嫌いじゃない
 好き…だと思う
 けれど、愛しているとは言えない

 俺が思っている『好き』と
 お前が言う『好き』は

 きっと違うのだろう

 だから言えない
 『好き』だなんて―――




 ――とても言えない……















 黒羽快斗的名探偵の落とし方【6】















「…工藤君」
「何だよ」
「新聞逆さまよ」
「なっ…!!///」


 言われた言葉に改めて目の前にある新聞を確認した新一の耳が恥ずかしさで赤く染まる。
 言い訳を探す様に宙を泳いだ新一の瞳に哀は深い溜息を吐いた。


「朝から姿見にはぶつかるし、昨日は珈琲を盛大にぶちまけるし…。貴方らしくないわね」
「………」


 快斗が来なくなったのを察したのだろう。
 昨日も今日も哀は新一を心配してこの工藤邸に来てくれている。
 心配して来てくれているのは分かっているが、そのお陰で酷い失態を見られてしまっているのも事実で…。

 昨日は三度珈琲を盛大に零した。
 それは新一の記憶にも新しい。

 一度目は心配され。
 二度目は不思議がられ。
 三度目には呆れられた。

 それも当然だろうと思う。
 新一が自分でも呆れる程のドジっぷりだ。


「黒羽君と喧嘩でもした?」
「っ……!」


 昨日までは何も聞かず接してくれていた哀も流石に心配になったのだろう。
 俯く新一に向けられた問いは彼女らしくも無く余りに直球だった。

 喧嘩、と言えば喧嘩なのかもしれない。
 あの日快斗があのまま帰ってから、もう丸5日連絡が無い。
 毎日の様に連絡してきていた快斗がそういう態度を取るのならば、これは喧嘩と言えるのだろうか。

 直球過ぎて返す言葉が見つけられず、新一がまた視線を泳がせれば、哀は少し視線を落とした。


「何が原因?」
「…分かんねえんだ」
「分からない?」
「ああ。ただ……」


 口を開きながら思う。

 あの時の彼はきっと…泣いていたのだと思う。
 あのポーカーフェイスが売りな怪盗が、耐えきれず泣いていたのだと。

 けれど、泣き顔を見せるのを嫌う様に快斗は新一の前から逃げ出した。

 それがまるで…それ以上を今の新一が望むのは違うのだと言われている気がして頭の奥がズキズキと痛む。
 胸が苦しくなる。

 これはきっと―――罰だ。


「無理、してたんだと思う」
「無理?」
「ああ。俺は多分、アイツに甘えて相当無理させてたんだと思う」


 彼は自分と嘗て『恋人同士』だったと言った。
 それを新一が思い出せないと知っても、『好き』だから傍に居るのだと言った。

 彼の傍は居心地が良かった。
 何も思い出せずとも、心と身体は覚えていた。
 酷く温かい何かを覚えていて、彼の傍は酷く居心地が良いのだと教えていた。

 いつも笑っていて。
 本当は我慢しているのだと、辛いのだと分かっていても、その彼の笑顔に新一も少し麻痺していたのかもしれない。
 こんな風に穏やかで温かい日常がずっと続くのだと錯覚していたのかもしれない。

 ――彼がどれだけ苦しんでいたか、なんて見ない振りを決め込んで。



「…彼が言ったのよ」


 ぽつりと言った哀の台詞に新一が顔を上げれば、哀は酷く渋い顔をしていた。


「彼が貴方の傍に居たいと言った筈。何があってもどんな関係だとしても」
「ああ。そうだな」
「なら、彼には怒る資格は無いわ」


 最後は消え入りそうな声だった。
 言い放つ言葉は辛辣だったけれど、それは自分が原因だと自分を責めている様にすら新一の耳には聞こえた。
 そんな快斗を責めているのか、それとも自分自身を責めているのか分からない哀の言葉に新一は小さく首を振った。


「怒る訳ない」
「……」
「アイツがそう言ってたのに怒る訳ないのはお前だって分かるだろ?」
「…ええ……」


 哀にも分かっていた。
 そう言ったのは快斗だと快斗自身が一番良く知っているだろうと。


「怒ってなんかいねえよ、アイツは…。それどころか……」
「……何?」
「……アイツ、多分泣いてた…」
「………」
「多分、…コレは俺の推測でしかねえけど……アイツの中で何かが重なっちまったんだと思う」
「重なる?」
「ああ。多分……昔の俺にでも重なったんじゃねえかな…」


 新一が言葉を紡いだ瞬間、快斗の瞳が大きく見開かれた。
 そうしてその瞳が泣き出しそうに揺れるのを見て、そしてそれが覆い隠されるのをまるでスローモーションでも見る様に新一は見詰めていた。

 そして悟った。
 きっと嘗て自分が同じ言葉を彼に言ったであろう事を。

 目の前で必死に感情を抑え込もうとする快斗を見詰めて、新一はただどうする事も出来なかった。
 手を伸ばせば良かったのかもしれない。
 けれど快斗があの瞬間に求めていたのは今現在の自分ではない。


 新一自身すら知らない――――嘗ての『恋人』としての新一。


 ソレでなければ手を伸ばす事すら出来なかった。
 触れられない壁でも存在するかの様に、あの時新一はただ手を伸ばす事すら出来なかった。

 瞳を覆い隠す手を外してやる事も。
 ましてや、逃げ出す快斗を追う事も。

 あの時の新一には――――何一つしてやれる事など無かった。


「アイツにとって今の俺は“俺”であって“俺”じゃねえんだよ…」
「でも、それでも彼は…!」


 声を高くした哀に新一は薄く笑う。


「ああ、そうだな。アイツはそれでも良いと言った。それでも傍に居たい、って。
 でも……それがいかに苦しい選択だったか、きっとアイツは今嫌と言う程実感してる…」
「工藤君…」


 言いながら、血でも吐いている気分だった。
 胃がきりきりと痛み、言葉一つ落とすたびに眩暈すら起こしそうだ。


「俺はきっと…、あの時アイツを見つけるべきじゃなかったのかもしれないな…」
「………」
「でも、俺はきっと…あの時と同じ状況になったとしたら、何度でもアイツを見つけに行く」


 それは確信。
 それは真実。

 どれだけ辛い現実が待っていようとも、この身体はこの心はその選択肢しか選べないのだろう。
 それがどれだけ辛い結末を用意していたとしても。


「…記憶……」
「ん?」


 ぼそっと聞こえた単語を新一が再び訊ねる様に首を傾げれば、迷った様な哀の視線とぶつかった。


「記憶…、を取り戻したい?」
「灰、原…?」
「貴方がもし、…記憶を取り戻したいと言うなら……」


 勿論リスクが無い訳じゃない。
 副作用のない薬なんて存在しない。
 ましてや、元に戻る為に薬漬けにした新一の身体は些細な事でも重篤になる恐れがある。
 それを分かっていて前回は薬を渡した。
 絶対に死なせられなかったから。

 だから―――。


「薬を作るわ。記憶が全て戻る薬をね」
「…作れるのか?」
「私を誰だと思ってるの?」


 わざとそう言って胸を張ろうとする哀が新一の瞳にはやけに痛々しく映った。
 それを見た新一は緩く首を振る。


「お前がすげーのはよく知ってる。でも、……止めとくよ」
「…どうして?」
「多分、何も解決しないからだ」
「…何も、……解決しない?」
「ああ」


 真っ直ぐに哀を見詰め、新一はどこか諦めにも似た顔で言う。


「お前に記憶を消させたのが俺なら、その理由が解決しなければ全部元通りだ。
 記憶が戻ってもまたきっと俺は記憶を消すだろうな。そうしなければいけない理由があるから…」
「っ……」


 哀が目の前で唇を噛んだ。
 少し滲んだ赤に新一もまた同様に眉を寄せ唇を噛んだ。


「灰原、ごめんな。お前を巻き込んだ」
「…貴方は何も悪くないわ。悪いのは私…」
「お前は悪くないよ。頼んだのは…俺だ」
「…違うわ。悪いのは……私よ」


 俯いた哀の肩が小さく震えたのが分かった。
 分かっていて、けれど新一はそれをどうしてやる事も出来なかった。
 どうした所できっと―――何も解決しないのだから。








































「………」


 携帯のディスプレイにメール画面を起動しながらも、何を打って良いか分からずに快斗は結局ベッドの端にそれを放り投げた。

 ここの所毎日同じことをしている。
 メールも電話も、しようとは思う。
 けれど何をどう打って良いのか、何をどう喋っていいのか分からずに結局は諦めて布団に潜り込むばかりだ。


「…俺の事なんてもう忘れてるかな……」


 彼が今快斗を気に留めなければいけない理由なんて何もない。
 きっとまた事件事件で忙しい日々を送っているのだろう。

 事件と。
 暗号と。
 推理小説と。

 彼はきっとそれらのモノに囲まれて平穏に――普通はそれを平穏とは言わないのだろうが、彼の平穏は正にそれだ――幸せに生きている筈だ。
 例えその中から“快斗”というモノが消えたとしても、彼の生活には何の支障もきたさないだろう。

 そう思うと、何だか自分が酷く馬鹿みたいだと思う。
 彼の傍に居たいと願った自分の存在が酷く愚かで意味のない物に感じる。


 嘗て、彼の恋人であった時すらその不安は消えなかった。
 彼にとって自分は事件以下暗号以下推理小説以下だと思っていた。
 それでも彼が『好き』だと言ってくれるならそれで良かった。

 でも今は―――その拠り所すら存在しない…。


「…居ない方が、新一の為……かな」


 きっと彼の日常を掻き回すばかりだ。
 嘗ては『恋人』だったなんて言って、彼の傍をウロウロして、彼を困らせるばかりで。
 何のプラスにもならない。
 彼にとってのプラスになんて一欠片も……。

 そう思うと余りにも情けなくて、やるせなくて。
 零れて来そうになる涙を無理矢理押し留める様に、顔を手で覆った。
 広がる闇に余計に胸が締め付けられる。
 苦しくて、辛くて、どうしようもなくて…頭も胸も軋む様に痛んだ。


「情けねえな…ホント……」


 そう、最初から分かっていた筈だった。
 欠片だって彼のプラスになんてなれないなんて事は。

 傍に居ても苦しませるばかりで。
 傍に居ても傷付けるばかりで。

 それはもう、分かりきっていた筈の事だったのに……みっともなく足掻いてしまった。



「大好き…………だったよ、新一……」



 この記憶は消される筈だったもの。
 この想いは消される筈だったもの。

 だから無かった事にして。
 全部全部無かった事にして。












 ―――――――さよならをしよう。世界で一番愛している君に……。


















































 決心を固めてから、携帯は変えた。
 住所も、行っている大学も新一には教えていなかったからこれで全て終わると思っていた。
 尤も、そんな事しなくても新一から態々連絡がくる様な事は無いだろうと分かってはいたけれど、それを自覚するのも虚しかったからあえて携帯を変えた、というのも理由のうちかもしれないが。

 そんな風に一人心の整理を付けた頃、その出来事は起こった。



「……しん…いち……?」



 大学の正門前。
 あり得ない人物の姿をあり得ない場所で視界に確認し、快斗はしぱしぱと瞬きを三度した。


「よっ…」


 気怠い感じで片手を上げて軽く挨拶されて再度固まる。
 確認する様に、一歩一歩近付いても彼の姿は当然ながら消えたりはしなかった。
 ああ、幻じゃない。

 彼の前まで辿り着いて、呆然としながらも快斗は何とか口を開いた。


「何で…」
「お前が連絡してこねえから」
「えっ…」
「おまけに携帯まで変えやがって…。此処、探すのに俺がどれだけ労力割いたと思ってんだ」
「あっ……えっと……ごめん…」


 何と言って良いか分からずに快斗が素直に謝れば、呆れた様に溜息を吐かれた。


「言い訳、あるなら聞いてやるよ」
「…ないよ」


 すかさず、言葉は口を突いて出ていた。

 何も持っていなかった。
 理由も、言い訳も、全て。
 自分さえ居なくなれば全て終わりだと分かっていたから。

 間髪入れずに返って来た答えに少しだけ新一が瞳を見開いた。


「ないって…」
「俺には言い訳する資格も、……権利も無いよ」
「何だよそれ」
「………」


 それ以上何も言えなくなって俯いてしまった快斗をちらりと一瞥し、新一は再度溜息を吐くとその手をぐいっと引っ張った。


「えっ…!? あ、えっと…新一…!」
「あーもう、めんどくせえ。付いてこい、バ快斗」
「えっ…ちょ、ちょっと…!!」


 そのままぐいぐいと引っ張られて。
 ずるずると引き摺られるまま駅の方まで連れて来られた。

 途中何も声をかけられなかったのは、何を聞いていいか分からなかったのもあるし、それに何がどうなっているかも正直よく分からなかったから。
 そんな快斗の戸惑いを余所に、マイペースにずるずると快斗を引き摺って駅までやって来て、漸く新一はぴたりと足を止めた。


「快斗」
「あ、はい!」
「…何、“いいお返事”してんだよ」
「いや、あの…何か……ね…」


 新一の真意なんてさっぱり分からない。
 快斗から連絡を取らなければきっとそれで全て終わると思っていたから。
 だから―――。


「…まあ、いいけど…。とりあえず選択肢を二つ、お前にやる」
「選択肢…?」
「ああ。これから俺の家に来るか、それともお前の家に行くか」
「え、えっと…;」


 ―――いきなり投げかけられた選択肢に快斗は混乱するばかりだ。


「さっさと決めろ」
「いや、あの…新一さん……;」


 相変わらずのゴーイングマイウェイっぷり。
 そんな所も大好きだったな…なんて暢気に思い出している余裕がある筈も無く、快斗はただ冷や汗を浮かべるばかりだ。

 意味が分からない。
 快斗から連絡を取らなければそれで全て終わりになる筈だった。

 全部全部無かった事になって。
 新一は新一の日常にただ戻るだけで。
 それで全て終わりになる筈だったのに…。


「お前が決められないなら俺が決めてやる」
「え、えっと…」
「さっさと俺の家に来いよ」
「……あ、えっと……えぇ!?」


 本日二度目のステータス混乱。
 何をどうしたらこのまま新一の家に行く話の流れになるというのか。

 少し前だったら寧ろ出禁になるぐらいだった筈なのに。
 何をどうして新一の方からお招き頂けるのか理由が分からず困惑の表情を浮かべていた快斗の手を新一は更にぐいぐいと引っ張った。


「話がある」
「あの、…俺は……」
「言い訳が無い、なんて言わせないからな。俺の気が済むまで言い訳しろ」
「…新一君……;」


 流石は俺様女王様工藤様。
 余りに俺様な言い方に何だかガックリくるのと同時に、酷く笑いが込み上げてくる。

 ああ――この人はどこまでいっても『工藤新一』だ。


「…快斗?」


 クスクスと笑い始めた快斗を不審に思ったのだろう。
 不思議そうに快斗の顔を覗き込んできた新一に快斗は小さく微笑んだ。



「分かった。するよ、言い訳。新一が……嫌だって言うまで」




 ―――ああ、駄目だ。君から離れるなんて俺にはきっと……死んだって無理だ……。








































「……押してダメなら引いてみろ、って事かしら」


 珈琲を飲みながら窓越しに、隣の門の前に止まったタクシーから降りてきた人物の姿を確認して、哀は小さく呟いた。


 よく言われる恋愛のテクニックだ。
 まさかあの恋愛音痴の名探偵殿にも有効だったとは…これは中々侮れない。

 彼が彼を落とす日はもしかしたらそう遠くないのかもしれない。
 あの日の悲劇を繰り返す日は、もしかしたらそう遠くないのかもしれない。
 でも―――。


「………仕方ないわね。だって―――」


 ―――そう、だって……何よりも大切な貴方が決めた事だもの……。


















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