きっとお前には伝えられないと思っていた
 きっとお前には伝えてはいけないと思っていた

 俺達の関係は
 あくまでも『宿敵』で

 どこまでいっても平行線
 それは交わらないと思っていた


 けれど、それを崩したのは
 意外にもお前の方だった












我が心に君深く【38】











「何、だよ…それ……」


 言われた言葉に珍しく理解がついていかないのか、驚愕のまま見開かれた瞳に新一はひっそりと笑う。
 いつだって余裕綽々で、いつだってポーカーフェイスの怪盗がこういう顔をするのを見るのも悪くない。


「そのままだよ。俺は快斗よりも先にキッドを好きになった。……いや、違うな」
「……え?」
「キッドを好きだったからこそ、快斗の事を好きになったのかもしれない」
「………」


 いつもは雄弁に語る口が今は引き結ばれている。
 新一の意図を図りかねている様に戸惑いを含んで揺れる快斗の瞳を新一はただ優しく見詰めた。


「切欠は単純だった。俺はお前と何度もやり合ったし、俺はお前に何度も救われた」
「…俺はそんな事…」
「救われたよ。俺は……多分お前が居なかったら、今此処に居ないかもしれない」


 何度膝をつきそうになったか分からない。
 何度諦めを口にしそうになったか分からない。

 小さな手では掴めないモノも多くて。
 小さな手では護れないモノも多くて。

 あの時の俺の手からは多くのモノが零れ落ちて行った。

 その度に目の前が真っ暗になった。
 けれど―――そんな真っ暗な中に一筋だけ射した光があった。

 いつも凛として孤高に立ち続ける白い怪盗。
 その姿に何度救われたか分からない。


「……大袈裟だよ」


 ふいっと視線を逸らしてそういう快斗の横顔は暗い。

 ああそうだ。
 彼はキッドを誇りに思っていて、そして同時に罪人だと知っている。


「大袈裟なんかじゃない。俺は…」
「だって俺は…犯罪者だ」


 背けた視線は下を向き床を見詰める。
 固いその声に、新一は目を細めた。


「お前はそうやっていつも自分の事を卑下するんだな」
「…事実だから」
「ああ、そうだな。確かにお前のやってる事は褒められたもんじゃない」


 幾ら父の仇を取る為とは言え。
 幾ら人を傷付けないとは言え。

 怪盗が犯罪を犯しているのは紛れもない事実だ。

 そこにどんな事情があろうと罪は罪、それは紛れもない現実だ。


「…だから、名探偵がキッドを好きになる筈なんてない」


 まるで子供が拗ねた様な言い方に、思わず込み上げてしまいそうな笑いを必死に抑えて、新一はふわふわと柔らかいその髪をそっと撫でた。


「俺がお前を好きだって言ってるのに、お前はそれを否定するのか?」
「だって俺は…」
「確かにお前は犯罪者かもしれない。でも、それでも俺は―――お前が好きだよ」


 前に快斗に告げた事は嘘ではない。
 ……例え、もし仮に快斗が……人を殺したとしても、きっと新一の気持ちは変わらないだろう。

 その手がどれだけ闇に染まろうが、血に染まろうが、新一が快斗を好きな事にきっと一生変わりはない。


「…でも俺は…俺の手は汚れてる……」
「快斗。……それを言うなら、お前より……俺のこの手の方が汚れてるよ」
「新一…」


 弾かれた様に顔を上げた快斗が見たのは……余りにも儚い笑み。
 快斗が言葉を失えば、その笑みは少しだけ深くなった。


「…俺がこの身体を取り戻す為に何をしたか……お前だってそのぐらい分かるだろ?」
「………」


 新一が『工藤新一』を取り戻す為には、一つの組織を潰す必要があった。
 幾ら裏の組織だとは言え、ソレを構成しているのは細分化すれば最小単位で行き着く先は一人一人の人間。
 どれだけ犠牲を出したくないとは思っても、全くのゼロには出来る筈もなかった。


「…お前は自分の手が汚れていると言うけれど、……俺の手はそれ以上に汚れてるよ」
「…そんな事ない」
「快斗」
「そんな事ない!!」


 怒っているのか、泣いているのか。
 分からない様なそれでいて酷く必死にそう叫んだ快斗の表情に新一は思わず苦笑してしまう。

 自分には厳しい癖に、人には酷く甘い。
 その甘さが、その優しさが、怪盗としては酷く致命的だと知っている癖に、目の前の優し過ぎる怪盗はそれを捨てられずに居る。

 そんな彼を―――誰が汚れていると蔑むというのか。


「お前はホント……」


 言葉を告げる代わりに、新一はその必死な顔に手を伸ばした。
 頬に触れ、親指でするりとその皮膚を撫でた。


「新一…?」
「…なあ、快斗。お前は俺に触れられるの嫌じゃねえの?」
「…嫌な訳ない」
「この手はこんなに汚れてるのに?」


 踏み躙った。
 未来ある命を。

 理由はどうあれ、それは変わる事のない事実だ。

 快斗は自分の手が汚れていると言う。
 自分が犯した罪で真っ黒に汚れていると。

 それならば、新一の手もまた汚れている。
 自分が犯した罪で真っ赤に染まっている。


「…汚れてなんかない」


 言いながら快斗は新一の手に自分の手を重ねると、新一の掌をすりっと頬で撫でた。
 その感触に新一は目を細め、少しだけ身体の力を抜いた。


「俺が汚れてないなら、お前はもっと汚れてない」
「………」
「俺はお前がいつでも真っ直ぐに立つ後ろ姿に救われてたんだ」


 夜の闇の中。
 深い深い闇の中。

 きっと辛い事だって沢山あって。
 きっと苦しい事だって沢山あって。

 それでも全てをポーカーフェイスの下にしまいこんで、一人孤高に立ち続ける月下の魔術師。

 その凛とした姿に、何度救われたか分からない。
 飲み込まれそうな闇の中、何度その姿に心の中で縋ったか分からない。

 いつだって、どこに居たって。
 『宿敵』である筈の彼が探偵の一番の“救い”だった。


「俺が挫けてしまいそうな時、いつだってお前が助けてくれた」
「…俺は何もしてない」
「いや、違う。お前が…『キッド』が居てくれる事が俺の“救い”だったんだよ」


 最初は戸惑った。
 『探偵』が『怪盗』を見つけて安心するなんて。
 その姿を見て感じるのが“安堵”であるなんて。

 追うべき者だった筈なのに、いつしかその存在が救いになっていた。

 同じ闇だなんて言わない。
 けれど、それでも…彼もまた闇の中に身を置きながら、それでもなおそれに飲み込まれる事なく凛として輝き続ける白。

 彼の守護星同様にその白はまた優しく新一の心を照らしてくれた。
 どれだけ闇に飲み込まれそうになっても、その光だけが唯一、新一を新一で居させてくれた。


「…お前が居てくれたお陰で、俺は今此処に居られる。
 お前が居なかったら俺は諦めていたかもしれない。絶望していたかもしれない。
 でも、お前が居てくれたから………俺はあの暗闇の中で生きて来られたんだよ」
「…名探偵」


 しぱしぱと数度瞬きをした後、怪盗の顔が泣き出しそうに歪んだ。
 けれどそれは、辛さを内包したモノではなかったから、新一は悠然と微笑んだ。


「キッド。俺は……お前に救われて、そうして―――お前の事が好きになったんだ」
「……好きなんですか…?」
「そう。俺はキッドが大好きだよ」


 宿敵な筈だった。
 追うべき者の筈だった。

 けれど、救いはいつしか羨望へ、そして敬愛へ。
 敬愛から愛情へ。

 ゆるゆると形を変えながら、それでも明確な感情を新一に与えていった。


「……名探偵が、私の事を……好きだと…?」
「ああ。俺が最初に好きになったのは紛れもなく『キッド』だよ」


 犯罪者だと知っていた。
 赦せないと分かっていた。

 それでも、『探偵』であった自分は確かに『怪盗』に恋をした。


 ―――『探偵』は叶う筈のない夢を見た。















 ―――『怪盗』に恋をするという、悲劇しかあり得ない夢を見た。





















「………私は犯罪者ですよ」
「そうだな」
「それなのに『名探偵』は私の事を好きだと?」
「ああ」


 たどたどしく確認される一つ一つに、しっかりと答えを与えれば怪盗の眉が少し寄せられた。


「…矛盾してますよ」
「そうかもな」
「……おかしいです」
「おかしいかもな」


 難しい顔をしたままの怪盗にそう言って、新一はクスリと笑う。
 確かにおかしいのかもしれない。

 『探偵』が『怪盗』に恋をするなんて。


「………新一」
「ん?」
「じゃあ、俺の事は?」
「…ああ」


 一応納得はしたのか。
 それとも、まだ納得は出来ないがそちらを聞いてから考える事にしたのか。

 そのどちらであるかは分からなかったけれど、快斗が尋ねたい事は違う事なく理解が出来た。
 だから、そちらも丁寧に説明してやる。


「大学でお前と逢った時は、正直ビックリしたよ。
 ビックリして……それから近寄らない様にしようと思った」
「…何で?」
「当たり前だろ。俺はお前を好きだったけど、お前は俺をどう思ってるか分からなかったから」


 あくまでも互いの関係は『好敵手』だった。

 だから怪盗が探偵に対して抱いている感情はあくまでも『敵』と分類されるものだろうと思っていた。
 そこに憎悪が含まれないのは幾度かのやり取りで知ってはいたけれど、素の顔までも浸食されるのは好まないであろうと思っていた。

 だからこそ、近付かない様にしていたというのに……。


「でも、お前は…」
「そうだね。俺は自分から新一に近付いた」


 『似てる奴が居る』と入学当初から言われていたから新一も興味が沸いた。
 けれど、直ぐにそれが“彼”なのだと分かった。

 だからあえて近付かない様にさり気なく避けていた新一に快斗はわざわざ近付いてきた。
 学食でナンパにも近い形で(…)声をかけられた時、新一はどれだけ内心驚いたか分からない。
 それでも必死に平静を装って、あくまでも普通に普通に話したのだから、正直新一自身あの時の自分を自分で褒めてやりたい気分だ。


「まあ、最初は大方…近付いて軽く利用でもしてやろう、ぐらいに思ってたんだろうけど」
「えっ……!?」
「何だよ」
「いや、あの…」
「お前、ばれてなかったとでも思ってるのか?」


 そんな事聞かなくなって新一には分かっていた。
 最初は正直それを歯痒いと思った。
 それでも傍に居られるならそれで良いと思っていた。

 けれど、それもゆるゆると毎日を過ごしていくうちに変わっていった。

 当初感じていた見えない壁が少しずつ無くなっていくのが分かった。
 そうして少しずつ怪盗が心を許してくれているのが分かった。

 あとはただ、一緒に居た時間が二人の関係性を変えていった。


「…でも、俺は直ぐに『黒羽快斗』として、新一と本当に友達になりたいと思った」
「知ってるよ」


 怪盗が新一に向ける視線が柔らかくなったのを、新一は肌で感じていた。
 固かった物言いも、徐々に砕け、本来の彼の素が見える様になった。

 その一つ一つが新一の心を魅了していく事なんて何にも知らずに、怪盗はいつしか快斗へと変わっていた。


「…でも、新一は『キッド』の方が良かった訳?」


 さっきまで『怪盗』だとか『犯罪者』だとか言って蔑んでいた対象を言うセリフとは思えずに、思わず新一は噴き出してしまった。
 それに快斗はむうっと口を尖らす。


「何だよ」
「お前、さっきまでと言ってた事矛盾してねえか?」
「…新一のせいだよ」


 相変わらずむすっとした顔でそう言ってそっぽを向いた快斗の顔を、新一は酷く懐かしい思いで見詰めていた。

 初めてこういう顔を見たのはいつだろう。
 『怪盗』としての彼は気障で紳士だった。
 そうあろうとしていたのは薄々分かってはいたが、それでも素がこんなに砕けた人間なのは新一としては予想外だった。

 『黒羽快斗』としての彼は新一が知っていた『キッド』とは大よそ真逆の人間だった。

 太陽の様に快活に笑い。
 エンターテイナーとして、周りを楽しませ。
 いつだって人の中心に居る様な、そんな人間だった。
 彼に魅了されない人間が居るとしたら、それこそ見てみたい。

 だからこそ、ぞわりと嫌なモノが背筋に駆け抜けたのを覚えている。

 元がこんな風に…真っ直ぐで強くて明るい彼が、どうしたらあの闇を背負えるのだろう。
 普通の人間以上に真っ直ぐで優しく笑う彼が、どれだけの思いであの闇を独り背負い続けているのだろう。
 そのギャップに、どれだけの苦しみが籠められているのだろう……。

 助けられた。何度も
 救われていた。ずっと。

 だからこそ、この危うげなバランスを保っている彼を少しでも支えたいと思った。
 けれど、新一に出来る事などたかが知れていた。

 出来るのは『黒羽快斗』の友人として、彼に普通で穏やかな日常を提供する事ぐらい。
 出来るのは『怪盗キッド』の好敵手として、彼との純粋な鬼ごっこを楽しむ事ぐらい。

 『探偵』の自分では決して『怪盗』の手助けなど出来ない事は分かっていた。
 彼のしている事を知っていても、彼がどれだけ苦しんでいると知っていても、ただ見守る事しか出来なかった。

 だから、『黒羽快斗』として穏やかな日常を酷く愛おしんでいる彼を、新一は酷く愛しいと感じた。
 時折見せる横顔に滲む暗さに見ない振りを決め込んで、ただその隣に居たいと思った。


「『快斗』は、明るくて優しくて……何より強いよ」
「…強くなんかない」
「強いよ、お前は。俺はきっとそんな風には出来ないから」


 明るくて。
 優しくて。
 居るだけで周りを楽しく、元気にする。

 存在自体がまるで太陽の様だと言ったら、稚拙過ぎる比喩を笑われるだろうか。


「なあ、快斗。俺は確かに『キッド』を最初に好きになった。
 でもきっと……それだけでは、お前をこんなには好きにならなかった」


 そう、『怪盗キッド』だけではきっとこんなに好きにならなかった。
 そう、『黒羽快斗』が居たからこそ、きっとこんなに好きになった。


「俺にとって『怪盗キッド』は救いであり初恋。
 俺にとって『黒羽快斗』は友人であり、誰よりも大切な人間だ」
「…新一……」
「なあ、快斗。俺にとってはどちらが欠けても……駄目なんだよ」


 『怪盗キッド』が居なければきっと出逢う事すらなかった。
 『黒羽快斗』が居なければ、きっとずっと『好敵手』のままだった。

 『怪盗キッド』として出逢いそして、『黒羽快斗』と傍に居たからこそ、新一はこんなにも好きになった。



「……俺は、どっちのお前も…好きで――――心の底から愛してるよ」






























to be continue….



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