小さな小さな幸せ
 小さな小さな幸福

 それは余りにも小さな事で
 けれどそれは目も眩む様な眩しさで

 このままこの日が
 永遠に終わらなければいいと願った










片想い【13】











「はい、どーぞ♪」


 コトン、と目の前のテーブルに置かれたマグカップ。
 小さな花柄が淡いブルーで描かれたそれに新一は首を傾げた。


「さんきゅ……って、こんなマグカップうちにあったか…?」
「ああ、有希子さんがね教えてくれたんだよ」
「母さんが?」


 普段新一の使っているのは、何の変哲もない真っ白なカップ。
 そういう物に大して感心の無い新一は、特にこだわりもなくそれを使っていた。
 けれど、食器棚にどんな食器が並んでいるかぐらいは、数年一人暮らしをしていたのだから分っている。
 それでも、こんな食器は新一の記憶にはなかった。


「そう。キッチンの上の隅の棚の中に使ってないカップが沢山あるからって。
 何かね、『どうせだから快ちゃん用に新しいカップあげるわv 好きなの選んでv』って」
「………快、ちゃん……?」
「ああ。有希子さんが『呼び方は可愛い方が良いでしょ?』って言って、その呼ばれ方になったんだ」
「………」
「まあ、そんな感じで、お言葉に甘えちゃったんだけどね」
「………」


 何だか知らない間に仲良くなっていたと思ったら、既にそんな妙なあだ名まで付けられているとは…。
 本当に人付き合いの上手い奴なのだと、今更ながらに実感する。
 そして、自分の母親の人懐っこさも。

 はぁ…と小さな溜息を吐いた新一の目にふと映ったのは、横に座った快斗の手元にあるマグカップ。
 それに描かれた柄をじっと見詰める。


「快斗、それ…」
「うん。お揃いv」


 快斗の手元にあったマグカップにも新一と同じ模様が描かれていた。
 違うのは、快斗の物は花びらがもう少し濃い青だという事。


「……お揃いって……」
「何かね、ペア物しかなかったから、片方だけ使っちゃうのもどうかと思って有希子さんに相談したんだ。
 そしたら、『どうせだから、新ちゃんとお揃いで使ってv』って言われたからさ。だから、お揃い♪」
「………;」


 完全に、あの母親はそういうつもりで言ったのだろう。
 全く……本当にやっかいな事になった。


「でもさ…」
「ん?」
「俺、すっごい悩んだんだ…」
「?」


 遠い目をしてそう言う快斗に首を傾げれば、快斗はその経緯を何だか微妙な顔をしながら語ってくれた。


 言われた棚には棚一杯に使われた形跡のないマグカップやら、グラスやら、お皿やら、とにかく食器棚が箱に入ったまま沢山入っていて。
 とりあえずお言葉に甘えて使わせて頂く事にしたのだが…快斗はその一つ一つの箱を開けて、遠い目をしたらしい。

 世界的作家と、元とは言え世界的大女優のお家。
 箱に入っていたのは、おいそれと日常的に使う事が出来ないぐらいの価値のある物ばかり。
 割ってなんてしまった日には、そりゃもう、普通の人間は青褪めてしまうだろう物ばかり。
 中には、もう絶対に手に入らないであろう物まであった。

 その中でも何とかそんなに大して高くなさそうな物を探しては見たものの、そんなモノが存在する筈がなく。
 仕方なく、新一が使ってくれそうな柄を選ぶ事を快斗は優先させたらしい。


「………大変、だったんだな…;」


 一部始終話を聞いて、新一はしみじみそう言った。
 話している間の快斗が時々遠い目をしていたから。

 世界的に有名な両親は、それなりに頂き物をする事が多くて。
 だからきっと、それらは頂いた物だろう。

 両親も新一も、そんなに物の価値を気にする性質ではない。
 高いとか安いとか、そんな事は実際どうでも良くて、使い勝手が良くて自分が気に入れば何でも良いタイプだ。
 知識として必要ではあるから、名前やどういったものなのかは頭に入ってはいるが、それがどの位価値を持つかなんて正直興味がない。

 けれど、快斗は職業柄(…)そういう事に詳しいからだろう。
 何だかものすごーく遠い目をしていた。
 だからきっと、これもそれなりに価値のあるものなのかもしれない。
 新一はそういう事には興味がないが、自分の好みを優先させてくれたというのはほんの少しくすぐったい。

 快斗と、同じ物を使っているという事も。


「でもね、楽しかったよ。新一に似合うのはどれかなー、って選ぶのは」
「っ……///」


 頬を押さえたい程、自分が赤くなっているのが分る。
 それを隠す様に、新一は再度本を開いた。
 そんな新一に微笑みながら、快斗はそれ以上何かを言う事はなく、新一の横でまたマジックの練習を始めた。






























 パタン、と本を閉じ、新一は壁に掛っている時計を見上げた。
 何時の間にそんなに時間が経っていたのか。
 視界に入った時計が示していたのは、4時過ぎだった。


「読み終わった?」
「ああ」


 本を置いて、んー…と背伸びをして、新一はふと目の前に置かれているマフィンに気付いた。


「何だ? コレ」
「やっぱり聞いてなかったか…;」


 横で、『分ってたけどさ…知ってたけど……』とぶちぶち呟いている快斗に首を傾げて、新一は皿に乗せられていたそのマフィンを手に取った。
 まだ微かに温かい。


「コレ、食っていいのか?」


 そう聞いた新一に、快斗は渋かった顔を更に歪めた。
 そして、頭が痛いとばかりにこめかみにわざとらしく手をあてる。


「新一君…」
「ん?」
「俺が『お昼御飯食べる?』って聞いたの覚えてる」
「……あー…、何か言ってた気がする」
「それに、『腹減ってない』って言ったのは?」
「ああ、言ったと思う」
「3時過ぎに『おやつは?』って俺が聞いたのは?」
「えっと……」
「『甘くなくて軽い物なら食べる』って言うから、俺作ったんだけど……」
「………」


 という事は、製作時間も考えると少々放置していただけだろう。
 若干恨みがましくこちらを見てくる快斗の視線をさらっと無視して、新一は視線をマフィンへと移した。

 甘い物が苦手な新一の為か、それはチョコチップなどの甘いマフィンではなく、ベーコンとチーズが上に乗った物だった。


「今、食べていいか?」
「どうぞ」


 少しだけ拗ねた感じが含まれていた気がするが、それを気にしない事にして、新一はマフィンに口を付ける。
 予想したよりも甘くないソレは、おやつというか、軽食に近い感じだ。


「もっと甘いかと思った」
「配分がね、お菓子用じゃなくて、おかず用で作ったからね」
「………お前、ホント出来ない事とかねえの?」


 きっと彼の事だ。
 本など見ずに作ったのだろう。
 本当に、器用で万能だ。


「これぐらい出来てあたりま…」
「いや、当たり前じゃねえから。コレは」


 大学生の男の中で、何人が本無しでマフィンを作れるだろう。
 大学生の男の中で、何人が本無しでお菓子用とおかず用の分量を変えて作れるだろう。

 それは多分、『出来て当たり前』と言われる類のものではない。


「そう?」
「ああ」
「んー…そんなに大した事してないんだけどなぁ」
「………;」


 謙遜とかそういうのではなくて。
 本気でそう言っている目の前の快斗に何だかもう、何も言う気になれなくて、新一は口を噤む様に残りのマフィンを口に含んだ。


「美味しい?」


 自信なさげに言われた言葉に新一はこくっと小さく頷いた。


「それなら良かった」


 満面の笑みで微笑まれて。
 新一は思う。

 こんな風に穏やかな毎日が続いたら、どれだけ幸せだろう。
 こんな風に幸せな毎日が続いたら、どれだけ幸福だろう。


 そんなもの……願ってはいけないと、自分は知っているというのに―――。






























「新一。夕飯何か食べたいのある?」
「………もう、そんな時間かι」


 あの後、『俺もマジックの練習してるから読んでて良いよ』と言われ、別の本を手にした新一がその本を閉じたのを見計らって、快斗からそんな言葉をかけられた新一は時計を見上げ、その指し示す時間に固まった。


 現時刻――――午後8時。


 油断した。
 完全に油断した。

 少しだけのつもりが、あれから4時間余り本に没頭してしまったらしい。
 集中してしまうと、ついつい周りが気にならなくなってしまうのは良い事もあるが、こういう時は悪い癖だと思う。
 全く……折角の時間が余りにも早く過ぎてしまった気がする。


「新一が何か食べたいのがあるなら俺作ろうかと思って…」
「いや、流石にそれは悪いから何か食いに行こうぜ?」


 朝食は見事なまでの料理を作ってもらって。
 お昼兼おやつの様なマフィンまで作ってもらって。
 流石に夕食まで作らせるのは新一とて気が引けた。


「でも…」
「あんまり遅くなったらお袋さん心配すんだろ? 夕飯食いがてら家帰れば良くねえか?」
「まあ、それはそうなんだけどね…」


 何だか微妙に不服そうな快斗に首を傾げる。
 その方がお互いに楽だと思うのだが…。


「嫌なのか?」
「いや、嫌って言うか…」
「?」
「何かね、俺分んないんだよね。新一を一体どんな店に連れてけばいいのか…」
「………は?」


 何とも言い難そうに快斗の口から紡がれた言葉は、流石の新一も予想外の言葉だった。
 瞬きをゆっくり3回して、言葉の意味を飲み込んで、それでも新一は首を傾げずにはいられなかった。


「いや、だからね…。新一をどんな店に連れてけばいいのか、連れてくべきなのかわかんねーの;」


 開き直ったのか、快斗は降参とばかりに溜息交じりに、でも少しだけ悔しそうに言う。

 こんな快斗を見るのは珍しいと思う。
 いつだって、余裕綽々で、出来ないことなど何にもないかの様に振舞うから。


「別にヤローを連れてく店なんてどこでもいいだろうが」
「良くない。新一の場合は良くない」
「何でだよ」
「だってさ…、俺こないだラーメン食いに行った時に思ったんだよね。何か、こぅ……浮いてるっつーか、なんつーか……」
「お前、俺の事馬鹿にしてる訳?」


 じろっと、きっと彼に捕まった数多くの犯罪者が見たら凍り付きそうな視線で睨まれて、快斗は慌ててぶんぶんと首を横に振る。


「そんな訳ないだろ! つーか、寧ろ褒めてんの!! 育ちのいいお坊ちゃんだって言ってんだよ!!」
「……それ、褒め言葉じゃねーからな?」


 それはもう、極上の天使もとい悪魔の笑みでそう言われて。
 快斗は口元に引き攣った笑みを浮かべながら、固まった。

 そう、快斗は本能で悟っていた。


 ―――コレは、ヤバい……ι


 案の定、新一はその極上の笑みを一瞬のうちに消し去ると、口をへの字に曲げ、快斗を厳しい目でじっと見詰めた。


「あのな、俺の両親は確かにちょっと名の知れた人かもしんねーけど、俺はただの一般人」
「いや、探偵なんてもんやってる時点で一般人じゃないから…」
「怪盗なんて奇特なもんやってる奴には一番言われたくねーよ」
「………」


 余計に眼光が鋭くなった気がして、快斗は口を噤む。
 確かに、そこに関しては自分も人の事は言えないのは充分分っている。


 けれど、快斗の場合は表の顔ではごくごく普通の生活をしてきた。
 本当に一般的な生活をしてきたと思う。
 きっと、怪盗キッドを知る人間が快斗の私生活を見たらビックリするよりがっかりするだろう。
 余りに普通の生活に。

 そんな自分と、新一はまるで違う。

 サラブレッドと言われても間違いない血筋で。
 父親譲りの探偵としての才能と推理力は言わずもがなであるし、加えて母親譲りのその美貌。
 顔良し、頭良し、財産だって持っている。
 何だかんだ言ったって両親が両親だけに、坊ちゃん育ちである。
 彼女とのデートだって、親父のカードでどうにか出来ちゃうぐらいの坊ちゃんである(笑)

 結局のところ、新一が否定した所で、新一が坊ちゃんである事に間違えはないと快斗は思う。
 でも、彼がそれを言われるのを毛嫌いしているのもちゃんと知っている。


「両親はともかく、俺は別に個人の財産だって大したもん持ってねーし。探偵なんて職業だって不安定だし…」
「まあ、そりゃ確かにそうだけどさ…」
「あのな、探偵なんて1回推理間違えてみろ?
 『やっぱり素人には無理だったんだ』とか言われて即お払い箱だぜ? 不安定な職業この上ない。つーか、下手したら一般以下だからな」
「………」


 返す言葉も思いつかず、快斗は新一から視線を外し俯いた。

 確かに、確かに新一の言う事は正しいだろう。

 日本の『探偵』は警察でも何でもない。
 『探偵』と言えども州レベルで銃器の保持さえ許される公的免許制度があるアメリカとは違い、日本では消費者保護の観点から探偵業法こそ最近定められはしたものの、武器の携帯すら許されず、正当防衛・緊急避難が法的に許されているだけ。
 一般人と何ら変わらない。
 だから、法的権限を持たない探偵が「探偵として」事件捜査に公的に参加・協力することは、法的に想定されておらず、また、そのような要請がなされることもまずない。

 それを考えると、新一は例外中の例外だろう。

 白馬も、服部も、2人とも親が警察のお偉いさんである訳で。
 そういう人間なら少しは分る。

 でも、新一は違う。
 確かに父親という足がかりはあるにしても、それでも自分で今の地位を切り開いてきた。
 『探偵』という自分の位置を確立してきた。

 けれどそれは―――余りにも脆い地位だ。



「だから、俺は唯の一般人。気使う事なんかねえだろ?」



 快斗が何も言えなくなってしまった事に慌てたのか、新一は快斗の顔を覗き込んで、茶化す様にそう言う。
 それすら、快斗には痛々しく映る。

 何だってこの人は―――そこまでして『真実』を見詰め続けようとするのだろうか。



「そう、だね…」



 尋ねる代りに、快斗は顔を上げ、きっと新一には見破られてしまうと分っていても作り笑顔を顔に張り付ける。
 ポーカーフェイスを何時も心がけているというのに……必要な時程機能してくれないのだから困った物だ。



「分ったら、さっさと帰る用意しろよ。腹減った」



 んー、と一つ伸びをして、手元にあった本を書斎へと片付けに行った新一の背中を見送って。
 快斗はどうしようもない気持ちを唯々持て余すしかなかった。






























to be continue….



top