本と
珈琲と
事件の要請と
忙しければ気も紛れる
忙しければ意識も他に逸れる
けれど、こういう時に限って何もないなんて
世の中どうかしていると思う
黒羽快斗的名探偵の落とし方【3】〜名探偵の憂鬱な一週間〜
快斗に出入り禁止を言い渡したから漸く落ち着いて本が読めると思ったのに、快斗に頼んだ新刊まで読みたい本が出る予定も無く。
快斗に出入り禁止を言い渡したから漸く出かけに「早く帰って来てね; 新一に会えないと俺は寂しくて死んじゃうんだから〜;」とか泣いて縋られる事も無くなったから、出るのは容易なのにこういう時に限って事件の要請も無く。
新一は珍しく『暇』という時間を過ごしていた。
「っ…!」
目の前で左の人差し指に入った細い一本の赤い線から伝わる痛みに新一は顔を顰めた。
指から伝わる微妙なその痛みに料理をする気も削がれ、皮を剥きかけだった人参と包丁をシンクへと放り出した。
今日は日曜日だから学校は休みで。
昨日は何だかあのまま寝るに眠れなくてそんなに寝ていないというのに珍しく朝から目が覚めてしまって。
現時刻十一時四十八分。
余りにも暇過ぎて。
酷く久しぶりに、珍しく料理なんてしてみればこの様で。
アイツに甘やかされ過ぎていたのだと改めて思った。
「外、食べに行くかな…」
「はぁ……」
食事を取りに近所のイタリアンレストランに行って。
店を出てから新一は一人溜息を吐いていた。
結構気に入っていた店なのだ。
昔は蘭を連れて行ったりもよくしていた程。
けれど、どうやらそれも遠い昔の事にしなければならないらしい。
(あー…もう、俺外食出来る気、しねぇ…;)
端的に言えば、美味しい、と感じなかった。
いや、別に料理が不味い訳ではない。
が、人間というのはつくづく強欲なモノらしく、満足していた頃は美味しいと思っていたのに、それ以上のモノを与えられた後に食べるとそこまで美味しいと思えない。
結局、慣らされてしまったらしい。
アイツの料理に。
(これから一週間どうしよっかなぁ…マジで;)
誰かと食べるのなら、別に何でも基本的には気にしない。
けれど、一人で食べる時に美味しいと思えるモノ以外を食べなければいけないのは結構キツイ。
正直…食欲が無くなる程に。
けれど、食べないでこれ以上痩せようものなら煩く言う人間を新一は少なくとも三人は知っていた。
お隣の主治医と。
世話焼きの幼馴染と。
そして、アイツ。
だからこうして面倒だとは思いつつ食事をきちんと取ろうなんて自分にしては珍しい事を考えればこの状態で。
不謹慎だとは思うけれど「事件でも起こってくれないかな…」なんて物騒な事を考えてしまう。
そうすればこの暇な時間も無くなり、きっと警部達と食事を取ったりもするだろうから。
一気に二つの問題が解決できるというのに…。
「あー…ったく、こういう時に起これよ、事件」
そんなかなり不謹慎な発言をして、新一は仕方なく家に帰る事にした。
「あれ? 新一? 偶然だね〜♪」
「………」
そう、帰る事にした…筈だった。
というか、とりあえず帰ろうとしていた時だった。
道で今一番会わないだろう人物と遭遇したのは。
「どーしたの?」
「何が偶然だ。白々しい」
「えー、偶然だよぉ〜。俺達の奇跡の出会いに乾杯v」
「…乾杯するもんがねえだろうが」
余りにも白々しいすっとぼけっぷりに新一は冷静な突込みを入れて。
綺麗な弧を描く二本の眉の間に思いっきり皺を寄せ、こめかみを押さえた。
「あのな、何で会いに来てんだよ」
「だってー。俺気付いちゃったんだもん♪」
「何をだ?」
「新一は、『家』に『出入り禁止』って言っただけだって♪」
「………」
「つ・ま・り…外なら良いって事だよね〜vv」
「………」
新一はそのままの体制+盛大な溜息という最大限の不機嫌さを表す態度を取ってみたのだが、それも快斗には通じないらしい。
目の前でにこにこルンルンとしている快斗は最早新一の手には負えなかった。
「だから、会いに来ちゃった♪」
「……いつから、付けてたんだ?」
「んーと、新一がご飯食べに行くぐらい?」
「って、お前それ結局最初からじゃねえか!!」
「い、いやぁ…だって新一が珍しく外出なんてするからビックリし…」
「……ほぉ……。お前、家に監視カメラか盗聴器付けてやがるな?」
「あっ!! あ、あのぉ…それは、そのぉ………;」
「さっさと帰って探そ…」
「ちょ、ちょっと! 新一!!」
そのまま帰ろうとする新一の腕を快斗が引き止める様に掴めば、キッっと厳しい目で睨まれた。
「何だよ」
「何で帰っちゃうの!?」
「帰らない理由がねえだろうが」
「……俺は理由にならない訳?」
「ならない」
「………」
いつもの様に新一がきっぱりさっぱり告げてやれば、快斗はいつもの様に縋りついて来る訳ではなく、珍しく硬い表情をした。
「快斗?」
「……そう、だよね……」
何かを諦めた様な。
何かを悟った様な。
快斗のそんな少し寂しさの漂う表情が、ひたすらに新一の不安を煽った。
「かい…」
「新一にとっては…俺はまだ『他人』だもんね……」
そんな快斗は忘れていた。
こんな快斗は忘れていた。
いつだって快斗は笑っていて。
いつだって快斗は楽しそうで。
だから忘れていた。
彼が本当は不安で不安で仕方ないのを懸命に自分の為に隠してくれている事を。
「快斗」
自分はまだ何も思い出せていない。
あの時、彼のことが引っかかって気になって仕方なかったのはもはや本能とも言えるもので、何かを思い出したからではない。
彼と恋人だったとか。
彼のことをそういう意味で好きだったとか。
今そう言われても何も思い出せないし、何の実感も湧かない。
唯それでも――――彼のこんな顔は見たくないと思う。
「…何?」
「お前、忘れたのか?」
「…?」
新一の問いかけに不思議そうに首を傾げた快斗に新一は口の端を持ち上げてみせる。
「一週間後に来いって言ったろ? 俺はそれを楽しみに待ってるんだぜ?」
「…!?」
まるで珍獣でも見るような、驚いた目で見詰められたのは若干癪ではあったけれど、それも悪くないと新一は思う。
偶には。
快斗が本当に不安になった時だけはこうして素直に言ってやるのも悪くない。
そんな気がした。
それは記憶がないにもかかわらず、胸の奥底から湧き出たような感情。
「だから…お前も、一週間後楽しみに待ってろよ」
我ながら甘いと思う。
確かに嘗ては恋人(だったらしい)関係にあって。
だからと言って、その時の記憶の無い自分にとってはあくまでもまだ快斗は友人の域を脱しない、良く言って親友というか…悪友という感じで。
もしかしたら、突き放すのも一つの優しさなのかもしれない。
けれど、快斗の顔を、あの濃紺の瞳を見詰めてしまうと、そんな事すら出来なくなってしまう。
恐ろしいのは、無意識下にあるらしい、自分の中の彼への愛情というオブラードに包み込まれた執着か。
何とでも名前を付ける事は出来る癖に、本当に真実の名を付ける事が出来ないこの感情は当分このままなのだろう。
甘いと思う。
彼も、自分も。
それでも、この甘ったる過ぎる練乳の様な状態に甘んじたいという彼と、それを表面上はぶつぶつと言いながらも、受け入れてしまう自分と。
当分はきっと、このままの関係が良いのだろう。
いや、良いとは言えないのかも知れないが、自分が彼との事を思い出すまではこのままでいるしか道はないだろうから。
もう一つの可能性を考えるなら……このまま思い出さない自分が、彼の事を愛しいと想う日が来ないとも限らないが。
どちらにしろ、それはきっと当分先の事な気がするし、快斗には悪いけれど先であって欲しいとも願ってしまう。
だって、そうすれば、もう少しこの『トモダチ』関係を楽しんで居られるから。
「わ、わかった! 新一が楽しみに待っててくれるって言うなら俺も楽しみに待つから!」
素直に新一の言葉に頷く快斗に、ついつい悪戯心が芽生えてしまった新一はにっこりと微笑んで言い放った。
「じゃあ、取り合えず……一週間は俺に顔見せるなよ?」