小説家:湯ノ上鎮夫の部屋


                  小説:家族の記憶

                                   湯ノ上鎮夫著           

第一部

              平成十六年 鶴見

       
       一

裕三は上り口に「見返し坂」の碑のある狭い石段から総持寺へ入った。石段は直ぐに急勾配の坂道になって、大きく二度ほど向きを変えながら、小高い丘の墓地の一角に通じている。裕三はその僅か二、三十メートルの急坂を必死によじ登った。木々の緑が初夏の光に照り映えている。坂を上りきったとたん、汗が体中に吹き出してきた。草いきれと乾いた土の匂いに一瞬目が眩んだ。辺りの風景が陰画のように白黒が逆になって見える。そうして、裕三は目を閉じたままその場にうずくまってしまった。心臓の鼓動は早まるばかりだ。意識が遠のいてゆくあいだに、墓の向こうに十年前に別れた妻の幻影をちらりと見たような気がした。

 

「ユウハンツクルカラ、ハヤクカエッテキテネ。キョウデ、サイゴダカラ・・・」

妻が家を出る前の日の夕方、新横浜の裕三の勤め先に電話があった。

「アア、ワカッタ。ソウスルヨ」

裕三はいつものように自転車に乗って、鶴見郊外の高台にある我家へ急いだ。

  その日の晩、妻が最後につくってくれた炒飯を二人で黙って食べながら、「アスハ、ツマヲミオクルマイ」と心に決めた。妻は目に涙を浮かべていた。

  次の日の早朝、まだ妻の起きてこないうちに、裕三は自転車で家を出た。夏雲が朝の太陽の光を受けて純白に輝いている。空はどこまでも蒼く澄み渡っている。蝉の声だけが辺りの静寂を一層深めている。家に続く高台で自転車をとめて空を見上げると、悲しさがそのまま空に吸いこまれてゆくような気がした。

 

 気がつくと、裕三は総持寺の墓地にうずくまるようにして横たわっていた。顔を上げると、太陽は白い浮雲のかげに隠れてしまっている。夢を見たのか、と裕三はつぶやいた。ついさっきの霍乱が嘘のように気分は元に戻っている。夢の続きを追おうとしたが、意識がぼんやりしていて、なかなか思い出せない。妻が家を出て行ったあとの部屋の様子だけが目に浮かんできた。妻のいた部屋はがらんとして、引越し用の段ボールがニ、三枚残っているだけだった。

 ふと見ると、そこかしこの墓石の上にカラスがとまって、じっとこちらを見ている。裕三は不吉なものを感じて、急いで立ち上がった。服についた乾いた土を両手でパンパンと音を立てて払い落とすと、カラスはゆっくり飛び立っていった。そうして、足元をふらつかせながら、墓地の狭い通路を縫うようにして通り抜けると、大祖堂の大伽藍の横手に出た。お堂のなかから僧侶たちの読経の声が風に乗って聞こえてくる。裕三は表へ回って、正面の石段を上がって大祖堂のなかへ入っていった。お堂のなかではちょうど一般法要が行われていた。四十人ほどの僧侶が祭壇を前にして、左右ふた手にわかれて畳の上に向き合って坐っている。その背後に少し離れて遺族の列が出来ている。読経の声だけが昼なお暗い千畳敷の堂内に響き渡っている。読経の切れ目切れ目に鉦や太鼓の音が入る。広く開け放った左右の入り口から時折涼やかな初夏の風が吹き過ぎてゆく。読経はいつ止むとも知れず延々と続いていた。

 その夜、裕三はなかなか寝つけなかった。夜更けになってようやく眠りについたと思ったら、昼間に墓地で見かけた別れた妻の幻影がじっと自分を見つめている夢を見て、半分目がさめてしまった。彼女とはもう十年も会っていない。今頃一体どうしているだろうと、うつらうつら考えているうちに、やがて深い眠りに落ちてしまった。

 次の日の午前中は久しぶりに気分が良かったので、裕三はどこかへ遠出をしようと思いついた。きのうの突然の体の変調がきっかけになったのかもしれない。心が伸びやかに解きほぐれるような自然の中に身を置いて、近頃のともすれば鬱屈しがちな気分を晴らしたいと考えたのだ。

 家を出ると、初夏の陽射しが眩しかった。右手に見える総持寺の森のうしろから、煙りがひとすじ、青い空に立ち昇っている。鶴見駅西口のロータリーを歩いてゆくと、中国拳法のT先生にばったり出会った。背の高いがっしりした体つきの武道家である。

「やあ、原田さん、久しぶりですね」

 先生は快活にあいさつをした。

「Tさん、これから練習ですか?」

 先生は毎週土曜日に総持寺の境内で中国拳法の練習をしている。

「原田さんもどうですか」

 そう言うと、先生は舞うように柔らかく流れる中国拳法の身のこなしを見せた。

「今日は少し遠出して、海でも見てこようと思ってるんです」

 裕三はそう答えて、駅へ向かった。

 

        二

 

 鶴見駅から京浜東北線で三つ目の横浜駅で横須賀線に乗り換えて三十分余り南に下れば海辺の町、逗子に着く。横須賀線のホームでサンドイッチと缶ビールを買って電車を待っていると、すべり込んできた電車は運良くすべての車輌が二階建の普通列車だった。車内の階段を上がって二階の座席に落ち着くと、ちょっとした旅行気分になる。新宿からの直通列車だったらしく、同じ車輌に乗り合わせた乗客はあまり多くはない。サンドイッチを食べながら缶ビールを飲んでいると、姿は見えないが前の席の男の携帯電話で話している声が聞こえてきた。ぼんやりと窓の外を眺めながら、その男の話を聞くともなしに聞いていると、

「・・・それで、この電車には乗れたんだね・・・そう、僕はいま、十号車の二階の真ん中ぐらいに坐っているから・・・じゃあ、待ってるからね・・・」

 どうやら車内で人と待ち合わせをしているらしい。裕三は勤めていた会社を一年ほど前に辞めてから携帯電話を持たなくなったが、今ではあまり人に会う機会もなくなったので、それほど不自由は感じていない、などと考えていると、通路の向こうから若い女性がヴァイオリンを小脇に抱えてこちらのほうへ近づいて来る。そうして裕三のすぐ前まで来ると立ちどまって男に声をかけた。

「こんにちは」

 女性の声は透き通るように美しい。そうして、優しく微笑んだ。裕三は一瞬彼女の美しい横顔に見入ってしまった。とりわけその愁いをふくんだ眼差しが裕三の心を捉えた。しばらくすると、二人は演奏の打ち合わせを始めた。男はピアニストのようである。どこかの町で、デュエットをやるらしい。二人は楽譜を開いて、ここはこうして、そこはああしてと相談しながら、その日の演奏の最終確認をしているようだった。

裕三はこの若い二人がどんな曲を弾くのか興味が湧いた。女性の口ずさんだ旋律から、曲目のなかに題名は忘れたが誰でもよく知っているブラームスの小品がふくまれていることがわかった。ヴァイオリンは裕三の最も好きな楽器のひとつだ。高音の張りつめた切ない弦の響きに、いつも胸の詰まる思いがする。かすかな香水の香りが何かの拍子に彼女のほうから漂ってくる。ふいに小学校のころの記憶が甦った。

裕三は一年生の夏に、自分からやりたいと言い出して、二歳年上の次兄と一緒にピアノを習うことになった。裕三はまだほんの小さいころから、次兄の修二とは大の仲良しで、皆からよく、二人は「ちんころわんわん」のようだ、と言われていた。そのいっぽうで、長兄の晋一と遊んだ記憶はほとんど抜け落ちている。年が離れているせいだったのかもしれないが、それだけでもないような気もする。長兄は、外の世界により結びつく性格であったが、容易なことでは弟たちのカプセルのなかには入れず、寂しい思いをしていたに違いない。父は年の暮れになると「何でも買ってあげるから言いなさい」と言い出すことがあった。子供たちは、すこし考えたあとで、いつも決まって「消しゴム」とか「筆箱」とか口にした。子供心にも家の窮状を察していたのである。裕三はピアノを習いだしてから四年ほどたった年の暮れに、父の恒例の言葉に、恐る恐る「テープレコーダー」と言ってみた。父は翌日、秋葉原で卓上のテープレコーダーを買ってきてくれた。その日から修二と裕三のラジオ放送ごっこが始まった。「夕べのクラシックの時間です。今日はピアニストの原田修二さんと弟の裕三さんをお迎えして、シューマンとベートーベンをお送りします。先ずはじめに、原田修二さんのピアノ演奏による『子供の情景』です。では、どうぞ」アナウンサー役はいつも裕三に決まっていた。テープレコーダーの赤い録音ボタンを押したままレバーを回すと、カチャッと音がする。オープンリールがゆるりゆるりと回りだす。茶色の磁気テープがもう一方の空のリールに絡みつくように巻かれてゆく。次兄の演奏が終わると、テープを裏返して、巻かれているほうを反対側にセットする。「次は弟さんの演奏で、『月光ソナタ』です。それでは、どうぞ」そんなことをしているうちに、すぐ日は暮れてしまう。アパートの四階の北向きの窓からは宝仙寺の広い墓地が見渡せた。暮れ残る空が黒ずんだ青色にかわるころ、寺の境内に立つ銀杏の大木へ、一斉に百舌の大群が戻ってくる。「夕べのクラシック」の録音テープは、新しいレパートリーが加わるたびに増えていった。

そうこうするうちに電車が鎌倉駅のホームに差しかかった。と、彼らは急いで座席を立って、一階の出口へ通じる階段のほうへ消えていった。裕三は停車中の電車の二階席の窓から、ホームを電車の進行方向へ歩いて行く人の群れのなかに二人を探そうとした。が、一向に見当らない。確かにあの二人は鎌倉駅で降りたはずだ。次の駅が終点なので別の車輌へ移動したとも考えにくい。あれは幻覚だったのだろうか。それにしても彼らの会話はあまりにリアルだった。裕三は急に言い知れぬ不安を覚えた。やがて電車は何事もなかったように終着駅の逗子へ向かって走り出した。

電車が名越のトンネルを抜けると、初夏の陽射しが澄みきった大気を通して家々の屋根に降り注いでいるのが見えてくる。胸にくすぶっていた不安もいつの間にか消えうせている。電車が駅に近づいて速度を緩め始めたとたん、懐かしさと切なさが胸にこみ上げてきた。逗子は裕三にとって忘れ得ぬ第二の故郷だ。高校生になった時から十二年間、この小さな海辺の町で家族とともに暮らしたのだ。

電車が駅に着いて、ホームに降り立つと、後ろのほうから涼しい風がさっと吹きすぎていった。裕三は、ふと時間が逆もどりしたような錯覚にとらわれた。すると亡くなった父と次兄の二人の面影がかわるがわる目に浮かんできた。それは家族の逗子時代の悲しい記憶でもあった。

改札口を出るとちょうど目の前に海岸回りの葉山一色行きのバスが止まっていた。バスは町中を縫うように通り抜けると、やがて狭い海岸沿いの道を走り始める。右手にとぎれとぎれに光る海が見えてくる。道はどこまでもうねうねと続いている。裕三は心地よいバスの揺れに身を任せて、目を瞑った。電車のなかで若い女性バイオリニストの口ずさんでいたブラームスの旋律が幾度も心に浮かんでは消えていった。それは遠い昔、まだ若かった母の腕に抱かれて眠りに落ちるときに聞いた子守唄かもしれなかった。そうして裕三は浅い眠りに落ちた。夢に。小学生に上がったばかりの裕三は次兄の修二と葉山の海に遊んでいた。浅瀬で首を海面から出しながら泳ぐ真似をしていると、すぐそばに大きなくらげが寄ってきた。二人は恐ろしさと怖さとで一目散に海から上がって、そのまま両親の待つ保養所まで走って逃げ帰った。保養所の入り口で浴びたシャワーの真水の冷たさにはっとして、裕三は目を覚ました。バスはちょうどかつての保養所の跡地を過ぎようとしていた。父の勤めていた役所の保養所が葉山の一色海岸のすぐそばにあって、家族は毎年夏になると、そこを利用して東京から海水浴に訪れていた。

一色海岸でバスを降りて、海へ通じている細い道をしばらく行くと、遠くから波の音がかすかに聞こえてくる。裕三は立ちどまって耳を澄ました。道が白く光っている。そして、ところどころ砂に覆われている。やがて道が切れると松林の向こうに青い海が見えてきた。

潮騒と磯の香りが一気に裕三を包み込んだ。

砂浜では夏を待ちきれない子供連れの家族が波打ち際で楽しそうに遊んでいる。裕三はゆっくりと砂浜に腰をおろした。海岸は御用邸から連なっている青い松と白い砂浜が美しい弧線を描いている。背後には緑に覆われたなだらかな山があって、小さな湾を優しく守っている。山の上をとんびが気持ちよさそうに円を描きながら飛んでいる。

からだを伸ばして砂の上に寝ころぶと、からだの下から砂の温もりが伝わってきた。裕三はいつしかその温もりのなかで遠い家族の記憶を呼び起こしていた。

 

     三

 

戦後まだ間もない頃、新宿の柏木に流れる神田川のほとりに、一軒のバラックが建っていた。屋根はとんとん葺きで台風が来るたびに吹き飛ばされて、家の中は無残にも水浸しになった。

当時、辺りは空襲で一面焼け野原だったが、父はそこに母の働いて貯めたお金で韓国人の地主から猫の額ほどの土地を買って、吹けば飛ぶような小さな家を建てた。

母は結婚と同時に働くことをやめて、その家で三人の男の子を続けて産んだ。父は戦後、新潟の田舎から単身で上京した。そして、新聞の求人欄に応募して、衆議院の事務局に職を得ていた。

貧しいながらも三人の子供に恵まれて家族は幸せな生活を送っていたかに見えた。しかし、父には決して人に言えないような奇癖があった。普段はおとなしく優しい父親であったが、ひとたび癇癪の発作を起こすと人が変わったように暴力的になった。様子もおかしくなる。

或る日、父はささいなことから癇癪を起こした挙げ句、部屋にあった箪笥の引出しを全部開けて、上から順に鍋に入っていた味噌汁をぶちまけていった。父はこめかみに青筋を立てて身をふるわせていた。顔面は蒼白だった。目も据わっている。

「気違いっ」

 あまりの怖さに母は思わずそう叫んだ。

 しばらくして発作が治まると父はうなだれて、「それだけは言ってくれるな・・・」と母に済まなそうに言った。そうして、今まで隠していた自分の過去をおもむろに語りだした。

「俺はな、旧制高校を終える頃からノイローゼが嵩じて、精神病院に入院させられたことがあるんだ。そこは重症患者のためだけの病院で、死ななければ出て来られないところだったんだ・・・」

 母は黙って父の言葉を聞いている。かたわらで三人の子供がすやすやと寝息を立てている。

「・・・俺は何とか死んだことにしてもらって、やっとそこを出ることが出来たんだ。だから今でも富山高校の同窓会名簿には死亡となっているんだ・・・」

 母は愕くと同時に、夫の両親を深く恨んだ。たとえどのような状態であったにせよ、夫をそのような特殊な精神病院に閉じ込めた両親がどうしても許せなかったのである。

「お父さん、そんなことがあったの。ちっとも知らなかったもんだから・・・。でも、どうして子供の産まれる前に教えてくれなかったの?そうすれば・・・」

「・・・」

 父には返す言葉もなかった。

 夜来の雨がトタン屋根にあたってぱらぱらと音を立て始めた。子供たちは部屋に敷き詰めた安蒲団の上で折り重なって寝ている。母はいつまでも裸電球の下でじっと子供たちの寝顔を見つめていた。

 

昭和三十年、父は母と三人の幼い子供を引き連れて、新宿の柏木から中野坂上の近くにある公務員宿舎に移り住んだ。末っ子の裕三がまだ一歳の時のことである。

父は役所勤めの傍ら、囲碁、麻雀、パチンコ、競馬といった勝負事に我を忘れて打ち込んだ。そうすることで、病的な雑念を無理やり意識の下へ封じ込めようとしたのかも知れなかった。ともあれ、父が心置きなく賭け事に興ずることが出来たのも、柏木の家を人に貸して幾ばくかの家賃収入があったのと、とりわけ母の深い理解があったからである。

母は何しろ三人の男の子を育てるのに精一杯だった。いつも白い割烹着を着て黒い髪を振り乱していた。まだ赤ん坊の裕三を背負いながら、両手で二人の幼い兄の手を引いて、一円でも安い買物をしようと、近所の市場を駆けずり回っていた。しかし、母はそんな貧乏暮らしを少しも嫌ってはいなかった。むしろ新鮮に感じているようにも見えた。何よりも母は家族を深く愛していたのである。

 

二年ほど経った初夏の或る日、中野の公務員宿舎に一人の背の高い初老の西洋人が母を訪ねてやって来た。家には電話がなかったので、来客はいつも突然であった。

コンコンといつになく上品にアパートの鉄製のドアを叩く音がして、母は洗い物の手を止めた。割烹着の裾で濡れた手を拭きながら、台所へ続く玄関で、「どちら様ですか?」とドア越しに大きな声で聞いた。すると、「ヴァカーリデス」としっかりした日本語で西洋人の声がした。下の二人の子供は母の割烹着の左右の裾を引っ張っている。母は急いでドアを開けた。

「まあ、ヴァカーリさん、よく此処がわかりましたねえ。お懐かしい!本当によくいらっしゃいました」

「ズイブンサガシマシタ。マタ、オアイデキテ、トテモウレシイデス」

「さあ、どうぞお上がり下さいませ。とてもきたない所ですけれど・・・」

 と言って、母はヴァカーリ氏をアパートの和室の居間に招じ入れた。二人の子供は母の普段とはまったく違った丁寧なもの言いと、初めて目のあたりにする外国人に驚いて、奥の部屋に引っ込んでしまった。

 母は作りかけのレモネードに氷を入れながら、ヴァカーリ氏との十数年ぶりの再会を喜ぶ一方で、一旦は訣別した過去の自分を再び呼び戻すことになりはしないかと危惧していた。

「センソウデ、アナタノショウソクガ、ワカラナクナリマシタ。ココマデ、タドリツクノニ、ズイブンナガク、カカリマシタ」

 氏は居間の破れた襖や障子、ところどころすりきれた畳に目をやった。そうして、煤で薄汚れた台所や北向きの部屋の湿気で半ば浮き上がった漆喰の白壁が今にも落ちて来そうなのを見て、母の落魄ぶりに心を強く揺さぶられた。

「オオ、ミゼラーブル!イタリアニモ、コンナヒドイスラムハ、アリマセン」と絶句した。

裕三と次兄の修二は、襖のかげから、かわるがわる顔を出しては、いたずらっぽい笑顔を覗かせていた。

 

 ヴァカーリ氏は英語の辞書や英文法の本を自前で出版して、日本で財を成したイタリア人実業家であった。戦前、母は東京の氏の自宅兼仕事場で辞書の編纂の仕事を手伝っていた。出版にまつわる雑用もてきぱきとこなした。氏は英語の語感にすぐれた母を直ぐに気に入って、養女にしたいとまで思うようになった。

 戦争がお互いの消息を不明にしてから十数年経ったが、その空白を埋めるかのように、家族ぐるみの交流が始まった。氏が「オオ、ミゼラーブル!」と絶句して以来、氏は短いあいだに次々と母に贈り物をした。氏は父親のような気持ちで、日々の生活に苦しんでいたか見えた母に贈り物という形で愛情を表わしたかったのだろう。しかし、その贈り物は、氏がいくらお金持ちだとはいえ、一家の想像をはるかに超えるものであった。中でも二つの贈り物は文字通り貴重な宝物となった。

 一つは大粒のダイヤを嵌め込んだ白金の指輪だった。ヴァカーリ氏は母に、「ヨーロッパデハ、ザイサンノヒトツトシテ、ダイヤモンドヲモツ、デントウガアリマス。センソウノトキデモ、モチヤスク、カクシヤスイ。オカネニカエルコトモ、カンタンデス」と言って、銀座の天賞堂に特別に誂えさせた。

 もう一つは三本の金の延べ棒だった。氏はやはり母に、「ジンセイニハ、ナニガオコルカ、ワカリマセン。コマッタトキニ、コレヲウッテ、オカネニカエナサイ。イエヲカウノモ、イイデショウ」と言って、同じように銀座の天賞堂に用意させた。

 濃紺のビロードのケースのなかで燦然と光を放つダイヤの指輪と紫色の袱紗に包まれて黄金色にひかる金の延べ棒は長いあいだ桐の箪笥の最上段の小引出しの奥深くにしまわれていた。三人の子供だけが、ときどき思い出したように、ダイヤの指輪を取り出しては昼の光にきらきらとかがやくのを見たり、押し入れの中にこっそり持って入って、その暗がりのなかで、ダイヤの光の妖しく乱反射するのを飽かず眺めていた。金の延べ棒は子供心にも何か近寄り難いものがあって、手に取って眺めることはあまりなかった。

 

      四

 

 葉山から帰ってニ、三日すると、長兄の晋一から昼間に電話がかかってきた。

「裕三、これから鶴見近辺を通過するんだけど、今日なんかどう?」

「あっ、お兄ちゃん、お願いするよ」

「よし、じゃあ、今から行くから」

 裕三は赤帽運送をしている晋一に、かねてから荷物を運んでくれるように頼んでいた。いらなくなったオーディオセットとLPレコードを母のいる横須賀の実家へ届けることになっていた。

 外は初夏を通り越して、真夏のような暑さだった。季節はまた一つ歯車を動かそうとしていた。鶴見の家から横須賀の実家までの小一時間、裕三は兄の運転する赤帽の軽トラックの助手席に坐って、兄の問わず語りに話し出すのを黙って聞いていた。

「・・・俺の場合は裕三とは少し違うんだ。或る事をしようとして何かを考え出すと、一つの考えにまとまらなくなる時があるんだ。頭の中で別の声がして、こういう考えもある、ああいう考えもある、という風に幾つもの考えが自分に働きかけて来るんだ。困ったことに、それぞれの考え方にはそれなりに正しい一面があって、頭がだんだん混乱してゆくんだ・・・」

 五歳年の離れた長兄の晋一からこのような話を聞くのは初めてのことだった。太陽に熱せられた道路には陽炎がゆらゆらと立ち昇っている。軽トラックの車内には高速道路の舗装の継ぎ目をこえる車輪の音が規則的に響いている。

「そういう風になる時は必ず事前にわかるんだよ。じわじわと頭に変調をきたすのがね。そんな時は何とも言えず嫌な気分になるものさ。それで、俺は少しでも頭を鈍らせようと思って、勉強机の横の白壁に頭を打ちつけたりしてたんだ・・・」

裕三は中野の公務員宿舎の漆喰の白壁がぼろぼろに砕け落ちて内側の木組みが無残にも剥き出しになっていた晋一の勉強部屋の光景をまざまざと思い出した。

晋一は病的な癇癪持ちの遺伝子をただひとり父から受け継いでいた。癇癪を起こすとやたらと物にあたる。滅茶苦茶に壊された扇風機を町の電器屋に持ち込んだ母が、「どこをどうすれば、こんなになるんかねえ」と呆れられて、返事に窮したこともあった。裕三と修二そして母は、ひとたび晋一の癇癪が起こると、その発作の嵐の吹き過ぎるのを、ただじっと待つばかりだった。その一方で、晋一は小動物や昆虫が大好きで、勉強机の引出しのなかに、一面、乾いた土を敷き詰めて、おけらを飼ったりする優しい一面も持っていた。普段は家族思い、友達思いの良い兄だったのである。

晋一の高校三年の或る日のことである。家族が皆、寝静まった夜遅くに、勤めから帰ってきた父は、いつも寝る前に聴くために枕もとに置いてある中型のラジオが壊れているのを見つけた。父はすぐさま襖一枚隔てた隣の板敷きの勉強部屋で眠っていた晋一を叩き起こして問い詰めた。

「晋一、お前がやったのか」

 電灯に浮かび上がった父の顔は怒りで蒼白になっている。

「やりました」

 晋一は蒲団に正座する形で父に向き合って神妙に答えた。たまりにたまった父の怒りはついに爆発した。部屋に立てかけてあった木刀を手に取って、力一杯、長兄の頭めがけて振り下ろした。

「お前は何でそう物を壊すんだ。見ろ、壁だってぼろぼろじゃないか」

と大声を出して、更に二回、三回と一向にその手が休まることはなかった・・・。隣の和室で寝ていた裕三と修二そして母の三人は電灯の消えた暗闇のなかで、半分開いた襖のかげから身じろぎもせずに、その修羅場を見つめていた。

 晋一は何度も、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言って、泣きながら繰り返し父に頭を下げている。

「お父さん、もう止めてっ」

と泣き叫ぶ母の声がすると同時に、ボキッと鈍い音がして木刀が真っ二つに折れた。

 その日以来、長兄は家の中で父とは全く顔を合わせなくなった。兄の心の中で何かが大きく壊れたように見えた。それから一週間ほどして兄は顔を腫らしたまま家を出ていった。長兄のいなくなった家は重苦しい空気に包まれた。母は兄の行く末を案じた。そして父の口数はめっきり減った。

 それから晋一は何とか自力で住み込みの新聞配達の仕事を見つけて、高校へ通い続けた。そこで新聞配達をニ、三年したのち、新しくきこりの仕事を見つけて、九州の屋久島へ海を渡ることになった。晋一の二十歳の春のことである。

たった一人で最果ての島へ赴くまだ若い息子の心中を思うと母は深い悲しみで胸が塞がった。はるか南の絶海に浮かぶ屋久島の光景を心に描いては悲嘆に明け暮れた。

ちょうどその頃、偽の白バイ警官が現金輸送車を襲って三億円を奪った「三億円事件」が巷を騒がせていたが、東京から突然、屋久島の山奥に現れて、きこりを始めた晋一は、一時期「三億円事件」の犯人と思われていたこともあったらしい。

 その年の夏、母宛てに一通の葉書が屋久島から届いた。

 

  前略 ここ屋久島は雨のとても多

いところで、ほとんど毎日のよう

に雨と霧の中で暮らしている感じ

です。

  弱かった私もここで大分強くなり

  ました。どうかご安心下さい。

  たまに晴れた日などに海辺に出る

と、砕ける波頭に南国の太陽の光

があたって白く輝いて見えます。

とても美しい眺めです。  草々

     昭和四十四年夏、晋一より

   

         五

 

 晋一は母のところへ荷物を降ろしてから、「直ぐ次の配送があるんだ」と言って、慌ただしく赤帽の軽トラックを発進させた。母は玄関の外に立って、兄の運転する軽トラックが遠くに見えなくなるまで兄を見送っていた。

 裕三は先に家に上がって、運んできた段ボールを開けて、ステレオアンプとスピーカーそしてLPレコード用のプレーヤーを接続コードでつないだ。針圧を注意深く再調整してから、持ってきたLPレコードの中から一枚を取り出して、レコード針を落としてみた。

スピーカーからかすかに雑音がする。やがて管弦楽によるD音の低く重なり合った荘厳な響きが聞こえてきた。合唱が直ぐそのあとを受けてラテン語で、「永遠の安息を彼らに与え給え、主よ」と深々と歌い出す。

「お母さん、フォーレのレクイエムだよ」

「裕三、懐かしいレコードだね」

「うん、僕が高校生の時にお母さんが買ってくれたんだ。もう三十年以上も聴いていることになるよ」

「死者のためのミサ曲だったね、裕三」

「そう、死んだ人の魂を鎮めるための音楽だよ」

 八十をとうに過ぎた母の顔には深くしわが刻まれている。そして、自分の人生も終わりに近いと悟ったものだけが持つ安らかな表情を湛えていた。

「夕方になって、夕陽が部屋に差し込んだりすると、お兄ちゃんとも裕三とも、もうすぐお別れだと思って、うっすらと、こう、涙を泛べることがあるんだよ」

 と言って、老いた母は目にたまった涙を手でぬぐうようなしぐさをした。フォーレのレクイエムが静かに部屋に流れている。母と裕三はしばらく二人で黙ったまま、音楽に聴き入っていた。裕三はこの世にこれほど美しくしみじみとして感動的な音楽は他にあるまいと感じた。

 母はふと、窓から庭のけやきの木を見上げた。すると葉の茂った梢からニ、三羽の雀が急に飛び立った。

「お父さんは病気で死んじゃった。修二もあんなことになってしまって・・・」

 そう言って、母は静かに目を閉じた。裕三には、母が亡くなった二人の魂の永遠の安息を祈っているように見えた。

 

         六

 

 昭和四十五年、父は金の延べ棒を手放して、逗子の小坪に平屋の家を建てた。ダイヤの指輪はピアノにその姿を変えていた。裕三が音楽高校に入る直前のことである。

 家族は海辺の町、逗子で平穏な暮らしを始めた。早くに家を出ていた晋一も逗子の家で父と和解した。長いあいだ家族に突き刺さっていた棘のようなものがやっととれた感じがした。

 夏には十数年ぶりに兄弟三人で葉山へ出かけて、海にエアーマットを浮かべて遊んだりもした。父も競馬のない日曜日には、近くの小坪漁港まで散歩に出かけて、帰りに魚市場でさざえを買ってきたりした。母もまた、散歩がてら鎌倉まで足をのばして、買物にいそしんだ。逗子の町が持つ明るく寛容な空気が家族の軋みをするりと取りはらってくれたかのようだった。

 

 昭和四十八年の或る夏の日、父は胃の痛みを訴えて一日中、床に伏せっていた。競馬のある日曜日に、父が馬券を買いに出かけないのは普通ではあり得ないことである。外から帰ってきて、母から父の具合が悪いと聞かされた裕三は、珍しいことだと思いながら、和室の襖をそっと開けて父の様子を窺った。

「お父さん、大丈夫?」

「・・・う、うん」

 父の目は開いてはいたが、顔色が土気色で、口をきくのもつらいように見えた。そのような父を見るのは初めてのことであった。父

は普段から痩せてはいたが、裕三の知る限り病気で役所を休んだことは一度もなかった。そうして、この日も父は丸一日休んだだけで、翌日の月曜日にはいつものように東京の役所へ出かけて行った。

 裕三はその年の春から普通大学受験のために逗子の家から東京の予備校へ通っていた。或る時、父は唐突にこう言ったことがある。

「裕三、浪人は一年までだぞ」

「えっ、お父さん、そっ、それはないよ・・・」

 裕三は父の真意をはかりかねて、少しくうろたえた。父はまた、その年の初めに長年人に貸していた新宿の家と土地を手放して、借金をすべて返していた。父は何かにせかされるように身辺整理を着々と進めていたのである。

 ほどなくして、父は横須賀の共済病院で胃の手術を受けることになった。「お父さんの胃潰瘍は少し変わっているそうだ」と検査結果を家に持ち帰って、家族に明るく話した時の父は、手術後の恢復を素直に信じていた。「お父さん、癌じゃなくてよかったね」と裕三は無邪気に喜んだが、母の表情はなぜか冴えなかった。

 手術のために父の入院した日、裕三は病院から遅くに戻ってきた母から、父の本当の病気は胃癌であることを初めて聞かされた。そして、医者からは余命半年と告げられていることも知らされた。その日の夜、裕三は勝手口の外へ出て泣いた。涙が止めどなく頬を伝って流れ落ちた。五十一歳の若さでやがて死ななければならない父がただただ哀れでならなかった。

 手術を控えて母は毎日病院へ通って父の世話をしていた。晋一は仕事があったので、たまにしか来られなかったが、裕三と修二は母の応援と交替のために時々病院に顔を出していた。

 或る日、裕三が父のベッドを訪ねると病棟中が大騒ぎになっていた。

「裕三、お父さんがいなくなっちゃたんだよ」

 母はめっきり増えた白髪を振り乱して、為すすべもなくただおろおろするばかりだった。

「お母さん、僕にはお父さんが何処にいるか見当がつくよ」

「えっ、本当かい、裕三」

「うん、病院の玄関前の芝生のロータリーに寝ころんでると思うんだ」

 その時裕三は父の大好きな石川啄木の短歌を思い出していた。

 

  不来方の

   お城のあとの

    草に臥て 

  空に吸われし

   十五の心

 

 父は家でお酒を飲んで上機嫌になると、よくこの歌を口ずさんでいた。父はなぜか歌の途中を「お城の草に寝ころんで」と勝手に詠みかえていた。そのあとは決まって、新潟の生家から父の通っていた巻中学校までの長い道のりの途中に、見渡すかぎりの菜の花畑があって、とても美しかったことを話し出す。果たして父は病院の芝生のロータリーに寝ころんで、一人、行く雲を眺めていたのである。

 胃の手術は一応成功して、父は一度は家に帰れるまでに恢復した。退院を一番喜んだのは他ならぬ父自身であった。季節は夏を通り越して秋を迎えようとしていた。

 このまま奇跡が起きてほしいというのが家族の願いであったが、全身に散らばった癌細胞は次の攻撃を容赦なく父の大腸へ仕掛けた。最初の手術から二ヶ月と経たぬうちに父は病院へ舞い戻る羽目になってしまった。癌の塊が腸閉塞を引き起こしていたのだ。激しい痛みを取り除くために二度目の手術は待ったなしで行われることになった。

 再手術の日、父は移動式の寝台に寝かされて家族に見守られながら手術室へ向かった。「お父さん、しっかりね。きっとまた良くなるから・・・」寝台のかたわらで必死に叫ぶ母の姿に、一筋の涙が父のこめかみを伝って枕を濡らした。

 父は翌年の一月に病院で息を引き取った。正月には家に帰りたいと言っていたが、その願いはついにかなえられることはなかった。

 

         七 

       

 昭和五十一年の年の暮れに次兄の修二が逗子の家から突然失踪した。父が亡くなってから二度目の冬のことである。その日は、空は晴れ渡っていたが、連日の寒波で空気は冷え冷えとしていた。何も知らない母は玄関先で修二をいつものように見送った。

「お母さん、僕のこと好き?」

 修二は靴の紐を結びながら母を見上げて訊いた。

「何言ってるんだい、修二。好きに決まってるじゃないか。変な子だよ」

 修二は母の答えに少年のような笑顔を見せた。

 母は修二を見送った後何気なく次兄の部屋に入った。すると机の上に無雑作に置かれた書店の茶色い紙袋が目に入った。真新しい紙袋は中身が見えるようにわざと口が開かれてていた。母はその紙袋の中から小さな雑誌を取り出して、ぱらぱらと頁をめくってみた。それは母の知らない同性愛の雑誌だった。そこへ突然、修二がばたばたと戻ってきて、母に言った。

「マフラー忘れたんだ」

 修二の声は強ばっていた。

「何だい、これは?」

 と母は修二に雑誌のことを問い糺した。

「人からもらったんだ。こんなもの捨てたほうがいいんだ」

 と吐き捨てるように言うと修二はその雑誌を母から奪うように取り上げた。次兄の顔からはつい先ほど玄関で見せた少年のような笑顔は消え失せていた。母は玄関の石段を下りて行く次兄の固い足音を聞きながら妙な胸騒ぎを覚えた。

 

  修二は上野から特急電車に乗って、高原の町、軽井沢を目指し ていた。

 「ユキノナカデ、ネムルヨウニシテ、イシキガトオノイテイケバ イイ。コノサムサナラ、ユキモスコシハアルダロウ」

  修二は駅で買ったウィスキーの小瓶を手提げバッグの中からゆ っくり取り出した。そして、時間をかけて少しずつ飲んでいった 。

 「ヒマラヤスギノシゲミニ、ハイッテシマエバ、ヒトメニハツカ ナイ。ミンカニチカケレバ、ハッケンモハヤイダロウ」

  修二はまた、いつか母に言った自分の言葉を思い出していた。

 「・・・ボクハ、クロウシテキタカラ、シヌノハゼンゼンコワク ナイ。ホントウニ、クロウシテキタンダ・・・」

  電車は北へ北へとひた走りに走って行く。車内は暖房がかなり きいている。そして、人影も疎らで静かだった。車輪のレールの 継ぎ目を越える音だけが、規則的に車内に響いている。電車はや がて急勾配を上り始めた。電車のモーター音が唸りを上げている 。この急勾配を上り詰めると高原の町、軽井沢に着くはずだった 。

 

 翌年の六月、神奈川県警から逗子の家に一本の電話が入った。失踪した次兄と思われる凍死体が軽井沢で発見されているということだった。母と裕三は取る物も取りあえず横浜の県警本部まで出向いた。修二の捜索願を出してから六ヶ月が過ぎようとしていた。

「ああ、よかった。息子じゃありません」

 県警の一室で一枚の写真を見せられて、母は思わず安堵の声を発した。写真の男は髪の毛が立っていて、むくんだ顔の全体から受ける印象はまったく別人のように見えた。「でも、お母さん、ちょっと待って。よく見ると顔の輪郭は修二兄さんとそっくりだよ」そう言って、裕三は小首をかしげた。目を細めて見るとたしかに兄の面影が彷彿しなくもない。県警の人の話では身元を示すものは何一つ身につけていなかったが、修二の失踪した日と写真の男の死亡推定日が一致しているとのことだった。裕三は身元不明者の遺体の特徴や身につけていた物の記録から、写真の人物はほぼ次兄に間違いないと思った。母もまた、ついに悲しい現実を受け入れねばならぬ時がやって来たと観念して、身を硬くしていた。母と裕三はその足で確認のために急ぎ軽井沢へ向かうことになった。

 

 軽井沢は霧が出ていて、かなり視界が悪かった。六月というのに肌寒く、高原の冷気が衣服を通して身体に沁み込んでくる。警察署は二階建ての古い建物だった。薄暗い階段を上がると右手の部屋に灯りがついていて、二、三人の刑事の姿が目に入った。母と裕三はその部屋で修二の遺留品と数枚の写真を見せられた。マフラーやコートそして手提げバッグなどが丁寧に保管されていた。母は悲しみによく耐えていた。

「身元不明の変死体は普通は司法解剖をしてから、そのまま土中に埋めることになっているんですがね」

 と年配の刑事が話し出した。

「息子さんの発見された時は、軽井沢でも最も寒い時期でしてね。土は掘り起こそうにもがちがちに凍りついていてスコップを使うことが出来なかったんですよ。それで、ご遺体をひとまず荼毘に付して春になって暖かくなってから、骨壷を山中の無縁仏の墓に埋葬したんです」

「それは、ありがとうございました。ご迷惑をおかけして、なんと申してよいのやら・・・」

 母はそう言うと裕三の腕に縋りついた。

「役場に坊さんの職員がいましてね。ねんごろに供養してもらいましたから、ご安心ください。それでは、これから一緒に無縁仏の墓まで息子さんの遺骨の入った骨壷を取りに行きましょう」

「よろしくお願いします」

 裕三は母に代わって答えた。

 

 町はずれのなだらかな山の中腹に無縁仏の墓はあった。鬱蒼とした木々に囲まれた狭い空き地に数本の卒塔婆がぽつんぽつんと立っている。警察の人は修二の骨壷の埋められている卒塔婆の前でかるく手を合わせてから、持ってきたスコップで黒い土を掘り返し始めた。そうして底のほうから泥にまみれた白い骨壷を丁寧に取り出した。

 次兄は骨だけになってふたたび逗子の家へ戻ることになった。帰りの電車に乗り込むと、母は骨壷をしっかりと胸に抱えたまま固く目を閉じた。やがて、ごとりと音がして電車はゆっくり動き出した。窓の外には六月の湿った闇が迫ってきていた。

 

         八

 

 金沢八景を出た鎌倉駅行きのバスが峠越えの急峻な坂道に差しかかった。左右にひろがる緑の森に、夏の光が眩いばかりに降り注いでいる。しばらくして、バスがひときわ大きなカーブを切ると、山のてっぺんに鎌倉霊園の朝比奈門の停留所が見えてくる。裕三はそこでバスを降りた。

 よく整備された広大な墓地が山の斜面にそって整然と並んでいる。遠くに海が白く光って見える。手入れのよく行き届いた芝生の公園を通り抜けて、坂道を少し下ると直ぐ左側に父と次兄の眠る芝生墓地がある。

 裕三は額の汗を手の甲でぬぐいながら墓のまわりを何度もきれいにした。そうして、手桶の水をゆっくり墓石にかけた。

「修二兄さん、僕も今年で五十になったよ。兄さんの死んだのが二十五の時だから、ちょうど兄さんの倍、生きたことになるね」

 裕三は修二に向かって語りかけた。

「ユウゾウ、ニイサンハアノトキ、カアサンニイッタンダヨ。ユウゾウミタイニ、ボロゾウキンニナルマデ、イキテイタクナイッテネ」

 修二の声が空から舞い降りてきた。

「僕には兄さんのような勇気はなかったよ。若い頃は生きてゆくことがこんなに大変だとは夢にも思わなかったし、今じゃ兄さんの予言どおりすっかりぼろ雑巾さ」

「ユウゾウ、ゴジュウマデヨクイキタネ。タイシタモノジャナイカ。カアサンヲカナシマセチャイケナイヨ・・・」

 修二の言葉は、音のかけらとなって、ふたたび空に吸いこまれていった。

 

  

     

 

 

 第二部

 

         一

 

      平成十六年 秋

 

 夜半から降り続いていた雨もようやく止んだ。空が少し明るんできた。三階のロフトの窓から見おろす広葉樹の葉が色づき始めている。アパートの横のアスファルトの私道は雨に濡れていた。どんよりとした曇り空は少しずつ濃淡を変化させながら、わずかに出来た雲間から薄日がさしてきた。裕三は、まだ若い時分、ドイツへ留学していたときに住んでいたアパートのことを思い出していた。あの時、同じ三階のロフトの窓から見おろしたのは、たしか白樺の樹だった。空は低い雲に幾重にも覆われてた。北ドイツの秋は足早に過ぎ去り、やがて長く寒い冬がやってくるのだ。(あれから幾たびの秋を迎えたことだろう)人生の光と影は、裕三の場合、精神の病と密接に結びついていた。

 

 いつごろからのことだったか定かではないが、裕三は大学三年の半ばくらいまでかなりびっこを引いて歩いていたらしい。そのことを知らされたのは、同じゼミの彼女M子からだった。

「最近、裕三はびっこを引かなくなったね。足のほうはもう良くなったの?」

「えっ、僕がびっこを引いてたって?ほんとに?全然気づかなかったなあ」

「悪いと思って今まで訊かなかったの。わたし、身体障害者の人とずっと付き合ってくって覚悟してたの・・・」

 今から思えば確かにびっこを引いて歩いていたのかもしれない。のちになって大学の友人W君やゼミのK先生からも、裕三の足は悪いと思っていたと、同じように聞かされたからだ。

大学一年の夏、裕三は初めて大鬱に見舞われた。躁鬱病の初発である。裕三は生きてゆくことにすっかり自信をなくしてしまった。大学も辞めてしまいたいと思い詰めた。起き上がるのは食事とトイレのときだけで、眠るとき以外は日がな一日ベッドで蒲団を引きかぶっていた。そんな生活が三ヶ月は続いた。鬱からの出口を見いだせぬままに次の日の朝を迎えるのがとても怖かった。とにかく窓の外の明るい光がたまらなく嫌だった。

秋口になって裕三はふとしたことから隣町の鎌倉の書店でアルバイト募集の貼り紙を目にした。思い切って応募してみると、店の主人は二つ返事で採用してくれた。この書店でのアルバイトをきっかけに、裕三の鬱は薄皮を剥ぐように少しずつ快方へ向かっていった。しかし大学一年は結局棒に振ることになってしまった。

 初めての大鬱の打撃は裕三の精神を極端に萎縮させた。大学二年になってからも誰とも口をきかずに大学の講義を聴講するだけの日々がさらに一年ぐらい続いた。裕三はこのころからびっこを引いて大学のキャンパスを歩いていたのかもしれない。心の状態が身体に顕われていたのだ。

 

躁はいつも突然やってきた。裕三が初めて大躁になったのは、大学三年の夏のことである。世界は一気に輝きを取り戻した。自然はどこまでも美しく見えた。人はかぎりなく優しくそして親密に感じられた。失われていた自信がふつふつとよみがえってくる。沸き立つ表現欲は一度はあきらめていた音楽を急速に裕三に引き戻した。

裕三は二十五の夏に音楽留学生としてヨーロッパを訪れることになる。北ドイツの小都市デトモルトのムジークアカデミーの学生となった裕三は、ヨーロッパの風土のなかで、ピアノの練習に明け暮れた。

裕三の住むアパートはハンスヒンりッヒ通り十三番地にあった。三階のロフトの窓から見おろす裏庭の白樺の樹がすっかり葉を落として羽の生えた種子が風にくるくる回りながらつぎつぎと地面へ落ちる頃、ムジークアカデミーの冬学期が始まる。

アパートの玄関を出て石造りの住宅街を通り抜けると美しい森がある。森のなかの石段を下りて行くと、やがて小川のせせらぎが聞こえてくる。秋の柔らかな光が針葉樹の葉を透して斜めにさしこんでいる。小川にかかる小さな石橋を渡ると小道が旧市街のほうへまっすぐにのびている。落ち葉の散り敷く小道をしばらく行くと、右手に石造りの古い宮殿が見えてくる。宮殿は背の低い重厚な造りで背後には広々とした冬芝のスロープが朝露に光っている。ムジークアカデミーはこの宮殿をそのまま利用していた。正面の重い扉を押し開けると玄関ホールの高い吹き抜け天井に学生達の声が木魂している。

宮殿の上階に通じる階段は玄関ホールの両側にあった。向かって左側の狭い階段を上がってゆくと中二階に裕三の師事しているベッシュ教授のレッスン室がある。教授は五十前後のがっしりとした背の高いドイツ人男性ピアニストであった。その分厚い胸板と太い両腕に支えられた大きな手から生まれるピアノの音は奥行きのある男性的な響きがした。彫りの深い顔には精悍さを漂わせていたが、無雑作にかきあげられた金髪の下の透き通った青い目には芸術家の繊細な内面があらわれていた。教授はブラームスやベートーべンをよく弾いたが、そのいっぽうで、シューベルトをライフワークにしていた。

教授の求めるドイツ古典派の音の響きは意外なほど地味なものだった。潤ったレガートよりも音の粒立ちをよしとした。しかし、その求める音楽はおどろくほど立体的で求心的なものだった。一本の木の葉ずれの音よりも森のざわめきをよしとした。そして、その表現は千年の巨木の根が地を這うように、しぶとく、また密であらねばならなかった。

 昭和五十九年七月、ムジークアカデミーの音楽ホールで裕三のピアノ演奏会が開かれることになった。裕三がドイツに来てからちょうど五年目の夏のことである。

 その日、裕三は新調した濃紺のスーツに黒の蝶ネクタイを結んで、少し早めに家を出ることにした。宵の口とはいえ外にはまだ仄白い光が漂っている。北ドイツの夏は夜晩くまでなかなか陽が落ちない。遠く旧市街のほうから教会の鐘の音がきこえてくる。

身につけているものとは裏腹に裕三の脳は極限まで疲弊していた。夜とも昼ともつかぬ大気のなかをふらふらと足を引きずりながら歩いてゆく姿は、とてもこれから演奏会でピアノを弾く男には見えない。五年という歳月の重みと鬱屈した北ドイツの風土が裕三の神経を極端にすり減らしていたのだ。しかし、演奏会はムジークアカデミーの卒業試験を兼ねていたのでキャンセルする訳にはいかない。裕三は幻日を見たような気がして何度も目をこすった。

 楽屋でただ一人、開演前のブザーが鳴るのを待つ。裕三はほとんど放心している。もはや緊張する力ものこっていない。ところが裕三の脳髄にはこれから演奏する音楽の骨格がしっかりと刻みこまれていた。そして変転する和声も、絡み合う旋律も、複雑に交錯するリズムも、すべて身体に沁みこんでいたのである。

 最初の曲、バッハのホ短調シンフォニアの出だしのE音を鳴らした刹那、裕三はもう後戻りは出来ないと思った。弾き間違えても、止まっても、忘れてしまっても、途中で舞台から引き下がる訳にはいかない。(ただ弾くだけだ。それ以外はないのだ)裕三はひたすら曲の骨格だけを追いつづけた。いつしか裕三の演奏からは、一切の衒いや計らいが消え失せていた。

裕三はプログラムの最後にシューベルトの遺作のイ長調ソナタを演奏した。シューベルトは、裕三のピアノが奏でる三十三分三十三秒のなかに、永遠の青春の音楽を謳い上げた。最終楽章「ロンド」の最後のA音がホール一杯に鳴り響いたとたん、満場の聴衆から澎湃と拍手が沸き起こった。足で木の床を踏み鳴らす音にまじって、そこかしこから歓声が上がる。拍手はホール全体を優しく包み込んだまま、いつまでも鳴り止むことはなかった。

 

         二

 

      平成十年 横須賀

 

「何も心配することはありませんよ。マンションの売却から自己破産まで、一切費用はかかりませんから。原田さんの場合はサラ金からの借金も無いし、いちばん簡単なほうですよ」

 自称不動産ブローカーのB氏は引越しを済ませたあとのがらんとしたマンションの一室で、あぐらをかきながら物馴れた口調で話し始めた。

「でも、弁護士へ支払う費用もいるんでしょう?」

 裕三は心配して尋ねた。本にはかなりの着手金を用意する必要があると書かれていた。

「いいえ、原田さんは一円も払わなくっていいんですよ。弁護士費用はすべてマンションの売却代金から差し引けるんです。私どもへの不動産仲介手数料も同じことですよ」

 とB氏はいとも簡単に答えた。裕三は、たとえマンションが売れたとしても、多額の債務が残るような売却依頼を引き受けてくれるところなど何処にもないだろうと途方に暮れていた。裕三はB氏の言葉をにわかには信じられなかった。

 

 裕三が人生最大の鬱になったのは四十四のときのことだ。瞬く間に職を失って経済的にも人生最悪の危機に直面した。住宅ローンの支払いはすべて放棄した。銀行のカードローンの返済もすべてストップした。妻子は実家へ帰して裕三は失意のうちに母親の住む横須賀の家へ転がり込んだ。

(借金してマンションなど買うべきではなかったのだ。そもそも再婚などしてはならなかったのだ)

来る日も来る日も自責の念に苛まれた。鬱は悪化の一途を辿り、心は奈落の底へまっさかさまに落ちていった。次々に転送されてくる債権者からの督促状や法的手段に訴えるという最終通告は裕三をますます窮地に追い込んだ。

 そんな或る日、ふとしたことからマンションの管理会社へ連絡して管理費を滞納している事情を説明しておこうという気になった。

「横浜市鶴見区のKマンションを所有している原田と申しますが、本日は滞納している管理費の件で、お電話しました」

「ちょっと待ってください。今、調べてみますから・・・はい、三〇五号室の原田さんですね」

 感じのよい男性の声が受話器の向こうから聞こえてくる。

「ええ、そうです。たいへんご迷惑をおかけして申し訳ありません。実は私、病気になってしまいまして、住宅ローンのほうもずっと払えないでいるんです。このままだと差し押さえになるのも時間の問題だと思います。このことだけは、お知らせしておこうと思いまして」

「そうですか・・・ご事情は分かりました。ところで、原田さん、不動産ブローカーにマンションの売却を頼んでみたらいかがですか?」

「しかし、今の相場では多額の債務が残ってしまうので抵当権の抹消が出来ないでしょう?売却は無理なんじゃないですか?」

「いや、原田さん、ブローカーは弁護士と組んで、自己破産とセットで売却してくれるから、大丈夫だと思いますよ」 

 男はやけに親切だった。管理会社からすれば早く売却させて新しい所有者から滞納分の管理費を回収するほうが得策なのかもしれない。

「その不動産ブローカーというのは信頼出来るのでしょうか?」

 裕三は、自分のことは棚に上げて人を悪く言う自分が、なんだか滑稽に感じられた。しかし不動産ブローカーという言葉の響きに得体の知れない怖さを感じたのも事実だった。

「弊社でご紹介しますよ」

 裕三にはどう転んでも、失うものは何もない。気持ちが動いた。

「ありがとうございます。お願いします」

  

 不動産ブローカーのB氏と再び会ったのは、弁護士のN先生に紹介してもらうために待ち合わせた横浜の関内駅の改札口を出てすぐのところだった。B氏は市役所のほうを向いて、携帯電話でなにやら話し込んでいる。彼の前を何人もの人が通り過ぎて行く。裕三は彼の電話が終わるまで少し離れたところで待っていた。陽は出ているが風がとても冷たい。

「Bさん、こんにちは。お忙しそうですね」

と声をかけると、「貧乏暇なしですよ」と言ったまま、B氏は横浜スタジアムの横の道を官庁街のほうへずんずん歩き出した。歩いていてもすぐに電話がかかってくる。依頼人を安心させるような言葉が聞きとれる。藁にも縋る気持ちでB氏に命運を託している人も多いのだろう。裕三もその中の一人だっだ。

 大通りと並行して走っている細い通りをしばらく行くと、B氏はとある古びた雑居ビルの前で足をとめて、「ここだったかなあ。何回来てもわかんなくなるんですよ」と言ってそのビルを見上げた。入り口に看板は出ていなかった。このあたりは確かに細い通りが縦横に入り組んでいて、どれも似たような背の低いビルが建ち並んでいる。

 暗い階段を上がっていくと、三階にN法律事務所があった。ドアを開けるとすぐ左側に受付を兼ねた事務所がある。裕三たちは向かいの応接室に通された。しばらくして応接室に現れたN先生は小柄な人だったが、顔には自信に満ちた表情をうかべている。若くして数多くの事件を手がけてきた実績を感じさせた。裕三は大体のことを包み隠さず話した。

「自己破産は地域によっては面倒なところもありますが、横浜は割と簡単なほうなので、費用も安く済むんですよ。とはいっても免責までにはニ、三年かかりますが・・・」

 それから六ヶ月くらいして、マンションは破産物件専門の不動産業者を通じて売却されることになった。S銀行渋谷支店の一室で最終的なお金のやり取りと所有権移転のための手続きが行われた。売り主である裕三と不動産ブローカーのB氏、弁護士のN先生、買い主の代理人である破産物件専門の不動産業者、債権者である三名の抵当権者そして司法書士の計八名が一つのテーブルを囲んだ。事は粛々と運んだ。目の前で次々と繰りひろげられる光景を、裕三は劇場の観客のように黙って見ていた。最後に若干の現金が売却代金の端数としてテーブルの上のトレイに置かれると、ブローカーのB氏はその現金の中から五千円札一枚をひょいとつまみ上げて、「昼めし代、昼めし代」とおどけて言った。B氏の言葉に場の雰囲気がぱっと和やかになった。銀行のそとは初夏の眩い光に満ちていた。

 

 裕三は鬱で丸二年横須賀にいた。一年目はほとんど寝たきりだったが二年目くらいから毎日のように横須賀の図書館へ通って時間をつぶすようになった。横須賀中央駅のすぐ裏手から急な坂が三百メートルほどまっすぐにのびている。図書館はその坂を登りきったあたりにあった。裕三の身体はしばしば坂の途中で足を止めて休むことを要求した。目の前を幼児の手を引いた老婆が平気で通り過ぎてゆく。裕三はまた気が向くと図書館の帰りに駅の周辺を歩きまわった。自衛艦の浮かぶ横須賀港まで足をのばすこともあった。横須賀は原田家にとって因縁浅からぬ土地でもある。父親は横須賀の共済病院で鬼籍の人となった。母親の双子の妹は横須賀で生まれている。裕三の母方の祖父は海軍の軍人だった。そんな或る日横須賀の家へ一通の手紙が舞い込んだ。封筒の裏には小学校時代の同級生Kの名前と東京の住所が書かれている。文字はところどころかすれて消えかかっていた。封筒も日焼けして褪色している。(なぜ此処がわかったんだろう?)手紙にはただこう書いてあった。「原田君、横須賀にいるんだってね。だったら山口瞳が書いた『血族』っていう本を読んでみて」裕三はきつねに抓まれたような気がして、その手紙を長いあいだ机の引き出しに放っておいた。あるとき図書館の一階の文学書のコーナーを眺めていると、単行本のあいだに窮屈そうにしている一冊の文庫本を見つけた。背表紙はすりきれていて題名や著者は分からない。その棚は何百回となく眺めたはずの棚だった。こんなところに文庫本があるなんておかしいと思いながら、手にとってみると、真っ赤な表紙に大きく黒字で「血族」と書かれている。縦書きの題字の横に小さくくっつくようにして山口瞳とある。「血」の文字は右から二番目の縦線に涙の雫のあとがあってそこだけ裏地の赤が透けて見えている。「族」のほうの文字はほとんどかすれて消えかかっていた。裕三は中身も見ずにカウンターで貸出しの手続きをしてその本を家まで持ってかえった。急いで自室へはいって机のなかを確かめると、そこにあるはずの手紙がない。幻覚だったのだろうか?はじめは拾い読みをしていったが、そのうちにどんどん内容に引き込まれていった。作者は、ずっと知らされてこなかった母親の生家のある柏木田遊郭の跡地を、横須賀の町に探し求める。遠く過去迷宮に封印された作者の生い立ちが徐々にあきらかになっていく。裕三はいつしか机につっぷしてしまった。夢うつつに、過去の記憶が甦ってきた。裕三はドイツからかえって就職した会社の社員旅行で新潟県の弥彦山へ行く。当初から二日目の朝はみんなと別れて新潟の父の生家を訪ねてみようと考えていた。燕駅で電車を降りてタクシーを拾う。「中之口村までお願いします」しばらくすると、「このへんですが」と運転手が言う。裕三はタクシーを降りて道行く人に、「大字福島の原田さんのところへ行きたいんですけど」と尋ねる。「原田さん、原田さん、えーっと」裕三は重ねて、「五蔵さんっていうんですけど」父の実家はむかし質屋をやっていて蔵が五つあった。「ああ、ごぞうさんですか。それなら、ここをまっすぐ行って、そうだなあ、歩いて三十分くらいかなあ。小川があるからそこを左にまがればすぐすけえ」裕三は言われたとおりに歩きだした。やがて小川にそって小さな道が左に折れている。小川は涼しげな音をたてて、裕三が歩いていく方向へ流れている。原田と表札の出ている大きな門を通り抜ける。父のすぐ下の弟のTおじさんが竹箒で庭をはいている。突然の来客に少しおどろいた顔をしている。「裕三ですが」「あれえ。裕三ちゃん。なにしにきたの?」「会社の社員旅行で近くまできたもんですから」「おおい、R子。裕三ちゃんがきたぞう」家に上がると入れ替わり立ち代り近くの親戚がやってくる。「そうですか、アグフアにお勤めですか。むかしはフィルムといえばアグフアしかなかったすけえ」。ひとしきり来客の相手をしたあとTおじさんと二人きりになった。裕三は思い切って訊いてみた。「僕の父は若いころ精神病院に入っていたことがあると聞きましたが」するとT叔父さんは急に黙ってしまった。「空がおっこちて来るといって逆立ちして歩いていたとも聞きました」「うんにゃ。そんなことはなかったよ」「それで裏山へ籠もってしまったそうですね」「ん・・・。誰からそんなこと聞いたの?」「母からです」「・・・そういえば、むかし、晋一ちゃんもそんなことを聞きにやってきたなあ・・・」記憶はそこで途切れている。父は精神病院を出たあと、すぐに赤紙を受け取ることになる。そうして、死地を得たりと喜び勇んで満州へわたっていったらしい。ところが不運にも助かってしまった。戦争が終わって満州から引き揚げてきた父が、陸軍の軍服に身を纏い、足にゲートルを巻いて、新潟の生家の門先に立った。ほどなくして、東京へ職探しのために旅立つ父の手に、お祖父はそっと五円玉を握らせた。

 

 マンションが売れてすぐに自己破産の申し立てを行うことになった。資産状況や自己破産に至るまでの経緯をこと細かに述べた陳述書を銀行の通帳や病気の診断書などと一緒に弁護士のN先生へ託した。提出書類のなかに職歴書があった。「転職が多すぎて、書ききれない」裕三は苦笑いをした。僅かなりとも裕三の顔に笑みが戻ったのは一年ぶりのことである。裕三はドイツでの卒業試験のあと、深刻な鬱になって、また音楽をあきらめていた。日本へかえって、一年ほどしたころ、こんどは会社員になった。裕三の人生はこの後も、躁と鬱のはざまを振り子のように揺れ動きながら、浮き沈みを繰り返していく。躁になると、更なる活躍の場を求めて、いともたやすく転職した。鬱になればなったで、すぐに会社を辞めてしまうのだった。

六ヶ月後、横浜地方裁判所横須賀支部から呼び出しがあった。裁判官による自己破産宣告のための審尋を受けるためだった。京浜急行の横須賀中央駅のすぐ次に京急安浦という小さな駅がある。その日は海から吹いてくる風が肌を刺すように冷たかったが、陽射しには春の息吹を感じさせるような暖かさがあった。小さな木造の駅舎を出ると、すぐ左に線路に沿って上り坂がある。しばらく行くと道はふた手に分かれる。線路のガード下をくぐり抜けて、さらに上り坂になっているほうの道を十分ほど歩くと左側に裁判所が見えてくる。横須賀は坂の多い町だ。海沿いにひろがる町並みはどこも背後を山に取り囲まれている。振り返ると海が見える。沖合には猿島がぽっかり浮かんでいた。

 N先生とは現地で待ち合わせることになっていた。大分早くに到着した裕三は、裁判所のいかついコンクリートの建物の一階の長椅子で姿勢を正して先生を待っていた。緊張が徐々に高まってくる。審尋は定刻を十分ほど遅れて、二階にある裁判官室で始まった。部屋では四十を少し過ぎたくらいの細面の女の裁判官がテーブルに書類をひろげている。その傍らには三十代くらいの小太りの女性事務官が少し離れた別の机に坐っていた。テーブルをはさんで裕三とN先生が並んで席について神妙にしていると、

「原田裕三さんですね。住所は・・・」

 裁判官は裕三へ向かって事務的に話し出した。部屋はさほど明るくなく、裁判官のすぐうしろの小窓から午後の光が差し込んでいるので、その表情は陰になってあまり良く見えない。

「キャバレーで飲み歩いたり、ギャンブルをしたりしてお金を浪費したことはありませんか?」

「ありません」

 型どおりの質問が幾つも続く。三十分ほどで審尋が終わると最後に裁判官の口から「破産宣告」と「破産廃止」が同時に告げられた。裕三はこの手続きを「同時廃止」であるということを知っていた。裁判官の部屋をあとにしたN先生はすぐその足で同じ階にある別室で免責の申し立てを行った。

 N先生とは裁判所の門を出たところで別れた。先生は上質なウールのコートに身をつつんで、もと来た坂道を下りていった。海から吹き上げてくる冷たい風にN先生のコートの裾が一瞬ひるがえった。

 

         三

 

      平成十三年 祝祭

 

カマリヨ

 

 裕三は出張でロサンぜルス郊外のカマリヨ市にいる。ホテルは会社がマリオットリゾートにとってくれた。このとき裕三は四十七、季節は初夏にはいっていた。

ホテルで迎えた一日目の夜、裕三はルームサービスで食事を取り寄せることにした。机の上の電話で料理と酒を注文すると、しばらくして、だだっ広いツインルームにあさりのスパゲティと季節のサラダが運ばれてきた。その量のあまりの多さにびっくりしていると、さらにカリフォルニア産の白ワインが一本、ワインクーラーに乗っかってやってきた。ドイツと違ってアメリカではチップを渡さないといけないのでやっかいだと思いながら、数ドルをボーイさんに渡すと、彼はにっこり笑って、「サンキュー、サー」と白い歯を見せた。ラテン系の顔立ちで、日焼けした顔に黒い口髭がよく似合っている。

渇いたのどを冷えたワインで潤す。出来立てのスパゲッティからあさりの香りが立ちのぼってくる。野菜サラダにはドレッシングがきいている。裕三の神経は、飲むほどに、ほぐれていった。

(空港まで迎えに来てくれたアメリカ本社のC部長とも、どうやらうまくやっていけそうだ)

彼はわざわざ回り道をして、海岸沿いの道を北へ車を走らせ、途中ここが有名なサンタバーバラだと教えてくれた。細かい霧のような雨がフロントガラスを曇らすと、「これはドゥリズルといって、西海岸では初夏のころによく見られるんだよ」とも教えてくれた。

食べても食べても一向に減らないスパゲティとサラダを前にして、裕三の気持ちはどんどん大きくなっていく。そうしてワインを飲み干して、料理をすっかり平らげたころには、裕三の頭のスイッチは完全に躁に切り替わっていた。神経伝達物質のドーパミンが堰を切ったように放出され、A10神経細胞の末端から火花が飛び散るのが見えたような気がした。

 

「ミスター原田、きのうはよく眠れたかね」

 ホテルの玄関前にとめた車の中で、C部長はちらりと裕三の顔を見て言った。

「ええ、ぐっすり眠れました。ナッパーヴァレーの白ワインをたくさん飲んで」

「普通は時差ぼけで苦しむんだがね」

 彼は少し怪訝そうな顔をして、もう一度裕三の顔を覗き込んだ。

「頭はすっきりしてますよ」

 と答えて、裕三は思わず破顔した。つられて彼も顔をほころばせると、髭をたっぷりたくわえた小振りの顔一面に、細かいしわがひろがった。

「われわれの生産管理部門は朝が早いんだよ。七時からスタートして夕方四時には、ぱっと帰るようにしているんだ。明日からそれでOKかね?」

 会社で働くアメリカ人の朝の早さには慣れていたつもりだったが、さすがに少しおどろいた。

「日本のオフィスは九時に始まりますが、七時でOKですよ」

「まあ、一週間のことだから我慢してくれたまえ」

 車はゆっくりと走り出した。エンジンの振動が快く体に伝わってくる。オーデコロンの香りがかすかに運転席のほうから漂ってくる。スプリンクラーのシャワーを浴びた緑の芝生を左右に眺めながら、裕三は五感が急速に鋭敏になっていくのを感じた。カリフォルニアの空はどこまでも青い。真っ白な巻き雲が空高くかかっている。乾燥しきった大気のなかに朝の光があふれていた。

 一週間はあっという間に過ぎた。アメリカ本社の人たちの目には裕三が社交的で快活な男と映ったに違いない。事実、裕三はよく喋り、よく動くようになったのである。三年ものあいだ鬱に苦しみ、ひたすら社会を怖れて、殻に閉じこもっていた人間とは誰も思わないだろう。最後の日にA社長が裕三に会いにC部長の部屋までやって来た。A社長は事前にいろいろな人から裕三の評判を聞いているようだった。

「ミスター原田、あなたには、ぜひ、日本支社の生産管理部門を軌道に乗せていただきたいのです。そうして日本のM社長には経営に専念してほしいのです・・・」

 彼は落ち着いた口調でゆっくりと話し出した。すらりとした長身のA社長は貴族的な顔立ちをしていて、ベンチャー企業の社長とはとても思えない上品で独特な雰囲気を持っていた。

 

 日本へ帰ってから、しばらくして、裕三は週末の代々木の駅に降り立った。駅はたくさんの予備校生で賑わっていた。明治通りへ向かう小さな改札口を出ると、急に雨が降り出した。日本はすでに梅雨の季節にはいっていた。肩にかけた大きな黒いスポーツバッグから折り畳み傘を取り出して、小さな道をしばらく行くと、明治通りに出る。通りの向こうに目指すビルが見える。車の往来はそれほど多くはない。裕三は、はやるこころを押さえながら、信号が青に変わるのを待った。

 ビルの地下へ通じる階段を下りていくと正面にブロードウェイダンスセンターの受付がある。髪を短くした若い男がカウンターの中にいる。

「六年ぶりなんですが、また始めたいと思いまして」

「メンバーカードはお持ちですか?」

「これ、十三年前に作ったんですけど」

「だいぶ前から一年毎に更新するようになったんですよ。会員番号は同じままなんですが、新しい会員証を作りますので、次回には写真を一枚持ってきてください」

 左のほうからダンスミュージックが地鳴りのように響いてくる。本館のスタジオでジャズダンスの振り付けのレッスンが始まったようだ。

「土曜はジャズダンスの初級のクラスはないんですか?」

「初級は平日だけです」

「土曜は中級と上級だけかあ。これはちょっと無理だなあ。このクラシックバレエのクラスは初級ですか?」

 裕三はスケジュール表を見ながら訊いた。

「ええ、今ちょうどレッスンが始まったばかりですが、見学しますか?」

「お願いします」

 裕三はかつて通い慣れた初級者用のスタジオへ向かった。細い道をはさんで向かいの建物の地下にそのスタジオはある。階段下のずっしり重たい鉄製の防音扉を静かに押し開けると中から華やかなピアノの音が洩れてくる。わずかに出来た隙間から体をすべり込ませると、スタジオでは十人くらいの若い女たちが練習用のバーにつかまってクラシックバレエの基本動作を繰り返し練習していた。

 

 女性ボーカルのスローバラードが本館大スタジオいっぱいに響き渡っている。ボーズの大型スピーカーから溢れ出る大音量のサウンドはスタジオ全体をびりびりと震わせていた。ブロードウェイダンスセンターにはニューヨークから現役のブロードウェイダンサーが入れ替わり立ち替わりジャズダンスの特別レッスンをしにやって来る。その日、裕三はバレエのレッスンのあとに、今まで見学しかしたことのなかったジャズダンスの特別クラスに参加してみることにした。それは、裕三がいくら大躁とはいえ、かなり勇気のいることだった。三十人くらいの若い女性ダンサーにまじって大恥をかくのは目に見えていた。

ストレッチを兼ねた基本動作の練習でレッスンは始まる。体の大きい黒人ダンサーのW先生がよく響くおおらかな声で次々と指示を出す。裕三も音楽に合わせながら身体を動かしていく。すぐに汗がふき出してくる。四十分くらいたって、基本練習の終わったころには、裕三の身体はへとへとになっていた。短い休憩をはさんで今度は振り付けの練習が始まった。W先生は何度もお手本を見せてくれる。本場ブロードウェイの振り付けだ。生徒たちはすぐに先生の動きを真似て振り付けを覚えてしまう。裕三はついていくのがやっとだった。立ったまま身体をくるくる回転させながら右へ行くところを、左に行ってしまい、何度もぶつかりそうになる。音楽に合わせて、一回三分ぐらいの振りを次々につなげていく。仕上げの練習を通しで行うころには、生徒たちの顔は紅潮して、ほとばしる汗は光り、ビートのきいたスローバラードに陶酔の表情を浮かべるようになる。いつしか裕三も我を忘れて身体を動かすようになっていた。そうして、祈りにも似た感情がこみ上げてくるのを感じていた。

 

 躁は裕三に休みを与えなかった。とにかく朝から晩まで動きまわるのである。このころ裕三の睡眠は極端に短くなっていたが、爽快感は逆に増すばかりだった。そうこうするうちに躁は急速に裕三から正常な判断を奪っていった。会社では発言が大胆になり過ぎて、M社長とぶつかる場面が出てきた。真夜中に起きてはアメリカ本社のD副社長に日本支社のオペレーションの問題点をするどく指摘することもあった。そうして、本社がM社長に対して不信感を抱けば抱くほど、M社長はますます裕三を疎ましく思うようになっていった。

 夏の盛りのある日、会議で裕三が会社の方針をめぐって断定的な意見を述べると、M社長が、「それは社長のもの言いだ」と語気を荒げて、裕三をにらみつけた。極端に気が大きくなっている裕三は、社長の言うことなど一向に気にしない。「原田さん、M社長は日本支社をたった一人で立ち上げて、かつてはアメリカ本社の窮状を救ったこともある人ですよ。本社とのつながりは想像以上に強いはずですから、その辺を読み違えないようにしたほうがいいですよ」と営業の草分け的存在のO氏は親切にも忠告してくれた。「原田さん、長いものには巻かれたほうがいいんじゃないですか」と会社に詰めている経営コンサルタントのM氏も裕三と社長との度重なる衝突を見かねて裕三に自重を促した。しかし裕三はまったく聞く耳を持たなかったのである。

 アメリカで同時多発テロが起きた九月十一日からちょうど一週間たった日の午前中に、裕三はM社長と経理部の女性次長のNさんに呼び出された。裕三はあらかじめノートを用意して、パーティションで高く仕切られた壁際のせまい部屋に入った。裕三がテーブルの席に着くやいなや、M社長から、「原田さん、今日で会社を辞めていただくことになりました」とあっさりクビを言い渡された。N次長は終始うつむいたまま押し黙っている。

「それはまた、どっ、どうしてですか?」

 裕三はさすがにショックを隠しきれなかった。

「あなたには能力がないからです。必要な荷物はあとから送りますから、今日はこのまま帰ってください」

 裕三はその場で、用意してきたノートに社長の言葉を全部書きとめていった。裕三の頭は異常な速さで回転し始めた。

「何を書いてるんだ?」

 社長の顔が見る見るゆがんできた。

「不当解雇で労働基準監督署に訴える準備をしています」

 裕三は冷静に答えた。

「そうですか。どうぞ訴えてください」

 社長は吐きすてるように言うと、ドアをばたんと鳴らして、部屋を出て行った。あとに残ったNさんは、社長のわがままがまた出たという感じで、「ごめんなさいね、原田さん」と、済まなそうな顔をした。。

「Nさん、ちょっと考えさせてくれませんか?」

「・・・原田さん、外のコーヒー屋で少しお話しませんか?」

「いいでしょう」

 裕三はひとり部屋に取り残されたが、N次長は五分ほどして戻ってきた。

 苦いコーヒーを啜りながら裕三は黙ったままN次長の話を聞いていた。

「原田さんも急なことで大変でしょう。わたしが社長を何とか説得して、会社としてはお辞めいただくにあたって、三ヶ月分の給料を退職金としてお支払いすることにしましたが、いかがでしょう?」

 労働基準監督署に訴えると言ったのが効を奏したのだろう。社長としてもこれ以上事を荒立てて、アメリカ本社を刺激するのは避けたかったのかもしれない。

「Nさん、わかりました。会社都合ということなら、三ヶ月分の退職金を受け取るということで、辞めることにしましょう」

 裕三としてもこの会社にもうこれ以上とどまる気はなかった。それに五ヶ月勤めて三ヶ月分は悪くないという考えも働いた。が、何よりも大躁の裕三には危機感がまったくなかったのである。このとき躁の典型的な症状である全能感と多幸感は絶頂に達していた。

 

       マラッカ

 

 赤道直下のマラッカ海峡を間近に望む海辺の鄙びたレストランで一人ビールを飲んでいる。流れ着いた丸太が無造作に浜の片隅に積み上げられている。吹き過ぎる風は生温かく、南国特有の湿った潮の香りをたっぷり含んでいる。白く煙る空と海のあわいに、大きな船が何艘もすれ違って行くのが見える。昼下がりの異国の風景の中で、ソファーに身を沈めながら、裕三はしばしまどろんだ。

 

 前の日、裕三はマレーシアのクアラルンプールで友人のシャルロッテに会っていた。

「ハロー、シャルロッテ。元気そうだね」

 裕三の声は勢いよくホテルのロビーに響いた。

「まあまあね。ミスター原田、四年ぶりになるかしら」

 彼女は裕三がかつて勤めていた会社の同僚で、当時はマラッカ工場の管理部門で働いていた。名はシャルロッテとはいっても、五十過ぎのキャリアウーマンだ。

「シャルロッテ、今回は彼らを紹介してくれてありがとう。TさんとKさんは二人とも品質保証のスペシャリストなんだね」

「そうよ。すばらしい人たちよ」

 裕三は仕事で付き合いのあったアメリカのP社から依頼を受けて、香港支社に駐在する品質保証のスペシャリストをサーチしにマレーシアへ来ていた。英語、中国語、日本語を話すスペシャリストを探すのは容易なことではなかった。シャルロッテに渡した裕三の名刺には、英語で、「YHコンサルタンツ、プレジデントアジア」となっている。裕三は躁がきわまって、会社をクビになってから、退職金を元手に人材ビジネスを起こそうと思い立った。日本で活動するにはライセンスが必要だが、日本の外でやる分には構わないだろうと勝手に考えていた。ちょうどP社が香港で人材を探しているのを知って、アプローチしてみたら、「いい人がいたら紹介してほしい」と依頼された。裕三はあっという間に段取りをつけて、マレーシアまで来てしまったのだ。

 シャルロッテは裕三の名刺を見て、「ミスター原田、あなたがほんとにプレジデントなの?」と怪訝な顔をした。「ええ、そうですよ」裕三の顔には自信が漲っていた。そして、アジア地域でいかにして人材ビジネスを成功させるかを彼女にえんえんと説明し始めた。彼女は途中で裕三をさえぎって、「わかったわ、ミスター原田。もしよかったら、わたしをマレーシア駐在員として雇う気はないかしら」と真顔になった。「それは願ったり叶ったりだ、シャルロッテ」と裕三が反応すると、彼女は少し声を落として、「ミスター原田、マレーシアでビジネスを始めるのはなかなかむずかしいのよ。いろんな規制があってね。わたしのほうでチェックしてみるから、それからにしませんか」と言った。シャルロッテはビジネスの経験も長くとても慎重な人だった。

 あくる朝早くタクシーを雇ってマラッカへ向かった。マラッカのホテルでTさんとKさんに会うことになっていた。外は炎暑でも、タクシーの中はクーラーがきいていて涼しい。

「お客さん、仕事ですか?マラッカまでは二時間以上かかりますよ」

 運転手は陽気なインド系マレーシア人だ。裕三はよく喋りそうな気配を感じて、

「そうですか。少し眠りたいのでマラッカに着いたら起こしてくれませんか」

 と言って、彼を黙らせてしまった。

「お客さん、わかったよ。よく眠るといいよ」

 クアラルンプールは大都会だ。車も多いし高層ビルもある。車は、街なかを抜けてハイウェイに入ると、一気にスピードを上げた。街はすぐに途切れて、周囲は見渡す限りのジャングルになった。熱帯の太陽がジャングルを焦がしている。立ちのぼる陽炎は炎と見まがふばかりで、めらめらと密林をなめているように見える。ジャングルを切りひらいて造られたハイウェイにはカーブがほとんどなく、眠気を誘うにはじゅうぶんだった。裕三は体を窮屈に折り曲げたままタクシーの後部座席に横になった。寝入りばなに、どこか遠くのほうで、どどんっと鈍い爆発音が聞こえた。

夢に別居中の一人娘が出てきた。夏の日に家族で訪れた箱根千石原の光景だった。ホテルの中庭に娘はいた。裕三はまだ五つになったばかりの娘の手を引いて、広々とした芝生のスロープをゆっくり下りていく。娘は途中で小さなきのこを見つけた。そして、しゃがみこんだままじっと見つめいる。ホテルのテラスには妻がいて、コーヒーを飲みながら心配そうに娘を見守っている。「ママは心配しすぎ」と裕三が言うと、娘も同じように「ママは心配しすぎ」と繰り返した。そうして裕三を見上げて、くすっと笑った。木立の中に入って、妻の目の届かないところへ来ると、娘が、「なっちゃんにはだいじなものが三つあるの」と言って、かわいい指を三本立てて見せた。「一ばんめはおばあちゃん、二ばんめはママ、三ばんめはパパ」娘は小声でひとつひとつ確かめるように言う。「なっちゃん」と思わず声をかけると、裕三の言葉はそのまま消えてしまった。顔を上げると、知らぬ間に妻と娘がホテルのテラスにいて、こちらのほうを無表情に見ている。裕三も近づこうとするが、足がしびれて思うように歩けない。そうこうするうちにテラスには二人の姿が見えなくなってしまった。

 気がついてみると、右足の付け根のあたりで携帯電話がぶるぶるふるえている。裕三はマレーシアでも使える国際携帯電話を持ってきていた。この携帯電話にかけてくるのは、P社の人事部長、Tさん、Kさん、シャルロッテの四人だけだ。急いでポケットから携帯電話を取り出して耳にあてると、P社からの国際電話だった。

「ミスター原田、たった今、香港駐在のマネージャーが日本人で決まってしまった。協力してくれて、ありがとう」

 聞き慣れた人事部長の声だった。

「それはよかったですね」

 残念だったが仕方がない。依頼人も四方八方に声をかけているのだ。この瞬間、裕三のマラッカ滞在は観光目的に切り替わった。車はすでにマラッカの町なかにさしかかって、スピードを落とし始めていた。

「運転手さん、ホテルへ行く前に、ちょっとマラッカ海峡を見てみたいんだが」

「お客さん、お安いご用だよ。海峡が見える海辺のレストランでランチを食べたら最高だよ」

「よしっ、そうしてくれ」

 車は町なかを抜けて、一路マラッカ海峡へ向かった。

 

       京 都

 

「へいっ、いらっしゃい」

 京橋Y鮨の暖簾をくぐると、T君の威勢のいい声がした。T君は小学校以来の友人だ。小太りで縁なし眼鏡をかけて、髪は短く刈り込んでいる。

「マレーシアへ行ってきたよ」

 裕三はカウンターのいつもの席で、出されたビールを彼にもすすめた。

「へえ、観光かい。原田よ、お前はいつもいい身分だなあ。あっちは暑いんだろ?」

「赤道の真下だからな」

「こっちなんざ、寒くってやんなっちまうよ」

「おい、お前、確か京都の祇園にある割烹料理屋で修行したんだったな」

「そうだよ。大学を出てから二年間、みっちり修行させてもらったよ」

「近いうちに京都へ遊びに行こうと思ってるんだが、そのお店、紹介してくれないか。どうせ初めての客は、はいれないんだろ?」

 カウンターの黒塗りの食台に、いかの握りに振られた細かい塩の粒が、綺麗にこぼれ落ちている。

「おお、京都へ行くのか。ちょっと待ってろ。今、電話してやるから」

 T君のせっかちはおやじさん譲りだ。

「・・・ご無沙汰しています・・・はい、京橋Y鮨のTです・・・・・・友だちが、近々、京都へ遊びに行くんですが、ぜひそちらに寄らせてほしいということで・・・原田という男で、僕と同い年で・・・」

「T君、ありがとう。いやあ、楽しみだなあ」

「おい、酒にするかい?ちょうど酒樽が届いたばかりで、口開けだぜ」

 おかみさんがにこにこしながら徳利を持ってやってきた。お酒をお猪口に注ぐと、木の香りがぷうんとした。樽酒は淡い琥珀色をしている。おやじさんがちょっと手を休めて、

「原田君、京都へ行ったら、俺からもよろしくと伝えてくれよな」と太い声で言った。おやじさんはずんぐりむっくりしている。つやつやとした丸顔はふっくらしているが、黒く太い両の眉が顔をぐっと引き締めている。八十近い江戸っ子の寿司職人だ。

 

それから間もなく新幹線に乗って京都へ出かけた。京都の空気は凛として冷たかった。祇園につくころには、日も暮れかかっていた。花街はちょうど灯ともしごろだった。割烹料理Dは花見小路を入ってすぐ右側に店を構えている。表に面した格子戸がすこしだけ開いている。中へ入って行くと、もうひとつ入り口があって、店の中から明かりが洩れている。

「こんばんは、原田といいます。京橋Y鮨の紹介で」

 細長い白木のカウンターが目に入った。

「おいでやす」

 おかみさんの明るい声がした。ご主人は店の一角にしつらえた三畳ほどのスペースで筆と墨でなにやら書いている。

「あんたはんにお出しする料理をかいてますのや」

 ご主人は腰をかがめて一心不乱に筆を動かしている。

「どうぞこちらへ」

 おかみさんは裕三をカウンターの中ほどへ案内した。まっすぐのカウンターで、十人くらいは坐れそうだった。お店もたてに細長いつくりになっている。

「ビールにしはりますか?」

 おかみさんは艶やかな女だった。

「ええ、お願いします」

 店には裕三が一番乗りである。

 ご主人は出来上がったばかりのメニューを裕三に手渡して、「京橋のT君はどないしてはる?」と聞いた。

「元気にしてますよ。T君のおやじさんからも、よろしくとのことでしたが」

「そうか」

 ご主人はごましお頭を短く刈って、頑固一徹の料理人という感じだ。おかみさんに比べると、大分枯れているように見える。裕三は渡されたメニューに目を落として、「ああ、これは経木ですね。こういうのは、はじめて見たなあ」と感嘆した。そして、経木に書かれている文字を右から順に追っていった。墨の濃淡に字が躍っている。十品ぐらいの料理が出されるようだ。ご主人は左隅の板場で黙々と料理をつくり始めた。ほどなく少しずつ料理が出てきた。

「そろそろ、酒にするかな」

 裕三は京橋Y鮨にあるのと同じ樽酒をお店の隅に見つけた。

おかみさんがすかさず、

「お燗します?」

 裕三は頷いて、

「熱燗でお願いします」

やがて、お酒と一緒に松茸の土びん蒸が運ばれてきた。ふたを取ると湯気が立って、松茸の香りがひろがった。ふたを裏返して、そこに熱々のお吸い物を注ぐ。土びんのなかには白い鱧の切り身も浮かんでいる。裕三はしばらく土びん蒸をさかなに、樽酒の杯を重ねていった。おかみさんが三本目のお酒を持ってきたとき、

「Tくんが、原田さんはピアノの先生してはるって」

「ええ」

「演奏会しはることもありますの?」

「来年の八月に横浜のみなと未来ホールでやるんですよ。土曜日のお昼なんですが。ロビーから海も見えて、なかなかいい音楽ホールなんですよ」

「それはよろしおすなあ」

「ところで、こちらは以前、お茶屋さんだったそうですね」

「そうです。わたしの母の代まで百年以上つづいたお茶屋さんどした」

「お座敷はまだあるんですか?」

「二階がお座敷になっていて、今でも舞妓さんを呼ばはる人もいてはります」

「僕なんかでも、舞妓さん、呼べるんですかね」と裕三が聞くと、ご主人が横から、「二度や三度通うたぐらいじゃ、無理とちがいますか」と言った。ちょうどそのとき、客がぞろぞろ入ってきた。女ばかり六人組だった。お店全体がぱっと華やいだ。「なんや。逆七福神や」ご主人がカウンターを見渡して言うと、皆がいっせいに笑った。

 

 それから裕三は何度か祇園へ通った。そして、京都にもようやく桜の咲き始めるころ、割烹料理Dの二階の座敷へ舞妓さんを呼んで宴をはることになった。

約束の時間までにはまだたっぷり時間があったので、タクシーを拾って、太秦まで足を伸ばすことにした。弥勒菩薩に会うためである。車をおりて、広隆寺の南大門をくぐり抜ける。森閑とした境内をしばらく行くと、いちばん奥まったところに霊宝殿がある。庭の木立が苔の生えた地面に翳を落としている。

 館内は天井の高いホールのようになっている。なかはかなり薄暗い。目が慣れてくるにつれて、大小さまざまの仏像がぐるりと裕三を取り囲んでいるのが見えてくる。

 正面中央に一段高く、小柄な木造の仏像がある。少しうつむいて、微笑みをうかべている。右手の中指をそっと頬にあてて、片足を曲げてもう一方の足に軽くのせている。そうして、ほっそりした優美な姿で腰をおろしている。

(もういいのではありませんか。あなたはじゅうぶんにやってきました)

 耳もとをすっと風が吹き過ぎると、弥勒菩薩の声が聞こえてきたような気がした。裕三は、ばたつく魂が急速に鎮まっていくのを感じた。弥勒菩薩の顔の輪郭がすこし崩れたかと思うと、そこに亡くなった次兄、修二の面影があらわれた。安らかな顔に永遠の微笑を湛えていた。

裕三にはそれが、慈悲の極みに思われた。

 

(完)


小説家:湯ノ上鎮夫の部屋

       小説:波濤の彼方

                     湯ノ上鎮夫著    
               第一部    

    一

 

 秋晴れの空の下、戦艦春日は青く光る瀬戸内海を東へ進航していた。艦首が波を切ってしぶきを上げている。軍艦旗は向かい風にはためいていた。春日はお召し艦霧島を先導している。さらに後方には、数え切れないほどの軍艦が随っていた。

 その日、呉の軍港に接岸中の戦艦春日の舷門から、二人の姉につづいて、一人の少女が舷梯をとんとんと上がっていった。

「かいちゃん、気をつけるのよ」

 背後から母親の声がする。

「大丈夫よ、うち、お転婆だから」

 振り返ると、見物に訪れた人々で埠頭がごった返している。日の丸の小旗を振る人に混じって、其処此処で万歳をしている人たちの姿も見える。

「お母さま、今日は軍艦のパレードがあるんでしょ」と和子は聞いた。

「そうよ、だからお行儀よくするのよ」と母乙女は誇りかに答えた。

 甲板には全乗組員が出迎えのためにずらりと整列していた。春日艦長小野弥一大佐が前部十インチ単装砲塔のかげから姿をあらわすと、全乗組員が一斉に挙手敬礼した。真っ白な軍服に身を纏った弥一は軽く返礼した。

ちょうどその時、和子が甲板へぴょんと飛び降りた。そうして、近づいてくる弥一に向かって、「お父さまっ」と声をかけた。満艦飾を施した甲板には、晴れがましい雰囲気のなかにも緊張した空気が漂っていた。二人の姉は乙女のそばで神妙にしている。乙女は今にも駆け出しそうな和子の肩をしっかりと押さえていた。

「ようこそ、戦艦春日へ」

 弥一はそう言うと、左手を甲板中央へ伸ばして、右手で乙女の肩をそっと押した。

昭和五年十月二十六日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式の先導艦の艦長として、小野弥一海軍大佐は戦艦春日を指揮していた。

参加艦艇、全百六十五隻はすべて神戸沖に集結していた。航空機七十二機もすでに配置に着いている。観艦式はまさに始まらんとしていた。

司令室で弥一は、双眼鏡で前方を確認しながら、胸のうちで呟いた。

(山口の田舎で、海を一度も見たことがなかった山猿の俺が、よくここまでやって来れたものだ。兵学校に入りたてのころは、しょっちゅう船酔いで苦しんだものだったが)

 やがて、号砲がどどんっと鳴った。大艦隊と向き合って、春日の横に停泊中のお召し艦霧島の艦橋に、天皇陛下がすっくと立ち上がった。

 

 その頃、艦長室ではひとり和子だけが長椅子に横たわっていた。傍らには乙女が付き添っている。

「うち、苦しいよう」

 和子は艦体の揺れる度に嘔吐を催した。春日が呉軍港の岸壁を離れた瞬間から船酔いが始まっていたのである。

「船酔いするのは、いつも、かいちゃんだけね。一体誰に似たのかしら?」

 乙女は和子の背中をさすりながら不思議に思った。乙女は弥一とのあいだに七人の子をもうけている。女ばかりの七人姉妹で、のちに「嫁を選ぶなら、小野のところへゆけ」と言われたほど海軍では有名になった。長女の幸枝と次女の八重は佐世保で生まれた。三女の和子は呉生まれで、その後に、二組の双子が生まれている。美都子と笑子は横須賀で、キヌエとアサエは今住んでいる東京の蒲田の家で、それぞれ生まれた。

「かいちゃん、もう十歳にもなったんだから、うち、うち、言うのはお止めなさい」

「じゃあ、何て言ったらいいの?」

「わたし、とお言いなさい」

 和子は七人姉妹のなかで自分だけが、うち、という言葉を使うのを子供心にも疑問に思っていた。三歳くらいまで呉で過ごした和子には僅かだが広島の言葉が残っていた。だが記憶の中には呉の風景は全く残っていない。和子が鮮明に覚えているのは、四歳の時に蒲田の家の庭が地割れでぱっくり口を開けた光景である。大正十二年九月一日の関東大震災の時のことだ。

 その日は土曜日で、父弥一がお昼過ぎに家に戻ることを和子は知っていた。弥一は一年ほど前から築地の海軍大学校の教官として主に航海術と数学を教えていた。

「おとうさま、はやくかえってこないかな」

 和子は縁側に腰かけて、足をぶらぶらさせながら呟いた。じりじりとした陽射しが庭の大池に照りつけている。そよとも風が吹かないので、坐っていても汗がだらだらと顔から流れ落ちる。池の向こうの築山には松が端正に植えられている。和子は縁側からこの広々とした庭を眺めるのが大好きだった。

 その時、家がガクンと持ち上がったかと思うと、たてに揺れ始めた。さらにドンッという音とともに、大きな横揺れがやって来た。大揺れはいつまでも続いている。

「かいちゃん、瓦が落ちてくるから、はやく家に入りなさいっ」

 乙女の叫び声がする。つづけて、「姐や、庭のハンモックから笑子をおろして頂戴っ」と大声で言うと、乙女は二階にいるはずの幸枝と八重を探しに階段を駆け上がって行った。庭では木と木の間に吊られたハンモックが、まだ赤ん坊の笑子を乗せて、ブランコのように揺れている。

「キャーッ」

 和子の目の前で、地面がめりめりと音をたてて割れて行く。

(こわい。うち、こわい)

和子は揺れが少し収まると、白い座布団を頭からはずして立ち上がった。高台にある蒲田の家からは、町のあちこちで火の手が上がるのが見えた。

 

観艦式からかえって、ちょうど一週間たった日曜日に、和子が蒲田の家の縁側で日向ぼっこをしていると、「お嬢さま、観艦式はどんなあんばいでしたか?」と出入りの植木職人の晋介が、庭木の枝を落としながら、和子に声をかけた。

「なんにも見てないわ。わたし、ずっと船酔いで寝てたの」

「そりゃ、残念なことで」

「でも、大砲がどんっ、どんって鳴ってたのはよく聞こえたわ」

「そりゃ、あっしも聞きたかったねえ」

 すすきの穂が風に揺れている。とおく町のほうから祭囃子が聞こえてくる。

(秋祭りが始まったんだわ)

 和子はまだ蒲田で一度も祭りを見たことがない。小学校に入りたての頃、友達を語らって、祭りを見に行こうとした時、「和子お嬢さま、お祭りへ行ってはいけません。お母さまからかたく言われています」と姐やに止められたことがある。和子は、「でも、おともだちも、お外でまってるのよ」と言うなり、わっと泣き出してしまった。

(なんで、いっちゃいけないの)

 和子はこの時のことを今でも理不尽に思っている。和子の生涯を貫く「束縛を嫌う心」が芽生えたのは、この時と言ってもよいかも知れない。

 玄関のほうで車のドアの閉まる音がすると、乙女が着物姿で玄関先に現れた。そして庭のほうへ向かって、「晋介、ご苦労なことだねえ」と威勢よく声をかけた。

「いえ、いつものことで」

「おだんご買ってきたから、晋介もお茶にするといいよ」

「へえ、ありがとうございます」

 乙女は縁側にいる和子を見つけると、

「かいちゃん、おやつにしましょうね。みんなも呼んできて頂戴」とにっこり笑った。

「はーい」 

 乙女は水戸の生まれで、山口出身の弥一とは維新以来の宿敵にあたる訳だが、二人の夫婦仲はいたって良かったと言ってよい。乙女は軍人の妻として凛とした風格で一家を仕切っていたが、そのいっぽうで伝法肌のところもあった。出入りの職人や町の衆にも人気があった。弥一の行きつけの床屋、阿部理髪店の長男、通称アベトコもその中の一人である。毎日、用もないのに、ご機嫌伺いにやって来る。乙女も悪い気はしない。アベトコは、玄関で乙女を相手に一頻り世間話をしてから帰るのが日課になっていた。

 和子も乙女の血を引いたのか、小学校の同級生で、アベトコのはす向かいにある葬儀屋の一人息子の治にめっぽう好かれていた。彼はしょっちゅう和子の家に遊びに来ては、家族の前で十八番の「すととん節」を披露した。

 

 すととん、すととんと通わせて、

 主さん来たかと出てみたりゃ、

 そこ吹く風にだまされてえ、

 月に浮かれてはずかしや、

 やれ、すととん、すととん、

 すととんとん

 

 手を振り、足を上げて、ひょうきんに踊る治に、みんな笑い転げて拍手をする。弥一を除けば、女ばかりの小野家は、そんな賑やかな毎日であった。

 

         二

 

 この頃、小野家の平穏とは裏腹に、世相は急速に暗さを増していた。震災の痛手からは漸く立ち直ったものの、アメリカの株価大暴落をきっかけにして起こった世界的な恐慌の嵐は、容赦なく日本全土を巻き込んでいた。

翌昭和六年九月、中国大陸では関東軍の暴走によって満州全土が戦争状態に入っていた。こうして時代は不気味な唸り声を上げながら、大きく舵を切りつつあった。

その年の十二月、弥一は一度も実戦を経験することなく少将に昇進して陸上勤務となる。弥一が霞ヶ関の海軍軍令部に出仕するようになってから、蒲田の家には急に来客が増えた。畑づくりのほかには、酒を飲むことしか趣味のなかった弥一は、よく人を招いては夜更けまで酒を酌み交わした。海軍では「小野の酒量をはかれ」と言われたほどに、大酒飲みとして知られていた。

 年も明けた或る寒い晩のことである。

「かいちゃん、このお酒、お願いっ」

 乙女は姐やと台所に立っている。この日は和子のほかに長女の幸枝が手伝いにかり出されていた。奥の広い和室では大勢の若い海軍士官たちが車座になって酒を飲んでいる。大きな声で吼えているものもいる。和子はお酒を持っていくのがなんだか怖いような気がしてならなかった。廊下の途中で、お盆を左の腕でかかえながら、湯気の立つ徳利に右手の小指をちょっぴり入れてみる。

「あついっ」

 うしろには幸枝がつづいている。

「かいちゃん、何してるの。あとがつかえてるんだから、はやく行ってちょうだいっ」

「ゆきえちゃん、先に行っくれない?」

 幸枝が先になって和室へ入ってゆくと、

「おお、こっちだ、こっちだ」と手の鳴る音がする。弥一は普段は謹厳実直な父親だったが、酒が入ると急に磊落になる。隣の席のひときわ体の大きな若い士官に、

「堂本中尉、長女の幸枝だ」と言うと、男はすっと立ち上がって、

「堂本寛治郎です。よろしく」と幸枝に敬礼した。笑うと綺麗に揃った白い歯が覗く。和子は横で見ていて、こんな笑顔の優しい軍人さんは初めて見たと思った。

「幸枝です」

 弥一は立ったまま動こうとしない幸枝に、

「もういいぞ」と満足そうに言うと、運ばれてきた酒を寛治郎にすすめた。

 弥一は寛治郎を幸枝の婿にと考えていた。(あれほど優秀な人間はこの世に二人といまい。将来は海軍を背負って立つ男になるはずだ。乙女はもとより幸枝も喜んで賛成してくれるだろう。何よりも心映えが良い。軍人のみならず人間としての潔さもある)

 寛治郎に心底惚れ込んだのは他ならぬ弥一だったのかも知れない。弥一はまず寛治郎に打診した。

「堂本中尉、幸枝の婿として小野家に入ってくれんか」

 寛治郎は一年間、固辞し続けた。なにも幸枝が嫌いという訳ではない。むしろ自分の嫁にはもったいないくらいに考えていた。そんな寛治郎の胸の裡で、どうしても譲れないものが、「養子になる」という一点だった。

 弥一はしばしば寛治郎を家に呼んだ。末の妹のキヌエとアサエはすぐに彼の大ファンとなった。彼がやって来て、座敷に坐るやいなや、「お兄さん、お兄さん」と言って、首にしがみついたまま離れようとしない。しまいには姐やまでもが彼のファンになってしまった。

 昭和八年、寛治郎は「落ち葉はき、風呂たくひとの、つまとなれ」という句を詠んで、小野家に入った。のちに海軍きっての通信参謀として歴史に名をとどめる小野寛治郎中尉の誕生である。ときに寛治郎二十六、幸枝十九、桜散る春のことであった。

 

         三

 

 岡本一郎は悩んでいた。美都子が京都の家に来てから早十二年が経つ。あの時まだほんの乳呑み児だった美都子は、もう小学六年生になった。いつか本当のことを打ち明けよう打ち明けようと思いながら、今日まで来てしまった。(美都子は京都で岡本の家に生まれ、京都の岡本の家で育ったのだ)ずっとそのように言ってきたし、美都子もそう信じて疑わない。本当のことを知った時の美都子の気持ちを思うと、一郎の胸は痛んだ。いっそこのまま知らせずに措いたほうが、美都子ためにも幸せなのかも知れないと自分に言い聞かせることもあった。いずれにせよ、このことは一郎の心から片時も離れることはなかった。

 昭和十年十一月十五日の朝のことである。

「急がはると、車にぶつかるよって、気いつけや」と一郎は美都子に言った。

「ほな、いってきます」

 美都子はランドセルを背負うと、小学校へ向かって勢いよく走り出した。(はよせな、遅刻や)息せき切って校門までたどり着いた時には、すでに校庭で朝礼が始まっていた。クラスの行列の一番うしろに並んで、ランドセルを急いで背中からおろした。まだ息が弾んでいる。

その時、壇上の校長が美都子の姿を見つけると、「美都子ちゃん、おめでとう。お父さんが、きょう、海軍中将になられました」とうっかり口を滑らせた。その日の朝刊でニュースを知った校長は、いささか興奮気味だったのである。「えっ」と美都子が声を発する間もなく、回りの同級生たちがざわつき出した。美都子は初め何のことだか分からなかったが、やがて眼の前が急に冥くなったかと思うと、総身から血の引いてゆくのを感じた。

 その日、一郎は、泣きながらかえってきた美都子に本当のことを話して聞かせた。美津子は、その日から一ヶ月泣いて暮らした。一郎はただ、「かんにんな、かんにんな」と言うほか仕方がなかった。

 弥一は従兄弟の一郎のたっての願いを聞き入れて、生まれたばかりの美都子を岡本の家へ養子に出した。一郎夫婦には子がなく、美都子を一人娘として眼の中に入れても痛くないほど可愛がった。

乙女は弥一の決定に逆らうことなど、もとより出来ようはずもなく、しばらくは毎日いとしい我が子の顔を思い浮かべて、夜には人知れず涙し、昼には涙を一升も二升も飲み込んだのである。真相が美都子の知れるところとなったと聞いた時には、こんなことになるんなら初めから手放さなければよかったと自分を責めたりもした。そしてこのことは乙女の心に一点の黒いしみとして長く残ることになった。

 大人たちの狼狽をよそに、美都子はほどなくして立ち直った。ふたたび屈託なく、京都の父を父と、京都の母を母と呼ぶようになったのである。それ以来、一郎夫婦は美都子を連れてよく蒲田の家へ遊びに行くようになった。事情をよく知らない小野家の姉妹たちは、突然現れた美都子を見ておどろいた。中でも一番眼を丸くしたのは、自分とそっくりな双子の片割れを見た笑子であった。

 

         四

 

 弥一は海軍兵学校の出身である。江田島の兵学校に入校する若者は皆、数年たてば憧れの海軍士官となって、波切る軍艦に乗り組んで、大海原に乗り出すことを夢見ている。だが、弥一の場合は少々事情が異なっていた。弥一の実家は山口の周防高森で代々の大地主であったが、あるとき弥一の父友三(ともぞう)が相場にのめり込んだ挙句、取り返しのつかない大損をしてしまう。そうして、瞬く間に全財産を失ってしまった小野家に残ったものは、一軒の小さな家とすぐ裏のかき山、それにくり山だけであった。そんな訳で、長男の弥一はすべて官費で衣食住が賄われる兵学校に入るほかに道はなかったのである。

 明治三十八年十一月、兵学校を卒業した若干二十一歳の弥一は海軍少尉候補生として戦艦橋立に乗り組むことになる。軍人としてのキャリアの始まりである。弥一は総勢百七十一名からなる兵学校の三十三期生で、この三十三期はのちに二人の海軍大将を輩出している。豊田副武(とよだそえむ)と豊田貞次郎(とよだていじろう)である。二人は両豊田と呼ばれ、兵学校でも早くから頭角をあらわしていた。片や砲術の専門家で気性も豪放磊落な副武と、片やカミソリ頭と呼ばれたクラスヘッドの貞次郎は、長年にわたる好敵手でもあった。そんな中で弥一は、航海術と数学を専門としていた。兵学校では一年先輩にあたる山本五十六が早くから航空機に着目していたのとは対照的に、弥一は軍艦一本やりの男であった。

 満州事変をきっかけにアジアにおける領土を着々と拡げつつあった政府と軍部は、海軍に新たな技術を要求した。艦船を海上で航行させながら、燃料を補給する洋上給油の技術である。この技術があれば、海軍艦艇の航続距離は飛躍的に伸びる。そんなときに海軍きっての航海術と数学の専門家として知られる弥一に白羽の矢が立ったとしても何ら不思議はない。

 蒲田の家の玄関を上がると、すぐ右手に、広い和室がある。弥一はある時、その一角を仕切って洋間にした。そこで洋上給油の研究を始めたのである。和子は、その部屋に籠もりっきりで家族を寄せつけようとしない弥一の姿を見て、鬼気迫るものを感じていた。ある時は、図面にかがみこんで、ひたすら計算をする。またある時は、腕組みをしながら、じっと考え込む。弥一は、洋上給油を成功させるためには、何よりもまず高度な操艦技術と乗組員の練度が必要と考えていた。この技術は、机上の理論だけでは決して完成しないことを、弥一は誰よりもよく知っていたのである。 

 

 特務鑑富士は横須賀軍港を出航して浦賀水道の第二海堡沖へ向かっていた。激しい雨が甲板に当たって大きな音を立てている。海も荒れて波立っている。艦体が大きく揺れるたびに舷側から水飛沫が上がる。行く手にはどす黒い雨雲が不気味にひろがっていた。

弥一は訓練指導のために富士に乗艦していた。すぐ横には洋上給油装置を艤装した給油艦尻矢がぴたりとくっついて並走している。二隻の艦艇は同じ速度と距離を保ったまま真っ直ぐに航行していた。

「小野少将、準備が整いました」

特務艦富士の艦長が司令室の弥一に報告した。

「訓練開始」

弥一がそう伝令すると、目の前の給油艦尻矢から富士のほうへ向かって黒い給油ホースがするすると伸びてきた。弥一は双眼鏡でその動きを追った。

「蛇管装着」

「給油開始」

次々に出される伝令に甲板上の乗組員たちはすばやく反応する。やがて、降り頻る雨の中で給油完了の手旗が振られると、

(悪天候下での訓練も成功した。この分なら御前でのお披露目もうまく行くだろう)

と弥一は確信した。

 

洋上給油技術開発の功績が認められて弥一は海軍中将に昇進したが、その僅か一ヵ月後には予備役となっている。いったん予備役になると、現役の中将とは言っても、第一線の情報はほとんど入ってこなくなる。事実上の引退といってもよかった。同じ時に中将に昇進した同期の両豊田が、やがて歴史の表舞台に躍り出すのとは逆に、弥一は五十一歳で第一線を退くことになったのである。弥一は軍人と言うよりはむしろ技術者と言ったほうがあたっているかも知れない。いずれにしても政治からは最も遠くに身をおく人であったことだけは確かである。

 

         五

 

 翌昭和十一年、弥一は老後のためにと用意しておいた久ケ原の土地に家を建てた。丹精込めた畑を潰すのは忍びなかったが、いつまでも借家住まいという訳にもゆくまいという考えもあった。そんな折、次女の八重に縁談話が持ち上がった。弥一は陸軍の植村中将の懇請をどうしても断りきれず、奉天の元関東軍司令官の菱刈大将の家へ八重を嫁がせることに決めてしまったのである。乙女は、今回ははっきりと反対した。八重がいくら社交的で派手好きとはいっても、小野家とは住む世界がまるで違うというのが乙女の言い分であった。弥一の独断に乙女は怒りすら覚えたが、当の八重がむしろ乗り気であったために、矛をおさめるかたちになった。だが、このこともまた、乙女の心に固いしこりを残すこととなった。

 久ケ原の家は蒲田の家にくらべるとはるかにこじんまりとしていた。弥一と乙女、五人の姉妹たち、寛治郎夫婦と任地先の佐世保で生まれた赤ん坊の葉子を入れた十人家族が一緒に暮らすには、いささか窮屈と言えるかも知れなかった。金木犀の花の香りが風にのって流れてくる。玄関先には萩が白い花をつけていた。

「お母さま、ただいま戻りました」

 乙女は和室でお茶を飲みながら一休みしていた。八重は荷物を畳の上へ放り出すと、乙女の横に坐った。乙女は八重の顔を見るなり、「お母さんは、すごく心配よ。八重ちゃんが満州で暮らすなんて」と言って顔を曇らせた。

「お母さま、大丈夫よ。奉天は大都会なのよ」

「もし戦争が起きたらどうするの?」

「菱刈家は安全よ。直紀(なおのり)さんもきっと守ってくれるわ。それよりお母さま、早く花嫁衣裳を決めなくっちゃ」

「八重ちゃん、今からでも遅くないのよ。この話はお断りしたら?お父さんのほうは、お母さんが説き伏せるから」

「奉天では、お買い物に出かける時も、馬車に乗って行くそうよ。何て華やかなのかしら」

八重は幼い頃から結婚に憧れていた。ドレスメーカー女学院で洋裁を学んだのも、今こうして花嫁学校に通っているのも、すべてその夢をかなえるためと言ってもよかった。

「お母さま、わたし奉天へ行ったら、たくさんドレスをつくるわ」

二十歳になったばかりの八重の心には、ひとかけらの不安もなかったのである。

 

 久ケ原の家の台所の床下には、いつも最高級の蟹缶がぎっしり詰め込まれていた。缶にはラベルがまったく貼られていない。乙女はそれを訪ねてくる人に誰彼となく分け与えた。

 弥一は予備役になってから、日魯漁業と東京計器製作所の顧問になった。日魯にとっては、日本海やオホーツク海への出漁に、是非とも海軍のお墨付きを必要としたのかも知れない。いっぽう、ジャイロコンパスといった航海計器をつくっている東京計器にとっては、その販売にあたって、弥一の権威が喉から手がでるほど欲しかったのだろう。どちらの会社も、たまに出かけて行っては、ホットミルクを飲みながら、その日の新聞をくまなく読むぐらいが弥一の唯一の仕事と言ってもよかった。

「民間とは、こうも違うものか」

 弥一は山と積まれたラベル無しの蟹缶を見て、深くため息をついた。海軍では人に物を贈ることも受け取ることも、一切禁じられていたのである。

弥一は久ケ原の庭でふたたび畑づくりを始めた。季節外れの麦藁帽子に白い手拭いを首に巻いて、耕したばかりの土の上へ、古びた物差しで間隔を正確に測りながら、秋植えの小松菜の種を丹念に植付けて行く。

(少しでも曲がっていたり、間隔がまちまちだったりすると気持ちが悪い。大艦隊を航行させる時も同じことだ。一糸乱れぬ統率が何といっても必要なのだ。海軍と陸軍の足並みが揃わないのは、なにも今に始まったことではないが、最近の満州での対立はのっぴきならないところまできている)

 弥一は今回の縁組は、陸海軍の融和を図るためにも、一役買うだろうと考えていた。その意味では、娘を政略結婚に利用したと言えなくもなかった。

華燭の典は横浜と奉天の二ヶ所で挙げられた。弥一は奉天へ別送される八重の花嫁道具の中に一抱えの蟹缶を入れて、父としてのせめてもの詫びの気持ちを込めた。

 

        六

 

翌昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍の間に軍事的衝突が起きた。この衝突をきっかけにして、両軍は各地で戦火を交えながら、やがて中国全土での戦争へ突入していく。

その頃の奉天は一体どうなっていただろうか。そもそも満州は、昭和七年に関東軍が武力によって占領した中国東北地方を、満州国として独立させた日本の植民地である。日中戦争が全面戦争になると、奉天を固めていた関東軍の精鋭たちも、続々と中国の戦場へ投入されていった。こうして、満州国軍は次第に自力での国防を余儀なくされてゆくことになる。関東軍によって裏打ちされた満州国の繁栄も足元から崩れようとしていた。

 

第一次世界大戦後のパリ講和会議の年に生まれた和子は今年で十八歳になった。七人姉妹の三女として自由気儘な生活を送ってきたが、四月から駿河台女学院(YWCA)へ通うことになった。

姉妹の中でただ一人彫りの深い顔をしている和子は、幼い頃よく人にメリーさん、メリーさんと呼ばれることがあった。鏡の中を見ると、確かに異人顔をしている。親からは「おまえは、川からどんぶらこどんぶらこと流されてきたんだよ」とからかわれたこともあった。ひょっとしたら自分は本当にあいの子かもしれない。本気でそう悩んだこともあった。

和子はよくYWCAのかえりに銀座へで映画を観た。御茶ノ水から省線に乗って、神田で山手線に乗り換えると、十分足らずで有楽町に着く。帝劇の優待パスを持っているので一等席でも五十銭で入場出来た。そうして、次から次へと銀幕に登場する銀幕のスターたちに心をときめかせた。

「ルイ・ジューベの話すフランス語は、なんて魅惑的なのかしら」

 和子はそう思うやいなや、御茶ノ水のアテネ・フランセの門を叩いた。こうして、午前中はYWCAで英語を習い、午後にはアテネ・フランセでフランス語を学ぶという生活になった。

 映画のかえりにはよく銀座の松屋へ寄って買い物をした。モダンで垢抜けた松屋が和子のお気に入りの百貨店だった。松屋には小野家のお帳場があって、何でも好きな物を買うことが出来た。

 気に入ったセーターや帽子を見つけると、

「これ、三番の北原さんへ」

 と女の店員にお願いする。店員はなにか眩しいものを見るような顔をして、

「かしこまりました」

 と頭を下げる。しばらくしてから、お帳場へ顔を出すと、

「お嬢さま、いつもありがとうございます」

 と言って、三番帳場の北原は丁寧に松屋の紙袋を差し出した。

 

 翌昭和十三年、満州に駐留していた日本の海軍は、陸軍との対立の末に、とうとう満州を出て行くことになった。時を同じくして奉天の菱刈家へ嫁いでいた八重も小野家に出戻ってきた。あれほど社交的だった八重は、何故か家に閉じ籠りがちになってしまった。奉天では、政治の具としては大切にされたが、家族の一員として愛された実感はなかったのかも知れない。

「菱刈家で迎えた初めての朝のことよ。わたしが、パンをもうすこしくださいって言ったら、お義母さまから、おパンとお言いなさいってたしなめられたの」

 八重がそう言うと、それを聞いていた末の妹たちが、ぷっと吹き出して、

「おパン、おパン」と言いながら笑い転げた。乙女は一人顔をしかめていたが、その日からしばらくは、小野家でも、何につけ「お」をつけて言うようになった。

「笑子お姉さま、お味の素を取ってくださいな」

 とキヌエが言うと、アサエはすかさず、

「わたしにはおパンに、おバターよ」

 と言って、大はしゃぎした。

「キンアンぶたごのイエロッ歯」

 と笑子も負けじと応戦した。

 その晩、乙女は墨に筆で三行り半をしたためた。美都子の時は我慢した。八重の奉天行きも渋々承知した。けれども今度ばかりはどうしても許せなかったのである。八重がこんなことになったのも、すべて弥一のせいだと考えた。夜来の雨が屋根にあたって音を立てている。風で雨戸ががたがた鳴っている。乙女は電燈の下で、ひとり離縁状に見入りながら、膝の上で両のこぶしを固くしていた。

 翌朝早くに弥一が縁側であぐらをかいて庭をながめていると、乙女が緊張した声音で、

「あなた、大事なお話があります」と声をかけた。弥一が振り向くと、怖い顔をした乙女の姿が眼に入った。

「どうしたんだ」

 弥一が立ち上がると、乙女は懐から三行り半を取り出して、

「離縁していただきとうございます」と喉の奥底から振り絞るような声を出した。

「まあ、坐って話さんか」

 弥一はびっくりしたが、とにかく乙女を宥めようとした。

「わたしは、八重と二人で洋装店を開くつもりです。ですから、どうかお暇を」

 弥一にとって、この乙女の言葉は青天の霹靂だった。

「八重は承知しているのか」

「いえ、これから話します」

 弥一はそれを聞いて、乙女が思い詰めた挙げ句に突飛な行動に出たと悟った。

「俺のどこが悪いのだ?悪いところがあったら、いくらでも直すから、どうか早まったことだけはしないでくれ。乙女、頼む。このとおりだ」

弥一が畳に額をすりつけると、乙女はその場によよと泣き崩れた。

 

ほどなくして、八重が結核に冒されていることが分かった。大陸での慣れない生活がたたったのだろうというのが医者の見立てであった。すぐに築地の海軍病院の隔離病棟へ入院したが、病状は悪化の一途をたどった。最後には結核菌が脳にまわり、自力での排尿すらままならなくなった。物も言わずに、左手を振り回しながら、尿意を訴えていた八重が、枕もとで最後に発した言葉は、「お母さん」のひと言であった。

 

        七

 

昭和十四年の正月は、任地先から久しぶりに戻ってきた寛治郎夫婦が加わって、賑やかなものになった。寛治郎の出征中に生まれた次女は征子と名づけられ、弥一にすっかりなついていた。

「おじいちゃんの、かわいい、かわいい征子ちゃん」

 弥一は征子を着物の懐に入れてかわいがった。征子は色白で、もちっとしたかわいい顔をしていた。いっぽう、佐世保生まれの長女葉子は「サ世ホ」と書くと「葉」の字になることから、サセホ子ちゃんと呼ばれていた。あまり器量よしとは言えなかったが、弥一の叔父つねおんじいは、葉子を養子に欲しがった。だが、幸枝は決して娘を手放すようなことはしなかった。

 その夜、弥一は寛治郎と二人だけで酒を飲んだ。

「寛治郎、少佐になったそうだな」

「ええ、去年の十一月、出征中に」

 そう言うと、寛治郎は恩賜の時計を懐から取り出した。

「そうか、とにかく目出度いことだ。まあ、一杯飲め」

 弥一は寛治郎の昇進を我が事のように喜んだ。

「ところで中国の様子はどうだ?」

 弥一は声を落として聞いた。

「戦争は酷いことになっています。自分は軍艦で港を封鎖しているだけですが」 

「アメリカの動きはどうなんだ?日米関係の雲行きも、かなり怪しくなってきたようだが」

「お義父さん、アメリカと戦争をしたら必ず負けます。アリとトラの戦いです」

 と寛治郎はさらに声を落として答えた。

「そうだな、それだけは絶対に避けなくてはならん」

 弥一はもはや海軍ではまったく発言権のない自分がもどかしかった。この頃、日中戦争の拡大にともなって、中国でのアメリカの権益が、日本軍によって脅かされる事件が頻発した。そうしてアメリカ政府内部では、中国での自国の権益を護るために、対日制裁論が急速に台頭してゆくことになる。

 

 その年の春の初めのことである。弥一は顧問をしている会社から、正規のポストを与えられることになった。

「俺もまだ五十五だ。もうひと働きするか」

と弥一は久々に意気込んだが、近頃どうも痔の具合がよくない。そこで、知り合いの鍛冶橋の肛門病院で手術を受けることにした。軽い気持ちで手術台にのったが、あろうことか麻酔の注射針が腹膜を突き破って、取り返しのつかないことになってしまった。すぐに築地の海軍病院へ回されたが、時すでに遅しで、体中にばい菌が回って、あっけなく死んでしまったのである。急なことで家族は間に合わず、乙女ただ一人が夫の最後を看取ることになった。乙女は弥一の眠るベッドの傍らで、くず折れたまま、いつまでも動こうとはしなかった。

 

和子は東横線の府立高等駅の北口で照山悦子と待ち合わせていた。紺色のワンピースにひっつめ髪であらわれた悦子は痩身の地味な女性だった。

「和子さん、待ちました?」

 声も低くあまり抑揚がない。

「ううん、いま着いたばかりよ」

 和子は、はきはきと答えた。悦子はしばらく空を見上げていたが、やがて腕時計をちらりと見ると、「和子さん、山宮(さんぐう)先生の家は柿ノ木坂にあるのよ」と言った。それから二人は駅からすぐの長い坂道をゆっくり上がっていった。

「お父さん、大変だったわね」

「ええ。でも、だいぶ落ちついてきたわ」

「儀仗兵が家の前にずらりと並んで、壮観だったわね」

「おかげで、ご近所にすっかり素性がばれてしまったわ」

 和子はそもそも軍人の娘であることに不満を感じていた。できることなら、そのことを人には知られたくなかった。小学校や女学校でも、父親の職業を聞かれる時が一番いやだった。みんなのように会社員とか教師なぞと答えられたらどんなにいいだろうと思っていた。

「あら、どうして?海軍中将なんて、なかなかなれないわ。わたしなら、すごく憧れるな」と悦子は何かを思い詰めるような顔をして言った。坂の勾配がだんだんきつくなってきた。途中で小道を左へ折れると、

「ほら、あすこに桜の大木が見えるでしょ。あすこが山宮先生のお宅よ」と悦子は道のはるか先のほうを指さした。

 

 玄関には桜の花びらが、はらはらと舞い落ちている。悦子が呼び鈴を押すと、しばらくして羽織袴姿の痩せて顔のとんがった中年の男が出てきた。

「やあ、悦子さん。いらっしゃい。そちらは小野さんといったかな」

「はい、小野和子です」

「さあ、上がってください。坂がきつかったでしょう」

 応接間に通されると、お茶と和菓子が運ばれてきた。和子は湯気の立った緑茶に口をつけると、

「おいしいお茶!」と思わず顔をほころばせた。

「そうですか。和菓子も、どうぞ召し上がってください」

 男は目を細めて若い二人をながめていた。

「山宮先生、こちらは女学校の友人で、この春にYWCAを終えたばかりの小野和子さんです」と悦子が和子を紹介すると、「ぼくは山宮です。府立高等の教師をしています」と男が答えた。

「先生は実践女子でも英文学を教えてらっしゃるのよ。わたしも先生のウィリアム・ブレイクのクラスを取っているの」山宮允(さんぐうまこと)は英国の詩人ブレイクやイェイツの研究家としてひろく知られていた。

「お二人にお願いしたいことは、この家にある本の図書目録の整理です」

 男は簡単に目録のつくり方を説明すると、そのまま奥へ引っ込んでしまった。書庫には膨大な数の本が所狭しと積まれている。和子はざっと見渡して、この仕事は一年では終わらないだろうと思った。

 

         八

 

 昭和十四年八月に海軍次官から連合艦隊司令長官に補せられた山本五十六中将が、純白の軍服を身に纏って、紀州和歌ノ浦に集結した連合艦隊の旗艦「長門」の甲板上に降り立ったのは、翌月九月一日のことであった。

五十六は若い頃に駐米武官として二度のアメリカ滞在の経験がある。その間ハーバード大学にも学んでいる。日本では知米派としてアメリカの国力を目の当たりにした数少ない軍人の一人であった。その意味からしても彼は終始アメリカとの開戦には反対の立場を貫いた。翌昭和十五年九月にアメリカを共通の敵とみなすことで利害の一致を見た日独伊三国同盟の条約締結に際して、井上成美、米内光政らとともに最後まで反対しつづけたのもやはり五十六であった。

寛治郎もまたアメリカとの戦争はなんとしても避けねばならないとして米内光政に与していた。弥一が亡くなってから、小野家の戸主となった寛治郎の肩には、女ばかりの小野家の命運が重くのしかかっていた。しかし実際には任地から任地への移動で、寛治郎が久ケ原の家に落ち着くことは滅多になかった。妻の幸枝もまた夫の任地が変わるたびに、まだ幼い二人の子供とともに寛治郎につき随ったのである。

 

和子が柿ノ木坂で図書目録をつくり出してから、一年ほど経った或る日、一人の中年の日本人女性が山宮允の家を訪ねてきた。女は日本人離れした派手やかな顔をしていて、名をエンコ・エリーザ・ヴァカーリといった。

「山宮先生、きょうはお願いがあって来たのよ」とエリーザは切り出した。

「さて、どういったお願いですかな」

 山宮はエリーザの豊満な体から極力目をそらそうと、終始窓のほうを眺めながら話していた。

「ヴァカーリが有能な助手を探しているんですのよ。先生の教え子のなかに、どなたかいい人はいないかしら」

 オレステ・ヴァカーリはエリーザの夫で、英語の辞書や英文法の本を自前で出版しているイタリア人の言語学者であった。

「どんな仕事があるんですか?」

 山宮はすぐに小野和子のことを思い浮かべた。図書目録もおおむね出来上がっている。相方の照山悦子はすでに早稲田大学に進学することが決まっていた。

「いま英語による日本語の辞書をつくっている最中なんですけれど、なかなかいい人がいなくって困っているんですのよ。大学出の人が何人も来たんですけれど、すぐヴァカーリが怒り出してしまって」

 エリーザは本当に困っていた。ヴァカーリが心血注いで取り組んでいる日本語の辞書の編纂がなかなか進まないからだ。

「いい人がいなくもありませんが、まず本人に聞いてみましょう。話はそれから、ということでいかがですか」

「どんな方かしら?」

「小野和子さんといって、このあいだ亡くなった小野海軍中将のお嬢さんですよ。YWCAの英語科を出られて、うちで一年間、図書目録の作成の手伝いをしてくれている人です。すごく几帳面な人ですよ」

「あら、まあ」

 エリーザは、大きな口と大きな眼で、顔一杯に喜びをあらわしていた。

 

 ヴァカーリの経営する英文法通論発行所は麻布龍土町にあった。発行所のはす向かいには、麻布三連隊のいかつい兵舎が建っている。

話は四年前に遡る。昭和十一年二月ニ六日、昭和維新を唱えた陸軍の皇道派青年将校たちが、麻布三連隊などを率いて軍事クーデターを起こした。深夜の霞ヶ関一帯には軍靴の音が不気味に鳴り響いた。折りしも降り始めた雪は、やがて東京中を真っ白に覆いつくした。

その日、寛治郎はたまたま久ケ原の家に戻っていた。真夜中に叩き起こされて、三人の海軍大将が襲撃されたことを知らされると、すぐさま軍服に着替えて横須賀へ急行した。第一艦隊の指令長官米内光政中将は、その日のうちに、横須賀鎮守府の海軍陸戦隊を芝浦に上陸させた。そうして翌二十七日には、第一艦隊を東京湾に集結させて、旗艦長門以下、全艦の砲門を一斉に反乱軍へ向けた。

 

和子は新橋の土橋交差点から四谷塩町行きのチンチン電車に乗った。電車が六本木の交差点を右に曲がると、開け放った電車の窓を五月の爽やかな風が吹き抜けた。電車は麻布三連隊の兵舎の前を通り過ぎて、龍土町の停留所で止まった。

すぐ先に英文法通論発行所の事務所が見える。薔薇の花の絡みついたアーチをくぐり抜けると、エリーザがホースで庭に水を撒いている。

「まあ、綺麗だこと」と和子は声をかけた。

 色とりどりの薔薇の立ち木が庭一面に植えられている。花びらに溜まった水のしずくが、日の光に零れ落ちている。エリーザは水撒きの手をちょっと休めて、

「小野さん、ヴァカーリがすごく喜んでいるんですのよ。ミソノはヘボン式の綴り方を、たったの三日で覚えたって」と、にこやかに答えた。ヴァカーリはミスオノをミソノと発音した。発行所はヴァカーリとエリーザのほかに、社員は和子一人だけだった。

 イタリアのナポリにある東洋語学校(インスティトゥート・オリエンターレ・ディ・ナポーリ)で日本語を学んだヴァカーリは、若くして来日した。そしてエリーザと結婚後、二人で多くの外国語辞書を発行してきた。とくに英日・日英辞典はサイズもコンパクトで日本在住の外国人必携の書となった。日本語で書かれた英文法通論も社名になったほどによく売れた。

そんな折、新たに和子を助手として雇ったのは、ヴァカーリ夫妻がさらに英語による大日本語辞典と大漢和辞典の編纂に専念するためであった。ヴァカーリはそれまで自分でやっていた淡路町の紙問屋との交渉、印刷製本の手配、そして書籍流通組合との連絡をすべて和子に任せた。その年の九月に日本軍がフランス領インドシナへ進駐すると、仏日・日仏辞典の注文が山のように舞い込んだ。和子は毎日のように製本したての辞書を、紙でくるんで紐でしばっては、東京国際郵便局へ持ち込んで、ハノイへと送り出した。

 

英文法通論発行所の二階はヴァカーリ夫妻の自宅になっていた。夫妻には子供がいなかったが、そのかわりにニ匹の犬がいた。ヴァカーリのお気に入りの「ウシャ」は、よく吠えるところが主人にそっくりだった。もういっぽうの「チーチャン」は、しょっちゅうヴァカーリに怒られては、おしっこをちびっていた。和子もまたこの気難しいイタリア人に慣れるまでには一苦労もニ苦労もあったのである。

 エリーザが和子とおしゃべりをしていると、「ミソノの仕事がはかどりマセーン!」とヴァカーリは頭から湯気を立てて怒った。痩身で見上げるほど背の高い彼が、高い鼻をますますとんがらせて、鷹のような青い眼で怒り出すと、もう誰にも手がつけられなくなった。

 彼は若い頃からイタリアのファシスト党にはいっていたが、或る時、三田のイタリア大使館まで行って、「最近のファシスト党は腐敗してイマース!」と怒号を発して、制服の黒シャツをずたずたに引きちぎって、床にたたきつけた。それ以来、ヴァカーリはムッソリーニと訣別した。

 そんなヴァカーリも和子にだけは優しかった。やがて彼は和子のことを「ジューリア」と呼ぶようになった。そうして本気で和子を養女にしようと考えた。いっぽう和子もとかくひとには誤解されやすいヴァカーリをそれなりによく理解していた。

 和子は月に一度の給料日には、よく六本木の交差点まで歩いた。そうして交差点の角にある書店誠志堂で良寛の本をどっさり買い込んだ。まだ二十歳を過ぎたばかりというのに、和子は良寛の生き方に深く共感していた。そして、晩年は良寛のように隠棲して自然や子ども達だけを相手にひっそり暮らしたいと願うような一面も持っていた。

六本木の交差点から新橋行きのチンチン電車に乗る。終点の土橋で降りて、少し歩いて行くと、玉木屋の本店がある。家族のためにおいしい佃煮を買って帰るのも、給料日のもう一つの愉しみになっていた。

 

その年の暮れのことである。寛治郎の肺に小さな影が見つかった。風邪だと思っていた咳がいつまでたっても止まらない。そこで、かかりつけの木村病院で診てもらうと、ごく初期の結核であることが判った。少なくとも半年の転地療養が必要という診断が出された。

おどろいた寛治郎は、すぐさま南伊豆の湊海軍病院に問い合わせたが、あいにく療養所のベッドには空きがなかった。妻の幸枝も八方に問い合わせたが、どの病院からもすぐの入院は難しいとの返事がかえってきた。日本軍の兵站が中国全土から仏印まで伸びきった頃には、日本国内でも目に見えて物資や食糧が不足し始めていた。栄養不足で胸を病む人も急増していたのである。和子もまた寛治郎の病院探しに奔走した。

或る日の午後、和子はエリーザに、

「義兄の寛治郎が胸をやられてしまって、どこかにいい病院はないかしら?海軍の湊療養所は、どうも満杯らしくって」と洩らすと、

「あら、わたくしの弟が湊療養所の所長をしてるんですのよ。まあ、なんて偶然かしら。おどろいたわ。和子さん、今晩にでも、弟に何とかするように頼んでみるから、安心しなさい」とエリーザは言った。

 エリーザの弟は医者で、名を海老沢勝見という。二年ほど前から湊療養所の所長を勤めていた。海老沢所長は、エリーザの鶴の一声で、療養所の物置に使っている部屋を空にして、そこにベッドを引き入れて、急ごしらえの病室をつくった。そうして寛治郎がすぐに入院できるように万端取り計らってくれたのである。

 

         九

 

 彼は狭苦しい寝床の中でなんとか体を伸ばそうともがいていた。なにやら窮屈な軍艦の寝台で寝ているような気もした。毛布が体にまとわりついて、なかなか身動きがとれないと思っているうちに、はっとして眼が覚めた。目の前には白衣を着た男の看護助手が無表情な顔で立っていた。

(ここは、療養所だったんだ)

 寛治郎は伊豆の南端にある湊療養所のサンルームの中にいた。籐製のデッキチェアで、ついうたた寝をしてしまったらしい。サンルームには、冬の陽射しがさんさんと降り注いで、窓を開け放っていても、汗ばむほどであった。白い療養衣も、その下の肌着も、じっとりと汗で濡れていた。

 軽症患者には、すぐ近くの弓ヶ浜までの散歩が許されていた。病棟は木造の二階建てで、彼の病室は一階の右端にあった。室(へや)を出てすぐ右の両開きのドアを開けると、そのまま外へ出られるようになっていた。

病棟の壁には、冬枯れて赤くなった蔦の葉がまだ残っている。蔦の枝は縦横に絡み合いながら、病棟の壁をつたって上へ上へと伸びている。指で枝に触ってみると、おどろくほど固くしっかりとしている。

(ああ、ここにも命がある。夏になれば、いっせいに緑の葉が茂ることだろう。しかし夏にはもう自分はここにいないかも知れない。いや、万が一、アメリカと戦争になるようなことがあれば、その時はすでに命を落としているかも知れないのだ)

ゆるやかなカーブの小道を少し行くと、小さな祠のある神社がある。狭い境内を通り抜けて行くと、松林を透かして、遠くに海が光っている。松の梢が風にそよいでいる。

やがて、目の前に美しい白い砂浜が見えてきた。海岸線が、入り江の端から端まで、見事な弧線を描いている。寄せては返す波の音が辺りを静かに包みこんでいる。そうして、潮風はやさしく彼の胸にしみわたった。

(ひとはそもそも、こういう土地で生まれ、こういう土地で育つべきなのだ)

 寛治郎は、たとえ束の間でもいいから、この地に家族を呼び寄せて、一緒に暮らしたいと真剣に考えた。

 

 妻と二人の子供が療養所の近くに住み始めたのは、年が明けてすぐのことであった。所長の肝入りで、農家の一室を間借りすることが出来た。長女の葉子は四月から小学生になるので、土地に慣れるという意味からも、ちょうどよいタイミングだった。地元の子たちは、初めのうちは都会からやってきたやけに色の白い姉妹を遠巻きにながめていたが、すぐに二人を遊びの仲間に引き入れるようになった。

「あなた、具合はどうですか?」

 幸枝は日に一度は果物なぞを持って様子を見にやって来る。

「まあまあだな。退屈なんで、しばらくぶりに、俳句を始めたんだ」

「あら。今度見せてくださいましね」

「いいのが出来たらな」

「子供たちが、あなたに会いたいと言って、きかないんです」

「菌をばらまくことはないんだから、先生は大丈夫と言っていたぞ」

 子供の顔を見たくてしょうがないのは、むしろ寛治郎のほうであった。

 翌日の午後、葉子と征子が病室にあらわれた。幸枝は農家の主(あるじ)から貰ったと言って、早成みかんをたくさん持ってきた。

「ほかの患者さんたちにも、分けてあげてくださいましね」

「子どもたちは、やけにおとなしいんだな」

 征子は療養所の消毒液の匂いが気になるのか、右手で鼻をつまんだまま、少し困ったような顔をしていた。やがて葉子が、

「お父さん」

 と、口を開いた。

「葉子か。ん、いい子にしていたか」

「うん」

「よしよし」

 寛治郎は葉子の頭をやさしく撫ぜた。征子は幸枝のうしろに隠れたまま、なかなか姿を見せなかった。

「征子、弓ヶ浜はきれいだったか?」

「うん。すごくきれいだった」

 征子はそう答えると、幸枝のうしろからひょっこり顔を出した。子供たちの顔は少し見ないうちに随分と黒くなっていた。真冬とはいえ、伊豆の南端では、東京辺りとは陽射しがまるで違うのである。幸枝も柔らかな笑顔を見せるようになっていた。寛治郎は、つくづく家族を呼び寄せてよかったと思った。

 

         十

 

 第一航空艦隊の旗艦「赤城」は択捉(えとろふ)島の単冠(ヒトカップ)湾を目指して北へ進航していた。小野寛治郎少佐はハワイ作戦の通信参謀として、航空母艦赤城に乗り組んでいた。

 その年の夏に、湊療養所を退院した寛治郎は、すぐに第一航空艦隊に配属された。そして十一月の始め頃、「今回の任務は長くなるかも知れない」とだけ妻に言い残して、久ケ原の家を後にした。ハワイ作戦は極秘裡に進められ、家族にも行き先は明らかにされなかった。

(これが、最後の別れになるかも知れぬ)

と寛治郎は、無心に手を振る幼い子らに、涙をこらえて笑顔を見せた。 

 その二ヶ月前の九月、日本軍による南部仏印進駐はアメリカとの関係を極度に悪化させた。アメリカは日本軍に対して中国と仏印からの即時撤退を要求して、在外日本資産の凍結と対日石油輸出全面禁止の経済制裁を発動した。こうして日本は真綿で首を絞められるようにじわりじわりと追い詰められていった。

早くからハワイ作戦の検討をすすめていた連合艦隊司令長官山本五十六大将は当初から短期決戦を目論んでいた。「緒戦で勝利して、すぐに講和に持ち込む」というのが彼の心積もりであった。

 戦闘機四百三十ニ機を所狭しと搭載した航空母艦六隻、戦艦十六隻、潜水艦二十九隻からなる大機動部隊が、十一月二十二日に択捉島の単冠湾に集結した。第一飛行艦隊指令長官南雲忠一中将は旗艦「赤城」でじっと山本大将からの出撃命令を待っていた。

 十一月二十六日、機動部隊全艦艇は単冠湾を出た。艦隊はアリューシャン列島に沿って東へ進航した。十二月八日の奇襲に間に合わせるためには、この日に単冠湾を後にしなければならなかったのである。もっとも和平交渉が成った時には、すぐに作戦を中止して、日本へ引き返す指示が出されていた。

機動部隊は十二月一日、日付変更線を越えた。空母赤城が二度目の燃料補給を受けたのは翌二日のことである。アメリカ海軍は、そもそも日本の艦隊はハワイまで燃料を切らさずに航行できる能力がない、と考えていた。しかし機動部隊の全艦艇は、特務給油鑑極東丸を含め七隻の給油船団から繰り返し洋上給油を受つつ航続距離を伸ばしていた。

 岩国沖に碇泊中の連合艦隊旗艦「長門」から「ニイタカヤマノボレ」の電信が発せられたのは、十二月二日の夕刻のことであった。通信参謀小野寛治郎少佐は、通信士から受信電文を引きちぎるようにして奪い取ると、南雲中将のもとへ走った。中将は操舵手の横に突っ立ったまま、岩のように動かなかった。

「南雲中将、受信電文です」南雲は通信参謀から黙って電文を受け取ると、「ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ」と、低い声で唸るように電文を読み上げた。

「面舵いっぱーい」旗艦赤城は大きく右へ旋回して、進路を南へ変えた。

「前進ぜんそーく」穏やかだった天候が、急に荒れ模様に変わってきた。艦は荒波を切り、波濤を蹴って、全速力でハワイへ向かって動き出した。

 

     

第二部

 

 

         一 

 

 和子が理事生として東横線の日吉にある海軍軍令部で働き始めたのは、昭和十九年四月のことであった。

 その日は良く晴れて、頬を吹き過ぎる風が心地よかった。和子は寛治郎の紹介状をしっかり手に握って慶応義塾大学予科の正門の前に立った。

「あの、第三部第七課はどこですか?」

和子は門の脇にある衛兵詰所を訪ねた。

「ここは、民間人の来るようなところでは、ありません」

 衛兵は胸に白いストライプのはいった紺地のセーラー服姿を見て和子を学生と間違えたらしい。和子はすでに二十五になっていたが、外見はどう見ても十五、六の小娘にしか見えなかった。

「今日から軍令部で働くことになっているんです。ここに紹介状もあります」

 と言って、封書を衛兵に差し出した。

「なになに、紹介状?」

 衛兵は怪訝な顔をして、紹介状と書かれた封書を受け取った。裏返すと通信参謀小野寛治郎少佐と書かれてある。衛兵の眼はニ、三度封書と和子の顔のあいだを行き来していたが、

「失礼しました。門をはいって、銀杏並木をしばらく行くと、記念館があります。そこを右に曲がると大きな大きな校舎が見えてきます。そこに軍令部第三部がはいっています」     

と先ほどとは打って変わって丁寧に説明してくれた。

「ありがとう。兵隊さん」

 和子はにっこり笑って、ぴょこんとお辞儀をした。

海軍省は、そのひと月まえの三月に、慶応義塾大学との間に、予科校舎も含めて全敷地約五万坪を借り受ける契約を済ませていた。そして、すでに軍令部第三部が予科第一校舎に移転してきていた。第三部は総勢三百名の大所帯で、国際情勢や欧米各国の軍事情報の分析を専門に行っていた。和子の属した欧州七課は、主にフランスとドイツを担当していた。七課を仕切っていたのは、重村実(しげむらみのる)であった。

「小野少佐とは、海軍兵学校の同期でしてね」

 紹介状を応接テーブルの上に丁寧にひろげながら、重村部員は小声で話し出した。部屋には十五名くらいの人が働いていた。皆、ちらちらと、こちらを窺がっているのが分かる。

「服装は、モンペ姿で構いませんから」

 男性の多くは、半そでの白い開襟シャツに白いズボンをはいている。おまけにそろって丸いレンズの眼鏡をかけているので、どの人も同じように見えた。しばらくしてから、重村部員は立ち上がって、和子を窓のほうへ連れて行った。そうして、

「ここが、小野理事生の席です」と言った。

「分かりました」

 そう返事をすると、和子はよく陽の当たっている窓際の席に落ち着いた。 

  

 この頃、日本軍は太平洋戦争の緒戦で占領した太平洋上の島々を、次々と失っていった。三月には、太平洋に散らばった陸海軍を統率するため、連合艦隊の作戦指揮下に、中部太平洋方面艦隊が編成された。司令長官には南雲中将が補せられ、三月四日にサイパン島に着任した。司令部は当初から陸上に置かれたのである。

 寛治郎もまた中部太平洋方面艦隊の通信参謀として、南雲中将と運命をともにすることになった。

「もし南雲中将が斃れることがあれば、その時は、日本はもうおしまいです」

 寛治郎はこう言い残して、久が原の家をあとにした。見送る妻幸枝の腕には、いたいけない赤ん坊の治夫が抱かれていた。近所の人たちも寛治郎の出征を聞きつけて、日の丸の小旗を細かく振っている。

寛治郎はハワイ作戦以来、多くの作戦に参加してきたが、司令部が陸(おか)に上がるというのは初めてのことだった。サイパンがもしアメリカ軍の手に落ちれば、日本全土がB29の攻撃に晒されるのは明白だった。その意味からしても、サイパンはどうあっても死守せねばならない軍事上の最重要拠点のひとつであった。寛治郎は見送りの人たちに優しく笑顔で応えながら、心の中では悲痛な思いで家族に最後の別れを告げた。

 

日吉の軍令部の属員たちの間にも一様に悲壮感が漂っていた。戦況は悪化の一途を辿り、いつ戦場にかりだされてもおかしくない状況にあった。海軍省が軍令部を日吉へ移転させ始めたのも、B29による本土爆撃に備えてのことである。日吉の地を選んだのは、横須賀に近いということ、高台で通信状態が良いということのほかに、地下壕を掘りやすい地形であることが主な理由であった。海軍省は連合艦隊司令部を海上から陸上の日吉に移すことも視野に入れていたのである。

六月三日のことである。

「ド・ゴール将軍が、亡命先のロンドンで臨時政府を樹立したぞ!」と欧州七課の属員室で声が上がった。傍受したフランス語の通信文を日本語に翻訳していた白井健三郎が発した声である。

 和子は本から眼を離して、白井のほうをちらりと見たが、すぐに眼を読みかけの頁に戻した。半月ほど前から読み始めたエミール・ゾラの「ナナ」がちょうど佳境にさしかかっていたのである。和子は仕事を頼まれない時には、もっぱら読書をして過ごした。朝出勤すると、机の中から分厚い本を取り出して、どっかと机の上に置く。そうして、やおら頁をめくり出すと、もうほかのことは一切眼にはいらなくなる。属員たちは、そんな和子の姿を見て、「小野さんの、あの態度だけは、見習うべきだ」と変に感心したりもした。

 

 六月十一日、無線室で仮眠を取っていた寛治郎は時ならぬ爆撃機の音にはっと眼を覚ました。急いで窓から外を見ると、米軍機が朝日を背に大編隊を組んでサイパン島上空にさしかかろうとしていた。と思う間もなく、爆弾が雨あられのように落ちてきた。地響きとともに幾度となく建物全体が揺れる。爆裂音にまじって、「空襲だあ、空襲だあ」と建物の内外で叫び声が上がる。寛治郎は、すぐさま傍らにあった無線機に飛びつくと、「サイパン上空に敵機来襲」と連合艦隊司令部へ打電した。

 こうしてアメリカ軍のサイパン侵攻は始まった。日本軍は、アメリカ軍の次の標的はパラオ方面と考えていただけに、不意打ちを喰らうかたちになった。事実、サイパン島の陸軍第三十一軍司令官小畑英良中将は、パラオ方面の作戦指導のためサイパンを留守にしていた。

この時、日本海軍の第一機動艦隊は、はるか南方、フィリピンのタウィタウィ島に碇泊していた。空母艦隊がサイパンへ向けて出撃するまでには、さらに時間がかかった。

 六月十三日の艦砲射撃は熾烈を極めた。そして十五日には七万を越えるアメリカ軍が雪崩を打ってサイパン島西海岸に上陸を開始した。迎え撃つのは斎藤義次中将率いる陸軍第四十一師団、司令官を欠いた陸軍第三十一軍、南雲中将率いる海軍第五特別根拠地隊を中心とした総勢三万余であった。アメリカ軍の圧倒的な戦力のまえに、日本軍は散り散りになり、多くの民間人を巻き込みながら、北へ北へと追い詰められていった。

小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊がサイパン沖に現れたのは六月十九日のことである。上陸部隊の支援のためサイパン沖に展開していたアメリカ機動艦隊は、日本の空母艦隊を迎え撃つかたちになった。アメリカ軍の高度なレーダー技術と高射砲から放たれる最新鋭の砲弾はかつてない威力を発揮した。日本側の艦載爆撃機は見る見る打ち落とされていった。十九日と二十日の海戦で日本軍の空母艦隊はほぼ壊滅した。かくしてサイパン守備隊三万の救援と脱出の望みは全く絶たれたのであった。

六月二十九日、サイパン島守備隊の指揮所がタッポーチョ山から北東側の地獄谷に移された。七月六日、地獄谷からサイパン各所の守備隊へ総攻撃の命令が出された。それに先立って南雲中将から最後の訓示が無線で伝達された。

「サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲にニ旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能わず、人の和を以って今日に及び、今や戦うに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし」

合同指揮所の洞窟の前には中部太平洋方面艦隊司令長官、第四十一師団長、第三十一軍参謀長以下、司令部全員が集まっていた。鬱蒼としたジャングルの峡谷には、すでに宵闇が迫っていた。噎せ返るような草いきれに混じって、時折、どこからともなく腐臭が漂ってくる。

各連隊の軍旗に次々と火が点けられていった。小さな火はやがて大きな炎となって、ジャングルの夜空を焦がした。寛治郎は両のこぶしを握りしめながら、軍旗がこのまま燃え尽きなければよいと願った。この炎が尽きた時、自分の命も尽きることが判っていた。

一匹の黄金色の蝶がどこからともなく炎に近づいてきた。すると、さらに二匹、三匹と炎のまわりを舞い始めた。やがて数え切れないほどの蝶が、炎を幾重にも取り巻いて、乱舞し始めた。南雲中将は燃えさかる炎に背を向けると、ひとり海軍の洞窟へ戻っていった。そして斎藤中将と井桁少将も、あとを追うように陸軍の洞窟のなかに消えていった。

寛治郎の頭は混乱した。ジャングルのすぐ向こう側に、浜辺があって、そこで妻子が待っているような錯覚に陥った。やがて軍旗が燃え尽き、四方が真の闇に包まれても、幻覚はなおも続いた。

寛治郎は拳銃を手にすると、ジャングルのなかへ分け入った。

(すぐそこに海があるはずだ。幸枝、葉子、征子。治夫が待っている美しい弓ヶ浜の浜辺が・・・)

その時、闇の中で敵兵が動いたような気がした。寛治郎はとっさに右手の人差し指に力を入れた。

 

        二

 

その年の九月二十九日のことである。和子は日吉キャンパスの陸上競技場の土手に坐って母親のつくってくれたお弁当を膝の上にひろげていた。陸上競技場の景色は普段とすこしも変わらない。空には秋の雲が薄く筋を引いている。

お弁当のふたを取る度に、和子のため息は深くなった。このところお弁当の白い部分ばかりが目立って、おかずがめっきり減ってきたのである。

(寛治郎義兄さんは、もう半年くらい帰ってこないし、小野家はいったいどうなっちゃうのかしら)

梅干を手でつまんで、口に入れてみる。酸っぱいので、ごはんをたくさん食べる。「戦場に行ったと思えば、ごはんがあるだけでも、しあわせだわ」と、口に出して言ってみた。

ちょうどその時、銀杏並木を軍のジープが車列を組んで通り過ぎた。しばらくすると正門のほうから軍のトラックが砂ぼこりを上げながら数珠つなぎにやってくる。荷台には大勢の兵士に混じって将校たちの姿もたくさん見られた。目の前の陸上競技場は見る見るうちに軍のトラックで一杯になった。和子はなんだか怖くなって、昼食を早々に切り上げると、すぐに欧州七課の属員室へ戻った。

「連合艦隊の司令部が引っ越してきたらしいぞ」

 と誰かの声がした。いつもは水を打ったように静かな属員室もさすがに騒然となっている。

「豊田長官も、ついに陸(おか)へ上がったか」

 長島怪人が武井老人を相手にひそひそ話を始めた。武井老人は、

「どうりで、地下壕なんぞを掘ってたわけだ」

と答えると、つるんつるんの頭を手のひらでぺろっと撫ぜた。武井はまだ三十台半ばというのに武井老人と渾名されていた。いっぽうの長島は、その独特な雰囲気から、何故か長島怪人と呼ばれていた。長島怪人は、まわりをぐるっと見廻すと、さらに声をひそめた。

「しかし、豊田長官もサイパン沖では、こてんぱんにやられましたな」

「やられたのは、空母艦隊だけよ。戦艦は、ほとんど無傷という話ですよ」

と、武井老人も負けじと知識を披瀝した。

 和子は、その日の午前中に頼まれた航空路の製図の仕事に、なかなか手をつけられないでいた。どうやったらいいのか皆目わからぬままに、定規を持つ手がはたと止まっていた。和子の難儀を見かねて、属員の大口が近づいてきた。

「小野さん、こうすればいいんですよ」

 と大口は定規の当て方を和子に教えた。

「おい、大口、小野さんに足元を見られてるぞ」と、うしろから声がかかると、

「小野さんに、足元を見られるような、俺じゃない」と、むきになった。

和子は痩せて背のひょろ長い大口の立ち居振る舞いを見るにつけ、さすがに宮廷歌人大口鯛二の息子だけのことはあると、いつも感心していた。

連合艦隊司令部はこの日、木更津沖に碇泊中の旗艦「大淀」から日吉のキャンパスへ移ってきた。連合艦隊司令長官豊田副武大将以下幕僚、兵士など総勢四百名を超える大所帯であった。作戦司令室はキャンパス南側の丘の上に建っている予科寄宿舎におかれた。万が一、空襲があった場合には即座に作戦司令室を地下に移せるように堅牢な地下壕が張り巡らされていた。

翌日三十日は土曜日である。半ドンと言うこともあって、昼前の欧州七課の属員室には穏やかな空気が漂っていた。その時、重村部員の机の上の電話が静かに鳴った。

「連合艦隊司令長官の豊田だが、こちらまで来てもらえんかな」

電話を直接受けた重村は重い声に思わず凍りついた。まず重村の脳裡に浮かんだのは、自分の属する欧州七課の情報分析の不備で海軍に損害を与えたのではないかという不安であった。咄嗟に頭を巡らしてみたものの、とくに思い当たるふしはない。とにかく、すぐに豊田長官のところへ行かねばならない。重村は顔を強ばらせたまま黙って席を立つと、何も告げずに属員室をあとにした。

軍令部第三部の建物を出て、連合艦隊司令部のある寄宿舎まで辿りつく間、重村は「自分のような一部員が、連合艦隊司令長官に呼び出されることなど有り得ないことだ。ひょっとしたらその場で詰め腹を切らされるかもしれない」とまで思い詰めた。秋の陽はうららかに感じられたが、重村の足取りはいつになく重かった。

豊田長官の部屋の脇には護衛の兵士が銃を構えて立っている。重村が来意を告げると、その兵士が取り次いでくれた。部屋の中で「軍令部第三部欧州七課の重村部員がお見えです」と言っているのがドア越しに聞こえてくる。「ああ、通してくれ」と豊田長官が言っているのも耳に入った。重村は緊張の極に達していた。

長官は、ゆうに六尺を超えるかという巨躯で、細身の重村を圧倒した。いかめしい風貌から発せられる野太い声も、重村を震え上がらせるのに十分だった。

「重村部員」

「はっ」

 重村は「己の身もこれでおしまいか」と思いながら身を固くして長官の次の言葉を待った。

「小野中将の娘さんが、日吉の軍令部で働いているそうだな」

「はっ、わたくしの部下であります」

「そうか。まあ、そう固くならんで、そこのソファーに坐りなさい」

 重村は革張りのソファーに腰をおろすと、ほっと息をついた。

「小野中将は、俺と兵学校の同期でな。性格は正反対なんじゃが、なぜか気が合ってな。生前は、蒲田のお屋敷にも、よくお邪魔したものだった」

「小野和子さんが、欧州七課で働いています」

「そうか。あの和子ちゃんも、そんなに大きくなったのか。七人姉妹のたしか三番目だったかな」

「そのとおりであります」

「重村部員、小野和子さんを、よろしく頼みましたぞ」

「はっ、承知いたしました」

 重村は長官室を出たところでついに緊張の糸が切れて気を失いそうになった。よろけたところを、すんでのところで護衛の兵士にだき抱えられたが、重村の顔に血の気が戻るまでにはしばし時間がかかった。

 二日後の十月二日、豊田長官は一式陸攻の特別機でフィリピン方面へ向け羽田を飛び立った。九月に入ってアメリカ軍のフィリピンへの攻撃は激化の一途を辿っていた。日本は南方資源の確保のためにも、マッカーサーのフィリピン奪回作戦をなんとしても阻止する必要があった。

 

         三

 

 小野寛治郎の戦死の報らせが久が原の家に届いたのは、それから半月ほど経ってからのことである。或る夕方、和子が勤めを終えて、日吉から家に戻ってみると、家族全員が和室の卓の周りに集まってしんみりしていた。和子はその場の妙に沈んだ空気を察して、

「どうしたの?みんなそんなに肩を落として」と言うや否や、卓の上にぽつんと置かれた白木の小箱に気がついた。みんな一頻り泣きはらした後らしかった。

「寛治郎義兄さんが、死んじゃった」

 アサエとキヌエが同時に同じ言葉を発した。そうして二人はまた泣き出した。乙女はそんな二人を慰めるように、「もう泣くのは、およし。泣いても寛治郎は戻って来ないんだよ」と声をかけた。

 和子は卓に座って、木箱をそっと開けた。中には紙切れが一枚入っていた。眼を閉じて、手を合わせてから、その紙切れをゆっくり取り出すと、そこには墨で「小野寛治郎大佐、昭和十九年七月八日戦死。マリアナ諸島方面」とだけ書かれてあった。

(義兄さんの、あの優しい笑顔は、もう二度と見られないんだわ)和子はそう思うなり、紙切れを胸にぎゅっと押し当てて慟哭した。皆もつられてまた泣き出した。しばらくして、和子は幸枝のほうへ向き直ると、

「幸枝ちゃん、ほんとうに残念だわ。海軍は、義兄さんを救えなかったのかしら・・・南雲中将は、義兄さんを見捨てちゃったのかしら・・・」と言葉を詰まらせた。

幸枝は押し黙ったまま、ずっと畳に眼を落としていた。そこには、葉子、征子、治夫の姿は無かった。寛治郎の三人の子供たちは、まだ父親の死を知らされていないようだった。寛治郎がサイパンで玉砕したこともまた、家族の誰も与り知らぬことであった。ちょうどそのとき、沈みかけた夕陽が、一瞬和室の奥まで差し込んで、卓の上の木箱を朱に染めた。

 

翌朝、和子は義兄の戦死を重村部員に報らせた。重村の友人である義兄の紹介で軍令部の理事生となった和子には、そうするべき義務があるように思われた。彼は「そうでしたか」と言ったぎり黙ってしまったが、和子はとうに彼が義兄の戦死を知っていたような気がした。彼の表情にあらわれた静かな悲しみには、和子にそう思わせる何かがあった。

欧州七課には和子の他に数人の女性理事生が働いていた。彼女たちはみな東京女子大の出身者で、いわば一種の学閥のようなものを形成していた。大野靖子はそのリーダー的な存在で、たまに他の大学出身者が入って来たりすると、たとえどんなに優秀な女性であっても自然とはじかれてしまうようなシステムが出来上がっていた。そんな中にあって、女学校しか出ていない和子が居心地よく働けたのも、大野靖子のお陰と言ってもよかった。事実、和子は彼女たちに比べれば、実用英語しか出来なかったし、ろくに英文タイプも打てないような状態であった。

重村部員は和子の軍令部で働くようになった経緯を課内では一切口にしなかったが、大野は女性特有の嗅覚で和子の特別な背景を敏感に察知していたのかも知れなかった。そんな和子に対する他の女性たちからの風当たりを、ぴしゃりと押さえてくれていたのである。 

サイパン島のアスリート飛行場から飛び立ったアメリカの戦略爆撃機B29が、はじめて東京のはるか上空を掠め飛んだのは、十一月一日のことである。その日、日吉の欧州七課の属員室では、武井老人と長島怪人が、座ったまま椅子を引いて、頭を突き合わせて、何やらひそひそ話をしていた。

「豊田長官は、またしてもレイテ沖で、こてんぱんにやられましたな」

 武井はそう言うと、禿げ上がった頭ををつるんと撫ぜた。

「海軍も、主力戦艦をほとんど失って、身動きが取れなくなってしまいましたよ」

 と長島怪人も今後を憂えた。長島はさらに続けて言った。

「武井さん、豊田長官の形相も、とみに険しくなってきましたぞ」

「おい、長島。実際に自分の眼で、豊田長官の顔を見たんか?」

「いや、実際に見たわけではないが」

 武井は、すこしむっとして顔を上げた。

「想像でものを言っちゃいかんぞ、長島」

 そばで二人のやり取りを聞いていた和子が思わずぷっと吹き出した。

「ほらみろ、長島。小野さんに笑われてしまったではないか」

 長島は和子に向かって、

「小野さん、われわれロートル組は、赤紙の来るのが、ただただ怖いだけなんですよ」

 と言って、顔をしかめた。事実、属員だった同室の大口もつい最近兵隊にとられて、フィリピンに向かう途中、アメリカの魚雷が乗っていた輸送船に命中して戦死していた。欧州七課で次に召集令状がくるのは、順番から言っても、武井老人と長島怪人に違いなかった。属員室には、前にも増して悲壮感が漂っていた。

 そこへ、ドイツ語翻訳担当の民間人、古見日嘉がはいってきた。

「小野さん、またいいレコードが手に入りましたよ」

 と言って、古見は和子にレコードを差し出した。

「まあ、モーツァルトね!」

「そうです。ピアノ協奏曲ニ長調『戴冠式』ですよ」

 和子が古見からクラシックのレコードを貰うのは、これが初めてのことではなかった。久が原の家の応接間の棚には、すでに二十枚以上のレコードが大事に並べられていた。その半分以上は古見からのプレゼントである。和子は毎夜、戦争などはそっちのけでレコードに針を落としては、「古見さんのお陰で、音楽に目覚めることが出来たんだわ」と想うのだった。和子はまた、まだ子供のころ、「ピアノを習うんなら、ドイツから軍艦ですぐにでも運んで来てやるぞ」と、優しく言ってくれた父親の言葉をときどき憶いだしては、「もしもあの時、ピアノを習っていたら・・・」と、ちょっぴり悔しい想いもするのであった。

 そんな和子にも欧州七課の中に密かに心を寄せる男性がいた。名前を大野雄二郎という。彼は二年ほど前、日本のはるか南方のガダルカナル島から、命からがら撤退してきた復員組の海軍主計中尉である。

或る時、和子は、ひと気の無くなった属員室で、大野から、

「へび、かえる、とかげ。食べられるものは、何でも食べました」

と打ち明けられた。和子はひどく愕いたが、何とも返事のしようがなかった。戦地で胸を悪くした雄二朗は、一足先に激戦の地ガダルカナル島を離脱することが出来たが、美しい珊瑚礁に囲まれた島は、すでに一切の兵站を絶たれて、密林は飢餓地獄と化していた。

「自分は死にたいと、何度も思ったが、細胞がどうしてもそれを許さなかった・・・」

 悠然とパイプを咥え、お洒落な黒ぶちの眼鏡をかけて、いつも涼しげな顔で仕事をしている雄二朗からは、想像だに出来ない話が次々と語られた。和子はそれを聞いていて、我がことのように、心を痛める自分を発見していた。

(これが、初恋というものかしら?)

 その方面に晩稲(おくて)の和子は、本の中でしか初恋というものを知らなかったが、雄二郎の体験した生き地獄を想うたび、なにか錐で胸を衝かれるような痛みを感じた。

「大野さんは、いずれ弁護士になるんでしょう?」

「ええ、目下猛勉強中です」

「うまくいくと、いいですわね」

 和子が、欧州七課の中にあって、いつしかヨーロッパ文学や西洋音楽と言った世界とは全く無縁の雄二朗に心惹かれていったのは、自分でもよく判らない、なにか不可思議な力が働いているとしか思えなかった。和子は、いまこうして過ごしている時間を、とりわけ貴重で美しい時間と感じていた。和子はまた、欧州七課で過ごしてきた一時期を、一生の宝物として、死ぬまで胸の奥深くにしまっておこうと心に決めていた。しかし、そのいっぽうで、このような幸せがいつまでも続くはずはないと漠然と考えてもいた。

 

         四

 

 十月にフィリピンのレイテ島へ上陸したマッカーサー率いるアメリカ軍は、十二月にはミンドロ島、翌一月にはルソン島へと、着々と日本本土へ向けて歩を進めつつあった。いっぽう、B29による日本全土への爆撃は、終戦の年、とくに昭和二十年の三月に日本軍が硫黄島を失ってからは、熾烈を極めるものとなった。とりわけ都市部では連日のように空襲警報が鳴り響き、そのあとにつづく耳をつんざくほどの爆裂音に、人々は心の底から恐れおののいた。こうして世の中は急激に暗さを増していったのである。

 四月にはいると、連日連夜続いていたB29の夜間焼夷弾攻撃も、ほっと一息ついた格好だった。アメリカ軍の沖縄上陸作戦のためにB29の本土攻撃は小休止かと思われた。

 そんな或る朝、和子はB29の時ならぬ爆音ではっと目を覚ました。蒲団から跳ね起きて、窓から南の空を見ると、B29が大編隊を組んで押し寄せて来る。無数の銀翼が朝日を浴びてきらきらと輝いている。

「まあ、綺麗!」

 和子は思わずそう叫んだ。それは人間がつくり出したなんとも人工的な美しさであった。と、見る間に上空がB29の銀色の機体で埋め尽くされた。ざっと見ても五百機以上はあったろうか。やがて、あちこちでひゅるひゅると爆弾の投下音がしたと思うと、どかん、どかんと地響きとともに爆弾の炸裂音が続いた。遅れて鳴りだした空襲警報も、合間を縫って聞こえてくる。

 空襲も初めのうちは警報のなる度に庭の片隅に小さく掘った防空壕に家族と一緒に身を隠していた和子も、そのうちあまりに何回も鳴るので、終いには、「えいっ、どうとでもなれ」と開き直って、ひとりだけ家に残るようになってしまった。

(それにしても、人間はなんて変な生きものなのかしら。モーツァルトのような美しい音楽を生み出したかと思うと、そのいっぽうで、B29のような兵器もつくり出すんだわ)

和子はまた、そのどちらも同じように美しいと感動する自分にも、人間の不思議さを感じずにはいられなかった。

五月にはいると、B29の攻撃は再び激しさを増した。沖縄作戦にとられていたB29が一斉に本土空襲を再開したのである。久が原周辺も危なくなってきたので、小野家は懇意にしている蒲田の木村病院の邸宅へ一時的に身を寄せた。コンクリートづくりの木村の家は、爆弾さえじかに落ちて来なければ、比較的安全な高台にあった。

五月二十四日未明、B29の大編隊が東京南東部を襲った。その日、蒲田大森地区は忽ち火の海となり、久が原の家もあっけなく焼け落ちてしまった。

「お母様、久が原の家が焼けてしまいました。たったいま、しらせがはいりました」

 和子がそう乙女に告げると、乙女はがっくりと肩を落としたまま動けなくなってしまった。乙女はあれほど精魂傾けて造りあげた久が原の家が灰燼に帰したと思うと、怖ろしいまでの無力感に襲われた。

「お母様、しっかりするのよ。疎開先の三島の家も決まったことだし」

 小野家の家財道具だけは、かろうじて末の妹のキヌエの采配で、家が焼け落ちる寸前に、箱根の小塚山にある知り合いの別荘に移してあった。三島ではすでに二軒の家を借りる手はずが整っていた。

(大事にしていた良寛全集も、クラシックのレコードも、お気に入りのセーターも、何もかも、すべて灰になってしまったんだわ)

 この時を境に和子は物への執着を一切かなぐり捨てた。物をいくら大事にしていても、いつかは必ず灰になってしまうのだ。モンペに防空頭巾をかぶって、久が原の家の焼け跡まで辿り着いた和子は、燻り続ける半焼けの柱を見ながら、呆然と立ち尽くしていた。

 

 

         五

 

 六月にはいってまもなく一家は三島へ疎開した。三島駅前一帯を芝町といった。そこに二軒の家を借りて住むことになった。

家から歩いてすぐの所に広大な緑園がひろがっていて、園内の菰池(こもいけ)からは富士山からの地下水が滾々と湧き出ていた。静かな園内は和子の疲弊した心をいっとき和ませた。そこには戦時下にあるとはとても思えないほど美しい自然が溢れていた。菰池からは清らかな水が川となって流れ出していた。

 

  富士の白雪

    朝日に溶けて

   三島女郎衆の

    化粧水(けわいみず)

 

 和子は覚えたての歌を口ずさんでみた。川の水を掬ってみると、水は綺麗に透きとおって、指のあいだから零れ落ちた。「この水で、ほんとにお化粧ができるのかしら。お化粧なんて、ここ何年もしていないから、大丈夫かしら」と、和子はすこし心配になった。

 六月の中頃に和子は見合い結婚をすることになった。相手は札幌の上田病院の長男で、北大の三上外科に勤務のかたわら、室蘭で軍医をしている上田直紀(なおのり)という男だった。縁談は蒲田の木村病院の院長の肝煎りで、「自分たちは、今後ますます木村さんの世話になるにちがいない」と、和子はあまり深く考えもせずに話を決めてしまったのであった。

三島の官弊(かんぺい)大社の神殿の前で手を合わせただけの結婚式を済ませたあと、二人はすぐに室蘭へ旅立った。和子はこの時すでに二十六になっていた。

 

室蘭での生活は惨憺たるものであった。酒びたりの夫は、すぐにその本性をあらわにした。酒がはいると、決まって乱暴になった。酒がはいると、いつも上機嫌になった父親とはまるで正反対だった。そうなると、すべてが嫌になってくる。直紀の色白で美男なところまで鼻についてきた。

「あなた、軍医の身でありながら、そんなにお酒ばっかり呑んで・・・」

 和子が堪りかねて言うと、

「うるさいっ。おまえに何がわかる!」

 と、直紀は激昂した。

 和子には、彼の鬱屈した感情を癒してあげるだけの余裕はなかった。そしてまた、彼の背後にあるだろう屈託を察してあげる力も持ち合わせていなかったのである。

 和子はついに「折あらば、逃げたい」とばかり考えるようになった。そんな毎日のなかで、唯一和子の救いとなったのは、たまに気晴らしに出かける登別温泉だった。室蘭から二つ目の登別駅でバスに乗り換えると、ほどなくして登別温泉に着く。

温泉街の一番奥にある硫黄ガスのぶくぶく出ている地獄谷を、遊歩道の欄干に凭れかかって見つめていると、妙に気が休まるのだった。温泉街で知り合った旅館の娘たちが、「おばちゃん、おばちゃん」と言って、室蘭の家まで遊びに来ることもしばしばであった。

七月にはいると室蘭が艦砲射撃を受けるというニュースが流れた。室蘭には日本製鋼所と日本製鉄所の二つの大きい軍需工場があった。

(千載一遇のチャンスだわ)

 和子は、この艦砲射撃のニュースを、室蘭を逃げ出す格好の口実と捉えた。ニュースがあったその翌々日には、もう札幌行の汽車に乗っていたのである。室蘭の家には、卓袱台の上へ一通の手紙を残しておいた。手紙には、「艦砲射撃が怖いので、三島に帰ります」とだけ書いておいた。もちろん二度と室蘭へ戻るつもりはなかった。

もんぺに防空頭巾、それに小雑嚢を背負っただけの格好で札幌の駅に降り立った和子の顔には悲愴な覚悟がにじんでいた。

(夫の実家の上田病院には、自分の大事な荷物がまだ防空壕の中にしまってある。あの荷物だけは、何としても三島へ送らなければ・・・)

 必死の思いで上田病院の裏庭まで辿りつくと、和子は誰にも気づかれないように防空壕の蓋をそっと開けた。そして、そばに置いてあった大八車に、匿しておいた自分の荷物を二つ三つと載せていった。それから歯を食いしばって大八車を駅まで引っぱって行った。

すでに日の沈みかけた札幌の街には強い風が吹き荒れていた。道路の砂塵は地吹雪のように舞い上がって、和子の顔に激しくあたった。

 

自分の乗っている汽車がどうも違う方向へ走っているようだと感じたのは、汽車が秋田駅を過ぎて、ようやく目を覚ました頃だった。青森駅で、行く先もろくに確かめずにホームに停まっていた汽車に乗り込んだ和子は、疲れ切った躰を座席へ埋めると同時に、深い深い眠りに落ちた。五時間ほど眠りつづけたのだろうか。外はまだ暗い。和子は進行方向の左に見えるはずの海が、なぜか右に見えることに気がついた。

「あの、この汽車は上野行ですか?」

和子は向かいの席に坐っている復員服姿の男に訊いた。

「えええ、新潟行だす」

「あらっ、乗り間違えたんだわ!」

 目の前が急に暗くなった。新潟で上越線に乗り換えなくてはならない。とんだ遠回りになる。その時和子のお腹がぐうと鳴った。

通路に立って話を聞いていた人たちから軽い笑い声が聞こえて来た。

「腹がへったんだべ。これ、け」

と言って、男は大きいおにぎりを一つ鞄から取り出すと、和子の目の前へすっと差し出した。

「おじさん、ありがとう!ずっと飲まず食わずだったものですから」

 和子は人の親切をこの時ほど有難く、身にしみて感じたことはなかった。おにぎりを夢中で食べ終わると、和子はまた、いつか眠ってしまった。

 

         六

 

 ようやく辿りついた三島もすでに空襲の危険に晒されていた。隣町の沼津に都市攻撃の予告ビラが撒かれたのは、和子が三島に着くほんのニ、三日前のことである。三島は沼津の目と鼻の先にあって、三島も危ないという噂が飛び交った。そうして一家は山口の父の実家へ再疎開した。

 和子は終戦後すぐにエンコ・エリーザ・ヴァカーリに手紙を出した。戦争中に結婚したこと、室蘭から逃げてきたこと、いま山口にいること、そしてまた東京で働きたいことをありのままに認めた。

 しばらくして返事が来た。

「小野さん、欧米流にフランクリーに言えば、OKよ。すぐにでも、いらっしゃい。ちょうど助手を探してたところなのよ」という書き出しの、長い手紙が届いた。手紙には次のようなことが書かれてあった。

戦争が始まるとすぐにヴァカーリ夫妻は他の外国人と同様に軽井沢に軟禁されたこと。そして終戦まで軽井沢を離れることを許されなかったこと。空襲で龍土町の英文法通論発行所は焼けてしまったこと。戦後軟禁を解かれたが、行き場がないので、いまは元駐イタリー大使の山形さんの白金のお宅で間借りして仕事を再開していること。

手紙に目を通すと、和子はその翌々日にはすでに東京行の切符を手にしていた。岩徳線の周防高森から岩国駅で山陽線に乗り換えるときには、乗車口でおしりを押してもらって、ようやく車上の人となれた。見回すと周りに女は一人もいない。薄汚れた車内は復員兵で溢れかえり、彼らの汗と熱気で噎せ返るようだった。

(もう、お嬢様では生きていけない!)

 和子はこう心の中で叫んだ。この日を境に和子は自分を白紙にした。自分をまっさらにした。過去をすべてかなぐり捨てたのである。

 山陽線は広島に原爆が投下されて間もなく部分開通したが、和子の乗った列車は山陽線が全面開通してから広島を通り過ぎた初めての列車だった。

 広島駅で多くの復員兵が降りた。ホームには原爆で焼け爛れた人たちの姿があった。熱風が開け放った窓から車内に吹き込んでくる。和子は思わず両手で頬を覆った。

(もう、お嬢様では生きていけない!)

 和子は胸の裡で何度も同じフレーズを繰り返していた。

 

     

第三部

 

         一

 

 終戦の年の昭和二十年の秋も深まった或る日、若い男が山口の田舎から和子を訪ねて白金のお屋敷へやって来た。白金辺りは空襲を免れて、お屋敷町は落ち着いた家並みを残していた。家々の緑は秋の陽に映えて美しく輝いていた。 

和子はヴァカーリ夫妻の助手として山形元駐イタリー大使のお屋敷に夏の終わり頃から住み込みで働いていた。

「小野さん、石田さんという男の人がお見えになりましよ」

 元大使の息子、久(ひさし)がヴァカーリ夫妻の仕事場にひょいと顔を出した。

「石田さん、誰かしら?」

 和子はエンコと目を見合わせたが、エンコにも心当たりがないようだった。ヴァカーリは机の上にレモンを置いて、それを時々齧りながら、一心不乱に原稿用紙の升目を埋めている。鷹のような眼は戦前と少しも変わっていないが、軽井沢での軟禁生活を経験したからか、以前よりも気難しい顔をしている。ヴァカーリからは、いつもレモンのいい香りが漂って来る。和子はヴァカーリのことは、「ほんとうに心の狭いひと」と、あまり好きになれなかったが、このレモンの香りだけは別だった。

「久さん、ありがとう。お会いしてみるわ」

「それでは、応接間にお通ししておきましょう」

 と言って、久は和子に軽くウィンクをした。彼は父親がローマ赴任中に生まれたので久

(ひさし)と名付けられた。外国暮らしが長いせいか、バタ臭い仕草も妙に板についていた。 

 男は応接間に案内されると、まずその調度品や家具の豪華さに眼を奪われた。柔らかい革張りのソファーは鈍い光沢を放っていて、薄汚れた旅のズボンで腰かけるのも憚られた。そこへ、和子があらわれた。

「あらあ、石田さんじゃあないの!」

「はい、山口から遊びに来ました」

 石田は眩しそうに和子をながめると、急に安心したのか、どっかとソファーに身を沈めた。

「なんだ、連絡してくれれば、駅まで迎えに行ったのに」

 彼は和子の山口の田舎の臼田部落の村長の息子で、互いによく知った仲だった。和子より二、三歳年下でいかにも純朴な田舎の青年という感じだった。

「おれは、びっくりした。こんな立派な家で、和子さんが働いているとは」

 彼はこれまで山口の田舎から一歩も外へ出たことがなかったが、今回の上京には一世一代の思いが込められていた。

「和子さん、米持ってきたんじゃ。東京じゃ、米が足りなくて困っとるじゃろう。うんと食べんさい」

 石田青年は床に置いた雑嚢から米の袋を取り出すとテーブルの上へどすんと置いた。

「わあ、お米!皆さんきっと大喜びするわ。配給米だけじゃ足りなくて、わたしたち、とっても苦労してるのよ」

「東京じゃ、闇米が手に入らねえと、生きていけねえって」

「そうなの。戦争中のほうがまだよかったくらいよ。ゆっくりしていけるの?」

「おれは、おれは・・・」と、青年は言いかけたが、後の言葉がなかなか出て来なかった。

「石田さん、男はもっとはっきりものを言わなくっちゃだめよ。たしかコーヒーが好きだったわね」和子は笑いながら立ち上がった。

 しばらくして和子はお盆にコーヒーとチョコレートを載せて戻って来た。

「あれえ、これはショコラじゃ」

「そう、ショコラ。山口の田舎でフランス語を教えてあげたんだったわね」

「そうじゃった。あれは、おれにとって夢のような出来事じゃった」

 和子は山口の家の薄暗い玄関の土間を思い浮かべた。木の棒で地面を引っ掻いて、フランス語の文章を綴る。そうして和子が単語を一つ一つゆっくりと発音していくと、青年は彼女のすぐ後に続いて発音する。青年は毎日のようにやって来ては、和子からフランス語を習って帰って行った。

「おれは、まだ憶えているっちゃ。春はル・プランタン、夏はレテ、秋はロトン、冬は・・・」

「リヴェールよ」

 和子はコーヒーを口に当てると、

「石田さん、わたし、まだ仕事が残っているの。ごめんなさいね。ここで待っていてくださる?」

「いやあ、おれはこれで失礼するっちゃ。きょうは、ぶち夢のような一日じゃった。和子さん、ほんとにありがとう」

 石田青年はそう言うと、ゆっくりと腰を上げた。青年の顔には一瞬哀しげな表情がよぎったが、和子はまったくそれに気付かなかった。

 

年が明けて間もなく、エンコが浮かない顔をして、「和子さん、日本はGHQの占領下にあるのよ。いつまでも敵国だったイタリー人の所にいるのは良くないわ。これからはアメリカの時代よ」と切り出した。和子にとってこのエンコの言葉は青天の霹靂だった。どう返事したものか戸惑った。エンコは声を落としてさらに続けた。

「それに、山形さんの長男の久さんが、大学受験を控えて、勉強に専念出来ないらしいの。和子さんのことが気になって」

 最近久は毎日のように和子の部屋に遊びに来るようになっていた。和子は元大使からクレームがあったのでは、どうしようもないと観念した。「分かりました。どこか他へ移ることにします」そうは言っても、和子には行く当てがあろう筈もなかった。

「ごめんなさいね、和子さん。力になれなくて」

エンコはそう言うと、済まなそうな顔をした。戦後の東京のどさくさを、若い女がたった一人で生き抜いて行くことがいかに大変かを、エンコは良く分かっていた。しかしヴァカーリ夫妻もまた、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていたことも事実であった。山形宅を追い出されれば行き場を失うのは和子となんら変わりはなかったのである。

 

        二

 

それから二ヶ月が経った。和子は女学校時代の友人の紹介で、「新橋英文タイプ」で働くことになった。タイプ学校は新橋駅前の広場に面した小さな焼けビルの二階にあった。

和子はそこで英文タイプの教師になった。英文タイプはほとんど打てなかったが、「出来る」と言って雇われた。学校が終わって生徒たちが帰ったあとに、和子はそのまま教室に残って、隠れるようにしてタイプの練習をつづけた。

夜になると、机を六個ほど並べて、俄かベッドをつくった。蒲団がないので背中が痛かったが、和子は雨露をしのげるだけでも幸せだと、寝場所を提供してくれた学校に感謝した。学校にしてみれば、新たに宿直の守衛を一人雇ったのと同じで、結果として、十数台の高価なレミントン社製タイプライターが一晩中泥棒の手から守られることになったのである。

或る日、職員の古森(こもり)が、夜の教室に入ってきた。そして、

「小野さん、いいものを見つけてきましたよ」と言って、中古のソファーベッドを運び込んできた。

「これで、背中も痛くならんでしょう」

 両手でソファーベッドの感触を確かめると、和子の顔はぱっと輝いた。

「古森さん、最高よ!」

「寝る時は、こうしてドアを塞ぐといいでしょう」

 彼はソファーベッドを引きずって、入り口のドアにバリケードをつくって見せた。ドアは薄っぺらなつくりで、いくら鍵をかけたところで、かんたんに蹴破られそうな代物だった。ソファーベッドは、タイプ学校の責任者の山川が古森に命じて調達させたものだった。和子は、ここでも人々の情けと善意に囲まれていた。

 冬の寒さもようやく和らいできた或る日のことである。和子は新橋の外食券食堂で夕食を済ませてから、いつものようにしてソファーベッドに寝ようとしていた。

その時、ドアの向こうになにか人の気配がした。平生静まりかえった夜の焼けビルにする音と言えば、どぶねずみの駈け回る音くらいのものであった。しかしこの時は、人の衣擦れのような音がすぐそばのドアから伝わってきた。

 おそるおそるドアの鍵穴に眼を当ててみると、鍵穴の向こうに黒目がおどおどと動いている。和子はびっくりしたが、鍵穴に眼を当てたまま、

「そこにいるのは、だれ!」

 と大きな叫び声を上げた。向こう側の黒目もびっくりして、すぐに隠れてしまった。そしてそのあと、慌てて廊下を逃げていく足音が夜中の焼けビル全体に大きく響いた。 

新橋駅前の闇市はあらゆる種類の人でごった返していた。そこではお金さえあれば欲しいものは何でも手に入った。戦争が終わって爆弾の音が聞こえなくなると、今度は生活のための凄絶な戦いが始まったのである。

烏森口に発した新橋の闇市は、日を追う毎にその範囲を拡げていった。焼け野原と化した街には、浮浪者が溢れ、傷痍軍人たちも、あちらこちらにその身を晒していた。

戦争で親を亡くした戦災孤児たちの多くは靴磨きをして僅かな日銭を稼いでいた。顔は黒く汚れ、薄汚れた襤褸を身に纏っていたが、和子にはそんな彼らが、何かとても新鮮で逞しい生き物のように感ぜられた。とにかく皆生きることに必死だったのである。この街は、何とかして生活を立て直して、そうして少しでも這い上がろうとする人たちで一杯だった。

和子は、タイプ学校の仕事に慣れてくると、外食券食堂で主食のごはんだけを手に入れて、闇市で買ってきた食材を使って、タイプ学校の教室の片隅で簡単な自炊を始めるようになっていた。

 

        三

 

新橋英文タイプでの一年はあっという間に過ぎ去った。

昭和二十二年のすがすがしい初夏の朝、和子はタイプ学校の山川の弟と一緒に新橋から有楽町へ向かって歩いていた。

「小野さん、プレスクラブまでは歩いて三十分とかかりませんよ」

弟は兄と違っていかにも商売人といった風情で、「稲葉商会」というタイプライターの輸入販売会社を経営していた。彼は兄のタイプ学校を初めとして、あちこちの会社やタイプ学校などに、外国製タイプライターを納入していた。

この日は、得意先のプレスクラブに用事があったので、和子を案内してあげようと思って連れ出したのである。

途中、靴磨きの少年たちが、二人の通り過ぎるたびに声をかけた。

「お二人さんで、一人分おまけだよ」

 道行く大人たちにあまり元気がないのとは対照的に、少年たちの声は元気で明るかった。

 プレスクラブは有楽町駅前の大きなビルの中にあった。それは新橋あたりの焼けビルとは比べものにならないほど立派な建物だった。山川のあとについて、回転扉を通り抜けると、広い吹き抜けのロビーに螺旋階段がつながっていた。

二階へ上がると、ガラスで仕切られた部屋がたくさんあって、世界各国の東京特派員たちが皆タイプライターに向かって仕事をしているのが見えた。

 山川はなかでも一際大きい仕切りの部屋の前で立ち止まった。右の中指で軽くガラスをノックすると、タイプの音が止んで、大きな図体の西洋人が立ち上がってドアを開けた。

「ハーイ、山川サン。ヨク来テクレマシタ」

「ホーレイさん、こちらは小野和子さんといって、新橋英文タイプで先生をしています」

「ソウデスカ。オノサン、ハジメマシテ。ワタシハ、フランク・ホーレイデス。ヨロシク」

 和子はまず彼の流暢な日本語におどろいた。そして、握手をするときに頭の上まで手を上げねばならず、そのかつて見たこともない躰の大きさに二度おどろいた。

「小野さん、ホーレイさんはロンドン・タイムズの東京特派員で、奥さんは日本人なんですよ」と山川が言った。後になって和子は、彼がミスター・エレファントとあだ名されていることを知った。

 それから和子は時々プレスクラブへ遊びに行くようになった。

「日本人ナラ、西鶴クライ読マナイトネ」

 ある時彼は彼女にこう言った。西鶴なぞ読んだこともない和子は眼を丸くした。彼は日本古典文学のみならず広く日本の文化にも深い興味を抱いていた。

その年の夏、和子が山口に病気の母親を見舞いに行くことになった時、彼に、「小野サン、山口県ト広島県トノ県境ニ、大竹トイウ所ガアリマス。ゼヒ訪ネテミテクダサイ」と頼まれた。彼は日本の和紙の研究もしていて、大竹は以前は「手すき和紙」の産地として大いに栄えた所だと教えてくれた。そして今はアイスキャンデー屋になっている或る和紙職人の家を突き止めて、彼女にそこの住所を託した。和子はよくぞここまで調べたものだとびっくりしたが、さすがに新聞記者だけのことはあると妙に関心したりもした。そして病気の母親を見舞った帰りに、大竹に寄ってみようと考えた。

山口の田舎へ帰るのは終戦直後の夏に上京して以来のことだった。すぐ下の妹の笑子はすでに福岡で、末の双子の妹のアサエ、キヌエは東京で、それぞれの戦後人生を歩み出していた。実家に残っていたのは、病気の母乙女と長女の幸枝家族だけだった。

 庭先で迎えてくれた幸枝に、和子は、

「お母様の具合はどうなの?」

 と訊いた。

「あまり良くないのよ。肋膜炎が悪化して、菌が脳のほうへ回ってしまったらしいの」

 幸枝は暗い表情で答えた。

「それは大変だわ」

 和子も顔を曇らせた。ちょうど俄雨が通り過ぎたばかりで、庭木の緑が水に濡れて生き生きとして見えた。やがて入道雲の隙間からまた夏の陽が射してきた。

 乙女は南向きの和室の縁側の籐椅子に腰をかけていた。和子に気付くと、

「あら、かいちゃん。いつ帰ったの?」

 と涼しげに言った。

「お母様、たったいま戻りました」

 和子は蒲団の枕元に無造作に積まれてある石ころに眼をやった。幸枝は、

「背広を着た人が訪ねてくると、お母様はあの庭の石ころを、その人の背広のポケットにひとつひとつ入れていくの。ポケットが一杯になるまで。かいちゃん、変でしょ?」と言った。

 乙女は田舎にあっても海軍中将夫人の矜持をなかなか捨てきれなかった。疎開以来、悶々と田舎暮らしに耐えてきた訳であった。そんな乙女に、気の強い幸枝は事ある毎に辛く当たった。そんな風にして母子相克は愈々深まるばかりであった。

ところが乙女の病気が進むにつれ、幸枝は急に乙女に優しく接するようになった。和子は乙女の病気は心配だったが、幸枝の乙女に対する、はじめてと言ってもいいくらいの優しい心遣いを見て深く安堵した。

 

        四

 

和子は帰りに山陽線の大竹駅で途中下車することにした。大竹は岩国のすぐ次の駅である。終戦直後は復員兵で一杯だった山陽線の車内も、いまは嘘のように空いている。黒髪を風に飛ばせながら、車窓にひろがる風景をぼんやりとながめている時、ふと「もう戦争は終わって、平和になったんだ」という実感がこみ上げてきた。

思えばこれまでの列車の旅は、生きるか死ぬかの連続だった。室蘭からの逃避行や、三島から山口への再疎開の時も、すぐ前の列車に爆弾が落ちたり、かと思うと、すぐ後の列車が機銃掃射を受けたりといった具合で、片時も生きた心地はしなかった。幾多のピンチをかい潜って、今、列車の旅を楽しむことの出来る自分を思うと、和子にはそれが何か奇跡的なことに感じられてならなかった。

大竹駅を降りると、彼女は住所を頼りに見知らぬ町を歩いていった。白く光った路が続いている。やがて、目の前に美しい川が現れた。和紙工場の多くは、この水の綺麗な川に面してあるらしかった。しばらく行くと、アイスキャンデー屋の幟が見えてきた。電柱の住所を確かめると、和子は、「多分、此処だわ」と呟いた。幟の横の木製のベンチは陽が当たって暑そうだった。炎天下をずっと歩いて来た彼女は、喉がすごく渇いていた。

「こんにちは、アイスキャンデーください」

 外から声をかけると、奥のほうから一人の老人が出てきた。そして、

「お嬢さん、外は暑いじゃろう。中で食べなされ」と言って、アイスボックスから一本、アイスキャンデーを取り出した。

見ると店の半分くらいを仕切って、和紙製品が丁寧に展示されてある。

「こちらは、和紙職人の今井さんのお宅でしょうか?」

「ん、そうじゃが」

「わたし、小野といいますが、東京のフランク・ホーレイというイギリス人に頼まれて、伺ったんですけど」

「ああ、あなたじゃったか。ホーレイさんから手紙が来とった。可愛い娘っ子が訪ねてくると書いてあった。まあ上がりなされ」

 老人は目を細めて和子を見た。

「ここらの山には、和紙の原料になる楮(こうぞ)がぎょうさんあってのう。それに、和紙を漉く時に使う水が、小瀬川から引けるんで、川筋に沿って以前は何百軒という和紙工場があったんじゃ。しかし、近頃では、洋紙に押されて、すっかり廃れてしまったんじゃ」

 老人は寂しそうに言うと、長年の手漉き作業で荒れ切った手を何度もさすった。そして、「それで、わしも和紙づくりを止めてしまって、こうしてアイスキャンデー屋になった訳じゃ。時代には、よう勝てんでのう」と苦笑した。

 老人は一人暮らしが長いらしく、久しぶりに話相手が現れたことを喜んで、なんでもかんでも実によく喋った。和子が「一晩、泊まっていきなされ」という懇請を振り切って、東へ行く列車へ飛び乗ったのは、夏の日もようやく傾いた頃であった。

 

暑かった夏も過ぎて、ようやく秋風が立った頃、和子は「新橋英文タイプ」の山川から、衆議院の事務局で英文タイピストを募集しているという話を聞かされた。山川の知人の外務省の末松から直接頼まれた話だという。衆議院の渉外課では、国会審議でのやりとりをマッカーサーに逐一報告するために英文タイピストが常に不足しているということだった。和子は山川の薦めもあることだし、「もし雇ってくれるのなら、喜んで衆議院で働きたい」と、すぐに返事をした。

GHQの占領下で五月に新しい日本国憲法が施行されたものの、GHQの求める民主的な国家をつくるためには、政府も国会もまだまだ模索を続ける必要があった。GHQの直接の窓口だった衆議院渉外課の課長は、外務省出身の島静一であった。

「小野さん、あなたの履歴に関しては山川君からよく聞いています。国会の審議は深夜に及ぶこともあります。その後に翻訳者が翻訳して、最後に私がチェックをして、それからタイプしてもらう訳です。速さと正確さが要求されます。小野さん、どうですか、出来ますか?」

 島課長は和子の顔をじっと見据えたまま、黒ぶちの眼がねの奥の眼をきらりと光らせた。

「今は出来なくても、必ず、出来るように努力します!」

 和子は正直に答えた。タイプの正確さはまだしも、速さとなると全く自信がなかったのである。

「では、明日からということで」

 島課長は和子の英文タイピストとしての資質を一瞬のうちに見抜いたのかも知れなかった。が、これまで何人面接しても、使い物になる英文タイピストは結局二、三人という状況で、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるという気持ちもないわけではなかった。

 翌日の朝早く、和子は荷物をまとめて新橋タイプから永田町の国会議事堂内へ引っ越した。新橋にいる間に和子の荷物も少しは増えていたので、また得意の大八車の出番が来た。こうして、和子の衆議院渉外課での昼夜兼行の勤務が始まったのである。

 午後になって一斉にタイプの音が鳴り出すと、渉外課の空気は一段と引き締まる。和子はその一瞬が大好きだった。彼女も大勢の女性タイピストたちに混じって、おもむろにタイプを打ち始める。愛機のアンダーウッド社製タイプライターが、カタカタと華奢な音を立てる。

同僚のタイピストたちの多くは新聞社の出身だった。彼女たちの猛烈なスピードで打ち出す迫力あるタイプの音が室内に響き渡ると、そこはもう戦場のような雰囲気に包まれた。そんな女性タイピストたちも、終電前には大方家へ帰ってしまう。そうなると和子の出番がやってくる。ここでも泊まり込み作戦は功を奏したのである。

夜がようやく明けて東の空が白々としてくる頃にGHQの差し向けたジープに乗ってお堀端のGHQ本部まで分厚い英文報告書を届けるのはいつも島課長と和子の役目であった。風を切って走る夜明けの米軍ジープに乗る自分の姿に、和子はいつもアメリカ映画のワンシーンを見る思いがした。

 

         五

 

腰の軍刀に縋り付き

連れて行きゃんせ満州へ

連れて行くのは安けれど

女は乗せない輸送船、やれ

  ずんどこずんどこずんどこどん

 

 島課長はエリート外交官だったが、妙に庶民的な一面も持っていて、よく仕事の合間にこんな唄をうたっていた。和子も何度も聞いているうちに自然と覚えてしまった。彼の唄が始まると、タイピストたちも気を抜いて次々に休憩を取り始める。そんな時和子は、兵士が自分の銃の手入れに余念がないように、愛用のアンダーウッドの手入れを始めるのだった。Oやmの活字にはごみが溜まりやすく、すぐに印字が汚くなる。よく言えば綺麗好き、わるく言えばきせんやみな性格は、父弥一譲りのものであったのかも知れない。

 いずれにしても和子の打ったタイプ文書は美しいと定評があった。Oやmが綺麗に印字されているか、左右の余白のバランスはきちんと取れているかなどを確認してから、最後にk・Onoとタイピスト・イニシャルを打ち込む時、和子は無上の喜びを感じるのであった。  

 翻訳者たちの、蛇ののた打ち回ったような英語のハンドライティングを読み取るのも和子の特技の一つであった。意味などは殆ど判らなくても、間違っているであろうスペルを、直感で正しいと思われるスペルに直してタイプしてしまう。かつてイタリア人言語学者ヴァカーリを驚かせた和子の英語に対する語感のよさが、ここでも発揮されたのである。島課長もそこの所はちゃんと見ていて、マッカーサーが直接目を通すかも知れないような重要な報告書のタイプは、いつの間にか和子に任せるようになっていた。

 渉外課には原正二という名物男がいた。衆議院の事務局が戦後すぐ新聞広告で求人した所謂「新聞入局組」の一人である。うすぺった冷飯草履(ひやめしぞうり)を履いて、復員服のままで国会議事堂の赤絨毯の上を歩く彼の姿に、上のほうの人から、「あれ、なんとか、ならないか」と眉を顰められた青年である。

 原は国会の委員会の傍聴席で何時間でも立ったまま聞き取りを続けて、メモを取りながら、その場で委員会の概略をまとめ上げてしまうという特殊な才能を持っていた。和子は翻訳者たちから、「原さんの記事はありませんか。原さんの記事を翻訳したい」と何度も聞かされていた。

(そんなに優秀なのに、何故いつもあんな貧相な格好でいるのかしら)

平生外見で人を判断しない彼女も、彼の冷飯草履と復員服には、さすがにびっくりしたのである。

原は、ひと目見た時から、和子と一緒になりたいと思った。彼女の優しい面立ちもさることながら、何よりもその心映えの良さに惚れ込んだのである。何かというと小馬鹿にされがちな彼にも、彼女は心から優しい言葉をかけてくれた。二歳年上の姉さん女房になってくれたらと、願わない日はなかった。しかし和子を取り巻く男たちには到底敵わないというのが彼の実感であった。和子の交友関係は傍目から見ると確かに派手に見えた。

 まず和子の日吉時代の恋人だった大野雄二郎が、戦後弁護士となって、再び彼女の前に現れた。そうして伊豆の今井浜に二人だけで旅行に出かけたらしいという噂も聞いた。

 ロンドン・タイムズのフランク・ホーレイは日本人の妻がありながら、和子をよく誘い出しては、プレスクラブで一緒に食事をしているらしかった。つい先日も渉外課で、シンガポールで山下奉文大将にイエスかノーかと無条件降伏を迫られたイギリスのパーシバル将軍と、吉田茂の息子で英文学者の吉田健一とで、プレスクラブの食堂の同じテーブルを囲んだときの写真を見せられた。

 また女学校時代の友人で、英文学者の山宮充の家で和子と一緒に図書目録づくりをした照山悦子も、戦後池田公爵の家へ嫁いで、再び和子の前に現れた。和子は大崎の池田御殿の集いにもよく招かれているということだった。

 新潟の片田舎に生まれ、旧制の富山高校を出ただけの原には、戦争で満州に渡ったことぐらいしか目立った経歴はない。そう思うたんびに、彼は絶望的な気分になるのだった。

「原さん、翻訳者の人たちが、いつもあなたの記事を翻訳したがっているのよ」

 或る時、和子はこう原に言った。

「僕は記事づくりだけは、誰にも負けないつもりです」

 彼は少し胸をはった。

「島課長もほめていたわ。原君の記事は素晴らしいって」

「そうですか」

 彼は一瞬恥ずかしそうな顔をしたが、その時、電撃的に或る考えが閃いた。そうだ、俺は頭で勝負するんだ!帝大に入って、皆を見返してやるんだ。合格すれば和子への最大のセールスポイントにもなる。何でもっと早くこのことに気付かなかったのか、彼は自分でも不思議に思った。

 原はすぐに島課長の了解を得て、受験勉強を始めた。島課長は富山県の出身でもあり原には何かと目をかけていた。帝大の経済学部の入学試験までには、まだ三ヶ月の余裕があった。

衆議院ではもっぱら、「あの冷飯草履が、絶対に受かる訳がない」と噂されていた。和子はそんな心ない陰口を聞けば聞くほど、益々彼のことを応援したくなった。しかし彼女もまた、帝大生になった彼の姿を全くと言っていいほど想像出来なかったのである。そのいっぽうで彼女はいつしか彼に惹かれてゆく自分に気づき始めていた。

昭和二十三年春、原は、大方の予想に反して、旧制帝大最後の経済学部の学生となった。五月祭にあらわれた冷飯草履に復員服の彼の横には、ぱりっとしたドレス姿の和子が寄り添っていた。その年の秋に二人は一緒になった。和子は「平凡だが、自由で、平和な暮らし」を選び取ったのである。

新宿駅から青梅街道を西へ向かって歩いて行くと、二十分くらいで中野坂下に出る。そこから神田川に沿って小さい道を右に折れると、やがて鉄製の小さな橋が見えてくる。橋は神田川にかかっていて、右側が新宿区、左側が中野区になっていた。

その橋の袂に数軒の小さな家が建っている

。そのうちの一軒が和子たちの新しい住まいであった。新宿の柏木に韓国人の地主から十坪余りの土地を譲り受けて、そこに二人でお金を出し合って家を建てたのである。

家の周りには終戦後三年も経つというのに未だ焼け野原がひろがっていた。家は台風が来ると屋根が吹き飛ばされて家中が水浸しになるような安普請だったが、和子はそれでも十分に満足していた。何しろ事務所暮らしが長かったので、畳の上に寝られるだけでも幸せだったのである。

夜になって、神田川にかかる橋の上から夜空を仰ぎ見ると、満天の星が輝いていた。この時すでに和子のお腹のなかには新しい命が宿っていた。新しい家族、新しい家、新しい命―和子にはそれらすべてが希望に向かってゆっくりと動き始めたように思われた。

                         

(完)


トップページに戻る  
ご意見ご希望の掲示板