ああ、神様

 もしも貴方が本当に居るとするのなら


 貴方はどこまで無慈悲なのですか?










接吻Y











「キッド…」


 彼の戸惑う様な声を聞いてから、やっと我に返った。

 何も知らない彼。
 何も分からない彼。

 それは当然で。
 それは彼が望んだ事で。


 だからこそ、何も知らないで何も知らない顔をして自分を見詰めてくる彼を見詰め続けるのは辛過ぎた。


 キミガノゾンダクセニ
 キミガオレヲワスレテシマッタクセニ

 ドウシテイマサラタスケニナンカクルンダ?


 何も知らない彼。
 綺麗なままの彼。

 当然の様に、怪盗である自分にすら手を差し伸べる。


 止めてくれ。
 消えてくれ。

 そんな目で俺を見るな。


 綺麗な綺麗な名探偵。
 それが作り物の様に見えて寒気がした。


「私に…構わないで下さい」


 何とか搾り出したキッドの声は震えていた。
 それを聞いた新一の表情が余計に辛そうに、そして哀れむようなモノに変わり、余計にキッドの神経を苛立たせていく。


「構うなってお前に言われても、俺は怪我人を放ってなんておけない」
「………随分綺麗事を言うんですね」


 同情を押し付ける様な視線も。
 綺麗な綺麗なままの蒼い瞳も。

 嘗てはこんな風に向けられはしなかった。
 そうもっと――――。










「私を忘れた癖に、随分と都合の良い方ですね」










 ―――――自分だけに向けられていたモノがあった筈なのに。




















 限界だった。
 何もかも。

 溢れ出してしまった。
 何もかも。




















「忘れたって…一体……」


 そう、彼が困惑するのは当たり前だ。
 何も知らないのだから。

 そう、彼の事を考えて自分もそれでいいと納得していた筈だった。
 でも、今夜は余りにも全てが重なり過ぎていた。


 昼間彼女を見かけたのも。
 仕事に身が入らなくて撃たれたのも。

 そして、ここに彼が偶然ではなく明らかな意図を持ってやって来た事も。


 全部全部、全て吐き出してしまえと言われているような気さえした。










 だから――――。




















「新一、もう俺のことなんて完全に忘れちゃった?」




















 ――――――最後の希望を持って、『キッド』は『快斗』へと姿を変えてしまっていた。






























「お前…」
「もう忘れた? 俺のことなんて」


 腕が痛くて。
 身体が寒くて。

 着替えた身体を支えていることなんて出来なくて、直ぐに座りこんでしまった。
 そのまま、未だ立ったままの彼を見上げる。

 本当はもう一度着替えたくなんてなかったのに、どうしてかキッドは快斗へとその姿を変えてしまった。
 しかも、彼に思い出してもらえるんじゃないかなんて微かな希望を持っていつも着ていた学ランへと。


「忘れたって…俺は……」
「ああ、そうだよね。新一は俺の顔なんて知らないよね?」
「………」


 初めて会った人間にする顔だった。
 少なくとも知り合いに、恋人に向ける視線ではなかった。


「いや、俺はお前の事知ってるよ……」


 けれど、再度紡がれたのは意外な言葉。
 少しだけ、ほんの少しだけ希望を持ちかけた刹那、


「蘭が見かけたっていう俺に似た高校生だろ? あの時の…」


 その希望も打ち砕かれた。


「ああ、そういう事か。そういやあの時会ってたんだっけ」
「お前がキッド…なのか?」


 躊躇いがちに紡がれる言葉。

 ああ、何てらしくない台詞。
 そんな君は君らしくないよ?


「探偵なんだろ? そんなの本人に聞かないで推理してみろよ」
「………」
「俺に聞いたって否定するだけだろ? 自分が『怪盗』だなんていう怪盗は普通居ないよ」
「………」
「黙ってないで何とか言えよ、新一」


 意図的に快斗は彼の名を紡ぐ。
 嫌味を籠める様に。


「何で…」
「どうして俺がお前を名前で呼ぶかって? そんなの……恋人同士だったんだから当たり前だろ?」
「―――!?」


 声にならない叫び。

 本当にそんな表現がピッタリだった。
 声も出ないと言った方が正しかったのかもしれないが。

 驚きで、元から大きな蒼い目は更に大きく見開かれ。
 何かを言いかけて、けれど結局は閉じられた薄く赤い唇は少しだけ震えていた。


「ああ、忘れてんだっけ? それなら思い出させて悪かったね」


 わざとらしく、快斗はそう付け足す。
 新一に追い討ちをかけるために。


「そんなの…嘘だ」
「そう思うならそう思ってれば? まあ、コレを見てもそう言えるかどうか知らないけど…」


 そう言って、取り出したのは一枚の写真。
 一枚だけ……そう思って大切に取っておいた写真。

 それを呆然としている新一へ手を伸ばし差し出してやる。

 けれど、受取ろうとしない新一に快斗は苛立ちを覚え、写真を持ったまま彼の手を掴んだ。
 彼の手を取り身体を引っ張って隣へと座らせ、その膝の上に皺になった写真を載せる。
 嫌でも視界に入るように、ご丁寧にペンライトまで出して、その写真を見易くしてやる。


「………」


 少しだけ躊躇った後、新一はそっとその写真へ手を伸ばした。


「どう? それで信じた?」
「………」


 そこに映し出されていたのは仲良さそうに寄り添って映っている二人。

 快斗は満面の笑みで。
 新一は少し照れた様に笑いながら。

 でも、左手に嵌められた指輪は明らかに同じモノ…。


「何で…」
「そうだね。何で名探偵が俺みたいなこそ泥なんかと付き合ったんだろうね?」


 自嘲気味に快斗は笑う。
 本当に自分でもそう思っていたから。

 彼は本当は自分なんかと付き合うべき人間ではないと知っていたから。


「だから―――新一は俺の事忘れる様に仕向けたんだろ?」
「一体何言って……」


 困惑しきった視線が快斗へと向けられる。
 そんなの言われなくても分かっていた。

 けれど、自分を忘れた彼を思いっきりなじってやりたくて。
 彼に忘れられてしまった自分を思いっきり卑下したくて。

 快斗は新一の言葉を無視して話続けた。


「ああ、そうだよね。新一はそれも忘れちゃってるんだよね?
 どうせ哀ちゃんに頼んだんだろ? 俺を忘れるように、薬でも作ってもらってさ。
 そうだよね。こんなこそ泥なんか名探偵の横に居ていい筈ないよね…?」


 言いながら、新一を責めてやるつもりだった。
 もっともっと自分を笑ってやるつもりだった。
 本当にそのつもりだったのに……。










「………ポーカーフェイスが売りの怪盗が泣いてんじゃねえよ……」










 気付いた時にはそんな言葉が聞こえて、そして目元を探偵の細く白い指が拭ってくれていた。

 そして気付く。
 自分が泣いていたのだという事に。 



「っ……触るなって言ってるだろ!」



 気付いた瞬間、快斗は思いっきりその手を跳ね除けていた。

 白くて。
 冷たくて。

 でもどこか温かく思えるその手に触れられるのは今は余りにも辛過ぎた。


「だったら泣くなよ」
「っ――!」


 真っ直ぐに見詰められて紡がれる言葉。
 それ以上の、そしてそれ以下の意味の籠められていない言葉。

 酷く彼らしい真っ直ぐな物言い。

 ああ、こんな彼が好きだった。
 今更ながらにそんな風に実感した。


「そんな顔して泣いてんじゃねえよ…」


 けれど、そんな新一の顔色がその言葉と共に一変する。
 澄み切った蒼に曇りが見え、真っ直ぐ向けらていた視線は快斗から逸らされる。

 見ているのが辛い。
 そういう代わりの様だった。

 そんな彼を見て、何故か快斗は少しだけ冷静になる事が出来た。


「そうだよね…。新一には何も関係ない事だ」
「そんな事…」
「そんな事ない、そう言うつもり? 何も覚えてない癖に」


 その言葉はどれだけ暗く冷たく響いたのだろう。

 真っ暗ともいえる階段で。
 非常口の僅かな明かりだけが灯るその場所で。

 暗く。
 冷たく。

 陰湿に。
 冷淡に。

 どれだけ彼の心に響いたのだろう。


「それでも…俺のせいなんだろ?」


 冷たくて、冷たくて。
 凍ってしまいそうなぐらいの心の内をまるで当て付けの様に吐露した筈なのに、快斗に返って来たのは苦笑の中に籠められた穏やかな温かさ。

 浮かべているのは唯の苦笑なのに。
 異常な程に柔らかいその口元にこれが現実なのか疑わしくすら思えた。


「俺がお前のポーカーフェイスも、過去も、今のお前すら壊してしまうって言うならさ……俺はちゃんとした形で責任を取るよ」


 そう言って、新一は快斗をもう一度きちんと見詰め直す。

 唯真っ直ぐに。
 唯素直に。


「責任って…一体どうするつもりだよ?」


 けれど、その素直さが、真っ直ぐさが。
 余りにも今の快斗にとっては眩し過ぎて。

 その蒼を真っ直ぐに見詰め返すことも出来ず、快斗は視線を逸らした。
 そんな快斗の様子に新一は少しだけ自嘲的な、でもそれでいて影のない笑みを浮かべて見せる。


「俺がお前の恋人だったなら、俺がお前を忘れてしまったのには理由がある筈だろ?」
「そんなの…新一が俺の事……」
「お前は俺がお前の事を忘れたがって全てを消してしまったって思ってるんだろうけど…」
「違うのかよ…」



「ああ、違う。絶対にな」



 いやにハッキリと。
 確信を持ってそう告げた新一を快斗はキッと睨み付けた。



「いい加減な事言うなよ! お前は何も覚えてないんだろ!!」



 今日発したどの言葉よりもきっときっと、声を張り上げた筈だ。
 けれど、それに新一は動じる事無く、快斗をただじっと見詰めたまま。

 それが今の状態の快斗を余計に苛立たせていく。


「何もかも分かった様に語るんだな。
 探偵だから? だから何もかも分かるって?
 思い上がるのも大概にしろよ! 何も覚えてない癖に、分かった様な事言うんじゃねえよ!」


 快斗がこんな風に新一に激しい感情をぶつけたことなどなかった。

 好きだから。
 大切だから。

 優しく抱き締めて。
 温かく包み込んで。

 彼を傷つける全ての物から遠ざけてしまいたかった。


 なのに――今は自分が彼を傷つけたくて堪らない。
 自分を捨てた事を責めたくて仕方ない。

 今の彼は何も覚えていないのだから、全て彼には本当の意味で届かないと知りながらも。


 そうしなければ。
 彼を傷つけて、その綺麗な蒼を曇らせなければ。

 快斗はもう自分自身を保てなくなっていた。


「新一はさ、要は俺の事邪魔だったんだろ?
 探偵である新一は、一時的に俺の事を受け入れられても結局最後は邪魔になったんだ。
 だから消したんだろ? 一緒に過ごした時間も、思い出も。
 何もかもなかった事にして、最初からやり直したかったんだろ?
 綺麗な綺麗な名探偵に戻りたかったんだろ? 犯罪者を隠匿する様な共犯者じゃなく、お綺麗な名探偵にさ」


 快斗の言葉に、新一は案の定綺麗な瞳を曇らせて俯いてしまう。
 それが今の快斗には酷く心地良かった。


 そうだ。
 最初から出会わなければ良かった。

 あの時計台でのニアミスも。
 小さな小さな名探偵との最初の邂逅も。

 全部全部無ければ良かった。
 そうすれば、何も知らずに生きていけたのに。


 ただ、父親の意思を次いでパンドラを探して。
 その目標の為だけに夜を駆けて。

 人間らしい感情等全てしまい込んで。
 唯の夜の住人で居られる筈だったのに。


 あの時。
 あの夜。


 二人の関係を変えてしまった夜。


 それが全ての元凶だった。


 彼に出逢わなければ。
 彼を好きにならなければ。

 きっとこんな思いをする事は無かった。


 そう、あの日から毎日そんな事を思っていた。
 そんな事今更言ったって何も変わらないと分かっていたけれど、ずっとずっと心の中に燻ったままだった思い。





「出逢わなきゃ良かったんだよ……俺達は……」





 最初から出逢わなければ良かった。
 最初から知らなければ良かった。

 二人で居る時の幸せを知らなければ、一人で居る事を寂しいなんて思わなかった筈なのに。
 二人で生きていくなんて幻想を見さえしなければ、一人で生きていく事を辛いなんて思わなかったのに。


 そう、だから…。




















「新一になんて逢わなければ俺はこんな思いしなくて済んだのに…」




















 零れ落ちた言葉がどれだけの刃となって彼を切り裂くのかも知らずに、快斗はそんな言葉を吐き出してしまった。























top