好きだという
愛しているという
君に幾らそう言っても
根拠もないその言葉を信じて貰える筈がない
寄る辺ない想いなど
信じろという方が無理だろう
だから―――
―――そんな事言われるなんて一欠片も思っていなかった
百夜通い【第五十一夜】
「……居ない、か」
うーん…とソファーの上で伸びをしながら、探偵はベッドへと視線を向けた。
予想通りそこはもぬけの殻。
余りにも予想通り過ぎて、何の感情も浮かばない。
昨日怪盗に渡した数個の錠剤の中に睡眠薬も混ざっていた。
恐らく素直には寝て行かないと判断した探偵が哀に頼んで渡して貰った哀の手持ちの中では一番強力な物。
それでも以前彼の手当てをした事がある哀には、
『怪盗さん、薬には耐性があるから…朝まではもたないかもしれないわね』
と、言われていた。
だから、あくまでも予想通りだった訳で、そこには特に落胆もそれ以上の何かも無かった。
「にしても……」
昨日の怪盗とのやり取りを思い出して、探偵は視線を上げ天井を仰いだ。
自分でもほとほと馬鹿な事を言った物だと思う。
あんまりな態度の怪盗に多少が腹が立っていた、というのもあるだろうが、本音を言えば普段余裕綽々で見せはしない素の怪盗の姿を垣間見る事が出来て…きっと何て言うか、テンションが妙に上がってしまったのだろう。
本当に馬鹿な事を言った物だと思う。
「………」
重い溜息を吐いて、探偵はもう一度ごろりとソファーで寝返りを打つ。
昨晩は、落ち着かない怪盗を逃げるのを諦めさせるまでただずっとそのまま見詰めていた。
そうして漸く薬が効いてきたのかうとうととしながらも、探る様にこちらを見返す怪盗に少しだけ笑んで、ずっとその姿を眺めていた。
何度も落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止めようとする彼の姿を見詰めながら、ぼおっと考えていた。
一体自分は何がしたいのだろう。
一体自分は彼をどうしたいのだろう。
考えても結論の出ない答えを反芻する事に疲れた頃、視界の先の白い鳥は漸く小さな寝息を立て始めた。
常よりも少し幼く見えるその寝顔を見詰めながら、探偵も漸く眠りについたのがほんの数時間前。
とすると、怪盗が眠っていた時間はせいぜい二、三時間だろう。
ごろりともう一度寝返りを打って、その反動でソファーから起き上がる。
数歩歩いた先の今はもう空になって、上掛けが綺麗に畳んであるベッドに腰を掛け、そっとシーツに触れる。
温もりなど残っている筈もない。
香りも、温度も、あの怪盗が残す筈など無い。
それでも――引き寄せられる様に、ベッドへとごろりと横になった。
「…馬鹿みてぇ……」
余りにも乙女染みた自分の行動に嫌気が差しながらも、探偵はそのままそっとその瞳を閉じた。
「………」
「………」
「…えー…っと、何この状況……;」
此処は間違いなく探偵の部屋で。
此処は間違いなく探偵のベッドだ。
けれど、そのベッドの住人は上掛けをかける事も無く、ただごろりと横になっているだけ。
自分が畳んで行った上掛けは今朝畳んで行ったままの形で探偵の傍に鎮座していた。
幾ら空調の完璧なこの屋敷においても、少しぐらい肌寒いんではないかと思いながら、怪盗は天井を仰いだ。
間違いなく、此処は彼の部屋で。
間違いなく、此処は彼のベッドだ。
けれど、昨日あのまま此処で眠ってしまった身としては……探偵が其処で寝ているのがまるで自分を恋しがっている様に見えて、理性がグラつくのを感じる。
尤もそれが怪盗の都合の良い解釈だとは分かってはいるが…分かってはいるのだが―――。
「…ほんっと……襲うよ? 名探偵……;」
無防備にも程がある。
というか、怪我をおしてまでここに漸くやって来た自分にとっては、据え膳にも程がある。
コレは何て言う罰ゲームなんだろうか、なんて考えて怪盗は探偵を起こさない様に細心の注意を払い、ベッドの端へと腰かけた。
本日は日曜日。
学校も無く、聞いていた盗聴器には何の反応も無かったから事件も無かったのだろう。
こういう時、時々探偵は死んだように眠るのだと以前お世話になった時、世間話の合間にお隣の女史から聞いた。
放っておくと、本当に死んでいるのではないかと心配になる程に。
人間寝貯めは出来ないと言うが、探偵はそれを実践するかの様に眠るらしい。
普段の睡眠時間が限りなく足りない探偵の身体がそれだけ睡眠を欲しているのだろう。
本人が望んでいるとは決して思えないが、身体が悲鳴を上げるのに似ているのかもしれない。
そっと額へと流れた髪を一掬いすれば、「んっ…」と小さくその身体が身じろいだ。
「(やべっ…!)」
起こしたかと、ビクッと肩を竦めて待つ事数秒。
「…キ、…ッド……」
小さな呟きが零れた後、再度すよすよという小さな寝息が聞こえて安堵すると同時に、怪盗の顔がどうしようもなく真っ赤に染まった。
これは反則だ。
これだから…これだからこの人はもう…!
口元を手で覆い、視線を彷徨わせるその顔には『怪盗紳士』の仮面は欠片も張り付いていない。
居るのは唯の高校生男子そのもの。
「…ヤバイ。俺もう今日これだけで死ねる……」
口元を覆っていた手が上に上がり、目元を覆い頭を支える形になった。
堪えきるのがどれだけ大変か、絶対にこの人は分かっていない。
「……だから、…あんな事言えるんだよ。俺なんかに……」
少し開いた指の隙間からすよすよと眠る探偵を見詰める。
彼が予測した様に怪盗は起きて直ぐ自分の昨晩の言動を後悔した。
そして―――彼の言葉を反芻して頭を抱えた。
『………俺を望むなら、そろそろ『お前』も見せる事を考えろ』
随分だと思う。
受け入れられる筈が無いというのに。
「探偵」が「怪盗」を受け入れられる筈など無い。
この望みに、未来などある訳がない。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、この百夜通いを始めたのだってただの呪い染みた馬鹿な願掛けみたいなものだ。
探偵が本当に受け入れてくれるなど思ってはいない。
犯人隠匿。
窃盗幇助。
考えればきりがない程罪状が上がってくる気がする。
犯罪者の自分と関わる事が、どれだけ探偵のリスクになるか、分からない程には馬鹿になりきれる恋をしている訳でもない。
いっそそこまで馬鹿みたいになれたら良いのかもしれないけれど、それ程には愚かにはなれなかった。
それでも――――。
――――在りもしない未来を期待させる様な事を彼は言ってくれた。
「…馬鹿だよ、お前は」
こんな犯罪者を捕まえて。
こんな馬鹿な男を捕まえて。
そんな期待させる様な事を言うのだから。
「…攫ってやろうか。本当に……」
誰も二人を知らない所へ連れて行って。
誰にも見つからない様に二人で生きていこうか。
そんな馬鹿みたいな幸せな幻を夢見る程には、自分はロマンティストだったらしい。
小さく笑って、怪盗は探偵の錦糸の様な柔らかな髪をそっと撫でつけた。
「………愛してるよ、名探偵」
内緒話をする様につぶやいて、怪盗はそっとその額へと唇を落とした。