白く
細かく
ふわりと風に舞いそうな程
儚い砂
そんなモノで
消えてしまうと思うと笑えてきた
カンタレラ
見つめる視線の先。
居るのはいつも君。
箱庭のようなこの家の中、自分のこんな想いが彼にばれない筈がなかった。
「お邪魔しまーす。………あれ? 新一くーん?」
偶然を装って、白馬伝手で仲良くなった新一の家に入り浸るようになってもうどの位経つだろう。
勝手知ったる、となった工藤邸を今日も訪れて、いつもならリビングのソファーで本を読んでいる筈の新一の姿が見えず、快斗は首を傾げた。
今日は警察の要請はなかった。←勝手に盗聴済み
今日は新一の大好きな作家の新刊の発売日でもない。
今日は学校から真っ直ぐ家に帰ったと近くで(意図的に)会った蘭ちゃんも言ってたし…。
それに加えて、いつも快斗の為に開けられている工藤邸の鍵は、やっぱり今日も開けられていた。
しっかりしていると見せかけて実は結構抜けている新一が、警察の要請があって鍵をかけ忘れて家を出てしまうことは日常茶飯事(…)だが、今日は要請もないからその可能性も低い。
だとすると、新一はこの家の中に居る筈。
そう判断して快斗は一番可能性の高そうな書斎へと向かってみる。
「しんいちー。お邪魔してまーす」
今更のような事を、本当に今更言いながら、書斎の中をキョロキョロと探してみる。
それでも新一の姿は見えない。
「んー…。ここじゃないかー…」
残りの可能性として考えられるのは、後は新一の部屋ぐらいか。
そう判断して、快斗は書斎を出て廊下を抜け、階段を上った先の新一の部屋のドアをノックした。
「しんいちー? いるー?」
返ってくるのは静寂ばかり。
もう一度ノックして、それでも返事がなかったので、少し躊躇った後、ガチャっとドアを開けみた。
そこには当然新一の姿はない。
その現実に快斗は溜息を吐き、部屋を出てドアを閉めると、茶目っ気たっぷりに呟いてみる。
「書斎でもない。部屋でもない。警察の要請でもない…。まったく、御姫様はどこに行ったんだかね…」
「誰が姫だ」
冗談めかして部屋の入口でそう呟いた快斗の背後から突然そう声が聞こえて、慌てて快斗が振り返れば、そこには探し求めた人の姿。
「し、新一! どこに居たの!?」
「ん? ああ、ちょっとな…。それより…」
「…?」
「背後に立たれるなんてお前、怪盗失格じゃね?」
そう言ってニヤリと笑った新一に、快斗は降参とばかりに両手を上げる。
「…確かにそうですね、名探偵」
言葉とともに、纏う雰囲気もキッドのソレにしてみせた快斗に新一は満足そうな顔をしてみせる。
「俺のとこばっか来てるから、そんな風になるんじゃねえの?」
「おやおや、心外ですね。名探偵相手だからですよ」
「俺相手だと調子が狂う、か?」
「ええ。そんな所です」
キッドの言葉に、ニヤリと口の端を持ち上げた新一には、自分の想いはどこまでばれているのだろう。
心の奥にひた隠しにしている焼け付きそうなこの想いなど、新一にはとっくにばれている、そんな気がする。
それでも彼はずっと一生ソレには気付かない振りをするのだろう。
「俺も舐められたもんだな」
「どういう意味です? 貴方相手だから私は…」
「それは、俺を好敵手と思ってるとでも言いたいのか?」
「ええ」
「そりゃどうも。でも俺には『お前には心を許してしまっているから本気で相手が出来ない』と言われてるようにしか聞こえないがな」
先程の満足そうな顔は何処へやら。
少しだけ不満げに、それでもキッドの声や言い方を真似て――この辺りは流石女優の息子――喧嘩を売るかのようにじっと見詰める新一の瞳を唯々キッドは見返すばかり。
この慧眼には何もかも見透かされているような気になってしまう。
「それに私が頷いたら、貴方はどうなさるのですか?」
新一の瞳を見詰めていたキッドは、ふとそんな事を聞いてみたい衝動に駆られた。
本当ならここは新一の言葉を否定すべきところだったのかもしれない。
それでも聞いてみたいという欲求は今のキッドの中では何よりも比重を持ち、キッドの意思を占領してしまった。
「別に」
けれどキッドの問いに、新一から返ってきたのはそんな素っ気無い言葉。
キッドのそんな思いなど、どうでもいい事だと言うように新一は視線をキッドから外し、くるっと向きを変えそのまま階段を降りようとしてしまう。
「名探偵!」
「さっさと降りてこいよ。快斗」
「…!」
言われた言葉に頭より身体が先に反応した。
必要とされたのは『キッド』ではなく『快斗』。
それはこれ以上『キッド』が必要とされていない、そしてこれ以上キッドに何も告げる気などない事に他ならなかった。
それが分からない程、彼との関係が浅い訳ではない。
これ以上の深追いは決してお互いの為にならない。
「かしこまりました。名探偵」
だからキッドは素直にそれだけ言って、右手を胸にあて、下へ降りていく新一の後姿に恭しく頭を下げる。
彼の姿が階段から見えなくなって漸くキッドは頭を上げると、ゆっくりと瞳を閉じた。
瞼の裏に彼を思い描く。
そして、彼が『快斗』と言ったその声を頭の中でもう一度繰り返してから瞳を開く。
「さて、新一君の所に行きますか」
そうやって、意識をキッドから完全に快斗へと切り替えると、慌てて階段を下りて行った。
リビングに広がっているのはいつもと同じ光景。
変わる事のないその景色に、この家の中はまるで時が止まったようだと思う。
そんな時が止まった空間の中で、いつものようにソファーにゆったりと腰をかけ、お気に入りの小説を読む新一の姿。
それに酷く安堵しながら、快斗はその横にいつものように腰掛ける。
「何読んでるの?」
「ホームズ」
「また?」
「しょうがないだろ。新刊も面白そうなのなかったし」
「今日は真っ直ぐ帰って来たんじゃなかったの?」
「帰りにちょっとだけ本屋に寄って来た」
「ふーん…そうなん――!?」
そうなんだ、と続けようとしたところで、ガシっと新一に襟元を掴まれ引き寄せられて、訳が分からず快斗は瞳をパチパチと瞬かせた。
「な、何…?」
「なんでお前、俺が学校からまっすぐ帰ったの知ってんだよ」
「いや、それは…」
「誰に聞いた?」
「…帰りにそこでたまたま蘭ちゃんに会って……」
「何だ。意図的か」
快斗の答えにつまらなそうにそう呟くと、新一は快斗から手を放し、再び本の世界の住人になってしまう。
それには流石に快斗も苦笑せざるを得ない。
(全く…。興味がなくなるとすぐコレなんだからなぁ…)
新一の興味を誘うのはいつだって事件。
その次に暗号で、その次にお気に入りの推理小説達。
キッドとしての自分なら、彼の大好きな謎や暗号がいっぱい詰まっているだろうから、彼の優先順位の中でも大分良い位置に行けるだろう。
けれど、それも飽きるまで。
彼の興味が続くまで。
飽きたらきっと―――つまらなかった小説達と同じようにきっと何の躊躇いもなくポイっと捨てられてしまうに違いない。
(っていうか、快斗としての俺はきっと……つまらない小説以下かも…)
はあっと溜息が漏れてしまう。
新一と接点が持てたのは、白馬から紹介された快斗を、新一が一瞬にしてキッドだと見抜いたから。
そうでなければきっと一生、こんな風にお家に入り浸る程仲良くなるきっかけなどなかったに違いない。
探偵と怪盗。
敵対する関係であるこの二人が仲良くするなんて論外。
禁断中の禁断だ。
それに加えて自分達にはもう一つ秘密の関係が―――。
「快斗」
思考の淵に沈んでいたところを、新一の自分を呼ぶ声で引き上げられる。
その新一の顔が思わぬ程近くにあって、気付いた瞬間に不覚ながらに固まってしまう。
「大丈夫か?」
そう言って自分の顔を覗き込む新一の吐息までこの距離では感じ取れそうで、身体に痺れが走るような気がする。
頭の中がクラクラする。
まるで悪酔いでもしたみたいだ。
彼という上質な美酒にでも酔ってしまったかのように。
「快斗?」
「あ、うん。大丈夫…」
そう言って、新一に微笑んでみても、それは偽りの微笑みにしかならない。
それは自分が一番良く分かっている。
そして、そんな作り笑顔が彼にばれない筈がない。
「大丈夫そうには見えないんだが?」
「そう?」
「ああ。お前、最近変だよ」
じっと見詰められたまま、そう言われて、全くこの人は本当に困った人だと思う。
原因が自分だと、彼は分かっているんじゃないのだろうか?
自分が俺を苦しめる、悩ませる原因だと、そう知っていてこの人はこう言うのだろうか?
俺にもっと、今以上に、「悩め」と「苦しめ」と、そう言うのだろうか?
彼と自分を絡め取って繋いでいるものが、茨なのか、それとも鎖なのか。
その茨とも鎖とも分からないモノが、絡みついて日々錆ついていく気がする。
最初は解く事の出来たソレが日々錆ついて、解くことも叶わなくなっていく気がする。
この気持ちは錆ついて朽ちていくことなどないというのに。
「新一の…せいだよ」
いつもの言葉だと、きっと君は笑うだろうから。
いつもの言葉だと、きっと君は油断するだろうから。
耳元にそっと呟く。
「新一が悪いんだよ。俺のこと―――変にさせてるのは新一だ」
こんな関係間違っていると知っている。
彼は探偵で、自分は怪盗で。
彼は男で、自分も男で。
まして彼と自分は――――血縁関係だ。
オカシイと思っていた。
顔も声もそっくりだなんて、余りにも性質の悪い冗談だと思った。
だから、ついつい調べてしまった。
知らなければ良かった真実を…。
何一つ、この世界で許されるモノなどないと知ってしまった。
深く深く茂る迷いの森にでも迷い込んでしまったかのように、彼との幸せな未来など描ける訳がないと解ってしまった。
そんな自分がこんな言葉を吐くのは卑怯だと知っている。
でもきっと――彼は何もなかったように流し去ってくれるから。
「新一が俺を変にするんだ。新一という存在が―――俺を悩ませ狂わせるんだ」
それは事実。
それは真実。
心の中に抱え込んだソレは、増殖して深い深い迷いの森を作っていく。
「快斗…」
「ねえ、新一。本当は気付いてるんでしょ?」
「気付いてるって何に…」
「俺の気持ちだよ」
そう言って、右手で新一の滑らかな真っ白な頬に触れる。
一瞬ビクッと反応した新一を安心させるために左手でそっと彼の身体を包みこんだ。
そして耳元へ囁く。
「名探偵。私の気持ちなど貴方はとうにご存じなのでしょう?」
ずるいとは分かっていた。
こんなところで『キッド』を持ち出してくるなんて。
それでも、どうしようもなかった。
そのぐらい、どうしようもなかった。
「私の貴方への想いなど、とうに貴方はご存じなのでしょう?」
「っ……」
耳に唇が触れるか触れないかギリギリのところで新一にそう告げる。
それに新一が反応した事にクスッと笑う。
「どうしました? 名探偵」
ゆっくりと耳元に言葉を落としていく。
囁くように、ゆっくりと…。
「名探偵は私を怪盗だと分かっていながら傍に置いてくれた。それは…」
そう、決して相容れない存在。
そう、決して許される事のない関係。
そんな人間を傍に置いてくれるなんて…。
「私の想いを知っている証拠なのではありませんか?」
探偵の彼が犯罪者の自分を赦せる筈などない。
本当ならこんな風に傍に置いてくれる筈などない。
それが例え、好敵手といえども。
だとすれば、彼は―――。
「お前の想いって……何だよ………」
確信を持って言った言葉に、返ってきたのは自信のなさそうな声。
その余りの白々しさに、キッドも少し白けてしまう。
「随分ですね。何も分かっていない振りをなさるなんて」
「別に俺は…」
「真実を探し求める探偵が、最初から考える事を放棄するなんて」
それはまるで――――望まない結末が最初から分かっているようだ。
「そう、貴方は考える事を、気付く事を放棄している。本当は全て分かっている癖に」
「俺は何も…」
「狡いですね。そうやって貴方はずっと逃げ続けるつもりですか?」
分かっている。
彼は懸命だ。
分かっている。
彼は聡明だ。
だからこそ、この分かり切った想いも、分からない振りを決め込むのだ。
赦されないと――――知っているから。
そんな彼の思いを、そんな彼の気持ちを、自分は無にしようとしている。
すべて踏み躙って、罪に染まる黒い薔薇を咲かせようとしている。
「――――逃げないでどうしろっていうんだよ…」
漸く返ってきた言葉は酷く小さくて。
なんだか目の前の項垂れた姿は、小さな子犬のようだった。
「私と歩む未来など、貴方には想像できないと?」
「なら…そこまで言うなら、お前はそんな未来を想像できるのかよ!」
包み込んでいた腕から抜け出そうとする彼を余計に包み込もうとすれば、荒げられた声と胸板を叩く、か細い腕が返ってきた。
それに少しだけびっくりする。
新一がこんな風に感情を表すなんてことは滅多にないことだから。
「出来ると言ったら?」
「何を根拠に!? 俺達は男同士で、その上……親類だ」
「ご存じだったんですか?」
「当たり前だろ。俺だって調べたさ。お前と同じようにな…」
どうして彼が知らないなどと思ってしまったのだろう。
少し調べれば分かること。
彼が、真実を求める彼がそれを気にしない訳がない。
「何一つ、俺達には許されるモノなんてない。それなのに、何をもってお前はそんなことを言う?」
「私は…他の誰がどうなろうとも、どう思おうとも、貴方がいて下さればそれで―――」
「そんなこと…神様が赦さねえよ」
自嘲気味に笑いながらそう言った新一のらしならぬ言葉にキッドは笑う。
その言葉を嘲るように。
「貴方がそんなことを仰るとは思いませんでしたよ。神様なんて信じてらしたんですか?」
「信じてねえよ…」
「それなら…」
「信じてねえけど…それでもそう思うぐらい、きっと赦されないことだ」
きっぱりとそう言った新一をキッドは無理矢理強く抱きしめる。
腕の中で暴れる彼を力で封じる。
苦しいかもしれない。
痛いかもしれない。
それでも、彼を腕の中に抱き、そして告げたかった。
「赦されなくていい。どんな罪だって甘んじて受ける。貴方さえ居てくれたらそれでいい」
それは嘘偽りの無いキッドの本音だった。
彼が居てくれるなら、彼が傍に居てくれるのならば、どんな事だって耐えられる。
ずっとずっと告げたかった言葉を告げられて、ほっとしたキッドは漸く腕の力を緩め、腕の中の新一を愛おしそうに見つめた。
けれど、そんな愛の告白にも新一は首を振る。
「駄目だ、キッド。不幸になるだけだ。お前も俺も」
「そんなこと…!」
「分るさ。お前も俺も……きっと苦しくて辛いばかりだ」
全てを諦めたように身体の力を抜き、ぽふっと頭を預けられた胸に痛みを感じ、キッドは目を瞑る。
瞼が熱い。
けれど、涙など零す訳にはいかない。
知っていた。
彼が受け入れてくれる筈などないと。
分っていた。
彼がこんな関係を望む訳がないと。
それでも、それでもだ。
もしかしたら彼が自分と同じ気持ちで自分の手を取ってくれるのではないかと、僅かばかり期待してしまった。
だってきっと―――――彼の気持ちは自分と同じ筈だから。
それでも彼は違う未来を選ぶという。
自分とは…道を分かつ未来を……。
「名探偵…」
「何だ?」
「この世で結ばれないなら、せめて……あの世で結ばれましょうか?」
ふいに口をついて出た言葉に、新一が顔を上げるのが気配で分かった。
それでも、彼と目を合わせるのが怖くて目を開けられない。
馬鹿な事を言っているという自覚は自分でもあった。
けれどもう、どうにもならない事も分っていた。
だからかもしれない。
そんな馬鹿な事がキッドの口をついて出たのは。
「キッド…」
自分の名前を呼ぶ声すら、辛くて仕方がない。
苦しくて苦しくて胸が潰れそうだ。
「ああ、でも……あの世でもきっと神様が赦してくれませんね」
無理に冗談めかして漸く目を開けて彼を見つめる。
笑おうと思って作った顔はきっと情けないぐらいどうしようもない顔になってしまっただろう。
そんなキッドを新一はじっと見つめる。
「別に、俺もお前も天国に行くんじゃないんだからいいんじゃね?」
「おやおや、私はともかく名探偵は確実に天国でしょう?」
「いや、俺は地獄行き決定だよ。だって――」
言葉を切った新一にキッドは首を傾げる。
こんなに綺麗で。
こんなに優しくて。
こんなに純粋で。
彼が天国に行かない理由なんて見つけられない。
彼ほど天国に相応しい人間なんてきっといないと思うのに…。
「―――自殺者の魂はさ、地獄に堕ちるんだろ?」
「!?」
意外過ぎる答えに流石のキッドも二の句が継げなかった。
頭が一瞬真っ白になって、一呼吸置いたところで漸く何とか言葉が出てきた。
「名探偵、何を言って…」
「だってお前が言ったんだぞ? あの世で結ばれようって」
「いえ、それは…」
「何だよ。冗談だったとでも言うのか?」
「いえ……」
少しだけムッとしたように言われて、キッドはまたも言葉を失う。
知らない。
こんな彼は知らない。
だって彼はきっと、『そんな馬鹿な事を』、と不機嫌に言う筈だ。
そして、こんな馬鹿げた言葉遊びは終わり、いつも通りのさし障りのない平凡な関係に戻るだけだった筈なのに……。
「いいかもな。お前とだったら地獄でも悪くなさそうだ」
そう言って笑う彼には何の陰りもない。
むしろ、本当に楽しそうに笑うから、自分が彼と今何を話していたのか思わず忘れてしまいそうだ。
本当に―――余りに幸せそうに貴方が笑うから。
「名探偵。気でもふれましたか?」
「お前、随分失礼な事言うんだな」
「だって、名探偵がそんな事を言うなんて、そうだとしか思えないでしょう?」
彼がそんな事を言う筈がない。
彼がそんな夢みたいな事を思う筈がない。
いつだって、憎らしい程のリアリストで。
いつだって、憎らしい程に本心を見せてはくれない。
今まで、こんな無謀な夢を語れば、いつだってつれない返事が返ってきたというのに…。
「俺だって…一応、夢ぐらいは見るさ」
クスッと笑って言う彼が、なんだか酷く痛々しくて。
何だか全てを諦めてしたったような、そんな笑みが酷く辛くて。
それにまた胸が痛む。
彼にこんな顔をさせたい訳ではないというのに。
「……口にすべきではなかったのかもしれませんね。そんな夢」
一瞬の間の後、キッドの口をついて出たのはそんな言葉。
躊躇いと、後悔と、どうしようもない気持ちばかりが溢れ出した。
「キッド…?」
「貴方を巻き込むべきではなかったのかもしれません。そうすれば、貴方にそんな顔をさせずに済んだ…」
自分が彼の傍に居なければ、きっと彼は何の迷いもなく、あの可愛い幼馴染と幸せな家庭を築いただろう。
自分が彼の傍に居なければ、きっと彼は何の迷いもなく、彼女に文句を言われながらも探偵を続けながら、それでも良い父親になっただろう。
それを全て、自分が奪ってしまうかもしれない。
彼の約束されていた名声も。
彼の約束されていた未来も。
そして――――彼の命さえ。
それを考えれば、さっきまでの強気はどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
ただ残るのは激しい後悔ばかり。
彼を―――不幸にしているのは自分だという現実ばかり。
そんな風に辛そうに顔を歪めたキッドに、新一は緩く首を振る。
決して、全てがキッドのせいではないと言うために。
「お前のせいじゃない。全ては俺が決めることだ」
「ですが名探偵…私が貴方の前に現れなければ……」
「自惚れるな」
言い淀んだキッドの言葉の先は、ぴしゃりと投げつけられた新一の一喝によって遮られる。
それに戸惑い、キッドが新一を見つめれば、その瞳には常にない深淵が見えた気がした。
「俺がお前にどうこうされるなんて、そんな風に自惚れるのも大概にしろよ。
俺は俺自身で全てを見つめ、そして俺自身で全てを選び取る。お前がどうこうじゃない。俺がどうするか、だ」
きっぱりと言い放たれた言葉に、驚きを隠せないで居るキッドを新一は笑ってやる。
いつもの不敵な笑みを浮かべて。
「どうした? ご自慢のポーカーフェイスがボロボロだぞ?」
「……名探偵が悪いんですよ」
「ん?」
「貴方が…らしからぬ事ばっかり言うから悪いんです」
どうしてだろう。
彼が好きで。
彼が大切で。
彼ばかり見てきた筈なのに、本当の彼が分らない。
目の前の今の彼が、正常な彼なのか、それとも異常な彼なのか。
もはや判別がつかない。
あれだけ彼を見てきた筈だったのに…。
「俺らしい、か。ったく、お前は俺の事買い被り過ぎなんだよ」
「そんな事は…」
「俺はお前が思ってる程、綺麗でも純粋でもねえよ。
お前は、俺が執着心のない事件以外どうでもいいと思ってるような奴だと思ってんだろうけど、そんな事ない。
俺だって………人並みの、醜い執着心ぐらいあるんだぜ?」
「名探偵…?」
言われている意味が、分るようで分らない。
確かに自分は彼をそう思っている節がある。
事件以外どうでもいいと。
他の部分はどこか浮世離れしていると感じる事すらある程に。
そんな彼が、どう醜い執着心を持っているというのか。
分らない、そう言わずともありありとそう思っているのが手に取れるキッドに、新一は苦笑する。
「お前、今日はホント、ポーカーフェイスはどっかに行っちまってるんだな」
「もう、そんな無駄な事諦めましたよ…」
今まで目にしたことのない新一の姿に、正直キッドは動揺を隠せなかったし、隠すための無駄な努力をする気も起きなかった。
彼相手に通じるポーカーフェイスなど存在しない上に、今こんな状態ではそんなモノを建前としても作る気にすらなれない。
はっきり言って降参だった。
彼には本当に敵わないと思う。
「そんなに意外そうな顔するなよ」
「無理な相談ですよ、それは」
「お前の目に俺は、どんだけ浮世離れした奴として映ってたんだか」
口元は苦笑しつつも、新一の瞳は何故かとても楽しそうで、キッドもつられて口角が上がってしまう。
確かに、自分は彼をそういう風に見ていた。
しかも、かなり強く。
「俺はな、確かに事件以外どうでもいいと思ってる時もあるよ。
それでも、それでもだ…俺だって、執着する人間ぐらい居るんだよ……」
「名探偵、それって…」
「言うなよ? 皆まで俺に言わせる事もするな」
そう言って、ぷいっとそっぽを向いた彼の頬は、どう取り繕っても隠せない程赤く染まっていて。
けれど、それを言えば彼はきっと益々意固地になってしまうから、キッドはそれは見なかった振りをして、優しく新一を抱き寄せた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いは別に…」
「なら、きちんとお礼を言えるように皆まで言って下さいますか…?」
「………」
予想通りに口を噤んだ新一に微笑んで、キッドはどうしようもない幸福感に包まれた。
これ以上ない幸福に包まれて、腕の中の温もりにこれ以上はない微笑みを浮かべた。
どれ位そうしていたのだろう。
腕の中の温もりと、胸に預けられた頭の重みに幸福を覚えていた頃、新一がゆっくりと口を開いた。
「でも多分、お前が言うようにこんな俺は俺らしくないんだろうな」
「そうなんですか?」
「そうだろ? いつもの俺だったら、全部聞き流して、何もなかった事にしてた」
今更なような気もしたが、確かにその方が新一らしい。
キッドも納得して頷いた。
「そうですね。いつもの貴方ならきっとそうなさったでしょうね」
「やっぱり、お前が言うように、今日の俺は俺らしくない」
そう言って、新一は身体を起こすと、不意にキッドの腕の中から抜け出すように立ち上がった。
それにキッドは慌てて、新一の腕を掴んだが、その行動は新一の笑みを誘う結果になった。
「心配すんなよ。別に逃げ出す訳じゃない」
「でも名探偵…」
「いいから、大人しく少し待ってろよ」
そう言われては仕方ない。
名残惜しくはあったけれど、新一の言葉通り、キッドは新一の腕を放すとリビングから出ていく新一を静かに見送った。
彼の姿が視界から消えた後、ソファーの背に凭れかかりそっと瞼を閉じた。
暗闇が広がる中、ゆっくりと息を吐く。
頭の芯が少しでも冷えてくれるように。
心の奥が少しでも冷えてくれるように。
血迷った、そんな気さえした。
彼にああ言って貰えたのは嬉しい。
彼が同じ気持ちを持っていてくれるだろうとは思っていたけれど、それでも確信があった訳ではない。
だから、彼から確信を持った言葉を聞いた時、本当に冗談抜きで天にも昇る程嬉しかった。
けれど、気持ちが同じだからと言って、それが幸せであるとは限らない。
彼も自分も分っている。
何も赦される事のない関係だと。
そして―――彼は赦される事のない関係を築く事を望んではいない。
気持ちが同じだからと言ってどうなるものでもない。
きっとこれから先、同じ想いを抱えて、それでもきっとこの先お互い何も変わらず生活していくのだろう。
それがきっと彼の答えだ。
それ以外の答えなんて、きっと…自分も彼も見つけられないから。
「キッド」
思考の淵に沈んでいた意識が、不意に呼ばれた声に引き上げられる。
気付けば、彼が上から見下ろす形で自分を見詰めていた。
「お帰りなさい。名探偵」
「だから、お前…気配に気付かないとか、怪盗失格だろうが」
今日二度目になる『怪盗失格』の言葉に緩くキッドは笑う。
それが何の大した事でもない、そう言うように。
「貴方だから良いんですよ」
「いつか寝首かかれても知らねーぞ?」
「名探偵なら大歓迎ですよ」
クスッと笑ったキッドに新一は一つ溜息を吐いて、疲れたと言わんばかりにキッドの横に腰を下ろした。
そんな新一の手元に、一つ小さな小瓶が握られている事に気付いたキッドは首を傾げた。
小さな小瓶の中に白い粉のような、砂のような物体が入っている。
彼が取りに行ったのはコレだったのだろうか?
「名探偵、その瓶は何ですか?」
「ん? これか? カンタレラだよ」
「………」
事も無げに語られた新一の言葉にキッドは無言で瞳を瞬かせた。
今聞こえた単語は自分の空耳であろうかと。
「名探偵、今何と仰いました?」
「だから、カンタレラだって言ったんだよ」
一体何を、と言うようにそう答えた新一に、キッドは頭痛を覚えこめかみを押さえた。
何だっていうのだろうか、この目の前の人は。
「名探偵…。冗談も程々に…」
「カンタレラ。ルネサンス期イタリアの貴族ボルジア家が開発した毒薬と言われている。
政敵を次々に毒殺するのに使われたなんて言われてるが、真偽の程は分らない」
「現存するモノが見つかったなんて話は聞きませんが?」
冗談とも本気ともつかない新一の瞳に、キッドは戸惑いながらそう答えた。
確かに有名過ぎる程有名な毒ではあるが、それが現存していたなんて事は当然聞いた事がないし、撲殺した豚の内蔵に亜砒酸を加えたものとか言われてはいるが、その詳細はわからない筈だ。
『味の良い真っ白な粉薬』とは言われているが、本当にそうだったのかも怪しい。
「そうだな。でも、だからと言ってコレがそうでないという事にもならない」
「それはそうですが…」
「なあ、ピッタリだと思わないか?」
言い淀んだキッドに、そう言って新一は笑う。
その瞳が余りにも無邪気過ぎて、キッドは危うく後ずさりかけた。
何故だろう。
一瞬、本当に一瞬だが、彼を―――怖いと思うなんて。
「ボルジア家の兄チェザーレが妹のルクレチアに恋慕の情を抱いていた…なんて話聞いたことあるだろ?」
「え、ええ…」
「余りにもピッタリだと思わねえか? まあ、俺は女でも妹でもないけどな」
「………」
そう付け足されて咄嗟に二の句が継げなかった。
確かに、兄チェザーレが妹のルクレチアに恋心を抱き、夫や近寄る者を殺したという話はある。
そして、自分の兄すら殺してみせたという話すら。
血縁で、赦されない関係で。
確かにピッタリと言えばピッタリなのだろうが―――。
『いいかもな。お前とだったら地獄でも悪くなさそうだ』
さっきの彼の言葉が頭に浮かぶ。
アレが冗談ではなかったというのか…?
「お前が言うように、今日の俺は俺らしくない。
だったら、思い切ってもっとも俺らしくない選択をしてやろうと思ってな」
キッドの表情から大方何を考えているのか新一は悟ったのだろう。
そんな言葉と、確かにらしからぬ妖艶な笑みを湛え、キッドを優しく見詰める。
そんな新一に、キッドは戸惑いを隠す事すらできず、身体を硬直させるばかり。
「名探偵…。何を、…貴方は一体何を考えてらっしゃるんですか…?」
「……何を考えてるとお前は思う?」
試すようにそう問い掛け、愉しむように誘うように舌舐めずりした新一に、キッドはどう言葉を紡いで良いか分らなくなる。
何が正解なのか。
IQ400と言われる脳をフル回転させたところで、どんな良質の解答も出てきそうもなかった。
「何を考えていて欲しいと、お前は望むんだ?」
言われた言葉にキッドはハッとした。
その顔に、新一は笑う。
酷く艶っぽい笑みを浮かべて、妖艶に笑う。
「お前は、俺に何を考えていて欲しいんだ?」
それはまるで悪魔の囁き。
それはまるで呪いの呪文。
それでも、その甘い囁きに堪えられず、何かに操られるかのような感覚を覚えながらキッドは口を開いた。
「貴方が――――ソレで私と死にたいと。死んで…私とあの世で結ばれたいと」
キッドの言葉に新一は笑みを深めた。
それが望んでいた答えだったと言わんばかりに。
「だったら、その望み叶えてやるよ」
クスッと笑った彼が余りにも綺麗で。
立ち上がった彼にキッドは何を言う気力も起きず、ただ彼の姿を見送るばかり。
一旦何処かに消えた彼が、再び戻ってきた時にその手に持たれていたのは一本の赤ワイン。
新一はそれをソファーの目の前のテーブルへ置くと、台所まで行って持ってきたグラスを一つ、その横に置いた。
「開けてくれよ。こういうのはお前の方が得意だろ?」
言われた言葉にキッドは素直に頷くと、どこからともなくソムリエナイフを取り出して見せ、手間取る事無くワインを開ける。
そして、横に置かれたグラスへと注いでいく。
グラスへ少しずつ溜まるワインが、何だか血のように見えて、ぞっとする。
少し少なめにワインを注ぎ、その横にもう一度ボトルを置き直す。
一つ一つの動作は滑らかに行えている筈なのに、どこかぎこちない気がした。
「さんきゅ。やっぱり、ワインの方が気分出るだろ?」
そう言って、新一は楽しそうにそのワインの中に、先程持ってきた小瓶の中の粉薬を落とす。
粒子が細かいのかソレは大した時間もかからず、溶け込むように赤いワインの中へ消えて行った。
「名探偵。ソレは…」
「信じるか信じないかはお前次第だ。どうする?」
そう言って新一はキッドに笑いかける。
その笑みはまるで、天使のようで、今この現状が何か悪い冗談でしかない気もしてくる。
けれど彼が、そんな茶番をするとは到底思えなかった。
「貴方が望むなら…」
「俺が望むなら?」
「―――この世で赦されないのなら、せめて地獄で貴方と結ばれたい」
淀みの無い瞳と、偽りのないキッドの言葉に満足したように新一は頷いて、そのグラスを手に持つと、キッドが止める間もなくそれを口に含んだ。
そして―――そっとキッドに口付ける。
「どうだ? 死の接吻の味は」
唇に付いたソレすら取り込もうとするように舌で唇を拭う新一にキッドは微笑む。
極上の笑みを浮かべて。
「きっとこれ以上は味わえないでしょうね」
キッドの言葉に満足したのか、新一はそっとキッドに凭れかかる。
腕の中で瞳を閉じた新一に習い、キッドもそっと瞳を閉じた。
あとどれ位持つか分らないのに。
死がすぐそこまで迫っているというのに。
胸を満たしていたのは、恐怖でも後悔でもなくて―――これ以上ない幸福だった。
end…?
と言う訳で、6周年記念物で御座います。
今年に入り、本当に更新も停滞しがちですが、それでもお越し下さる皆様に支えられて続けられています。
本当に有難う御座います。これからもどうぞ宜しくお願い致します。
ちなみに…endの後に?がついている様に、終わらせるか悩み中です(爆)
何方かからの希望があれば続きます(ぇ)
記念物ですので、いつも通りお持ち帰り可能です。
もしお持ち帰り頂けるという奇特な方がいらっしゃいましたらどうぞお持ち帰り下さい。
その際BBSやメールなどでご連絡頂けると頗る喜びますvv 5>
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