伊達の隠密・黒脛巾(くろはばき)組(一)
No.551 2002/6/1

はじめに

関西地方の一部では今でも「伊達」を「イタチ」と読む ようですが、一般には「ダテ」と読みます。まずこのことをお断りして おきましょう。もちろん遠い昔には字面の通り「イタチ」と読まれていた はずです。伊達政宗も、関西デビュー当初「イダテ」と称していた節が あります。伊達氏の名の起こりである福島県伊達郡は、平安時代中期に 信夫郡(現在の福島市域)から分立されたのですが、「ダテ」という呼び名 がもとからあれば「伊達」と表記されることはなかったでしょう。「イタチ 」はマタギ言葉でイタチならぬ「熊」だそうです。すばしっこい所が似て いるのでしょうか。
「イ」の音をいつ頃から省くようになったのか 分かりませんが、語頭の「i」音は脱落し易い音 ですから、それをズーズー弁で本当は「イタチ」なのだと「i」音を強調 すればするほど「チ」が「テ」に変わり、「イタチ」→「イタテ」→「イ ダテ」→「タテ」・「ダテ」と転訛したのでしょう。また「イタテ」・「イ ダテ」で踏みとどまろうとしても、よほど力まなければ「タテ」・「ダテ」と しか聞こえません。聞き手、話し手どちらにとっても面倒なことですから、 いつの間にかそれが正式な読みとして定着したのでしょう。
伊達郡の南に安達郡があり、安達郡は一足先に 安積(あさか)郡から分立していますが、こちらは今日までそれほど 訛(なま)ることなく「あだち(←あたち)」と発音されています。

さて「黒脛巾組」とは,知る人ぞ知る仙台・ 伊達藩の隠密です。伊賀や甲賀の忍者ほど有名ではありませんが、 領内はもちろんのこと,対外的にも豊臣秀吉や徳川家康など中央勢力との 緊張関係において、彼らと互角にわたりあうため,水面下において熱い闘い を繰広げていました。死活を賭けた戦国の世、情報戦と隠密的工作は, まさに死命を制する重要な軍事的手段でした。彼らの働きによって 伊達氏が戦国を生抜き、東北の中原(ちゅうげん)とも言うべき仙台・大崎 平野に根を下ろすことが出来たといっても過言ではありません。

「黒脛巾組」については、地元において その子孫にあたる方々を容易に辿り得ることから、これまで 一部の史家の胸先にとどめられてきました。したがってこれを正面から 取上げた著作は少なく、その実体は今日なお明確でありません。 またそれ故に劇画的世界において興味本位に語られるという光栄にも 浴しておりますが、しかし彼らとて間違いなく歴史の主人公です。 物事をトータルに理解するという立場から、プライバシーに配慮しながら、 いささかなりともその実像に迫りたいと思います。 何分資料も不足していますので、ここではとりあえず気づいたところ から順次書き出すという方法をとりたいと思います。

気仙沼市史の記述

 まず気仙沼市史U(先史古代中世編) 「中世編」の記事(P.637)を紹介しましょう。
 

黒脛巾組
 伊達政宗が葛西・大崎領を接収した当時、治安が乱れ不穏な世情となって いた。その治安警戒のため黒脛巾組が活躍した。

 『貞山様(正宗公)の御代、「黒脛巾組」といって百姓共の内、力量・
打物(武術)にすぐれた者を選び、五〇人、三〇人を一組とし、案内・悪
党の忍入りたる者の探索・兵糧・廻米・御陣具・竹木の運搬をさせた。こ
れらは今時の組抜(くみぬき:足軽同様の下級の侍)の様な者で、皮脚絆
をはき、土地の古人の武辺を組頭にしている。』
                      (『老人傅聞記』要旨)
 またこの組頭を次のように別記している。
   南     阿部対馬        北     清水沢杢兵衛
   佐沼    逸物惣右衛門      石巻    佐々木左近
   本吉南方  横山隼人    本吉北方・気仙郡  気仙沼左近
 これらの人々は身許不明で気仙沼左近もどんな人物かわからない。土地の 古人の武辺とあれば百姓でも名のある郷士的な人であろう。それらの闊歩は 戦国が終って混乱の中に生まれた一つの風景であった。
 
ここでは古記を引用し、戦国末期から江戸 時代への移行過程における、ある程度整えられた形の「黒脛巾組」の姿が 述べられています。お揃いの黒い皮脚絆を着け、半ば公然と行動する姿は、 もはや隠密とは言えません。
文中の「伊達政宗が葛西・大崎領を接収した 当時」とは、天正18年(1590)7月、小田原の北条氏が滅亡し、 翌8月豊臣秀吉が小田原不参の奥州大名の領地没収を命じた「奥州仕置」 当時を指します。もともと宮城県の北半分と岩手県南の広大な地域は葛西氏 と大崎氏という鎌倉、室町以来の二大勢力が支配していました。しかし彼らは 秀吉の催促にもかかわらず、内紛などの事情によって小田原に駆けつける ことが出来ず、領地没収・取潰しとなります。葛西氏は無謀にも一戦を構え ますが、北上した奥州仕置軍の前にあえなく敗れます。 新領主には木村吉清なる秀吉の取巻きが入封しますが、2ヶ月後には 俄(にわか)大名の拙政が大崎葛西の浪士と 旧領民の怨嗟に火を点け、同時多発の広範な一揆によって打倒されて しまいます。そしてこのあとに伊達政宗が米沢・福島から移封され、この地に 登場するのです。

地元では、この混乱を画策したのは 政宗であり、彼が背後で糸を引いていたと受けとめられています。 彼は曾祖父稙宗(たねむね)の時代から触手を 伸ばしていた葛西・大崎領を自分のテリトリーと認識していましたし、 それが木村ごとき外来者の手にわたるとは青天の霹靂、いまいましい 限りでした。しかしそれ以前に秀吉によって、力で切取って きた会津、岩瀬、安積三郡(現在の福島県中央部)が取上げられ、蒲生氏郷に 与えられたことが、相当なダメージとしてこたえていました。現実に その目減り分を挽回しなければ、膨れあがった家臣団を養うことは 出来なかったのです。このかんの政宗の動きは悪あがきと言えばよいで しょうか、天下の大勢が決し、どう転んでも一発逆転はないのに、 余計なことをやってくれるなという秀吉の意に反して、 ちょっかいを出しては叱られる(減封される)という繰返しでした。結局の ところ政宗は、鎌倉以来営々と築いてきた先祖伝来の地を失い、 代償として仙台平野に出てくることはできましたが、初陣以来いく多の戦闘 と犠牲も、さながら徒労と言えるほど時代の万力は天下統一に収斂し、 戦国の紊乱を許す余地はなくなっていました。
そして葛西・大崎一揆収拾の仕上げは,宮城県河南町深谷への葛西・大崎 家臣団の呼出と謀殺でした。周辺一帯には400年後の今日でさえ 異様な妖気が漂い、非業の死をとげた彼らの無念と怨みが今なお彷徨 しているかのようです。

政宗はその後も版図拡大を企図して,南部領 との国境(くにざかい)において、金堀人夫の一揆(岩手県千厩町、釜石市) を扇動し、失脚した阿曽沼氏の遠野城(岩手県遠野市)奪回にテコ入れし、 さらに和賀氏の反乱(岩手県和賀郡)を仕掛けますが、いずれも失敗し 関係家臣の処分・転封と和賀一族の謀殺など証拠の隠滅を図ります。 もちろんこれらの背後に「黒脛巾組」の暗躍があることは言うまでも ありません。

虚を衝(つ)いてかすめ取り、謀略をめぐ らすのは戦国の世に珍しいことではありません。しかしその結果について 秀吉や家康に言訳して回る彼の姿は、どう贔屓目に見ても「天下の器」とは 言いかねます。このようなローカルな印象が秀吉や一部の現代人に冒頭の ような「誤解」を抱かせたのだとすれば、それはひとり彼の個性に帰する ものではなく、時代に遅れてきた一人の武将の不運に非を求めなければなり ません。

 
 
INPUT 02/05/14 Copyright (c) 2001
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