静寂の中に佇む白
静寂の中に響く音
静か過ぎる
夜の密会を
月の淡い光だけが
優しく見守っていた
優しさの理由
夜の帳が下りる頃、怪盗は眼下に広がる地上の星達を瞼の裏に閉じ込めるかの様にそっと目を閉じた。
暗い静寂の中、ゆっくりと冷たい冬の夜の空気を吸い込む。
身体の中から冷えていく様な感覚が酷く心地良い。
ゆっくりと息を吐き出し、その僅かな温もりに眉を顰める。
心まで、吐息まで、凍りついてしまえたらいいのに。
「……おい、怪盗」
いきなりかけられた声に驚いて、キッドは慌てて声のする方を振り返った。
勿論、フェンスの上から落下する、なんて無様な姿は晒さず、声の主を確認するとふわっと音も立てずにアスファルトの上に降り立つ。
「これはこれは名探偵」
キッドが慇懃無礼に頭を下げれば、探偵の呆れた様な声が返って来た。
「……怪盗が簡単に後ろなんて取られてんじゃねーよ」
言われた言葉は尤もだったが、その言葉に額面だけではない労りが籠められている事にキッドは戸惑う。
優しい優しい名探偵。
きっと何かを察してくれたのだろう。
けれどそれも、一時の事。
「名探偵が気配を消すのが上手過ぎるんだよ」
「……別に消してねえし」
言い訳がましく言ったキッドの言葉に、半ば呆れ気味に返ってきた言葉は余りにも飾り気がない。
それが余計にキッドの失態を露呈していた。
「お前がぼんやりし過ぎなんだ」
「……そうかもしれないな」
真っ直ぐに真実を映し出す瞳には嘘も偽りも通用しない。
それはキッドが一番良く分っていたから、これ以上何かを言う事が出来なかった。
これ以上―――誰にも、特に彼には嘘を吐きたくないと思った。
世界中全てに嘘を吐いても。
大切な人に嘘を吐きたくはないと思っていた。
そんな事もう、自分には絶対に出来ないとキッドは知っていたけれど。
でも、もしも願いが叶うなら。
そんな生き方をしてみたいと思う。
そう願った。
「……どうしたんだよ」
嘘も、偽りも、言訳さえもする事のないキッドを、何処か労わりの滲む瞳で新一は見詰める。
その瞳に、キッドはくしゃりと顔を歪める。
視界がぼやける。
零れそうになる。
だから、瞳を閉じた。
全て失くしてしまう為に。
全て無かった事にしてしまう為に。
「どうもしないよ…」
そう言って、ゆるっと瞳を開く。
その時はもう、ソコに何かは存在していなかった。
「キ、…」
「さて、と。今日はもう帰るよ。またいずれ、月の綺麗な晩に…」
「おい、待て…」
それ以上其処に存在などしていられなかった。
それ以上彼の彼の瞳を見詰める事が出来なかった。
だって、そんな事をしたら―――泣いてしまいそうだったから。
涙を零す事は、心を零す事に似ている。
全て吐露する様な涙を自分はまだ流す訳にはいかない。
辛くても。
苦しくても。
まだ自分は泣く訳にはいかない。
まだ自分は立ち止まる訳にはいかない。
全てが終わるのは―――遠い遠い未来の話。
白い三角がやがて白い点になり、そして最後の最後、見えなくなってしまうまで見送って、新一は詰めていた息を吐き出した。
そして両手の痛みを自覚する。
どうやら無意識にフェンスを握りこみ過ぎていたらしい。
フェンスから手を離し、自分の掌を見詰め、その跡に苦笑する。
自分でも馬鹿みたいだと思う。
探偵が怪盗をこんなに気にするなんて。
今日の彼の犯行はいつも通りの犯行とは言い難かった。
今日の怪盗の犯行は怪盗紳士を名乗るには余りにも稚拙で乱暴だった、とここに来る間に何人かの刑事達が話しているのを聞いた。
その癖、人を傷付けないのを信条にしているあの怪盗は自分だって危ない癖に、偶々通り道であった事件の人質まで助ける、なんて芸当までしてみせて。
だからこそ、その現場に居た自分が今こうしてここに居る訳だが…。
「ったく、ハートフルな泥棒だよな、ホント……」
何時の日か、隣の彼女が言っていた言葉を思い出す。
全く、怪盗なんて物をやるには……、
「優し過ぎんだよ、お前は…」
溜息と共にそんな言葉を吐き出して、新一は空を見上げる。
黒い闇にぽっかりと丸く浮かぶ淡い黄色。
自分の守護星なのだと何時の日か彼は言っていた。
その言葉に、何故か納得する自分が居た。
昼間の太陽より、月の淡い光の方がよっぽど彼に似合っていると思う。
眩しい直接的な光で照らすのではなく、淡く柔らかく静かに照らす月。
その光の方が、よっぽど彼らしい。
だから思う。
だから願う。
月の様に柔らかく、優しく、彼を少しでも照らせたら良いのに……と。
忙しければ、月日が流れるのも早い。
あの邂逅の後、彼とはもう暫く会っていなかった。
新一が出かけて行くのは殺人事件ばかりだったし、嘗て警部に言われた様に、何よりもまず課が違った。
二課には中森警部も、そして探偵役には白馬が居たから、自分の出番はないと思っていたし、あの二人の邪魔をするのも気が引けた。
だから、怪盗の現場に行くなんて事はなかったし、このご時世の日本は新一が暇を持て余す程平和ではなかった。
日々起きる事件。
その中で彼とのあの邂逅もいつしか新一の中で忙殺されていった。
そして、涼しかった季節がいつの間にか麗らかな温かな季節に移り変わ始める頃、新一は久しぶりに怪盗の姿を目にした。
きっと―――尤も目にしたくない形で。
その日もいつもと変わらない事件帰りで。
季節も温かくなって来たから、高木刑事の家まで送っていくという有難い申し出を丁重に断って。
新一は自宅からさして遠くない事件現場から、一人ぽてぽてと歩いて帰っていた。
開発が進んだとは言え、まだ少しだけ木々が残っているこの辺りでは、この時期になると淡いピンクの花びらが咲き誇る様になる。
闇の中人工的なライトに照らされるそれは、情緒的とはお世辞にも言えなかったが、それでも凄惨な現場に居た自分の心を少しは温かくしてくれる。
そうしてやっと、自分は一人の人間に戻れる様な気がした。
事件現場に出入りするようになって一体何年ぐらい経つだろうか。
人間の慣れとは恐ろしい物で、最初は持っていた感情が、徐々に徐々に死んでいくのを新一も切実に感じていた。
人が死んでいるのに。
殺人事件であるというのに。
自分の中の人間的な感情が、酷く欠落しているのを感じる。
その人の無念を晴らしてあげたい、とか。
その人の最後の声をきちんと届けたい、とか。
そんな事を考えていたのは、もしかしたら遠い遠い昔かもしれない。
今の自分は謎を追い続ける事しか頭にないのだろう。
寧ろ、それしか自分の存在意義を見いだせない程に。
人の死を目の当たりにしながら、それでも自分の存在価値の為にその謎を解く。
凄惨で残忍で狡猾であればある程。
難解であればある程。
謎を解いた後に自分の中の『探偵』は満足を覚える。
そうして漸く、自分がこの世に存在しているのだと知る。
人として、最低だと思う。
平和な世の中だったのなら、きっと自分はこう思うのだろう。
事件がなければきっと―――人生に退屈してしまう。
人が死んでいるというのに。
その横で、その人の大切な人が悲しんでいるというのに。
自分が考えるのはきっとそんな事でしかない。
『探偵』として生きる事を選んだのは自分だ。
新一の知る『探偵』は、いつだって真っ直ぐに謎を解き明かす新一の中のヒーローだった。
新一の知る何よりも、『探偵』は『真実』だった。
けれど――――今はそれが酷く曇って見える。
自分が『探偵』を曇らせてしまったのか。
それとも端から『探偵』という物を正当化し過ぎていたのか。
もうそれすら判断が出来ない程に、自分の瞳が曇ってしまっていたのを新一自身が自覚していた。
それでも立ち止まる訳にはいかなかった。
自分が『探偵』でなければ、確実に失ってしまう物があったから。
真っ白なあの怪盗に――――『名探偵』と呼ばれていたかった。
例え……『探偵』である自分が、人らしい何かを失ったとしても―――。
ギィ……。
錆付いた門は少し耳障りな音を立てて、新一を迎え入れる。
その音に、『今度油でも差してやらないとな…』と思うが、きっとそれが当分実現される事がない事は新一が一番良く分っていた。
自分しか住んでいない家に当然灯りがついている筈もなく、真っ暗な玄関のドアを開ける。
世界的にも有名な両親とお隣の科学者のお陰で、家に入るにもいくつかのステップがある。
新一の瞳なり指紋なり、静脈なり、新一自身が鍵の様なものなので、鍵を持たずに出かけられるのは有難いが、疲れて帰って来た時は、このステップが些か面倒に感じられる。
その面倒なステップを終え、漸く家に入って灯りをつける。
闇に慣れた瞳が一瞬光で眩む。
ぱしぱしと数度瞬きをして、新一はいつもの様に雨戸を閉めるべく窓を開けたところで―――。
「キ、ッド……」
庭の一番太い木に背を預けて座り、片膝を立てた状態で空を仰ぎ見ているのは、紛れもなく自分が知る怪盗。
温かくなってきた筈なのに、ここから見える彼の姿は酷く寒々しく映った。
「よっ…。名探、偵……」
新一の声で気付いたのか、そう言って新一に笑いかける怪盗の瞳はいつもの物。
けれど、何処か違う何かに急かされる様に、新一は靴も履かず庭先へと飛び出した。
「お前、こんな所で何やってんだよ」
「名探偵こそ靴ぐらい履いてこいよ。足が汚れる」
怪盗の傍らに立った新一の足元を見て苦笑した怪盗は、そう言って新一を見上げる。
藍色の瞳が酷く頼りなく揺れるのを、新一は見逃さなかった。
「何があった」
「何もないよ」
「嘘吐け」
「俺は嘘吐きだよ」
怪盗だからね、と続けたキッドの顔色が酷く悪く血の気が無い事に気付いて、新一は視線の高さを合わせる様にその場に屈みこんだ。
そうして、足先からシルクハットのてっぺんに至るまで、目を凝らしジッと見つめる。
「名探偵。どうしたの?」
「怪我、してんだろ」
「してないよ」
「嘘吐くな」
「してないよ。だって、俺は『怪盗キッド』だから」
マジックという魔法で人々を魅了して。
人を傷付けず、どんな場面でも舞台にしてしまう。
キッドの現場には、夢と魔法しかない。
いつだって人々に夢を見させる『怪盗』だから。
だから―――。
「『キッド』は怪我なんてしないんだよ、名探偵」
「っ…! 馬鹿言ってんじゃねえよ、このバ怪盗!!」
お得意のポーカーフェイスでそうやって笑って見せる怪盗に新一は唇を噛み締める。
「だったら……こんなとこでそんな青白い顔してんじゃねえよ……」
此処まで来た事に期待をした。
此処まで来た事に絶望した。
逃げる場所を選べない様な状況ではきっとなかった筈だ。
まわり過ぎる程回る頭で考えた筈。
近くて、かつ自分の正体がばれる事もなくて。
そして、少しだけ自分の身体を休められる場所を。
「ごめん。勝手にお邪魔したね」
「そんな事が言いたいんじゃない」
分ってる癖に、と新一はまた唇を噛む。
新一に許されている事は余りにも少ない。
きっと、新一が触れる事を目の前の怪盗は望まないだろう。
ましてや、傷の治療をする事なんて論外。
ただ許されるのは……ただこうして少しだけ傍に居る事だけ。
「相変わらず優しいな。名探偵は」
そう言って、怪盗は少しだけ微笑む。
いつもの様に、ポーカーフェイスを貼り付けた顔ではない、本当の顔を覗かせて。少しだけ。
「優しくなんかねえよ」
「優しいよ」
「るせー」
「うん。ごめん」
そう言って、また少し笑って。
怪盗はふと視線を新一から空に浮かぶ月へと移す。
それにつられる様に新一も空を見上げれば、そこにはまん丸の月が輝いていた。
「満月か…」
「そう。今日はブルームーンだ」
「…ブルームーン…?」
耳慣れない単語に新一がオウム返しに呟けば、怪盗は月を見詰めたまま口を開いた。
「一月のうちで二回満月が来る月がある。その二回目の満月をブルームーンって言うんだよ」
「へぇ…。お前そういう事は良く知ってるよな」
「ま、そういうロマンチックな話には名探偵は疎いからね」
「るせーよ。お前みたいに存在自体がロマンチックな奴よりましだ」
怪盗なんて御伽噺の中にしかいないと思っていたのに。
現実に居て、尚且つそんな非合理的な姿を飛ぶなんて。
正に生きるロマンチックだ。
「そうあれたら良かったんだけどね……」
空を見上げたまま、怪盗はふとそう呟いた。
その横顔が、まるで泣いているみたいに見えて新一は口を閉じた。
怪盗がどうして此処に来たのかなんて分らない。
怪盗が怪我をしているであろうにその怪我を態々隠し通してまでどうして此処に居るのかも。
何も分らなかったけれど、その横顔が全てを物語っている気がした。
月の光に照らされた彼の顔は、纏っている衣装と同化しそうな程白く血の気が無くて。
きっと早く治療してやった方が良いのは分っていたけれど、そのまま彼を見詰めていた。
ただどうしようもなく――――彼の姿が悲しかった。
「ねえ、名探偵…」
どれぐらいそうしていたのだろう。
ただ静かに彼の横顔を見詰めていた新一に、顔すら向けずに視線は月に置いたままでキッドは静かに口を開いた。
「俺は、後どれぐらい『怪盗』で居られるのかな……」
訪ねているのか。
呟いているのか。
分らないぐらいひっそりと言葉を紡いだ怪盗の眉が僅かばかり寄せられているのに気付いて、新一はわざとそっけなく言い放つ。
「お前が望む限り…お前は『怪盗』だろ?」
そう、彼が望む限り。
そう、彼が願う限り。
目の前の、この男は他の何でもない『怪盗』だと思う。
新一と対極に立つ『怪盗キッド』だと。
「……俺は、……」
言いかけて、怪盗は諦めたかの様に言葉を飲み込んだ。
言っても仕方ないと。
言っても何にもならないと。
そう自分に言い聞かせる様に言葉をただ静かに飲み込む。
「そうだね。俺は……『怪盗キッド』だ」
そうして代わりに吐き出されたのは、硬質な何かに包んだ言葉。
本来紡ぐべき、紡ぎたかった言葉とは違う何か。
けれど、新一はそれを敢えて追及はしない。
今はまだきっと、自分にそれは許されていない。
「ありがとう。名探偵」
漸く新一へと向けられた怪盗の顔は――いつものポーカーフェイスを張り付けた笑顔だった。
「そろそろ夜が明けるな」
「ああ」
「俺もそろそろ帰らないとね」
ゆっくりと立ち上がるキッドの動作はいつもよりぎこちない。
そのぎこちなさが、新一の不安をより駆り立てる。
言わば見せる者である彼はいつだって、自分の動きを何よりも知っている。
その彼がこんな風にしか動けないという事は―――。
「帰れんのかよ…」
「うん。大丈夫。ゆっくり休ませてもらったから」
微笑む顔はいつもの怪盗の顔だった。
そこにはもう、悲しさとか寂しさとか、そんな物は存在しなかった。
ただ存在しているのは、怪盗得意のポーカーフェイスだけ。
「気をつけろよ」
「ホント、名探偵は優しい…」
「だから、優しくなんかねーよ」
「優しいよ。だって……」
―――怪盗を心配してくれる探偵なんて、俺は御伽噺でも知らないよ。
響いた言葉と、怪盗の姿が煙に巻かれたのは同時だった。
そして、言葉が空気を揺らした後……怪盗の姿はそこには存在していなかった。
その場に居た痕跡も。
その場に居た何もかも。
そこには何も、存在していなくて。
それに恐怖を覚え、新一は彼の居た場所へと座りこむ。
そして彼と同じように空を見上げる。
もう見える月は輝きが薄れて、薄く白くなってしまったけれど、それでもまだ其処にあった。
それだけが―――この夜が存在した証しの様な気がした。
ふわり、と白いマントを風になびかせて細いフェンスの上に危なげもなくスッと立ち、いつもの様に月に今宵の姫君を翳す。
目指す紅は見つからない。
もう期待する事すら馬鹿馬鹿しいと思うのに、それでも落胆は間違いなく襲ってくる。
いっそ最初から諦めてしまえたら良かったのに。
「…それも、君の探し物ではなかったんですか?」
久しぶりに聞く声に、キッドは口元に笑みを乗せ、くるりと振り返りほんの僅かな幅しかない筈のフェンスの上で優雅に声の主へとお辞儀をして見せた。
「これはこれは白馬探偵。お久し振りです。いつこちらにお帰りに?」
「ついさっきですよ。今日は君の予告があると聞いてね」
「それで態々?」
「愚問ですね。僕は君専任の探偵ですから」
「そうでしたね。『自称怪盗キッド専任』の白馬探偵」
ニヤッと笑ってそうやって皮肉って。
けれど、そんなキッドにも白馬は柔らかい笑みを返すだけ。
「本当に、君は相変わらずですね」
そう相変わらず。
探の目の前に立つ怪盗はいつもと同じ。
その事に正直に言えば安堵している。
自分の感情に少々複雑な物を覚えながら、それでも探は安堵していた。
彼が相手にしてるのは警察だけではない。
彼と同じビッグジュエルを狙う者は少なくない。
けれどそれよりも手怖いのは―――。
「それは褒められていると取ってもいいのでしょうか?」
「さぁ…? でも、君がそう思うなら是非そう取っておいて貰いたいですね」
「では、素直にそう取っておきましょう」
クスッとそう言って笑って、キッドはふわりとアスファルトへと降り立つ。
音もなくその場へと降り立つキッドに探はいつも心の中で感心する。
本当に、彼の身体能力は素晴らしい。
「返却をお願いできますか?」
「分りました」
すっと差し出された宝石を受け取って、白馬はそれを丁寧に自分の持っていたハンカチで包みポケットへと仕舞う。
それがとても彼らしくて、キッドの笑みを誘う。
「本当に、貴方も相変わらずですね」
「それは褒められていると思っても?」
「ええ。そう取って頂いて構いませんよ」
「それでは有難くそう受け取っておきましょう」
それで終わり。
この夜の追いかけっこもそれで終わる筈、だったのに―――。
「キッド!」
「!?」
突然叫ばれて訳も分らぬうちに、キッドは白馬に押し倒された。
次いで聞こえたのは――。
―――バァン。
紛れもない銃声。
「っ…!」
「白馬っ!」
耳元で、苦しげに響いた声にキッドの声が上がる。
それでも、白馬は直ぐ近くにあった顔で笑って見せる。
「何て、声出してるんですか…君は……」
「だって、お前っ…!」
「お願いですから、もう少しだけ……大人しくしていて下さい」
パンパンと乾いた音が耳に響く。
次いで聞こえたのはパトカーのサイレンの音。
それに気付いたのか、乾いた音は消え、その場に静寂が戻る。
「行った…みたいですね……」
「白馬! お前、何処撃たれた!!」
詰めていた息を吐き出して、ずるずると身体を持ち上げた白馬の身体をキッドは慌てて確認する。
と、左の肩下の服が避け、血が流れ出しているのが確認できた。
「ちっ……」
確認した傷に舌打ちをして、キッドは躊躇い無く自分のマントを裂くとそれを包帯代わりに傷に巻き付けていく。
「折角の、マントが台無しですよ…」
「バーロ! んなこと言ってる場合か!」
軽口を叩いていても、白馬の顔色は悪い。
「弾は?」
「大丈夫ですよ。掠っただけです」
「でも、顔色が悪い」
「大丈夫です。直ぐにばあやを呼びますから」
「っ……」
悔しそうに唇を噛みしめたキッドに白馬は青白い顔のまま、それでも微笑んで見せる。
「そんな顔しないで下さい。大した事ありませんよ」
「そんなこと…」
「キッド。大丈夫です。安心して下さい」
言い聞かせる様に、白馬に優しくそう言われて。
それでも安心なんて出来る筈がなく、キッドは申し訳なさそうに俯く。
「ごめん。俺のせいだ…」
「キッド…」
「ごめん…」
「何情けない顔をしてるんですか。君は…」
クスッと笑って、白馬は無事な方の手で近くにあった怪盗の頭をぺしっと叩いてやった。
「って…!」
「君には、まだやらなければいけない事があるのでしょう?」
「そうだけど…」
「だったら、何が起きてもそれを貫き通しなさい」
「白馬…」
「何を犠牲にしてもやり遂げる、その覚悟がなければ、この先…やっていけませんよ?」
「………」
覚悟はとうに決めた筈だった。
何を犠牲にしても、どんな手を使っても、やり遂げると決めていた。
けれど―――。
「君は……怪盗なんて物を背負うには優し過ぎるのかもしれませんね」
言われた言葉に何も返す事が出来ず、キッドはただ俯いた。
悔しくて、やるせなくて、ぎゅっと手を握りこむ。
そうしている間に、バタバタとかなりの数の足音が近付いてくる音がした。
「早く逃げなさい。捕まりたいんですか?」
「でも…」
「大丈夫ですよ。このぐらいの傷で僕は死んだりしませんから」
「白馬…」
「それに、君を捕まえるのは僕ですよ。それまで…誰にも捕まる事は許しません」
真っ直ぐに、強い眼差しでそう言われて。
キッドはこくっと小さく頷いた。
「分った。俺は……誰にも捕まらない」
「それで…いいんですよ」
キッドの言葉に満足そうに白馬は笑って。
それでも、離れ難そうにしていたキッドの背中を手でべしっと叩いてやった。
「ってぇ…!」
「分ったら、さっさと行きなさい」
「分ったよ! 分りました!!」
漸くいつもの調子を取り戻して、キッドはそっと白馬の身体をフェンスへと寄りかからせる。
そうして立ち上がって、白馬へと深く一礼をする。
「白馬探偵…」
「何ですか?」
「…有難う御座いました」
深々と頭を下げた怪盗に表情が見えないのを確認して白馬は目を少し細め、痛ましそうにキッドを見詰める。
ああ、きっと、このポーカーフェイスの下彼は傷付いた瞳をしているのだろう。
けれど、自分はそんな彼を慰める言葉も手も持っていない。
それが悔しい。
だから、今自分が出来るのは、慰める事でもなんでもなくて、ただ少しだけ、ほんの少しだけ、いつもの彼を取り戻させてやる事だけ。
「探偵が、怪盗にお礼を言われるなんて…何だか複雑ですね」
本当に複雑そうな表情を浮かべた白馬に、顔を上げたキッドは漸くいつもの調子でニヤッと笑って。
ハンググライダーを開いた。
「それでは白馬探偵。お大事に」
いつもの様に夜の空に飛んでいく彼の小さな三角が少しずつ小さくなっていくのをジッと見つめて。
白馬は溜息を吐く。
正直、腕がズキズキと痛む。
それでも、彼に怪我が無かった事に安堵する。
彼が敵に回している組織の攻撃は最近更に激しさを増している。
その情報を入手して、だからこそ向こうでの仕事をなるべく早く片付けてこうやって日本に帰ってきた。
間に合って――本当に良かったと思う。
「全く、世話の焼ける怪盗ですね…」
クスッと笑ってそう言って。
白馬は彼の守護星である月を見上げ、彼を守ってくれる様に祈った。
―――どうか彼があの衣装を脱ぐ事が出来る日まで、無事でありますように…
護って貰った。
探偵である彼に、怪盗である自分が。
どうしようもない感情を昇華させる事が出来ず、キッドはふわりとその場所に降り立つ。
家の灯りは点けられていない。
きっと今夜も彼は事件で大忙しなのだろう。
それにホッとして、つい先日座っていた場所に腰を下ろした。
あの日も自分は組織の人間とやり合った。
当然の様に撃たれた自分の身体。
そして自分は、組織の人間を一人、傷付けた。
相手が組織の人間であるとか。
向こうから撃って来たとか。
そんな事は関係ない。
トランプ銃で弾き飛ばした銃を拾って、次いで撃たれたことに反撃する様に、その銃で相手を撃ち返した。
躊躇いは無かった。
躊躇っていたらきっと殺されていたかもしれない。
勿論相手に致命傷になる様な傷を残してはいない。
きっとせいぜい右腕が使い物にならなくなった程度だろう。
それでも自分の余りの躊躇いの無さに自分でも寒気がした。
日々怪盗として過ごすうちに感情の中の何かが死んでいく気がする。
それが怖くて怖くて仕方ない。
自分は―――いつか誰かを殺してしまうのではないか。
そんな漠然とした不安が頭を過る。
そして思う。
自分は―――いつまで『怪盗』でいられるのだろう。
いつか躊躇ないもなく人を傷付けるのではないか。
いつか『怪盗』ではなく、ただの『人殺し』になるのではないか。
そう思うと、背筋が凍る。
それと同時に、それ以上の恐怖で襲ってくる不安。
自分が向こうをやらなければ、きっと向こうは周りをも巻き込んで傷付けてくる。
今日の―――白馬の様に……。
そう思うと、恐怖が渦を巻いて心をぐちゃぐちゃにしていく。
怖くて…寒気がして……どうしようもなくなる。
誰かが傷付くのはもう見たくない。
自分の所為で、自分を庇って傷付くのなんて絶対に見たくない。
それでも、それは叶わない願いだと分っていた。
きっとこれからその危険は今まで以上の物になるだろう。
だとしたら―――自分が一番傷付いて欲しくないのは……。
「……キッド?」
月を見上げ、零れそうになる涙を堪えていた時、躊躇いがちに呼ばれた自分の名。
慌てて視線を向ければ、酷く心配そうな顔をした名探偵の姿が見えた。
こんなに近くまで彼が来ていたのに自分はそれに気付けなかった。
それだけ…今夜は参っているらしい。
「お帰りなさい。名探偵」
そんな感情を押し殺して、努めて平静を装って、口元に笑みすら湛えてそう告げる。
驚きに見開かれた蒼い瞳が酷く綺麗だと思った。
「お前、何してんだ…?」
「飛び続けるのに疲れて、少し羽を休めさせて頂いていたんです」
「……探偵の家で、か?」
「勝手にお邪魔してすみません」
軽く頭を下げれば、困った様に新一の瞳が揺れる。
それはそうだ。
怪盗に自宅を訪問されて探偵が喜ぶ筈がない。
そんな事とっくに分っていたのに、それでもこうして助けを求める様に彼の家に来てしまった。
我ながらなんて情けないと思う。
「……いや、それは別に良いんだ……」
何かを察してか。
それとも、怪盗の存在などどうでも良かったのか。
言われた言葉だけではその判断はつかなかった。
だからほんの少しポーカーフェイスの下で微笑んで、キッドは再び月に視線を向けた。
その横に新一は静かに腰を下ろした。
それをキッドは不快だと思わなかったし、『怪盗』と『探偵』が並んで座っているという異常な状態が、何故か今は自然にすら感じられた。
だから敢えて、それについて何か言う事もせず、キッドは新一に視線すら向けず、あくまでも自然に振舞う。
「なあ、キッド…」
暫くの沈黙の後、躊躇いがちに掛けられた言葉。
少し緊張した様なそんな声に、キッドは視線をそのままに応えた。
「何ですか?」
「……お前、さ……」
「…?」
「…向いてねえな」
「…は?」
言われた言葉の意味を量りかねて思わず若干素の混じった疑問符を新一に向ければ、新一は痛ましそうに見詰める視線はそのままに、少しだけ口元に笑みを掃く。
「『怪盗』だよ。お前には、向いてない」
どこまでも優しく響く声に漸く新一へと視線を向ければ、労わる様な優しい視線を向けられてキッドは少し困惑する。
こんな視線を『探偵』である新一が『怪盗』であるキッドへ向ける理由などない筈なのに。
「…向いてないか?」
「ああ。全然向いてない」
「そっか…」
今まで自分で言うのも何だが器用にこなしてきたと思う。
父親の築いてきた『怪盗キッド』を全て引き継いで上手くやってきたつもりだった。
でも『真実』を見抜く『名探偵』が自分の事を怪盗に向いていないというのなら、本当は向いていなかったのだろう。
自分では上手くやっていたつもりだったのに、何もかも全然足りなかったのかもしれない。
「……俺は、『怪盗』なんて…向いてないのか…」
特に探偵に聞かせる為ではなく、キッドは自分の為に呟いた。
そうだ、最初から自分はきっと『怪盗キッド』にはなれる筈が無かった。
上手くやれていると思っていたのはきっと自分の勘違いだ。
そう思うと何だか酷く情けなくて、何だか酷くやるせなかった。
「……なあ、名探偵」
「…何だ?」
だから思う。
最初から向いていなかった『怪盗』で自分はいつまで居られるのか。
もし『怪盗』で居られなくなったら、自分は一体何になってしまうのか…。
ずっとずっと思っていた不安が、より強くなる。
「…俺がもし、人を殺したらどうする?」
ずっとずっと思っていた。
『怪盗』であろうとしてきた。
でも、この先どれだけ『怪盗』の振りを続けられるのか分らない。
そう…自分が―――ただの『犯罪者』で『殺人犯』になり下がってしまいそうで、怖くて怖くて仕方ない。
ずっとずっと感じていた不安の正体は、恐怖だった。
『黒羽快斗』でもなく『怪盗キッド』でもなく、復讐を笠に着た只の『殺人者』になってしまいそうで……。
「お前はしないよ。そんなこと」
ぐるぐると悩んで悩んで吐きだした言葉に返って来た言葉は、優しくてそして断定的な物。
それに少しだけキッドは目を見開いた。
「そんなの分んないだろ?」
「俺には分んだよ」
「何で…」
「俺は『探偵』だぜ?」
言いながら、新一はいつかこの目の前の怪盗が言った言葉を思い出す。
そう、かの女は中身が分らないからこそその箱を開けた。
でも自分は違う。
箱を開ける前に中身を知るのが『探偵』なのだから。
「お前は殺さないよ。いや、殺せない」
はっきりと、きっぱりと。
言われて、酷く泣きそうになった自分にキッドは情けないと内心で苦笑する。
対極でなければいけない自分達の関係。
宿敵でなければいけない自分達の関係。
それなのに、自分は彼に何を求めようというのか。
自嘲するように曖昧な笑みを新一へと向けたキッドを新一はただじっと静かに見詰めて。
口元に薄い笑みを掃いた。
「お前が自信が持てないなら、俺が保証してやるよ。キッド……お前は人殺しにはならない」
その瞬間、不覚にも本気で泣くかと思った。
それでも、最後の意地でキッドはその涙を押し止める。
彼は『好敵手』である『名探偵』。
幾ら弱っていても、幾ら情けない姿を見せても、涙を見せるなんてそんな余りにも情けない姿は晒したくなかった。
だから、涙の代わりに軽口を叩く。
「『名探偵』のお墨付きなら、安心だな」
それは涙を誤魔化す為の言葉ではあったけれど、嘘ではなかった。
本当に、安堵した。
誰かに、否…この目の前の名探偵にそう言って貰えたならきっと自分は大丈夫。
そう、自分はまだ―――『怪盗』で居られる。
「なあ、キッド」
「何だ?」
「…お前は、俺の一番の『好敵手』だからさ」
「名、探偵……」
ああ、何て人だろう。
自分は何も彼に告げてはいないのに、それなのにそんな風に欲しい言葉を全部全部くれる。
何もかも見透かすのが探偵だというのなら、彼は本当に探偵で。
それでも、今まで見たくないモノもきっと沢山見て来た筈なのに、相変わらず彼は綺麗なままで。
そして、『真実』を躊躇い無く暴き出す『探偵』の筈なのに――――彼は酷く優しい。
「お前にそう言って貰えるのは光栄だな。でもさ、名探偵…」
「ん?」
「もし万が一、俺が捕まるとしたら…その相手は――――お前が良いな」
もし、全てを終えて…罪を償う番が自分に訪れたとしたら。
そうしたら……捕まるならこの『名探偵』が良い。
自分が『好敵手』と認め『名探偵』と呼ぶのは―――彼以外いない。
「ばーろ。んな事言ってると、白馬辺りに捕まるぞ?」
「いや、アイツには捕まらない」
「え…?」
「…約束したからさ。だから俺は捕まらない」
―――勿論、お前にもだよ。名探偵。
まるで秘め事を告げる様に小さく耳元でそう呟いて、キッドはすっと立ち上がった。
月を真っ直ぐに見詰めるその眼差しに、もう迷いはない。
それに新一は酷く安心した。
「いや、俺がぜってー捕まえてやっから覚悟してろ」
「精々頑張ってくれよ。名探偵君」
「そんな事言ってられんのも今のうちだからな」
漸くいつもの様な掛け合いになって。
それにお互いが酷く安堵している事も、お互いによく分っていた。
―――ああ、まだ自分は大丈夫だ。
「名探偵。―――ありがとな」
それで最後。
それで終わり。
次に逢う時はまたいつもの『好敵手』だ。
「別に。俺は礼を言われる様な事しちゃいねーよ」
そう言って笑った新一の笑顔にキッドも同じ様に『好敵手』として、皮肉交じりの笑みを浮かべてやる。
『対極』に存在する『宿敵』
本来なら一番遠い筈の二人が、どこか同じ部分を持っているのはお互いに分っていた。
そうして、お互いにそれを本当の意味で理解できるのはお互いしかいない事も分っていた。
けれど、二人の関係はあくまでも『好敵手』
だから、深く聞く様な事はしない。
だから、慣れ合う様な事も出来ない。
それでも―――確かに何処かで互いが繋がっているのだと思える。
「ホント……お前は誰にでも優しいな、名探偵」
最後に聞こえた声は確かにそう呟いた気がした。
けれど、次の瞬間煙幕と共に怪盗の姿は消えていて、新一は今あった事が現実だったのかもよく分らなくなる。
もしかしたら、都合の良い夢かと。
もしかしたら、己の願望なのではないかと。
そう思って、新一は怪盗の座っていた場所にそっと手を当てる。
そこはまだ僅かに温かさを残していて、そうして漸く今の現実を新一の胸の中に落としてくれた。
「…ばーろ。俺が優しいのなんて…そんなの―――お前限定に決まってんじゃねえか…」
怪盗が近くに居ないのを気配で確認して小さく小さく呟くと、新一はゆっくりと空を見上げた。
そこには彼の守護星である月がただ静かに柔らかい光を湛えて、優しく存在していた。
と言う訳で、7周年記念物で御座います。
すげー!! 7周年って何!?
と、激しく動揺しっ放しの管理人です(笑)
いやぁ、今年は映画で大盛り上がりな年になって、色んなサイト様も頑張ってらっしゃいますね☆
それを見習って、うちのサイトも益々頑張っていきたいと思います。
更新の滞りがちなうちのサイトがここまで長く続けてこれたのは、来て下さる皆様のお陰です。
本当に感謝してもしたりません。本当に有難うございます。
これからも、うちのサイトを是非宜しくお願い致します。
記念物ですので、いつも通りお持ち帰り可能です。
もしお持ち帰り頂けるという奇特な方がいらっしゃいましたらどうぞお持ち帰り下さい。
その際BBSやメールなどでご連絡頂けると頗る喜びますvv 5>
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