながら、精神的にはいくつかのささやかな発見があった。音楽の秘密や数学に関することなど、それは他の人に伝えるには難しいものと分かっていても、いつか伝わるものとの希望は持っている。あらゆるものは伝達への欲求を持っているようだ。
 確かに私は世俗的に見れば不幸だろう。しかし、この本は信仰に関する本として、読むたびに私を強く勇気付けてくれる。キリスト教徒が聖書を大切にするように、私もこの本を大切にして、いつもポケットに入れて歩いている。この本は、読むたびに違って見える。いや、実際に変化しているのは自分のほうなのだが、人間とは相手が変化すると錯覚するものらしい。信仰を持つ人間とは、弱弱しく不幸で恵まれないように見えても、実際は強いもののようだ。
 確信はないが、私も信仰を持っているのかも知れない。孤独にあっても、共にいる存在が感じられるのだから。


映画「愛情物語」
 原題は「エディーデューチン物語」である。エディデューチンはピアニストであったが、私は彼の演奏を聴いたことはない。映画の中での演奏はカーメンキャバレロによるものである。

明るい雰囲気と、前半のエディ(タイロンパワー)とマージョリー(キムノヴァク)のカーメンキャバレロのロマンティックなピアノをバックにしたデートシーンは恋愛映画を予感させるのであるが、マージョリーが風を恐れる場面から、やがて、この映画は愛と死と人生の残酷さをテーマにしていることが明らかになってくる。

エディの「人生は残酷なものだ。」という科白はそれをよく表している。

マージョリーという伴侶を獲得したエディはピーターという子供をもうけた直後にマージョリーは死んでしまう。やがてエディは「エディーデューチン・オーケストラ」を率いて成功を収めるが、すぐに余命いくばくもない病魔に冒される。二度の華やかな成功を「死」に奪われてしまうという、そのままではあまりに残酷なストーリーである。

マージョリーを奪われたようで、無意識にピーターを遠ざけていたエディも、ピーターと父親として和解するが、自分の死をピーターに告げるシーンは切ない。この場面でも風が不安をあおるように吹き荒れる。

ピーターの乳母をしていたチキータ(ビクトリアショー)は死期の間近いことを知りながら、エディと結婚することを決意し告白するところは、救いではあっても残酷なシーンである。しかし、美しい。

エディとピーターが自宅でピアノの競演(ショパンのノクターンE♭)をするが、エディに発作が起こり、チキータがショックを受けた表情をするが、突然エディは画面から消え、ピーターが演奏を続け、チキータが穏やかな表情で聞き入る場面で映画は終わる。神話的な終わり方である。

ストーリーは当に悲劇的である。救いは何かとといえば、カーメンキャバレロのロマンティックなピアノ演奏と、マージョリーとチキータの女性としての魅力であろう。女性がいかにも女性らしかった古きよき時代がよく表れている。この二つの要素がこの映画のストーリーの悲劇性をやわらげ、観る者を感動に誘ってくれるのである。

私もこの映画にでてくる「マンハッタン」という曲が好きでよくひとりで弾くのは、この映画の影響である。私にはこの曲が一番ロマンティックに聴こえるからである。

人生は残酷である反面、素晴らしいものにも出会えることを教えてくれる映画である。

古い映画ですが、皆さんにもお勧めします。


グローバル化とデフレ
 グローバル化とは、物価やその他の経済諸指標の世界的規模での平均化を齎すものなのだろう。事実、国際競争の激しい電気製品などの内外価格差は縮小の一途を辿り、パソコンなどの価格は更に下落する傾向がある。これは生産技術の向上によるものではなく、経済のグローバル化に基づく国際間の平均化現象であり、日本ではデフレの一因になっており、その他発展中の新興国ではインフレ要因になる。農産物などの自由化は、農産物価格の下落を齎し、更なるデフレ要因となるだろう。相対的に物価や人件費が高い日本では、グローバル化はデフレ要因にしかならない。パソコンやDVDなどを日本で生産しても無駄に見えるのは、グローバル化した経済での日本ではすぐに価格が下がってしまい、利潤を生まないからだろう。しかもグローバル化の流れには逆らえない。内需に期待しても、物が溢れかえっており、いくら資金を市場に投入しても、需要に繋がらず、デフレのままである。
 グローバル化の流れは熱力学の法則に従っているように思える。エントロピーの増大にしか見えない世界の均質化に秩序と区分を齎すためには、世界規模の仕組みが必要になってきたのだろう。それは可能だろうか。自由化だけでは無理なのではないだろうか。


数学と音楽
  時々、数学者や理系の人が、音楽について文章にしているのを見かけるときがあるが、それらを読んで、正直に言って、音楽を支配している数学は無いのだろうな、という印象を抱くことが多い。和音や音階の構造ならば、数学的に表現できるが、音楽作品となると分析は難しい。数学者というのは、対称性のあるもの、単純で美しい構造を持つもの、きちんと対応のとれるもの、などに興味を持つもののようだ。それに対して音楽は意外と複雑だ。
 私も数学が好きで、最近も結城浩という人が書いた「数学ガール」「数学ガール(フェルマーの最終定理)」「数学ガール(ゲーデルの不完全性定理)」を手に入れた。小説風の読み物であるが、大学の教養学部程度の数学の知識がないと理解できない内容である。登場人物は高校生で、私個人としては、自分が高校生であった時を思い出させてくれて懐かしい気分になる。高校時代に持っていた旺文社の数学の参考書には大学レベルの数学が書かれていて、夢中になって読んだ記憶がある。若い頃に出会った数学や物理学で使われる言葉は、神秘的で謎に包まれている感じがして、とても惹かれるものがあった。大学では化学関係を専攻したが、実験と事実重視の化学は、今でもあまり好きになれないところがある。想像力豊かな世界ではないからだ。豊かな想像力も、実験重視の化学の世界では、現実に道を譲らなくてなならない。想像力を発揮できる、数学、理論物理、音楽などの世界のほうが自分に合っているようだ。脳科学などの本を読んでいても、神経回路の数理モデルなどに関心が行ってしまう。文系の本も意外と好きだ。
 昔はレコード屋さんに行くと、楽譜などのほかに、理論書が置かれていることが多かった。理屈っぽい本には、ジャズ系の教則本が多かった。こういった本も最近は見かけなくなってしまった。そうした本の影響を受けた私としては残念な気がする。音楽も理屈が大事と思う。
 いい歳をして、数学、音楽、物理学とは、私も歳をとれない人間だなとつくづく思ってしまう。三つ子の魂、百までだろうか。


ホットケーキ
 ヤマサキのホットケーキサンド(メープル&マーガリン)(110円)を買ってみた。懐かしい味がした。
 子供の頃、両親は外出すると必ず外食に連れていってくれた。外出して外で食事をしないことはなかった。大抵、ペコちゃんで有名な不二家に行くことが多かった。「あっ、ペコちゃんだ」と言うと、不二家の中に連れていってくれた。私の注文は決まってホットケーキ。ホットケーキ2枚にシロップとバターが付いていた。暖かいホットケーキの上にバターを塗ってシロップをかける。それをナイフで切ってフォークで食べる。懐かしいはずだ。あの当時の味だ。
 小さな子供がナイフとファークを器用に操るので、親戚も面白がった。
 もう、あの頃には戻れないけど、また食べてみたいのが暖かな本物のホットケーキだ。


日々の日課
 今日、ドアを開けると、花のような甘い香りが漂っていた。緑の香りも清清しい。いつも通り、自転車に乗って、川崎方面に出かけた。途中でコンビニによって、菓子パンと緑茶を買った。ゆっくりと自電車を一時間ばかり漕ぐのが日課になった。もう、一年くらいになるだろうか。これも効果があって、最近は疲れにくくなった。軽度の運動は気持ちが良いし、健康にも良い。
 家に戻って、情報処理関係の事典数冊を少しずつ読んだ。これも日課だ。継続は力なりと思っている。次に、ギロックの小曲をMIDIファイルに落とし、コード名を楽譜に書き込んでゆく。作曲技法を盗む。ギロックの曲はジャズの要素が多いので、少なくとも私には分かりやすい。半音下降の旋律や7度、9度、2度の響きがジャズっぽく、綺麗な曲が多い。ギロックのことは最近知った。
 ラベル、ドビュッシー、ガーシュイン、ルロイアンダーソンなどにも興味がある。楽譜を分析するつもりだ。ジャズのスタンダードナンバー集もコード名が記されているので参考になる。
 その後は好きな本を読むことにしている。「数学ガール」第4弾「乱択アルゴリズム」を最近買ってしまった。「確率とコンピュータの深くて不思議な関係とは?」とある。疲れそうだが勉強になりそう。この本、ソフトバンクの出版である。Lispの修行も欠かさない。
 高度なことをしているわけではないが、適度な作業は精神衛生上も好ましいのだろう。最近は調子が良い。


お弁当の重み
東北地方太平洋沖地震により被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。(2011/03/11)

被災地の皆さまに比べれば比較になりませんが、首都圏に住む私も、いろいろと不安を感じました。いつも、コンビニのお世話になっているのですが、地震から2−3日経った頃から、コンビニから食料品が消え、一人暮らしをしている私は少なからず不安を感じました。恥ずかしながら、私はいろいろな店を回り、レトルト食品、カップ麺などを買い占めてしまいました。と言っても2週間分ほどでしたが。

昔、石油ショックの折に、トイレットペーパーの買いあさりがあって以来、日本の国で、商店から品物が消えるという経験は40年以上していません。正直に言って、コンビニやスーパーで空になった棚を見るのはショックでした。おそらく、初めての経験の人たちが圧倒的に多かったと思います。多くの人たちが不安感から買占めに走ったのはある意味、仕方がなかったと思います。なにしろ、多くの人たちにとって初めての経験なのですから。

日頃、コンビニで何気なく買っているお弁当やパンも、多くの人たちのお陰を負っていることを痛感しました。店員さん、物流に携わる人、お弁当を作る工場の人たち、食材を提供する人たち、etc。多くの人たちのお陰で食料品が買えるのです。不安を顧客に与えないような配慮も感じました。

こう考えると、お弁当の重みというか値段は、本当はもっと重いものに思えました。

本日(2011/03/19)、久しぶりに自転車で街に出ましたが、大分落ち着いてきた感じがします。ガソリンスタンドも営業していましたし、コンビニの品揃えも回復してきています。

商品が消えるということは本当に怖いことで、不安を感じさせるものだと思いました。被災地の皆さまの不安は、察するに余りあるものと思いました。早く、全てが元に戻ることを願っています。何事もないことの有り難さを改めて強く感じさせられた一週間でした。


現在・過去・未来
 「愚人は過去を語り、賢人は現在を語り、狂人は未来を語る」と誰かが言ったそうである。しかし、歴史は繰り返す。三歩歩んで事を忘るる、では鶏と同じである。現実を言えば、過去(記憶)を参照し、未来を期待、予測をしながら、現在を行為・認識すると言うのが、人間の在り方だろう。過去を語る人は賢く、用心深いというのが真相だろう。現在・過去・未来が実体的に存在するのではなく、この三者と意識が密接に絡みあって、人間の認識に影響を及ぼすというのが実相だろう。
 狂気とはこの三者を実体視し、一つしか認めないことではないか。過去・未来を無視して現在にだけ生きることは、宗教的境地とは言えるだろうが、日常生活ではこのような境地を離れる必要がある。さもなければ、生活に支障を来たすだろう。
 人間を行動主義的な刺激・反応図式で捉えないためにも、このような考え方が必要である。人間が他の動物と違う点である。過去から学び、過去の新たな意味を常々見出して行き、現在を賢く生きることこそ、よりよい未来の条件である。


アキレスと亀の関係妄想
 ゼノンが考えだした「アキレスと亀のパラドックス」の話は中学生でも知っていることである。この問題は無限級数や対角線論法を持ち出して説明されることが多い。
 現実にはアキレスは亀に追いつけるが、ゼノンの説明ではアキレスは亀に追いつけないという矛盾が生じているのだが、数学ではなく、物理的に考えてみると、アキレスと亀の運動は互いに無関係で独立であるので、アキレスは亀を追い抜くというのが現実である。では、パラドックスはどうして生じたのであろうか。これはゼノンがアキレスと亀の運動という、現実には関係ないもの同士を、無理に(数学的に)関係付けて論じているからに過ぎない。関係ないものを関係付けて論じることによって矛盾が生じているに過ぎない。パラドックスでもなんでもない。
 関係付けるという思考形式は現実によく見られるものである。この時に、関係がある場合もあるが、現実には関係ない場合もある。後者の場合は関係妄想となり、矛盾を生む。自然科学であれば実験で確かめることもできようが、日常の人間の心理を扱う場合には簡単には調べることはできない。
 関係付けるという思考形式に対しては、よくよく注意すべきである。さもなくば怖いことにもなりそうである。我々は、ものごと同士が関係あるかどうか知り得ないことが多いのではないか。矛盾にも気付かないのではないか。短絡は禁物である。
 この問題は人工知能における記号接地問題とも関係するようだ。



 鈴木大拙の「禅学入門」を流し読みしていたが、禅が人間を論理、言葉(概念)から自由にするものだとしても、その非論理性を支えているものは、日常言語であり、通常の論理であるのではないかという思いを強くした。そうでなければ、そもそも、日常のコミュニケーションも不可能だろう。
 禅とは青い鳥を探している人間に、幸福や真実が遠いところにあるのではなく、足元の日常の生活にあることを教えるものだ。日常の経験や生活を丁寧に味合うことを教えるものだ。公案は難しいので、深遠な理論があるのだろうと錯覚するが、そのようなものはないようだ。
 母は早食いの私に、よく味わって食べるように諭したものだ。これも禅である。父は時折、私に禅問答もどきの問いを発し、私を黙らせた。これも禅である。
 曇天の梅雨の日に、紫陽花の花は鮮やかに咲く。しかし、紫陽花と気付く前に、その花は何であったか。現象学との関係は如何。


ライプニッツの夢と音楽
 ライプニッツはホッブスの「思考するとは計算することである」というテーゼを発展させ、「思考のアルファベット」たる少数の基礎概念から、計算という記号操作によって全ての真理を演繹的に構築しようという壮大な構想を抱いていた。つまり、それは、記号体系が特に上手く作られたならば、記号間の関係や秩序が、事物間の関係や秩序に対応するという発想に基づいており、記号の側の操作だけで事物や事象の知識に到達しようというものだった。(ライプニッツの普遍記号学)
 私は人工知能の対象として音楽を選んでいるので、遊びと思われても仕方がないが、音楽という分野は古典的な人工知能の応用分野だと思う。ライプニッツにおける自動機械、計算主義、記号主義、形式主義の考え方は人工知能に大きな影響を与えた。ライプニッツの普遍記号学を音楽に当てはめれば、私がやっているような、音楽関連システムになるのは自明である。
 ライプニッツには高校の微積分でお世話になったが、音楽でも、基本的な考え方ではお世話になっているようだ。
 音楽は遊びでできるものではない。人工知能や普遍記号学と密接に関係していることを理解して頂けたら幸いである。


("CM7" ion)の意味について
 単なるデータと知識とはどう違うのだろうか。何故、私は自分の音楽関連システムを知識システムと呼ぶのか。音楽を作る場合、自動作曲であろうと自分で作曲する場合であろうと、知識が必要である。例えば、コードネーム CM7 が表す構成音などは知識と言うよりもデータに近く、いくらこのようなデータを集めても、音楽を作ることはできない。知識とはデータを整理して、データ同士の関係を定めたものである。
 ("CM7" ion)という表記は、一般には C ionian と表記されることが多い。この表記から CM7がハ長調のトニックであり、適用されるコードスケールは C(ド)から始まる ionian (つまり、ドレミファソラシド)であることを計算機に理解させることができる。注意すべきことは、人間が理解するのではなく、計算機が理解するということである。人間であれば、C ionian と表記されていれば、使われるコードは CM7 C69 C6 C などであることは、慣れれば分かることなのであるが、これを計算機に判断させる手続きは複雑になるので、私は("CM7" ion)という表記を用いている。("CM7" ion)という表記は知識を表しているのである。また、CM7の場合、可能なコードとコードスケールの組み合わせは("CM7" ion) ("CM7" lyd)の2通りしかないことも知られている。("CM7" dor)とか("CM7" alt)などはあり得ない。また、("CM" ion)と表記されていれば、USTは G Am Emであることも計算機に理解させることができる。またテンションノートがレとラであることも表現できる。
 例えば、5小節に亘る("Em7" phr)("A7" hmp5)("Dm7" dor) ("G7" alt)("CM7" ion)はより具体的に次のような表記と考えてもよいが、簡潔でない。
  (コード:Em7(ミソシレ)、コードスケール:phr(ミファソラシドレミ))
  (コード:A7(ラ#ドミソ)、コードスケール:hmp5(ラ♭シ#ドレミファソラ))
  (コード:Dm7(レファラド)、コードスケール:dor(レミファソラシドレ))
  (コード:G7(ソシレファ)、コードスケール:alt(ソ♭ラ♭シシ♭レ♭ミファソ))
  (コード:CM7(ドミソシ)、コードスケール:ion(ドレミファソラシド))
このような表記から、人間の持つ暗黙知ないしヒューリスティックスによって、メロディーを生成させることが可能である。このような組み合わせも(音楽)知識と考えてよく、様々な歌曲(主にジャズ)の構造がこのような組み合わせで表現されることが知られている。
 このように、私の音楽関連システムは自然言語ではなく、記号によって知識表現を行っているので、分かりにくいのかも知れないが、一種のエキスパートシステムになっているのである。音楽知識をコード名とコードスケール名の組み合わせで整理するのにはかなりの時間を要した。


囲碁と酒
 子供の頃、父はよく将棋の相手をしてくれた。決まって、棒銀で攻めてきて、私は防戦一方で、いくらやっても適わなかった。囲碁も教えてくれたが、私にはよく分からなかった。就職し立ての頃、私の給料はほとんど酒代に消えた。こんな私の親とは信じられないのであるが、父は酒一滴も飲めない体質であった。囲碁と酒に関しては父と私はすれ違いであった。若い頃、囲碁の本を買って帰った私に、教えてやるからと言っていたが、私のほうは乗り気になれなかった。酒はともかく、私も囲碁を本気でやっていたなら、父の相手をできたのだろうなと思うと残念である。また父が酒を飲めたら、親子関係も随分違っていたと思う。
 最近まで父は電話をよくくれた。決まって、俺は大丈夫だ、お前の方はどうだ、と言う内容だった。だから、私は父が元気だと思っていた。先日は夜の11時半に電話をくれた。入院先の病院からだった。それが最後のメッセージになりそうなのだ。今日、病院に行ったところ、治療法がもうないのだそうだ。安定剤と薬で父はほとんど寝ているばかりになってしまった。一昨日行った時には起きていたが、機嫌悪そうだった。夜の11時半とはその夜のことだった。私がまた行くからと言ったら、安心したように電話を切った。本当にその時の声が最後に聞く声になってしまったようなのだ。
 最後に私の一人住まいの家に来た時は、父はなんとトイレの掃除をして帰った。囲碁以外に何も関心のない父であったが、日常では極めて几帳面で、だらしのない私を叱った。偉そうなことを言う前に、当たり前のことができる人間になれ、というメッセージのようだった。
 あとどれだけ生きてくれるのかわからない。目を覚ましてくれるかもわからない。しかし、これからしばらく、病院通いをするつもりだ。
 父が酒を飲めたら、そして私も囲碁の相手ができていたなら、と思うと残念でならない。父と酒を酌み交わしたかった。
 子供が頑張るのは親のためだ。それが親孝行だ。私は勉強でも仕事でも頑張ってきたとは到底言えない親不孝ものだ。本当に後悔先に立たずとなってしまった。


信仰ということ
エレミヤが、自分が永い生涯をかけて築いたものがすべて滅び去ったのを見たとき、彼の国と民が失われたとき、エジプトにおいて彼の民として最後まで残ったものたちさえも、もはやエホヴァを信じなくなって、イシスに捧げたとき、そして彼の弟子バルクが絶望のあまり『我は嘆きて疲れ、安きを得ず』と語ったとき、彼は『見よ、われ我が建てしところのものをこぼち、わが植えしところのものを抜かん、汝おのれのために大いなることを求むるか、これを求むるなかれ』と答えたのであります。(ヤスパースの哲学入門より)
 いっさいのものは神によって無から創造されたものであって、いっさいは神の手の中に存する。いっさいのものが失われたときただ一つのことがあとに残る。それは神が存在する、ということである。この世界において一個の生活が、神の手に導かれて最善の努力を試み、しかもなお挫折したとしても、神が存在するという一つの驚くべき事実があとにに残る。エレミヤの言葉はまことに厳しい言葉である。それはもはやこの世における歴史的な活動意欲と結びついたものではない。しかしこのような活動意欲は私たちの生ける証として先行し、そして最後に徹底的な挫折においてはじめてこのような意味を可能ならしめる。エレミヤの言葉は率直で、汲み尽くすことのできない真理を含んでいる。それはこの言葉が言い表される内容と、この世に対する執着を全て放棄しているなればこそである。
 世の中には、神も仏もあったものか、というようなことがたびたび起きるが、業や因縁を持ち出す仏教などと異なり、全て神の思し召しと見なし、それを受け入れるのが、キリスト教の特徴のようである。業や因縁といった概念も、人間の小賢しい浅知恵に過ぎないのではないか。
 最近は何故か、キリスト教に惹かれるようになった。


アップルとタッチパネル
 アップルのスティーヴゥ・ジョブ氏が亡くなったが、アップルと言えば、1980年代に既に、将来、キーボードとマウスに代わるインターフェースに置き換えると公表していた。当時の私は音声認識装置でも開発するのかと思っていたが、タッチパネルに落ち着いたようだ。当時の上司もヒューマン・インターフェースをやらなければならないと言っていたが、笛吹けど踊らずであった。
 今後はタッチパネルに代わるヒューマン・インターフェースが登場するのか、それがどんなものになるのか、興味深い。


哲学とは何か
哲学を哲学たらしめているのは、その考察対象にあるのではなく、考察という行為そのものにあると思います。また、哲学というものは「勉強の対象」になるものではなく、哲学せざるを得ない状況に追い込まれることによって生ずる人間の考察という行為にあると思います。大塚さんの挙げた、ソクラテスの「汝自身を知れ」、デカルトの「コギト」、カントの「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」、といったものは全て、客観的成果ではなく、彼らを哲学という「行為」に駆り立てたきっかけであったと思います。

私は大学では化学を専攻し、最初の会社で送変電システムの仕事をし、次の会社で、人工知能の研究をし、個人的に音楽の研究などをしてきました。私は哲学の研究をしてきたわけではありませんが、個別科学の分野でも、行き詰ると、誰かに頼らずに考えざるを得ない状況に陥ります。その考察結果は個別科学分野に属することになるにしても、考察という行為は、あくまで哲学的なものになると思います。従って、哲学を「やむを得ぬ状況から、誰にも頼らずに自分で考えること」と個人的には考えていますが、このような行為は子供を含む万人に見られる行為と思います。

従って、哲学するという行為は、万人に開かれたものですが、その結果が面白いかつまらないかによって、他者によって評価されるに過ぎないと思います。哲学せざるを得ない状況に追い込まれないような人はむしろ珍しいと思います。

哲学とは知識ではなく、あくまで行為であると考えます。


恋とは何でしょう
 これはジャズのスタンダード・ナンバー「What is this thing called love?」の日本語名である。これを英日機械翻訳で試してみると、
  「愛と呼ばれるこのことは、何ですか」
と出てくる。逆に「恋とは何でしょう?」を日英機械翻訳してみると
  「What is love?」
と出てくる。
 
 次に、英語をいろいろ意訳して試してみた。
「この恋ってやつは何でしょう」
   In this love, what is the guy?
「この恋と呼ばれるものは何でしょう」
   What is the one that is called this love?
「恋と呼ばれるものは何でしょう」
   What is the one that is called love?
「この今の恋心は何なのだろう」
   What is this current love?
「愛と呼ばれるこのことは、何ですか」
   What is this that is called love?

いやはや、まだまだ機械翻訳システムは実用レベルからは程遠いようだ。


計算
 もう20年も前に出版された、数学セミナー増刊(1990)「先端技術と数理科学の対話」(森正武、藤井宏編)を読み返してみた。フォン・ノイマンは、非線形問題、乱流、量子力学、多体系を計算機を使って解くことを夢見ていたそうである。「科学者は、基礎方程式がわかっている現象に対してさえも、そのふるまいを観察するために高価で面倒な実験を繰り返している」と言ったそうである。全体としては、スーパーコンピューターを用いたシミュレーションについての話である。高温超伝導、生体科学、ニューロコンピューティング、デバイスシュミレーション、流体力学などの話題があった。高温超伝導に関してはシミュレーション自体不可能なようである。全体として物理の基本方程式から複雑な現象を再現するのには非常に大きな困難を伴うようである。
 先端技術ではないけれども、私も大型変圧器の乾燥工程のシミュレーションをしたことがある。熱伝導と水蒸気拡散を組み合わせて、差分法によって計算したが、いろいな係数が分からず、現実の現象を再現させることはできなかった。
 1950年代にHodgkinとHuxleyはヤリイカの巨大軸索を用いた生理学的実験による神経の振る舞いを非線形微分方程式モデルで説明しノーベル賞を受賞している。認知科学や人工知能では人間の脳の振る舞いに関心があるので、脳の神経回路網も、このような神経の振る舞いから説明しようとする。脳の神経回路網の振る舞いを一つ一つの神経細胞の振る舞いに帰することは不可能なようで、考え付かれたのがよく知られている、ニューラルネットワークである。しかし、人工のニューラルネットワークと脳の神経回路網と間には飛躍がある。さらに人工知能での記号計算とニューラルネットワークとの間には飛躍がある。これらの飛躍は計算機の計算量爆発を避けるために行われると見ることができる。実際の人間の脳では、このような飛躍はなく、個々の神経細胞の振る舞いから記号処理まで連続につながっているようである。これは驚異である。初期の人工知能の成功は人間の脳の記号処理という表層だけを利用したことによるが、記号処理でも計算量の爆発が起こりうることがわかっている。物質と生命の間には埋められないギャップがあるが、現実には生物は存在する。これも驚異である。認知科学や人工知能はこれらの飛躍やギャップを埋められるだろうか。考えただけで疲れる思いである。
 これは想像であるが、人間の脳というのは、一種のシミュレーターで、対象を計算によって再構成していると見ることができる。これは哲学的には異論がないと思う。認知科学や人工知能の細かい議論はよく分からないが、大雑把な捉え方はこれでよいと思う。ただし、人間に意識できるのは、言語という記号の側面だけのようである。言語がすべてであるという主張ももっともである。化学、生化学、生物学は言語学に近いと思うことがある。数学や物理も記号学であろう。言語や記号として表現されて初めて社会的なものになる。文系と理系の差はない。
 人間の脳というシミュレーターは素晴らしいもので、スーパーコンピューターでシミュレーションできないことも実現しているのが現実だろう。
 なんだかよく分からなくなってきたが、また考えてみよう。今日はこのへんで。


ストア学派
 ストア学派のエピクテートスは、『哲学の起源は、自己の弱さと無力を認めることである』と言っている。どうしたら私の無力は救われるか、という問いに対しては彼は次のように答えているー私の力に及ばないことはすべて、私にとって無関係なこととして、その必然性においてながめる。それに反して私に関係のある事柄、すなわち私の表彰の仕方や内容は、これを思惟にとって明晰にし、自由にする、と。
 少なくとも、今の私にとって関係のあると思われる事柄は、音楽(作編曲や演奏)、ソフト(LispやJava)、数学や物理学、読書などである。これらを明晰にし、自由にすることは難しいが、ストア学派の忠告に従って、努力していきたいと思っている。
 本当に、私はつくづくストイックな生活をしているものだと思う。


卵とコレステロールの人体実験
 卵を多く食べるとコレステロールが増えると言われているが、私の場合、一日に2〜3個の卵を食べていても、コレステロールが増えるということはない。これは定期的に血液検査をしているので分かることなのであるが。卵に含まれるコレステロールは、人間の体内のコレステロールと異なるので、多く食べてもコレステロールが増える心配はしなくても良いようだ。
 卵は安価な完全栄養食品である。必須アミノ酸も全て含まれている。貧乏人にとってこれ程有り難い食べ物はない。皆さんもコレステロールを心配しないで卵を食べましょう。これは貧乏人にとって福音と言えよう。自分自身で実験したので、私自身は安心して卵を毎日沢山食べるつもりだ。但し、個人差があるかどうかは分からない。皆さんも自分で実験してみて下さい。宜しければ、結果を教えて下さい。
 卵ファンより。


ロールシャッハのひげ
 最初の会社に入社したての頃、私は口ひげを蓄えたことがある。当時(1980年代)としては余程目立ったらしく、周りの人からいろいろなことを言われた。

部長「皆が怖がっている。剃りなさい。いつ反省するのかと思っていた。」
課長「自信があるなら、生やしていなさい。」
先輩「荒井さん、ひげが似合うな」
女性「同期でひとりだけ、お髭。素敵。」
同期「カッコいい。」
馬鹿「卑猥だ。」
馬鹿「ヒットラーみたいだ。」
同僚「気分の問題だろうな。気が変われば剃るさ。」
工場医「なんでひげを生やしているのか知りたいの。」

こんなものだったろうか。本当に人間とは他人に対しては何を言い出すやら分かったものではないが、それらを分析する価値はあるかも知れない。あなたなら、上の反応をどう分析します?

まぁ、目立つことはしないほうがよさそうだとは言えそうだが、ひげが濃い私は、生やしたり、剃ったりして楽しんでいるのが実情だ。

真相を言えば、ビル・エヴァンスのアルバムに口ひげを蓄えた彼の写真が載っていて、カッコよいと思い、いつか口ひげを生やしたいと思っていました。


雪と靴
 今日は事情があって雪の中を歩き回らなければならなかった。2年ほど前に1000円で買った靴はもうよれよれで、防水加工も施されていないので、雪水が浸み込み、流石に足が冷たくなった。仕方なく、途中で靴を買うことにした。奮発して7800円の靴を買った。これは流石に1000円の靴に比べると履き心地も良いし、歩きやすい。
 しばらくして公園の近くまで来た。晴れの日ならば冬の陽の下で中高年の人たちが日向ぼっこをしているのであるが、雪の降る今日は、大人は見当たらず、子供たちが大勢遊んでいた。雪への子供たちの想いは、昔も今も変わらないようだ。子供たちは嬉しそうに、この寒い中を遊んでいた。
 1000円の靴も随分くたびれてしまったが、もう少し偶には履けそうなので、ビニール袋に入れて家に持ち帰った。昔から何故か使い慣れた物を捨てると寂しい想いがするのである。家の靴箱もまた少し賑やかになった。次はサンダルでも買おうかな。


ピアノと将棋
 ここ数日久しぶりにピアノの練習をしている。しばらく弾いていなかったので昨日までは指が動かなかったが、今日は暖かいせいか、指がよく動く。
 最初にスケールの練習をする。頭では忘れているスケールも体が覚えているようだ。久しぶりなのにスムーズに弾ける。phrygian,Hmp5,dorian,alterdのスケールを全調で練習する。この後、自作の練習曲を弾く。この間、訳30分。その後、指ならしに自作曲を2曲弾く。
 大分指が動くようなので、「星に願いを」を編曲しながら即興で弾いてみた。割といい感じの編曲ができた。次に「Day by Day」「ブルーレディに赤いバラ」「All of me」「My One And Only Love」を弾いた。久しぶりなのでスムーズには行かないところもあるが、なんとかこなした。
 最近は少し刺激のある生活をしているので、やる気がでてきた。今日も良いことがあった。ご馳走してもらった。曲も一曲できたので、後日Midiファイルにするつもりである。
 また毎日ピアノの練習や作編曲をしようと思う。関係ないが将棋の勉強も始めた。インターネットと実戦で勉強中である。私は勝負事には向いていないが、頭を鍛えるのも大切と思う。将棋は結構頭を使う。音楽にもいい影響があるかもしれない。
 新しい生活とピアノと将棋と、私の生活にも張りがでてきた。まさしく春だ。


父の訪問 
 本日11月28日に父が私の家へ来てくれた。母の月命日である。
 冬用の洋服を持ってきてくれた。父とは事情があって同居していない。病弱の父のことが心配であるが、本人の事情があるので仕方がない。父はもう囲碁をやらないようである。
 父ももうすぐ80歳である。元気を取り戻して長生きして欲しい。とぼとぼ自転車で去っていく父を見て、私は寂しく、悲しくなった。


他人の言っているこそ正しい
mixiで私のマイミクの一人の信条に驚いた経験がある。その人の言うことには、

「私の言うことが間違っているのであり、他人の言うことは無条件かつ絶対的に正しい。」

のだそうである。この命題の真偽はともかく、私自身の読書に対する姿勢は、この命題に沿っている。そうでなければ、読書などできないし、する意味もない。

この私という主観に汚されない純粋な他者への歓待とも言うべきこの立場は興味深いのではないか。


人間何のために生きるのか? 
 本を読んでばかりいる私に、「そんなに本を読んで勉強しても仕方ないと思うよ。」と忠告(?)してくれる人がいた。こういう質問を突き詰めると、「人間は何のために生きるのか?」という疑問に行きつくのだが、私の意見では、いかなる人間もこの質問に答える義務も責任もないと思う。神によるにせよ、因縁によるにせよ、私の存在に関しては、私には責任がないからである。従って、真剣に考える質問ではないと思う。
 なぜ本ばかり読んでいるかに関しては、自分としては、面白いからとしか言いようがない。読書というものは、読書するほど面白さが増すものだとしか、個人的には言い様がない。身近にゲーム中毒で、ゲームに熱中して生活も乱れてしまっている青年がいるが、これはマズイと思いながらも、適切な助言はできないし、言う権利もないと思うのも本音である。馬鹿げたことと他人には思われることでも、本人が面白ければ、犯罪でもない限り、とやかく言えないはずである。まことに幸福を追求する権利として愚行権と呼ばれる権利が憲法で保障されているのは深いことだと思う。読書とゲームとどちらが価値があるかという問題にも決着はつかないはずである。私としては、何もしないよりも、何かをまずやってみて、そのことの面白さを発見することには意義があるように思われる。それが馬鹿げたことであろうとも意義があると思われる。時にはやることのレパートリーを増やすことが、現在はまり込んでしまっている中毒症状から逃れる手立てにはなるとは思う。
 「人間は何のために生きるのか?」という質問に対しては、「とりあえず生きてみるべし。」というのが私の答えである。死を問われた孔子が、「生を知らない私がどうして死を語れよう。」と答えた真意もそこにあると思う。とりあえず生きてみれば、「生きる意味」以外の、面白い答えが見つかるはずである。そして、その答えは各人各様なのだろう。


五月の緑と赤いカーディガン 
 今年(2012年)の五月連休の最終日(5月6日)に、いつも通り、午前8時きっかりに、川崎方面に向かって自転車を漕いできた。五月の風が清清しく、上着を着ていても、気持ちが良かった。緑の植物が発する香りも清清しく気持ちが良い。
 そうだ、これは40年ほど前の、あの日と同じような感じの日だ。大学の教養学部のキャンパスはウッソウとした緑に覆われていた。大学入学直後の私は、いつも通り、学内の掲示板を覘きに行った。そこに現れた赤いカーディガンを着た美少女に出会ってハッとした思い出がある。もう、どんな顔だったかも覚えていないのだが、そのちょっと切ない思いは今でも心に残っている。長い間、彼女の面影をキャンパスに探すような日々が続き、勉学にも上の空であった。結局その少女とは二度と巡りあうことはなかったが、それが祟ってか、最低の成績で、誰でも進学できた工業化学科へ進学することになってしまった。物理学者志望の動機も恋には勝てなかった。
 そんな恋心を今まで何度経験したことだろう。結局、どの恋心も実ることはなかった。悲劇を繰り返すような人生であったが、精神的には、多くの経験を豊かにした思いがする。
 工業化学科を出ても、結局、専門知識を使う機会はなく、専門外の分野を渉り歩いてきたため、世俗的幸福を求める余裕など無かったが、勉強する習慣だけは身についたようだ。これは幸か不幸か分からない。あの赤いカーディガンの美少女と目出度く再び巡りあっていたら、意外と平凡な人生で終わっていたかもしれない。それも幸であったか不幸であったか分からない。天は二物を与えないものだ。
 あれから、ほぼ40年。歳月人を待たずで、随分歳をとってしまったが、生活自体は平凡な日々を相変わらず続けている。私のライフワークも人工知能と音楽に落ち着いたようだが、あまり進展はないのは残念だ。いや、ある程度成果はあったのかも知れない。人間、今の自分に無いものばかり目が向き、ささやかでも、自分の現在持っているものや成果には無頓着なものだ。ささやかな思い出や成果も大切にしよう。これからも小さな積み重ねを大切にして、残りの人生を丁寧に生きよう。今日は本当に爽やかな日だ。


コンピュータ言語と音楽
 かつて勤めていた頃、コンピュータの言語はどれも同じだとか、プログラマは言語を選べない、とか言われたことがある。しかし、そういうことを言う人は、プログラミングをあまりする必要のない、怠け者か恵まれた人だと思う。幸か不幸か、私は人工知能の仕事に従事し、Lispという言語を使う機会に恵まれた。それ以前には、アセンブラ、Fortran、BASIC,C言語しか知らなかった私は、Lispを知って、その威力に驚いた経験がある。
 話は飛ぶが、音楽という分野は記号処理を主体としており、記号処理を得意とするLispと大変相性が良い分野である。プログラマと音楽家もどきを両立させるのは、普通に考えれば困難なことだが、Lispはそれを可能にしてくれる。Javaなども勉強しているが、Javaで自動作曲システムを作る気にはなれない。他の言語でも同様である。というか、Lisp以外では、どうすれば良いか分からないというのが正直なところである。逆にLispで数値計算をする気にはなれない。
 やはり、コンピュータ言語にはそれぞれ得手不得手があり、対象領域ごとに使い分ける必要がある。これは現在では当然の意見だろう。当時のコンピュータ言語はどれでも同じというのは極端な話であったと思う。


生活と意識
 マルクスは生活が意識を規定するというようなことを言ったが、それはどうかなと思うことがある。子供の頃は、漠然と将来は、学者、お坊さん、作曲家などになりたいと思っていた。こういった漠然とした憧れみたいなものが、私の生活を規定してきたように思える。それは私のHPや本棚によく現れている。
 幸か不幸か、両親は放任主義で、私にあまり指示することがなかった。大学でもあまり指示された覚えがない。社会に出て、会社勤めになってからも、具体的指示のある仕事ではなく、漠然と将来を期待されていた感じで、その重荷に潰れた印象が強い。
 このような放任主義の中で人生を過ごしてきた私の生活を規定してきたものは、結局幼い時の夢みたいなものだったように思う。普通の人生であれば、他者からの要求で生活が規定され、それによって意識が規定されるようなことになるのだろう。これはマルクスの言う通りであろう。確かに私の人生は普通ではない。しかし、学者、お坊さん、音楽家もどきではある。
 今にして思えば、本当は普通の人生を歩みたかったのだと思う。好きなことをやってきたのに、幸福な感じがしない。幸福は平凡の中にあるのは確かなようだ。


定食屋さん
 最近、定食屋を二軒見つけた。一軒は昼食専門で、午前中に注文すると、手作りで注文どおりの昼食を作ってくれる。それも、300円と格安だ。今まで、親子丼、カレーライス、五目ご飯、コーン・シチュー、カレーうどんなどを食べさせてもらった。味噌汁、デザート付きだ。もう一軒は夕食専門だが、400円で日替わり料理が食べられる。今まで、「カレーライス、サラダ、スープ、デザート」「豚のしょうが焼き、冷奴、キャベツのサラダ、お吸い物、デザート」「ホイコーロー、シュウマイ、ごはん、スープ」「肉豆腐、酢の物、ご飯、ほうれん草のおひたし、味噌汁」を食べさせてもらった。明日は豚キムチとナムルの予定だ。ボリュームもタップリだ。
 思えば、母が死んでから10年近くになるが、それ以来、ろくなものを食べていない。今日のほうれん草のおひたしと酢の物には、懐かしいやら悲しいやら、複雑な気持ちになった。こんなもの10年近く食べていない。
 人間、歳をとると、楽しみは食べること以外はなくなるものだ。歳のせいか、沢山食べても太らない体質になったのは不思議だが、有難いことだ。
 定食屋の常連とも顔見知りになり、会話を交わすようになった。これも気晴らしになる。定食屋の店員さんも気軽に声をかけてくれる。
 これからも、健康に留意して、おいしいものを沢山食べたいものだ。


古き良きAIと音楽
 私は計算機を用いて音楽の研究をしてきたが、これがAI(人工知能)なのかどうか、長年自信が持てなかった。AI事典などを読んで判断するかぎり、私のアプローチは、別の言い方をすれば、「音楽を対象にした、記号論的計算主義に基づく、計算機シミュレーションによる構成的アプローチ」とは言えるだろう。音楽の知識を記号で表現し、パソコンとLisp言語だけを武器に、音楽の作編曲という分野を扱えば、このようなアプローチになるのは、AIを意識しなくとも、必然的であると言える。
 このようなアプローチは従来の科学とはことなり、音楽を対象に客観的に分析することではない。そのようなアプローチも個人的に行ってきたが、音楽作品を分析しても、明らかにできるのは、コード進行くらいなもので、旋律となるとそう単純ではない。コード進行と旋律とは1対1に対応するわけではないのでそう単純ではないのである。構造分析的アプローチにも限界がある。
 音楽を知るにはいろいろな方法がある。カラオケ、合奏、合唱、演奏、鑑賞などが一般的だろう。他の方法として、作って知るという方法もある。自分で作るだけでなく、計算機に作らせるて調べる、構成的アプローチもあり得る。ジャズで使われる和音やスケールは複雑なので、計算機でこの部分を支援できればという、単純な発想でシステムを作り始めたのだが、コード進行が適当であれば、テンションノートだけで、旋律を作れることを知っていた私は、自動作曲も簡単にできるのではないかと考えた。実際、計算機実験で、コード進行を与えた時の旋律生成条件を調べた。その結果を下に、自動作曲システムを構築しただけだったが、うまく行った。
 知能システムを知識と推論部分に分ければ、私のシステムは、知識表現は複雑だが、推論アルゴリズムは単純なものである。コード進行の部分でも、旋律の部分でも、緊張ー弛緩(不安定ー安定)の原則を利用しただけのアルゴリズムである。コード進行を中心にした楽曲の知識表現部分は多様でありうるので、アルゴリズムが単純でも、多様な音楽作品を作ることが可能である。
 その後、自動作曲部分以外の、作編曲関連システム部分を構築し、現在に至っているが、そろそろネタが尽きてきた。ネタ探しに、いろいろ本や楽譜を漁っているところであるが、なかなか良いアイデアが浮かばない。何か良いネタはないだろうか。一人では限界である。まあ、作編曲は一人で行うのが原則であるが。アイデアだけでも欲しいものである。


Javaと英語 
 Javaはオブジェクト指向で書かなければならないので、始めは馴染めなかったが、次第に英語を読むような感覚でプログラムが読めるようになった。これはおそらく計算機関連用語を含む英語全般の整理の上に、Javaは設計されているからなのだろう。LispでもCLOSを使わずにプログラムを組んでいくと、次第に関数名が長くなる傾向があるが、そういう時にはオブジェクト指向が必要なようだ。
 Javaには必要なものは予め揃っている。後はimportとnewという魔法が使える。
 Javaは英語が得意な人には適した言語だと思う。プログラミングもロジックよりも記憶力の時代になったようだ。可読性の高い言語だと思う。



原裕ピアノコンサート2006
 4月15日(土)に水野かほるさん企画の「日々の美を集めて」という催しが最終日を無事迎えることとなった。催しの中に、H&Aスタディルームの名誉講師原裕氏によるピアノコンサートも含まれていた。会場は市川市の千葉商科大学の傍にある木内邸であった。江戸川沿いである。小学1年生頃、この近辺の小岩に住んでいたことがあり、市川市にあるN製鋼にI社在職中スカウトされたり(お断りしたが)、木内氏も東大の先輩にあたる人物で、いろいろなご縁を感じ、最終日を選んで、訪れることを決めていた。鶴見駅から、市川駅までJRで行ったが、電車内から見た江戸川は多摩川と一見かわらないのであるが、ふと、「この辺も随分開けたねえ」と亡き母の声がするような気がした。最近不思議なことが起こるのである。自宅の前の99円ショップの、私が「会長」とあだ名している体格の良い男性店員さんが、母の生前の決まり文句であったことを、そっくりそのまま口にするのである。最近はそれが楽しみで夜中に買い物をしに行くようになった。いや、話が逸れてしまった。

木内邸には道に迷うこともなく、午後1時頃到着した。原氏はリハーサル中であった。上品な水野さんとどこかで見たことのある美女が、見守るというか聞き入っていた。ベートーベンの曲が終わったあとで、「原先生」と声をかけてしまったが、どうやら、リハーサルの邪魔をしてしまったようである。

水野さんが、「私は原先生に最初にピアノを習ったんです」と話しかけてきたが、答えようとした時に突然、原先生は、故意にフランスの響きを出した。私は思わず、「あっ、フランス風ですね」と口に出したが、水野さんは気付かなかったらしく、「この建物のことですか?」と返事をした。「いや、いいえ・・・・」と口ごもっている間に、原先生はショパンの「別れの曲」を弾き始めた。アンコールの練習のためである。本当に私はリハーサルの邪魔をしてしまったようである。原先生の後ろで、私もピアノを弾く格好をして、ふざけていたら、それを見て、例の美女は笑い転げていた。原先生は演奏会を前にして、明らかに神経が張り詰めているのが感じられたので、私は小岩に行って来ると、伝え、一旦退散することにした。そして実際に小岩へ向かった。

小岩はすっかり変貌していた。45年前の田園風景は全く消えていた。ただ母校の北小岩小学校と銭湯と一軒のラーメン屋は確かに当時のままであった。夕方、銭湯の帰りに、担任の三角先生が一人で寂しそうにソバをすする姿を目撃したのは、今でも鮮明に記憶に残っている。京成電鉄沿いの雰囲気もかすかに当時を感じさせた。歩くのも疲れたので、タクシーを拾って木内邸へ戻ることにした。60代の運転手さんだったが、性格の良い人で、何時になっても人が並んでいるラーメン屋の話を不思議そうにしたり、なんと以前に鶴見、川崎で臨港バスの運転手をしていたそうである。横浜駅の混雑振り、相鉄線の駅名、などの話で会話が弾んだ。これも不思議なご縁である。タクシーを降りる前に何度もここでよいのかと尋ねてくれ、親切な人であった。私も「お気をつけて」と声をかけて車を降りた。

3時少し前であった。木内邸の職員に毒舌と憎まれ口を少しきいた後、時間が来たので、演奏の部屋へ行った。比較的狭い部屋に美女が大勢たむろしていた。それどころではない。次々に美女が詰めかけてくる。栄町通郵便局の職員そっくりの女性まで現れた。私は美女たちに圧倒され、部屋の外で聴くことにした。男性は私以外には僅か2名で、少し変わって見えたのは、芸術家だったからなのであろうか。一体彼女らと原先生とはいかなる関係であるのか。私は小ホールでのスタインウェイ・ピアノによる演奏をイメージしていたのであるが、完全に的が外れた。

原先生の演奏を聴くのは2度目であったが、1度目は泥酔状態での非公式なものだった。私自身もその時は酔っていた。従って、原先生が本気で弾くのを聴くのは初めてである。最初のバッハのプレリュードでは、まだ緊張感から解放されていない感じがしたが、ベートーベンの三声のフーガの難局場面は、リラックスしてきたせいか、見事な素晴らしい演奏で、心地よい高揚感を味あわせてもらった。数年前、ラベルとドビュッシーの弦楽四重奏をCDで聴いてクラシックに感激したが、それ以来クラシックで感激するのは久しぶりである。しかし、バッハの終止和音はしょぼい。ずっこける。これは原先生が悪いのではない。バッハが悪い。演奏は素晴らしかった。感激した(小泉首相の歴史に残る名言)。

クラシックの演奏会には慣れていないせいか、原先生や水野さんには迷惑をお掛けした思う。この場を借りてお詫びしたい。木内邸の職員や関係者の方々にも軽口をたたいて迷惑をお掛けしたことにもお詫びしたい。(木内先輩すいません。)

今後も、原先生の活躍を願って、筆を置くことにします。


マイナスの数を掛け合わせるとプラスになる理由
 例えば、(−2)X(−3)=6とされるが何故だろうか。多項式の展開を考えてみる。
     
(a + b)(c + d) = ac + ad + bc + bd

となる。ここで、a = 1, b = -3, c = 7, d = -5と置くと、上式は

    (1 - 3)(7 - 5) = (- 2)X2
= (1 + (-3))X(7 + (-5))
= 1X7 + 1X(-5) + (-3)X7 + (-3)X(-5)
= 7 - 5 -21 + (-3)X(-5)
= -19 + (-3)X(-5)
= -4

よって、上式から
    
    (-3)X(-5) = 15

以上から、マイナスの数を掛け合わすとプラスになることが分かる。



影響を受けた音楽の本
 私は正式の音楽教育を受けたわけではないので、音楽に関する知識源は、主に市販の書籍である。なかでも最も勉強になったのは、芥川也寸志著の「音楽の基礎」(岩波新書)という小冊子である。この本には音程に関して親切で詳しい解説がなされている。楽典、和声学、対位法、ジャズの教則本で音程に関して正確に説明している書籍はほとんどない。私の考えでは音程の仕組みと響きについてさえきちんと理解していれば、音楽はそれ程難しいものではないと思う。例えば、和声や対位法に関する本では、なぜ5度平行、8度平行が禁止されるかについて説明すれば、現代人の耳からすれば、これらの音程は非常に空虚な響きがするため、連続して使われるのは嫌われるのである。ただこれも、現代人の耳からすればの話であり、ある音程の響きがどのように聞こえるかに関しては、歴史的な変遷があるらしい。完全8度、4度、5度が美しいと思われた時代もあったという。美しく聞こえると見なされる音程は歴史的に狭くなってきているという。現在では3度とその展開形である6度が美しい響きとされている。しかし、ジャズやフランス近代などでは、2度とその展開である7度を強調する傾向がある。2度で音をぶつければ、その後は音程を広げたいという心理的要求が生まれると言われているが、2度のまま保留することもジャズでは珍しくない。わざと4度重ねの和音を使うこともある。この本では、美しいと思われる音程が2度まで狭められ、これ以上狭めることができないので、今後どのような方向があるのかという問題提起がなされているが、自然でありさえすれば、現実には自由に音程を組み合わせても構わないと言ってよいのではないかと思う。
 クラシックの和声学や対位法の本を初めて読んだときには、こんなもの分かるはずがない、と諦めてしまったが、この本やジャズの教科書を読んだ後で、和声学や対位法の本を読み直してみると不思議に理解できるようになった。和声的に見れば、クラシックはジャズのサブセットになっているので、ジャズ理論を通して、クラシック理論を見てみれば、音楽に関する理解も深まると思う。ジャズとクラシックは対立するものではないと思う。美しいと思われる音程が異なるので、響きも違って聞こえるようである。逆に、ジャズでは対位法的な考え方が希薄なので、クラシックの理論も勉強になる。両方を勉強するに越したことはない。
 音程を正確に数えられることが音楽の基本であると思う。そうして、ある音程がどういう響きがするか確かめてみるとよいと思う。音楽に関して、それほど神秘的に考える必要はないと思う。スクリャービンの神秘和音などと言っても、ジャズから見れば、ドミナント7thにテンションを加えたものになっている。


Lispのこと
 Lispは不思議な言語だ。50代半ばを過ぎてもLispならばまだプログラミングができる。私が転職した80年代にAIブームが起こり、会社から何がやりたいかと問われ、AI(人工知能)をやりたいと言ったのがきっかけで、AI用言語としてのLispに出会った。将来はKE(知識工学者)になって欲しいとのことだったが、エキスパートシステムの時代は来なかった。知識の変化が激しい分野ではエキスパートシステムを作ってもすぐに陳腐化してしまうし、専門家から知識を引き出すことも難しいためだった。現在個人的にやっている音楽関連のシステムでは、今後音楽の知識の変化もないだろうし、一人でできる範囲のものである。
 Lispの教科書ではP.H.Winston、B.K.P.Horn著の「Lisp」第一版、第二版、第三版(ADDISON WESLEY)のお世話になった。転職してからは、これらの教科書を勉強していただけのような感じであった。これらの本はAIの入門書にもなっている。5〜6年勉強したであろうか。Lispは再帰をよく用いるので最初は戸惑ったが、再帰とは数学的帰納法のことだと分かってからは逆に再帰的なプログラミングのほうが理解しやすくなった。
 当時のLispの教科書は、大体Prolog処理系を作るところまでで終わっているものが多かった。最近ではP.Grahamの「On Lisp」や「ANSI Common Lisp」がLispの標準的な教科書になっているようだ。これらはWinstonらの本に比べると難解だ。私のLispプログラミングのスタイルも古臭く、初歩的なものだと思い知らされてしまうような教科書で勉強になるが、あくまでWinstonらの教科書が基本と思う。この程度の基礎がないとP.Grahamの本も理解できないだろう。復刊が望まれる。日本では初心者向けのLispの教科書がなく心配だ。
 6年以上Lispの世界にどっぷりと浸かっていたおかげで、Lispは私にとって英語よりも役に立つ「外国語」になった。リストというデータ構造は非常に柔軟で、リストを操作するLispを使えば、小規模なアプリケーションならば短時間で作成できる。記号処理ばかりでなく、数値処理も可能である。現在のLispは汎用言語と言ってもよい。
 60歳を過ぎてもLispプログラミングが可能かどうか試してみたいと思っている。まあ、ボケ防止の意味でも、プログラミングは続けるつもりだ。


全音と半音と準同型写像
 音階ドレミファソラシドでミとファの間隔とシとドの間隔は「半音」と呼ばれ、その他の間隔は「全音」と呼ばれるのは良く知られていることと思う。ところが何故そう呼ばれるかについてはそれほど自明ではないようである。理系の人にとっては不自然に聞こえるらしい。これは、「音の周波数の集合」と「乗算」の組み合わせである代数系と、「ピッチクラス集合論によって音に対応づけられた数値の集合」と「加算」の組み合わせの代数系が、準同型の関係にあることを考えれば説明がつく。
 ある音を1オクターブ上げるとは、その音の周波数を2倍にすることに等しい。平均律では1オクターブを十二等分に「分割」するという、これまた不自然な表現がなされる。何をどのように分割するのかが不明である。a=(2の十二乗根)とおく。すると次のの対応がある。
    
    音の周波数をa倍する  <−−> 音を「半音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に1を加える
    音の周波数をa^2倍する <−−> 音を「全音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に2を加える

a(2の十二乗根)の値は約1.06、a^2(その2乗)は約1.12である。ピッチクラス集合論は12を法とする同値類分解であるので、事情はもう少し複雑であるが、ほぼ準同型と例えても構わないと思う。半音や全音という呼称の背景には、周波数とピッチクラス値には一対一に対応し、「2乗」の演算には「2倍」という演算が対応しているという事情があるので、音楽作品では周波数を持ち出さずに音の関係を表現できるという事実がある。
 五線譜なども一見グラフのように見えるのであるが、間隔は等しい目盛りではなく、数学や自然科学で使われるグラフとは性格が異なったものである。これは推測なのであるが、ドレミファソラシドという並びがあまりに自然に聞こえるために、これを記号で表現した場合、視覚的にも滑らかに並べたように見えるように工夫したのではないかと思う。聴覚を視覚化しようとすることが楽譜を考案するきっかけであったことは間違いない。
 記号とは複雑な現象に対してなんとか手がかりを得ようとして考案されるのであろうが、音楽の表現の背後に数学的概念が潜んでいるのは興味深い。音の周波数の関係を調べても、そこから音楽作品が生まれるはずもなく、不毛なことに気づかれたのかも知れない。確かに乗算よりも、加算のほうが、音程の計算などには便利であるし、計算結果も利用しやすい。
 昔の音楽家が代数系を知っていたはずもないので不思議な話ではあると思う。



ピッチクラス集合論と私の音楽システムの関係
ピッチクラス集合論では、次のように定義される。

ある2つの音があって、その周波数がx,aであるとする。このとき、X=(2^n)atpなるような整数nが存在するとき、x,aはオクターブに関して同値であるといい、x〜aとあらわす。ここで、{x|x〜a}であらわされる集合をピッチクラスといい、これには整数による音名を与えることにする。

具体的には次のような対応をとる。私のシステムでの対応も示す。

ピッチクラス値   私のシステム   音名(平均律)
----0-------------1.0--------------ド
----1-------------1.5-----------ド♯ レ♭
----2-------------2.0--------------レ
----3-------------2.5-----------レ♯ ミ♭
----4-------------3.0--------------ミ
----5-------------3.5--------------ファ
----6-------------4.0-----------ファ♯ ソ♭
----7-------------4.5--------------ソ
----8-------------5.0-----------ソ♯ ラ♭
----9-------------5.5--------------ラ
---10-------------6.0-----------ラ♯ シ♭
---11-------------6.5--------------シ

ピッチクラス集合論では、周波数についての物理的モデルに基づいて対応を取っているが、私のような対応を取っても、代数的には同じことである。

以上の対応を取れば、調性の音楽でも、無調の音楽でも、同様の扱いが可能である。  



十二音技法とジャズの融合2
十二音技法に4度重ねの和音を使って作った「不思議なワルツ」です。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/romanntic-waltz.mid

短歌「涼しげに霧雨の降る秋の日に流れ始める不思議なワルツ」

如何でしょうか。

>Tさん (mixiのマイミクさんです)

>不思議と清涼な感じの響きがします。
>どうやって作られたのでしょうか?
>ノウハウが知りたいです。

いつもコメントありがとう御座います。

ふたつ前の日記に紹介したシステムを利用しています。システムの出力を私が適当に解釈して、旋律や和音を作ります。

作られた旋律や和音に4度重ねの和音を付けました。たとえばCはミラレ、G7はファシミといった具合です。4度重ねの和音は機能が曖昧で、ジャズっぽい硬質なサウンドが得られます。機能が曖昧なので無調の音楽でも不自然な感じがしません。

簡単に説明すれば以上だけです。純粋な十二音技法では、和音も音列から作らなければなりませんが、そこは無視しています。うまく和音を付けられれば、十二音技法でも聞きやすい響きが生まれると思いました。

十二音技法に関連する音楽システムでは各種音列を自動的に生成できるように作ってあります。

お会いして説明すれば分かりやすいのでしょうが。私のHPを参考にして頂ければ、大体のことは分かると思います。


LispとPrologとオブジェクト指向
1980年代に日本において第5世代コンピュータプロジェクト(ICOT)が立ち上がり、言語としてPrologが採用された。この言語の仕組みは極めて単純で、事実と変数を含むルール群を記憶しておき、パターンマッチング(正確には逆方向の計算も行うユニフィケーションと言う)によって、変数とマッチしたデータを、発生させた連番(重複しないようにしておく)で繋いで置き、連想リストの形式で保存しておき、質問すると、その連想リストから、変数の値を引き出すというものである。「事実+(変数を含むルール群)」は数学で言えば公理系にあたり、質問(変数を含む)がこの公理系を満たせば、変数の値を返すというものである。変数に値を割り当てられた質問は「定理」ということになる。かつては導出原理というものが使われていたようである。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/prolog.html

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/

Prologは比較的新しい言語であったが、Lispなどで簡単に実現できるため、短命で終わり、現在はProlog単独で使われることはなくなったようである。むしろ、Fortranに次いで古いLispのほうが、新しい機能を容易に付加できる柔軟性があるため、いまだに生き残っている。Lispによるアプリケーションで、Prologの機能も付加し、その機能を利用するのは簡単なことである。Franz社のACL(Allegro Common Lisp)は極めて多機能である。他言語の機能も次々と組み込み、マルチパラダイム言語と化しているのが、Lispの現状である。

Prologは論理型の言語であったが、物事の階層関係のモデル化に適したオブジェクト指向が主流になったのは、論理だけでは対象のモデル化が難しいためであろう。

本当にPrologはどこへ行ったのであろうか。ICOTとは何であったのであろうか。

音楽関連システムにおいてもCLOSを活用しようと思っているのであるが、音楽の知識の階層がどうなっているか、私にもよく理解できていないところがある。下手をすれば記述量が増えてしまう恐れがある。現在はフレーム型知識表現を採用し、データ駆動型のソースコードになっている点は、若干オブジェクト指向的ではあると思う。


下記はLispによるProlog処理系の例である。

(defun mb (v d) (list v d))

(defun ab (pve d bs)
  (if (eq '?_ pve)
    bs
    (cons (mb pve d) bs)))

(defun fb (pve b) (unless (eq '?_ pve) (assoc pve b)))

(defun ek (b) (first b))

(defun ev (b) (second b))

(defun v-p (e) (and (symbolp e) (eql (char (symbol-name e) 0) #\?)))

(defun e-p (p d) (and (atom p) (atom d) (not (v-p p)) (not (v-p d))))

(defun r-p (p d) (and (listp p) (listp d)))

(defun u-as (p1 p2 bs) (if (eql p1 p2) bs 'fail))

(defun u-ps (p1 p2 bs)
  (let ((r (unify (first p1) (first p2) bs)))
   (if (eq 'fail r)
     'fail
     (unify (rest p1) (rest p2) r))))

(defun u-v (p1 p2 bs)
  (let ((b (fb p1 bs)))
   (if b
     (unify (ev b) p2 bs)
     (if (insidep p1 p2 bs)
      'fail
      (ab p1 p2 bs)))))

(defun insidep (v e bs) (if (equal v e) nil (inside-or-equal-p v e bs)))

(defun inside-or-equal-p (v e bs)
  (cond ((equal v e) t)
      ((and (atom e) (not (v-p e))) nil)
      ((v-p e)
       (let ((b (fb e bs)))
        (when b (inside-or-equal-p v (eb b) bs))))
      (t (or (inside-or-equal-p v (first e) bs) (inside-or-equal-p v (rest e) bs)))))

(defun unify (p1 p2 &optional bs)
  (cond ((e-p p1 p2) (u-as p1 p2 bs))
      ((v-p p1) (u-v p1 p2 bs))
      ((v-p p2) (u-v p2 p1 bs))
      ((r-p p1 p2) (u-ps p1 p2 bs))
      (t 'fail)))

(setf *rs* nil *al* nil)

(defmacro :- (c &optional a)
  `(length (push (list (car ',c) (cons (cdr ',c) ',a)) *rs*)))

(defun get-r (r)
  (do ((l *rs* (cdr l))
     (w))
     ((null l) (reverse w))
   (if (eql r (first (car l))) (push (car (rest (car l))) w))))

;;;(get-r 'c) ;;;

(defun vs-in (e)
  (if (atom e)
    (if (v-p e) (list e)) (union (vs-in (car e)) (vs-in (cdr e)))))

(defun c-vs1 (r) (setf *al* (mapcar #'(lambda (v) (list v (gensym "?"))) (vs-in r))))

(defun c-vs2 (r)
  (cond ((null r) nil)
      ((and (atom r) (v-p r)) (second (assoc r (reverse *al*))))
      ((atom r) r)
      (t (cons (c-vs2 (car r)) (c-vs2 (cdr r))))))

(defun c-vs3 (r) (c-vs1 r) (c-vs2 r))

(defun ps (p as bs)
  (mapcan #'(lambda (r) (let ((re (unify as (car r) bs)))
     (when (not (eql re 'fail))
        (if (not (null (cdr r))) (pr (cdr r) re) (list re)))))
     (mapcar #'c-vs3 (get-r p))))

(defun pr (expr &optional binds)
  (case (car expr)
    (and (p-and (reverse (cdr expr)) binds))
    (or (p-or (cdr expr) binds))
    (not (p-not (cadr expr) binds))
    (t (ps (car expr) (cdr expr) binds))))

(defun p-and (clauses binds)
  (if (null clauses)
     (list binds)
   (mapcan #'(lambda (b) (pr (car clauses) b)) (p-and (cdr clauses) binds))))

(defun p-or (clauses binds) (mapcan #'(lambda (c) (pr c binds)) clauses))

(defun p-not (clause binds) (unless (pr clause binds) (list binds)))

(defun i-v (v l)
  (let* ((a1 (assoc v l)) (a2 (assoc (second a1) l)) (a3 (second a2)))
   (if a3 (format t "~%~a <----- ~a" v a3))))

(defun i-vs (l)
  (do ((lst (reverse (vs-in l)) (cddr lst)))
     ((null lst))
   (i-v (car lst) l)))

(defun is-vs (l)
  (do ((lst l (cdr lst)))
     ((null lst))
   (print '***************************) (i-vs (car lst))))

;;;
;;; (get-answer '(f ?x ?y))
;;; (get-answer '(si ?x ?y))
;;;
(defun get-answer (query)
  (let ((lst (pr query)))
   (format t "~%***** Your query is ~a." query) (is-vs lst)))

;;;
;;; 宣言的知識例
;;;
(:- (p d n))
(:- (p d de))
(:- (m d))
(:- (f ?x ?y) (and (p ?x ?y) (m ?x)))
(:- (= ?x ?x))
(:- (si ?x ?y) (and (p ?z ?x) (p ?z ?y) (not (= ?x ?y))))
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不可知論と科学と哲学を巡って
不可知論とは、辞書によれば、「意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場がある。」とあります。不可知論が上記のようなものだとすれば、自然科学は全く正反対の方向で考えています。まず、素朴実在論を前提にしており、実在を論証しようとするわけではありません。そんなことが不可能なのは自明です。まず実在を無条件に認め、実在ないし、そこから派生する現象を把握し記述するのが自然科学であり、その知見を応用するのが技術です。不可知論が上記のもののようなものならば、観念論の一種であり、自然科学の実在論とは対立するものです。観念論と実在論は両立しません。どちらかを破棄しなければなりません。独我論、不可知論などの観念論を聞いて、理解できないわけではありませんが、現実離れした話にしか聞こえません。もし
このような主張ばかりならば、哲学は百害あって一利なしの、危険な学問でしょう。

私がよく言及する「他者論的転回」と不可知論は関係ない話です。

不可知論の「実在を論証的には認識できない」というのは確かに正しいが、説明した通り、自然科学はこのような営みではないから、科学技術者には関係ないし、私には興味のないことです。


シェファーのストローク(縦棒演算)
 シェファー(H.M.Sheffer)は、1913年に、唯一つの論理記号を用いて、否定、論理積、論理和、含意、双条件を表す方法を導いた。p|qは、p、qがともに真のときにかぎって偽となる、天邪鬼な演算である。

        p  q   p|q
        1  1    0
        1  0    1
        0  1    1
        0  0    1

別の表現では

        p|q = ¬(p∧q) = ¬p∨¬q

シェファーのストロークを使うと

        否定は ¬p = p|p
        論理和は p∨q = (p|p)|(q|q)

となることは、真理表を使ってもわかるが、次のようにしても導くことができる。

        p|p = ¬p∨¬p = ¬p
        (p|p)|(q|q) = (¬p)|(¬q) = (¬¬p)∨(¬¬q) = p∨q

良く知られているように、論理積、含意、双条件は否定と論理和で表されるから、それらをシェファーのストロークで表すことができる。
 良く分からなかったかも知れないが、現代的な言葉で言えば、シェファーのストロークとはNAND回路のことである。上に書いたことは、昔の記号論理学の教科書に書いてあることである。上のことを現代的な言葉で言い直せば、次のようになる。NAND回路の入力側を一つにまとめてしまうとNOT回路になる。NAND回路の出力をNOT回路で反転すればAND回路になる。NAND回路一つとNOT回路二つでOR回路を作ることができる。論理回路を設計するときにはデジタルICを使うが、論理回路の種類が多いと、ICもその種類だけそろえなければならない。しかし、NAND回路のICが一種類あれば、AND回路やOR回路、NOT回路をNAND回路の組み合わせで構成でき、部品の種類が少なくて済み、とても便利である。
 このように、ある論理記号をもとにとって、他の論理演算、従って論理式を表すということは、論理的な問題であるとともに、計算機の製作の上でも重要な課題のひとつであった。
 シェファーのストロークに関しては、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」などにも言及がある。


論理哲学論考5.511
 すべてを包括し、世界を反映する論理が、かくも特殊なかぎ針(シェファーの棒記号)と運針でこと足りるのはなぜか。ひとえにこれらすべてが、限りなく精巧な網目細工へと、世界を映す巨大な鏡へと、編みあげられるからだ。(ヴィトゲンシュタイン)

 任意の論理回路のNAND回路への変換は、下記のLisp関数で行える。再帰を用いている。


(defun rewrite (l)
  (cond ((atom l) l)
      ((equal (first l) 'NAND)
       (list 'NAND
          (rewrite (second l))
          (rewrite (third l))))
      ((equal (first l) 'NOT)
       (rewrite (list 'NAND (second l) t)))
      ((equal (first l) 'AND)
       (rewrite (list 'NOT
                (list 'NAND (second l) (third l)))))
      ((equal (first l) 'OR)
       (rewrite (list 'NAND
                (list 'NOT (second l))
                (list 'NOT (third l)))))
      ((equal (first l) 'XOR)
       (rewrite (list 'AND
                (list 'OR (second l) (third l))
                (list 'OR
                   (list 'NOT (second l))
                   (list 'NOT (third l))))))
      (t (list 'error l))))

 バッククォートを使うと、次のようにもっと簡潔簡明に書ける。

(defun rewrite (l)
  (cond ((atom l) l)
      ((equal (first l) 'NAND)
      `(NAND ,(rewrite (second l)) ,(rewrite (third l))))
      ((equal (first l) 'NOT)
       (rewrite `(NAND ,(second l) t)))
      ((equal (first l) 'AND)
       (rewrite `(NOT (NAND ,(second l) ,(third l)))))
      ((equal (first l) 'OR)
       (rewrite `(NAND (NOT ,(second l)) (NOT ,(third l)))))
      ((equal (first l) 'XOR)
       (rewrite `(AND (OR ,(second l) ,(third l))
                 (OR (NOT ,(second l)) (NOT ,(third l))))))
      (t `(error ,l))))


命題論理の定理の自動証明も次のように簡潔に記述される。

defun and-or-not (s)
  (cond ((atom s) s)
      ((equal (first s) 'NOT)
      `(NOT ,(and-or-not (second s))))
      ((equal (first s) 'AND)
      `(AND ,(and-or-not (second s))
           ,(and-or-not (third s))))
      ((equal (first s) 'OR)
      `(OR ,(and-or-not (second s))
          ,(and-or-not (third s))))
      ((equal (first s) '->)
      `(OR (NOT ,(and-or-not (second s)))
              ,(and-or-not (third s))))))

(defun de-morgan (s)
  (cond ((atom s) s)
      ((equal (first s) 'NOT)
       (move-not (second s)))
      ((equal (first s) 'AND)
      `(AND ,(de-morgan (second s))
           ,(de-morgan (third s))))
      ((equal (first s) 'OR)
      `(OR ,(de-morgan (second s))
          ,(de-morgan (third s))))))

(defun move-not (s)
  (cond ((atom s) `(NOT ,s))
      ((equal (first s) 'NOT)
       (de-morgan (second s)))
      ((equal (first s) 'AND)
      `(OR ,(move-not (second s))
          ,(move-not (third s))))
      ((equal (first s) 'OR)
      `(AND ,(move-not (second s))
           ,(move-not (third s))))))

;;;
;;; (prove '(OR a (NOT a)) ===> (OR a (NOT a))
;;; (prove '(AND (-> a a) (-> b b))) ===> (AND (OR (NOT a) a) (OR (NOT b) b)))
;;;
(defun prove (s)
  (de-morgan (and-or-not s)))


ゴミ処理問題の一側面
  ごみ処理の問題を調べていくうちに、これは大問題であるという感じがしてきました。環境経済学の話にも出くわし、短い文章ではとても報告できないことが分かりました。そこで、小生は話を可燃ゴミの処理に限定し、その対応や利用技術について、個人的に興味を抱いたものに関してだけ報告することにしました。この点はご了承下さい。ゴミの焼却にともなうダイオキシンの発生や焼却灰の問題から、次世代の焼却炉として注目されているのは、「ガス化溶融炉」で、これはゴミを蒸し焼きにしてガス化し、このガスを燃やすことにより1000〜1300度という高温でゴミを溶融する形式の焼却炉です。高温燃焼でダイオキシンの発生を防ぎ、重金属などの有害成分もガラス固化できるといわれています。しかし、この炉はすべてのゴミを一緒に焼却するため、分別や減量化というゴミへの関心が薄れるのではないかという心配があります。建設費も高く、運転が難しく、技術的に未知の部分が多く、ゴミ処理の原発とも呼ばれ、98年にはドイツのバイエルンでガス漏れ事故が起きています。画期的な焼却技術ではあるものの、リサイクル・リユースを重視する資源循環型社会に逆行するのではないかとの危惧もあります。
  次に、上向きに流動するガスや空気の流れによって、固形燃料を空中に浮遊した状態で燃焼させる「流動層燃焼」という方法があります。流動層燃焼ボイラーは、多孔質または、パンチングメタルのように多数の孔を持つ板に可燃物を置き、木材や都市のゴミなどを含むさまざまな固形燃料を燃やしますが、特に商業的に意義のある石炭燃焼技術の一つとして一般に認められるようになってきました。石炭は石油に比べればまだ無尽蔵にありますから、エネルギー問題としても興味のあるところです。都市ゴミ焼却灰や下水汚泥などの生活廃棄物を主原料としたつくられた「エコセメント」というものがあります。主原料に石灰や粘土を混ぜて約1300度で焼いて作ります。ゴミ焼却灰に含まれるダイオキシンなどの有害物質の無害化と、焼却灰の有効利用を一挙に果たす完全リサイクル商品として期待が大きく、道路の炉盤材や消波ブロックなどに使えるそうです。将来的には国内のセメント需要の一割近くをまかなえると予測されています。
  ゴミ焼却による高温高圧の蒸気でタービンをまわし、発電する「ゴミ発電」は定着しており、都市の衛生工場では、ゴミ発電を利用して所内電力の供給・電力の販売を行い、発電後の蒸気を地域暖房や温水プールに供給しています。炉の耐久性、ゴミ質の不均一性、ゴミの量の変動、重金属分の排出、低発電効率など課題も多いそうです。発電効率をあげるために、ゴミ焼却場を火力発電所に隣接させて利用する構想があります。
  二種類の金属線の両端同士を接続して輪をつくり、二つの接続点を異なる温度に保つと電気が起きますが、この現象はゼーベック効果と呼ばれ、金属線のかわりに二種類の半導体を同じように接合し一端を炎で熱しても同様にゼーベック効果で電気が発生します。この熱で直接電気を起こす半導体素子のことを、「熱発電素子」といいます。アメリカの惑星探査機ボイジャー2号の電源にはシリコン・ゲルマニウム合金製の熱発電素子が使われました。1000度前後で機能するシリコン・ゲルマニウム系の材料の他に、200〜300度の低い温度で電気を発生するビスマス・テルル系の材料など、さまざまな材料の研究開発が行われているそうです。科学技術庁航空宇宙研究所、仙台市、富士電機は1997年1月、ごみ焼却施設の廃熱を利用した熱発電システムを公開しました。4000個の熱発電素子を使った本格的なシステムで、出力は約1kWでした。これは仙台市環境局の西田中工場(仙台市泉区)に設置されました。海外では遠隔地にある無線通信施設の非常用電源として出力500kW程度のシステムが実用化されているそうです。
  プラスティック廃棄物の処理が大きな環境問題となりつつあり、その対策のひとつとして、分解性プラスティックが脚光を浴びてきました。光(主に紫外線)により分解する光分解性プラスティックと微生物により分解される生分解性プラスティックの二つが主流です。後者はグリーンプラともよばれ、微生物が生産するプラスティック、デンプンやセルロースなどの天然素材を主成分にしたもの、さらに分解性を付与した化学合成プラスティックに分類されます。いずれも分解されて低分子化合物となり、最終的には炭酸ガスと水になると考えられています。トウモロコシ・デンプンを分解してブドウ糖をつくり、これを発酵法で乳酸に変換して化学重合法でポリ乳酸を製造するプロセスなどがあります。日本におけるプラスティックの生産量は、1997年の統計で約1500万tに達しているが、そのうち900万t以上が廃棄プラスティックとして排出されています。このような動向から、分解性プラスティックはすでに食料・雑貨、ゴミ袋、農業用フィルムなどに実用化されており、用途開拓の進展とともに生産量も急増されると予想されます。
  最大の難問は、放射性廃棄物でしょうが、放射能自体を消すような技術は原理上不可能です。これができたらノーベル賞は間違いありません。放射能を含む物質をガラスで固めて処理するために、どのような組成のガラスを使うべきかの研究がなされています。
  以上、ゴミ処理問題は、まともに取り扱うと、いろいろな分野を含む大問題となってしまい、小生の興味を引く話題に限定せざるを得ませんでした。その点はご了承下さい。環境経済学などの話題はさすがに手に余ります。


哲学と個別科学と人工知能 
 人工知能などの分野でも、エキスパート・システムが流行ったいた頃は、F.ベーコンの「知識は力なり」という標語が持てはやされたこともありました。人工知能の源泉はライプニッツあたりにあるというのが定説ですが、そのことが人工知能分野の発展に直接寄与するというものでもありません。むしろ人工知能に対する権威付けのために、ライプニッツなどが引き合いに出されるというのが実情です。知識に力はありますが、考え方(推論方式)に拘ったICOT(第5世代コンピュータ開発機構)の方針は、知識というものを軽視して結果的に意味のある成果はほとんどありませんでした。並列処理マシンを開発するために民間需要を喚起したに留まり、人工知能の進展にはそれほど成果がなかったというのが定説です。哲学も、「考え方の学問」という傾向が強く、内容となる具体的な知識を軽視しがちな傾向がありますから、同じように役立たずの学問に終わっているのだと思います。知識を重要視すれば個別科学と同じになりますから、現在の哲学の存在意義は怪しいものとなりますね。


ギブ・アンド・テイク
 この言葉は現代的な冷たくドライな人間関係を象徴するように聞こえるが、そういうことではないようだ。これは古くからある一種のバランス感覚のようなものだと思う。
 与えるばかりでも、貰うばかりでも、いずれの場合にも、人間は負担を感じるものだ。貰えば、申し訳ないという気持ちが生じ、お返しをしなければいけないと感じたり、与えても、適切な応答がないと、不満に思うのは自然な感情だろう。与えたり、貰ったりするものも、お金や品物に限らない。時間、労力、気持ち、感情、言葉など様々なものがやりとりされる。この時に、ギブ・アンド・テイクというバランス感覚が崩れると人間関係は破綻するようだ。私も最近これを経験した。このバランス感覚がない人とは付き合いたくないと思う。
 最近、隣のおばさんが、手作りのコロッケと野菜サラダを持ってきてくれて、後日、私はお返しとしてパイナップルを差し上げた。これでお互いに少し仲良くなったと思うのは気のせいばかりではなかろう。学生時代によく教授がキャッチボールに誘ってくれたが、これもボールをやりとりして親しくしようという気持ちの表れであろう。こういう考え方は素粒子論などにも現れる。ある種の素粒子を交換して別の素粒子同士が結びつくという発想は基本的なものだ。
 ギブ・アンド・テイクという考え方は普遍的なもので人間の思考過程の様々な場面を規定しているように思う。お年賀、お歳暮など挙げればきりが無い。
 子供の頃、ドッジボールは楽しかった。ボールを投げれば、相手も必ず投げ返してくれたから。
 皆さんはどう思われますか?


ショート・ショート

(第一話) 
  実は小生、深刻な悩みを抱えています。貧乏という持病があり、お腹がすいて困るのです。しかたなく、心療内科に通い、飢えをしのぐ薬を処方してもらっています。しかし、その薬が結構高価で困っているのです。どうやら、脳内の神経細胞間のシナプスという場所にある神経伝達物質の量を調整する薬らしいのですが、副作用もあるらしく、服用を止めようかと考えております。小生、子供の頃から、動物よりも植物が好きで、いろいろ勉強したことがあります。小生の家の近郊に県立公園があるのですが、よく観察してみると、食用になる野生の植物が自生しているのに驚かされます。小生は時折、草むらに分け入り、食用となる植物を採取してきて、茹でて食し、空腹を満たしております。武士というもの、腹がへっては戦ができません。食用になる植物をみつけるには、小鳥やカラスの行動を観察するのが肝要です。これらの動物が食せる植物であれば、人間にも食せると考えてよいからです。特にカラスは人間以上の見識があると考えてよさそうです。公園には池もあり、ザリガニなど時には動物性タンパク質も摂取することが可能です。ただ、アメリカザリガニはよく茹でないとジストマなどの寄生虫に集られる恐れがあるので注意が必要でしょう。特に若い人はこのようなことを知らない人が多いようです。これらは正に現代の若い世代が忘れている、日本人の知恵なのです。今の日本は厳しい状況にあります。ホームレスになった場合を想定して日々知恵を磨く必要があろうかと思います。
  空腹が続き、眠れない夜が多くなりました。このような夜には、昔のことが思い出されてしかたがありません。かつて、世界ヘビー級チャンピオンであったモハメッド・アリはボクサーでありながら、極めて知性的な人でした。彼の箴言に「私は謙虚になるには偉大すぎる」というものがありましたが、分野は違いますが、もっともだと思うところがあります。小生も計算機に作曲させるなど、天才的なところがありますので、なかなか謙虚になれず、世間に認められず、ひもじい生活を送らざるをえないのだと思います。格闘技といえば、最近のK1とかプライドというのは極めて優雅さに欠けていると思います。かつて、ジャイアント馬場という偉大なプロレスラーがいたのはご存知でしょう。彼は実に優雅で貴族的なレスラーでした。彼のあまりに素早い技は、テレビカメラの走査速度では捉えることができず、テレビを見ている我々には、彼の動きが見えず、何もしていないのに、外人レスラーが跳ね返されるという一見信じがたい光景はざらでした。小生も子供の頃、祖父と一緒にテレビを見ながら、彼の技を見ては、祖父と目を見合わせて肯きあったものです。「プロレスはスピードである」と言ったのは確かジャイアント馬場ではなかったかと思います。それでいて、彼は決して相手を傷つけないのは不思議でした。正に、剣道で言えば「活人剣」そのものであったのです。柔道も究極の技は「空気投げ」です。アントニオ猪木はジャイアント馬場に戦いを挑みましたが、ジャイアント馬場は決して応じませんでした。アントニオ猪木も偉大なレスラーであり、破壊力は強大です。それゆえ、もし対戦していたとしたら、ジャイアント馬場も更に強大な破壊力を発揮せざるを得ず、悲劇が誕生していたでしょう。(ニーチェを参照)。アントニオ猪木はモハメッド・アリと対決しましたが、アントニオ猪木は、マットに横たわるという奇抜かつ独創的な戦略をとり、両者引き分けとなり、正に東洋の知恵と西洋の知性が宥和した形となりました。正に、かつての格闘技は優雅な舞踏であり思想であったのです。
  今日、喫茶店(ベローチェです)に行って、なけなしのお金をはたいてコーヒー(168円)を飲みに行きました。家で石油ストーブを使った場合の石油代とコーヒー代のトレードオフを考慮し、熟慮の末、決断したのです。C言語でプログラムを記述し、結果を出すまでに2時間近くかかりました。ベローチェの店員さんは美人が多く、採用の際にオーディションがあるそうです。やはり、コーヒーを飲みに来て良かったと思いました。店の中には、どこの国か分からないのですが、民族衣装を着た人達がいらしゃいました。たぶんギリシャ人なのでしょう。彼らの言葉が全く分からなかったので小生はそう判断致しました。英語にもこのような表現があるので、間違いないでしょう。最近は外国の方が多いですね。先日もモルモン教の青年たちと駅前で英語と日本語の混ざった会話を楽しみました。彼らはnative Americansを崇拝しているのだそうです。近所のコンビニにも中国人やフィリピンの方が働いておられます。日本人は見知らぬ人に話しかけることはめったにいないので、小生のような日本人は珍しく見えるようです。フィリピンにも小生のようなおかしな人がいるそうです。その人が日本語の「3時のおやつ」という表現を知っているのには驚きました。


**********************************
(第二話)
昨日のクリスマス・イヴは毛布に包まって、クリスマスソングを聞きながら、ロマンティックな夜を独りで過ごしたのですよ。
あぁ、その前に数少ない知り合いに年賀状を書きました。
何%返事がくるか統計を取るのも例年通り忘れないつもりです。
MDに5時間20分クリスマスソングだけ録音したのがあるのです。
違う種類の音楽だが、こんなMDが50枚ほど。
私も暇ですな。
私は多才だけど、無妻です。(タサイとムサイは似てるでしょ)
無粋ですしね。
いっそ可愛いぬいぐるみを買おうかな。
でも50歳でぬいぐるみを買うの恥ずかしいと思うので、できないと思うけど、分からないというのが本当の話。
独り身には残酷な二日間も続く休日の第一日目は何とか自害せずに経過。
翌日起きると外は何故か明るかった。
自分の部屋のごみだけ集め、捨てる。
終わった後、虚無感に襲われるも、急に来年から英語のリスニングを再開するのだという欲望が抑えられなくなる。忽然として、オフィーリア。
古いラジカセが壊れて以来、休止していたが、聞ききれないほどのテープがあるのだ。
ラジカセを買うのだ。
テープレコーダーのついたラジオを買うのだ。
広大な公園をつきぬけ、橋を渡り、巨大な城のようなイトーヨーカドーの前を通り、
私は走った。
風を切って走った。
私はサトームセンに向かって一生懸命走った。
車で。
クリスマスの休日で店内は賑わっていた。
ラジカセコーナーへ行き、店員さんに、「このソニーのラジカセでNHKのAM放送の第二放送を聞けるでしょうか?」
と心配そうに尋ねてみた。
「ここに書いてある数字の周波数なら聞けますよ。」と店員さんは自信たっぷりにピントはずれの答えをし、ニヤリと笑う。
何だ、この笑いは?私がNHK第二放送の周波数を知らないのがばれたのだろうか。
まあ、気にしないことだ。多少図太くなきゃ、生きていかれんですからな。
品物を持ってレジへ移動する。
スゴイ美人の店員さんだった。
少しでも長く会話をしようと30マイクロ秒ほど策略を練った。
この位の策略に、私の頭脳をもってすれば、この位の時間で済むということだ。
「これ500円で売ってくれませんか?」
店員さんはギョッとしたような顔をする。こんなこと無理な注文ですからなあ。
「いや、冗談ですよ。でも、マケてくれません?」
と時間を稼ぐ。
「今、上のモノに聞いてまいります。」
これは、まずい、私も良心がうずいた。こんな美人を困らせるなんて許されないことだと真剣に思った。
「いや、冗談ですよ。サトームセンがケチなのはよく分かっていますから。」
どうして、こう憎まれ口をきいてしまうのでしょう。年配の男性店員が機嫌よさそうにニコニコしながら我々の話を聞いているのに気づいた。日本人でもユーモアが分かる人がいるのですな。
美人の店員さんは安心したように保証書を用意する。
私は謝罪の気持ちで、
「包装はいらんですよ。テープだけ貼り付けて下さい。」
謝罪の気持ちが通じたかどうかは分からないが、出口でビビッタ。
男性店員が私をにらんでいるのですよ。
私は、
「盗んだんじゃないですよ。このテープ見て下さい。」
その店員さんは、
「分かっておりますよ、サー、お気をつけて」
と顔からは想像できない冗談を飛ばす。日本人にもユーモアのある人がいるんですな。人は見掛けによらんですな。
私も口ひげを蓄えた恰幅の良い紳士といった外見ですからなあ、サー(Sir)も当然かもね。
いっぱいあるテープというのは、English Journalのことで、知っている人もいるでしょう。NHKの英会話もビジネス英語も聞きたいし、そのためには古いタイプのラジカセが最適です。
家電も古色豊かな機種が復活してますな。
そのNHKなんですがね、今日、公共放送なのに一民間企業に過ぎない会社を取上げておりましたな。一見その会社は素晴らしい企業のような印象を与えるようでしたが、意外や意外!
よく見て聞けば、如何にその会社が貧乏会社で低賃金か分かってしまう内容でした。その会社のお偉方のやせ我慢ぶりは、見る人が見れば明らかな内容でしたな。
世の中はその会社の製品だけでできている訳ではないのは明らかですからな。
これだけ世界一になっても、仕方ないですな。
日本の男性の「世界一」連発は精神年齢が疑われますな。
私は正直、金は欲しいです。本当に私は正直ですな。
総合すると私も「金と女性」を追いかけているようなストーリー展開になりましたが、
本当はストイックな研究生活をしている清貧な男です。
本当ですよ。書物とピアノが恋人。格好いいでしょ。
しかし本当にクリスマスは独り身には残酷ですな。毎年クリスマスソングだけが救いです。

(一部分、天の神様の目撃した事実と異なる記述がありますが、創作物として、神様、お許し下さい。メリークリスマス)


************************************
(第三話)
西洋では13という数字は縁起が悪いものらしい。

私はここに西洋と日本の接点を見出した気がする。

つまり

4+9=13

という等式に気付いたのである。4は死を象徴し、9は苦しみを象徴するのは常識と思う。両者を声に出せば四苦八苦である。両者の和である13が不吉な数字であるのは当然である。

四苦八苦を数字で表し、少し計算すると

4X9+8X9=108

となり、仏教でいう煩悩の数に一致する。

4、9、13という数字は、組み合わせることにより、深遠な世界に通じているのである。

信じられないかも知れないが、偶然の一致としては出来すぎた話ではなかろうか。



*******************************************
(第四話)
 私は最近不愉快だ。思い当たる節もあるのだが、実際はいろいろな要因が絡み合っている。最近は一生懸命働いているのであるが、給料明細を見ると桁が一桁普通の会社と異なるのに気づいた。これは会社のコンピュータの計算ミスではなかろうか。まぁ、前の会社ではホワイトカラーで仕事をしないで給料を貰っていたから、これも報いなのかもしれない。現在の会社の給料では生活できないので、お金を別の2経路から貰って、生活をしている。お金は天下の回り物である。私もいつか自分のした仕事に見合う給料を貰って、それで生活できる身分になりたいという希望を持っているのであるが、そうなりそうもないのに生活できているのは、ある意味で社会的矛盾である。この矛盾を解決せずに21世紀の日本の再生はあり得ないと思うのであるが、何とか生活できているので、そう気負う必要もないのかも知れないが、やはり矛盾は矛盾だ。何を言っているか分からないかも知れないので、単純化して言い直すと、私もきちんとした会社に勤めて、きちんと仕事をし、きちんと給料を貰って、人に頼らずに生活したいのであるが、それも叶わず、それにも拘らず生活しているという、矛盾、歯がゆさ、憤り、怨念、有難さ、などの入り混じった複雑な感情で不愉快なのである。
 不愉快だと人と会話するのも嫌になる。昼休みは会社を抜け出し、しばらく街中を歩いた。そしてベローチェでブレンド・コーヒーを飲むことにした。店内はジャズが流れていて気持ちが良かった。演奏者は分からないが、カルテットの演奏で、ピアノとギターの対話が粋である。ジャズは夜に聞くものでなく、朝か昼間に聞くものだというのが私の感覚であり、持論である。窓越しに見える人々の往来をなんとはなしに見ているのの気晴らしになる。紅葉した木の葉が舞い散る季節である。コーヒーを飲みながら音楽に聞き入っていたら、なんだか気持ちも軽くなり、昔のことが思い出された。
 私が最初に勤めていた会社は給料も安く、仕事も気に入らなかったので、若気の入ったり来たりで、不満たらたらの生活を送っていた。給料が安いならば、気に入った仕事がしたいというのが、最低限の希望であった。同じように、昼休みになると、工場が面する海の水面が見える場所に行き、クラゲが見つかると石を投げつけて憂さを晴らすのが日課になっていた。クラゲには気の毒なことをしていたと思う。
 今思えば、クラゲのことを羨ましく思っていたのかも知れない。プカプカと何も考えず、水中で気ままに暮らしているクラゲは何となく羨ましかった。しかし、噂によると、クラゲには脳が無いらしい。何も考えないのも当たり前だ。でも、気ままという感覚はクラゲには分からないだろう。脳が無いならば当然だ。脳がないから、考えることもできず、気ままという感覚も感じることができないというのは幸福なのだろうか不幸なのだろうか。脳がないのだから、幸不幸の区別もできないし、こういう言い方も無意味だろう。脳が無ければ、無意味の意味も分からないだろう。結局、クラゲには何も分からないのだ。分からないということも分からないのだ。私は人間だから、脳を持っていて、いろいろ考えてしまう。クラゲと違うところだ。では何故クラゲが羨ましかったのだろう。また私は分からなくなった。分からないということが分かるのは幸福なのだろうか不幸なのだろうか。こんなことを考えるのも脳があるからである。結局私は無脳状態が羨ましかったのかも知れないが、人間で無脳であれば、無能呼ばわりされても仕方がない。発達しすぎた脳を持つ人間は幸福なのか不幸なのだろうか。これも私には分からない。分からないということが人間の私には分かるのだ。
 ベローチェと言えば連想が進むのであるが、横浜駅西口にあった横浜音楽工房という音楽教室でリコーダーを習っていたことがある。その傍にあったベローチェでコーヒーを飲みながらレッスンまでの時間を潰したものだ。リコーダーのレッスンとは、主に先生との二重奏という形式で、リコーダーの吹き方を習うというのが普通だ。大体6ヶ月ほどで普通に吹けるようになる。リコーダーと言えば、小学校や中学校で吹いた覚えがある人も多いだろう。確かに、リコーダーを大人になって習うと、何か非常に懐かしいものを感じたものだ。同じように感じる人も多く、その先生についている生徒さんたちとも知り合いとなり、先生が主催する合宿に参加したのも良い思い出である。軽井沢、道志村などで民家を借りて、合宿をし、リコーダーの合奏の練習をした。その他にも、料理をし、おしゃべりをし、と楽しい思い出ばかりである。本当にあの頃が懐かしい。その先生には時々電話をするくらいで、最近は疎縁になってしまった。
 昼休みが終わって仕事に戻った。この会社では仕事中に私語を話しても良いことになっている。今時珍しい会社だが、時には付いていけないと感じるときもある。不愉快な気分のときは会話は苦痛であるが、機嫌が良い時には、私も積極的に会話に加わり、冗談を言っている。音楽を聴きながらでの仕事なので、時間も矢のように流れる。エントロピーとは時間の矢である。これは関係ないが大切なことである。全ては混沌への道筋であるが、人間とはこの道理に逆らい、秩序を作ろうとする。生命一般がそうである。これは太陽が惜しみなくエネルギーを地球に注ぎ、開放系としての地球のエントロピーを減少させるからである。クラゲが生きていられるのもこのお陰である。これは脳がある人間だけに分かる道理である。
  衆院選が間近い。政治家の腹の中を想像してみた。今選挙では、国民感情を尊重して脱原発を主張するのが適当だろう。まずは政権を取らなくては話にならない。福島原発の後始末を含め、日本経済の建て直し、再生可能エネルギーへ向けてのインフラ整備などには莫大なエネルギー、従って資金を必要とする。化石燃料でそれを賄うのには限界がある。計算をするまでもない話である。途上国を含め、多くの国は今後も原子力エネルギーの安いコストの電気を使って、経済発展を遂げていくだろう。原発を再稼動しないのは国際競争上明らかに不利だ。化石燃料では国内の電気料金が値上がりし、経済に打撃を与えるようになるのは目に見えている。重電機メーカーが最新の原子力技術を海外に提供していくのは、敵に塩を送るようなものだが、避けられないことである。化石燃料に頼るにしても円安政策は矛盾するが、しなくてはならない。円高のほうが化石燃料でやっていくには有利であるが。円の価値を下げてインフレターゲットを満たすというのもおかしな話だ。金利を下げれば、円を使う国が増え、円高になるのは当然だ。本当に矛盾だらけだ。どうやって国民を説得したらよかろうか。チェルノブイリ、スリーマイル島の事故もあったが、その時は対岸の火事で、今回とは異なる。はてまた困ったものだ。考えれば考えるほど困った話だ。のど元過ぎるのを待つか。
 私も30年ほど前、大学の研究室で、エネルギー問題に関わる化学の研究に携わっていた。結局、当時その研究室で研究されていた、個体電解質、超伝導、燃料電池、蓄電池、水素エネルギー経済などで、ものになった研究はひとつもない。理念は立派であったが、何の成果もなかった。当時もエネルギー危機が叫ばれていたが、原子力を否定する発想はなかった。原子力は安価であるばかりでなく、安定なエネルギー源として考えられていた。太陽光、風力などの不安定なエネルギー源とは違った役割があると考えられていた。
 電力は足りれば良いというものではない。電力供給の安定性が必要である。電力の安定供給に対する原子力の役割は大きかったのである。その役割を他の手段で手に入れるのは難しい。このためには単にクリーンな再生可能エネルギーでは無理なのである。電力供給の不安定性を抱えての産業活動には限界を伴うのが現実である。技術的観点からの議論が求められると思う。
 しかし、今後再生可能エネルギーの導入は時代の流れであろう。世論を尊重すれば、水力、火力、再生可能エネルギーを組み合わせて電力を供給していくしかないだろう。不安定な再生可能エネルギーの出力が既存の電力供給システムに加わった場合のシミュレーションが行われているようである。シミュレーションは現実の現象を計算機上で再現することが目的だから、予測にまで過度の期待を寄せることは危険である。しかし、他に定量的な予測手段もない以上、シミュレーションで検討する以外にないのだろう。私には一般的なことしか分からない。具体的なことは専門家に期待するしかないのだろう。
 何の話か分からなくなったところで、このエッセイを締めくくりたい。後日加筆するかもしれないので宜しくお願いします。


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(第五話)
脳の男女差
 男性の脳の重さが女性の脳の重さよりも重いと知った時、私は思わず「勝った!」と思ったが、イルカや象の例もあるので、脳の重さは決定打ではなさそうだ。右脳と左脳を連絡する脳梁や前交連という部分は、男性より女性のほうが大きいという。つまり、女性は右脳と左脳とで情報を男性よりも上手くやりとりし、脳全体としてのパフォーマンスを向上させ、容量を補っているらしい。分かりやすくするため、極端な式で表すと

    男脳パワー = M(右脳パワー + 左脳パワー ー 0.06*(右脳パワー*左脳パワー))

    女脳パワー = F(右脳パワー + 左脳パワー + 8956*(右脳パワー*左脳パワー))

くらいになっているようだ。大きく分けて言うと、右脳は感情、左脳は論理を司るので、女性がときとして見せる矛盾と不可解さも上の式で近似的に理解できるかもしれない。MとFは男性と女性に対するジグモイド関数である。
 ノーベル章を受賞した根岸英一さんが、教育でも競争を重視するように提案したのも、女性を牽制してのことではなかろうか。競争に興味を示すのは女性よりも男性に多いから、競争を強調すれば、まだ男性が優位に立てるとの計算があるのではないか。それが証拠に、科学技術関連予算を巡る事業仕分けでも、「世界一じゃなくてはいけないんですか?」とふと本音を漏らした女性議員がいたではないか。いや、男である私自身も、「世界一」派ではなく「オンリーワン」派なので、世界一の連発はあまりよく分からないのだが。つまらないことでも、オンリーワンならば競わずしてナンバーワンだと思うのだが、ちと不精か。一面から見れば、あの仕分けは男性原理と女性原理の対立に見えた。
 女性の社会への進出は目覚しいものがある。その勢いで私のような人間は肩身の狭い思いをしなければならない世の中になった。一般的に言って男性が暮らしにくい世の中になったとは言えるようだ。


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(第六話)
政治と人工知能(TMS)
  TMSの話が出て来ましたが、これはTruth Naintenance System の略です。
  知識が増えることにより今まで信じてきたことが間違いであることが判明することはよくあります。そのようなときには、人間はうまく自分の信念を変えることができます。最近は、矛盾があっても、気づかないか、開き直る人も多いようですが。TMSのねらいは、人間のこのような翻意(試行錯誤)という現象をとらえることにあります。すなわち、「推論規則と事実と仮説からなる世界像」を形成し、入力される事実をもとに世界像を無矛盾に保ちながら推論を進めていくことが目標です。首尾一貫性という言葉は誤解されています。いつまでもある信念(常識)を捨てないのが、一般には首尾一貫していると考えられているようです。矛盾のない体系を作るには、矛盾にであったら、潔くその信念(常識)を捨てる覚悟が必要です。「君子豹変す」とは、君子というものは矛盾にであったら、すぐさま今までの考えとか信念(常識)を変えられるということです。首尾一貫しなくてはならないのは、信念(常識)ではなく、世界像なのです。
  別の例を挙げてみましょう。いま、J国で独裁者K首相の後任者選挙が行なわれることになりました。有力候補者にはX氏とY氏がいます。そして、是が非でも国難を乗り切るために、民事党において選挙をしなければなりません。「国民に人気のあるX氏が適任であろう。人気があるのは能力があり、人徳があるからで、期待できるだろう。」というよくある無根拠の常識(A1)と、「X氏は国民に最も人気がある。」という観察事実(F1)とをもとに、「X氏を第一候補とする。」(N1)、「Y氏を第二候補とする。」(N2)ことにしたとします。ところがその後の詳細な調査の結果なんと「X氏の立派な発言は根拠がなく、誇大妄想に過ぎず、またX氏は経済には全く通じていない。」(F2)ことがわかった。このままX氏が当選してしまうと政治経済の破綻は避けられない「破局」(C1)という最悪事態になってしまいます。そこで、急遽予定を変更して、「地味で人気はないが、堅実で実力のあるY氏を当選させる。」(N3)、「X氏は独裁者になる可能性を否定できないとして候補から外す。」(N4)ことになるのが妥当な結論でしょう。人間は上のような推論をほとんど無意識で瞬時に行うことができます。もちろん、単純な問題であるせいもありますが。このような推論を計算機に行わせるのも人工知能のひとつの課題なのです。これはTMSでは以下のような手順により実現されます。おのおのの「常識・規則・事実」は一つのノードで表現されます。例えば、前述の常識A1と事実F1とが入力されると二つのノードがそれぞれ対応するものとして作られます。そして、常識A1と事実F1とから結論N1が推論されます。そして、常識A1と事実F1から結論N1が推論されると、新たに結論N1に対応するノードを作るとともに、その結論N1が<事実F1,常識A1>から導かれたという「依存関係」も同時に記録します。同様に「X氏が誇大妄想を抱き、経済音痴である。」という事実F2と「X氏を当選させる。」という結論N1から、それは「破局」C1になるということもノードC1に記録します。ここで、「破局」C1が真になってはならない(矛盾)という知識に基づき、依存関係に基づくバックトラックが始まります。ちょうどこれは何かまずいことが起きたときにその原因を順番に調べあげていく過程に似ています。
  まず、なぜ、「破局の可能性」C1が真になったかというと、結論N1と事実F2が成り立ったからです。では、なぜ、結論N1が真になったかというと、事実F1と常識A1が成立したからでした。では、なぜ、事実F1がというとそう言われたからであり、これ以上は遡れません。このように、依存関係を順序よくすべてたどることにより、矛盾(破局C1の成立)の本当の原因になったものは、<常識A1、事実F1、事実F2>の三つであったことが分かります。すると、このうち一つを翻意しなければなりません。そこで、おのおのの理由をみると、事実F1と事実F2は、あくまで事実で変えることができませんから、単なる仮説である常識A1を忘れることに決めます。そして、それに基づき、再推論して世界像を作り直し、今度は矛盾がみつからないので停止します。
  このように、翻意(試行錯誤)は人間の知的活動に本質的なものです。このTMSは常に無矛盾な世界像を一つ作っているため、仮説に基づく推論を行う場合に、多くの可能な解を一度に見比べて評価をして一番よさそうなものを選びたいという要求には応えることができませんので、そこを改良したものがATMSです。
  


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(第七話)
MK様

荒井公康です。今週は暑くなるようですから、熱中症には気をつけて下さいね。

本当に警察というのはいかれてますね。6年前3回も取り調べを受けたことがあります。別に、警察は私のことを犯罪者と思っているわけではありませんが、私のことをイカレテルと思っていたようですね。

私は6年前まで、実家に住んでいて、車も持っていたので、よく気晴らしに車を運転していました。私の運転はものすごく安全運転で、パトカーが私を追い越すくらいの低速で運転していました。

取調べの件なんですがね、私が車の助手席に女性を無理やり乗せようとしたという因縁をつけてきたのですよ。助手席には必ず植木鉢を置くのが習慣でしたから、私にはそんなことはできませんよ。

最近は、自転車に乗ることが多いのですが、警官が私が自転車の後ろに女性を乗せようとしたと因縁をつけてきたのですよ。自転車の二人乗りは法律違反ですから、そんなこと私がするわけありませんよ。

私は歩くことも多いのですが、今度は警官が、私が女性をオンブしようとしたと因縁をつけてくるのですよ。私にはそんな元気はありませんよ。

でも、K様は小柄で華奢な感じがするので、私にもオンブできるかも知れませんね。K様をオンブして、K様の美しい声を聞きながら、どこまでもどこまでも歩いて行って、海の見えるところまで連れていってあげたいですね。そこで一緒に海を見たいですね。でも警官が出てこないといいですよね。

K様も仕事はほどほどにして、私みたいな人間と、くつろいで過ごす時間を設けたほうがいいですよ。このまま仕事だけするのですか。私は当の昔にそんな生活とはオサラバしました。

では、また。


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(第八話)
私は昔、自動作曲システムを開発して情報処理学会で発表しましたが、当時(現在も)ちゃんとした自動作曲システムは存在せず、NHKが会社(アイネス)に取材に来て、デモ演奏を録画して、私も少しだけテレビに映ったことがあります。記念にNHK特製の時計を頂きました。現在はNHK受信料も払っていませんが、文句は言ってきませんね。以前に親父に言ってくれと言ってありましたが、親父は去年亡くなりましたので、現在も連絡が取れないのでしょうね。私はほとんどNHKしか見ませんが、その事実もNHKには漏れていないようです。つまり、NHKにとって現在のところ私は存在しないのです。そのうち私の存在がNHKに露呈する可能性は否定できないでしょうけどね。NHKのアナウンサーはノーブルで気品のある美人が多いので、そこらのタレントを見ているよりも気持ちが良いですね。小野文恵さん、小郷知子さん、滝島雅子さん他、沢山好きなアナウンサーがいます。天気予報の平井さんも好青年ですね。天気予報もよく当たるようになりましたね。アナウンサーが交代したりする時がありますが、寂しく思う時もありますね。

Facebookに入れてくれた人も全く知らない人でした。実世界の私くらいの年齢の知人はインターネットもやっていない人が多いらしく検索しても見つからないので、数名を除いて、知らない友達ばかりです。これらの友達は、私は知っているけど、でも知らないという、ウィニコットの言う逆説を通して、健康な電脳空間への扉が開かれる力になってくれているようです。本当に知ってるけど知らないお友達には感謝しています。


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(第九話)
横浜市健康福祉局障害企画課企画調整係 御中

 お世話になっております。荒井公康です。

 鶴見区役所が私に対して適切に対応しないので、やむを得ず、ブログで公開させざるを得ないことはご了承下さい。

 今回、私が受けた虐待事例に関する分析を少しまとめて見ました。はじめに答えを示しておいたほうが、そちらのほうでも理解しやすいと思います。今回の件では、私はある程度自分に対して距離を置いて見ることもできますし、表現能力、説明能力もありますので、完全に耐えられないほどのダメージにはなりませんでした。これには私は高学歴の理科系であることも関係しているかも知れません。しかし、他の障害者であれば、場合によっては、自殺、自傷行為、犯罪などに繋がった可能性があります。横浜市及び鶴見区役所にも猛省を求めます。このようなことで深刻な事態が起こることのないよう対策を講じて下さい。障害者だけを問題にすることのないようにして下さい。健常者でも問題のある人は沢山います。

 精神障害者は人口の1%ほどしかおりませんが、以前の主治医の小堀博先生によると、大衆の7割は知恵遅れ、即ち、馬鹿だそうです。馬鹿と知的障害者と認知症患者は違うそうです。私は専門家ではないので区別はつきませんが。国や自治体や医者がどうして「馬鹿対策」を行ってこなかったのか不思議です。これだけの数の馬鹿を直す薬を開発し、医療の対象とすれば、製薬会社、医療機関、馬鹿福祉施設は莫大な利益を挙げられるでしょうし、政府もそのための大型予算を組むために更なる国債発行の口実を作ることもできます。自治体に振り分けられる予算も大幅に増やすことができ、公務員の予算を完全に使い果たすという立派な職務も一層やりがいのあるものとなるはずです。将来は国民からの借金である莫大な国債を全て国民に返済するというやりがいのある大事業でさえ高い能力を持つ公務員ならばできるはずだと確信しております。これからは高い能力と専門知識を持つ公務員自らが、付加価値を生み出し、莫大な利益をあげて、経済成長に寄与する時代が来るはずです。これからの時代は知識産業が主流になると言われています。そのために、鶴見区役所の職員は残業もせず、なるべく早く家に帰って、自腹を切って、夜遅くまで、様々な専門書を読み、勉強や研究を行っていると、鶴見区役所のクスベ係長から聞いています。これからは公務員も自ら稼がなければならない!と宣言していました。女なんかに興味はないそうです。女のことばかり考えている民間の技術者なんか公務員にははるかに及びませんからね。今の民間企業なんかレベルが低すぎて、公務員には見ていられないでしょう。たかが民間の技術者にとっても難しい仕事ほどやりがいがあるものです。それでも、公務員と違って、女のことばかり考えてしまい集中力が欠如してしまいますがね。それに加え、私はお金の勘定もしなければなりません。金と女の悩みしかありません。東芝も男の悩みは金と女しかないと言っていました。まぁ、私も同感でしたね。工学博士の部長でさえそう言っていましたね。親父も金が全てだと言っていました。公務員と違って民間企業はこんなものです。公務員はきっと博士号以上の名誉博士号とやらを、誰かさんみたいに、沢山持っているのは確実だと思います。私なんか学生時代はヒッピーで、love peace freeが合言葉で、一人で「自由だ!自由だ!」と叫んでいましたからね。本当に私は反体制派の国賊で公務員には許せないでしょうね。

 話が逸れましたね。本題に入ります。

 スケープゴードの含意は、特定の集団または共同体にふりかかる危険ないし危機を回避するために、一人の人間を犠牲にすることです。一人の人間が集団の責任を一身に負って苦悩する事態をスケープゴード化とよぶとき、この言い回しは単なる比喩にすぎないと思われかねません。しかし、かつての古い宗教思想の中でスケープゴードが不可欠の概念であったように、人間関係の中でしばしば生起するスケープゴード現象は単なる比喩ではなく重いリアリティをもっています。特定の集団、共同体が危機に陥るときにはつねに、観念的にも現実的にも、何者かを犠牲者にするメカニズムが働きます。人間は孤立しては生きられません。ではこの秩序はどうして形成されるのでしょうか。不可思議なことにみえるが、人間は社会秩序を作るためには、一人の人間を犠牲にします。誰でもよい一人の人間を犠牲者に仕立てあげることが社会秩序形成の原理です。排除される者=スケープゴードは、共同体の負の価値を一身に帯びることで、他の人間群を秩序=中心へと結集させます。スケープゴードは何よりもまず「ケガレ」性を持ちますが、他方では秩序=中心の場所を占めるべく聖別化されもします。スケープゴードは聖性とケガレ性の両面価値を持ちます。スケープゴード現象は社会の表面層に時折現れる付随現象ではなくて、社会の中で生きる人間がコミュニケートしあうときに必ず発動する余りにも人間的な現象であり、社会と文化を考える場合の原理的な資格を持っています。スケープゴードにされた私の苦悩は確かに大きいものでした。
 スケープゴート現象を防ぐためには、個人個人が、自分の認識に関して自覚を持ち、自分の判断を盲目的に正しいと考えず、自分の判断には責任が伴うことを自覚し、状況の変化や新しい事実が見つかれば、自ら認識や判断を柔軟に修正しつつ、付和雷同を避け、和して同ぜずの精神で、他者に自分と同じであることを強要せず、個人間の差異を尊重していくしかありません。スケープゴードを生まずに、社会秩序を保つ方略や仕組みを、各自考察して頂くしかありません。過去のユダヤ人に対するホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)などもスケープゴード現象の一例であったことを忘れてはなりません。


(少し夢から醒めて)

小池昌代様

こんにちは、荒井公康です。

「真理を女であると仮定すれば・・・・・哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりこの女をうまく理解できなかったのではないか」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

よく分からない文章ですけど、詩的な表現ですね。私の詩は哲学的でしょう。小池様は私にとって真理であり女ですが、「理解」という暴力は避けたいと思います。アフォリズムとかどう思われますか。

言語は意味作用(体系内の諸項間の不動の隔たり)と指示作用(記号と指示対象との可動的距離)の二つの軸からなり、リオタールによれば、詩とは、これらのそれぞれの距離の侵犯というかたちの「言語の解体」を透かし見せるものに他ならないと言います。詩人は意図的にこれを行うのでしょうが、意図的でなければ精神を病んでいるのでしょうね。文は人なりであり、精神とは言葉で張られた空間です。少し数学的ですかね。

ああ、何で私は言葉で誤魔化そうとするのでしょう。難しいことを言ったかと思うと、突然ナンセンスギャグが飛び出したり、と小池様も混乱されているでしょう。強迫神経症の症状のひとつのようです。言語で人を振り回すのが特徴の神経症です。

もう難しい言い方は止めましょう。

「砂漠にひとりで暮らしてると、自分で楽しみを作りださきゃならない。」(これは、砂漠にたったひとりで暮らすスヌーピーの兄弟、スパイクの言葉です。私も同じ身分です。)

「もしこのキャンディを例の赤毛の子にあげたら、笑い飛ばされるんじゃないかな・・・」「この木かげに隠れてれば彼女が来てぼくの手からとってってくれるかな・・・」「愛は人に奇妙なことをさせるもんだね・・・」(チャーリー・ブラウン)

「きみは幸せになるのを恐れているんだよ、チャーリー・ブラウン」「幸福はきみのためになるって思わないかい?」「どうかなぁ・・・」「副作用はないかな」(ライナス)

「ゆうべ眠れなかったんだ・・・学校、人生、なにもかもが心配で・・・」(チャーリー・ブラウン)「ぼくもあんまりよく眠れなかった・・・一晩中、月が頭の上に落ちてくるんじゃないかって心配で・・・」(スヌーピー)

「ちょっと町へ出てくるぜ」「心配するなよ暗くなるまでに帰るよ・・・」「出かける時、誰かがさびしがってくれるっていうのは、いいもんだね」「ふり返るとまだ手をふってくれてるのが見えるよ・・・」(スパイク)(もう私にはこんな人はいませんが、熊のぬいぐるみを部屋に置いていて、それが家族の代わりです。)

「クスン!」「わるいけどキミの泣いてるの聞いちゃったんだ・・・どうしたの?」「わかんない・・・たださびしいだけなんだろ・・・」「友達だ!」

「あれが例の赤毛の子のうちだ・・・」「出てきたら、『おはよう』って言おう」「すると『なんで雨の中に立ってるの?』って訊くだろう」「そしたらぼくは言う『え、雨が降ってる?』」「すると彼女は言う『あんたってほんとにバカね!』」「雨に踊るのはロマンティックだけど・・・雨の中で木の後ろに立ってるのはロマンティックじゃないな・・・」(チャーリー・ブラウン)(片思いは、人をきれいにするものだけれど、なにもできないチャーリー・ブラウンよりも私は少しだけ大胆かな)

「今や哲学が三つなったわ、『人生は続く』『関係ないでしょ?』それに『知るはずないでしょ?』すごく深いわよね?」「ちょっと深すぎるかも・・・」「関係ないでしょ?知るはずないでしょ?人生は続く!」(サリー)


私の大学での専攻は化学でした。日本化学会の「化学と工業」という学会誌に面白い詩的な表現がありました。

ひやすとみえる(感熱色素)
まげるとみえる(偏光板)
あるのにみえない(反射防止フィルム)
においをつくる(香料)
まげてももどる(形状記憶合金)
ひかりでいろがかわる(フォトクロミック材料)
ちからをすいとる(衝撃吸収材)
ひかりをためる(蓄光材料)

理科離れが普通の世の中になってしまいましたが、これは子供に化学に興味を持ってもらうために考えられた表現です。小池様は理科はお嫌いでしょうね。でも上の表現は詩的だと思いませんか?そのまま読めば詩ですよ。科学の世界にも信じられない現象は沢山あります。それらを詩的に表現すれば、興味を引くことができるかも知れませんね。

最近、小林秀雄と数学者の岡潔の対談集「人間の建設」(新潮文庫)を読みましたが、詩のことにも言及があり、小池様も興味をもたれるかも知れませんよ。お勧めします。若いころ小林秀雄の影響を受けましたが、彼の直感的で独断的な文章は、自分の考えが確立していない若い人たちには危険かも知れませんね。私の人生がこうなった一因には小林秀雄の影響もあると思っています。普通の人たちと考え方が逆になってしまうのです。仏教にもそんなところがありますね。私がこの本からヒントとを得た考えは、アインシュタインとベルグソンの時間に扱いについての齟齬を解決したのは、フッサールだろうということです。これは詩とは関係ないですけどね。

大学時代に水崎純一郎さんという助手と仕事をしていましたが、その奥さんは水崎野里子さんといい、詩人ですよ。有名かどうか分かりませんが、インターネットで検索するとでてきますよ。HPも持っています。故笛木和雄教授が存命中には、毎年教授を囲む会がありまして、その時に、この方にコーヒーをいれて頂いたのを覚えています。人の良さそうな親切な方でした。その様子を見ていた水崎先生も愉快そうにこちらを見ていました。水崎先生はその後東北大学の教授になりましたが、最近退官されたようです。私より10歳年上です。


それでは、また。


(永遠に続くであろう罪なき片思いのために)
序文1
先日は突然失礼な問い合わせを差し上げ失礼致しました。実は私も小説家とまでは言わなくとも、エッセイストを目指して通信教育を受けていたことがあります。つきましては、私が推敲に推敲を重ねた作品を小池様に査読して頂ければ幸いと存じます。小池様のお人柄を推察させて頂ければ、小池様のお怒りを受ける内容かも知れませんが、私自身は自分のことをイギリス風の紳士と自覚しておりますし、女性と一晩一緒にいたとしても何も起こらないような男です。実際そのようなことが何度かありました。何卒イギリス流のユーモアと解していただければ幸いです。では作品をお送りしますが、お忙しいことと存じますので、お暇で余裕のあるときにお読み下されば幸いです。このような作品を書くことも私が気違いあつかいされてきた一因と思われます。東芝では私の冗談は全く通じませんでした。それにも関わらず、私の所属していた避雷器部避雷器素子課は、略してヒブヒ技と呼ばれており、同期も笑っていました。他の部署でも変圧器部変圧器技術課は変ブヘンギと略称されておりましたが、工場幹部は平然としていて何とも思わないようでした。慣れとは恐ろしいものです。
序文2
荻原朔太郎の鶏の鳴き声の表現に関する貴方の解釈に関して哲学的な興味を持ちました。詩人には精神病的なところがあるようです。超越論的主観性に欠陥が生じるようです。以下の私の文章を読んで、ご自分で考察してみて下さい。この他にも、言語の多義性についての解釈についても意見がありますが、後日述べることとします。
序文3
今日は参議院選投票日でしたね。私は精神障害者ですし、最近は認知症の症状が少しあるので、判断能力がないと認定されていて、選挙権がありません。たった3人(3議員)しか選ばれないのですから、激戦でしょうね。高齢化社会ですので、選挙人にも政治家にもかなりの割合で認知症の人がいるはずですよ。テレビでニュースを見ていて、そう感じることがあります。認知症の人は精神障害者よりあぶないですよ。頭が良すぎる精神障害者もいますからね。日銀も怪しいですね。政権が変わっただけで、株価が高騰しましたが、不思議でしたね。しかしまた下がりはじめましたね。きっと、日銀が株を買っていたんでしょうが、国債も買わなくちゃならないし、お金がなくなったのでしょうね。輪転機でお札を刷る訳にはいきませんからね。安倍さんが最初そんなことを言って非難されたのを覚えていますか。白川さんから黒田さんに代わったのも囲碁の石じゃあるまいし、白から黒では、感じが悪いですよね。黒田さんは大学時代の担当教授に似ているので、明らかに怪しい感じです。いや、このことはこれ以上言うのは危険ですね。小池様、秘密ですよ。
本当に恋は盲目ですよ。小池様。
What is this thing called love. You don't know what love is.
私の短歌を読んで下さい。


(私小説)
小池昌代様

暑くなりましたね。熱中症には気を付けて下さいね。

私は一応精神障害者になっていますが、私の文章やHPやブログを見て、小池様は本当のところどう思われますか。私みたいな精神障害者はあり得ないと思うのですよ。本当は障害年金目当てのところもあるのですが、不法なことはしていません。病気に間違われたにしろ、東芝林間病院(精神病院ではありません)の内科病棟(精神科などありませんでした)に入院していたのも事実ですし、自称精神科医が私を見ていたのも事実です。なんと、患者は私一人で、6人部屋の病室で酒で肝臓を壊したおじさんと二人きりの時もありました。患者が私一人なので、その医師が毎日何回も私のころにきて小言を言って、うるさいやらなんらで大変でした。厚生年金の保険料も支払っていましたから、法律的には受給資格に問題ありません。その後、神奈川県のデイケアに行きましたが、神奈川県の医師には私のどこが異常か分からず、職場復帰になりました。復帰後は東芝も私を病人扱いはせず、普通以上に働いていました。本当なら東芝に賠償責任があるのじゃないのでしょうか。それはもう難しいですから、障害年金受給は当然ですよね。2番目の会社のアイネスでも、私が病気と思う人は一人もいませんでした。親戚も誰も知りませんし、皆私が不動産収入で暮らしていると思っています。事実、年金以外にも収入はあります。最近まで、作業所に通っていたのですが、職員も他のメンバーも、私が精神障害者に見えず、問題になり、現在事実上作業所に行けなくなりました。作業所には大した仕事はありませんが、人間誰しも働きたいという気持ちがあるのは当然ですよね。作業所の仕事というのは、トイレ掃除、一般の掃除、草むしり、庭の手入れ、ポスティング、黒猫ヤマトのメール便、内職、と言った内容なので、確かに私のような経歴の人間がやる仕事ではありません。かと言って、今更、技術開発のような難しい仕事に就くのは嫌ですし、年齢的に言っても不可能な話です。そのようなことは個人的にやればいいことです。実際、家では難しい本を読んだり、プログラミングなどをやっています。作業所の単純作業も外での作業が多いので、気持ちがいいですし、気分転換になります。半日位の仕事に復帰できるように、区役所にかけ合っています。そのほうが健康的ですからね。作業所の施設長も二人の区の職員も私を障害者扱いせず、無茶苦茶なことを言ってきます。私も眠れないことをたてに、薬(内科でも使う弱い薬ですが)を飲んでいる障害者を虐待するのかと、区役所の総務課に連絡を取り、障害者支援課と作業所が、私を虐待をしていると訴えているところです。

私は一応障害者なので、障害者支援課が、私に関するファイルを作っています。本当のところ、何故自治体が障害者の情報を集めているのか理解できません。一応、障害者の支援のためということですが、法的根拠がどこにあるのか分かりませんし、ケースワーカーが私の前でファイルをパラパラとめくった時に見たのですが、私に関する否定的な内容や悪口や事実無根と言うか一方的なことが書かれていました。私としても事実と違うことが書かれていれば反論したいので、個人情報の開示請求の手続きを取っています。多分、私のことを変態とか変質者と書いてあるに決まっています。

私が書いた高度な技術資料も少し渡してあったのですが、今朝ケースワーカーが私にそれを返しました。一応受け取ったのですが、少し考え直し、それを再び、私のファイルに入れるよう午後に区役所に持っていきました。区役所としては私が高度な人間であるということが分かる資料があると困るのでしょうかね。私は知的障害者じゃありませんからね。何か誤解しているのじゃないでしょうかね。確かに公務員に理解できる内容ではありませんが、彼らも社会勉強をして、技術の世界を知る必要があると思います。分かりやすい資料を余分に持っていきました。私の書いたものは、難しく、東芝時代も、周囲から、もっと分かりやすく説明してくれと言われましたが、本当のことを言えば、計算機にいろいろな条件やデータを入力し、計算機に予測させ、出力の結果通りに実験して予測どおりになっていただけなので、私にも説明できませんでした。事情を知っていた人は、「荒井さんは、計算機まかせで、自分では何も考えていないじゃないか。」と言っていましたが、実際そのとおりでした。東電や東芝の重電部門は、民間企業ですが、公共的な仕事をしていて、事実上官庁と同じです。組織も自治体に比べ物にならない位複雑です。効率上、民間企業にしているのです。世の中を影で支えているのは公務員ではありません。最近自治体の長が東電の社長を非難というかからかっているニュースが流れましたが腹が立ちました。民間という立場や原発事故が理由で、東電の社長は物凄く低姿勢でしたが、自治体がなくても電力供給に影響がありませんが、電力会社が破綻すれば、電力供給どころか、国民の生活は成り立ちませんよ。話が反対ですよ。自治体の長が頭を下げて、お願いなり協力しなければ、日本はお終いですよ。大衆に迎合すべきではありません。それが大衆のためでもあるのです。自治体には物作りなどはとても不可能ですよ。そんな能力や知識のある人は自治体にはいません。やはり、日本ではメーカーの技術者が最も能力があると思います。民間という立場上、尊敬や地位を得ることはできませんが。そのことは、東芝に入社した時に最初に言われました。今後のエネルギー政策や原発問題は経済問題とも絡んでいていますが、技術の分からない政治家、自治体の長、国民が判断できる問題ではないと思います。電気学会も低姿勢ですが、結局、問題を実際に解決できるのは、民間の技術者です。民間の経営者も技術者に金は出しても、口は出せないのが実相です。そういう発想が国レベルで普通になる時代が来ないといけません。東芝にいた時は、管理職も私に技術的なことでは口を出しませんでした。酸化物は私の専門でしたので、酸化物の電子セラミック(バリスター)の技術的なことは私にしか分かりませんでした。

ところで、区役所に資料を戻しに行った時に、男のケースワーカーが二人寄ってきて、「荒井さん、臭いよ。風呂に入っていないのか。」と言いやがりました。臭いものに蓋というのはこのことです。臭いのは最近暑く汗をかいていて、しばらく忙しくて風呂に入っていなかったからですが、原因を辿れば、7月になって暑くなったのが理由で、暑くなったのは気象庁が何かやっているからでしょう。気温も気象庁の予報通りですし、気象庁の自作自演だと思いますよ。私も技術畑を離れて長いですが、予想以上に科学技術が進歩していて、気象庁が気温を制御している可能性は十分ありますよ。気象衛星も打ち上げていますし、きっと何かやっていますよ。確かに、歩いていた時に、近くにいた人は、私を臭い奴だと思っているようなのは伺われました。飼い主に連れられた犬も私に鼻を鳴らしながら、クンクンと私のほうに近づいてきました。一応、家に帰って風呂に入ってから、生活支援センターに夕食を食べに行きました。職員に臭いかどうか尋ねましたが、臭いとは言いませんでした。でも、こいつは臭いと、職員もいつも思っているのは確実でしょうがね。

話は変わりますが、センターに怖い人がいて私に絡むことがあるのです。仕方がないから、今日はアルトリコーダーを一本持ってセンターに行きました。ヤマハのプラスチック製のアルトリコーダーで結構丈夫です。私は剣道をやっていたことがあるので、向かってきたら、これで殴り飛ばしてやるつもりです。警官が不審に思って呼び止められても、サウンドオブミュージックのテーマを吹いて誤魔化せるはずです。アルトリコダーは護身用にも使えますよ。小池様も一本どうですか。

小池様の作品は、大人っぽいなぁと思う時もありますが、本当はどうなんでしょうかね。そんなにスケベな生活をしているように見えませんよ。忙しそうですしね。本当は禁欲的な生活をしていると思います。私も自分のことを歳のわりには子供っぽいと思っています。隣のオバサンも歳よりもずっと若く見えると驚いていました。スケベな生活とはほとんど無縁ですし、健常者には私の生活は耐えられないでしょうね。自分でも何が楽しくて生きているのか分かりません。ひとりで馬鹿げたことを考えて楽しんでいることもあります。今日も原田さんに馬鹿げたことを言ったら、「荒井さんがいつも考えていることが分かった。」と言っていました。原田さんには全てお見通しのようです。

小池様と私は性格的に対照的なところがあると思います。だからこそ補い合えるところがあるのではないでしょうか。

卵がかえれば、ヒヨコになります。卵にはヒヨコを作るに十分なほど完全な栄養が含まれています。子供はミルクを飲んで成長します。卵と牛乳だけで生きていけると言われています。だから、卵と牛乳だけは毎日欠かしません。

私は卵を沢山食べているので健康に生きていられるのだと思います。11年前に母が死んで以来、碌なものを食べておらず、牛丼屋の松屋を利用することが多かったのですが、松屋では卵が必ずついてくるので、現在も健康なのだと思います。本当に卵様様です。

しかし、卵だけでは幸福には生きていけません。卵だけでなく、愛が必要です。特に小池様の愛が私には必要です。でも無理は言えません。別に失恋には慣れているのでご心配なく。

まぁ、私の書く文章は面白いと思います。私も書くのは楽しいです。ご迷惑でしょうが、これからも宜しく。迷惑なら言って下さい。すぐに身を引きます。

時節柄お体に気をつけてご自愛ください。

(コメントとそれに対する回答)
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はじめましてみのりです。

小池さまへの手紙拝見しました。
精神科に入院
なぜ入院されたのか
良く分かりませんね!

お仕事も普通にこなしているようですね
 
またブログ楽しみにしてます。
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みのりさん

何故入院になったかの経緯は、東芝での配属が納得できなくて、総務部長に頻繁に配置転換を求めて話しにいくようになりました。私は学者タイプで研究開発しかできないのですが、経営者タイプと勘違いされていました。これは明らかな東芝の誤解でした。所詮今考えても無理な注文であったと思います。しかし、私のような一流大学の大学院を修了した人間の配置転換は、東芝としても簡単にはできないということでした。現場の人間ではないのだからと言われました。今考えれば、確かに若気の至りで、世間知らずの行動でした。現在では人事権は全て人事部が握っていて、誰も逆らえないのです。しかし、交渉して、3ヶ月会社の病院に入院すれば、その間に手はずを整えて配置転換してくれるという条件で、東芝林間病院の内科病棟に入院しましたが、その約束は反故にされ、退院後も総務部長や勤労課や直接の上司にクレームを付けていました。仕事はちゃんとこなしていましたが、納得がいかなかったのは事実です。仕事上の関連部署で、いまキャノンの工場があるところは、以前は東芝の柳町工場があり、そこは、私がいた東大の研究室とほぼ同じ設備がある、総合研究所の分室があって、そこが私には適した場所で、東大時代の知り合いもそこにいました。今も当時の部長と話したことがありましたが、私にはそこのほうが向いていたということは、認めてくれましたが、もう柳町工場もありませんし、今更、言っても仕方ありませんが、今思い出しても時々腹が立つことがあります。最近ようやく、そういうことを思い出すことも少なくなりましたが、転職後も東芝に対する不満は続き、怒りっぽい状態が続いて、八つ当たりみたいな行動をしていたことは事実です。


(亡き父のために)
小池昌代様

あまりメールを沢山送るとストーカーと見なされてしまうようですね。迷惑なら言って下さいね。

去年、父を亡くして、寂しいです。短気で怒りっぽい父でしたが、気前がよく、私には生前贈与までしてくれました。相続時精算手続きをしてありますが、他の相続分もあるので、どう処理するかは、弁護士さんと税理士さんにお任せしています。父は本当に私のことを心配していました。私のマンションにも何回か来て、一度はなんとトイレの掃除をして帰りました。几帳面な性格で、だらしない私をよく叱りました。私自身は他の人たちからは、非常にきちんとした人間と思われていますが、父はそれ以上でした。学もない父でしたが、碁が滅法つよく、私のへ理屈など退け、当たり前のことだけを言う父でした。晩年は少し認知障害があり、知り合いに電話ばかりしていたようです。私のところへも夜昼かまわず電話をしてきましたが、父の声を聞くと、何故か私は嬉しくなりました。もう、その声も聞けません。私のマンションにも二度と来てくれません。81歳になってから、歩けなくなって、老人ホームに入居しましたが、私は毎週、お煎餅とお寿司を買って見舞いに行きました。とにかくお煎餅が好きな父でした。誤燕性急性肺炎で、菊名記念病院に緊急入院しましたが、三日後の平成23年9月13日17時04分に死去しました。三日間は毎日、私は病院に通いました。息が荒く、少し苦しそうでしたが、結局呼吸不全で息を引き取りました。人の最後を看取るのは初めてでした。人工心肺などで延命措置をするか、自然に息を引き取るのを待つか、医師から決断を迫られました。延命措置をとると、遠くの病院に入院させなければならないし、本人も苦しむし、家族の負担も大きくなるからと、医師も延命措置には反対しました。弟も面倒なことは嫌だと延命措置に反対しました。私はどんなことになっても父には生きていて欲しいという気持ちで一杯で、泣きたくなりましたが、男ですから、涙を堪えて、医師と弟の意向に従わざるを得ませんでした。結構長い時間黙っていましたが、物凄い葛藤がありました。弟のことも少し冷たいと思い憎らしく思いました。もう少し迷ってもいいのじゃないでしょうか。父の早い死を願うというのはどういうことでしょうか。父の最期のことは今でも忘れられません。通夜には、私ひとりで、一晩中父の遺体と共にいました。広い斎場にはだれもおらず、電子キーの番号だけを斎場の人に教えてもらい、朝5時頃自分で鍵を開け、コンビニに弁当を買いに行き、食べました。一晩中、ときどき棺の窓を開け、父の顔を見て、いろいろ話しかけました。普通、こんなことは、ひとりでは怖くてできないのでしょうが、私は平気な性分なのです。私の父なのですから、怖いとは思いませんでしたが、普通の人にはできないかも知れませんね。弟家族も帰ってしまうのは、少しおかしいですけどね。皆で、一晩中、見守るのが普通でしょうけどね。弟はかなりの額の父の預金を勝手に引き出していることが、弁護士さんと一緒に調べて分かっているのですが、自分の弟ですから、どうしたものかと思っています。本当に弟は調子がよくいい加減なんですが、人が良さそうで皆に好かれます。私と反対です。

母の死後、父は若い女性にお世話をしてもらっていたのですが、普通なら家族として、私は反対する立場だったでしょうね。しかし、私は高齢の父には幸せに好きなように暮らして欲しかったので、反対しませんでした。6年前までは、主治医は現在とは異なる小堀先生という方に診てもらっていました。父のことを話すと、小堀先生も、私のことを、人間として分からない人だなぁ、と言っていました。父はその女性と小さなアパートで暮らしていました。私の一人暮らしも11年目です。6年前に実家から現在のマンションに移りました。実家は広かったので、現在のところは部屋が三つあるにしても、私には狭いです。ピアノと楽譜と本とパソコンとテレビしか置いてありません。夜が来ると寝るだけです。父の居場所に私も何回か訪問したのですが、いくつかの部屋のひとつの6畳間の狭い部屋で、エアコンをつけて、一日中お煎餅を食べながら、座椅子に座ってテレビを見ていたようでした。居心地が良かったのでしょうね。その女性は看護婦さんで、父のことを、お父さんと呼んでいました。近所には荒井家の本家もある場所でした。本家は海苔問屋をやっています。その女性と父と私で、今後のことを話し合ったこともあります。その女性も、父の世話には限界を感じていて、いろいろな経緯から、結局、東電関連の樅の木という介護付き老人ホームに入居することが決まったのです。父は東電OBですので、すぐに入居できました。福島の原発事故以降は、東電も資産を売却し、現在は大和ホームが経営しています。関係ないですが、原発事故は、私にとっても想定外で、今後のエネルギー政策に関心を持っていますが、簡単に脱原発には賛成できません。大学、東芝、とエネルギー関係の仕事をしていたので思うのですが、技術的に不安定な供給しかできない再生可能エネルギーへの転換は簡単ではありませんし、火力に頼って、地球温暖化防止に逆行するのもどうかと思います。東電他、他の電力会社にも儲けてもらって、安定した電力供給を続けて欲しいですね。東電が潰れるということは、日本の終わりと考えていいと思いますよ。もちろん、私が決めることではありませんが、原発再稼動は必要悪と思います。

センターのHさんとはお知り合いなのですか。Hさんはセンターでも賢明な方ですね。今日は、Hさんに、難しい話をしてしまい、逃げられてしまいました。Hさんは頭が良いので、つい頼りにして話しかけてしまいます。

長々と勝手なことを書いてしまい申し訳ありません。私は結構おしゃべりで、腹にしまっておけないタイプです。変な男だと思って許して下さい。結構文章を書くのも好きですし、暇つぶしにもなりますが、ご迷惑でしょうね。重ね重ね御許し下さい。

今日は真面目に書きました。今までのふざけた文章は笑ってやってください。本当にK様を楽しませるためでした。不愉快でしたら、本当にお詫びします。MixiやFacebookに書く内容でもありませんしね。

本当にごめんなさい。


私のツイート集

お金で買えいものがある。エホバの証人がそのようなタイトルのパンフレットを私にくれたが、内容はピントはずれだったと思う。お金で買えないものはとんでもないものだ。それは「苦労」である。若いうちに苦労しないでどうする?若い諸君!

センターでは今日はカラオケ大会で、桶(オケ)にもいろいろあって、私は一人で風呂桶で歌っていたほうが気持ちがいいね。皆、いつか棺桶に入れられてしまうが、その中でも歌えたらいいね。親父は歌っていたよ。本当だよ。まぁ、私にしか分からないだろうね。本当は悲しくて泣きたいよ。

多重人格で、家で一人でいる時は、正座して、背筋を伸ばして、論語なんかを読んでいるんだが、周りに人がいると、挙動がおかしくなるんですよ。外乱が少しでも入ると、制御が難しくなって、振動しながら発散していくような挙動になるので、無限大に発散する前に、家に逃げ帰ってくる毎日だね。

先日、古美術商から電話があって、何かあったら買い取りたいとのことだった。実家に明の時代の壺があって、その中には、昔から知らない人が住んでいて、ディオゲネスの壺だとか言って、出て行ってくれない。そばに行くと眠れないからどいてくれと言われる。これじゃ、売りたくても売れないね。

昔は固定為替相場制で一ドルは360円だった。決めたのは米国らしい。米国で日本語「円」の意味を調べたらしく、英語ではcircleなので、円周率が360度だから、そうなったらしい。為替相場なんていい加減で良かったのだろう。今は変動相場制で忙しい時代になったものだ。

3月ごろ酷い風邪をひいて、咳がなかなか止まらなかった。仕方なく両国の国技館に行き、お相撲さんに会ったら咳が止まった。さすが関取(咳取)だ。さすが日本の国技だ。

東西冷戦時代に核戦争が勃発する危険性などなかったのだ。モスクワの「赤の広場」の「赤」のロシア語での意味は「美しい」という意味なので、「赤だ、赤だ」と非難しても、旧ソ連は美しいと賞賛されていると思っていたので、戦争が起こるはずは無かったのが真実だ。仲良くするためには褒めてあげよう。

私には自称360歳の円周率みたいな年齢の友人がいるが、本当にそんなに歳を取っているようには見えないのは不思議だ。私とも260年ほどしか付き合っていないので、私にも確かなことは分からない。

現在、黒田さんが日銀の総裁になっているが、候補として私の小学時代の友達も上がっていた。もし、彼が日銀の総裁に就任した暁には、お札を刷ってもらって、私にくれることになっていた。もちろん、印刷代は支払うことになっていたが、相当の利益が得られるはずだったので、極めて残念だ。

鶴見川崎にはヤクザが多く、私も元ヤクザで、足を洗ったが、手も洗って、顔も洗って、仕事に行くようになり、詰められてしまった小指も伸びてきて、元通りに戻った。私の手の指はイモリの尻尾みたいなものだ。

音楽の本三冊が手に届いた。「はじめてのジャズ Jazz Master Series」「ピアニストのためのスケールソロ・フレーズBook」「リハーモナイズで磨くジャンル別コード・アレンジ術」の三冊だが、役に立つかどうかはまだ分からない。難しい内容ではない。

そろそろ音楽活動を再開しようかな。演奏会を開くということではなく、ピアノ、リコーダー、作編曲、音楽ソフトの作成などです。

「言葉は魂を治療するための本質的な工具でもあるのだ」(フロイト)「忘れる能力、欲望や理解を絶つ能力こそ分析家にとって根本規律だとみなされねばならない」(Bion)「つまり本来の経験は言葉というものを欠いているのだ」(ニーチェ)

毎朝、一時間半位、自転車で川崎方面に向かって一回りしてから鶴見に帰ってくる。途中、サンクス市場町店(横浜市鶴見区)に立ち寄り、伊藤園のお茶を買って飲むのが習慣になった。ここの店員さんの鈴木君、石井さん、小野さんは明るく朗らかな高校生だ。隣は市場町交番で、そこの警官とよく挨拶する。

ストア派とエピクロス派が古代ギリシアにはあったが、結局エピクロス派の主張はストア派の主張に近くなってしまう。ストイックな生き方のほうが幸せなのだろう。足るを知るということだ。でも、親父が亡くなって寂しい。これはストア派とは関係ないことだ。誰か助けて欲しい。

中高年対象の交際相手を見つける広告をクリックして記入したら、途端に沢山の有名な結婚相手マッチング会社から資料が届いた。私は当面相続のことで忙しい。読む暇がない。私としては茶飲み友達程度でいいのだが。ホント深刻な話は嫌。プラトニックがいいんだ。

私が好きなアセロラジュースはLawson100では105円で買える。他ののコンビニでは148円だ。そのことを店員さんに言ったら、同じものなんだが、仕入れが違うのよ、と言っていた。ゆで卵も二つで105円だ。他のコンビニでは一個70円だ。

今日はセンターでソファーに座って、小谷さんと年配の女性と3人で、テレビを見ながら4時まで話していた。楽しかった。今日は平穏な一日のようだ。7時ごろ、センターに夕食を食べに行く予定だ。今日はハヤシライスだ。別に楽しみにはしていない。

今朝9時にLawson100平安町店(横浜市鶴見区)に行った。仲の良いおばちゃんの店員さんに、9時だからくじを引くと当たるかもしれないと言っても反応なし。今日も軟派しに行くの?いつまでも青春ねぇ。と言うから、認知症で自分の歳も分からないんだ、と答えた。


言葉と精神療法において心得ておくべき言葉
「言葉は魂を治療するための本質的な工具でもあるのだ」(フロイト)
「忘れる能力、欲望や理解を絶つ能力こそ分析家にとって根本規律だとみなされねばならない」(Bion)
「つまり本来の経験は言葉というものを欠いているのだ」(ニーチェ)
「言葉は存在の住まい」(ハイデガー)
「親しい気もちで患者といることができれば連想もすすむ。そんな安らぎの沈黙、創造的な沈黙がある。治療者はなによりも沈黙を学ばねばならない」(西園)
「人はその人自身の経験をして、経験それ自体の意味を告げさせねばならない」
「治療者の感情は患者の隠れた感情を理解するための鍵となる」(土居健郎)
「その感情をちょうど患者の話の内容が面接場面で実演されるようになるタイミングで、気もちとしては私(ないしわれわれ)を主語として、実際にはなるべく主語を省いて表明する」(成田善弘)
「この技法はきわめて簡単なものである。その技法はただ聴いているというだけで、患者の連想を書き留めておくことさえない。聴き取られる一切の事柄に対して、差別なく平等に漂わせる注意を向けるだけのこと・・・・・」(フロイト)
「分析医は被分析者に対して不透明な存在でなければならない。鏡面のように、その前に示されたものだけを写すものでなければならない」(フロイト)
「クライエントの私的な世界をあたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの”あたかも・・・・のように”(as if)という性格を失わないこと」(ロジャース)
「言語化された言葉は言語化不能の領域をも明示しうる」(北山)
「分離は単なる分離ではない。結合の一形式である」(ウィニコット)
「見えているが誰も見ていないものを見えるようにするのが詩である」(長田弘)
「誰かが私を考える」(ランボウ)
「私は一つの他者です」(ランボウ)
「そのように多義的なものとならざるをえない言い回しは、きみの意識を超えて、外部の現実を密かにきっかり受け止めたりするものではないだろうか?それは、きみの無意識とかかわる、言語表現の偶然の力というようなものだろう」(清岡卓行)


福島原発事故の後始末に対する提案
汐田診療所相談室のケースワーカーに次の内容のメールを送りました。汐田診療所は共産党系ですから、私とは意見が違うところがあります。哲学系MLでも、共産党系の人と思われる人と議論したことがあります。まぁ、私は選挙にも行ったこともありませんし、どこかの政党を支持している訳ではありません。昔からノンポリでした。学生時代には、カクマル派とかが、大勢、マスクをしヘルメットを被って棒を持って、山手線の車両を占領していたことがありますが、私一人が普通の服装をして囲まれてしまい戸惑ったことがありましたが、別に何もされませんでしたけどね。ああいう連中はヤクザと同じで、関係ない堅気にはちょっかいは出さないようですね。内ゲバが基本でしたね。鶴見区生活支援センターの職員もヤクザや過激派と同じように、堅気の私にはちょっかいは出さずに礼儀を守って欲しいですね。私は鶴見区生活支援センターという組織の外部の人間ですからね。関係ないですよ。職員間で内ゲバをやっていればいいじゃないですかね。


汐田診療所相談室御中

この話は、あなた方の将来の生活に関わる話です。10年後にでも深刻な事態になる可能性があります。共産党は大企業が嫌いなようですが、東芝などは昔から赤字体質で、賃金も低く、内部留保金の1%でも出す余裕などありませんよ。内部留保金と言っても流動資産だけではなく固定資産がほとんどですし、負債もあることを忘れないほうが良いでしょう。財務体質から見れば東芝などはいつ潰れてもおかしくない企業なのですが、社会的影響が大きすぎて潰せないのです。重電部門を持つ企業など、5社くらいしかありませんし、潰れれば電力を供給できない世の中になります。東電も原子力で儲けてきたような話を、今日NHKの日曜討論会で政治家が言っていましたが、東電も賃金は低く、研究費を、政府に代わって、関連企業に回していた不思議な会社でした。政府には民間企業に渡すお金などありませんからね。逆に民間企業が税金を支払っているのですからね。私も東芝に勤めていた時には、研究費として年間300万円ほど東電から貰っていました。東電はやたら電気を使ってもらって儲けようというような企業ではなかったのです。東芝も東電の下請けみたいなものですから、福島の原発事故以降は大変だと思いますよ。製造業は大企業でも賃金は安いですよ。内部留保金を一部渡して、社員の賃金をこれ以上減らせとでもいうのですか。東芝が潰れちまうのは可哀想じゃないですか。中小企業や自営業の人などのほうが賃金が高い傾向がありますよ。これは私の母がよく言っていました。弟の話によると、東電は全て資産を売却したそうです。父が入所していた有料老人ホームも東電関連企業が経営していましたが、現在は大和ホームが経営しています。電力会社はいわば電力関連企業の頂点でしたから、多数の関連企業も大変な状況にあり、原子力が使えなくなるとなれば、円安の状態で化石燃料を輸入すれば、電気料は高騰して、国民の生活も苦しくなるでしょう。最近は円高になりましたが、しばらく円安だったのは日銀が介入していたからのようですが、国際世論が許さなかったのでしょうね。再生可能エネルギーに簡単に転換できると思いますか。50年以上は掛かりますし、電力の安定供給や電気の品質が低下して、精密機械工業などは成り立たなくなります。お天気次第の電力供給になり、天気予報ならぬ、電気予報が必要になるでしょうね。太陽光発電なども大規模になれば農業などの食糧生産と競合してしまいます。風力発電所もどこに、誰がお金を支払って作るのですか。電力会社にも政府にもそんなお金はありませんよ。更に国債を発行するのですか。電気は発電だけすれば良いというものではありません。発電手段や発電所の場所が変われば、送変電システムも新たに構築しなければなりません。マスコミや政治家が言っているのは、発電手段のことだけです。ラジオに例えれば、電池のことだけ言っているようなものです。電池だけで、ラジオが鳴るはずがないでしょう。他の部品も沢山必要です。電力系統も同じで、発電所があって、ただ電線で家庭や工場に繋いでいるわけじゃありません。発電手段や発電所の場所が変わっても、発送電分離とか言って、今までの既存の送変電システムをそのまま使えると思っているようですから、お目出度いですよ。電力供給の自由化などをすれば、電力供給量は制御不可能になるでしょうから、止めたほうが良いですね。多くの企業が参入したら、どうやって電力需要に対して電力供給量を調節できるのでしょうかね。無駄な発電量が増えてしまうかも知れませんね。場合によっては電力供給量が足りなくなり、停電が頻発するかも知れませんね。大規模な発電所を沢山作るわけにはいきませんから、規模の経済が成り立たなくなり、逆に不経済な話になって、電気料金は高騰するでしょうね。電力供給にまで自由競争という経済原理を適用するのは無茶ですよ。何のために、電力会社が半官半民の公益企業であったかよく認識すべきです。

まぁ、代替エネルギーとやらが完成する前に、このままいけば、日本は財政破綻するでしょうね。こういうことを考えるのもかなり辛いですよ。皆、知らぬが仏で、呑気な顔をしていますね。代替エネルギーなど30年以上前から考えられていましたが、日本化学会誌や電気学会誌を見ても何の進歩もありませんし、技術の蓄積もないのですよ。福島の原発事故以前には電力関連の技術は成熟したものと考えられていましたから、本気で代替エネルギーなどを研究している人や企業はありませんでした。再生可能エネルギーによる発電で、不安定な出力の電力が増えて、それが大量に既存の電力系統に加わると、どうなるか専門家にも分からないのですよ。かなりやばいみたいですよ。発電機が壊れる可能性もあります。今は老朽化した火力発電所を修復してフル稼働して、なんとかぎりぎり間に合っていますが、いつ故障して、大停電が起こるか分かりませんし、新しく火力発電所を作るお金も電力会社にはもうないですよ。政府にもありませんよ。電力需要に供給が少しでも追いつけなくなれば、すぐに大停電になります。現在は間に合っているじゃないかと言って、原発は必要ないと主張している人たちもいますが、ぎりぎりで賄っているということがどういうことか分からないようですね。火力発電所がどんなに複雑で大規模な構造物か知らないのでしょう。電力会社は装置産業ですから規模の経済が当てはまり、かなり大規模な発電設備を持たないとコストが高くついてしまいます。あなた方のお金で作るしかありませんが、そんなお金はないでしょう。火力発電で発生する二酸化炭素で地球温暖化が確実に進み、南極や北極の氷は既に以前から大量に解け始めていましたから、東京都の一部は水没するかも知れませんね。

まぁ、私はあなた方よりも、早く死んじまうでしょうから、無責任でもいいのかも知れませんが、あなた方は将来餓死してしまうかも知れませんよ。母でさえ、そんなことを言っていました。放射能も自然拡散しますから、福島の事故での放射能レベルでは、あまり影響はないと思います。むしろ、海に流してしまったほうが、放射能は海中や海底に拡散して、ほぼ無限希釈されますから、そのほうが安全です。元々核燃料は自然界にある濃度の低い核物質を遠心分離法などで濃縮したものですから、それと逆の操作をして自然界に拡散させて戻せばよいだけの話です。もともと濃縮された核燃料はそういう濃度の低い状態で自然界に存在していたものであり、自然界の核物質全体の量が増えたり減ったりすることはありません。拡散と濃縮は逆の現象です。自然界の核物質の量は質量保存の法則に従っていて一定ですから、濃縮しておくよりも拡散させてしまったほうが安全です。必死で汚染水を海に流さないようにしていますが、大した放射能の量ではないと思いますし、狭い場所に閉じ込めておけば、放射性物質の濃度が時間とともに、増えてしまうのは当然で、本当に馬鹿馬鹿しい努力をしていますね。タンカーで海洋に運んで海中に放出してしまえば済む話です。エントロピー増大の法則に従って放射性物質も自然に拡散してしまうので、逆に自然に濃縮されるという現象は放っておけばあり得ないというのが自然の法則(熱力学の法則)です。そうすれば無限希釈され危険性はなくなります。人間食っていかなければなりません。生きていくにはリスクがつきものです。原発を再稼動しなければ、財政破綻が早まるだけで、本当にあなた方は餓死するかもしれません。福島の原発事故の原因になった地震による津波などは1000年に一回くらいの確率でしか起こりません。このまま行けば、150年後は人口はゼロになるという試算がなされています。無責任に子供を生んでも、餓死させるだけです。共産党には許せない意見かも知れませんが、キチガイの爺の言うこととして勘弁して下さい。



今後のエネルギー政策についての意見

昔の知人へ

脱原発、再生可能エネルギーへの転換を唱えているようですが、電力系統は発電部分だけで作られているのではありませんよ。私は東芝で送変電システム関係の仕事をしましたが、送変電だけでも非常に複雑な話になります。電気学会誌などを読むと、不安定な再生可能エネルギーが既存の電力系統に加わった場合のシュミレーションが行われている段階に過ぎず、それもかなり単純化した等価回路モデルを用いたものですが、実際にどういうことになるか正確な予想はつかないようです。安定な電力供給がでいきるかどうかは疑問です。電気の品質であるいろいろな安定性は損なわれるでしょう。安定性にはいろいろなものがあります。電力系統には様々な外乱が入り、過渡現象にも対処しなくてはなりません。研究室と実世界は違いますよ。

発送電分離などと簡単に言いますが、再生可能エネルギーが導入された場合、既存の送変電システムをそのまま利用可能と思いますか?それとも新たに送変電システムを再構築する必要と思いませんか。既存の電力系統のままならば発送電分離も可能でしょうが、政治家の言うことは支離滅裂です。

蓄電池による平準化についても、負荷変動が大きくなれば、蓄電池の寿命もかなり短くなるのではないですか。使い物にならないでしょう。

私は原子力は使えるだけ使ったほうが良いと思います。でなければ電力会社が債務超過に陥り、日本が破綻する時期が早まるだけです。日本の財政状況から見て、どうやって再生可能エネルギーへの転換費用を捻出するつもりですか。我々老人が将来世代から借金をして踏み倒すしかありませんね。しかし、将来の世代が借金を返せるはずもありませんから、消費税を25%にするしか手がありません。国の財政だけならばこれで済むでしょうが、再生可能エネルギーへ転換となると、更に費用を賄わなければなりませんから、電力会社が軒並み赤字となると、更に国債を発行しなければならず、最悪日本は破綻する可能性もありますよ。ユーロ圏を見れば分かるでしょう。今は国が破綻する時代です。ユーロ圏ならば、加盟国がしぶしぶ援助してくれますが、日本は右傾化して孤立化していきますから、助けてくれる国は少ないでしょうね。現実には電力会社が原発再稼動して、儲けてもらって、時間と費用を稼ぐしかないでしょう。

所詮、原子力廃棄物の半減期以内に、人類は滅びるでしょう。それまでは、放射能処理技術開発に努力したほうが現実的でしょう。それに伴い徐々に再生可能エネルギーを増やすしかありませんよ。

このような意見を率直に言う人間は他にはいないでしょう。もう聴く耳はもたなくなりましたか。

私もいろいろ勉強中です。完全に理解しているわけではありません。電気工学も奥が深いですよ。笛木研で習った知識では対処不可能です。まあ、結論を急ぐ必要もないでしょう。

それでは。


今までの投稿の説明と今日の買い物について
 現在まで障害者福祉に関することを述べてきましたが、全て創作です。私が精神障害者ではないのは私の写真を見て頂ければ明らかだと思います。去年9月13日17時04分に父が逝去し、ずっと弁護士さんを介して弟との間で相続の問題で協議中ですので、このような事実はあり得ません。現実と錯覚されたならお詫び申し上げます。取り上げた人物名は全て虚構であり、現実に存在する人物の名前ではありません。同姓同名の方がおられたのならお詫び申し上げます。偶然の一致に過ぎません。このようなことが法治国家の日本であり得るはずがありません。あくまで寓話に過ぎません。現在は亡き父の預金口座の履歴を調査中ですが、一人暮らしの私には夜間にはすることもなく、徒然なるままに、筆を滑らせてしまいました。私に関することは一部事実を記述してあります。法律などについても同様です。
 今日は、いつもの通り、7時半に自転車で川崎方面に散歩に出かけ、途中で市場町のサンクスに立ち寄り、伊藤園の緑茶を買い、飲みました。帰り際にまず、さくら薬局鶴見栄町店で「コラージュフルフル育毛ローション(女性の髪と頭皮を考えた)」という女性用の薬用育毛剤を購入しました。私は昔から髪の毛が人よりもかなり多く、床屋さんでも鋤いてもらうことが多かったですが、今後禿げになる可能性は完全には否定できません。まだ禿げてはおりませんが、早めに禿げ対策をしたほうが賢明と思われます。女性用であろうと男性にも効果があるはずだと思います。その後、平安朝にあるセブンイレブンで納豆巻きを買い食べました。ここのマダム・フセインと挨拶を交わしました。実家の傍のLawson100に立ち寄り、卵とトマトジュースを210円で買い、店員さんと少しお喋りをしました。昨日、マツモトキヨシで腕時計を1079円で安く買えたことなどを話しました。父の形見であった時計が何故か止まってしまいました。修理に出そうかと思っていましたが、探してみても、時計屋さんが鶴見にはないようです。どこかにないでしょうか。
 母の預金も少し残っているので、鶴見区役所に立ち寄り、謄本を取り寄せました。区役所の入り口で知り合いと出会い話を少ししました。スーツを着てネクタイを締めて古風なグレーのコートを着ていたので、いつもと違う感じですね、と言われました。こんな服ばかり沢山持っているんですよ、と答えました。Olympicで鮭弁当を398円で購入後、2階に行って、グレーとブルーのズボンを買いました。買い物を終えて、自宅に戻り、昼食を摂りました。一時半に弁護士さんの事務所に出かけ、相続の件で相談致しました。うまく分割協議書を作成できればと思っております。
 弁護士さんとの相談の後に、まずBook Offで本を物色していましたが、偶然、私が通っている教会に来ているアフリカのガーナから来られた若い女性と出会い、挨拶を交わしました。豊岡通りにあるオデオン堂というCD屋さんで、CDを2枚買いました。「THE BILL EVANS ALBUM」と「MEL TORME Again」というアルバムです。前者は少し硬派のJazzアルバム(ピアノ・トリオ)ですが、「THE TWO LONELY PEOPLE」と「SUGAR PLUM」という曲は大変気に入っています。最初の曲は詩人キャロル・ホールからビルに贈られた詩に音楽をつけるように作曲したものだといいます。ワルツ・テンポのバラッドで、ロマンティスト、ビルの面目躍如たる佳曲佳演です。2番目の曲は前曲と逆に、ビルの友人で詩人のジョン・コートが、ビルのレコードのなかのアド・リブ・ソロの一部(4小節)に惹きつけられて詩を書いたという話をきき、すっかりうれしくなり、そのよろこびから生まれた曲だといいます。印象的な4度の上昇音、5度の下降音を軸にしたすがすがしい曲想が、スタインウェイ、フェンダー・ローデス・ピアノ(エレクトリック・ピアノ)を使い分けてビルは爽やかにアドリブを展開しています。正にフランス近代新古典主義のM.ラベルを彷彿とさせる曲想です。
 夕方5時頃、カレー専門店で牡蠣フライカレーを食べました。私はカレーが大好きです。母が存命中は、母が食べ物全てにカレーを塗してくれていたことがあります。この話を聞いて笑い出した人もいました。その後、FamilyMartで明日の朝食用の調理パンと菓子パンと野菜ジュースを買いました。本当にいろいろなコンビニにはお世話になっています。店員さんも少しだけ話し相手になってくれるので、嬉しいですね。
 MEL TORME(メル・トーメ)という人はご存知ない方も居られるかも知れませんが、作編曲家であり、ヴェルベット・フォグと呼ばれたソフトでスウィートな声が印象的なJazz歌手でした。彼が作曲した「クリスマス・ソング」という曲は有名で、私も好きです。ご存知の方も居られるかも知れません。ナット・キング・コールもこの曲を歌っています。意外と複雑な曲ですが、転調が印象的な美しい曲です。クリスマスも近いですし、皆さんにもお勧めします。
 昨年、父を亡くし、相続の話やら、去年の9月からいろいろとあって、少し疲労気味です。しばらく、少し、休養をとるつもりです。人生は短いですし、自分の人生なのですから、好きなことをして今後も静かに過ごしていきたいと思っております。教会にも通って、聖書の勉強や聖歌の合唱をしていきたいと思います。ピアノ、リコーダー、ギター、作編曲、ソフト作りなどを中心に、創作活動や読書をして静かに暮らしていきたいですね。私は生活には困らない人生のようです。羊年生まれの人は皆そうだそうですよ。私はストレイ・シープに過ぎませんけれどね。この表現は夏目漱石の「三四郎」に出てくる魅力的な登場人物の里見美禰子が最後に言った科白でした。大学の三四郎池は懐かしいです。学生時代によく散歩しました。生活のことは本当に亡き父のお陰です。友人も少し増えるといいですが、あまり沢山いては混乱してしまいます。ほどほどがいいですね。何事も中庸が必要ですね。
 大分寒さが増してまいりましたが、皆さん、お体に気をつけてお過ごし下さい。私ももうすぐ眠りにつくつもりです。よく眠れないと精神的に参りますからね。静かな環境は人間にとって大切ですね。一人で静かに過ごす時間もある程度必要でしょうね。
 それでは、お休みなさい。Hava a good night !


今だから言えるイラク戦争の真相(心こそ戦争の原因です)
千早(TUP/翻訳メンバー)

May Earth be Filled with Peace and Happiness!

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    サダムからの手紙
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そこら中でまきおこった「サダムが生きてるかどうかもわからない!」の大合唱のあと、サダムはジョージ・W・ブッシュに「オレはまだいるよ」と手書きで手紙を出すことにした。ブッシュは届いた手紙を開けたが、それは何かの暗号のようで、"370HSSV-0773H"と書かれていただけだった。ブッシュにはそれがどういう意味かさっぱり理解できなかったので、タイプしてコリン・パウエルに送った。パウエルと彼の側近も全く見当がつかなかったので、彼らはそれを中央情報局(CIA)に送った。が、CIAでも誰も解けなかったので、次に国家安全保障局、それからマサチューセッツ工科大学、そして航空宇宙局からシークレット・サービスへ...手紙はあちこちに回され続けた。最終的に彼らはイスラエル諜報機関、モサッドに助けを求めた。モサッドのモイシェ・ピピック大佐は一目見て言い放った。「大統領は手紙をさかさまに見てたぞ。メッセージは『やぁ、このくそったれ!』だ。」
注: "370HSSV-0773H"をさかさまにすると、"HELLO-ASSHOLE"と読めます。

原文: http://app.indya.com/ など

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外交(及びアメリカのイラク侵略)に関する質疑応答
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アナーキー・バンカー
著者(アナーキー・バンカー)が明記され、この条件文も明示されている限りにおいて、これをいかなる形でもコピー、印刷、配布することを許可する。
(Q:は質問する子供、A:は答える父親の弁)
Q: パパ、どうしてアメリカはイラクを攻撃しなくちゃいけなかったの?
A: それはね、イラクが大量破壊兵器を持っていたからだよ。
Q: でも査察団は大量破壊兵器をみつけられなかったんでしょ。
A: イラクが隠していたからだよ。
Q: それがイラクを攻撃した理由なの?
A: そうとも! いつだって査察なんかより侵略の方が問題を解決できるものなんだ。
Q: でも侵略したあとも大量破壊兵器はみつからなかったんでしょう?
A: それは奴らが兵器をうまく隠したからさ。心配するな、必ず何かみつけるさ。きっと2004年の選挙の直前にね。
Q: どうしてイラクはそういう大量破壊兵器がほしかったの?
A: 戦争で使うためさ、おバカさん。
Q: えっ、わかんないよ。だって、もしイラクがそういう兵器を持っていて戦争で使うつもりだったんなら、どうしてアメリカが攻めていったときに使わなかったの?
A: あぁ、それはもちろん彼らがそういう兵器を持ってるってことを誰にも知られたくなかったからだよ。だから守りに出るより、何千もの戦死者を出す方を選んだってわけだ。
Q: でもそれじゃおかしいよ。反撃に使えるそんな大きな兵器を持ってたなら、どうして死ぬ方を選んだりするの?
A: 文化の違いさ。我々には理解できない世界なのさ。
Q: パパはどうだか知らないけど、ボクは政府が言ってたみたいな兵器をイラクが持ってたとは思わないな。
A: そうかい、でも奴らが持ってたかどうかってのは問題じゃないんだ。こっちには他に侵略すべき理由があったんだから。
Q: それはなあに?
A: たとえイラクが大量破壊兵器を持っていなかったとしても、サダム・フセインは残虐な独裁者だったからね。それって他国を侵略するに充分な理由だよ。
Q: どうして? 国を侵略してもかまわないってほどのひどい独裁者はどんなことをするの?
A: そうだなぁ、まずひとつは彼は自国民を拷問してたからねぇ。
Q: 中国でもやってるみたいに?
A: 中国とイラクを比べちゃいけないよ。中国は経済面のいいライバルだし、何百万人もがものすごく安い賃金で奴隷のように働いてて、その分アメリカの会社をリッチにしてくれてる。
Q: それじゃ、ある国で人々がこき使われてても、それがアメリカの会社の利益になるなら、たとえその国民がひどい目にあったりしてても、それはいい国なの?
A: そうさ。
Q: どうしてイラクの人たちは拷問されてたの?
A: ほとんどは政府を批判したといったような政治的な犯罪だよ。イラクで政府を批判した人間は刑務所に入れられて拷問を受けたのさ。
Q: それって中国で起こってることと全く同じじゃないの?
A: 言っただろ、中国は別だって。
Q: 中国とイラクの違いはなんなの?
A: そうだなぁ、イラクはバース党が支配してたけど、中国は共産党だね。
Q: パパ、前に共産党は悪いって言ってなかった?
A: いや、キューバの共産党が悪いんだよ。
Q: キューバの共産党はどんなふうに悪いの?
A: そうさなぁ、たとえばキューバで政権を批判すると刑務所に送られて拷問にかけられるとか、かな。
Q: イラクみたいに?
A: その通りさ!
Q: それに中国みたいにだね?
A: だから言っただろ、中国は経済面のいいライバルだって。キューバは違うけどね。
Q: どうしてキューバはいいライバルじゃないの?
A: う〜ん、そうだ、60年代のはじめにアメリカ政府が、キューバが共産党をやめてわれわれのように資本主義になるまでは、アメリカは一切の貿易や色んなビジネスをしちゃいけないって法律を作ったんだ。
Q: でももしそういう法律をなくして、キューバとの貿易を再開して色んなビジネスを始めてたら、キューバが資本主義になれたんじゃないの?
A: エラそうなこと言うじゃないか。
Q: そんな、エラくなんかないよ。
A: まぁ、とにかくキューバじゃ宗教の自由もないしな。
Q: 中国のファルン・ゴン(法輪功、中国の気功集団)みたいにだね?
A: おいおい、言ったじゃないか、中国の悪口を言うのはやめなさい。とにかくサダム・フセインは軍事クーデターで権力を握った奴だから、所詮正当な指導者とは言えないのさ。
Q: 軍事クーデターって?
A: アメリカのように自由な選挙をおこなうんじゃなくて、軍の大将が武力で国家の政府を乗っ取ることさ。
Q: パキスタンの支配者はクーデターで政権を取ったんじゃなかったっけ?
A: ペルヴェス・ムシャラフ将軍のことかい? あぁ、そう、彼もそうだったね。でもパキスタンはアメリカの友人だよ。
Q: どうして正当な指導者を持たないパキスタンがボクたちの友人なの?
A: パパはムシャラフが不当だなんて言ってないぞ。
Q: でもパパはたった今、軍の大将が武力で正当な政府を倒して国の政権を握ったなら、それは不当な指導者だって言わなかった?
A: サダム・フセインだけだよ。ペルヴェス・ムシャラフはアフガニスタンを侵略するとき手伝ってくれたんだから、われわれの友人さ。
Q: どうしてアメリカはアフガニスタンを侵略したの?
A: 奴らが9月11日にやってくれたからさ。
Q: アフガニスタンが9月11日にボクらに何をしたの?
A: 9月11日に19人の男が、その内の15人はサウジ・アラビア人だったけど、飛行機を4機ハイジャックして、その内の3機がニュー・ヨークとワシントンのビルにつっこんで、3,000人もの無実の人たちを殺しちゃっただろう。
Q: それでどうしてそこにアフガニスタンが入ってくるの?
A: アフガニスタンこそ、そいつらが抑圧的なタリバンのもとで訓練を受けた場所だからさ。
Q: タリバンって、人間の頭や手を切っちゃったりしてた悪いイスラム過激派なんでしょ?
A: そうさ、そのタリバンだよ。人々の頭や手を切り落としただけじゃなくて、女の人たちを抑圧してたのさ。
Q: でも2001年の5月に、ブッシュ政権はタリバンに4,300万ドルをあげたんじゃなかったっけ?
A: そうだよ、でもそれは麻薬問題でよく闘ったから、そのごほうびだったんだよ。
Q: 麻薬と闘った?
A: そうさ。タリバンはアフガニスタンの人々がアヘン用のケシを栽培するのをやめさせようと頑張ったんだよ。
Q: どうやってやったの?
A: 簡単さ。もし誰かがケシを栽培してつかまったら、タリバンはそいつの手や頭を切り落としてたのさ。
Q: それじゃ、花を育てていたからって理由でタリバンが人の頭や手を切ってもOKだけど、それ以外の理由のときは切っちゃいけないってことなの?
A: そうだよ。過激なイスラム原理主義者たちが、花を育てた連中の手を切り落としたってちっとも構わないけど、パンを盗んだからって切り落としたりしたらそれは残虐なんだ。
Q: サウジ・アラビアでも人の手や頭を切り落としてなかったっけ?
A: それは話が別だ。アフガニスタンは女性を抑圧して、公の場所ではブルカをかぶらなきゃいけないって強要したり、従わない女の人は罰として、石を投げつけて殺しちゃうような、非道な族長が支配していたんだからね。
Q: サウジの女の人たちも公の場所ではブルカをかぶらなくちゃいけないんじゃなかった?
A: いや、サウジの女性は単に伝統的なイスラムのボディー・カバーをつけてるだけさ。
Q: どう違うの?
A: サウジの女性が着てるイスラムの伝統的なおおいは慎み深く、かつファッショナブルで、目と指以外の全身をおおうものさ。でもブルカは族長支配の邪悪な道具で、目と指以外の全身をおおってしまうものなんだ。
Q: 名前が違うだけで、まったく同じものみたいなんだけど。
A: おい、もうアフガニスタンとサウジ・アラビアを比べるのはやめなさい。サウジはアメリカの友人なんだから。
Q: でもパパは、9月11日の19人のハイジャッカーの内15人はサウジ・アラビア人だって言ったと思ったけど?
A: そうだよ、でも彼らはアフガニスタンで訓練したんだ。
Q: 誰が訓練したの?
A: オサマ・ビン・ラディンっていう、とっても悪い奴さ。
Q: 彼はアフガニスタンの出身なの?
A: あ〜、いや、奴もサウジ・アラビア人だった。でも奴は本当にとっても悪い男だったのさ。
Q: でも昔はビン・ラディンも、ボクらにとって友人だったように思うけど。
A: 1980年代に、アフガニスタンに侵攻したソ連を撃退するようにって、アメリカがビン・ラディンとムジャヒディンを支援したときだけだろう。
Q: ソ連って? ロナルド・レーガンが言ってた邪悪な共産主義帝国のこと?
A: もうソ連はなくなったんだよ。ソビエト連邦は1990年かそこらにバラバラになったんだ。で、今はアメリカみたいに選挙もやって資本主義になったのさ。今はロシア人って呼んでるだろ。
Q: それじゃソ連、あ、今のロシア人たちはボクらのともだちなんだね?
A: う〜ん、そうとも言えないんだ。ソ連でなくなってから何年もの間友人だったけど、イラクへの侵略を支援しないって決めただろ。だから今アメリカは怒ってるんだよ。アメリカはフランスとドイツにも、イラク侵略を手伝ってくれなかったから怒ってるけど。
Q: じゃあフランスとドイツも邪悪なの?
A: 邪悪ってほどじゃないけど、フレンチ・フライ(フライド・ポテトのこと)とフレンチ・トーストをフリーダム・フライやフリーダム・トーストって改名するくらいには悪いよな。
Q: ほかの国が、ボクらがやってほしいことをやってくれないたんびに、食べものの名前を変えたりするの?
A: いいや、相手が友達のときだけさ。敵なら侵略しちゃうからね。
Q: でもイラクも1980年代にはアメリカの友人だったんでしょう?
A: う〜ん、あぁ、ちょっとの間だけね。
Q: その頃もサダム・フセインが支配してたの?
A: そうだよ。でもそのときはサダムはイランと戦っていたからね。それが、彼がとりあえずアメリカの味方だった理由なんだけど。
Q: どうしてそれが理由になるの?
A: どうしてって、当時はイランはアメリカの敵だったからさ。
Q: それってサダムがクルド人に毒ガスを使ったときでしょ?
A: そうだよ。でもその頃はサダムはイランと戦っていたから、アメリカはそれは見ないようにしてたのさ。ボクらは友人ですよって彼に思わせるように。
Q: じゃあボクたちの敵と戦う人はボクたちの味方ってこと?
A: たいていの場合はそうだね。
Q: で、ボクらの友人と戦う者はボクらの敵だってこと?
A: ときにはそういうことも言えるね。しかしもしアメリカの会社が、戦ってる双方に同時に武器を売って利益を上げられたなら、それが一番いいけどね。
Q: なんで?
A: だって戦争は経済にとっていいことなんだよ。ってことは戦争はアメリカにとっていいことなんだ。それに神はアメリカの味方だから、戦争に反対する連中は神のご加護もない非アメリカ的な共産主義者さ。さぁ、これでどうして
アメリカがイラクを攻撃したか、わかったね?
Q: うん、わかったと思う。神様がそうしてほしいって思ったからでしょ?
A: そうさ。
Q: でもどうして神様がアメリカに、イラクを攻撃してほしいって思ったってわかったの?
A: それはだなぁ、神様が個人的にジョージ・W・ブッシュに話をして、これはこうしなさいって教えてるんだよ。
Q: それじゃパパ、アメリカがイラクを攻撃したのは、ジョージ・W・ブッシュの頭の中で声がしたからなの?
A: そうともさ! 世の中がどう動くものなのか、やっとわかったね。さぁ、もう目をつぶって寝なさい。おやすみ。
Q: おやすみ、パパ。


原文: http://www.geocities.com/anarchiebunker/foreignpolicy.htm


(翻訳: 千早/TUP)


Asteroid 2003 QQ47's Potential Earth Impact in 2014 Ruled Out

Newly discovered asteroid 2003 QQ47 has received considerable media attention over the last few days because it had a small chance of colliding with the Earth in the year 2014 and was rated a "1" on the Torino impact hazard scale, which goes from 0 to 10. The odds of collision in 2014, as estimated by JPL's Sentry impact monitoring system, peaked at 1 chance in 250,000, a result which was posted on our Impact Risk Page on Saturday, August 30. Impact events at the Torino Scale 1 level certainly merit careful monitoring by astronomers, but these events do not warrant public concern. In fact, each year several newly discovered asteroids reach Torino Scale 1 for a brief period after discovery; 2003 QQ47 is the fourth such case this year.

As astronomers continue to monitor an asteroid and measure its position, more precise predictions can be made. On September 2, new measurements of QQ47's position allowed us to narrow our prediction of its path in 2014, and thus we could rule out any Earth impact possibilities for 2014. In our Impact Risk Page for 2003 QQ47, the entry for the year 2014 has now disappeared, although a number of potential impact events remain for later years. We expect that these too will be ruled out in the coming days as astronomers continue to track the object and we refine our orbit predictions.

These seemingly large day-to-day changes in impact predictions for newly discovered asteroids are just what we expect. In the few days after an asteroid is first discovered, its orbit is known only very approximately. The range of possible positions in future years is wide and can easily encompass the Earth, but as the object continues to be tracked, the range of possibilities shrinks quickly, allowing us to rule out any possibility of impact. This process is ongoing for 2003 QQ47, and could take days or even weeks before all potential impacts are ruled out.