最初は額に
次は首筋に
そっと唇を滑らせて
鎖骨へと吸い付いて
ねえ、新一
貴方はどこまで堕ちてくれますか?
矜持(ver.bitter)
そっと額に触れた柔らかい感触に新一の意識が浮上する。
酷く重い瞼を無理矢理押し上げて辺りを見渡す。
暗闇から目覚めてなお視界に広がるのは闇。
けれど、窓から差し込む月明かりが仄かに部屋を明るくしていた。
「目が覚めましたか?」
「………」
優しく掛けられた声と、そのにこやかな笑みを向けられても新一はその相手を睨み付けるばかり。
漸く思い出した。
自分がどうしてこういう状況になっているのかを。
そして意外にも時間は大して経っていなかったのだという事を。
「もうちょっと可愛い顔は出来ないんですか? 折角の情事の後だというのに」
「情事、ね。強姦の間違えじゃねえの?」
「おやおや。さっきまで私の下で可愛い声を出していた方の発言とは思えませんね」
「っ…」
新一にも自覚はあった。
抱きしめられて。
口付けられて。
自分ではどうする事も出来ない熱を与えられて。
狂わない為に縋った。
狂わない為に強請った。
その自覚はある。
けれど、それを認めてしまう事は同時になけなしのプライドを捨て去ってしまう事を意味した。
それは―――出来ない。
「あんなもの…唯の生理現象に過ぎない」
「生理現象、ね…。
まあ、そう思いたいのならそういう事にしておきましょう。真実は―――貴方自身が一番良く分かっている筈ですからね」
紡がれた言葉に新一は頭に血が上るのを感じていた。
分かっている。
それは人が図星を突かれた時に逆上するのと同じだ。
けれど、そこで表情を崩せば、怒りを露にすれば、認めているのも同じ事。
新一は努めて冷静に声を絞り出した。
「勝手に言ってろ」
ぷいっとそっぽを向いて、漸くここが寝室のベッドの上だという事に気付いた。
自分の記憶の中にあったのはリビングのソファー。
一体いつの間に移動させられていたのか…。
「…新一。貴方はまだ自分の立場が分かっていない様ですね」
キッドに上から圧し掛かられ、ぎしっとベッドのスプリングが軋む。
男二人分の体重はシングルのこのベッドには聊か重過ぎる様だ。
「こっちを向きなさい。新一」
未だキッドから視線を逸らしたままの新一を咎める様な言葉に新一は敢えて従おうとはせず、そのまま視線を動かさなかった。
苛立った雰囲気がキッドからは伝わってきたけれど、新一はそれ以上自分からどうこうするつもりはない。
ここで向けば、キッドに従う事を甘受してしまった事になる。
それは避けたかった。
けれど、相手はキッド。
それで許してくれる訳がないのも同時に分かっていた。
「いい度胸ですね。貴方が余り反抗的な態度に出るなら私にも考えがありますよ?」
「……何だよ」
「言ったでしょう? 貴方の大切なモノから傷付けて差し上げると」
「………」
卑怯以外の何物でもなかった。
大切な人を盾に取られ。
それでも歯向かえる程の勇気も冷酷さも、残念な事に新一は持ち合わせていなかった。
キッドの望み通りに視線を向ければ、満足そうな笑みが返ってきた。
「いい子ですね。貴方はそうやって私の言う事を聞いていればいいんですよ」
「………」
嫌味以外の何物でもないその言葉に新一はキッドを睨み付けてやりたい衝動に駆られたが、後先を考えて止めた。
これ以上彼の気に障る様な事をしても自分には何のメリットも無い。
唯単に状況が悪くなる一方だ。
彼が―――自分の支配者である限りは。
「少しは学習したみたいですね」
クスッと小さく笑って自分を抱き込むキッドの腕の中で、新一は唯静かに瞳を閉じる。
どうすればこの状況から抜け出せるのか―――唯、それだけに意識を集中させる。
選択肢はきっと三つだけだ。
一.自分の大切な人を見捨て、自分だけ助かる。
二.自分の大切な人を助ける為に、永遠に彼の言い成りになる。
三.彼を自分と同じ所まで引きずり落とす。
一は当然ありえない。
新一は其処まで冷酷にも冷淡にもなれない。
何も、今のまま何も手を打たなければ必然的に二になるのだろう。
目の前の怪盗が自分に飽きるまで。
だとしたら…残された選択肢は三しかない。
相手は犯罪者。
自分よりも探られて痛い腹は多い筈だ。
もしくは…同じ土俵まで彼を持ってくればいい。
そう――――彼がした様に、自分も彼の正体を掴み、彼を脅迫すればいい。
「何を、考えてらっしゃるんですか?」
「…別に」
何も言わずに逆らう事なく唯抱きしめられているだけの新一をきっと不審に思ったのだろう。
投げかけられた問いにまさか正直に答える訳にもいかず、新一は短くそう告げた。
それでも、怪盗がきちんと新一の思考を予想してくれているのを分かっていて。
「なら聞き方を変えましょうか。何を…企んでらっしゃるんですか?」
「………」
楽しそうに笑いを含んだ声―――新一からはキッドの表情は見えない位置にあるのであくまでもそう感じるだけ―――がそう問い直す。
流石だ、と思う。
予想はしていたが自分が何を考えているのかこの目の前の男は寸分違わず理解しているのだろう。
そして、流石だと思うのと同時にこれだからコイツは嫌だと思う。
下手に頭が回る奴と、下手に勘が鋭い奴は敵には回したくない。
今更それを言ってもどうにもならないのは新一とて分かっている事だが。
「まあ、いいでしょう。聞かない方が私としても楽しめますからね」
まるでゲームだと言わんばかりの物言い。
いや、きっと目の前のこの怪盗にとってはこれはゲームでしかないのかもしれない。
自分にも感覚がある。
余りにも非日常に身を置き過ぎると何もかもがリアルではなくなるのだ。
何もかもがまるでゲームの様に見えてくる。
きっと同じ感覚を自分も怪盗も知っている。
だからきっと怪盗はどこまでも楽しむのだろう。
この狂ったゲームという名の賭けを。
「だったら…精々楽しませてやるよ」
どの道、新一はこのゲームに乗るしかない。
既に最初の一手は怪盗に抑えられている。
不利な状況から始まるゲームはフェアではないが、現実にフェアな事なんてさして多くはない。
アンフェアな方がよっぽどリアルだ。
だとしたら―――このアンフェアな状況から始まるゲームの方がよりリアル。
そこまで考えて新一は思考を完全に切り替える事に決めた。
これはゲームだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
自分が抵抗さえしなければ大切な人に被害が及ぶ事はない。
自分が抵抗さえしなければいずれ気を許した怪盗がぼろを出すかもしれない。
これはあくまでもゲームなのだと新一は自分に言い聞かせ、小さく笑みを浮かべる。
ゲームなら楽しめばいい。
ゲームならただ勝つ事だけに目標を設定すればいい。
「なあ、キッド…」
「何ですか?」
「お前に…目にモノ見せてやるよ」
クスッと笑った新一に、キッドもまた小さく同じ笑みを返した。
ねえ、名探偵。
漸く気付いたみたいですね?
私がどうして貴方を選んだのか、を。