好きだという
 愛しているという

 お前はそう言うけれど
 何を根拠にそれを信じられるというのだろう

 寄る辺ない想いなど
 信じろという方が無理だろう


 けれど―――




 ―――甘やかされる度気持ちは少しずつ…
















 百夜通い【第三十九夜】















「…要らない」
「何で?」
「俺は物では釣られない」
「……そう言う割には、もう今すぐにでも手が伸びそうだけど?」


 目の前の古書の直ぐ脇に置かれた探偵の手はギリギリの理性で未だ其処に留められている。
 けれど、その瞳が完全に本に釘付けなのは怪盗でなくても世間一般様誰が見ても分かる状態だ。

 それでも探偵は何とかその本から視線を上げ、キッと怪盗を睨むと思いっきり叫んだ。


「…別に、コレが“ホームズ絡み”で“絶版”で“幻の研究本”だとしても…俺は絶対に受け取らない!!」
「………へぇ………。コレそんなに大層な代物だったんだ……」


 怪盗自身ホームズがそこまで好きな訳ではない。
 ただ先日気紛れで訪れた古書店に偶々鎮座していたホームズの研究本を名探偵のお土産代わりになれば、と思って唯の思いつきで購入しただけである。
 まあ少しお値段は張ったがそれでもそこは好きな人の為。
 多少の無理もご愛嬌。

 恐らくあの大きな書庫には同じものがあるだろう、とか。
 もしかしたら“読む用”“保存用”で2冊ぐらいあるんじゃないか、とか。

 そんな事を考えながらもとりあえず持ってきてみたわけだが――――コレが中々大ヒットだったらしい。

 何でも自費出版物で元々刷った数が少なく。
 更にそれがかなり昔の年代の物らしく。
 更に更にマニア……いや、シャーロキアンの間でも研究している人間が少ない分野の為、かなり評判になったらしく…ある種争奪戦なんだとかかんだとか。

 さっぱり分からない怪盗に探偵はそれはそれは熱心に教えて下さった訳なのだが…。
 とりあえずそんな事はさっぱり聞き流して、怪盗はニッコリと笑った。


「それなら別にいいじゃん。そんな御大層な物体がキス一つで手に入るなら安いもんでしょ?」
「……売春は法に触れる」
「…そういう悪い冗談言うとホントに抱くよ?」
「………」


 お土産、とは言ったがタダでくれてやるとは言っていない。
 喉から手が出そうな勢いで食いついた探偵に悪戯心の湧いた怪盗は一つ提案をしてみたのだ。



 『名探偵が私にキスをしてくれたらこの本を差し上げましょう』



 至極分かり易いお強請りに、探偵は一瞬固まって………案の定次の瞬間ふくれっ面を見せた。
 それはそうだろう。
 馬の前に人参をぶら下げた状態でお預けをさせている様な物だ。


「別にディープキスしろって言ってる訳じゃないのに。かるーく一回…」
「るせー! 誰がするか!!」
「…ちぇっ。つれないの」


 怪盗が唇を尖らせてそう拗ねても、探偵はぷいっとそっぽを向くだけ。
 何だかちょっと面白くなくて怪盗は探偵の顔を覗き込んだ。


「そんなに嫌? 大好きなホームズの為でも俺には身売り出来ない?」
「…お前、身売りとか…微妙な単語使うな」
「名探偵が先に売春とか言ったんでしょ」
「………」
「はーい、都合悪くなると黙るとか良くないよー?」
「…お前絶対性格悪い」


 今度は探偵が唇を尖らせる番だった。
 そうやってむくれて見せても可愛いんだからコレはもう犯罪だよな…なんて怪盗が考えている何て露知らず、探偵は腕を組んで難しい顔をすると視線を空に投げ、迷う様に床に落とし、更にもう一度視線を彷徨わせた後、漸く怪盗へと視線を戻した。


「………なあ、…」
「ん?」
「……口じゃなきゃ駄目か?」
「へ…?」
「いや、だから……その、手か……額とか……」
「……おや、ちょっとはその気になってくれた訳だ」


 少しだけ軟化した探偵の態度にそうやって怪盗が茶々を入れれば、途端に探偵から盛大な抗議の声が上がった。


「べ、別にその気になった訳じゃねえよ!! 大体、お前がそんな本持ってくるから悪いんだろ!!」
「…それにうっかり釣られそうになってる名探偵に言われたくないんだけど?」
「う、うるせーよ!! しょうがねえだろ! ホームズ絡みなんだから!!」
「……はいはい。ホームズオタクだもんねー。しょうがないよねー」
「……てめぇ…その棒読みっぷり嫌味か!」
「嫌味だと通じたなら上等♪」


 ニヤニヤしながらそう言って、ちょっと偉そうに腕組みなんてしてみて、怪盗は再度ニッコリと微笑んだ。


「“尊敬”も“友情”も要らない。俺が欲しいのは“愛情”なんでね」
「………」


 かの有名な台詞にある。

『手の上なら尊敬のキス
 額の上なら友情のキス
 頬の上なら満足感のキス
 唇の上なら愛情のキス
 閉じた目の上なら憧憬のキス
 掌の上なら懇願のキス
 腕と首なら欲望のキス
 さてそのほかは、みな狂気の沙汰』

 そう言ったのは、確かオーストリアの劇作家だったか。


「それとも…腕とか首にでもしてみる?」
「…ぜってーしねえ」


 怪盗の言わんとする意味を違わず汲み取って、探偵は眉を顰める。
 当然だろう。
 その反応だって、怪盗の予測範疇内だ。


「知ってる。ごめんね、今夜は冗談が過ぎたよ」


 こうやってからかうのも一つ。
 少しでも意識して欲しいからだとこの探偵はきっと気付いていないだろう。

 それでも…少しでも探偵とこうして会話できるだけで怪盗は幸せだ。


「そんな事しなくてもあげるよ。コレは名探偵へのお土産だから」


 最初からそんな無理させる気などない。
 少しだけからかって、可愛い顔が見られればそれで良かった。

 けれど―――。


「………お前、ちょっと目瞑れ」


 ―――物語の結末はちょっとだけ怪盗の予想範疇を超えていた。


「へ?」
「いいからさっさと目瞑れ」
「えっと…」
「早く」
「あ、はい……」


 探偵に言われるままに怪盗は目を瞑って――――。





 ――――ちゅっ





 瞼の上に感じた一瞬の感触に、怪盗は慌ててその目を開いた。


「えっ…!? あ、あの……名探偵!?」
「……別に、深い意味はない」
「え、えっと…」
「タダで貰う気になれなかっただけだ。大体、お前に借り作るのも嫌だからな」
「……え、あの……でも、……」
「とりあえずコレは俺が大事に保管してやる。で、お前は用が済んだならさっさと帰れ!!」
「いや、あの…名探偵…」
「さっさと帰れって言ってるだろうが!!」


 とりあえず、しっかりと本は懐に抱え込んで、怪盗を半ば蹴り出す形でベランダへと追いやった後、探偵はぴしゃりとその窓を閉めた。
 後にはベランダで一人呆ける怪盗が残されただけ。



「………えっと、………コレは、…どっちかっつーと、俺がお土産貰った感じ……?」



 独り呟いた怪盗の言葉に返事をしてくれる人間はその夜何処にも存在していなかった。

































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