悔いが無いかと尋ねられれば
 迷わず有ると答えるだろう

 迷いが無いかと尋ねられれば
 決して無いとは言えないだろう


 けれど、それでも


 近くに居る事はもう無理だと知っていた
 もうこれ以上彼を傷付けるのは御免だった


 好きで好きで
 大切にしたいと思うのに
 そう出来ない自分が酷く情けなかった










片想い【37】











「これでよし、っ…と」


 キャリーカートのチャックを閉じ、部屋を見渡す。
 本棚以外はそう大して景色が変わっていない事に苦笑する。
 必要な書類や本が入った段ボールは、もう早々に向こうに送ってしまった。
 これには必要最小限の物しか入れられていない為、生活用品は大して減ってはいない。
 必要な物は向こうで揃えれば良い。

 この部屋はこのまま残しておく事にした。
 日本にだってきっとまた来る機会はあるだろう。
 『怪盗キッド』として、世界を巡らなければいけない自分には隠れ家は多いに越した事はない。

 そう……自分の様な『犯罪者』には逃げ場は多い方がいい。


「……こんな事なら、アレ持ってくるんだったな……」


 今はもう、ずっとずっと昔の様に感じるあの日の事を思い出す。
 彼に珈琲を淹れたあのカップ。
 それとペアのあのカップ。
 彼の家に置いてきたあのカップを思い出して、少しだけ胸が痛む。


『快ちゃんさえ良かったら、持って帰ってくれていいのよ?』


 電話で有希子さんにはそう言われたのを、断ったのは他ならぬ快斗だ。
 あの時は――あのカップをまたあの家で使えると何の根拠もなく信じていた。
 今思えば馬鹿みたいだと思う。
 一体何の根拠があって、そんな事を思っていたというのか。


 女々しいと。
 諦めが悪いと。
 分ってはいても、今更ながらにそれを悔やんでしまう。

 だって仕方ない。
 あの瞬間の幸せな証しは、快斗にはあのぐらいしか思いつかない。


「……貰って…くかな……」


 壁に掛っている時計を見れば、もう既に今日の授業は始まっている時間。
 今日の授業は彼は確か単位が相当危うかった筈。
 お仕事柄チェックしている(…)警察の無線でも、今日は事件がある様な事は言っていなかったから、きっと彼は真面目に授業に出ているだろう。
 だとしたら、お留守の間にちょこっと寄って行く事は可能だ。

 きっと気付いたら彼は後で嫌な顔をするだろう。
 でも、彼には白馬が居る。
 そんな事ぐらい直ぐにアイツが忘れさせてくれるだろう。

 だから、最後だから……それぐらいは許して…いや、許して貰わなくてもいいから、勝手に持って行ってしまおうと思った。


















































「……どういう、事、…だ……?」


 口の中が渇いている気がした。

 頭が上手く回らない。
 言葉が上手く出ていかないのを新一は酷くもどかしいと思った。


「……黒羽君に国外の研究機関からお誘いが来ていたのは知っていますか?」
「あ、ああ……」


 確か前に、彼がそんな事を言っていた気がする。
 何かの話のついでにそんな話をした気はするが……。


「でも、アイツは行く気はないって…」
「ええ。本当は行く気はなかったんですよ」
「じゃあ何で…」
「……君の、傍には居られないと、彼が……」
「っ……」


 そう言われても仕方のない事を自分は言った。
 その自覚は新一にもある。
 でも彼は、昨日確かに新一に言った。



『話は…元気になってからでいいから…』



 そう言っていた。
 でも、白馬の話が本当だとしたら……彼は最初から新一の話なんて聞く気はなかったということだろうか?


「工藤君。もしかしたら…彼が発つのは今日かもしれません」
「そんな、急に…」
「彼は昨日僕に言ったんです。『もう二度と新一には会わないから』と。だからもしかして…」
「でも…」


 言いかけて、新一は口を噤んだ。
 昨日の夜快斗と会ったのは、偶然であって本当に偶々だ。

 もし快斗が昨日白馬にそう言ったなら、自分と会う気なんてさらさらなかった筈。
 なのに、自分があんな状態であんな場所に居て。
 彼はきっと……嫌々にでも、新一を家まで運んでくれたのだろう。

 そう思うと、酷く胸が痛む。


「…でも、何ですか?」
「……いや、何でもないんだ……」


 言い淀んだ新一に訝しげに尋ねる白馬の言葉に、新一は緩く首を振った。

 これは態々彼に言う事ではない。
 言えば白馬をこれ以上に傷付けるだけだ。

 自分の弱さが彼に嘘を許した。
 そうして自分は、白馬も、そして彼も傷付けた。

 何もかも自分が弱かった所為。
 何もかも自分が逃げていた所為。



「白馬」



 一つ呼吸をした後、新一は白馬を真っ直ぐ見詰めた。

 もう逃げている訳にはいかない。
 もうこれ以上誰も傷付けて良い筈が無い。

 だから―――今度こそ『真実』を。



「俺は…快斗の事が好きだ。だから、お前がそんなにも俺を想ってくれるとしても、俺はお前に、お前の想いに応える事は出来ない」
「ええ。分っています」



 全てを言った事で、白馬の中で何かが吹っ切れたのか、向けられる視線も声も酷く穏やかだった。
 それが…本来の白馬の姿なのだと、新一は分っていた。

 優しくて。
 穏やかで。
 本当に温かい人。

 それを一瞬でも歪めてしまったのは、紛れもなく自分。
 だから……今度こそ間違えない様に。



「でも…お前の気持ちは本当に嬉しかったし、お前の優しさに、俺は確かに―――救われたんだ」
「工藤君…」
「本当にありがとう。白馬…」



 それは本音だった。
 確かに彼は自分と快斗の仲を裂いたのかもしれない。
 けれど、新一は本当に感謝していた。
 白馬の優しさや温もり、そして――――彼の想いに。

 その想いには応える事は出来ないけれど、それでも彼の想いは純粋に嬉しかった。



「そんな事…言われるなんて思いませんでしたよ…」



 白馬が今まで紡いできたのは紛れもなく『偽り』
 彼を罠に嵌めるための真っ黒な呪いの言葉。

 けれど、それでも。
 新一は白馬に…救われたと言ってくれた。


 それだけで、もうそれだけで――――白馬こそ救われた気がした。



「お前は、ホント……良い『親友』だよ」
「そう言って頂けて光栄です」



 すっと新一が差し出した手を、白馬は握り返した。

 これで終わり。
 『恋愛ごっこ』はこれでお終い。

 そうして、新しく始まるのは『良き親友』としての未来だ。


 これで漸く――――新一は最初のスタートラインに立つ事が出来た。


















































「………」


 見知った彼の家の二階の窓から何の物音も立てずに進入する。
 この姿で忍び込むのは抵抗があったのだが、流石にあの姿ではこんな時間では余りに目立ち過ぎてしまう。
 仕方なく、あくまでも普通の大学生としてこの辺りを窺い、お邪魔させて頂いた。
 こうして『快斗』の姿のまま彼の家に『侵入』したのはこれが初めてだ。

 『怪盗キッド』として、勝手にお邪魔した事はあるが、『黒羽快斗』としては、彼の友人としてこの家に入れて貰っていた。
 それはもう二度と戻る事の無い日常だ。


 足音すら立てずに、一歩一歩確かめる様に歩き、そっとドアを開ける。
 下に行きやすい様に階段から一番近い部屋を選んだ。

 きょろきょろと辺りを窺って、人の気配のない事に安心し、そろそろと音も立てずに階段を下りる。
 そうして、目指すキッチンへの通り道の書斎に差しかかった頃、快斗はビクッと足を止めた。


 常に薄暗くしてある書斎の閉められたドアの下の隙間から、昼間だというのに僅かにだか光が漏れている。
 彼の気配こそしないが、それでも相手は名探偵。
 きっと気配を消すぐらい自分と同じくお手の物。
 だがしかし、快斗が今日ここに来るなんて事、彼は知らない筈だし、ここは彼の家である訳だから、彼が気配を消す理由なんて見当たらない。
 だとすれば、生活能力に関しては些か欠けた所を持つ(…)彼だから、電気を消し忘れて出たのかもしれない。
 けれど、彼が本当にそんな事をするだろうか…?


 ぐるぐると堂々巡りを繰り返す思考に、快斗は可能性を考える。
 もしここに今彼がいるとするのならば、この先に進む事は自殺行為だ。
 快斗はもう二度と新一と会わないと決めた。
 だからここは……アレを諦めてでも、帰る方が得策だろう。

 胸に抱えた落胆を振り切る様に、踵を返し一歩足を進めようとした時、



『おい。待てよ』



 書斎の中から小さな声がした。


 瞬間、ビクッと肩が上がる。
 やはり彼は中に居たのだ。
 そして――――快斗が今ここに居る事を彼は知っている。

 直ぐに走って逃げなくてはいけないと頭は思っているのに、何故だか足がそこにくっ付いてしまったかの様に動けないまま、快斗はその場に固まった。

 胸が苦しい。
 頭が回らない。


「っ………」


 ポーカーフェイスなんて言ってられなかった。
 彼の微かに聞こえた声にすら泣いてしまいそうだった。

 どうする事も出来なくて、快斗は自分を抱き締めるかの様に、両方の肘を自分の掌でぎゅっと包み込んだ。



『……入って、来いよ』
「―――!?」



 言われた言葉に、呼吸が一瞬止まる。

 彼にはもう二度と会わないと決めた。
 彼には幸せになって欲しいと思ったから、離れる事を決めた。


 なのに、なのに―――どうしてこの人はそうやって快斗を揺らがせるのだろう。


 折角決心したのに。
 折角最後だと決めたのに。


 ――――もう、彼を苦しめたくはないと思っているのに……。



『俺に一言の挨拶もないまま行くつもりかよ』



 どうして知っているのだろう。
 どうして…彼は……。

 快斗の戸惑いや躊躇いなどきっとお見通しなのだろう。
 あくまでも冷静に、けれどどこか優しさを含ませた声で彼はそう言う。
 快斗は自分の癖の強い髪をくしゃりと混ぜた。

 ぎゅっと目を瞑る。

 このまま逃げてしまえばいい。
 彼に背を向けて、もう二度と彼を見なければいい。

 それで全ては終わる。
 それでもう―――快斗のこんなみっともない『恋』は終わりを告げる。



 でも、それでも――――。






 ――――彼の甘く、優しい声に打ち勝つ事など、快斗には出来なかった。






























 ガチャっと、さして耳障りではない小さな音を響かせて、快斗はそっとドアを開けた。
 細く細く開けたその隙間から見えるのは、紛れもなく彼の姿。


「昨日は…ありがとな」
「いや…」
「とりあえず、入って来いよ」
「……う、うん………」


 ここまで来てしまったのだ。
 もう、今更じたばたしてもしょうがない。

 そう腹を括って、快斗は漸く普通に扉を開き、書斎へと足を踏み入れた。

 高くそびえ立つ壁一面の本棚。
 そして、軽く香る本特有の香り。
 それが少しだけ、ほんとうに少しだけだけれど心を落ち着かせてくれる気がした。

 後ろ手でパタンと扉を閉めた快斗を、新一は書斎の椅子に座ったままじっと見詰める。
 その瞳は酷く冷静に快斗を観察している気がした。


「…荷造り、したんだな」
「何で…」
「右のズボンの裾に僅かだがガムテープの繊維が付いてる」
「!?」


 言われて慌てて自分のズボンを見れば、本当に下の方に、微かにソレと分る物が付いていた。
 けれど、付いていたとは言っても、普通の人間ならまず気付かないであろう本当に極々小さな欠片であるそれを見付けられるのはきっと彼だからだ。


「流石は工藤探偵。御明察恐れ入ります」


 素のままではきっとこれ以上話す事にすら耐えられないと判断した快斗が、夜の空気を纏って見せれば、新一の綺麗な眉がきゅっと寄せられた。


「おい、快斗」
「工藤探偵。違いますよ。私は……キッドです」
「………」


 張り付けたポーカーフェイスも。
 その上のシニカルな笑みも。
 全部全部夜の空気を纏わせて。

 快斗は、自分自身を押し殺す役割をキッドに押しつけた。


「俺は、『快斗』を呼んだんだ」


 そんなキッドの態度が気に入らなかったのか、新一の表情は益々険しくなったが、キッドはそんな新一の様子に笑みを深めただけだった。


「それでは、私は此処から退散する方が良いのでしょうね」
「……快斗」
「ですから私は……」
「るせーんだよ、このバ快斗!!」


 ガタン、と乱暴な音を立てて立ち上がり、机を避けるのも面倒そうにずかずかと快斗の前に歩み寄って来た新一の行動に、流石のキッドも目を白黒させるばかりで。
 余りに予想外な新一の行動に、一歩も動けずに入れば――――そのままぎゅっと新一に抱きつかれた。


「……快斗」
「っ……!」


 そのまま甘い声で名前を呼ばれて、思わず回してしまいかけた手を無理矢理押し止める。

 駄目だ。
 彼は―――アイツのモノなんだ。
 そして彼は―――自分を『犯罪者』だと、最初から受け入れられないモノだとちゃんと認識している。

 それでも……それでも。
 彼の声が余りにも甘くて優しくて。
 誤解してしまいそうになる。


「ごめんな。快斗」


 ぎゅっと背に回された腕に力が籠められて、零れそうになった涙を何とか押し止める。

 大丈夫。
 自分はちゃんと…やれる。


「一体何の事ですか?」
「快斗」
「私は貴方が何を仰りたいのか…」
「……快斗」


 キッドの胸に埋めていた顔を上げた新一の瞳は、余りにも柔らかい色を湛えていて。
 それに不覚にもポーカーフェイスを崩しかける。

 それでも、なけなしのプライドや、絶望や苦しみを引っ張り出して、どうにか口元の笑みを死守する。
 そうして紡ぐのは――――彼を傷付けるために選ばれた言葉。


「どうしたんですか? ああ、白馬探偵だけでは物足りなくなりましたか?」
「……違う」
「それなら、私よりも西の探偵君の方が貴方には優しくしてくれると思いますが?」
「…………違う」


 口をきゅっと引き絞り、少しだけ怒りの混じった瞳で見詰めてくる新一すら、愛しいと思う。
 でも、彼を抱き締める事はもう出来ないと分っていた。


「でしたら、捜査一課には貴方の信者が沢山居るでしょうから、その中から幾らでも調達できるでしょう?」
「……快斗」


 新一の瞳が、一瞬泣き出しそうに揺らいだ。
 そうして逃げる様にキッドの胸に、新一の顔が埋められる。
 ぎゅっと彼の手に力が籠った。




「……俺は、お前がいいんだ――――快斗」




 新一の言葉を聞きたくないとここまで思ったのは――――きっとこれが最初で最後かもしれなかった。






























to be continue….



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