告げたのは『偽り』の『真実』
 壊したのは『真実』の『安らぎ』

 手に入れていたものは
 指の隙間から零れ落ち

 手に入らないものを渇望しても
 それが手に入らないと知っている

 けれどそれは…
 逃げ出した自分への必要な戒めの様だった










片想い【17】











「っ……」


 痛みに顔を歪め、新一は身体を起こす。
 どうやら昨日はあのままソファーで寝てしまったらしい。
 身体の節々が痛む。
 そして…心も。

 ゆっくりと身体起こし、ソファーの背凭れへと背を預け座り直すとそのまま背凭れへ体重を預け、天井を見上げる。
 目から耳元に流れ落ちる雫は、もう何度流したか分らないモノ。

 昨日泣き過ぎたからだろうか。
 目元が熱を持って腫れているのが分ったが、構わなかった。
 痛む箇所があればあるだけ、心の痛みに向く意識がほんの少し紛れる気がする。

 瞳を閉じ、暗さに安堵する。
 今はカーテンの隙間から僅かに差し込む光さえ、見たくなかった。








































 最新式の音が静かな洗濯機の僅かな音をバックミュージックに、快斗は少し濃いめに淹れた紅茶を啜る。
 隠れ家だから必要ないかとも思っていた洗濯機は、漸く今お役目を果たしている。
 一応揃えておいて良かったと思う。

 ドラム式の洗濯機の中ぐるぐると回っているのは、先日新一からお借りした洋服。
 上下は良いとして、流石に下着は洗ったとは言え返すのは憚られるので、買ってお返しすべきだろう。


「新しいのあったかな…」


 ごそごそとクローゼットを漁ったが、生憎新しい物の買い置きはなかった。
 だとすると買いに行かなければならないだろう。


「めんどくせっ……」


 はぁ…と溜息を吐いてみたりもするが、それで事態がどうこうなる訳でもない。
 ピーっという洗濯が終わった事を告げる音がして、快斗は洗濯機から洋服を引っ張り出すと、パンパンと皺を伸ばしそれらを室内に干す。
 今日は良いお天気だ。
 室内まで燦々と日の光が注いでいる。
 これならきっと直ぐに乾くだろう。


「買いに行くか…」


 時計をつけ、財布だけ持って家を出る。
 ついでに今日の夕食も買ってきてしまおう。
 ああ、でも……。


「何か今日は飲みに行きたい気分だな…」


 昨日帰って来てから、隠れ家にあった酒は全部飲んでしまった。
 ザルという訳ではないが、快斗はそれなりに酒には強い。
 だから、酔えるまで飲むにはそれなりの量がいる。

 その量を持って帰るのは……正直かなり重いし面倒だ。


「うん。今日は飲みに行こう」


 そう決めて、快斗はとりあえず目的の物を買うべく駅前に向かって歩き始めた。








































 手挽きのミルでゆっくりと豆を挽く。
 推理小説を読める程の気力も無く、かといって余計な事を考えてしまいたくない時、新一は時々こうやって豆を挽く。
 コーヒー好きの父親のお陰で業務用のリード型ミルも家にはあるのだが、偶にはこうやって手で挽いてやるのも良い。

 サイフォンを使うか、とも考えたけれど、何だかそんな気分にもなれずドリップで珈琲を淹れる。
 そして、カップに注ごうとした所で、食器棚の一番手前にあったカップを見付け手が止まる。

 それは昨日快斗が新一に出したカップ。
 そしてその横には、花の色が違うだけの同じデザインのカップ。
 その光景に、漸く収まってきていた涙がまた溢れ出してくる。

 視界がぼやける。
 涙で花が滲む。

 ごしっと少し乱暴に手の甲で涙を拭うと、そのカップの後ろから普段使っている白いマグカップを取り出し、それに珈琲を注ぐ。

 使いたい訳がなかった。
 使える訳がなかった。

 昨日の幸せな時間が、今ではまるで幻の様に遠く感じた。








































「不味い……」


 リビングのソファーへと座り、珈琲を一口啜った所で、新一はその味に眉を顰めた。

 いつもと同じ挽き方をして。
 いつもと同じ淹れ方をして。

 何も変わらない筈なのに、どうしてこんなにも不味く感じるのか。
 思い当たる節に溜息を吐く。


 昨日淹れて貰った珈琲が余りにも美味しかった。


 ただそれだけだ。
 ただそれだけの事が、今こんなにも心に重い。


 それ以上その珈琲に口を付ける気になれなくて、キッチンへ行くと、カップの中身をシンクへと流してしまう。
 薄茶色に染まったシンクをじっと見詰め、やりきれなさにその場にずるずるとしゃがみこんでしまう。



 これはきっと……報いだ。



 『真実』を語る筈の探偵が『偽り』を吐いた事に対する、これは報いだ。
 『真実』がどれだけ辛く重いのは分っていたつもりだった。
 それでも自分は……その『真実』から逃げ出した。



 これはきっと――罰だ。








































「これでいいかな…」


 下着の一つを手に取って、更にもう一つ手に取って、その二つを持ってレジに向かう。
 ビニール袋ではなく、手提げの紙袋に入れて貰ったのは、ちょっとした配慮だ。

 目的の買い物を済ませ店を出て、近くのケーキ店の前で足を止める。

 ショーケースには可愛らしいケーキと、焼き菓子の詰め合わせが飾ってある。
 普段なら此処で焼き菓子の詰め合わせの一つでも買ってお礼にする所だが、相手は甘い物が得意ではない新一だ。
 これではお礼にならない。

 何にしようかとその店を通過して、数軒先の珈琲ショップの前で足を止める。


「ああ、これが一番良いか…」


 珈琲好きの名探偵にはきっとコレが一番良いだろう。
 そう思って店に入ると、中には数多くの豆と、そしてカップのセットが並んでいた。

 それを見て思う。
 昨日使わせて貰ったカップを自分が使う事はもう二度とないだろうと。

 それに少しだけ寂しさを覚えながらも、快斗は豆を選ぶ事にした。

 快斗自身は苦いのが苦手(…)なので、そこまで珈琲を飲む事はない。
 というか、進んで飲む事なんて皆無だ;
 だから、ベタな所でオリジナルブレンドなんかにしてみたりする。

 豆を炒って貰う間に珈琲を勧められたりしたのだが、それは丁重にお断りする。
 流石に珈琲の専門店でミルクと砂糖を大量に入れた珈琲もどきを作る訳にもいかない。

 待っている間にぷらぷらと店内を眺めていれば、ふとアンティーク調の珈琲ミルに目が止まる。


「ああ、こういうの……」


 好きそうだなぁ…、と考えて口元に苦笑が上る。
 今日は彼の事を考えてばかりだ。

 ああ、全く。
 これじゃまるで恋をした中学生男子みたいだ。

 何だか馬鹿馬鹿しくって笑えてくる。
 子供じゃあるまいし、親友が恋愛相談をしてきて、その相手が自分の嫌いな相手だったからと言って何だと言うのだろう。
 今の自分は、親友を他の人間に取られそうで、寂しくて駄々をこねて見せる子供の様だ。

 全く……しょうもない。



「お待たせいたしました」



 綺麗にラッピングされたそれを受け取って、店を出る。
 軽い筈の紙袋が嫌に重く感じた。








































 こういう時に限って、世の中というのは平和である。
 それが今の新一には不謹慎だがとても憎らしい事に思える。

 何も考えたくない時は、事件でも起こってくれれば良い。
 そうすれば、謎を解く事だけを考えていればいい。

 そんな事を考えて、その考えを打ち消す様にぶんぶんと頭を横に振った。

 自分は何て事を考えているのか。
 幾ら何でも事件が起こる事を自ら望んでしまうなんて……。


 ああきっと、コカインを打っている時のホームズもこんな気持ちだったのかな…とふと思う。
 だからと言ってそれに倣って、今の日本で流石にコカインを打つ訳にはいかない。


 する事もなくて。
 したい事もなくて。

 ただソファーに横になって、ぼんやりと天井を見詰める。
 思い出すのは、快斗のポーカーフェイスの上に張り付けた笑みだけ。

 その前の幸せな時間を思い出そうとしても、最早それは遠い所へ押しやられてしまって。
 思い出せるのは、冷たい藍だけ。


 再び込み上げてくる嗚咽を押し止める事無く、今はただその感情に身を任せ、瞳を閉じた。






























to be continue….



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