好きだという
愛しているという
お前はそう言うけれど
何を根拠にそれを信じられるというのだろう
寄る辺ない想いなど
信じろという方が無理だろう
けれど―――
―――甘やかされる度気持ちは少しずつ…
百夜通い【第四十夜】
「はぁ……」
何度目か分からない程の溜息を吐き、探偵はいい加減頭に入って来ない本を諦めてパタリと閉じた。
ホームズファンには堪らない筈のその研究本を目の前にこんなに気分が乗らないなんて自分でも信じられない。
それもこれも全部あのバ怪盗のせいだ。
いつもいつも馬鹿な事を言う奴だと思う。
それでも今回は……それに便乗する形とは言え、自分自身随分馬鹿な事をした物だと思う。
「手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら………」
かの有名な台詞を口遊んで、ギュッと唇を噛む。
『閉じた目の上なら憧憬のキス』
あの瞬間、ふとそのフレーズが頭に浮かんだ。
その瞬間、身体がふと動いていた。
憧れだなんて、絶対に言えない。
けれど、独り孤高に立ち続けるあの怪盗の姿が、小さくなっていた頃の自分には確かに眩しく映った。
絶対に口が裂けたって一生言ってやるつもりなんて無いけれど。
「…でも、きっと分かってんだろうな」
何度救われたか分からない。
その時の瞳が誰を見詰めていたかなんて人の機微に敏感なあの怪盗の事、きっと分かっているに違いない。
それでも……。
素直になんて言える訳がない。
その真っ直ぐに揺るがない姿に、支えられ憧れていたなんて。
―――ガチャッ
今夜も開けられた窓から入り込んでくる夜の冷涼な気配と共に現れる白い怪盗。
その姿は何時でも変わりなく、それが何処か探偵を安心させる。
「今晩は。名探偵」
変わらない色。
変わらない笑み。
それだけで、この数年がまるで数日の事の様にすら思える。
「…よっ」
出迎える為に上げた手に零れた笑みが少しだけ二人に時間が経ったのを感じさせた。
そうだ、昔の彼はそんな風には笑わなかった。
「名探偵。もうちょっとこう熱烈な歓迎とかない訳?」
「は?」
「だから、『キッド、逢いたかった』とか言ってハグするとか」
「……誰がするか」
こうやって馬鹿な事を言い合える様になったのはきっと単なる憧れの幻が、地上に落ちてきたからだ。
地上に落ち、何故だか自分に纏わりつく様になったからだ。
「つれないな。俺はこんなに名探偵の事愛してるのに」
言われる言葉に苦笑する。
幻だった筈の存在が、今ではもうどんな現実より現実らしい。
「バーロ。俺はそんな世迷い事信じてねえよ」
いつか地上に落ちた幻はまた遙か彼方へ帰るのかもしれない。
落ちてきた自然さと同じ様に、また極々自然に。
「ひでーの。俺は本気なのに」
それでも、こうやってむくれて見せる怪盗の姿は酷くリアルで―――。
「……一生言い続けたら……、信じてやるかもな」
けれど、小さく小さく呟いたその言葉は怪盗には届く事無く消える。
「名探偵? 何か言った?」
「何でもねえよ」
――――憧れだったその幻は、いつの間にか無くてはならない日常の一部になっていた。