本当に何も覚えていないんだ


 お前が辛そうな顔をするのも

 お前が涙を零すのも


 全部全部俺が忘れてしまったから?










接吻Z











「そう…かもな……」


 快斗の言葉を俯いたまま大人しく聞いていた新一はその言葉を聞いた瞬間、口を開いた。

 意外な程冷静に。
 意外な程即答で。

 その言葉は新一の口から紡がれた。


「俺達が出逢わなければきっと俺はお前にそんな顔させる事なかったんだろうな…」


 そう言って新一は俯いたままだった顔を上げた。
 その顔は、自嘲気味な笑みを浮かべようとして失敗した様に、辛そうに歪められていた。


「俺が存在さえしなければお前をここまで苦しめる事は無かった。
 俺がお前の手を取りさえしなければお前をここまで苦しめる事は無かった。
 俺が今お前の目の前に存在してしまっているから、お前を苦しめてしまってるんだな…」


 一つ一つ。
 確認する様に。

 紡がれる自虐的な言葉の羅列。


「お前にとって俺はきっと世界で一番存在してはいけない人間なんだろ…?」


 疑問系で紡がれたその言葉。
 けれど、新一の快斗に向ける表情はそれを肯定してくれることを望んでいる物だった。


「なら、お前は俺が居なくなったら幸せになれるのか……?」
「………」


 記憶など無い筈なのに。
 何も覚えていない筈なのに。

 何故か分からないけれど、新一は快斗の悲しそうな顔をこれ以上見ていられなかった。
 言葉が、気持ちが溢れ出してくる。


「だってお前は俺が居るからそんなに辛そうな顔するんだろ?
 それなら俺が今ここで死んだら、お前は幸せになれるんだろ…?」


 何処か遠くを見詰める様に。
 本当に死んでしまうのではないかと思う様な虚ろな眼差しで新一は快斗に尋ねる。


「お前が幸せになれるなら…俺は今ここで死んでもいい」


 記憶なんてない。
 彼との事なんて本当に何も覚えていない。
 でも、何故だか新一は本気でそう思った。

 貴方が幸せになってくれるなら。
 自分なんてどうなってもいい。

 言葉を紡いだ新一自身も、まるで出来の悪い三文小説の台詞のようだと思った。
 それでも、コレは痛い程現実だった。


「勝手な事言うなよ…」


 新一の言葉に、今度はやっと快斗が重く閉ざしていた口を開いた。


 現実だと。
 痛い程の現実だと思うのに。

 この薄暗い空間も。
 新一の虚ろな瞳も。

 快斗にはまるで幻の中に居る様に感じられた。

 全てが夢で。
 今ここに彼と自分が存在しているのも全て幻の様な気すらしてくる。

 それでも、新一が快斗に紡ぐ言葉は真っ直ぐなモノだった。


「でも、俺に出逢わなきゃ良かったんだろ?
 それなら俺を今ここで消してくれ。
 それから…全て忘れればいい。俺が全て忘れてしまったみたいに…」


 言いながら新一の瞳から、一粒一粒透明な雫が零れ落ちていく。
 冷たい氷から溶けて流れ出ていく様に。


「そうしたら…全部元通りだろ……?」


 何もかも消して。
 何もかも忘れて。

 全てリセットしてしまえばいい。


 そうすれば幸せになれるんだろ…?


「っ………」


 新一の言葉に快斗は唇を噛み締めた。

 今更忘れられる訳が無い。
 今更全て消してしまえる訳が無い。

 幸せだった。本当に。
 幸福だった。本当に。

 傷付いて。
 すれ違って。
 忘れられて。

 壊れてしまえば良いと思ったけれど、本音は忘れたくなんて無かった。


 だって、あの時本当に幸せだったのは紛れも無い事実なのだから。





「負けたよ…新一。俺の負けだ……」





 そう言って快斗は新一を思いっきり抱き締めた。


 消せる筈など無い。
 殺せる筈など無い。

 彼が全て忘れても。
 彼から自分が居なくなっても。


 紛れもなく、自分の中には彼しかいないのだから…。


















































「なあ、キッド…そろそろ離せ……」
「キッドじゃない」
「えっ…」
「俺の名前は『くろばかいと』」
「くろ、ば…かいと?」
「そう、黒い羽に、快晴の快と北斗七星の斗で『黒羽快斗』」
「黒羽…快、斗……」
「そう。新一の……昔の恋人だよ」


 ぎゅっと抱き締めたまま。
 快斗は一つ一つ、新一に言葉を落としていく。


「昔の……」
「そう。もう2年ちょっと経つかな。あれから…」
「………」
「何も覚えてないんだよね…」
「んっ……」


 こくんと頷いた新一の声が若干涙声なのに気付いて。
 快斗はそっとその背中を撫でてやる。


「いいよ。もういいんだ…」
「でも、俺は…」
「もういいんだよ。俺決めたから」


 そう言って、快斗はそっと新一を腕の中から解放し、その頬を両手で包み込み真っ直ぐ新一と視線を合わせた。

 蒼の中に広がる藍。
 藍の中に溶け込む蒼。


「俺決めたんだ」
「何、を…?」
「もう一回、一から新一の事口説き直す」
「口説き直すって…」


 ぱしぱしと。
 訳が分からないという様に瞬きをしながら見詰めてくる新一に快斗は柔らかい笑みを返す。


「俺ずっと新一を忘れようとしてた。
 あの日、新一に忘れられてから俺も新一の事を忘れて生きていくのが一番良いんだと思ってた」


 快斗の言葉に新一の顔が一瞬辛そうに歪む。
 けれど、快斗はもう一度優しく微笑みかける。


「でも、違った。俺今日分かったよ。
 俺は新一を忘れる事なんて出来ない。ましてや、新一を消してしまうなんてもっと出来ない。
 だから決めたんだ。
 新一の事忘れたくないから、新一の傍に居たいから………俺はもう一度新一の事一から口説き直すよ」


 全て忘れてしまっている新一を見ているのはきっと辛いだろう。
 昔の思い出を語り合えない事が寂しくて辛くて、泣く日もあるかもしれない。

 でも、それでもこの先ずっとずっと彼の傍に居られない方が絶対に辛いに決まっているから。



「だから、覚悟しててね?
 もう俺は、新一がどれだけ嫌だって言ったって新一の事離してやる気なんてこれっぽっちもないから」



 真っ直ぐに。
 昔新一が好きだと言ってくれた笑顔で。

 大真面目にそう告げてやる。


 途端に真っ赤になったその顔に満足した瞬間―――張り詰めていた意識が完璧にブラックアウトした。


















































「んっ………」


 意識がゆるゆると浮上してくる。
 同時に感じたのは腕の痛み。


「っ………」
「快斗! 気がついたか?」


 重い瞼を少し持ち上げれば、白い天井と、新一の心配そうな顔がぼやけて視界に入ってきた。


「んっ……新い……」
「馬鹿! 起き上がるな!」


 条件反射で、身体を起こそうとすれば慌てた新一にベットに逆戻りにさせられる。

 そこで漸く気付いた。

 ここが病室で。
 自分が病院のベットで寝ていたのだという事に。


「何で俺…」
「お前な…言うだけ言って倒れるなよ。心配したんだからな?」


 ああ、そうか。
 新一に言う事を言って。
 ホッとしたら何だか視界がぼやけてきて、そのまま……。


「ごめん…」
「まあ、あの傷じゃしょうがねえけど…」


 思ってたより全然酷かったじゃねえか…。
 あんな傷だって分かってたらあんなにあそこで無理に喋らせたりしなかったのに…。

 そんな風にぶちぶち文句を言っている新一に安堵して。
 快斗は新一の腕を反対側の自由になる手で掴んだ。


「!?」
「新一、俺の事心配してくれたの?」
「そりゃ心配す…」
「俺だから、心配してくれた…?」


 絡み合う視線。
 一瞬お互いの息が止まる。

 片方はあり得ない期待に縋り。
 片方は罪悪感と何故か消えない想いに戸惑いながら。


「………言わなきゃわかんねえのかよ、お前は」
「えっ……それって……」
「うるせえ! バ快斗!」
「!? 何で、その呼び方……」


 嘗て散々彼に言われた。
 それに瞬間的に反応してしまう。


「ばーろー。んなもん、誰だって思いつくだろーが」
「………そうですよね;」


 ああ、全く。
 期待してしまったじゃないか。

 少しだけ落ち込んで。
 けれど、快斗は次の瞬間には笑っていた。


「いいんだけど。新一に呼んでもらえるなら何でもv」
「なっ……!///」
「あー! 新一ってば真っ赤v」
「煩い! 別に赤くなってなんか……」
「なってるじゃん♪」
「なってない!」
「なってるもんv」


 彼が居てくれて。
 こうして自分と言葉を交わしてくれて。

 それだけで幸せだった。
 彼の傍に居られるだけで幸せだった。

 だから、忘れていた。
 彼女が居た事を。





「随分と楽しそうね」





 突然響いた声に、新一と快斗は同時に同じ方向を向いた。
 其処に立っていたのは――――紛れも無く、彼女だった。























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