ねえ、貴方に分かる?


 好きな人の一番でない辛さが

 好きな人を見守り続けていく辛さが


 一番大切な人が

 自分を一番好きになってくれる事が


 どれだけ恵まれたことなのか本当に分かっているの?










接吻











「哀ちゃん…」
「!? お前なんで知って…」


 哀の姿を視線の先に見つけた瞬間、快斗の口から発せられた彼女の名前。
 それに新一が一番最初に反応した。

 そして、呼ばれ本人は、


「やっぱり覚えてたのね…」


 意外な程に冷静だった。




















「灰、原……覚えてたってお前……」

「工藤君にはもう全部話したの?」
「いや、俺は何も話してないよ。やっぱり哀ちゃんだったんだね…」
「………貴方ならもしかして、とは思っていたわ」


 何も分からない新一を蚊帳の外において、哀と快斗は互いに確認をし合う。

 結局は同じ穴の狢だ。
 考える事は一緒だろう。


「まあ、俺の身体にはよっぽどじゃないと利かないからね」
「それも踏まえてアレを作ったのだけれど…」
「詰めが甘かったんじゃない?」
「あら、貴方が異常だっただけでしょう?」


 お互いに同じ笑みを浮かべて。
 紡ぐのはそんな言葉。

 傍から見ていれば軽口を叩き合っているだけ。
 けれど、新一は病室の温度が一気に下がったのを感じていた。


「お前ら、俺を無視して話をするな!」


 完全に蚊帳の外にされていた新一が声を張り上げる。

 自分の知らない何かを知っている彼等。
 自分の知らない全てを知っている彼等。

 何が起こっているのか分からない。
 何を忘れているのか分からない。


「ああ、ごめんね。新一。でも…」


 でも、仕方ない。
 だって自分の大切な人から、自分の記憶を全部消してしまった人間が目の前に居る。
 例えそれが新一が望んだ事だとしても…。

 憎むなと。
 怨むなと。

 そう言う方が無理な話だった。

 けれど、思いっきり睨みつけてくる快斗の視線をさらっと受け止めて哀は笑う。


「いい目ね。流石は犯罪者の目だわ」
「灰原!」
「有り難う。そんなのは自分が一番良く知ってるよ」


 そのせいで綺麗な綺麗な名探偵に手を伸ばすのを何度躊躇ったか知れない。

 怪盗で。
 犯罪者で。

 純粋過ぎる程、いつか壊れてしまうんじゃないかと思う程真っ直ぐに真実を追い求め続けていた彼に、自分では到底手を伸ばせないと思っていた。
 いつだって、自分の存在を後ろめたく思っていた。


「そうでしょうね。貴方も私と同類だものね…」
「一緒にしないで欲しいね。俺は君の居たあの組織の人間とは違う」
「あら、それは人を殺して居ないから? 人を傷つけないから? だから義賊でも気取るつもり?」
「っ……」
「私に言わせてもらえば、貴方も私と同じよ。結局は唯の犯罪者でしかないわ。
 平成のアルセーヌ・ルパンなんて世間に持ち上げられて、調子に乗ってたんじゃないの? その怪我がいい証拠だわ」


 辛辣に言葉を紡ぐ哀に、快斗は唇を噛み締め睨む目により力が籠もる。
 二人の間に流れる空気は確実に冷え、重く病室に沈み込む。

 今までお互いに隠していた本音。
 今までお互いに目を瞑っていた事実。

 全てが露呈する。


「別に調子に乗ってた訳じゃ…」
「そう。ならいいけれど。腕の傷は相当響くんじゃない?
 貴方の表の顔はマジシャンでしょう? 商売道具に傷をつけるなんて随分と余裕なのね」


 言葉に詰まった快斗を哀がクスッと笑う。
 天使の様な顔で、悪魔の笑みを浮かべる。

 けれど、そこは快斗も負けてはいない。
 一瞬にして表情を変え、にこやかに笑って見せてやる。


「まあ、俺の腕ならこんな傷幾らでも誤魔化せるよ」
「その奢りがあるからこんな事になるのよ」
「………随分と心配してくれるんだね。恋敵の俺を」
「な、何言って……!」
「気付かない筈ないだろ? 哀ちゃんが誰を想ってるのかなんてさ……」
「っ………」


 今度は快斗の番だった。

 新一が望んだとして。
 それでも協力するかどうかは彼女自身の判断だ。

 きっと彼女はこう思ったに違いない。


 ――――丁度良い機会だと。




「快斗! 灰原! 二人とももういい加減にしろ!」




 お互いに探り合って。
 お互いに貶め合って。

 暗く暗く、淀んでいた空気が彼の叫びによって一瞬にして粉砕した。


「………」
「………」


 昔の状態なら、きっと昔の関係なら。
 二人とも直ぐに『ごめんなさい』で済む筈だった。
 けれど、今は二人とも黙ったまま。

 口を噤んでしまった二人に新一は溜息を吐き、哀をじっと見詰めた。


「灰原……どういう事なのかちゃんと説明してくれないか? 一体俺に何があったんだ? 俺はお前に何をさせた……?」


 いい加減にはっきりと聞きたかった。
 自分だけ蚊帳の外なのは嫌だった。

 自分の事の筈なのに。
 二人にだけ分かっていて、自分が分かっていないのが辛かった。


 快斗の話から恐らくは哀の薬によって全て忘れてしまったのだと。
 そして、それは自分が望んだ事なのだと。

 そこまでは分かった。

 けれど、自分がどうしてそんな事を望んだのか、それは何も分からなかった。


「………あの日、貴方は私の所に来たのよ。
 『快斗と別れたい。だから全て消してやり直したい』そう私に言ったの…」


 哀は新一を見詰め返し、言葉を紡ぐ。

 真っ直ぐに。
 嘘偽りは無い。

 そう言う様に、唯真っ直ぐに新一を見詰める。


 それが――――嘘だとばれてしまわない様に。


「俺が…全て忘れたいと?」
「ええ」
「全て忘れて最初からやり直したいと?」
「ええ」
「恋人だった…快斗の事を全部忘れて、か?」
「ええ。貴方が望んだの。全て忘れてしまいたいと…」


 嘘に嘘を重ねる。
 だって仕方ない。
 彼から彼を引き離すにはそれが必要だから。

 もう、あんな風に死に急ぐ彼なんて見たくないから。


「だから、私は貴方の言う通りに薬を作ったの」


 そう、まるで被害者の様に語る。

 自分はそうしたくなかった。
 自分はそんな気はなかった。

 そう言う代わりに。


「俺がそう望んで、お前にその薬を作らせた…」
「ええ」


 新一が少し俯き加減になる。
 翳りの無い蒼が徐々に曇りを帯びていく。

 それを救い上げたのは快斗だった。


「新一。そんな顔しないで?
 確かに新一は哀ちゃんにその薬を作らせてしまったのかもしれない。
 でも、哀ちゃんは断る事も出来た筈だ。全部新一が悪い訳じゃない。
 選べたんだよ、哀ちゃんは。拒否する事も出来た。
 でも、それをしなかったのは……哀ちゃんもその方が良いと思ったからだ。嫌々じゃない」


 そっと新一の頬に触れ。
 涙ぐみそうな目元にそっと指を滑らせる。


「新一。哀ちゃんもそれを選んだんだ。
 新一が強要した訳じゃない。哀ちゃんはそこまで馬鹿じゃないよ?」


 もしも、もしも新一がそれを強要したとしても、彼女が新一の利益にならない事をする筈がない。

 それは絶対的な信頼。
 同胞としての信頼。


「ね、哀ちゃん…?」
「………ええ」


 快斗の言葉を苦々しげに思いながらも、哀は頷く。

 彼を苦しめたい訳が無い。
 彼を苦しめたいと思う訳が無い。

 叶うなら、彼を苦しめる全てのモノを彼から遠ざけてしまいたい。

 それが本音。
 そして、それは快斗と同類であるという事。


「私は……工藤君に強要された訳じゃない。ただ、貴方のあんな顔見ていられなかったのよ……」


 あの日。
 あの時。

 今二人に語った内容は本当は違うけれど、それでも彼のあの時の表情を見ていられなかったのは本当だ。
 本当に、あんな彼はもう二度と見たくない。

 それだけは嘘の中に紛れ込んだ真実。


「だから、新一。そんな顔しないで?」
「んっ……」


 柔らかく、快斗は新一に微笑む。

 昔と同じ様に。
 恋人に向ける様に。

 本当に幸せそうに微笑む。

 そして、それに頷く新一の表情も漸く少し柔らかい物になる。
 まるで、快斗の魔法にかかってしまったかの様に。

 それは嘗ての二人の様で。
 それは新一の記憶の無くなった今でも彼らがしっかりと繋がっていると無言で主張されている様で。

 哀はその光景に唇を噛み締める。


「………離れなさい」
「えっ……」
「………」


 だから、哀はそう言葉を紡ぐ。
 彼と彼を引き離す為に。


「灰、原……?」
「工藤君。貴方が覚えていないのは分かっているけれど言わせて貰うわ。
 貴方は私の所に彼を忘れたいと、その薬を作ってくれと、本当に……辛そうな顔で言いに来たの。
 それだけ思い詰めていたの…。それをまた……繰り返すつもりなの……?」


 もう二度と新一のあんな顔を哀は見たくなかった。
 もう二度と新一のあんな言葉を哀は聞きたくなかった。


「工藤君。今なら……全て忘れている今ならまだ間に合うの。だから………」






























「――――また俺を忘れろって?」






























 哀の言葉の継いだのは、誰でもない快斗だった。


「ええ。そうよ」


 それに驚く様子も無く、哀は唯淡々と快斗に語る。


「私がそんな事言うのは目に見えていた筈でしょ?」
「ああ、そうだね。君は新一の為を思って俺達の記憶を消そうとしたんだから」
「貴方が傍に居る限り、工藤君は幸せになれないの」


 快斗が新一の事を好きでいる限り。
 新一が快斗の事を好きでいる限り。

 結局はまた同じ事の繰り返しになってしまうから。


「黒羽君。貴方にも言わせて貰うわ。
 工藤君の事を本当に大切だと、愛しているというのなら―――今すぐ工藤君から離れて頂戴」


 本当に新一のことを好きだと言うのなら。
 本当に新一のことを愛していると言うのなら。

 新一の事を考えて今すぐに、間に合ううちに離れろと。

 そう語る哀に快斗は顔を顰める。


「どうして哀ちゃんにそこまで言われる必要がある?」
「あの時の、あの工藤君の顔を見ていたからに決まってるでしょ!」


 響くのは悲痛な叫び。
 普段は冷静な哀がそんな風に叫んだのを新一も快斗も見た事がなかった。


「灰原…お前……」
「哀ちゃん。それは俺だって同じだよ」


 あの日。
 あの時。

 明らかにおかしかった新一の瞳は、泣いてすらいなかったけれど壊れてしまいそうに儚かった。

 あんな顔を。
 あんな目を。

 させたくはないと快斗だって思っていた。
 だから―――。


「俺も、新一の事を考えて忘れた振りをしてた。
 新一の為に全て忘れた振りをして、新一から離れれば全て解決すると思ってた。
 でも……それこそ、全て繰り返しだよ。俺と新一は―――そんな生半可な関係じゃない」


 そう。
 新一は明確な意図を持ってあの場所にやって来た。

 全て忘れて。
 快斗の事なんて何も覚えていなくて。

 それでも、彼はあの場所に来て、あんな目をして俺の為に泣いてくれた。
 結局それが答え。


「俺は新一をきっと一生諦める事なんて出来ない。
 何か機会を伺ってはきっと新一の事を抱き締めようとするよ。
 自分がどれだけ抑えようと思っても駄目なんだ…。
 この気持ちだけはどうしようもないんだよ…。
 それに……新一だってきっと同じだよ。何の記憶も残ってないのに俺の為に泣いてくれたんだから」


 それが証拠。
 それが証明。

 何も覚えていなくても。
 全て忘れてしまっていても。

 新一は快斗の為に泣いてくれた。
 それが全て。


「そんなのは唯の…」
「ああ、そうかもしれない。ただその場の雰囲気に流されただけかもしれない。
 でも、哀ちゃん。忘れてない? 相手は名探偵の『工藤新一』なんだよ?」


 いつだって真実を見詰め続けて。
 どれだけ隠されたモノでも全て白日の下に曝け出して。

 傷付いて。
 傷付けられて。

 それでも真実を追い求める事を辞めない名探偵。
 そんな彼に何かを隠しておける筈がない。


「ねえ、哀ちゃん。新一は……新一がした判断ならさ、俺は間違えはないって思うんだ」


 新一が何を望もうと。
 新一が何を繰り返そうと。

 それは俺達の名探偵が選んだ事だから。


「俺達の大切な『工藤新一』が望むならさ…」


 これからどうなるかなんて知らない。

 幾ら新一が快斗の為に泣いてくれたからって、昔の様に恋人に戻れる確証なんてない。
 もしかしたら、今度こそ嫌われて、犯罪者のお前なんか要らないと言われる日が来るかもしれない。

 それでも、と快斗は思う。

 過去の美しい思い出よりも。
 これからの彼との辛いかもしれない日々の方が何倍も何倍も幸せだ、と。


「黒羽君…」


 真っ直ぐで。
 柔らかくて。
 優しくて。

 嘗ての恋人に全て忘れられてしまったとは思えない程、目の前の『黒羽快斗』という男は明るく微笑む。
 それが哀には眩しかった。


「俺はね、昔の関係に戻れるなんて更々思ってないよ。勿論それを新一に強要するつもりもない。
 忘れる前は恋人だったんだ、なんて主張するつもりもない。
 新一が忘れてしまっているから…どうして新一が俺を忘れたいと思ったのかも分からないし…」


 柔らかく微笑みながら。
 その瞳はどこか寂しそうで。

 ベッド横に居た新一はそんな快斗を唯見詰めているなんて事は出来ずに、思わず快斗の手に自分の手を重ねていた。


「新、一……?」
「俺、何も覚えてないけどさ……お前の事……その………」
「……?」


 言い淀んだ新一に快斗は不安げに首を傾げる。
 一体その後に何が続くのかと。

 そんな快斗の視線を受け止めて、新一は意を決した様に自分の気持ちを伝える。


「俺……お前の事嫌いじゃない……と思う」
「新一…」
「好きとか、付き合うとか、そういうのはまだ全然分からないけど……それでもお前の事が気になって仕方ない。
 お前が怪我してるの見て…確かに俺は他の誰でも助けたんだろうって思う。
 でもそれでも、何かが違ったんだ。きっとお前だから……違ったんだと思う……」


 たどたどしく。
 自分の中の感情を確めて。

 期待させ過ぎないように。
 けれど、何とか快斗を元気付けたくて。

 訳が分からなくて混乱している感情に一つずつラベルを貼るように、整理をしていく。


「探偵だからとか、そういうの関係無しに俺はお前が気になるんだって思う……。今はこんな事しか言えないけど………」


 本当は、好きだとか。
 本当は、愛してるだとか。

 そんな言葉が言えたら良いのは分かっていた。
 でも、大切な言葉だと思うから、中途半端な状態ではそんな言葉紡げなかった。


 少し俯いてしまった新一に、それでも快斗はこの世で一番嬉しい事があったとでも言う様に微笑む。


「新一……ありがとう。そう言って貰えただけで俺は本当に幸せだよ」


 新一の一生懸命な気持ちが。
 少しでも、自分の事を気にかけて紡いでくれた言葉が。

 そして、新一の少し体温の低い手の感触が。

 今の快斗には何よりの幸福だった。






























「分かったわ。貴方達がいかに繋がってるのかって事……」






























 諦めた様な、苦笑する様な哀の声が聞こえたのは快斗が思わず感情のままに新一の頬に唇を寄せ掛けた直後。


「哀、ちゃん…?」
「灰原…?」
「貴方達……まるで珍獣を見るかの様な変な目で私を見ないで頂戴」


 呆れた様に、けれど昔の彼女そのままで自分に言葉を投げかけてくれた哀に快斗は言葉を発しようとして、けれど口を噤む。
 そんな様子に哀はクスッと少しだけ意地悪な笑みを浮かべる。


「私だって……そんな風に見せ付けられたら認めるしかないじゃない。
 それに、貴方達がそう決めたなら私も勝手に決めさせてもらうだけだから」
「決めさせてって…何を?」


 不安そうに尋ねる新一。
 そんな新一に哀の笑みは深まるばかり。


「貴方達がそうなら、私は私で勝手にやらせてもらうわ。
 もしも黒羽君がまた工藤君にあんな目をさせる事があったら―――私が責任を持って貴方を殺してあげる」


 もうココまで来たらそれしか哀には思いつかなかった。

 決して脅しだとか。
 決して言葉だけだとか。

 そんな事ではない。

 本当に。
 本気の本音。


「灰原! そんな事……」


 なんて事を言い出すのかと。  そう新一が言おうとした刹那、




















「いいよ。俺もそんな事になったら自分を赦せる自信なんてないから。その時は――――哀ちゃんが俺を殺して?」




















 新一の言葉を遮るように、快斗の決意が病室に誓いとなって響いた。























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