記憶は軌跡
 記憶は残像

 分かっていた
 理解していたつもりだった

 それでも…
 本当には理解していなかったのかもしれない

 それがどれだけ
 苦しい事かなんて…















 黒羽快斗的名探偵の落とし方【5】















「嫌だ」
「…嫌だって新一君…;」


 ぷいっとそっぽを向いてつーんとそう言い放つ新一に快斗はガックリと項垂れた。
 それでも新一の態度は変わる事無く、再び視線は手元の本へと戻されるだけ。


「ちょっ…! まだ話しは終わってないでしょ!」
「終わっただろ。集中出来ないから黙ってろ」
「だーかーら、少しでいいから食べてくれたらその後は好きにしていいって言ってるでしょ!」


 今日の朝…というか、昨日の夜からこの調子なのだから困る。

 昨日は事件でずっと出ずっぱりだったらしい。
 それはまあ、お仕事柄仕掛けている盗聴器諸々(…)で知っていたので、きっとその間何も食べていないだろう事も考慮して帰ってくるであろう時間を見越してお邪魔した。

 事件も無事解決し漸く帰宅した新一の手には、数冊の本。
 とりあえずそれを早く読みたかったのか、新一の家の前で待ち伏せしていた快斗の行動にも普段なら少しは反発する所を、素直に家に招き入れてくれた…までは良かった。

 しかし、その手に持たれている本が大問題だった。
 深夜帯にも関わらず開いている都心部の本屋は新一にとっては非常に有難い物なのだが、快斗にとっては迷惑この上ない。
 なぜならば……事件と暗号の次に新一が好きな『推理小説』の宝庫だからだ。

 新一がその手に持って帰宅したのも、大好きなミステリー作家の最新作達。
 当然ながら快斗がどう宥め賺しても食事はおろか、睡眠すらとってくれない始末。
 一心不乱に読み耽る新一を目の前に本気で本を取り上げる事も考えたが、きっとそんな事をすれば今後家にも入れて貰えないに違いない。
 それを考えると怖くてとてもじゃないがそんな事は出来ず、とりあえず料理を作り声をかけてみたり、珈琲を淹れてみたり、睡眠を促してみたりはしたが全て徒労に終わった。
 いや、正確に言えば珈琲だけは唯一口を付けて貰えたが、それだけではとてもじゃないが安心なんて出来ない。

 幾ら今日が日曜で休みとは言え、昨日は事件で散々動き回っていた筈。
 身体も…心も疲れているだろうに食事はおろか睡眠すら一向に取ろうとはしてくれない新一を目の前に快斗は深く溜息を吐いた。


「ホント…もう少し自分のこと労わろうよ…、新一君…」


 そう呟いても、目の前の新一が聞いている様子はこれっぽっちもない。
 彼は今紙の上の血生臭い事件の真っただ中だ。
 そんな彼に快斗の呟きなど届く筈もない。
 無我夢中で本を読む新一の目の下に少しばかり隈が出来ているのに気付いてまた溜息が出る。
 身体は確実に睡眠を欲している筈なのに、当の本人はそれすら無視して目の前の架空の物語に夢中になっている。

 事件、事件、事件。

 彼の頭を占めるのはきっといつもそればかりだ。
 それが悪い事だとは言わない。
 彼が『探偵』でなければきっと無数の未解決事件が増えるばかりだ。

 けれど―――。

 そうやっていつも彼は身体に無理をさせてばかりだ。
 栄養失調、貧血、睡眠不足、過労……様々な原因でまるで電池が切れた様にパタリと倒れる事も珍しくない。

 それでも快斗が傍に居る様になってから大分ソレは減ったのだと、嘗て新一と付き合っていた時の快斗に哀は言っていた。
 あの頃はそれに半分呆れもしていたが今考えれば…昔、新一と一緒に住んでいた頃は確かにもう少しマシだった。
 食事やら睡眠やら人間の根本的な欲求が足りない事に昔も変わりはなかったが、今の状態よりはよっぽどマシだっただろう。

 今の互いの関係からすればそんな事は決して言えないが、別々に暮らしている今、あの頃に比べて目の届かない時間は多い。
 それが―――歯痒い。


「……一緒に住んでたら、もう少し………」


 言いかけて慌てて快斗は口を噤んだ。
 そうして目の前の新一の顔を伺うが、その顔には何の変化も感じられなかった。
 どうやら聞こえていなかったらしい。
 それにホッと胸を撫で下ろして、一瞬思考を巡らせると漸くソファーから立ち上がった。

 きっとこのまま傍に居ても同じだ。
 自分が幾ら呼びかけても彼は煩わしそうな顔をするだけだろうし、空想の物語達の方が今は大事だろう。

 そう思って台所まで来て、シンクの淵に手をついて…自嘲的な笑みが口元に上る。

 “今は”などと思うなんて何て馬鹿な考えだろう。
 記憶のない今の新一にとっては“今この瞬間”だけでなく、これから流れる時間の中ですら快斗の存在など取るに足りないものだろうに。

 嘗ての恋人時代なら新一にとっての優先順位が、例えばその瞬間だけは推理小説が勝ったとしても、読み終われば彼は快斗のモノだった。

 けれど…今はそうではない。
 彼は…彼にとって快斗は決して今“無くてはならない存在”ではない。
 快斗の想いを汲んで、そうして“仕方なく”傍に置いてくれているだけだ。

 優しい優しい彼の事。
 きっと快斗以外の人間が恋人であったとして、そうして記憶が無くなったとしても、きっと同じ事をするのだろう。
 人の思いを無下には出来ない…優しい人だから。


「…残酷だね。新一は……」


 いっそ嫌われた方がマシだったかもしれない。
 いっそ切り捨てられた方がマシだったかもしれない。

 そう思いつつも、そう思ってしまった自分を否定する様に快斗は緩く首を振った。


「違うな…。俺が―――」


 そう、きっと新一が嫌いだと言っても。
 そう、きっと新一が要らないと言っても。

 どう足掻いてもこの想いは消えない。
 どう足掻いてもこの想いだけは―――消せやしない。


 ギリッとシンクの淵を掴む手に力が籠る。
 痛みを伴うその動作さえ、何故だか心地良かった。
 終わっていると思う。
 余りにも自虐的だ。

 そう思ったら何だか笑えてきて、思わずクスクスと音が唇から零れ落ちた。
 自分が酷く滑稽で、それでいてそんな自分が余りにも自分らしくて吐き気がした。

 天井を見上げ、瞼を閉じる。
 見えるのは闇ではない。
 台所の電気が瞼越しに強い光を投げかけてくる。
 聞こえるのはリビングで新一が捲るページの音だけ。

 それが酷く心地良くて……どれぐらいそうしていたのだろう。
 その音がぴたりと止んでそれが合図かの様に瞼を持ち上げれば、背中に視線を感じた。
 誰の物かなんて分かりきっていたからゆっくりと顎を下げ、緩慢な動作で後ろを振り向けば、不思議そうな顔をした新一が快斗を見詰めていた。


「何してるんだ…?」
「さて、何してるんだろうね」


 明確に『何をしていたか』なんて快斗にも答えられない。
 だから素直にそう言えば、新一の眉が訝しげに寄せられた。


「天井に何かあったのか?」
「ううん。何にも」
「………」


 快斗の真意を図りかねているのだろう。
 僅かに鋭くなった新一の瞳に、快斗は降参とばかりに苦笑を浮かべた。


「少し、考え事をしてただけだよ」
「…そうか」


 “何を”とは聞かない。
 きっと新一も聞くのが怖いのかもしれない。

 だから昔の様に追及もしなければ、それ以上言及もしてこない。
 それが快斗には酷くもどかしかった。


「聞かないの?」
「聞いて欲しいのか?」
「………」


 今度は快斗が黙る番だった。

 確かに今聞かれても何を答えたらいいのか分からない。
 そう考えたら聞かないのは新一なりの優しさな気がして快斗はニッコリと笑った。


「ご飯食べられそう?」
「………」


 答えた新一の視線が一瞬リビングへと向く。
 その視線の先にはまだ何冊か本が積み上がっている。
 当然読み終わった物ではなく、これから読む予定の物だ。

 その視線は直ぐに快斗へと戻されたが、その一瞬で快斗には全て伝わってしまう。


「残り、読みたいのは分かるけど…その前にとりあえずお風呂入っておいで。俺はその間に用意しておくから、食べてから続きは読みなよ」
「………分かった」


 ひじょーに不服そうな“分かった”に快斗は苦笑して、それでも素直にバスルームへと向かった新一を見送ると、とりあえず台所を出てリビングを抜け、階段を上った先の新一の部屋へお邪魔する。
 勝手知ったる、とばかりにクローゼットから適当に洋服を見繕ってまた階下へと戻ると、着替えをバスルームの脱衣所に置いておいてやる。

 そうして宣言通りに食事を…とは思ったが、こちらは既に準備が出来ている。
 なんたって昨日の夕食のつもりで作っておいた手付かずの料理がそのままそっくり残っている。
 ちなみに、疲れていて食欲もないだろう新一の事を考慮して、野菜たっぷりのスープを作った。
 温めて、焼いておいたパンと一緒に出してやればいいだろう。
 どうせ大して食欲もないのだろうし、早く残りの本達を読みたい彼がそう食事に時間をかけるとも思えない。

 そう思ったら途端に手持無沙汰になった。
 とりあえず冷蔵庫を覗き込んで、溜息を吐く。

 快斗が昨日の夜買ってきた食材以外、本気で何も入っていない。
 厳密に言えば栄養補助食品の黄色い箱が一つと、ゼリー飲料が二つ。
 それらが一般家庭には些か…というか大分大き過ぎる冷蔵庫の真ん中に鎮座しているのだからやり切れない。

 快斗がこの家に居た頃は…もう少しというか、もう大分マシだった。
 冷蔵庫もきちんと冷蔵庫としての機能を果たしていたというのに…これでは何だか冷蔵庫も気の毒だ。
 後で何か買ってきて入れてやろうと思案している間に、ワシワシと乱暴にタオルで髪を拭きながら新一がバスルームから戻ってきた。


「さっぱりした?」
「ああ」
「こっちおいで。髪、乾かしてあげるから」


 するりとその腕を取って、椅子へと座らせれば新一は素直に応じる。
 快斗が内に秘めた想いになどまるで気付かずに。

 どこからともなく快斗がドライヤーを取り出せば、その行動に新一は呆れた様に視線を送った。


「お前はホント…毎回毎回…」
「ん?」
「いや、いい…」


 一体新一が何を言いたいのか分かっていないのだろう。
 まるで呼吸をする様にごくごく普通にそうして見せる快斗に溜息すら吐くのを諦めて新一はされるがままになっていた。

 心地良い温かさが髪を撫でる。
 快斗の手付きの優しさと、その温風で忘れていた睡魔が襲ってくる。
 重たくなる瞼に最初は反抗していたが、それでもゆるゆると眠気に意識を持って行かれる。

 そうして―――新一の意識は深い深い所へと持って行かれた。















「新一…?」
「………」


 こっくり、こっくり、とさっきから何度も首が傾くのを微笑ましく見守っていたが、遂にはカクッと下を向いたまま動かなくなった新一に快斗は小さく声をかける。
 案の定返事は返ってこない。
 返ってくるのはすよすよという穏やかな寝息ばかり。
 それにどこかホッとしながら、快斗はドライヤーを傍らに置くと、新一を起こさない様に慎重にその細い身体を抱き上げた。


「(起きたら今度こそ食事取らせないとな…)」


 軽すぎる身体にそんな事を思いながら気配を消し、足音すら立てずに階段を上り新一の部屋へ。
 そうして漸くベッドの中へ新一の身体を滑り込ませるのに成功した。

 コレを見越して眠り易いがパジャマではない服装を考えた、と知ったら彼は怒るだろうか。
 そう思いながら膝を付き彼の頭の傍に自分も頭を乗せると、そっとその髪を撫でる。
 サラサラとして触り心地の良い髪に思わず離れ難くなってしまって数度それを繰り返した頃、


「んっ……」


 小さく声を出した新一にビクッとして手を止める。

 息を潜め、ジッと大人しくしていれば、再び緩やかな寝息が聞こえてきた。
 それに胸を撫で下ろし、名残惜しくはあったけれどその髪から手を離す。

 巷では『平成のシャーロック・ホームズ』なんて言われて犯罪者に恐れられている名探偵殿も、寝顔は酷く幼い。
 あどけなささえ残すその真っ白な頬に不意に口付けを落としかけて……我に返る。


「…何、してんだろうね……俺は…」


 彼には記憶が無い。
 いや、厳密に言えば快斗と恋人同士だったという記憶が無い。

 だとすれば、勝手にそんな風に触れられるのは彼にとっては歓迎できる事ではないだろう。
 こうして髪に触れるのだって彼が起きていれば嫌がったかもしれない。
 髪を乾かすという口実に何度かドライヤーをかけてやったりしたが、それはそれこれはこれ、だ。
 快斗の触れる手に別の意図を感じ取った時点で、新一が身を引くのは目に見えていた。

 それでもいいと思った。
 『恋人』になれなくても『親友』でも『友達』でも…唯の『家政夫』だって構わない。
 傍に居られれば何だっていいと思った。
 どんな関係だろうと、どんな風に見られようと…傍に居られればそれで幸せだと確かにあの時は思った。


 けれど、心は貪欲に叫び続ける――――。






























 ―――彼に…嘗ての様に“愛して”貰いたいのだと………。






























 ちりっと胸の奥が焼け付く様な感覚を覚えて、快斗は目を瞑るとゆっくりと息を吐いた。
 息を吐ききって、もう一度ゆっくりと吸い込む。
 吸えるギリギリまで息を吸って、もう一度ゆっくりと吐き出す。

 少しでも落ち着きたかった。
 少しでも落ち着かせたかった。

 頭も、心も…過剰に反応してしまっているのだろう。
 彼が余りにも無防備にその身体をその心を快斗の前に晒すから。

 けれど、それを責める権利は勿論快斗にはない。
 こうなる事が分かっていて傍に居るのだと決めたのは他ならぬ快斗だ。
 だから、思ってはいけない願望も、持ってはいけない欲望もグッと握り込んだ手の中に全て納めて身体を起こし立ち上がった。

 あどけない新一の寝顔を見下ろし、少しだけ目を細めて色々な思いを振り切る様に快斗は新一の部屋を後にした。






























「………キス、されるかと思った………」


 ぼそっと呟いて、新一はその言葉の意味をもう一度頭でなぞった後、上がる熱を隠すかの様に赤くなった頬が隠れるぐらいまで両手で布団を引っ張り上げた。
 眠気を感じていたのは事実だが、半分うつらうつらしていた所で……快斗のあの行動だ。
 どうする事も出来ずに寝たふりを決め込んだ内心は酷くドクドクと脈打っていた。

 けれど、快斗に感じるのは嫌悪ではない。
 恥ずかしい感情の方が果てしなく強い。


「…アイツきっと我慢、してんだろうな……」


 向けられる視線の中に籠る熱を見ない振りをして来た。
 彼の想いを知っていてなお、彼の言動の端々に見えるモノを見ない振りをして来た。

 ちりっと胸の奥が痛む。

 彼と自分が嘗ては“恋人”という関係だったのだと彼は言った。
 それはきっと事実なのだろう。
 灰原もそれを認めているのだし、それに…触れられる手に込められた意図を知っていてなおこの身体は嫌悪を示さない。
 無意識下で新一も分かっている。
 ―――この身体は確かに彼を受け入れている。


「……でもなぁ、…だからって……」


 アイツも男で、自分も男で。
 彼に『恋人だった』と言われた所で、『はい、そうですか』とおいそれと全てを差し出せる程、新一は寛容にも愚鈍にも投げやりにもなれなかった。

 無意識では彼を受け入れている。
 けれど、記憶を無くした上の理性がそれを冷静に阻んでいる。

 記憶が戻れば彼をまた『好き』だと思うのだろうか。
 そもそも記憶は戻るのだろうか…。

 確証は無い。
 記憶が戻るという確証が無い以上、新一が快斗にしている仕打ちは余りにも惨い物ではないのだろうか。

 けれど…それでも彼は傍に居たいと言ってくれた。
 記憶を無くし、それでも無意識に受け入れた新一の傍に居たいのだと。


 そこまで考えて…、新一は深く溜息を吐いた。

 どこまでいっても堂々巡りにしかならない。
 記憶が戻らない以上それ以上先には進めない。
 かと言って、無意識下で受け入れた快斗を今更手放してやるなんて出来ない気がする。

 何だかんだ言って彼の傍は心地良い。
 だからと言って、このまま彼を傍にこうして置き続けるのは酷く残酷なのだと新一自身分かっている。

 思い出せない癖に――――彼の傍に居たいと願うなんて…。


「…救えねえな……」


 瞳を閉じ、自分の頭の悪さに顔を顰める。
 このままで居られる筈がないと知っているのに、このままで居たいと願う自分が居る。


「…残酷だな、俺は……」


 零れ落ちた事実は余りにも辛辣な現実だった―――。


















































「はよ…」
「おはよう。でも、新一君。残念ながら世間一般的には今は『おはよう』じゃなくて『こんばんは』だよ」


 クスッと笑ってそう言って。
 こしこしと未だ眠そうに瞼を擦りながらスリッパをぺたぺたと言わせて起きてきた新一に快斗はすっとダイニングテーブルの椅子を引いてやる。


「お腹空いてる?」
「…少し」


 エスコートされるままに椅子に座り、未だ眠そうに何度か瞬きを繰り返す新一に快斗はまた小さく笑って、とりあえず珈琲の入ったマグカップをその前においてやる。


「今温めるからこれ飲んでちょっと待ってて」
「ん…」


 両手でマグカップを持ち上げてそれに口を付ける仕草は余りにも幼い。
 可愛過ぎるその光景に思わず鼻を覆う様に手で顔を覆って、快斗は早々にキッチンへと退却した。


「(やっべー! マジ可愛い!! ホントあの人マジで可愛過ぎるから!!!!///)」


 これはうっかり鼻血モノだ。
 しかも本人が無自覚だから性質が悪い。
 性質は悪いが…悪いんだがもう………べらぼうに可愛過ぎる。


「……俺もう、死んじゃうかも……」


 今までだって必死に堪えてきた。

 抱き締めたい。
 キスしたい。
 それ以上だって勿論―――。

 嘗ては『恋人』だった彼が、無防備にその可愛さを快斗に晒す。
 それは心を許しているのだと言われた様で酷く心地良いが、その実酷く苦しかった。

 欲望と日々葛藤し、どうにかこうにか折り合いを付けて彼の傍に居る。
 昔から、それこそ恋人だった頃からそういう所は無自覚で無防備だったけれど、今の彼はそれ以上だ。

 いつ何時…手を出してしまうかもしれない。
 けれど―――彼には絶対に嫌われたくない。
 今、嫌われてしまえば今度こそ完全に終わりだ。
 彼の傍に居る事すら叶わない。
 そんなのはもう………耐えられない。

 だから醜い欲望も、酷い独占欲も全部全部押し込んで。
 彼の傍に優しく在りたいと思った。








「いただきます」
「はい。召し上がれ」


 ちょこんと手を合わせきちんとご挨拶をして料理に手を付けた新一を快斗は目を細くして眺める。
 こうして自分の作った料理を食べて貰える事がこんなにも幸せなのだと知ったのは彼と出逢ってからだ。


「快斗は食べないのか?」
「俺は可愛い新一見詰めるのに精一杯で胸が一杯で食べられな…」
「黙れこの変態」


 キッと睨む新一の瞳に先程までのほわほわとした可愛さは無い。
 それでもそんな顔も酷く男前で、快斗はやに下がるばかりだ。


「酷いなー。俺は変態じゃなくて新一馬鹿なだけだよv」
「救えないな」
「救えないね」


 呆れられても、幸せだった。
 それだけでもう、幸せだった。








「ごちそうさま」
「お粗末様でした。美味しかった?」
「ああ。美味かった」


 こういう所は素直に言ってくれる。
 スプーンを置いて、少し目元を緩ませた新一にドキリと胸が鳴った気がして快斗は慌てて言葉を足した。


「あ、そう言えばレモンパイ焼いてあるけど食べる?」
「食う」
「…ホント、新一君はレモンパイだけは別腹だね」
「るせー。いいだろ、別に」
「はいはい」


 普段“デザート”という概念が無い――というか、メインすら残すタイプの――新一がレモンパイだけはちゃんとデザートとして食後に食べてくれる事は分かっていた。
 だからこっそり焼いておいて正解だった。

 さっくりと焼き上がったパイを切り分けて、ことりと新一の目の前に置いてやる。
 その隣には当然の如くマグカップにおかわりされた珈琲。


「…ホントお前は上手く作るよな……」
「そう? これぐらい普通だよ?」
「お前のコレが普通だったら、何軒の洋菓子屋が潰れると思ってんだ」
「それはそれは。名探偵にそう言って頂けて光栄ですよ」


 少しだけ夜の顔を織り交ぜて視線を向ければ、一瞬見開いた目が直ぐに逸らされる。
 けれどそれは嫌われているからではない。
 その頬が赤いのが何よりの証だ。


「別に…褒めた訳じゃねえよ」
「知ってますよ」
「っ……! もう、食うからな!」
「はいはい。どうぞ」

 誤魔化しきれずに慌ててレモンパイにフォークを差し入れる新一にクスクスと笑みが零れてしまう。
 いつだってこんな風に可愛いから。
 ついつい苛めたくなる。


「美味い…」


 一口、また一口と口に入れられていく欠片達。
 そうして咀嚼した後、新一は快斗に満面の笑みを向けた。





「なあ、快斗…」
『なあ、快斗…』





 その瞬間、言葉が頭の中で重なる。
 聞き覚えのある甘い声が耳の奥でノイズの様に今目の前の新一の声に被さる。












 ダメダ。








 コレイジョウキイタラダメダ―――。




















「すっげえ、美味い。……俺、お前が作ったやつじゃねえともう食えねえかも…」
『すっげえ、美味い。……俺、お前が作ったやつじゃねえともう食えねえかも…』




















「っ………!!!」














 ―――余りにも甘美なその音に、理性の全てが持って行かれた。












「快、斗…?」
「………」


 堪えきれずにテーブルに肘をついた状態のまま両手で顔を覆う。
 心配そうにかけられた声に返事をする事すら出来ない。

 息が出来ない。
 喉に張り付いて言葉が出ない。
 瞼の奥の奥まで熱くて、それを堪える為に押さえた手の下で必然的に眉が寄る。


「快斗…? 大丈夫か?」


 『大丈夫』そう言いたいのに、口を開けば嗚咽が漏れそうで口すら開けない。
 胸から溢れる思いだけで、押し潰されそうになる。


 もう、限界だ。
 溢れるモノを堪えられそうにない。


「………ごめん、新一」
「快、…」
「俺、…帰る」
「えっ…? あっ、オイ…!!」


 ガタン、と音を立てて椅子が倒れるのが分かった。
 それでもそれを気にしていられる程の余裕は無かった。

 目の前の新一が困惑しているのが分かった。
 それでもそれを気にしていられる程の余裕は今の快斗には無かった。

 立ち上がって、翔る様にその場を逃げ出した。

 酷い音を立てて廊下を走り抜け、酷い音を立てて玄関の扉を閉めた。
 気配が追って来ない事に何処か安堵感を覚えながら、玄関の扉に背を預けずるずるとその場にしゃがみ込む。


「駄目だ…俺、……」


 分かっていた。
 彼が何も覚えていないなんて。

 理解していた。
 彼が何も覚えていない事を。


 なのに、彼は彼だった。
 同じ顔で同じ言葉で同じ瞳を快斗に向ける。


 嘗てと同じ顔で、全く同じ顔で――――何も知らずに快斗を見詰める。


 堪らなかった。
 もう、限界だと悟った。


 ――――――彼と同じ様に、自分も全てを忘れてしまいたいと願った…。


















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