近付きたいと思ったのはいつの日か

 もしも、もっと違う出逢い方をしていたら…
 そう想像したのはいつの日か

 そんな日はこないと思っていた
 それでもそんな日を望んでいた

 だから…この偶然は
 ある意味では必然だった















 amitie















「「あっ……」」


 予想外の突発的な事態にお互いに素直な反応をしてしまったのは仕方がないだろう。
 そうお互いに内心で言い訳しているであろう事が分るのだから、ある意味付き合いの長い相手は厄介である。


 大学に居るのはお互いに分かっていた。

 片方は相手の詳しい事を知っていたし。
 片方は相手の気配を知っていた。

 お互いに知っていて。
 お互いに分っていて。

 それでも、互いに近寄らない様に気を付けていたのだが…。



「……学食とか使うんだね」
「……おめーもな…」



 今まで散々お互いの事を避け合っていたというのに、何台かある学食の食券の券売機前で同じタイミングでかち合うなんて、探偵と怪盗の出逢いにしてはあんまりにもあんまりなシチュエーションだった。


「…先買えよ」
「いいよ。先に買いなって」
「いいから、先買えよ」
「いや、俺は後で良いから…」


 そんな風に互いに譲り合っていれば、後ろに数人人が並び始めたのが見えて、新一は慌ててずいっと怪盗の背を押した。


「早くしろ。後ろがつかえてる」
「あっ…じゃあ、悪い。先買うわ」
「おぅ」


 新一の視線の先で、怪盗が押したボタンは平凡な『Aランチ』
 極々普通の学生らしい怪盗の様子に、後ろからそれを見ていた新一は何だかガックリと肩の力が抜けてしまった。
 肩を落とす新一に、券売機の取り出し口から『Aランチ』と書かれた食券を取り出した怪盗は首を傾げた。


「買わないの?」
「いや、買うけど…」


 新一の気持ちなどさっぱり気付く筈のない怪盗にのほほんとそう言われ新一は小さく溜息を吐いた。
 『怪盗キッド』が学食で『Aランチ』…そんな姿、あの警部が見たらきっと泣くだろう。

 食券を買い終わり列から抜けた怪盗を横目にそんな事を考えながら、新一も『Aランチ』のボタンを押した。


「あれ? め……工藤もAランチ?」
「……まあ、な」


 恐らく『名探偵』と言いかけたのだろう。
 場所を考えて下さった怪盗に内心で一瞬だけ感謝をして、新一も食券を手に券売機の列から抜け出した。


「「………」」


 そのまま互いの存在を無視して何処かに行く事も出来たというのに、それをするのは何だかお互いに気が引けて。
 かと言って、何を喋ったら良いものか分らず、相手をチラッと見てみれば相手の行動も同じで。

 それに何だか少し可笑しくなって、怪盗は口を開いた。


「…工藤、一人なの? 友達とかは?」
「ああ、今日は取ってる授業が違うから…って、お前は?」
「俺も同じ様なもん」
「そっか」
「工藤も一人なら一緒に食べる?」
「………」


 ごくごく自然に怪盗の口から零れ出た言葉に、何とコメントして良いか分らずに固まった新一に怪盗は少しだけ苦笑した。


「ごめん。無理言ったな」


 何だか付き合いが長過ぎて、そう言わせてしまう何かが彼にはあって。
 けれど、忘れていた訳じゃない。

 相手は『探偵』
 自分は『怪盗』

 決して相容れない存在だと分っている。
 どれだけ自分が彼に近付きたいと願っても、叶う事のない願いだと知っている。

 だから、怪盗は出来る限りの笑顔を作った。


「じゃあな、工藤」


 少しだけ手を上げて。
 ひらひらとそれを振ればそれで終わり。
 これに懲りた名探偵殿はきっと学食を使う時もこれからかなり用心をして下さる筈だ。
 それは自分も同じ。

 だからもう…こんな風に出逢う事もない。


 ―――そう思って手を振ったのに……。



「ちょっと待てっ…!」



 がしっと後ろから肩を掴まれたのは余りにも予想外で。
 うっかり少し後ろに傾きかけた身体を慌てて立て直せば、肩越しにあったちょっとだけ焦った新一の顔も怪盗にはそれ以上に予想外だった。


「何…?」
「別に…無理じゃねえよ」
「えっ…?」
「だから…その……」


 言われた言葉が一瞬結びつかず、きょとんとした顔を浮かべた怪盗に、新一は口籠りながら俯いた。
 そんな顔も可愛いな…なんて呑気な事を思っている間に、漸く彼の言葉とさっき自分が言った言葉が繋がった。


「それって、一緒に飯食っても良いって事…?」
「……べ、別に…そのぐらいは……いいだろ」


 少し俯いたままちょっとだけぷいっと顔を背けた新一を怪盗はやっぱり可愛いと思った。








































「おばちゃん、今日も綺麗だねvv」
「あら、相変わらずかいちゃんは口が上手いねー!」
「そんな事ないよ。ホント綺麗だもん。だからこれプレゼントv」
「あら、嬉しい! じゃあ、唐揚げおまけしてあげるわねv」
「わーい♪ ありがとー♪」


「はぁ……;」


 怪盗キッドが食堂のおばちゃん相手にマジックで薔薇を取り出してプレゼント。
 しかもそれでAランチの唐揚げをおまけして貰っている始末…。

 その光景に新一は盛大な溜息を吐いた。

 仮にも『今世紀最大のマジシャン』やら『平成のアルセーヌ・ルパン』なんて呼ばれている怪盗が…怪盗が……。


「現実は時に残酷だな…;」


 自分の中の怪盗のイメージは世間で言われているよりも遥かに砕けた物ではあったけれど、まさか実態(…)がここまでだとは思わなかった。
 目の前の現実に小さくそんな言葉を洩らすと、新一は自分のトレーに唐揚げの盛り付けられた皿とご飯の盛られた茶碗と本日のスープを乗せた。


「ん? 何か言った?」
「いや、別に…」


 同じ様に同じものをトレーに乗せ前を行く怪盗に、色々(…)言ってやりたい事はあったけれど、大人しくそれらの言葉達を飲み込んで新一は怪盗の後に続いた。


「んー…どこに座ろっか?」
「別にどこでも」
「じゃあ、あそこにしよ♪」


 一番混む昼の時間からは少し遅い時間だった事もあって、大分空いている席から窓側の席を選び取った怪盗は、自分のトレーをテーブルへと置くと新一にスッと椅子を引いて下さった。


「…お前なぁ…ι」
「何?」
「いや…何でもない…;」


 それは極々自然にされた行為なのだろう。
 何に新一ががっくりとしているかなんてさっぱり分ってない顔でそう言われてはそれ以上何かを突っ込む気にすらなれず、新一は大人しくされるがままにその椅子に腰を下ろした。


「じゃあ、お茶持ってくるからちょっと待ってて」
「あっ…いや……」


 止める間もなくひらっと無い筈のマントすら見えそうな軽やかさでセルフサービスになっているお茶を取りに行って下さった怪盗の背を見詰め、新一は本日何度目になるか分らない深い溜息を吐いた。

 どうしてこんな事になったのか。
 怪盗だって自分の事を今まで避けて来た筈なのに。
 何をどう血迷って『一緒に食べる?』なんて言葉が出て来たというのか。
 でもそれよりも―――。


「血迷ってんのは…俺も同じか……」


 あの時そのまま見送れば良かった。
 なのに、無意識に手が彼を引き止めていた。

 彼は『怪盗』
 自分は『探偵』

 決して相容れる関係である筈がなく、こんな風に普通の友人の様に顔を突き合わせて食事をとる様な関係であって良い筈がないと分っている。
 それでも…考える『もしも…』がない訳ではない。


 もしも普通の友人として出逢っていたら―――。


 そんな事を思った事がなかった訳ではない。
 そんな事を願った事がなかった訳ではない。

 その願いが叶いそうな切欠が目の前に突然落ちて来た。
 それを拾い上げないで無視する事が出来る程、自分はまだ何かを捨てきれてはいなかった。


 だから―――。


「はい。どーぞ♪」
「…さんきゅ……」


 目の前の席に座った怪盗から差し出されたお茶を受け取りながら、新一は己の未熟さに内心で苦笑した。


「んじゃ、まあ……いただきますv」
「いただきます…」


 目の前の怪盗が手を合わせてそう言ったのに倣って、新一もそう言って本日の昼食に手を付ける。
 すると、新一の皿に怪盗は一つ唐揚げを乗せてきた。


「ん?」
「名探偵にもお裾分けvv」
「お裾分け…?」
「さっきおばちゃんに2個唐揚げおまけしてもらったからv」


 にっこり笑った怪盗を見詰めた後、皿の上に乗せられた唐揚げを見詰めて、新一は呆れた様に言葉を零した。


「あぁ…アレか…。お前素でもタラシだったんだな」
「た、タラシ!?」
「そ。下は小学生から上は食堂のおばちゃんまで…」
「ちょ、ちょっと待った! 下は小学生って…」
「歩美ちゃん。覚えてんだろ?」
「ああ…あの、少年探偵団の…」
「お前、あの子の家のベランダに降りた時何した?」
「い、いやぁ…ι」


 思い当る節があったのだろう。
 曖昧な笑みを浮かべて、頬を少し掻いた怪盗にクスッと小さく笑って、新一は唐揚げを一つ口に放り込んだ。


「ま、そのタラシのお陰で唐揚げ1個分得したしな」
「ちょっ…名探偵! タラシじゃないってば!」
「はいはい。で、お前…その『名探偵』つーのやめろよな」


 周りに人が居ないからか。
 呼び方を『工藤』から『名探偵』に戻しやがった怪盗をチラッと睨んで、新一はお茶で喉を潤す。


「で、でも…」
「さっきは自然に呼んでただろ。『工藤』って」
「それは…しょうがなかったつーか…なんて言うか……」


 『何て呼んで良いか分らない』とでも言いたそうな怪盗の言葉を先に遮って。
 新一は言葉を続けた。


「それよりも、だ…」
「?」
「俺の方がお前を何て呼んだらいいんだよ?」
「えっ…」
「お前は俺の名前も素性も全部知ってる。でも俺は何も知らない。誤魔化して呼ぶにも…名前がアレじゃなぁ…」


 『怪盗キッド』なんて名前ではどう誤魔化して呼んで良いのか分らない。
 『怪盗』と呼ぶ訳には勿論いかないし、『キッド』と呼ぶのもあだ名としては少々不自然な気がする。
 まあ、大学で呼ばれるあだ名なんてきっと周りは気にはしないだろうけれど、少しでも疑われるモノは排除しておくに越したことはない。

 この怪盗が―――自分以外に捕まる所なんて見たくない。


「…それって、俺の名前知りたいって事?」


 ちらりと、視線の奥に何か鋭い物が覗いた気がして新一は苦笑する。
 気障でタラシで実は結構お調子者らしい彼が本当は一体何者なのかを一瞬で思い出した。


「別に本名教えろなんて野暮なこたー言わねえよ。同じ大学だからって態々調べる様な真似もするつもりはねえ。
 ただ、呼べるような名前つーか、あだ名っつーか…そういうのがねえと呼ぶにも困るだろーが」
「…別に俺は名探偵なら本名言っても良いんだけどね」
「いらねえよ。そういうのは」
「そう?」


 それは残念、と茶目っ気たっぷりに続けた怪盗をシカトして、新一はもう一つ唐揚げを口に含んだ。


「……かいと、だよ」
「んっ…?」


 もぐもぐと何度目かの租借を繰り返した後に小さく言われた言葉が聞き取り切れず、新一がぱしぱしと瞬きをすれば、満面の笑みでもう一度繰り返された言葉。


「かいと、って呼んでくれれば良い」
「かい、と…?」
「うん。そう」
「…ああ、『かいとう』で『かいと』か…。まあ、安直っていや安直か…」
「ちょっと…名たんて…」
「『工藤』だっつってんだろ」
「うっ…; く、工藤…安直って言うなよ;」


 がっくりと項垂れて見せたかいとを少しだけ笑って。
 既に目の前で空になっていた皿と、漸く今空になった自分の皿を見比べてから、新一はこくっとお茶を飲み干した。


「で、かいと。お前この後授業は?」
「…え? 俺はこの後1個授業あるけど…」
「ふーん…」
「名た……工藤、は…?」
「俺も残り1個」
「そ、そうなんだ…」


 新一の意図がさっぱり分らないのだろう。
 顔中にハテナマークを浮かべたままのかいとに新一はにっこり笑って爆弾を落としてやった。


「じゃあ、授業が終わった後俺と『デート』しないか?」


















































「なあ、工藤…」
「ん?」
「コレのどこが『デート』なんだ?」


 図書館の2階にあるパソコンルームの端で作業をしながらかいとはむすっとした顔でぼやく。
 勿論ここでこんな事をする羽目になったのは隣に居る名探偵が仰る『デート』とやらに付き合わされた結果だ。


「図書館で放課後仲良く過ごす。立派なデートだろ?」
「って、お前…俺の事体良く使ってるだけじゃねえか!」
「いやぁ…今日中にコレをどうにかしたかったんだけどさ、まさかあんなとこでお前に会えるとは思わなくてさ…」
「お前な…探偵が怪盗を使って良い訳?」
「いいだろ、別に。俺は使えるモノは何でも使う主義なんでな」
「ったく、普段の猫被りの良い子ちゃんの名探偵しか知らない奴にこういうとこ見せてやりたいよな…」


 溜息を吐きながらも、それでも手は休めずにキーボードを叩き続けるかいとに満足して、新一はニヤッと口の端を上げた。


「まあ、終わったら何か好きなもん奢ってやるから頑張れ」
「好きな物?」
「ああ。何でも良いぞ。フレンチのフルコースでも、叙○苑で焼き肉でも…」
「それならチョコアイスがいいな♪」
「……チョコアイス?」
「そ。チョコアイスv」
「………お前欲ねえな……ι」


 溜息交じりに、『それよりお前甘党だったのか…』なんてかいとに聞こえない様にひっそりと新一は一人呟いて。
 自分も目の前の画面へと集中し直した。




















「ったく、ホント怪盗遣いの荒い名探偵だねぇ…」


 作業を終え、んーっと伸びをして椅子の背を思いっきり反らしたかいとの言葉に新一は少しだけ眉を寄せる。


「IQ400なんて馬鹿みたいな頭脳持ってる奴には大した事なかっただろ?」
「どっからその数値引っ張り出してきたんだよ」
「白馬が言ってた」
「あー…アレの情報ね」


 よいしょっと起き上がってかいとは興味なさそうにそう言ってぱきぱきと首を鳴らした。
 ついでに手を前に組んでんーっともう一度伸びをした。


「お前、白馬にもばれてんのか?」
「別にばれてる訳じゃないよ。確かな証拠がある訳じゃないし」
「だな。それに白馬は…」
「ん?」
「……いや、何でもねーよ」


 言いかけて、口を噤んだ新一の横顔を少しだけ見詰めて、かいとは首を捻った。


「珍しいね。名探偵がそんな風に言いかけて止めるなんて」
「お前はどんだけ俺の事知ってんだよ」
「知ってるよ。きっと……誰よりも一番知ってる部分もある」
「………」


 ちらっとかいとへと視線を向けた新一と視線がかち合って。
 お互いの間に沈黙が落ちる。


「…で、名探偵」


 その沈黙を破ったのはかいとの楽しそうな声だった。


「チョコアイス食いに行こうぜ♪ 奢ってくれんだろ?」


 沈黙を破る為だと分っていた。
 それが怪盗の優しさだとも。

 本当にハートフルな怪盗だと、新一は心の底から苦笑した。


















































 平日だからか、それとも時間帯のせいか。
 ほとんど客のいない店内の一番奥の席に陣取って。

 幸せそうにアイスを口に含む者が一人。
 その目の前で…思いっきり嫌そうな顔を浮かべて珈琲を飲む者が一人。


「んーvv やっぱアイスはチョコアイスに限るねーvv」
「………」
「どうした? 工藤?」
「…俺、チョコアイスだけをトリプルで頼む奴初めて見た」
「俺は逆にアイスクリーム店に来て珈琲だけを頼む奴を初めて見たよ」
「………」
「………」


 お互いにまじまじと相手の手に持たれている物を見詰め、次いで相手の顔を見詰めて……思わず吹き出した。


「天下の『怪盗キッド』がチョコレートアイストリプルって…お前どんだけ甘党なんだよ!! イメージ崩れるだろうが!」
「つーか、名探偵こそどんだけ空気読めねえんだよ! アイスクリーム店に来て珈琲だけ普通頼む?! 付き合いで良いから一個ぐらいアイス頼むだろ、普通!」
「るせー! 俺は甘いのが苦手なんだよ。お前みたいな甘党と一緒にすんな」
「あ、お前今甘党馬鹿にしただろ!? 周りの人間皆敵に回すぞ!?」
「あのな…お前、普通の甘党のつもりかよ…。そんな甘ったるいチョコアイスばっか頼みやがって…。お前の甘党っぷりは異常だ、異常!!」
「うるせー! 俺のは脳の栄養なの! このすばらしー頭が栄養として甘いもんを欲してんの!!」


 潜めなきゃいけない所(…)はお互い声を潜めて、それ以外はやいやいとお互いに言い合って。
 それでも互いに口元に浮かぶのは堪え切れない笑みで。

 言いながら笑い過ぎて、頬まで痛みが上って来る。


「ったく、あんまり笑わせんなよ。頬が攣る」
「その言葉そっくりそのまま返してやるよv」


 ニヤリと笑った楽しそうなかいとの顔に新一もニヤッと笑った。


 ああ全く。
 宿敵がこんな奴だなんて…面白過ぎる。

 そう、それがいけなかった。
 相手がこんなに面白い奴じゃなかったら、こんな事言わずに済んだ筈なのに…。


「なあ、工藤」
「ん?」
「あのさ…」
「何だよ」
「いや…」
「言いたい事があるならはっきり言え」
「う、うん…。あのさ……俺ら、さ……友達になれねえかな…?」
「…………」


 言われた言葉に新一は固まった。
 いや、正確に言えば、頭に正しい意味が届いていなかったのかもしれない。

 真っ直ぐにかいとを見詰めたまま、新一がしぱしぱと数度瞬きをすれば、相手の顔色がさっと青褪めた。


「ご、ごめん…! 何でもない!! 忘れて! つーか、今のは聞かなかった事にして!!」
「………」


 目の前でわたわたぶんぶんと手やら首やらを振っている相手のチョコアイスが今にもコーンから滑り落ちそうになって、そっちの方がどちらかというと気になってしまう。
 そのぐらい、さっき言われた言葉は言葉として新一の頭の中に入ってこなかった。


「ごめん。ホント…ごめん」


 言葉を返す事のない新一に、かいとがしょぼん…と凹み気味に視線を下へと落とした頃、漸く新一の頭は正常に動き始めた。


「いや、別に謝る様な事言ってねえだろ…」
「だって…」
「いや、こっちこそ悪い。その…そんな事言われると思わなかったから余りにビックリして……」
「そう…だよね……」


 フォローするつもりで言った言葉にすら、かいとは余計に項垂れてしまって…。
 新一は自分の失態に眉を寄せる。

 こんな時にどんな言葉をかけていいかなんてさっぱり分らない。
 それに相手はこの怪盗。
 だとすれば、余計に何を言ったらいいのか分らなくなる。


「あのさ…」
「…なに……?」


 顔を少しだけ上げたかいとが何だか酷く泣きそうな顔をしていて、言葉に詰まる。
 大学生の男として、瞳を潤ませた図がちょこっと可愛く見える…というのはいかがなものなのだろうか…。
 そんな事を考えながらも、新一は漸く重い口を開いた。


「……お前、さ…」
「…?」
「……怪盗の癖になんで探偵なんかと友達になりたがるんだよ」


 言ってしまってから、しまった、と思った。
 自分の耳に届いた自分の声が余りにも冷たく響いたから。


「ごめん。迷惑…だよね……」


 それはそのまま相手にもそう響いたのだろう。
 泣きそうな顔そのままに無理に浮かべようとした笑顔が妙な感じで張り付いた作り笑いをして見せたかいとに、新一の胸がズキッと痛む。


「わりぃ…。別にそういう意味で言った訳じゃねえんだ……」


 こういう時にこそ、言うべき言葉を自分は持っていないのだと酷く実感する。

 自分の言葉は常に誰かを追い詰める為の言葉だ。
 だから、誰かを優しく慈しむ様な言葉が出てこない。

 それが酷く歯痒い。


「…迷惑とか、そういうんじゃなくて……。ただ、純粋に疑問に思っただけだ」


 そう、それだけ。
 怪盗の言葉が不快だとか、それこそ迷惑だなんて微塵も感じなかった。

 ただ胸の内に湧いたのは、純粋な疑問だけ。

 怪盗にとって探偵なんてモノは批評家だと何時ぞやに言われた。
 似た者同士だとも言われた事も過去にはあったが、それにしたって、怪盗は『逃げる者』であり、探偵は『追う者』だ。

 その追う者とお友達になりたいだなんて――― 一体どういう了見か。


「…いや、ただ……」
「ただ…?」
「……………」


 返ってきたのは重い沈黙。
 纏う雰囲気に少しだけ夜の彼の姿が混じった気がして、新一の身体に少しだけ力が入る。


 そう――忘れてた。


 目の前の彼は『怪盗』であり、自分は『探偵』である。
 だとすれば、彼が自分と友達になりたがる訳なんて―――。



「俺と『オトモダチ』になった所でお前に必要な情報が引き出せるとも思えねえんだが?」
「!?」



 長いかいとの沈黙に耐えきれず、思わず自分の中の『探偵』をチラッと見せてそう言えば、かいとの肩がビクッと揺れた。
 そして、顔が辛そうに歪められる。


「別に……そんな意味で言った訳じゃない」


 聞こえたのは余りにも固い声。
 何かを堪える様な小さく低い声。

 自分の言葉がどれだけこの目の前の人物を一瞬で傷付けたのか、一瞬遅れて気付く。
 それでも、気付いたとしても…遅い。


「…俺の事、そこまで情けない奴だと思ってる訳?」
「えっ…?」
「名探偵はさ俺の事、『友達』という名で人の事利用する様な卑怯なコソ泥だって見下げてんだろ?」
「違っ…!」


 スッと細められた瞳。
 瞳の奥に揺れる冷たい炎。

 それだけで、自分が何か踏んではいけない地雷を踏みつけたのだと分る。

 それでも、その炎は一瞬にして消えた。
 代わりにかいとの瞳に浮かんだのは、諦め。


「……悪い。俺が怒るのはお門違いだな」
「…いや、かいと……」
「ごめん。もう帰るよ。……アイスごちそーさん」
「おいっ…! ちょっと待てよっ…!!」


 いつの間に食べ終わっていたのか。
 ポイっと捨てられたアイスのコーンの紙ゴミがごみ箱に綺麗に放られるのと同時に、かいとは素早い動きで席を立った。
 そうして、もう何の用事もないかの様に振り返りもせずに店を出て行ってしまう。

 その姿から一瞬遅れて、新一も慌てて珈琲の入っていた紙コップをゴミ箱に放り投げると、席を立ち、慌ててその後ろを追いかけた。




















 ――――が、店のドアを出た瞬間……彼の姿はもうそこにはなかった……。




















「っ……」


 周りを二度三度見渡して、唇を噛む。

 完全に失敗した。
 彼を誘った時は、そんなつもりじゃなかった筈なのに。


 怪盗がそういうつもりで言った訳ではない事を本当は自分は知っていた。
 知っていて、それでもなお自分の中の『探偵』がそれを確認せずにはいられなかった。


 自分だって本当は思っていた。
 ―――もしも、他の出逢い方をしていたら『友人』になれたかもしれない。

 本当は自分だって望んでいた。
 ―――もしも、叶うとしたら…『親友』になれたら楽しかったかもしれない。


 それは、あくまでも新一の中の『もしも』であり、実現されない事はずっとずっと分っていた。
 何度かの邂逅で彼の性格も、少しずつ分ってきて。
 怪盗をやるには余りにも性格の良過ぎる(…)彼の事を嫌いになれない自分に気付いて。


 それでも――自分の中の『探偵』は彼を『信じる』よりも『疑う』事を選び取った。


 それは本能にも似た何かであり、それは今までの経験則だ。
 『信じる』事よりも『疑う』事から始めた方が効率が良い。
 それを例に漏れず彼にも使ってしまっただけ。


「……ごめん」


 今更その謝罪が無意味だとは分っていた。
 それでも、言葉が思わず口を突いて出た。



 あの優し過ぎる怪盗を自分の中の『探偵』が傷付けたのだと、否が応でも思い知らされた――――。


















































「…馬鹿だな、俺………」


 こういう時に限って空は綺麗な夕焼けで。
 その鮮やかな赤が今のかいとの目には毒だった。


 分っていた。
 こうなってしまうのは。

 予測していた筈だった。
 こうなってしまうだろう事を。


 それでも、気持ちは頭を裏切り、思わず願ってしまった叶わぬ思いを言葉に乗せてしまった。


 彼は『探偵』
 自分は『怪盗』


 そんな事分り切っていた筈なのに。
 相容れない存在だと、ずっとずっと自分に言い聞かせてきたのに。

 それでも感情は馬鹿みたいに理性を裏切ってみせた。


 その結果が―――コレだ。


 当たり前だと頭の中で自分が自分を嗤う。
 そう、当たり前だ。
 『怪盗』が『探偵』と仲良くなりたがるなんて、お話の中ですら聞いた事がない。
 ましてや、それを受け入れる『探偵』なんて皆無だろう。


 『探偵』の一番の目的は『謎』を明らかにする事。
 それこそが探偵の追い求める『真実』であり、真実を明らかにするというその一点が『探偵』という生き物の信念の様なものなのかもしれない。

 ヘンペルのカラス風に考えるなら『全ての探偵は真実を追い求める者』だとするのなら『真実を追い求めない者は探偵ではない』と言えるのかもしれない。
 だとすると、彼は間違いなく『探偵』であり、『犯罪者』の自分を間違いなく追い詰める者なのだろう。

 そんな彼に一体自分は何を望むというのか―――。



「俺が馬鹿なだけなんだ…。名探偵は、悪くない……」



 そう、彼は何も悪くない。
 悪いのは、少しばっかり構われて優しくされて調子に乗っていた自分だ。
 呪うべきなのか『もしかしたら…』なんて淡い希望を抱いてしまった自分の愚かさだ。



 ――――自分の頭の悪さに吐き気がした……。






























 自分自身の馬鹿さ加減に嫌気が差して。
 家に帰ってから夕食も食べずにベッドの中に潜り込んだ。

 余りにも情けなくって。
 余りにもやるせなくて。

 零れ落ちそうになる涙をぎゅっと目を瞑る事で堪える。
 泣くなんて…それこそ情けなくてみっともない。

 堪える様に息を詰めて、身体を抱き抱える様にして丸くなって眠ろうとするが、眠気なんてちっともやって来ない。
 それでもどうにかこうにか自分を騙くらかして浅い眠りに落ちる。

 漸く寝付いたと思ったのに、気付けば傍らで目覚まし時計の耳障りな音がした。
 ずるずると引き摺る様に身体をベッドから引っ張り出して、気乗りしない気分を切り替える為シャワーを浴びる。


 今日学校に行くのなんてやめてしまおうか…。


 そんなくだらない事が頭の隅に過ったけれど、それを振り切るようにシャワーの温度を上げる。
 熱いお湯が未だハッキリとしていなかった頭を少しだけ起こしてくれる気がする。

 ほぅ…と小さく息を吐いてシャワーを止めると、仕方なく学校に行く為の準備をした。


















































 溜息すら出そうな程鬱々とした気分で門をくぐり歩を進め、暫く行った先の掲示板に向かおうとした所でこの場所には居る必要のない人を見付けかいとは数度瞬きをした。
 人待ち顔で掲示板の手前の柱に背を預けている人物は紛れもなく…。


「……め……く、工藤……?」
「よっ…」


 かいとの姿を見付け軽く手を上げてそんな風に挨拶して下さった新一に、思わず『名探偵』と言いかけたのを何とか飲み込んで彼の名字を無理矢理捻りだせば、返ってきたのは苦笑。


「ったく、いい加減慣れろよな」
「あ、ごめん…。って、そうじゃなくて…何でここに?」


 彼とは科が違う。
 だから彼がこの科の掲示板前に居る必要性はない。
 それに…この様子だと希望的観測だけではなくきっと……。


「お前を待ってたんだよ」


 ビンゴ。
 やっぱり希望的観測だけではなかったらしい。


「何で?」


 昨日の今日だ。
 昨日あんな失態を演じてしまった自分としては顔を合わすのすら若干憚られ、今日以降はどうしたって避けられるだろう事を予想していたというのに…。


「…昨日の事、謝りたくてさ…」
「えっ…」
「昨日は…悪かった」


 沈んだ声と、伏せられた視線に思考が固まる。

 昨日の失態はあくまでも自分が舞い上がり過ぎてしまってあんな事を言ってしまったからで。
 彼は何も悪くない。
 悪いのは――立場もわきまえずあんな事を言ってしまった自分なのに……。


「いや、工藤は悪くないよ。謝る様な事は何もしてない」
「でも…」
「俺が立場もわきまえずに不用意な発言をしただけだ」
「…そんなこと…」
「ごめんね、工藤。もうあんな馬鹿な事言わないし、それにもう工藤に近付く様な真似もしないから」
「っ…!」


 それでお終い。
 そう、ちゃんと『探偵』と『怪盗』としての線引きをする為にもう二度と不用意に近付く様な真似はしない。
 それが一番自然な形だった。
 だから今まで近付かない様にしていたのだし、昨日の様な偶然の出逢いがあったとしても、また元の生活に戻るだけ。
 それ以上でもそれ以下でもない。
 ただそれだけ。

 そう言う代わりに『もう近付かない』そう告げた。
 この目の前の探偵だってそう言えば、『分った』とか『そうだな』とか『俺もそうする』とか言って下さる筈だ。
 そう思ってかいとはその言葉を口にしたのに、かいとの予想を裏切って新一は眉を寄せ僅かに唇を噛みしめた。
 その様子を頭の中でハテナマークを浮かべながら、何も言う事が出来ず見詰めていれば、僅かな沈黙の後、新一は口を開いた。


「…もう、遅いか?」
「えっ…?」
「…昨日、言ってくれたのの……返事だよ……」
「返事って…」
「いや…だから……その………」


 言いかけて、照れくさそうに頬を掻いて少しだけ俯いた新一の頬がほんのりと赤くて。
 ああ、こういう顔も可愛いな…なんて心のどこかで呑気に思っていたら、躊躇いがちに向けられた新一の瞳とかち合った。

 ああ、やっぱり綺麗な蒼だ。


「…昨日お前が言ってくれただろ? 『友達になれないか?』って…」
「あ、うん…」
「…その返事、もうしたら駄目か?」
「いや…」
「もう、遅いか?」
「…ううん。遅くないけど……」


 少しだけ怖々とした視線を向ける新一の瞳にはいつもの鋭い輝きは無い。
 その代わり広がっているのは穏やかな蒼だけだ。
 それに安堵する自分がいてかいとは内心で苦笑する。

 『怪盗』が『探偵』に安堵を覚えるなんて―――。


「……その、さ……。俺は探偵でお前は……その……」


 言いかけて、人波からは少し遠ざかっているとはいえ、周りの視線を気にしている新一にかいとは苦笑して言った。


「そうだね。俺は決して味方じゃない」


 そう、味方である筈はないし、寧ろ『敵』だ。
 だから、続く言葉は分っていた。

 『探偵』として信念を持って生き続けてきて、そしてこれからも生き続けていくだろう新一には『怪盗』なんていう『犯罪者』と仲良くする理由なんてない。

 それは最初から分っていたし、昨日だって痛感した。
 それでもきっと昨日のかいとの様子からきちんと謝罪をしなければとか、ちゃんと最後に話してくれようと思ったのだろう。
 …本当に、この目の前の彼は優しい。


「…そう、お前は味方じゃない。でも……俺は敵だとも思ってない」
「えっ…?」


 けれど、返ってきた答えは少しだけかいとの予想と違っていて。
 驚いた様にかいとが数度ぱしぱしと瞬きをすれば、新一は少しだけ視線を逸らした。


「確かにお前がしてる事は褒められた事じゃない。でも……俺は、お前を責めるつもりもない。……何か探してんだろ?」
「しっかりばれてる訳ね。でも、責めるつもりはないって……探偵、なのに?」
「探偵だからだよ。俺は…警察じゃなくて、『探偵』なんだ」


 新一の言いたい意味を図りかねて怪訝そうな顔でも浮かべていたのだろう。
 かいとの顔に視線を戻した新一は少しだけ複雑そうな顔で笑った。


「俺は警察じゃないから…捕まえる以外の選択肢も持ってるんだぜ?」
「…いいのかよ。探偵がそれで…」
「さあな。でも、今俺の目の前に居るのは『かいと』っていう普通の大学生だ。
 普通の大学生である俺が、普通の大学生であるお前と友達になって何が悪い?」
「いや…それは……」
「それに、窃盗犯は現行犯逮捕が基本だしな」
「…それって、…」
「勿論現場では今まで通りって事だろうな」
「…成る程。ホント……名探偵らしいよ」


 つまりは普通の大学生である『かいと』としては友達になるが、『怪盗キッド』としては今まで通り追う者であるという宣言。
 何だか物凄く彼らしい物言いにかいとは苦笑して、それから少しの間の後覚悟を決めてしてもう一度口を開いた。


「なあ、工藤」
「ん?」

「…俺と、友達になってくれる?」


 こんなお伺いを立てるのなんて、きっと小学生以来だ。
 そのぐらい、幼稚で陳腐な台詞。
 なのに、それを言える事が酷く愛おしい。



「……勿論なるに決まってんだろ。お前みたいな面白い奴…ほっとけるかよ……」



 照れたように逸らされた視線とその言葉に、かいとは漸く柔らかい笑みを浮かべた。





















back