音楽随想集(荒井公康著)


十二音技法の特徴
 十二音技法を用いて作成した旋律に和声を付けようとすると、どうしてもドミナント7thコードが当てはまる場合が多くなる。これは十二音技法に基づく旋律が不安定感ないしは緊張感のあるものであることを意味している。通常の調性音楽ならば、ドミナント7thコードを安定なコードに解決させる(偽終止を含む)ことができるのであるが、十二音技法ではこれは不可能なことである。これが十二音技法による音楽を聴きにくい音楽にしている理由である。通常の音楽の基本的な動きである、緊張ー弛緩(ないしは不安定ー安定)の原則を満たさない音楽ができるので、どうしても緊張感や不安感だけが強調され、聞きやすい音楽が作れない。緊張感を解決させればよいのだが、十二音技法の範疇の範囲では原理的に不可能である。
 十二音技法とは人間によるランダムな自動作曲であるとも言えるので、誰にでも作曲ができる特徴がある。ただし、人に愛される作品はできないと考えてよい。このような欠点はあるにしても、人間はランダムな発想が苦手であるので、十二音技法を作曲の訓練に使うことはできると思う。調性音楽でもランダムな発想が創造性の源になっている。
 誰にでもある種の音楽を作れることを示した点で、十二音技法を考案したシェーンベルクの貢献は大きい。しかし、聴きやすい音楽への回帰という意味では、現在のところ、調性音楽に戻る以外にはないのではないかと思う。調性崩壊の代償は大きい。



バナナとトマト
 久しぶりに外へ出た。気温も平年並みに戻ったようだ。新緑が瑞々しく、五月の風が清清しい。自転車をこぎながら、何を考えるでもなく、外の風や香りや色に触れていた。
 しばらく本ばかり読んでいて疲れてしまった。本に答えが書いてあるわけではない。そもそも何を自分は問うているのかも分からない。疲れるはずだ。
 八百屋さんでバナナとトマトを買い、緑茶を自販機で買い、自宅へ戻って食べた。トマトの味を思い出した気分。mixiを覗いて、大貫妙子の曲を2曲、YouTubeで聴いていたら気持ちが良くなった。
 少し汗をかいたら、疲れがとれたようだが、もう少し休もう。いい季節になった。



室温付近で歌う有機物質
 物質に電場や磁場をかけると、物質固有の応答をする。室温付近で電荷秩序化する分子性物質について電流制御の非線形伝導を測定したところ、260K以下、約100マイクロアンペア付近で、約1kHzの電圧発振が見出された。この発振周波数は、可聴範囲にあり、印加電流と線形の関係があることを利用して、数秒間続く発振を「ちょうちょ」のメロディーに編集した。2010年の正月明けに仙台市で開かれた、新学術領域研究「分子自由度が拓く新物質科学」の第3回領域会議で、この歌う有機物質について報告したところ、「雑音が少なくて澄んだ音がしている」「有機物質らしい音がする!?」と好評であった。

以上は「化学と工業」に掲載された、東京大学物性研究所教授の森初果さんによる解説からの抜粋である。

もしかして、自然界には人知れず歌を歌っている物質があるのかも知れない。



映画「愛情物語」
 原題は「エディーデューチン物語」である。エディデューチンはピアニストであったが、私は彼の演奏を聴いたことはない。映画の中での演奏はカーメンキャバレロによるものである。

明るい雰囲気と、前半のエディ(タイロンパワー)とマージョリー(キムノヴァク)のカーメンキャバレロのロマンティックなピアノをバックにしたデートシーンは恋愛映画を予感させるのであるが、マージョリーが風を恐れる場面から、やがて、この映画は愛と死と人生の残酷さをテーマにしていることが明らかになってくる。

エディの「人生は残酷なものだ。」という科白はそれをよく表している。

マージョリーという伴侶を獲得したエディはピーターという子供をもうけた直後にマージョリーは死んでしまう。やがてエディは「エディーデューチン・オーケストラ」を率いて成功を収めるが、すぐに余命いくばくもない病魔に冒される。二度の華やかな成功を「死」に奪われてしまうという、そのままではあまりに残酷なストーリーである。

マージョリーを奪われたようで、無意識にピーターを遠ざけていたエディも、ピーターと父親として和解するが、自分の死をピーターに告げるシーンは切ない。この場面でも風が不安をあおるように吹き荒れる。

ピーターの乳母をしていたチキータ(ビクトリアショー)は死期の間近いことを知りながら、エディと結婚することを決意し告白するところは、救いではあっても残酷なシーンである。しかし、美しい。

エディとピーターが自宅でピアノの競演(ショパンのノクターンE♭)をするが、エディに発作が起こり、チキータがショックを受けた表情をするが、突然エディは画面から消え、ピーターが演奏を続け、チキータが穏やかな表情で聞き入る場面で映画は終わる。神話的な終わり方である。

ストーリーは当に悲劇的である。救いは何かとといえば、カーメンキャバレロのロマンティックなピアノ演奏と、マージョリーとチキータの女性としての魅力であろう。女性がいかにも女性らしかった古きよき時代がよく表れている。この二つの要素がこの映画のストーリーの悲劇性をやわらげ、観る者を感動に誘ってくれるのである。

私もこの映画にでてくる「マンハッタン」という曲が好きでよくひとりで弾くのは、この映画の影響である。私にはこの曲が一番ロマンティックに聴こえるからである。

人生は残酷である反面、素晴らしいものにも出会えることを教えてくれる映画である。

古い映画ですが、皆さんにもお勧めします。



数学と音楽
  時々、数学者や理系の人が、音楽について文章にしているのを見かけるときがあるが、それらを読んで、正直に言って、音楽を支配している数学は無いのだろうな、という印象を抱くことが多い。和音や音階の構造ならば、数学的に表現できるが、音楽作品となると分析は難しい。数学者というのは、対称性のあるもの、単純で美しい構造を持つもの、きちんと対応のとれるもの、などに興味を持つもののようだ。それに対して音楽は意外と複雑だ。
 私も数学が好きで、最近も結城浩という人が書いた「数学ガール」「数学ガール(フェルマーの最終定理)」「数学ガール(ゲーデルの不完全性定理)」を手に入れた。小説風の読み物であるが、大学の教養学部程度の数学の知識がないと理解できない内容である。登場人物は高校生で、私個人としては、自分が高校生であった時を思い出させてくれて懐かしい気分になる。高校時代に持っていた旺文社の数学の参考書には大学レベルの数学が書かれていて、夢中になって読んだ記憶がある。若い頃に出会った数学や物理学で使われる言葉は、神秘的で謎に包まれている感じがして、とても惹かれるものがあった。大学では化学関係を専攻したが、実験と事実重視の化学は、今でもあまり好きになれないところがある。想像力豊かな世界ではないからだ。豊かな想像力も、実験重視の化学の世界では、現実に道を譲らなくてなならない。想像力を発揮できる、数学、理論物理、音楽などの世界のほうが自分に合っているようだ。脳科学などの本を読んでいても、神経回路の数理モデルなどに関心が行ってしまう。文系の本も意外と好きだ。
 昔はレコード屋さんに行くと、楽譜などのほかに、理論書が置かれていることが多かった。理屈っぽい本には、ジャズ系の教則本が多かった。こういった本も最近は見かけなくなってしまった。そうした本の影響を受けた私としては残念な気がする。音楽も理屈が大事と思う。
 いい歳をして、数学、音楽、物理学とは、私も歳をとれない人間だなとつくづく思ってしまう。三つ子の魂、百までだろうか。



日々の日課
 今日、ドアを開けると、花のような甘い香りが漂っていた。緑の香りも清清しい。いつも通り、自転車に乗って、川崎方面に出かけた。途中でコンビニによって、菓子パンと緑茶を買った。ゆっくりと自電車を一時間ばかり漕ぐのが日課になった。もう、一年くらいになるだろうか。これも効果があって、最近は疲れにくくなった。軽度の運動は気持ちが良いし、健康にも良い。
 家に戻って、情報処理関係の事典数冊を少しずつ読んだ。これも日課だ。継続は力なりと思っている。次に、ギロックの小曲をMIDIファイルに落とし、コード名を楽譜に書き込んでゆく。作曲技法を盗む。ギロックの曲はジャズの要素が多いので、少なくとも私には分かりやすい。半音下降の旋律や7度、9度、2度の響きがジャズっぽく、綺麗な曲が多い。ギロックのことは最近知った。
 ラベル、ドビュッシー、ガーシュイン、ルロイアンダーソンなどにも興味がある。楽譜を分析するつもりだ。ジャズのスタンダードナンバー集もコード名が記されているので参考になる。
 その後は好きな本を読むことにしている。「数学ガール」第4弾「乱択アルゴリズム」を最近買ってしまった。「確率とコンピュータの深くて不思議な関係とは?」とある。疲れそうだが勉強になりそう。この本、ソフトバンクの出版である。Lispの修行も欠かさない。
 高度なことをしているわけではないが、適度な作業は精神衛生上も好ましいのだろう。最近は調子が良い。



ライプニッツの夢と音楽
 ライプニッツはホッブスの「思考するとは計算することである」というテーゼを発展させ、「思考のアルファベット」たる少数の基礎概念から、計算という記号操作によって全ての真理を演繹的に構築しようという壮大な構想を抱いていた。つまり、それは、記号体系が特に上手く作られたならば、記号間の関係や秩序が、事物間の関係や秩序に対応するという発想に基づいており、記号の側の操作だけで事物や事象の知識に到達しようというものだった。(ライプニッツの普遍記号学)
 私は人工知能の対象として音楽を選んでいるので、遊びと思われても仕方がないが、音楽という分野は古典的な人工知能の応用分野だと思う。ライプニッツにおける自動機械、計算主義、記号主義、形式主義の考え方は人工知能に大きな影響を与えた。ライプニッツの普遍記号学を音楽に当てはめれば、私がやっているような、音楽関連システムになるのは自明である。
 ライプニッツには高校の微積分でお世話になったが、音楽でも、基本的な考え方ではお世話になっているようだ。
 音楽は遊びでできるものではない。人工知能や普遍記号学と密接に関係していることを理解して頂けたら幸いである。



("CM7" ion)の意味について
 単なるデータと知識とはどう違うのだろうか。何故、私は自分の音楽関連システムを知識システムと呼ぶのか。音楽を作る場合、自動作曲であろうと自分で作曲する場合であろうと、知識が必要である。例えば、コードネーム CM7 が表す構成音などは知識と言うよりもデータに近く、いくらこのようなデータを集めても、音楽を作ることはできない。知識とはデータを整理して、データ同士の関係を定めたものである。
 ("CM7" ion)という表記は、一般には C ionian と表記されることが多い。この表記から CM7がハ長調のトニックであり、適用されるコードスケールは C(ド)から始まる ionian (つまり、ドレミファソラシド)であることを計算機に理解させることができる。注意すべきことは、人間が理解するのではなく、計算機が理解するということである。人間であれば、C ionian と表記されていれば、使われるコードは CM7 C69 C6 C などであることは、慣れれば分かることなのであるが、これを計算機に判断させる手続きは複雑になるので、私は("CM7" ion)という表記を用いている。("CM7" ion)という表記は知識を表しているのである。また、CM7の場合、可能なコードとコードスケールの組み合わせは("CM7" ion) ("CM7" lyd)の2通りしかないことも知られている。("CM7" dor)とか("CM7" alt)などはあり得ない。また、("CM" ion)と表記されていれば、USTは G Am Emであることも計算機に理解させることができる。またテンションノートがレとラであることも表現できる。
 例えば、5小節に亘る("Em7" phr)("A7" hmp5)("Dm7" dor) ("G7" alt)("CM7" ion)はより具体的に次のような表記と考えてもよいが、簡潔でない。
  (コード:Em7(ミソシレ)、コードスケール:phr(ミファソラシドレミ))
  (コード:A7(ラ#ドミソ)、コードスケール:hmp5(ラ♭シ#ドレミファソラ))
  (コード:Dm7(レファラド)、コードスケール:dor(レミファソラシドレ))
  (コード:G7(ソシレファ)、コードスケール:alt(ソ♭ラ♭シシ♭レ♭ミファソ))
  (コード:CM7(ドミソシ)、コードスケール:ion(ドレミファソラシド))
このような表記から、人間の持つ暗黙知ないしヒューリスティックスによって、メロディーを生成させることが可能である。このような組み合わせも(音楽)知識と考えてよく、様々な歌曲(主にジャズ)の構造がこのような組み合わせで表現されることが知られている。
 このように、私の音楽関連システムは自然言語ではなく、記号によって知識表現を行っているので、分かりにくいのかも知れないが、一種のエキスパートシステムになっているのである。音楽知識をコード名とコードスケール名の組み合わせで整理するのにはかなりの時間を要した。



ピアノと将棋
 ここ数日久しぶりにピアノの練習をしている。しばらく弾いていなかったので昨日までは指が動かなかったが、今日は暖かいせいか、指がよく動く。
 最初にスケールの練習をする。頭では忘れているスケールも体が覚えているようだ。久しぶりなのにスムーズに弾ける。phrygian,Hmp5,dorian,alterdのスケールを全調で練習する。この後、自作の練習曲を弾く。この間、訳30分。その後、指ならしに自作曲を2曲弾く。
 大分指が動くようなので、「星に願いを」を編曲しながら即興で弾いてみた。割といい感じの編曲ができた。次に「Day by Day」「ブルーレディに赤いバラ」「All of me」「My One And Only Love」を弾いた。久しぶりなのでスムーズには行かないところもあるが、なんとかこなした。
 最近は少し刺激のある生活をしているので、やる気がでてきた。今日も良いことがあった。ご馳走してもらった。曲も一曲できたので、後日Midiファイルにするつもりである。
 また毎日ピアノの練習や作編曲をしようと思う。関係ないが将棋の勉強も始めた。インターネットと実戦で勉強中である。私は勝負事には向いていないが、頭を鍛えるのも大切と思う。将棋は結構頭を使う。音楽にもいい影響があるかもしれない。
 新しい生活とピアノと将棋と、私の生活にも張りがでてきた。まさしく春だ。



五月の緑と赤いカーディガン 
 今年(2012年)の五月連休の最終日(5月6日)に、いつも通り、午前8時きっかりに、川崎方面に向かって自転車を漕いできた。五月の風が清清しく、上着を着ていても、気持ちが良かった。緑の植物が発する香りも清清しく気持ちが良い。
 そうだ、これは40年ほど前の、あの日と同じような感じの日だ。大学の教養学部のキャンパスはウッソウとした緑に覆われていた。大学入学直後の私は、いつも通り、学内の掲示板を覘きに行った。そこに現れた赤いカーディガンを着た美少女に出会ってハッとした思い出がある。もう、どんな顔だったかも覚えていないのだが、そのちょっと切ない思いは今でも心に残っている。長い間、彼女の面影をキャンパスに探すような日々が続き、勉学にも上の空であった。結局その少女とは二度と巡りあうことはなかったが、それが祟ってか、最低の成績で、誰でも進学できた工業化学科へ進学することになってしまった。物理学者志望の動機も恋には勝てなかった。
 そんな恋心を今まで何度経験したことだろう。結局、どの恋心も実ることはなかった。悲劇を繰り返すような人生であったが、精神的には、多くの経験を豊かにした思いがする。
 工業化学科を出ても、結局、専門知識を使う機会はなく、専門外の分野を渉り歩いてきたため、世俗的幸福を求める余裕など無かったが、勉強する習慣だけは身についたようだ。これは幸か不幸か分からない。あの赤いカーディガンの美少女と目出度く再び巡りあっていたら、意外と平凡な人生で終わっていたかもしれない。それも幸であったか不幸であったか分からない。天は二物を与えないものだ。
 あれから、ほぼ40年。歳月人を待たずで、随分歳をとってしまったが、生活自体は平凡な日々を相変わらず続けている。私のライフワークも人工知能と音楽に落ち着いたようだが、あまり進展はないのは残念だ。いや、ある程度成果はあったのかも知れない。人間、今の自分に無いものばかり目が向き、ささやかでも、自分の現在持っているものや成果には無頓着なものだ。ささやかな思い出や成果も大切にしよう。これからも小さな積み重ねを大切にして、残りの人生を丁寧に生きよう。今日は本当に爽やかな日だ。



コンピュータ言語と音楽
 かつて勤めていた頃、コンピュータの言語はどれも同じだとか、プログラマは言語を選べない、とか言われたことがある。しかし、そういうことを言う人は、プログラミングをあまりする必要のない、怠け者か恵まれた人だと思う。幸か不幸か、私は人工知能の仕事に従事し、Lispという言語を使う機会に恵まれた。それ以前には、アセンブラ、Fortran、BASIC,C言語しか知らなかった私は、Lispを知って、その威力に驚いた経験がある。
 話は飛ぶが、音楽という分野は記号処理を主体としており、記号処理を得意とするLispと大変相性が良い分野である。プログラマと音楽家もどきを両立させるのは、普通に考えれば困難なことだが、Lispはそれを可能にしてくれる。Javaなども勉強しているが、Javaで自動作曲システムを作る気にはなれない。他の言語でも同様である。というか、Lisp以外では、どうすれば良いか分からないというのが正直なところである。逆にLispで数値計算をする気にはなれない。
 やはり、コンピュータ言語にはそれぞれ得手不得手があり、対象領域ごとに使い分ける必要がある。これは現在では当然の意見だろう。当時のコンピュータ言語はどれでも同じというのは極端な話であったと思う。



生活と意識
 マルクスは生活が意識を規定するというようなことを言ったが、それはどうかなと思うことがある。子供の頃は、漠然と将来は、学者、お坊さん、作曲家などになりたいと思っていた。こういった漠然とした憧れみたいなものが、私の生活を規定してきたように思える。それは私のHPや本棚によく現れている。
 幸か不幸か、両親は放任主義で、私にあまり指示することがなかった。大学でもあまり指示された覚えがない。社会に出て、会社勤めになってからも、具体的指示のある仕事ではなく、漠然と将来を期待されていた感じで、その重荷に潰れた印象が強い。
 このような放任主義の中で人生を過ごしてきた私の生活を規定してきたものは、結局幼い時の夢みたいなものだったように思う。普通の人生であれば、他者からの要求で生活が規定され、それによって意識が規定されるようなことになるのだろう。これはマルクスの言う通りであろう。確かに私の人生は普通ではない。しかし、学者、お坊さん、音楽家もどきではある。
 今にして思えば、本当は普通の人生を歩みたかったのだと思う。好きなことをやってきたのに、幸福な感じがしない。幸福は平凡の中にあるのは確かなようだ。



古き良きAIと音楽
 私は計算機を用いて音楽の研究をしてきたが、これがAI(人工知能)なのかどうか、長年自信が持てなかった。AI事典などを読んで判断するかぎり、私のアプローチは、別の言い方をすれば、「音楽を対象にした、記号論的計算主義に基づく、計算機シミュレーションによる構成的アプローチ」とは言えるだろう。音楽の知識を記号で表現し、パソコンとLisp言語だけを武器に、音楽の作編曲という分野を扱えば、このようなアプローチになるのは、AIを意識しなくとも、必然的であると言える。
 このようなアプローチは従来の科学とはことなり、音楽を対象に客観的に分析することではない。そのようなアプローチも個人的に行ってきたが、音楽作品を分析しても、明らかにできるのは、コード進行くらいなもので、旋律となるとそう単純ではない。コード進行と旋律とは1対1に対応するわけではないのでそう単純ではないのである。構造分析的アプローチにも限界がある。
 音楽を知るにはいろいろな方法がある。カラオケ、合奏、合唱、演奏、鑑賞などが一般的だろう。他の方法として、作って知るという方法もある。自分で作るだけでなく、計算機に作らせるて調べる、構成的アプローチもあり得る。ジャズで使われる和音やスケールは複雑なので、計算機でこの部分を支援できればという、単純な発想でシステムを作り始めたのだが、コード進行が適当であれば、テンションノートだけで、旋律を作れることを知っていた私は、自動作曲も簡単にできるのではないかと考えた。実際、計算機実験で、コード進行を与えた時の旋律生成条件を調べた。その結果を下に、自動作曲システムを構築しただけだったが、うまく行った。
 知能システムを知識と推論部分に分ければ、私のシステムは、知識表現は複雑だが、推論アルゴリズムは単純なものである。コード進行の部分でも、旋律の部分でも、緊張ー弛緩(不安定ー安定)の原則を利用しただけのアルゴリズムである。コード進行を中心にした楽曲の知識表現部分は多様でありうるので、アルゴリズムが単純でも、多様な音楽作品を作ることが可能である。
 その後、自動作曲部分以外の、作編曲関連システム部分を構築し、現在に至っているが、そろそろネタが尽きてきた。ネタ探しに、いろいろ本や楽譜を漁っているところであるが、なかなか良いアイデアが浮かばない。何か良いネタはないだろうか。一人では限界である。まあ、作編曲は一人で行うのが原則であるが。アイデアだけでも欲しいものである。



原裕ピアノコンサート2006
 4月15日(土)に水野かほるさん企画の「日々の美を集めて」という催しが最終日を無事迎えることとなった。催しの中に、H&Aスタディルームの名誉講師原裕氏によるピアノコンサートも含まれていた。会場は市川市の千葉商科大学の傍にある木内邸であった。江戸川沿いである。小学1年生頃、この近辺の小岩に住んでいたことがあり、市川市にあるN製鋼にI社在職中スカウトされたり(お断りしたが)、木内氏も東大の先輩にあたる人物で、いろいろなご縁を感じ、最終日を選んで、訪れることを決めていた。鶴見駅から、市川駅までJRで行ったが、電車内から見た江戸川は多摩川と一見かわらないのであるが、ふと、「この辺も随分開けたねえ」と亡き母の声がするような気がした。最近不思議なことが起こるのである。自宅の前の99円ショップの、私が「会長」とあだ名している体格の良い男性店員さんが、母の生前の決まり文句であったことを、そっくりそのまま口にするのである。最近はそれが楽しみで夜中に買い物をしに行くようになった。いや、話が逸れてしまった。

木内邸には道に迷うこともなく、午後1時頃到着した。原氏はリハーサル中であった。上品な水野さんとどこかで見たことのある美女が、見守るというか聞き入っていた。ベートーベンの曲が終わったあとで、「原先生」と声をかけてしまったが、どうやら、リハーサルの邪魔をしてしまったようである。

水野さんが、「私は原先生に最初にピアノを習ったんです」と話しかけてきたが、答えようとした時に突然、原先生は、故意にフランスの響きを出した。私は思わず、「あっ、フランス風ですね」と口に出したが、水野さんは気付かなかったらしく、「この建物のことですか?」と返事をした。「いや、いいえ・・・・」と口ごもっている間に、原先生はショパンの「別れの曲」を弾き始めた。アンコールの練習のためである。本当に私はリハーサルの邪魔をしてしまったようである。原先生の後ろで、私もピアノを弾く格好をして、ふざけていたら、それを見て、例の美女は笑い転げていた。原先生は演奏会を前にして、明らかに神経が張り詰めているのが感じられたので、私は小岩に行って来ると、伝え、一旦退散することにした。そして実際に小岩へ向かった。

小岩はすっかり変貌していた。45年前の田園風景は全く消えていた。ただ母校の北小岩小学校と銭湯と一軒のラーメン屋は確かに当時のままであった。夕方、銭湯の帰りに、担任の三角先生が一人で寂しそうにソバをすする姿を目撃したのは、今でも鮮明に記憶に残っている。京成電鉄沿いの雰囲気もかすかに当時を感じさせた。歩くのも疲れたので、タクシーを拾って木内邸へ戻ることにした。60代の運転手さんだったが、性格の良い人で、何時になっても人が並んでいるラーメン屋の話を不思議そうにしたり、なんと以前に鶴見、川崎で臨港バスの運転手をしていたそうである。横浜駅の混雑振り、相鉄線の駅名、などの話で会話が弾んだ。これも不思議なご縁である。タクシーを降りる前に何度もここでよいのかと尋ねてくれ、親切な人であった。私も「お気をつけて」と声をかけて車を降りた。

3時少し前であった。木内邸の職員に毒舌と憎まれ口を少しきいた後、時間が来たので、演奏の部屋へ行った。比較的狭い部屋に美女が大勢たむろしていた。それどころではない。次々に美女が詰めかけてくる。栄町通郵便局の職員そっくりの女性まで現れた。私は美女たちに圧倒され、部屋の外で聴くことにした。男性は私以外には僅か2名で、少し変わって見えたのは、芸術家だったからなのであろうか。一体彼女らと原先生とはいかなる関係であるのか。私は小ホールでのスタインウェイ・ピアノによる演奏をイメージしていたのであるが、完全に的が外れた。

原先生の演奏を聴くのは2度目であったが、1度目は泥酔状態での非公式なものだった。私自身もその時は酔っていた。従って、原先生が本気で弾くのを聴くのは初めてである。最初のバッハのプレリュードでは、まだ緊張感から解放されていない感じがしたが、ベートーベンの三声のフーガの難局場面は、リラックスしてきたせいか、見事な素晴らしい演奏で、心地よい高揚感を味あわせてもらった。数年前、ラベルとドビュッシーの弦楽四重奏をCDで聴いてクラシックに感激したが、それ以来クラシックで感激するのは久しぶりである。しかし、バッハの終止和音はしょぼい。ずっこける。これは原先生が悪いのではない。バッハが悪い。演奏は素晴らしかった。感激した(小泉首相の歴史に残る名言)。

クラシックの演奏会には慣れていないせいか、原先生や水野さんには迷惑をお掛けした思う。この場を借りてお詫びしたい。木内邸の職員や関係者の方々にも軽口をたたいて迷惑をお掛けしたことにもお詫びしたい。(木内先輩すいません。)

今後も、原先生の活躍を願って、筆を置くことにします。



影響を受けた音楽の本
 私は正式の音楽教育を受けたわけではないので、音楽に関する知識源は、主に市販の書籍である。なかでも最も勉強になったのは、芥川也寸志著の「音楽の基礎」(岩波新書)という小冊子である。この本には音程に関して親切で詳しい解説がなされている。楽典、和声学、対位法、ジャズの教則本で音程に関して正確に説明している書籍はほとんどない。私の考えでは音程の仕組みと響きについてさえきちんと理解していれば、音楽はそれ程難しいものではないと思う。例えば、和声や対位法に関する本では、なぜ5度平行、8度平行が禁止されるかについて説明すれば、現代人の耳からすれば、これらの音程は非常に空虚な響きがするため、連続して使われるのは嫌われるのである。ただこれも、現代人の耳からすればの話であり、ある音程の響きがどのように聞こえるかに関しては、歴史的な変遷があるらしい。完全8度、4度、5度が美しいと思われた時代もあったという。美しく聞こえると見なされる音程は歴史的に狭くなってきているという。現在では3度とその展開形である6度が美しい響きとされている。しかし、ジャズやフランス近代などでは、2度とその展開である7度を強調する傾向がある。2度で音をぶつければ、その後は音程を広げたいという心理的要求が生まれると言われているが、2度のまま保留することもジャズでは珍しくない。わざと4度重ねの和音を使うこともある。この本では、美しいと思われる音程が2度まで狭められ、これ以上狭めることができないので、今後どのような方向があるのかという問題提起がなされているが、自然でありさえすれば、現実には自由に音程を組み合わせても構わないと言ってよいのではないかと思う。
 クラシックの和声学や対位法の本を初めて読んだときには、こんなもの分かるはずがない、と諦めてしまったが、この本やジャズの教科書を読んだ後で、和声学や対位法の本を読み直してみると不思議に理解できるようになった。和声的に見れば、クラシックはジャズのサブセットになっているので、ジャズ理論を通して、クラシック理論を見てみれば、音楽に関する理解も深まると思う。ジャズとクラシックは対立するものではないと思う。美しいと思われる音程が異なるので、響きも違って聞こえるようである。逆に、ジャズでは対位法的な考え方が希薄なので、クラシックの理論も勉強になる。両方を勉強するに越したことはない。
 音程を正確に数えられることが音楽の基本であると思う。そうして、ある音程がどういう響きがするか確かめてみるとよいと思う。音楽に関して、それほど神秘的に考える必要はないと思う。スクリャービンの神秘和音などと言っても、ジャズから見れば、ドミナント7thにテンションを加えたものになっている。



全音と半音と準同型写像
 音階ドレミファソラシドでミとファの間隔とシとドの間隔は「半音」と呼ばれ、その他の間隔は「全音」と呼ばれるのは良く知られていることと思う。ところが何故そう呼ばれるかについてはそれほど自明ではないようである。理系の人にとっては不自然に聞こえるらしい。これは、「音の周波数の集合」と「乗算」の組み合わせである代数系と、「ピッチクラス集合論によって音に対応づけられた数値の集合」と「加算」の組み合わせの代数系が、準同型の関係にあることを考えれば説明がつく。
 ある音を1オクターブ上げるとは、その音の周波数を2倍にすることに等しい。平均律では1オクターブを十二等分に「分割」するという、これまた不自然な表現がなされる。何をどのように分割するのかが不明である。a=(2の十二乗根)とおく。すると次のの対応がある。
    
    音の周波数をa倍する  <−−> 音を「半音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に1を加える
    音の周波数をa^2倍する <−−> 音を「全音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に2を加える

a(2の十二乗根)の値は約1.06、a^2(その2乗)は約1.12である。ピッチクラス集合論は12を法とする同値類分解であるので、事情はもう少し複雑であるが、ほぼ準同型と例えても構わないと思う。半音や全音という呼称の背景には、周波数とピッチクラス値には一対一に対応し、「2乗」の演算には「2倍」という演算が対応しているという事情があるので、音楽作品では周波数を持ち出さずに音の関係を表現できるという事実がある。
 五線譜なども一見グラフのように見えるのであるが、間隔は等しい目盛りではなく、数学や自然科学で使われるグラフとは性格が異なったものである。これは推測なのであるが、ドレミファソラシドという並びがあまりに自然に聞こえるために、これを記号で表現した場合、視覚的にも滑らかに並べたように見えるように工夫したのではないかと思う。聴覚を視覚化しようとすることが楽譜を考案するきっかけであったことは間違いない。
 記号とは複雑な現象に対してなんとか手がかりを得ようとして考案されるのであろうが、音楽の表現の背後に数学的概念が潜んでいるのは興味深い。音の周波数の関係を調べても、そこから音楽作品が生まれるはずもなく、不毛なことに気づかれたのかも知れない。確かに乗算よりも、加算のほうが、音程の計算などには便利であるし、計算結果も利用しやすい。
 昔の音楽家が代数系を知っていたはずもないので不思議な話ではあると思う。



十二音技法とジャズの融合2
十二音技法に4度重ねの和音を使って作った「不思議なワルツ」です。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/romanntic-waltz.mid

短歌「涼しげに霧雨の降る秋の日に流れ始める不思議なワルツ」

如何でしょうか。

>Tさん (mixiのマイミクさんです)

>不思議と清涼な感じの響きがします。
>どうやって作られたのでしょうか?
>ノウハウが知りたいです。

いつもコメントありがとう御座います。

ふたつ前の日記に紹介したシステムを利用しています。システムの出力を私が適当に解釈して、旋律や和音を作ります。

作られた旋律や和音に4度重ねの和音を付けました。たとえばCはミラレ、G7はファシミといった具合です。4度重ねの和音は機能が曖昧で、ジャズっぽい硬質なサウンドが得られます。機能が曖昧なので無調の音楽でも不自然な感じがしません。

簡単に説明すれば以上だけです。純粋な十二音技法では、和音も音列から作らなければなりませんが、そこは無視しています。うまく和音を付けられれば、十二音技法でも聞きやすい響きが生まれると思いました。

十二音技法に関連する音楽システムでは各種音列を自動的に生成できるように作ってあります。

お会いして説明すれば分かりやすいのでしょうが。私のHPを参考にして頂ければ、大体のことは分かると思います。





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