一瞬本気で息が止まるかと思った


 余りの衝撃と

 余りの無慈悲さに


 ああ、神様

 これは俺が犯した罪に対する罰ですか?










接吻X











「見つけたぜ。怪盗キッド」


 先程思わず小さく小さく紡いでしまった言葉は彼には届いていなかったようで、相変わらずの口調でそう言ってくる彼。
 そんな新一を見詰め、キッドはもう何も言う事すら出来なくなっていた。

 何故彼が?
 何故こんな時に?
 何故こんな所に?

 浮かぶのは疑問符ばかり。
 そう、彼は自分など忘れている筈だ。

 それを俺はあの日悟ったのだから―――。








































 あの日。
 あの後。

 朝の光の眩しさで目を覚ましたのは近くの公園。
 彼の家からそう遠くはない近所の小さな公園のベンチ。

 何故か其処に横になっていて、ご丁寧にタオルケットまでかけてあった。


『んっ……って、ここ……』


 目を覚まして直ぐに分かった。
 自分が何処に居るか。
 そして、自分に何があったのか…。


『俺、新一とキスして……それから……』


 そう、眠りに落ちた。
 正確には新一が眠ったのを確認して俺も眠気に身を任せた。

 薬の効き目はやっぱり俺の方が悪いらしい。

 しかももっと悪いのは―――。


『一体、何飲ませたんだ…?』


 頭がくらくらする。
 何か盛られたのは確かだ。

 甘いキスに紛れて死の味がした。
 大袈裟かもしれないが、そんな気がした。

 新一が纏っていた雰囲気も。
 ありえない妖艶な誘い方も。

 そして―――ありえないあの言葉も。

 全部全部、死神のプレゼントな気がした。
 連れて行く前に夢の様な幻想を見せてくれた様な気が。
 冗談抜きで冥土の土産だったのか…。


『っ……新一!』


 それでも、それでも、一番気に掛かるのは大切な彼の事。
 ふらふらする身体に何とか鞭打って、向かったのは―――当然、工藤邸。


 けれど、快斗はそこで予想もしていなかった結末を知る事になる。


 ふらつく身体を何とか支えて。
 辿り着いたその視線の先で―――――彼は笑っていた。


 恐らくインターホンで彼女が彼を呼んだのだろう。
 何もなかったかの様に彼は快斗の視線の先で、門越しに彼女に笑いかけていた。


 快斗は思わず電柱の影に身を隠し息を潜め、彼と彼女を見詰めていた。

 彼はいつもと変わる事無く。
 何事も無かったかの様に笑っていた。

 そう、まるで俺など最初からあそこに存在などしなかった様に。


 幸せそうに――――笑っていた。




















 そこからはもう、どこをどう帰ったのか覚えていない。
 余りにも分からない事態に頭が回らなくて。
 気付いた時には、新一と一緒に住む前に隠れ家にしていたとあるマンションへとやって来ていた。

 そしてそこで、やってはいけないと思いながらも快斗は最終手段を使う事にした。

 自分が彼の家に居た時。
 自分が居ない時の彼の事が心配で、彼女にも彼にも言わずに俺は至る所に盗聴器を仕掛けておいた。

 当然と言えば当然のように、大多数の物は見付かってしまった。
 ただ、残念ながら、と言った方が良いのか、それとも有り難いと思った方が良いのか。
 二人はその数個には気付いていなかった。

 それでも、いざと言う時だけ使おうと思っていたそれをこんな所で使うとは思っていなかった。

 信じたくない。

 その思いを抱えながらもスイッチを入れる。
 聞こえてきたのはいつもの様な彼女と彼の楽しそうな声。
 その事に言い用の無い絶望を感じ、そのスイッチを切ろうとした時―――。


『ねえ、工藤君』
『ん?』
『コレ見てくれないかしら?』


 不意に彼女が言った言葉。
 映像が無いからコレと言われてもさっぱり分からなかったけれど、直ぐにその答えを知る事が出来た。


『怪盗、キッド?』
『ええ』


 ドキッと心臓が跳ねた。
 自分のもう一つの呼び名。
 彼はそれにどう反応するのだろう?


『一体この記事がどうしたんだ?』
『今度の獲物はまた鈴木財閥所有のモノらしいじゃない。貴方も警備に参加するのかと思って』


 彼の言葉から彼らが見ているのはきっと今日の新聞か何かだろう。
 けれど、一体彼女は何を目的にそんな言葉を呟いたのだろう?
 訳が分からないままに二人の話は進んでいく。


『いや、俺はいかねーよ』
『あら、どうして?』
『俺のフィールドはあくまでも殺人事件だし…それに―――』


 聞きたくない。
 聞くな。

 そう頭の中で警告が鳴る。
 けれど、その言葉は確実に快斗へと届いた。








『俺、怪盗なんかに興味ねえし』








 そう、それは残酷なまでの現実。
 昨日まで抱き締め合っていた人から出たとは到底信じられない言葉。


『そう、それなら別にいいのだけれど』
『何で急にそんな事言うんだ?』
『別にいいの。気にしないで頂戴。それより、熱い珈琲が飲みたいわね』
『わあったよ…。淹れてくればいいんだろ』


 快斗の想い等届く筈もなく、二人の会話は進んでいく。
 そして快斗は聞いてしまう。

 駄目押しとも言える彼女の一言を。




『良かった…。何もかも忘れてくれているみたいね。彼の事に関しては……』




 小さく呟いた哀の独り言。
 それでも感度の良すぎる盗聴器には確実に届く。


『ごめんなさいね。でも仕方ないの。あんな事を貴方が望んだんだから……』


 その一言で全てに納得がいった。

 彼のあの言動も。
 あの最期のキスも。

 全て全て彼が望んだもの。










 自分は――――彼に思い出すらも残したくない程、完璧に捨てられたのだと……。








































「何のご用ですか…?名探偵」

 何も表情に出さないように。
 鉄壁のポーカーフェイスを保っていても心は悲鳴を上げ続ける。

 何もかも知っていて。
 何もかも覚えていて。

 何も知る筈のない彼の前に居るのは正直に言って辛過ぎた。

 何も知らない顔で。
 何も知らない瞳で。

 私を見ないで。


 好きだと言ったその唇で、まるで他人の様な言葉を紡がないで?


「んなの決まってんだろ? 唯お前を捕まえに…」
「貴方が私の様な泥棒風情に興味をお持ちとは思いませんでしたよ」


 思わずキッドの口から漏れる皮肉。
 怪盗紳士なんてご大層な呼ばれ方をしているのに、余りにも幼稚な態度。

 それもこれも全部この頭が、この心が、彼を覚えているからいけないのだ。


「随分とご機嫌斜めなんだな。今日は怪盗紳士は休業中か?」
「探偵に追いかけられて喜ぶ怪盗なんて居る筈がないと思いますが?」


 視界がぼやける。
 気分が悪い。
 意識が遠のきそうになる。

 それでもどうにか彼の言葉に皮肉を返す。

 本当ならもう二度と逢いたくないと願った人。

 幸せだった事も。
 あの思い出も。
 最後のキスも。

 何もかも彼は覚えていない。
 全て…そう、全て捨てたのだから、彼は。
 俺自身さえも。


「そりゃそうだろうけど……って、お前その腕…」
「あっ……」


 彼とのやり取りに必死で。
 意識を失わないようにするのが精一杯で。

 指摘されるまで腕の赤を消すのすら忘れていた。


「狙撃されたってのはホントだったみてーだな…。お前その腕…相当出血してるじゃねえか…」


 ちっ…という彼の舌打ちが聞こえた。

 ああ、まったく。
 相変わらずだ。

 お坊ちゃま育ちだと言うのにそういう所がある彼は嫌いじゃなかった。
 散々それをからかって遊んだ事もあったっけ…。

 何故だかそんな事を思い出すとふと笑いたい衝動に駆られる。
 けれど、新一の言葉を無視してキッドは話を続けた。


「貴方には関係ないでしょう?」


 そう、『今』の彼には何も関係などない。

 あの時の想いも。
 あの時の関係も。

 彼の中にはもう存在しない。
 もう、彼が自分に構う理由などないのだから。


「関係ないって…」
「私は『怪盗』。貴方は『探偵』。私が怪我をしようと、貴方には何の関係もない筈ですが?」
「っ……」


 そう言い放てば、新一が唇を噛み締めた。
 そして、とられたのは意外な行動。


「うるせえ! 目の前に怪我してる奴が居たら普通心配するだろうが!」


 むっとして、思いっきりキッドにそう言い放って。
 新一はあと二、三段あった階段を上りキッドが座っている横へと座った。
 そして、キッドの腕の赤くなっている部分をおもいきり破りだした。


「め、名探偵! 何して…」
「何って傷見てんだよ」
「えっ…」
「くそっ…暗くてよくわかんねーな…」


 血が付くのすら厭わずに、新一はポケットからハンカチを取り出すとキッドの腕へと巻きつけた。


「とりあえず、これで下までは持つか…」
「名探偵。別にそんな事してもらう必要など……」
「ごちゃごちゃ言わずにその服を何とかしろ」
「えっ…? 服……?」


 訳が分からない。
 キッドが混乱していると、再度新一は口を開いた。


「だから、その服を何とかしろって言ってるんだ」
「な、何とかと言われましても…」
「あのな、その服さえ何とかしてくれれば俺がお前をここの救急にでも何でも連れて行ってやれるだろうが」
「え、ええ…!?」


 全くもって意味が分からない。
 何がどうしてそんな展開になったというのだろうか。

 やっぱりこの人の思考回路は分からない。

 そんな風にキッドが思いながら溜息を吐くと、新一はむっとした表情を作った。


「何だよ。何が気に入らないんだ」
「いえ、気に入る気に入らないの問題ではなく…」
「じゃあ、さっさといつもみたいにぽんっと着替えろ」
「め、名探偵…;」


 そんなに軽く言われても…。

 そう言いたいのを我慢して、とりあえず言われたままにぽんっと着替えてみた。

 着替えたのはいつもの私服。
 それでも当然モノクルはつけたまま。

 今の状態で素顔を晒すなんて耐えられたなかった。
 彼は何も覚えていないのに…。


「何だ。やればできんじゃねえか」
「名探偵…。そう簡単に言いますがこれもそんなに楽じゃないんですよ?」


 何たって今は片手が満足に使えない状態なのだ。
 辛い事この上ない。

 それなのに、そう簡単に言われても……。


「よし。これでお前の事連れて行けるな」


 キッドの言葉なんてお構い無しにそう言って彼は笑う。

 俺が大好きだった顔で。
 昔のまま。



 オレヲワスレタクセニ

 オレヲワスレテモシアワセニシテイルクセニ



 その笑顔を見た瞬間、身体中に毒素が広がっていく様に自分の中に何か黒いものが広がっていった。

 気持ちの悪い程脈が早くなる。
 頭に血が上る。

 衝動的に―――何かがこみ上げてくる。


「ほら、行くぞ」


 新一はそう言って立ち上がると、キッドを立たせようとはその手を取った。
 けれど、キッドはそれを思いっきり振り払った。


「触るな…」


 そんな、キッドの今までとは違う雰囲気に一瞬新一も躊躇いがちにキッドを見詰める。
 それでも再度キッドを立たせようと手を伸ばす。


「触るなって…早く治療しねえと…」


 そう言って、新一が再度キッドに触れようとしたその時……。








「触るなって言ってるだろ!」








 キッドの怒鳴り声が暗い階段中に響き渡った。

 その声は怒鳴っている筈なのに、何故だか新一には彼の悲鳴の様に聞こえた―――。























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