大丈夫だと思ったんだ

 彼の瞳がとても優しくて
 彼の掌がとても温かくて

 だから油断した
 大丈夫だと思ってしまった

 あの時目を瞑ってしまった事を
 今こんなにも後悔している…










片想い【36】











「ん、っ……」


 ゆるゆると意識が浮上しかける。
 が、浮上させようとした意識が鉛の様に重い。
 瞼を持ち上げようとするが、それも酷く重い。

 確かに寝起きが良い方ではないが、こんなに瞳が開かない事など普段は無い。

 首を左右に少し動かす事で何とか意識を持ち上げようとするが、それでも未だ眠りに落ちようとする意識が酷くもどかしい。
 こし、っと右手の甲で未だ眠い目を擦って、漸く少しだけ意識が浮上する。


「……んっ………」


 手を退けて、重い瞼を無理矢理持ち上げて、ぱしぱしと数度瞬きする。
 ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた天井。


「……れ? な、んで……」


 確か自分は昨日、事件に呼ばれて。
 帰りに苦しくなってそのまま―――。


「快斗っ!!」


 昨日の事を思い出して飛び起きれば、ぼたっと鈍い音を立てて、額からタオルが滑り落ちた。


「あっ……」


 一瞬、全てが自分の都合の良い夢であったのではないかとも思ったが、そのタオルが何よりの証拠だった。
 彼が―――此処に居たのだという唯一の証拠。


「快斗…」


 そのタオルを、ぎゅっと握りしめる。
 彼の姿は無い。
 勿論彼の気配も。

 帰ってしまったのだと理解した瞬間、どうしようもない寂しさが胸に広がる。



『ちゃんと休んで、話は元気になってからでいいから……』



 眠る前、自分に彼はそう言った。
 だから、きっと大丈夫だ。
 そう思って目覚まし時計を見れば、未だ授業の時間までは時間があった。

 ゆっくりとベッドから抜け出して、きょろきょろと辺りを見渡す。
 けれど目指すモノは見つからず、少しだけ落胆する。


(メモの一つぐらい置いてってくれたって…)


 彼を傷付けて。
 その彼にここまでしてもらって。

 それなのに、理不尽な落胆だとは分っていたけれど、それでもそんな風に思ってしまう。
 きっとこのタオルがなければ、彼が此処に居た事など信じられないかもしれない。
 全て自分の都合の良い夢だったのだと思ってしまったかもしれない。
 今は一つでも多くの証拠が欲しかったのだが…それも仕方ない。

 自分は未だ彼にきちんと謝れていない。
 本当の事も何も話せていない。
 そんな自分には、落胆する資格すらない。


「……今日、会えるだろうから……大丈夫か……」


 呟いた言葉が、酷く自信なさ気に響いた気がした。


















































「おはよう」
「おはようございます。工藤君。もう…大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。心配してくれてサンキュ」


 教室に入り、直ぐに白馬の姿を見付けた新一はそう声をかけ隣に座る。
 授業に使う道具を出しながら辺りをそれとなく眺めていれば、


「……黒羽君なら、来ていませんよ」


 新一の思考を違う事無く理解している白馬が、硬い声でそう告げた。


「……別にアイツを探してた訳じゃ…」
「工藤君。僕にそんな嘘が通じるとでも?」
「………」


 流石は同業者。
 新一の思考なんてとっくにお見通しだ。

 居た堪れなくなって、新一は視線を机の上に広げたルーズリーフに落とした。


「工藤君」
「……何だ?」
「………」
「……?」


 隣で、白馬がゆっくりと一回深呼吸をしたのが分った。
 そんな白馬に、新一は首を傾げた。

 こんな風に自分を態々落ち着かせようなんて行動を、常日頃落ち着いて見える白馬がする所なんて、新一は今まで見た事がなかった。



「………君に、言わなければいけない事があるんです」



 じっとこちらを見詰めてくる白馬の視線が、酷く痛々しくて。
 新一は嫌な予感を覚える。
 聞きたくない、と、感情は素直な反応を示した。


「……とりあえず、授業の後で……」
「それでは…間に合わないかもしれません」


 酷く真剣な白馬の瞳から、視線を外す事が出来ない。
 それでも、冷静な自分が頭の淵でこの様子を見ていた。


「……何を言いたいのか分んねえけど……ここじゃ言えない話か?」
「ええ。……来て早々申し訳ありませんが、少し僕に付き合って貰えませんか?」
「……ああ」


 正直この授業の単位が危ないのは分っていた。
 事件にかまけて出席がギリギリなのも。
 でも…白馬の様子から察するに今はそんな事言っていられないだろう。

 机の上に広げた教科書やルーズリーフを鞄の中に乱暴に突っ込んで、近くに居た同じ学科の人間に『事件で呼ばれたから』と尤もとらしい理由を付けてノートと、出来たらでいいからと代返を頼んだ。


「工藤君」
「ああ、今行く…」


 白馬の後に付いて教室を出る足取りが、何だか酷く重く感じられた。








































 学校では何だからと、白馬の車に押し込まれる様に乗り込んで。
 着いたのは新一の家。
 ほぼ無言のまま二人で家に上がり、リビングのソファーに座った所で、新一は漸く白馬に尋ねた。


「……言わなきゃいけない事って何なんだ?」


 努めて優しい声を出そうとしたつもりだったが、声が硬くなってしまったのを新一自身も感じていた。
 けれど、仕方ない。
 嫌な予感を押さえつけながら発したにしては良い方だと褒めて欲しいぐらいだ。


「………工藤君。きっと……君は僕を軽蔑するでしょうね」


 力なく笑う白馬の表情が、酷く痛々しく新一の瞳には映った。

 こんな彼は知らない。
 新一の知っている彼はいつだって優しくて、いつだって穏やかで。

 こんなに弱々しい彼を、新一は知らなかった。


「そんな事…」


 軽蔑なんてする筈がない。
 だって彼は、自分に余りにも優しくて。
 狡い事に、彼に甘えて縋ってしまった自分さえ受け入れてくれて。

 そんな彼をどうしたら軽蔑するというのか……。


「……工藤君。君が考えている事は……本当は全部違うんです」


 新一の視線を避ける様に白馬は膝の上に手を組んで、その上に顎を乗せた。
 床に引かれたカーペットの先を見ている表情は、酷く硬い。


「どういう…事だ?」
「……君に僕が見せてきた物は……全て『まやかし』なんです」
「白馬…?」


 言われた意味が分らず困惑する新一に、白馬はもう一度力なく笑う。


「…僕が君に告げた言葉は『事実』であると同時に『偽り』だったんですよ…」
「……一体何が言いたいんだ?」
「……君が、……」


 言いかけて、辛そうに顔を歪めた白馬が耐えきれないとでも言う代わりに、額を組んだ手に押し当てた。


 新一は声をかける事が出来なかった。
 こんな白馬は初めて見る。
 こんな風に、葛藤して苦しむ白馬は……。


「……すみません」
「いや……」


 漸く紡がれた言葉は、謝罪の言葉だった。
 その言葉に何て返したら良いのか分らず、新一が口籠れば、白馬は何かを決心したかの様に、再び顔を上げた。
 そして視線を新一へと移すと、じっとその瞳を見付けた。



「…君が、…君が僕に付き合って欲しいという前から―――僕は君の事が好きだったんです」



 言われた言葉の意味が、一瞬では理解できなくて。
 数度瞬きをした後、漸くその意味を飲み込んだ新一は、口を開きかけて……言葉が出てこなくて、口を噤んだ。

 困惑する新一の瞳を見詰めたまま、白馬は自分の酷い過ちを告白する。



「僕は…黒羽君が、君の気持ちに気付いていないのを利用したんです。
 工藤君が好きだったから……君をどうしても手に入れたくて……あの状況を………利用したんです」
「白、馬……」



 信じられないと、新一の瞳が見開かれたのを、白馬は嫌という程見詰めた。
 これは自分の『罪』だ。
 そして、それに対する『罰』だ。



「君が傷付いているのも分っていて、僕はそれを利用したんです。君を――どんな手を使ってでも、僕のモノにしてしまうために」



 戸惑いと。
 困惑と。

 様々な感情が浮かんでは消える瞳を見ていられずに、視線を逸らし白馬は小さく呟いた。



「…僕は最低な人間なんです。本当は―――彼と君が両思いだと分っていたのに…」



 狡いと分ってはいても、本当の事を告げた声は酷く小さな物になってしまった。
 それでも、漸く真実を話せたと白馬は少しだけ安堵した。

 何をしてでも。
 感情を殺しきってでも。

 彼を手に入れたい。
 彼の隣に居たい。

 そう思ってきた。

 でも本当は、ずっとずっと苦しかった。
 泣き濡れる彼の姿を見ているのが、本当はずっとずっと辛くて苦しかった。


 だから―――今やっと、解放された気がした。


 心が少しだけ軽くなった気がした。
 罪深い自分がそんな風に思ってしまうのはきっといけない事なのだろうが、それでも、漸く…真っ直ぐ新一の瞳を見詰め返せる様になった気がする。



 逸らしていた視線を新一に戻せば、躊躇いがちに向けられる視線。
 そして、新一は口を開こうとして、でもそれを躊躇して再度口を噤む。
 何度かそれを繰り返して、そうして漸く覚悟を決めたのか、静かに新一は白馬に尋ねた。



「…………どうして、今それを言う必要が……あるんだ…?」



 声が酷く硬く響いた。
 何か……嫌な予感を感じている様な、硬く怯える様な声。



「お前が…そこまでして俺を手に入れたいと思ってくれていたとしたなら……どうして今、それを俺に告げる必要がある?」



 白馬の言葉を聞きながら新一は思っていた。

 彼がそこまで自分を想ってくれていたのは、確かに方法こそ間違えたのかもしれないが、責められるものではない。
 彼は彼なりに、新一を想い気遣い、優しさで包んでくれた。
 例えそれで、快斗と上手くいかなかったとしても、それは新一に多大な責任がある。
 白馬はあくまでもその切欠を拾ったに過ぎない。

 確かに新一は白馬の優しさに癒された。
 優し過ぎる温もりに包まれて、確かにあの瞬間、安堵した。

 でも、だとすれば白馬が新一にそれを告げる必要はない。
 言わなければきっと新一は白馬との優しい日常の中で、快斗の事を忘れられずとも穏やかな日々を送れただろう。
 それを考えると、今このタイミングで白馬が新一にそれを告げるのが解せない。



「それは…」



 言い淀み、白馬は覚悟を決める。

 彼の温もりを。
 彼の綺麗な瞳を。

 全て何もかもを―――手放す覚悟を。



「黒羽君が……日本を発つからですよ……」
「っ……!?」



 見開かれた瞳に―――白馬は自分の罪深さを痛感した。






























to be continue….



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