もう遅いと君は言う
 君自身が全て壊してしまったと

 けれど、本当に引き返せないのだろうか?

 少しでもその傷を埋められたら
 少しでもその傷を舐め合えたら


 そう願うのは愚かな事なのだろうか…?










我が心に君深く【30】











「悪いな。空気重くした」


 暫くしてからわざとそんな風に軽く言って、新一は快斗の腕の中から抜け出した。
 そうしてにっこりと快斗に微笑む。


「指紋と、網膜と、静脈の登録さっさと済ませないとな」
「新一…」
「それから宮野にも言っとかねえと…」
「新一…!」


 話を切り上げようとする新一に、少しだけ快斗が声を大きくすれば、新一の笑みは深まる。
 そうして深めた笑みのまま、それでも強い口調で快斗に告げる。


「この話は終わりだ。これ以上話してもどうにもならない」
「だからってこのままにしておける話じゃないだろ…!」
「だったらどうするんだ?」
「それは…」


 快斗とて明確な答えが用意出来る訳ではない。
 新一を信じきれないのは他ならぬ快斗自身だ。
 だとしたら、それ以上快斗は言葉を持つことが出来ない。


「お前は俺を好きだと言ってくれた。俺もお前が好きだ。それ以上に必要な事なんてないだろ?」


 言葉を重ねる事の出来ない快斗に追い打ちをかける様に、新一はそう言って微笑む。
 快斗の大好きな笑顔で。
 ただ優しく柔らかく微笑む。


「だからお前は、何も気にしなくていい。お前はお前の好きな様にしてくれていれば良いんだ」


 新一のその言葉の中に含まれる新一自身に向けられる棘が、快斗の心にも突き刺さる。
 自分の罪を罰してくれと、言外に含まれるその意味に、息が詰まる。

 けれどそれは―――新一が一番望んでいる事。


「ほら、快斗。さっさと登録するぞ?」


 そう言って、いつの間にかソファーから立ち上がっていた新一に手を差し出される。
 その手を取ればこの話はこれで終わりだと分かっていた。

 けれど―――この時の快斗には、その手を取る以外の選択肢は見つける事が出来なかった。






























「よし、と…。これで終わりだな」
「………」


 全ての登録をし終えて、そう言って微笑む新一の顔をまともに見ている事が出来ずに思わず視線を逸らした快斗に新一は苦笑した。
 それでもそれを咎める事なく、顔には笑みが浮かんだまま。


「宮野には俺から言っとくとして……。あ、もうこんな時間か…」


 わざとらしく時計へと視線を移した新一の視線を辿って、快斗も視線を時計へと移した。
 もう夜も大分遅い時間なのを確認して、快斗は内心で溜息を吐いた。

 これはもう、どう考えても『帰れ』の合図である。

 嫌われている訳ではないと知っている。
 愛されているのだと分かっている。
 それでも、さっきの話の中身を一人でゆっくりと噛みしめる時間をくれる気なのだろう。
 その気遣いから新一がそれを曲げる気がないのだと余計に感じられた。


「そうだね。もう遅いから、そろそろ…帰るよ……」


 ここでどうこう言う事はもう出来ないだろう。
 今ここで何を言っても、新一から返ってくる言葉は変わらない。
 そしてその言葉に、今の快斗は返す言葉を持ち合わせていない。
 だから潔く快斗はそのわざとらしさにも乗って、力なく新一に微笑んだ。


「ああ。気を付けて帰れよ」


 玄関でのパネル操作を最後にしたのはこの為だったらしい。
 今すぐにでも帰れるその立ち位置に、快斗は苦笑する。
 流石名探偵殿。
 こういう計算もお手の物らしい。


「ちゃんとゆっくり寝るんだよ? あんまり遅くまで本とか読んでたら駄目だからね?」
「ああ。わあったよ」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ。気を付けろよ」
「ありがとう。じゃあ、また明日ね」
「ああ、また明日」


 お互いにわざとらしい位の会話を重ねる。
 そうして、作ったのはお互いにわざとらしい位の柔らかい笑み。

 それを維持したまま、快斗は玄関のドアノブに手をかけると、息の詰まりそうなその空間から抜け出した。






























「………」


 パタンと閉まった扉を見詰め、新一は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 頭が痛い。
 眩暈がしてきた気さえする。
 それが気のせいなのか、本当なのかも分からない程に疲弊した自分の精神を開放する様に、新一はその場にずるずるとしゃがみ込んだ。
 行儀が悪いのを承知で、そのまま後ろへ倒れ込む。
 玄関のフローリングから伝わってくる僅かな冷たさが身体に心地良い。


「はぁ……」


 目を閉じて、もう一度息を吐く。
 だるさに引き摺られる様に、顔を少し横へと傾けた。

 ああ何て、自分は愚かなんだろう。
 ああ何て、自分は馬鹿なんだろう。

 余りの馬鹿さ加減に更に頭の痛みが増してくる気がする。


「馬鹿だな…俺……」


 くしゃりと髪を混ぜる。
 最初は片手だったその行為が、イライラとした様に両手で混ぜる行為に変わる。
 けれど、そんな事ぐらいではこの胸の奥の鉛の様な重石が消える筈がなかった。


 快斗に言った事は本当だ。
 彼を深く傷付けたのは新一自身なのだから、その自分が傷付けられるのは決しておかしい事ではない。
 寧ろそれが正当な快斗の権利だとすら思う。

 だからと言って――それで何かが解決しないのは、新一だって分かっている。
 それに加えて、快斗は快斗自身が思っているよりも…優しい人間だ。
 自分が誰かを傷付け続ける事に耐えられる筈などない。
 それなのに、新一は快斗にそれを押し付けた。

 最初に新一が快斗を傷付けた。
 そのせいで新一を傷付けてしまう自分に、快斗はまた傷付き続けている。

 結局……どっちにしろ快斗を傷付け続けているのは間違いなく自分だ。
 新一もそれを分かっていても、もうどうする事も出来なかった。

 あの日に戻りたいなんて馬鹿な事は言わない。
 言わないが、それでもそれを望まないかと言われれば、そうは言えない自分が居る。
 あの日あの場所で言った自分の言葉がもっと違う物であったならば、もっと違う今があったかもしれない。
 けれど、そんな事を今更言ったって後の祭りだ。
 時間は巻き戻る事などない。


「…ホント自己中過ぎて嫌になる……」


 手を離してもやれない。
 傷付き続けるのが分かっていても、それをどうしてやる事も出来ない。
 それなのに『好き』『愛してる』そんな言葉だけで彼を繋ぎ止め続ける。

 好きだなんて。
 愛しているだなんて。
 きっと言う資格なんて自分は持っていないのに――。


 ―――それでももう、彼の手を離すなんて選択肢は新一の中には存在していない。


 どうしようもない自己嫌悪で吐きそうになりながら、新一はただフローリングの冷たさを求める様に身体を横に倒すと、頬を床へと押し付けた。








































「…はぁ……」


 タクシーを呼ぶ気にもなれず。
 かと言ってそのまま歩いて帰る気にもなれず。

 結局、例の近くの公園のベンチに腰かけて、快斗は溜息を吐いていた。

 肘を太ももへ乗せ、その手で頭を抱える。
 視線は下の砂地を見ている様で、その実どこか違う場所を映しこんでいた。


 あの日あの時、この場所で新一を抱き上げた時は、違う未来を選んでいた。
 逃げ出す気だった。
 全てから逃げ出したいと思っていた。

 けれど、今自分の手の中には決して手に入らないと思っていた未来がある。

 彼が居て。
 自分が居て。
 寄り添い合える関係があって。

 それでも――自分の中の闇がただ優しく彼に寄り添う事を許してはくれない。

 毎日思う。
 今日彼の気が変わってしまうのではないかと。
 今日彼にまた『犯罪者』と言われ、見向きもされなくなるのではないかと。

 心が軋む。
 彼を愛しているのに心がギシギシと音を立てる。


「っ……」


 苦しくなって、慌ててポケットに入れてあった金属を取り出す。
 さっき新一から貰った彼の家の鍵。
 それをぎゅっと握りしめる。

 大丈夫。
 大丈夫だ。
 ここには――彼が自分を信じてくれたという証がある。

 犯罪者である自分にこうして自宅の鍵を渡してくれた。
 それだけで、何かを赦された気がして涙が溢れ出てきそうになる。

 そこまで思って、自分自身に嫌気が差す。

 きっと自分は赦される事を願っている。
 『探偵』である彼に赦して欲しいだなんて、何て自分勝手なのだろう。
 そんな痛みを彼に求めるだなんて。
 あの正義感の強い名探偵に犯人隠匿をさせ、あまつさえ赦しを請うだなんて、なんて自分は愚かな犯罪者なのだろう。


「…全部俺の我が儘なんだ……」


 『犯罪者』である自分が『探偵』である彼の傍に居たいと願うなんて、本当はそんな事赦される筈がない。
 けれど、自分はそれを望んでいる。
 彼が自分を赦してくれて、彼の傍に置いてくれる事を望んでいる。

 なんて自分勝手な願いなのだろう。

 彼は『探偵』だ。
 犯罪者である自分を赦して傍に置くという事が、その『探偵』にとってどれだけ自分の信念を曲げなければ出来ない事か、快斗が考えただけでも酷く辛い事に思える。
 辛いと分かっている事を快斗は新一に望んでいる。


「……はぁ……」


 大きな溜息が口から零れ落ちる。
 そこまでの痛みを彼に望みながら、自分がキッドを辞めるという選択肢は自分の中に存在していない。
 その自分勝手さに吐き気がする。

 どうしたらいいのか分からない。
 彼の手を離す事などもう出来ない。
 それでも、彼を傷付け続けると分かっていて彼の傍に居続ける事なんて出来る筈がない。


「新一…」


 助けを求める様に。
 許しを請う様に。
 彼の名をひっそりと呼ぶ。


 ―――明日どんな顔をして彼に会えばいいのか、考えれば考える程に分からなくなった。






























to be continue….



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