彼が何をどれだけ思い詰めたのか
 それは彼にしか分からない

 彼がどれだけ苦しんでいたのか
 それは彼にしか分からない

 けれど、それを紐解く手がかりが
 少しだけ掴めた気がした















 黒羽快斗的名探偵の落とし方【9】















「………」


 哀が部屋を出て行ってから、快斗はする事もなく唯ぼおっと天井を見上げていた。
 目を閉じて何も考えずに休んだ方が良いのも頭では分かっている。
 けれど、先程彼女が言った言葉が頭から離れない。



『……貴方は工藤君の事、殺したいと思った事はある?』



 躊躇いがちにだが、それでも酷く真面目な顔で聞かれたその問いに自分は否定を返した。
 しかし、何故彼女が突然あんな事を聞いたのか。

 何の脈絡も無く告げられた言葉だからこそ、ふと思う事がある。





 ―――コレはきっと彼が哀に言った言葉を踏まえての快斗への問いなのではないかと。





 そう考えればある程度納得がいく。

 あの日、あの時。
 恐らく新一は快斗を殺したかったのだ。
 記憶を奪うのでも何でもなく、彼はきっと快斗を殺したかった。

 もしかしたら、その後に彼は死ぬ事を望んだのかもしれない。
 それを止める為に、彼女は彼の記憶を奪う事を選んだ。

 けれど、快斗は死ぬ事を免れた。
 それが哀の仕業なのか、それとも薬の効き辛い己の体質故か。
 考えて恐らく前者だろうと確信付ける。

 前に彼女は快斗にこう言った。



 『やっぱり覚えてたのね…』



 その言葉で前者だと定義付けが出来れば、後は芋蔓式だ。


 新一が俺を殺す薬を彼女に依頼した。
 けれど、それを良しとしなかった彼女が人を殺す薬では無く代わりに記憶が無くなる薬を作った。
 新一が俺を殺した後に死ぬ気だったのか、それともそんな事全く考えていなかったのか。
 それは分からないけど、どちらにしろそんな風に思い詰めた記憶を抱えたまま彼に生活などさせられなかったのだろう。
 だから、俺からも新一からもその時の記憶を消した――いや、消そうとした。

 イレギュラーだったのは俺の薬への耐性だ。
 彼女は恐らくそれも考慮して薬を作った筈。
 しかし、幸か不幸かその薬は俺の記憶を消せはせず、新一の記憶だけを消し去った。



「………成る程ね」



 彼女が口を噤む訳だ。
 そして、『自分が悪い』と言い張る訳だ。

 彼に彼が人を殺そうとしていた事実など言える筈がない。
 そして、そこまで思い詰めた記憶を思い出させる欠片を与えられる筈がない。

 だとしたら―――――。










「俺がこれ以上傍に居るのは―――害にしかならないのかもしれないな……」










 新一に殺したいと思わせる程に、自分は彼を追い詰めた。
 それを自覚して、吐き気がする。

 大切にしてきたつもりだった。
 誰よりも何よりも大切に慈しんできたつもりだった。

 けれど―――その全てが彼にとっては負担でしかなかったのかもしれない。


「っ……」


 自覚して、思わず漏れそうになる嗚咽を無理矢理押し留める。
 どうしたら良いか分からずに、横を向いて顔だけを枕に押し付ける。

 目の前が真っ暗になる、というのはこういう事なのだろう。
 分かっていた筈なのに、現実を突きつけられるとこんなにも痛い。

 彼の記憶が彼の中から無くなっていた段階で、自分の事を、自分との思い出をそんなに消したかったんだと自覚して辛かった。
 それでも辛くても、苦しくても……自分を探しに来てくれた彼を信じて痛みを抱えていてももう一度だけ傍に居ようと決意した。
 けれど、それはまだ――生温い痛みでしか無かったのだと痛感する。





 あの誰よりも人の命を重んじる彼を―――殺人を決意させる程に追い詰めていたなんて…。





「…うっ……っ……」


 抑えきれない嗚咽が喉の奥から零れ出る。
 ああ、そんなにも彼にとって自分は負担だったんだ。

 好きだった。
 大好きで大好きで堪らなかった。

 だから手を伸ばしてはいけないと知っていても手を伸ばしてしまった。

 けれど、本当は分かっていた。
 あの彼が犯罪者の自分を赦せる筈も、受け入れられる筈も無いと。
 分かっていたというのに手を伸ばし、そして彼をそこまで苦しめてしまった。

 情の深い彼の事。
 犯罪者である快斗の罪と、探偵との矜持と、そして快斗への想いの狭間できっと押し潰されそうになっていたのだろう。
 何でもっと早く気付いてやれなかったのか。
 あんなに一緒に居た筈だったのに……。


「…何で、……」


 何故あの時死んでしまわなかったのだろう。
 何故あの時記憶を全て失くしてしまわなかったのだろう。

 そうすれば、これ以上彼を苦しめる事なんてなかったのに…。


「………」


 ギリッと奥歯を噛みしめ、おもいっきり手を握り込んだ。
 身体に力が入った為か、脇腹の傷が痛んだがそれすらどうでも良かった。

 今ここでこの傷口に指でも突っ込んで傷口を引き裂いたら出血多量で死ねるだろうか。
 そんな馬鹿な考えすら頭に浮かんでくる。


 シニタイ。


 シンデシマイタイ。


 イマスグニコノヨカラ、カレノメノマエカラキエテナクナレバイイ。


 身体を起こす気力さえ残っていない。
 このまま眠りに落ちて、永遠に目が覚めなければいい。
 そうすれば最悪の事態だけは―――。






























「快斗?」
「うわっ…!」


 考えに沈み込み過ぎていた。
 いきなりかけられた声にビクッとして枕から顔を上げて横を向けば、視界には新一のドアップ。


「し、新一!?」
「どうしたんだ? 傷でも痛むのか?」
「あ、いや…」
「汗びっしょりじゃねえか。大丈夫か? 顔色も悪いし…」



 ―――パシッ



「えっ…?」
「あっ…」


 無意識だった。
 額に張り付いた髪でも払ってくれようとしたのか、伸ばされた手を快斗は思わず払い除けていた。

 その行動に呆然とする新一に快斗も小さく声を上げた。


「悪い。触られるの嫌だったか…?」
「あ、……いや、そういう訳じゃ……」


 こういう時こそいつもの饒舌さが出てくれればいいのに、こういう時に限って何の言葉も出てこない。
 怪訝そうに向けられる視線を真っ直ぐに見返す事すら出来ない。


「…何かあったのか?」
「………」
「快斗」
「………」


 促される様に名を呼ばれても、それに返す言葉が見つからない。
 何をどう言って良いのか、今の快斗にはまるで見当がつかない。

 ただ分かるのは―――自分が新一の傍に居てはならないという事だけ。


「おい、…かい…」
「ごめん。新一」
「…ん?」
「迷惑なんだ。放っておいてくれないか?」
「……は?」


 しぱしぱと瞬きをして、信じられない物でも見る様な視線を向けられる。
 鋭い針で心臓でも刺されている様な痛みさえ感じながら、それでも快斗は気丈にも真っ直ぐ新一を見詰めた。


「今回で良く分かった。俺はお前を護りきれない」
「…俺は別に護ってくれなんて頼んでねえよ」
「知ってるよ。だから俺ももうお前を護るつもりは無い」
「……何が言いたい?」


 快斗の真意を図りかねているのだろう。
 怪訝そうにそう尋ねる新一に、快斗は冷たく言い放った。


「…止めるよ。お前の傍に居るの」
「…えっ…?」
「もう止める。お前は素直に護られる様な奴じゃないし。寧ろ危険に自ら突っ込んで行く様な奴だし」
「……探偵だからな」


 否定ではなく、肯定で返した新一を快斗は怪盗の顔で薄ら笑った。


「ああ。だから馬鹿な事は止める事にした。大体、探偵を護ろうとする怪盗なんて滑稽だろ?」
「………」
「それに、お前の傍に居るとロクな事にならないのは実体験済みだしな。
 “死神”の傍に居たんじゃ、幾ら俺だって命が幾らあっても足りないしな」
「…死神、ね……」


 昔そう呼ばれた新一が酷く傷付いた顔をしていたのを知っている。
 勿論快斗に気付かれない様に本人は気を付けていただろうが、それでも快斗はその顔を良く知っていた。

 そして、今目の前の新一の顔もその言葉に僅かに曇る。
 けれど敢えて快斗は続ける。
 抉る様に言葉を絞り出す。


「事実だろ? お前が出かけるとこぞって死体が出る。
 探偵が行く先に死体があるのか、死体がある所に探偵が偶々鉢合わせるだけなのか。
 そんなのに興味はないけど、お前が行く先には死体がゴロゴロしてるのと、それから――その上を悠然と進んでるのぐらいは知ってるよ」
「………」
「いい加減飽きたんだ。そんな人間の相手するのは。だから―――」
「快斗」
「…だから、俺は………」
「…快斗、もういい」


 再度差し出された手を振り払っても、その手は優しく伸びてきた。
 三度目をどうしても振り払う事が出来ずにただ滲む視界で新一を捉えれば、苦笑と共に頬に流れた雫を拭われた。


「…ったく、何があったつーんだよ……」


 まるで聞き分けのない子供をあやす様に新一に涙を拭われ、頭をぽんぽんと撫でられた。
 それに悔しくてまた涙が出る。

 別れ話一つ、まともにする事さえ出来ない。
 尤も付き合っている訳じゃない相手に別れ話も何もないのだろうが。

 それでもそんな快斗に新一は優しく語りかける。


「なあ、快斗。言ってみろよ。何があった?」
「……何、も……無い……」
「…お前なぁ……」


 呆れの滲む声で苦笑されて、唇を噛みしめる。
 こんな筈じゃなかった。
 もっとちゃんと、終わりにするつもりだったのに…。


「あのな、快斗。俺はこの間もお前の事探しに行ったよな?」
「………」
「例えばもし此処でお前が『もう新一には絶対に会わない』とか言ったとしても、残念ながら俺はお前を探しに行くぞ?」
「…来んな……」
「こないだまで俺の事口説くって言ってた癖に、随分だな。全く……」


 涙声でそう返せば、苦笑と共に呆れた様な声でそう返って来た。
 優しさの滲む声に余計に涙が溢れて止まらなくなる。


「快斗」
「………」
「今は傍に居ない方が良いか?」
「………」


 優しく尋ねられた言葉に快斗が小さく頷けば、新一もまた小さく頷いた。


「分かった。一人になって少し落ち着いた頃にまた戻って来るよ。但し――」


 ジッと快斗を見詰め、真剣な顔で新一は快斗に忠告をする。


「絶対に居なくなるな。どれだけ俺を拒絶してもいい。でも…その傷で今動くのだけは止めろ」
「………」
「返事は?」
「………」


 今度は頷く事が出来なかった。
 新一が部屋を出たなら、一分でも一秒でも早くここを離れなければと思っていた。

 もう傍には居られない。
 もう一生顔は見られない。

 そう決意した快斗に、新一は何かを悟ったのか呆れた様に小さく溜息を零すと離れようとしていた足を止め、改めてベッドへと歩み寄ると快斗が眠るベッドの端に自分もそっと横たわった。


「新、一…」


 その行動に快斗が目を見開けば、横を向いたまま快斗を見詰め、新一は柔らかく笑んだ。


「バーロ…。どうせお前の事だから考え込んでドツボに嵌ってんだろ」
「違う、俺は…」
「なあ、快斗」


 そっと伸ばされた手が、快斗の髪を撫でる。


「俺はお前が俺に何を言おうと、お前を嫌える気がしねえんだよ。今の俺がこう言った所で信じられないだろうけどな」
「………」
「俺は記憶を無くしてる。それはもしかしたら俺が望んだ事かもしれない。
 お前もそう思ってるだろうけど、俺自身はそうは思ってない。俺は……記憶を消す様な事は望まないと思う」
「………」


 快斗を撫でていた手を降ろし身体の横に着くと、新一は快斗との距離を僅かだけ詰めた。


「俺は俺の行動には責任を持つつもりでいる。それがどんな痛みを伴おうとも。
 だから俺は……記憶を消す様な事を望む事はな……」
「そうだね。新一はそういう人間じゃない」


 ああそうだ。
 君はそんな人間じゃない。だから―――。










「そうだよ、悪いのは新一じゃない。悪いのは俺だよ。俺が――――新一を殺したいって思ったんだ」










 ―――君だけは……ただ君だけは、どうしたって護りたいんだ。




















「…快、斗……。お前何言って……」


 信じられないモノでも見る様に向けられる視線は居た堪れなかったけれど、ここで目を逸らせば全てが無駄になる。
 向けられる視線を静かに受け止めて、快斗はキリキリと痛む何かに目を瞑りニッコリと笑んだ。


「俺はお前を殺したかったんだよ。……だからきっと、哀ちゃんは俺と新一の記憶を消そうとしたんだ」
「……お前が何を言いたいのか分からない」


 困惑の眼差しをただ向け続ける新一に快斗は嗤う。
 暗く嗤う。
 そう見える様に。


「俺はね、新一。ずっと思ってたんだよ。新一が死んだら俺だけのモノだ」
「………」
「事件も、推理小説も、暗号も。新一にとっては魅力的なものばかりだよね。
 それに比べたら俺なんか取るにならないつまらない人間だよ」
「…そんな事、ない…」
「今の新一はそう言ってくれるね。でも、……付き合ってた頃の新一はそうじゃなかった」
「っ……」


 記憶なんてある筈無い。
 忘れているのだから分からなくて当然。
 だからこそ、此処からは口八丁だ。

 上手く術中に嵌めてしまえば良いだけだ。


「最初はね、新一だって俺と一緒に居るのを楽しんでくれてる様に見えたよ。
 でも結局新一の中で優先されるのは俺よりも推理小説とか、事件とかそういうモノなんだよ。
 俺みたいなつまらない人間じゃなくて、新一にとっては“謎”が何よりも魅力的だったんだろうね」
「………」
「約束も、結局は『事件があるから』って言われて反故される事の方が多かったし、それも仕方ないと思ってた。
 だから新一には内緒でこっそり現場まで付けて行った事もあるんだ。でも、そうするとね……必然的に付いてくるんだよ」
「……付いて、…来る?」


 意味深に言葉を切った快斗に新一が弱々しく首を傾げる。
 それにニッコリと快斗は笑った。


「白馬然り。色黒探偵然り。その他警察関係者もいっぱい居たね」
「…それは…」
「そう、当然なんだよ。事件現場なんだから。探偵や警察関係者が居るのが当たり前だ。でもさ―――」


 そう、全ては当たり前で当然の事。
 けれど、それが示すのは―――。




「――――犯罪者である俺は、その位置には絶対に立つ事が出来なかった」




 『怪盗キッド』である黒羽快斗には当然立つ事の出来ない場所。
 それは、探偵仲間や警察関係者の様な『共に捜査』する立ち位置だ。

 犯罪者である自分では立つ事の出来ないその位置。
 それに当然の様に探偵達や警察関係者は立つ。
 名探偵である新一の―――隣に。


「俺にはそれが許せなかったんだよ。俺以外が新一の隣に当然の様に立つ事が許せなかった」
「…快斗……」
「それを当然の様に甘受するお前も許せなかったよ、新一」
「………」


 挑む様に睨み付ければ、新一の方が視線を逸らした。
 それに満足して快斗は嗤う。


「だからしょうがなかったんだ。お前を手に入れるには殺すしかないって思った」
「……探偵を、……」
「ん?」
「探偵を止めさせるっていう選択肢は?」


 少し躊躇った後、発せられた言葉を今度こそ快斗は馬鹿にするように鼻で笑った。


「新一が? 探偵を止める? 馬鹿じゃないの。そんな事出来る筈ないだろ?」
「でもっ…!」
「止められる筈ないだろ。お前は何を犠牲にしたって“謎”を追い続ける【名探偵】なんだからさ」
「っ……」


 嘗て敬愛する様に呼んだその敬称を今度は馬鹿にするように口にした快斗に新一が唇を噛みしめる。
 堪える様に手をぎゅっと握り込んだ様を見て、快斗は詠う様に言う。


「平成のシャーロック・ホームズ。稀代の名探偵。新一を例える敬称は沢山あるね」
「……俺は、……」


 言いかけて、告げる言葉が見つからないのか続きが宙に消えた事に更に快斗は笑んで最後の駄目押しを付け加えた。


「…でも俺は、何よりも『死神』の方が新一にはお似合いだと思うけどね」
「…っ……ぅ……」


 今度こそ、その瞳が歪む。
 堪えていたのだろう。
 表面に留まっていた水が表面張力に耐えられなくなり雫となって大きな瞳から零れ落ちる。
 後から後から零れ落ちるソレを優しく拭ってやりたいと思いながら、快斗はそれを実行はせずにただ新一を静かに見詰めた。


「だからね、新一。俺はお前を殺して俺だけのモノにしようと思ったんだよ。
 誰の為でもない。ただ俺の為だけにお前を殺して俺だけのモノにしようとしたんだ」
「………」
「でも、駄目だった。見事に哀ちゃんに邪魔されたよ。一体いつの間にばれてたんだか…」


 そう言ってわざとらしく宙に視線を投げる。
 普段の新一になら見破られたかもしれない。
 けれど、今の新一にはその余裕などないだろう。

 “真実”を見抜く名探偵殿が“偽り”だと気付けば良いと頭のどこかで期待しながらも、そんな事は起こり得ないと知っている。
 だって彼は今、霧の中で砂漠に落ちた砂金を探している様なものだ。
 分かる筈がない。
 『真実ホントウ』が何かなんて何時だって変っていくのだから。


「だから哀ちゃんは止めたんだよ。新一が俺と一緒に居る事を」
「………でも、お前は……」
「そうだね。新一が俺を見つけてくれたから、俺ももう一度やり直せるかと思ったんだ。
 もう一度ちゃんと一から始めたら、そうやって傍に居たらやり直せるんじゃないかと思った。でも―――」





「―――無理だったみたいだ。だって俺は今も………」





 笑いながら手をかける。
 彼の細い白い首に手を。
 そうして極上の笑みでニッコリと笑った。










「………お前を殺してやりたいと思ってるんだから」


















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