ズキッと胸が痛んだ

 いや、そんな単純な音ではなく
 軋む様に胸が潰される様に

 それは単純にソレを見たからではない
 それは単純に痛ましく思ったからではない

 きっと嘗ての自分は知っている
 同じ事を経験している

 覚えていなくても
 思い出せなくても


 この胸の痛みは―――今も昔も同じなのだろう















 黒羽快斗的名探偵の落とし方【8】















「見付けたぜ、キッド」
「おや、流石は名探偵。貴方だけですよ。きちんとこの場所に辿り着けたのは、ね」


 夜の静けさの中にひっそりと佇む白い影。
 黒の中に突如現れた白は辺りとは対照的な色だというのに意外な程に周囲に溶け込んでいた。


「おかしいと思ってたんだよ。皆違う場所だって言うし…」
「警備の場所も、というか…目当ての宝石すら間違う始末ですからね。ビッグジュエルが二つも同時に違う場所に来日、なんて展示側も酷な事をしますよ」
「…お前もうちょっと分かり易い暗号にしてやれ」
「今回は貴方も警備に参加されると聞いたので。しかし、名探偵……。幾らなんでも警部の顔を立て過ぎですよ」
「別にいいだろ。久々のキッドの現場なんだ。機嫌損ねてもう二度と顔出せないのも御免だし、どうせ後で俺が個人的に捕まえればいいと思ってたしな」
「それは随分と舐められたものですね」


 ふわりと音も立てずに立っていたフェンスの淵から屋上のアスファルトへと降り立って、怪盗は小さく笑った。


「警察が束になっても捕まえられないこの怪盗キッドを相手に『個人的に』なんて随分な余裕をお持ちだ」
「唯の一対一の勝負だろ? 何処にも不利なとこなんて見つからねえな」


 ニヤリと探偵も口の端を持ち上げる。

 全く…相変わらずこういう所は変わらない。
 久しぶりの現場での再会だというのに、相変わらず不遜で男前だ。


「その台詞、後悔させて差し上げますよ」
「へぇ…。後悔、させてみろよ」


 言った瞬間、標準が合わせられてキッドは新一を見詰めたままその場に固まった。
 向けられているのは―――明らかに銃口。


「名探偵…。随分と物騒な物をお持ちですね」
「何だ。怪盗もやっぱり銃は怖いのか?」
「いえ。貴方がそんなモノをお持ちだったのが少し意外なだけですよ」
「いいだろ。最近は物騒だからな、護身用だ」
「おやおや、良いんですかね。完全に銃刀法違反じゃないですか。貴方を慕う警察関係者が泣きますよ?」
「さて、何の事だかな」


 普段の良い子ちゃんっぷりを完全に脱ぎ捨てた探偵に怪盗は呆れを滲ませる。
 よくもまあ…根がこんなな癖に、あんなに完璧に分厚い猫を普段被って居られるものだ…。


玩具オモチャも扱いなれていなければ怪我の元ですよ」
「お生憎様。扱いには慣れてるんだ」
「それはそれは…。お得意の『ハワイで親父に…』ですか」
「………そういや、お前―――!」


 知ってるんだな、そう言いかけて新一はキッドの背後に見えた僅かな光に慌ててキッドのマントを引っ張った。


「ちょっ…! 名探て…」
「早く隠れろ!!」





 ―――――パンッ





 乾いた音が鼓膜を震わせた。
 聞き慣れた音だった。
 見慣れた色だった。

 けれど―――それは今こんなにも違う。


「っ……!」
「キッド…!!」
「…馬鹿っ…! 出てくんじゃねえ!」


 寸での所で新一は庇おうとした筈の怪盗に逆に貯水タンクの陰に無理矢理押し込まれた。
 そんなキッドを新一が無理に引っ張り込もうと前のめりになって更にそのマントを引っ張ろうとした所で、パチンと音がした。
 するりと彼の肩から落ちたソレは素直に新一の手の中に滑り込んでくる。
 マントを外されたのだと気付いた時には強く肩を押され、新一は尻餅を付く形でキッドを見上げていた。


「おいっ…!」


 その視線の先で、怪盗は―――――静かに口元に笑みを刻む。


「逃げな、名探偵」
「ああ、だからお前も…」
「駄目だよ。奴らの狙いは…俺だから」
「キッ…」
「じゃあな。――――新一」


 最後は微かに聞こえただけだった。  言葉が新一の耳に届く頃にはキッドはもう駆け出していた。

 真っ暗な闇の中、白が駆け抜ける。
 それは闇夜に咲く一輪の月光花。
 そこに容赦無く銃弾が浴びせられる。

 まるで……自分が此処に居るとわざと相手に誇示しているような行動に新一は叫んだ。



「ふざけんな…! お前を囮にして俺に逃げろって言うのかよ!!!」



 叫んで、慌てて腰を浮かし新一が一歩踏み出そうとした所で――――。




















 ―――――――その白は、フェンスを越え夜の闇へと軽やかにダイブした……。






























「………」


 ギリッと奥歯を噛みしめ、手の中の白い布を握り締める。

 自分の不甲斐無さに吐き気がする。
 あんな風に護られた自分に苛立ちが募る。

 あの後ビルの周りからキッドの死体が出てきた……なんて事は当然無かった。
 何の用意も無しにあの怪盗があんな真似をするとは思えない。
 けれど…彼お得意のハンググライダーで飛び去った形跡も無かった。

 ………死んではいないだろう。
 だけど、生きているという確信も持てない。

 最後に彼は『新一』と呼んだ。
 それまではずっと『名探偵』という敬称を使っていたというのに。

 だとすればそれはまるで――――別れの挨拶。


「こんな事なら…本物でも用意しとけば良かったな」


 左手で、マントをぎゅっと胸元に抱き込んで、右手で黒光りするソレを引き寄せた。
 先程キッドに標準を合わせて見せたモノ。
 精巧な作りや重さまで本物に似せて作ってはあるが、これから発射されるのは弾丸ではなく―――唯の麻酔針。
 コレはキッドが言った様に唯の『玩具』だ。

 仮にコレが本物であったとしても、狙撃してきた相手の距離まではとてもじゃないが届かない。
 それは理解しているが、それでも少しぐらいは何か出来たんじゃないかと思い返して、無力過ぎる自分にげんなりする。


 嘗ての様に身体が小さい訳ではない。
 護って貰わなければならない存在ではない。

 自分ではそう思っていたのに……結局はこうして護られている。
 それが…余りにも歯痒い。


「快斗…」


 手からカタッという音を立てて、玩具が転がり落ちる。
 反対の手からはパサッとマントが落ちる。

 両手で顔を覆い、溢れ出てくる嗚咽を必死に堪える。


 シンデナイ。
 カレハゼッタイニシンデハイナイ。


 言い聞かせる様に頭の中で何度も反芻する。
 何度も何度も。
 何十回も何百回も。




















 彼が―――――帰って来る、その瞬間まで。




















「新一」


 ふわっと柔らかい温もりに後ろから抱き込まれた。
 手はそのままに後ろを振り向けば、肩越しに見慣れた笑顔があった。

 彼はもう白い衣装を纏ってはいなかった。
 黒いシャツにジーパンというラフな格好で、いつも通りの『黒羽快斗』の笑みを浮かべていた。


「快、斗……」


 彼の名を新一の唇が紡げば、その笑みはより深くなる。


「いいね。新一に名前呼ばれると安心する」
「……お前、…」
「心配してるかと思ったから、来ちゃった」
「………」
「大好き。新一。愛してる――」


 ギュッと新一を抱く腕に力が籠められる。

 柔らかい温もりと。
 いつもと変わらない笑み。

 穏やかな時間の流れを創り出そうとする快斗を……新一は睨み付けた。


「ふざけんな」
「え…?」
「何が好きだ。何が愛してるだ。俺はお前なんか―――大っ嫌いだ」


 きっぱりと新一がそう言い切れば快斗の笑顔が歪む。
 目を見開いて、悲しそうに揺れ、そして最後には酷く歪な笑顔になった。


「うん。知ってる」
「………」
「ごめんね。新一」


 言いながら、快斗は新一の肩口に顔を埋めた。
 新一はただ前を向いて、眉を寄せ目を閉じた。

 隠したって分かる。
 嗅ぎ慣れた―――血の匂いがする。


「快斗」
「…何?」
「見せろ」
「………」
「怪我、してんだろ」
「してない」
「いい加減にしろ。俺にそんな嘘通用しねえのはお前が一番よく分かってんだろ!」


 低く静かに発せられた声は最後には結局荒げられた。
 勢いよく新一が後ろを振り向けば、快斗は頭を新一の肩口から離し抱いていた腕からも新一を開放した。


「…嘘じゃない」
「快斗」
「俺は『黒羽快斗』だよ。怪我なんてしてない」
「っ……」


 聞かなくても快斗が何を意図して言ったかなんて今の新一にだって流石に分かる。
 怪我をしたのはあくまでも『怪盗キッド』であって、今新一の目の前に居る『黒羽快斗』ではない。

 酷過ぎる解答に憎しみさえ覚える。


「てめぇ…いい加減にしろよ」
「………」
「勝手に人の事庇いやがって。一人だったらもう少しマシに逃げられてたんだろ?」
「さて。俺は知らな…」
「快斗!!!」


 いい加減堪忍袋の緒が切れた。
 歪な笑みを張り付けたままの快斗の胸倉を掴み上げ、新一は間近で快斗を睨みつけた。


「誰がいつ“護ってくれ”なんて言った?」
「俺は別に護ってなんていないよ」
「…自分を囮にした癖に、大層な言い分だな」
「それは新一の“買い被り”だよ」


 あくまでも笑みを崩す事無く快斗はただ新一を見詰める。
 けれど笑みを浮かべる口元とは対照的に、その瞳は酷く真面目だった。


「御託はうんざりだ。さっさと服、脱げよ」
「おや、新一君。それは夜のお誘いだと思ってい…」
「お前、それ以上茶化したら殺すぞ?」


 言葉通りに人すら殺せそうな冷たい目で見詰められて、快斗は降参とばかりに両手を上げた。


「探偵さんが随分物騒な発言するもんだね」
「快斗」
「はいはい、分かったよ。でも、新一君。怪我人かもしれない相手にあんまりな扱いじゃない?」
「自業自得だ」
「ご尤も」


 降参した快斗に漸く溜飲を下げ、新一は手を離した。
 けれど快斗を見詰める視線の鋭さは変わらない。


「新一君」
「何だよ」
「そんなに見詰められても俺困るんだけど」
「お前が困ろうが俺の知った事じゃない。さっさと脱げよ」
「………」
「快斗」


 最後通告の様に新一がその名を呼べば、真っ直ぐに新一を見詰め一呼吸置いて快斗は小さく息を吐いた。


「分かった…」


 ボタンに手をかけた快斗は諦めた様にゆっくりとそれを外していく。
 そうして全部外し終わった所で、新一を見詰めた。


「ホントに俺大した怪我してないんだけど?」
「………」
「はいはい。分かりました」


 無言で睨まれて快斗は肩を竦めると、素直に黒いシャツをフローリングへと落とした。
 邪魔な物が無くなった快斗の上半身を新一はただジッと見詰める。

 肩に少しだけ見える赤はきっとあの時最初に撃たれたものだ。
 けれど、快斗が言う様にそこまで大した傷ではない。
 そして―――それ以外の傷を見つける事は出来ない。


「ね? ホント大した怪我してないでしょ?」
「………」
「新一?」





 ―――ぺたり


 ―――ぺた…、ぺたぺた…






「えっ…! ちょっ…新い…」






 ―――ガリ、ガリガリ




 ―――ベリベリ





 無言のまま新一は快斗へ一歩歩み寄ると無言でその右脇腹に触れた。
 瞬間、一部だけ感触の違うその部分を迷う事無く引っ掻き、そして剥がした。


「新一!!」


 慌てた様子でその手を掴んだ快斗を新一は呆れ果てた目で見詰めた。


「随分なめられたもんだな。こんなもんで俺を騙そうなんて」
「………」
「特殊メイクで傷を作って見せる事が出来るなら、逆もまた可能だ。
 でも―――こんな広範囲な酷い傷、短時間でここまで隠せるのはお前ぐらいだろうな」
「………」


 剥がれ落ちた偽物の皮膚の下には血の滲む包帯が隠れていた。
 その赤の滴り落ちそうな量に新一は盛大に舌打ちをした。


「…こんな事ならお前の顔見た瞬間に灰原んとこ連れ込むべきだった」
「…別にこれぐらい……」
「これぐらいって傷かよ、コレが!! ふざけるな!!!」


 新一が叫んだ瞬間、快斗の視界が反転する。
 僅かに遅れて気付いた時には、もう既に快斗はソファーへと押し倒されていた。


「えっ…? あの、新一…?」
「今灰原呼んでくる。お前はここで休んでろ」
「大丈夫だよ。この位自分で何とかでき…」
「…死にたくなかったら大人しく待ってろ!! この、バ怪盗!!!!」


 叫んだ新一の目から、透明な滴が零れ落ちた。
 それはぽたりぽたりと快斗の頬に触れ、耳元に流れ落ちる。


「新一…………。ごめん……」


 苦しげに快斗を見詰めてくる濡れた蒼を見た瞬間、きっと自分は何よりも酷い事をしたのだろうと快斗は漸く自覚した。
 彼を…きっと極限に苦しめたのだろうと。

 そう思ったら素直に謝罪が口を吐いて出ていた。


「謝るぐらいなら最初からこんな馬鹿な事するな」
「…ごめん」
「…灰原を連れてくるまで大人しくしてろよ?」
「…うん。分かった」


 諦めて、快斗は目を閉じた。
 離れていく新一の気配に何処かホッとしながら、肩の力を抜いた。

 騙せれば良かった。
 騙せる様にしたつもりだった。

 けれど、こんな小細工名探偵相手には通じない事は好敵手である自分がきっと一番よく分かっていた。

 傷付けただろう。
 苦しめただろう。

 それでも――――――彼だけは護りたかった。




















「新一…。―――――愛してる」




















「……あれ?」
「あら。漸くお目覚めみたいね」
「哀、ちゃん…? っぅ………」


 緩く瞼を持ち上げれば、見知った天井。
 けれどここは工藤邸ではない。
 お隣の物だ。
 どうやらあのまま気絶して此処に運ばれたらしい。

 視線を横にずらせば見慣れた哀の姿を見つけ、起き上がろうとした所で腹部に鈍痛が走った。
 それを手で制して哀は冷静に告げた。


「寝てなさい。工藤君は今居ないから」
「………そう」


 きっと顔も見たくない程に怒っているのだろう。
 そう結論付けて快斗が身体から力を抜けば、哀の冷たい言葉が降ってきた。


「工藤君、泣いてたわ」
「………」
「私は貴方に言った筈よ?」
「……うん。…………ごめん」


 快斗が生きているという事は、新一がまだあの時の様な顔はしていなかったという事なのだろう。
 もう一度同じことがあれば哀は快斗を間違いなく殺すだろう。

 けれども、そうだとしても快斗が新一を泣かせた事に変わりはない。

 素直に謝った哀は腕を組み小さく息を吐いた。
 向けられる視線に少しの呆れが混じる。


「貴方、彼の事庇ったんですって?」
「…違うよ。別に俺は…」
「仮にも魔法使いなら、お姫様を護るだけじゃなくて一緒に逃げ出しなさい」
「……そう出来たら良かったんだけどね……」


 哀の言葉に、視線を再び哀に向け快斗は小さく笑った。


「怖かったんだ」
「…死ぬのが?」
「ううん。新一が死ぬのが」
「………」


 そう、きっとあの時二人で逃げる事も出来ただろう。
 接近戦ではない。
 多勢に無勢だった訳でもない。

 ただ単純に――――怖かっただけだ。


「多分逃げられたと思う。でも…確証はなかった。
 二人で一緒に助かる方法を考えるよりも、あの瞬間はああした方が新一を助けられると思ったんだよ。
 ――――新一が死ぬのを見るぐらいなら、俺が死んだ方がよっぽどマシだ」
「……馬鹿な事を言うのね」
「え…?」
「残される者の痛みを知っていて、そんな事よく言えたものだわ」


 哀から向けられる視線は酷く冷たい。
 けれどその瞳の奥には溢れ出るのを無理矢理押し留められた悲しみが覗いていた。


「……新一に聞いた?」
「ええ。大分昔にね」
「そっか…」
「そんな痛みを貴方は彼に押し付けるつもり?」


 彼女もそうだった。
 残されたモノだった。

 だからこそそんな風に思うのだろう。
 けれど――――。


「そうだね。俺も残される辛さは知ってるつもりだ。でも、それでも俺は――――新一だけは護りたかった」
「馬鹿ね」
「知ってる。新一にも怒られたよ」


 自己犠牲なんて綺麗な物じゃない。
 唯々それは快斗の我が儘で、彼にだけは生きていて欲しかっただけ。

 どんなに怒られても、どんなに泣かれても。
 きっと同じことが起こったら快斗はまた同じ選択をするのだろう。


「……そう」


 ふと、哀はどこか遠くを見た。
 その視線は何かを捉えている訳ではなく、遠い遠い何かを思い出している様で快斗はただそんな哀を黙って見詰めていた。

 数秒だっただろうか。
 それとも、もう何分も経っていたのだろうか。

 時間の感覚が曖昧になる様な沈黙の後、哀はおもむろに口を開いた。


「……貴方は工藤君の事、殺したいと思った事はある?」
「……え……?」


 言われた言葉の意味が快斗の脳に到達するまでに何秒を要したのだろう。
 問われている内容を漸く脳が処理しきれた頃、快斗は小さく笑った。


「まさか。ある訳ないよ」
「でも、そうしたら彼は貴方だけの物になるわ」
「…哀ちゃん、それはまた随分物騒な考え方だね」


 そう言って快斗は目を細めた。


「俺は確かに新一が好きで、新一を愛してる。
 だから他の誰にも渡したくないし、他の誰の物になる所を想像すらしたくないよ。でも―――」


 そう、けれど。
 彼が自分だけの物になるのだとしても……。


「殺して新一を俺だけの物にしたって、俺の大好きなあの瞳が見られなくなるなら……それは意味がない」


 事件が好きで。
 推理小説が好きで。
 謎が大好きで。

 あの綺麗な蒼い瞳を、キラキラと輝かせて推理している時の彼が好きだ。

 照れ屋で。
 素直じゃなくて。
 中々言葉では示す事が出来なくて。

 それでも快斗を真っ直ぐ見詰め想いを伝えてくれた彼のあの優しい瞳が好きだ。

 あの瞳が快斗を映さなくなるのなら。
 あの瞳が閉じられたままだというのなら。

 それで新一が快斗だけの物になったとしても意味が無い。


「……そう」


 快斗の解答に満足したのだろうか。
 それともただ納得しただけなのか。

 哀はただ一言そう言うと、座っていた椅子から立ち上った。


「黒羽君。次工藤君の事泣かせたら、貴方実験材料にするわよ」
「…はい。肝に銘じておきます」
「それから、治療のお礼は新薬の実験台で良いわ」
「………はい」


 どっちにしろ実験材料になる運命なんですね…と突っ込みたいのを我慢して、快斗は半泣きで頷いた。
 顔を青くさせる快斗に小さく笑ってから、あっ…と思いだした様に哀は口を開いた。


「そういえば、工藤君今、目暮警部に呼ばれているから」
「……あ、そうなんだ。怒ってたから居ないのかと思って…」
「馬鹿ね、そんな筈無いでしょう。でも、彼も貴方がそう思うだろうから謝っててくれって言ってたわ」
「流石、名探偵」


 全ては予想済み、流石だと笑って快斗は哀に向けて、小さく頭を下げた。


「哀ちゃん。有難う」
「どういたしまして。腹いせに適当に縫合したから、傷大分残るかもしれないわよ」
「えっ…!?」
「冗談よ」
「え、あ……それなら、良かった…」


 冷や汗を浮かべる快斗に哀は小さく笑った。


「良かったわ。今日貴方に話を聞いて」
「え…?」
「これなら私はもう一度同じことをしなくて良さそうだから」
「……哀、……ちゃん??」


 ハテナマークを顔中に浮かべて、ことんと首を傾げた快斗に哀はまた小さく笑って今度こそ部屋を後にした。




















「……意味が無い、ね」


 彼が言った言葉を反芻して、哀は独り言ちた。


 彼が嘗て言った言葉とは大分違う。
 彼は彼が思っている程あの時壊れてはいなかったのかもしれない。

 願い故か。
 愛故か。

 歪んで見えるのは人の性なのかもしれない。


「ほとほと救えないわね。私も含めて…」


 一方からしか見えない事もある。
 またもう一方から見れば、世界はきっと変わって見えたのかもしれない。

 けれど―――あの時の自分は一方からしか世界を見る事を考えられなかった。

 それは酷く愚かで。
 でも酷く、甘美だった。



「今度こそ―――幸せになれると良いわね…」



 『怪盗』と『探偵』が幸せになれる御伽噺がこの世に一つぐらい存在出来る事を、哀はただひっそりと願った―――。


















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