++++++ 会誌あかね
会誌あかね


 
 第60回同窓会総会
 日 時 2013年12月7日(土)
 会 場 京都タワーホテル
     八閣の間(JR京都駅前)TEL:075−361−3222
        8階でエレベーターを降りて受付をしてください。

 ◆総 会 4時〜(午後3時30分受付開始)
 ◇講演会 5時〜
 ◆懇親会 6時〜

 講 演 「知的交流都市『京都』をめざして」
     講師 木下 博夫(元国土事務次官・洛北10期)
          公益財団法人 国立京都国際会館 館長
 略歴
  1967年京都大学卒業後、建設省(現・国土交通省)に入省し、地域計画、道路、
 河川、建設産業などの分野を担当。その間1984年京都市計画局長、助役(現・副
 市長)。2000年国土事務次官を経て、2005年阪神高速道路(株)社長に就任。
 2012年3月現職就任。

 懇親会費 5,000円(当日受付にて)

  出欠のお返事は同封はがき、または電話にて11月29日(金)までにお知らせ下
 さい。同窓生の方々お誘い合わせの上、是非ご出席ください。

 表紙「ゴルフ
 
 吉田 晴夫(洛北18期)
  表紙の作品は、ある晴れた日のゴルフ場の光景です。緑豊かな地、点在するカラフル
 なシャツを着たゴルファー達、木陰にはサポータもみられます。風を知り、芝をよみ、
 この一打に集中してタイミングをはかっているゴルファー。静寂の中、その緊張した空
 気感を表現しました。この十数年はラグビー、サッカー、テニスなどから人物のフォル
 ム、動き、色彩を追求しています。洛北高校時代の放課後、グランドでのサッカー部や
 ラグビー部の掛け声、テニスボールや竹刀を打つ音、当時の部活動や学校生活のことが
 今も思い出されます。いまの私の絵画の原点となっているのかもしれません。
(作者略歴)
 1950年京都市生まれ。1969年洛北高校卒業。1976年フランス政府給費留学
 生として渡仏。マルセーユ及びパリ高等美術学校留学。京都市立芸術大学院修了。二紀
 展を中心に作品発表。京都在住。

あかね第51号の目次

全頁あかね51号
巻頭言 「絆と同窓会」    会  長 安藤仁介(洛北3期)-------------------------------2
ご挨拶 「チャレンジする人を育てます」 特別顧問 井関康宏(校 長 )--------------------3
北から南から    この春洛北卒62期のフレッシュマンからのメッセージ -------------------4
   佐々木義道 正木優唯 白永優美子 安田貴典 紀田心一 松村梨央 梅原佳資
京一中最後の卒業生 京一中昭和23年卒業生が綴る  -------------------------------10
   京一中昭和18年入学
   魚木五夫 玉村文郎 柳 昭一 前田 理 安田泰次 藤田 清 武石靖彦
第59回総会講演 「外交を語る」 田中 均(洛北14期)-------------------------------28
アンサンスーチーと私 ----------------------------------------------------------47
    「ロンドン・オックスフォードそして京都・・・」 大津典子(洛北6期)
会員著書紹介「-----------------------------------------------------------------52
   ・「道遥かなり奥吉野」・「トルストイ版老子」・「極楽鳥病棟」・「表具の事典」
恩師を偲んで  =伊達一郎先生=       長坂寿哉(洛北29期)--------------------54
OB会だより ------------------------------------------------------------------30
   ・籠球部OB会解散(寄付報告)
   ・あかねゴルフ会・北山の会
   ・排好会・叡水会・新聞部局友会
   ・図書部諄信会(予告)
クラス会だより ----------------------------------------------------------------33
       目次と予告
支部だより --------------------------------------------------------------------56
   ・北海道支部(50周年記念)
   ・東北支部(塩竈先生と塩竈市の縁)
   ・京浜支部(思い出の金井元支部長と)
   ・東海支部(支部長交代)
   ・乙訓地域会(熊谷かおり卓話)
   ・関活洛有会・京一中洛北クラブ
母校だより --------------------------------------------------------------------63
会計報告・会費納入のお願い -----------------------------------------------------68
記念石碑募金のお知らせ --------------------------------------------------------70
須田国太郎回顧展 -------------------------------------------------------------72
佐々木高明民博元館長偲ぶ会 PTA会長に同窓生就任 -------------------------------73
本部だより ---------------------------------------------------------------------75
     題字「あかね」は表千家 久田宗也宗匠(昭17年卒)揮毫です

あかね51号本文

巻頭言
 「絆と同窓会」         会 長 安藤仁介(洛北3期)----------------------------------------------- 2

 
 東日本大震災を契機として「絆」という言葉が注目されるようになり、その年の漢字にも選ばれること
になった。そこで、絆と同窓会の関係について考えてみたい。

 絆という言葉を、漢和辞典で引いてみると、家畜とりわけ「馬の脚を結びつける綱」の意味で使われて
いる。そこから転じて、「物をつなぎとめる綱」を指す言葉としても用いられている。他方、国語辞典に
よれば、それに加えて、「人と人とを離れがたくしているもの」「断つことのできない結びつき」という
意味が出てくる。要するに、もともと物理的なつながりを示した言葉が、心理的・精神的なつながりをも
示すようになり、今日の日本語ではむしろもっぱら後者の意味で使われているということができるだろう。
 心理的・精神的な意味の「絆」は、いろいろな場合に用いられ、きずなの核をなすものも異なってくる。
親子のきずなは、まさに血のつながりを核とするきずなであろう。現在の日本では、夫婦と未成年の子供
から成る核家族が中心であるが、第二次世界大戦までは、同一の戸主を中心とする広義の宗族が法律的に
も社会的にも大きな意味を持っていたし、中国や東南アジア諸国では、さらに大きな家族の輪が問題とな
る。その場合に、血の濃さが薄くなるにつれて、きずなの中身も変わってくるだろうと思われる。
 これに対して、地理的なつながりに基づくきずなも存在する。近ごろあまり流行らないが、私が大学生
のころは、大学の中に県人会なるものが数多く見られた。地域、自治体、国家なども、どちらかといえば
地理的近接性を基礎とするきずなであろう。オリンピックの招致合戦や代表選手への声援も、おそらくは
地理的なきずなに基づくものであろう。
 もちろん、各種のきずなのなかには、血縁や地理的近接性で説明のつかないものもある。大学に務めて
いたころ、「戦友会」を研究している同僚がいて、「戦友会の会員相互間の結びつきの強さに驚かされる
が、いったいその根底に何かあるのだろう」と問われたことがある。戦中世代の最末端に属する私がよく
よく考えてみれば、同じ国内の無関係の地域から集められた経験も職業もバラバラの人間集団がそれほど
強固なつながりを感じ合う根底には、おそらく生命を賭してともに戦うという体験を共有する事実がある
のではないか、と思われる。ある意味で、生存の限界状況をともに耐え忍ぶ経験が、彼らにそこまで強い
共属感情を生み出しているのであろう。意味は違うが、団体競技のチーム構成員も似たような感情を体験
するのではないだろうか。

 さて、同窓会のきずなはどうだろう。もちろん血縁ではなく、進学範囲の地理的拡大につれて地縁的要
素も弱まる傾向にある。強いて言えば、同じ教室で同じ先生から同じ授業を受けた経験、つまり同じ体験
の共有がその根底にあることは間違いない。ただし、卒業して進路もバラバラになってから出現する「同
窓会」なるものは、いったい何を「絆」の核とするのか。私の考えでは、それは今ある自分とかつて共有
した体験をどんな想像力(イマジネーション)で結びつけるか、ではないだろうか。同窓会会員の皆さん
も一度考えてみてください。

ご挨拶 「チャレンジする人を育てます」      特別顧問 井関康宏(校 長 )---------------------- 3

 
 同窓会の皆様には、日頃から本校の教育活動に多大なご理解とご支援をいただいておりますことに心か
ら感謝申し上げますとともに、厚くお礼申し上げます。
 昨年、近隣府県で、いじめや体罰を受けた後に、子どもが自らの命を絶つという、痛ましくあってはな
らない事象が発生しました。本校においても詳細に調査をしましたところ、重大な事象はありませんでし
たが、いじめに発展しかねない事象も見られました。いじめはどの学校にも起こりうるという前提で、丁
寧な対応に努めています。体罰については、受けた生徒が体罰と認識していない事象が1件ありましたが、
その後関係職員を厳しく指導するとともに、体罰を許さない洛北を作ることを徹底し、教育活動を進めて
います。
 今年の部活動は、高校の囲碁・将棋部で、二年の男子生徒が全国高校将棋選手権に、女子団体は文部科
学大臣杯高校囲碁選手権に、ともに京都府予選で優勝し出場しました。また、サッカー部は九年ぶりのイ
ンターハイ出場で、初戦を突破しました。さらに、ハンドボール部は、女子は二十三年連続、男子は二年
連続のインターハイ出場で、女子は全国第三位となりました。生徒諸君の頑張りと先生方の情熱ある指導
が、大きな成果につながったものと考えています。
 さて、来年度の京都府の高校教育制度改革により、本校は大きく変わります。普通科第T類・第U類を
合わせて「普通科文理コース」とし、基礎・基本の徹底の後、文系・理系の発展的な内容を学習します。
普通科第V類体育系は「普通科スポーツ総合専攻」と名称を変え、体育・スポーツに関する専門的学習や
スポーツ科学などの研究を行います。「中高一貫コース」は今年で開校十周年となり、今までの成果を基
に、来年からは新たなステージヘと飛躍します。
 また、これらの三つのコースは、すべて「洛北の単位制」に変わります。生徒の高い能力や幅広い興味
・関心・適性に対応するため、洛北独白の教科・科目を用意し、大学進学のためだけではなく、大学進学
後、あるいは大学卒業後につながる学習活動を行います。加えて、大学での活動の単位認定や秋卒業など
も予定しています。例えば、高校三年の夏から一年間海外留学し、次年度の夏に帰国、九月に卒業、そし
て、その秋に海外の大学に進学、という進路も可能になります。生徒の多様な能力や進路に柔軟に対応で
きるシステムを作ります。
 さらに、従来、普通科第T類・第U類は京都市通学圏だけから進学が可能でしたが、普通科文理コース
は京都府内全域からの進学が可能になります。普通科スポーツ総合専攻や附属中学校とともに、京都府内
各地から多くの中学生・小学生が洛北を目指してくれることを期待しています。
 スーパーサイェンスハイスクールの取組も第三期の二年目を迎え、大学連携など、充実した取組を展開
しています。他校とも連携し、イギリスやシンガポールの大学・高校との共同研究も実施しています。来
年度からはスポーツ総合専攻以外の生徒を対象にして、さらに発展させていきます。
 洛北は、「チャレンジする人を育てます!」を合い言葉に、生徒・教職員が一丸となり、中学生・小学
生や保護者からも期待される学校作りにチャレンジしてまいります。
 同窓会の皆様には今後とも様々な形でご支援・ご協力をお願いすることと思いますが、よろしくお願い
申し上げます。
 後になりましたが、同窓会の皆様のご健勝・ご活躍と同窓会の益々のご発展を心より祈念申し上げて、
ご挨拶とさせていただきます。

北から南から    この春洛北卒62期のフレッシュマンからのメッセージ -----------4

 夢のおすそわけ

 
「春は桜と雪」                                                 ●松本発  佐々木 義道(信州大学工学部)
 雪化粧桜に満開の
                                   
 思い返せば春、信州の春は新入生を幻想的な形で迎えました。満開の桜に降り積もる雪。京都ではあり
えない風景に心を奪われました。この風景は新入生の入学を祝っているのか、それとも拒んでいるのか?
そしてまた入学した後もいろいろ驚かされることばかりでした。新入生のうち、約七割が長野県外出身者。
また約九割が大学の近くで下宿や一人暮らしの生活。だから自ずと「今日は誰の家に泊まる?」「雨降っ
てきたよ、洗濯物干してきたのに」といった会話があちらこちらから聞こえてきます。
 皆が大学の近くに住んでいるのでそれ独特の欠点もあります。約二千人が入学してくるので住む物件も
アルバイトも全てが競争になります。私も今、試験勉強をしながら二年生からキャンパス移動があるため、
週末には電車で二時間かけ来年のアパート探しをしています。そうした苦労もありますがここ松本キャン
パスは全学部が集結し、全国にたくさんの友達ができるのも魅力の一つです。
 四月に入学し、わたしが「京都出身」だと自己紹介するといつもとても良い反応が返ってきました。そ
こで京都は良いところだと言う事が思い知らされると同時に私か京都に住みながら京都の事についてあま
りにも無知な事に気づかされました。「灯台下暗し」といいますが、生まれ育った京都について風景、建
物、歴史、暮らし、全ての事があたり前のものになっていました。「離れてから良さに気付く」と言う事
を痛感させられました。
 夏休みには京都に帰省しますが、きっと見える光景は今までとは異なったものになっていると考えます。
「あたり前の京都」が「新鮮な京都」となっていることでしょう。また、地元の友達と会って友達の卒業
後の生活等を聞くのも楽しみです。きっとそれぞれ成長した姿が見られると思います。私はこの数ヶ月、
京都を離れると日本でもこれだけ違うと言う事が実感できたので世界に出たり、さまざまな経験を積み、
一歩づつ成長していこうと思います。

「スポーツ科学への道」                               ●東京発        正木 優唯(早稲田大学スポーツ科学部)
都の西北早稲田の森に・・大隅講堂
 
 東京での独り暮らしを始めて、四ヶ月が経とうとしています。この四ヶ月間、新しいことばかりで、慣
れるのに時間がかかりましたが、新しい仲間の支えもあり、楽しく過ごしています。
 私はこの四月に早稲田大学スポーツ科学部に入学しました。より高いレベル、より恵まれた環境の中で
ハンドボール、また、勉学に励みたいと考えたときに最も良い条件だったのが早稲田大学でした。私は、
高校時の部活動の実績を認めていただき、スポーツ推薦という入試方法で入学しました。
 上京してすぐに左足の前十字靭帯を切断し手術をしました。現在は日々リハビリに励んでいます。全治
十ヵ月程ということで、まだまだ復帰には時間がかかりますが私らしく、前向きにコツコツ頑張っていき
たいと思います。部活の方は、一年生が三人しかおらず、一人一人の仕事の量は多いです。しかし、三人
だからこそ、チームワークは本当に浪くお互い信頼し合って頑張っています。
 勉強はスポーツを様々な視点から専門的にみる科目が多いですので、正直難しいです。しかし、私が好
きなスポーツに関することばかりで、興味深く、おもしろいです。一年時は四年間の基盤を作る時期で自
分のやりたいことだけ、とはいきませんが、二年時からのコース選択に生かせるよう、勉学に励んでいき
たいです。二年時からは七つのコースに分かれますが、私はスポーツビジネスコースに進み、スポーツに
おいての経営について学びたいと思っています。
 一人暮らしは私か想像していた以上に大変でした。いつもはお母さんがしていた事を全て自分でやらな
ければなりません。これも良い人生勉強だと思いますので、自立した人間になりたいと思いますので、自
立した人間になりたいと思います。四年後、四年間充実していたなと思えるよう、高いレベルでの文武両
道を実践していきたいと思います。

「新しい環境で集団行動」          ●横浜発 白永 優美子(日本体育大学体育学部)
日体大名物「集団行動」
                   
 横浜に来て生活を始めてからはや4ヶ月が経とうとしています。私は日本体育大学に進学し、陸上競技
を中心とした生活を送っています。自分一人で毎日。炊事、洗濯、掃除”などの動家事をする生活にもよ
うやく慣れ、毎日充実した日々を過ごしでいます。
 日本体育大学といえば、テレビでおなじみとなっている『集団行動』が話題となっています。私は入学
してすぐにオリエンテーションで、基本の集団行動を少ししただけですが、一人もずれたりすることなく
集団行動することは、とても難しかったのを覚えています。あの、テレビで演技されている学生の方と同
じ大学にいると言う事が少し不思議な感じもあります。「集団行動」で話題となっている日本体育大学で
すが、公認の競技会が出来る施設があり、その中で授業やクラブ活動ができ、スポーツに集中できる環境
が整っています。授業では自分の取り組んでいる競技に役立つことが学べ、とても楽しく学んでいます。
また、クラスの中には、オリンピックや世界大会に出場している選手もおり、テレビで「すごいな」と思
っていた選手と、普通の会話ができるのも、日体大ならではの環境なのかも知れません。
 大学に進学して毎日が社会に出るための勉強だな、と感じます。自分の考えを押し通すことも、まった
く言わないのも良くありません。
 上下関係、同学年との関係など、難しい人間関係を創っていく為に、毎日、人とコミュニケーションを
とることがとても楽しいです。はじめは怖い先輩だな、と思っていた先輩も、一緒にリレーを走らせても
らうことになり、コミュニケーションをとると、実はとても気さくで面白い人だった、という事もありま
した。深い関係をつくることは難しいことですが、コミュニケーションをとることで世界が変わっていく
ことを知りました。また、間違っていることを「間違っている」と言ってくれる友達に出会えたことも、
わたしにとって大きなプラスとなっています。京都を離れ、少し寂しいこともありますが、新しい土地、
新しい環境の中で「自分らしく」日々を大切に過ごしていこうと思います。また、競技力の面でも、新し
い自分を求めて日々努力していきたいど思います。

「気まぐれ天気の地で学ぶ」         ●金沢発 安田 貴典(北陸大学 未来創造学部)
桜の頃も素敵だけれど、この冬は雪の金沢城を!
                   
 私はこの4月から大学進学のため慣れ親しんだ京都を離れ、石川県にある北陸大学で生活をしています。
自分白身、小中高とサッカーをしてきて、この北陸大学はより高いレベル、恵まれた環境でサッカーがで
きる。そして何より共に寮生活を送りサッカーをする新しい仲間がたくさんでき、そんな仲間たちと楽し
く毎日を過ごしてます。
 私が来た金沢市はとても素晴らしいところです。観光地として有名な兼六園や、金沢城等があります。
特に兼六園は、日本3名園の一つとして数えられており、四季折々様々な姿を私たちに魅せてくれます。
私はまだ春の桜の姿しか見たことありませんが、冬の雪化粧した兼六園がとても楽しみです。また、金沢
は魚介類がとてもおいしいです。是非金沢にいらしたときは、お寿司や海鮮丼を召し上がっていってくだ
さい。
 そんな素晴らしい金沢ですが一つだけ欠点があります。それはよく雨が降ること。とにかくよく降りま
す。一日の中でも気候が何度も変化します。”弁当を忘れても傘忘れるな”というフレーズもあるくらい
よく降ります。これが京都との大きな違いです。四月の初めはとても天候に対応するのに苦労しました。
 私は4月から、親元を離れ寮生活をしているわけですが、改めて親のありがたみを感じています。黙っ
ていても食事の用意や洗濯をしてくれました。ですが今ではすべて自分自身でやらなければなりません。
練習などで疲れてしまい、洗濯等が後回しになってしまうこともしばしばあります。現在高校通つている
みなさんは日々親に感謝の気持ちを持ってほしいと思います。なかなか実感することはないと思いますが、
親元を離れて生活してみると感じるものです。できたら感謝の気持ちを□に出してほしいとも思ってます。
離れてしまうと、あまり直接言う機会が少なくなってしまうので・・・
 私は、京都を離れ、わざわざ石川県に来ました。次回京都に帰るときは一回り大きく成長した姿を見せ
れればと思います。そして4年間、この最高な仲間たちとともにサッカーを通じて、人間的にも大きく成
長できればと思います。

「自由、感謝、岡山から」            ●岡山発  紀田 心一(岡山大学 医学部)
ランニングコースにしている旭川
                   
 ああ、やっと終わった。期末試験。高校では物理選択。でも生物の試験だった・・・もうどこへでも飛
んでゆけそうな気がする。
 僕はこの春岡山大学医学部に入学した。京都を離れ下宿生活の始まりだ。まず気になるのは食事。実家
では母が料理を作ってくれていたので、今とても苦労している。味もそうだが、量の加減が難しい。カレ
ーなんか作った日に二、三日は憂き目を見る。料理番組で勉強したり、時々学食を利用したりしてなんと
かやっている。病気も気になる。この前風邪をひどくこじらせ、死ぬかと思った。どんなにしんどくても
家事はしなければならないし、独り暮らしだから看てくれる人も無し。実家の有難さを実感する今日この
頃だ。
 さて、岡山大は意外とすごいところで、僕の所属する剣道部は西日本の大会で優勝するほど強い。初心
者の僕は毎度先輩たちにボコボコにされているが、自分の成長を感じられてメッチャ楽しい。この開も対
外試合で人生初の一本を取ったときは泣くほど嬉しかった。雑用もさせられるけれど、先輩はいっぱい可
愛がってくれるし、何より僕に剣を教えてくれる。これまた感謝でいっぱいだ。
 岡山ってどんなところか。そう、『晴れの国』だ。南国の木も生えるくらい太陽は輝くが、実は雨もよ
く降って困る。第一級河川の旭川は幅はあるが、すこぶる汚い。ついでに方言もきたないというか野蛮で、
語尾に『が』をつける。例えば『それええが』とは『それ良いね』の意になる。女子が言ってもあまり可
愛くならない珍しい方言だと思う(笑)しかし話す言葉はちょっぴり乱暴でも、岡山人の心は美しい。い
い人が多い。愉快な仲問たちと一緒に楽しく過ごしている。
 岡山も住めば都だが、京の都はやはり素晴らしいところだ。外に出てやっと気づいた。同時に京都には
自分の知らない顔がたくさんあることも知った。帰省の際には何か新発見をしてやることに決めた。
 僕の将来の夢は医師になって、医療を受けられない人たちのために尽くすことだ。ベテランになったら
「国境なき医師団」にも入りたい。でも医学の勉強だけじゃつまらない。いろんなものを見て、触れて、
学びたい。やりたいことかありすぎて何からやろうか迷ってしまうが、大学生活は自由だ。何をやっても
いい。どこへでも飛んでゆけるのだ。

「”3””無いでも豊かな自然」            ●鳥取発 松村 梨央(鳥取大学工学部)
鳥取砂丘
                   
 私は、鳥取大学工学部生物応用工学科に在籍しています。大学では生物の知識を活かし、何か生み出せ
ればと思い、この学科を受験しました。授業時間は90分と高校よりとても長く内容もより詳しくなりま
す。また、教科には必須科目と選択科目の2種類があり、必須科目ではおもに化学や英語、他には数学や
物理など専門的な内容を学習します。週1回の授業で内容も深いので、予習・復習が必要になります。前
期の期末テストでは、範囲が広く、難しかったので、とても大変でした。選択科目では、学科とは関係の
ない自分の興味のある講義を選択して受けることができます。前期の授業では、全て英語で行われる授業
やフィールドワークにでる授業など色んな種類があり、知識の幅を広めることができます。実際に、「脳
の世紀」という、医学部の色んな先生が脳にまつわる自身の研究について分かりやすく説明される授業は
とても興味深く、今後の進路に役立てると思いました。
 また、鳥取県には鳥取砂丘があり、大学の裏には池もあるので、やはり乾燥地帯の植物の研究や池の微
生物の研究など、その土地ならではの研究はとても進んでいると感じます。
 今、私は一人暮らしをしています。鳥取大学では8割の学生が県外出身であるので、ほとんどが一人暮
らしをしています。なので、よく皆で集まってご飯を作ったり、一緒に課題をしたりしています。また、
大学生協のサポートも充実していて、安心して生活しています。
 鳥取県には「3無い」と言って、セブンイレブン、スターバックス、ドンーキホーテがありません。し
かし、大学周辺には海があり、もう何回も遊びに行きました。自然が豊かで素晴らしい環境に抱かれ楽し
く生活しています。
 大学生活の最初は思ったより時間があります。なので、勉強以外にも、サークルに入りたい、アルバイ
トをしたい、映画をたくさん見たい、本をたくさん読みたいなど、自分のしたいことを決めた方がいいと
思います。

「不便でも ”住めば都”」       ●下関発      梅原 佳資(水産大学校海洋学部)
水産大学校 練習船「耕洋丸」
                   
 大学進学にあたって、今まで生活をしてきた実家を離れ、山口県にある水産大学校に入学し、約四ヵ月
が経ちました。こちらの生活には、今でこそ慣れましたが、全く知らない土地での新しい生活というもの
は決して簡単ではありませんでした。進路を決めていて、遠くへ出ようと考えている後輩達に向けて、僕
が今日に至るまでどのように考え、今どんな風に感じているかを書こうと思います。
 僕が縁あって合格することのできた水産大学校があるのは、フグで有名な山口県下関市の吉見という田
舎の町です。吉見にあるものといえば。水産大学校と海上自衛隊がメインで、あとはコンビニとスーパー
が一軒ずつ、そして港と畑と駅があるくらいです。電車は一時間に一本しかなく、電車通学の人は乗り遅
れると大惨事です。最初はとても不便でしたが、慣れてくるといい所です。大学の目の前には海が広がっ
ていて、釣り好きの僕にはたまらない立地であるということも大きく関係していると思います。
 大学生活はというと、高校とシステムが全然違ったり、教室が多くて似ていて分かりづらかったり、は
じめはとまどうことも多かったのですが、そんなとき改めて大切だと感じたのは、人とのつながりです。
 僕はこっちへ来るまで、京都と下関が離れすぎていて分からないことだらけで、少し不安でした。近く
に頼れる大人も友達も全くいなくなるし、京都を離れる日が近くなるにつれて不安は大きくなっていまし
た。でも、ある程度同じ目標を持つ人が集まるのが大学なので、新しい同級生ともすぐに自然に気が合い
ました。特に水大は一学年の人数が少ないので、すぐにほとんどの人と打ち解けることができました。
 まだ四カ月しか経っていませんが、僕は寮に入っていることもあり、色々なことを教えてくれる先輩と
も沢山知り合えたし、良い仲間と良い時間を沢山過ごすことができています。この仲間との出会いとつな
がりが、僕の人生の宝物になるだろうと実感しています。そんな楽しい生活を送っている為か、こちらに
来てから一度もホームシックにはなりませんでした。少し宗族に申し訳ないくらいです。
 大学生活の話しとは少しずれているかもしれませんが、結局僕がこの四ヵ月こちらで生活して思ったこ
とは「住めば部」というのは本当だということ。そして「持つべきものは友」というのも本当だというこ
と。そして改めて思うのは、今まで育ててくれた、守ってくれた”家族”がどれだけ偉大で有難い存在か
ということ。これに気付くことができただけでも、遠くの大学へ行くのは人を成長させることだと、僕は
思います。
 これからの大学生活を、この土地で、友と共に、感謝の気持ちと努力に変えて進んで行こうと思います。

京一中最後の卒業生 京一中昭和23年卒業生が綴る  ------------------------------------------------10

われら最後の京一中生
      
=学内のできごと=
▼昭和18年(1943年) =京一中1年生=
▼入学式 4月8日 3階講堂隈部校長
  ・市電・市バス通学生は東は高野から西は烏丸車庫から徒歩、上級生が先導
  ・初夏植物園グラウンドにて中等学校総体
  ・適応訓練 大原まで砂袋を持って往復走る
  ・5人グループでクラス対抗長距離走(山中越―大津―蹴上)
  ・物象担当教諭蒸発
  ・農業動員 槙島村他
  ・湯川秀樹博士講演

=社会のできごと=
▼昭和18年 1943年
  1・13 米英楽曲約1000曲がが演奏禁止に
  1・21 中・高等学校などの修業年限を1年短縮
  2・ 1 日本軍、ガダルカナル島撤退
  2・23 陸軍省、決戦「撃ちてし止まぬ」のポスター配布
  3・ 2 職業野球連盟、用語の日本語化
  4・18 連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン上空で戦死
  5・26 中央公論社・改造社の社員4人、共産党再建容疑で逮捕
  5・29 アッツ島守備軍全滅
  6・25 学徒戦時動員体制確立要綱制定
  8・ 1 朝鮮に徴兵制実施
  9・ 4 空襲に備え、上野動物園で薬殺した猛獣の慰霊祭
  9・ 8 伊、無条件降伏
 10・21 出陣学徒壮行会(神宮外苑競技場)
 11・ 5 フィリピン・タイ・ビルマなど大東亜諸国招聘の代表が東京で大東亜会議開催、戦争完遂
       などを宣言
 12・ 1 米・英・中、カイロ宣言発表
 12・24 徴兵適齢一年繰り上げ19歳に

  われら最後の京一中生2 ------------------------------------------------------------------------------------- 11

    
=学内のできごと=
▼昭和19年(1944年) =京一中2年生=
  ・4月1日中等学校物象科教員養成所併設
  ・3年生以上学徒動員
  ・京都市中学生教護連盟
  ・臨時教員養成(理・数)
  ・特別学級開設
  ・農業動員梅津・寺田・上賀茂ほか
  ・高野川堤の防空壕掘り
  ・堀川通強制建物疎開
  ・初冬しじみ事件(6組午後10時半まで学校に残される)
  ・陸軍幼年学校試験
  ・海兵予科生徒試験
  ・校舎3階に寝具等多数収納
  ・5名ずつ毎夜、見回り
  ・予科練応募の勧め頻り
  ・一部生徒市立科学教育研究所に研修に行く

▼昭和20年(1945年) =京一中3年生=
    ・3月中旬、桂の三菱重工、海軍工廠に動員

=社会のできごと=
▼昭和19年 1944年
   1・26 東京・名古屋に初の建物疎開命令
   1・29 「中央公論」「改造」編集者検挙される(横浜事件)
   2・ 4 学徒軍事教育強化策決定
   2・19 東条、内閣改造、軍政両面を掌握
   2.25 決戦非常措置要綱決定
   3・ 5 歌舞伎座・帝劇などを閉鎖
   3・ 6 全国の新聞、夕刊廃止
   3・ 8 インパール作戦開始(〜7月)
   6・18 B29北九州を爆撃
   7・ 7 サイパン島守備軍全滅
   7・10 「中央公論」「改造」廃刊命令
   7・18 東条内閣総辞職
   8・ 3 テニヤン日本軍全滅
   8・ 4 学童集団疎開始まる
   8・10 グアム島日本軍全滅
   8・23 学徒勤労令・女子挺身勤労令公付
   9・30 大日本戦時宗教報国会結成
  10・18 満17歳以上を兵役に編入
  10・24 レイテ沖海戦で連合艦隊壊滅
  10・25 神風特別攻撃隊の出動始まる
  11・29 B29による東京初空襲
  12・ 7 東海大地震

▼昭和20年 1945年
   2・ 4 米英ソ、ヤルタ会談(ソ連、参戦を密約)
   3・10 B29による東京大空襲(死者8万余人)

=学内のできごと=
▼昭和20年(1945年) =京一中3年生= ----------------------------------------------------------12

    訓練期間後、工場に配属
   ・4月 中等学校令による修業年限修了者も5年修了者と同時に卒業する
   ・4月4日校長が府庁「釘抜き作業打ち合わせ」
   ・5月21日戦時措置として科学教育特別学級を設置
   ・5月26日湯川京大教授特別学級講話の為に来校
   ・6月26日学徒隊結成式
    ※空襲警報の文字しきり
   ・桂西方田地内で、グラマンなどの機銃掃射を受ける
   ・6月から一中体育館、修学院小学校に分かれ発動機の部品づくり
   ・7月ごろドーナツ事件・井戸の幽霊事件
    ※校内農耕作業頻繁に
   ・8月13日〜16日夏季授業休止
   ・8月15日炎天下で重大放送(玉音)を聞く
    ※8月30日マッカーサー一行着陸のため、OB土方利夫(昭和11)飛行場整備の任
「マッカーサー厚木到着」
                 
=社会のできごと=
▼昭和20年 1945年前ページよりつづく 
   ・3・22 硫黄島の守備軍全滅
   ・4  1 米軍、沖縄本島上陸



   ・7・26 ポツダム宣言発表
   ・8  6 広島に原爆投下
   ・8・ 8 ソ連、対日宣戦布告
   ・8・ 9 長崎に原爆投下
   ・8・14 ポツダム宣言受諾
   ・8・15 天皇、終戦詔書放送(玉音放送)
   ・8・17 東久邇宮稔彦内閣が成立
   ・8・30 マッカーサー厚木に到着
   ・9  2 ミズりー号上で降伏文書調印
   ・9  9 マッカーサー日本管理方式につき声明
=学内のできごと=つづき
▼昭和20年(1945年) =京一中3年生= ---------------------------------------------------------13

   ・9月まで使役。京工専、蹴上発電所、高野などで物資運搬に従事


  ・10・2日 米軍シーフェリン氏来校、剣道、柔道、授業を参観
  ・「隈部校長」
                   
   「マッカーサー元帥万歳!天皇陛下万歳!」と発声。生徒一同呆れる
  ※復学 上級生、先生の復員、帰任続く
  ・11月16日 米進駐軍調査来校3名
  ・冬ごろ、上級生に長髪者が現れる

=社会のできごと=
▼昭和20年 1945年前ページよりつづく 
   ・9・11 GHQ、東条英機ら戦犯者逮捕指令
   ・9・19 プレスコード(新聞編集綱領)指令
   ・9・20 文部省、戦時教材削除を通達(教科書墨ぬり始まる)
  ・10・ 4 GHQ、民主化指令(治安維持法廃止、思想警察全廃など)
  ・10・ 9 幣原喜重郎内閣が成立
  ・10・10 政治犯釈放(徳田球一ら)
  ・10・11 マッカーサー、民主化の5大改革を指令
  ・10・24 国際連合発足
  ・10・29 第1回宝くじ発売
  ・11・ 6 GHQ、財閥解体指令
  ・12・ 4 大学の男女共学制決定
  ・12・ 9 GHQ、農地改革指令
  ・12・15 GHQ、国家と神道の分離指令
  ・12・17 衆議院選挙法改正公布(婦人参政権など)
  ・12・22 労働組合法公布

=卒業は叶ったが・・・・・・= ------------------------------------------------------------12

「京一中の思い出 昭和18年から昭和20年」   魚木五夫(京一中昭和18年入学)
■はじめに
 私は昭和18年4月、京一中に入学した。当時、下鴨北園町の自宅は、一中敷地との最短距離約100メー
トルで、同級生の中では最も近くに住んでいたと思う。
 従って、学校の休日も夜中も、一中校舎を見続けていたので、今となればその記憶に、旧友には案外知ら
れていないこともある。
 ただ、今回は入学から3年生までの間に、体験した幾つかのトピックスについて、書いてみよう。
■学校教練のこと
 既に「あかね」誌上で紹介された諸兄の話の中に、度々登場した学校教練については、私は今でもその教
科書を完本で保存している。これは私が70年以上、収集家に徹していたことにもよる。
「学校教練教科書」
                   
 一中の教育は、文部省の検定教科書に基づいていたが、教練だけは陸軍省兵務課の編集による、教科書が
使われていた。最もなじみの深い術科之部前篇はポケット判で、専ら野外で行われた教練の授業に、携行す
ることが要求された。
 この最初の部分には、不動の姿勢や速行進といった基本的な動作が、図解で説明されていた。そして、1
年生の4月以降、各自にこれを守るよう、「カバ」と呼ばれた渡辺勝之助曹長殿から、みっちり指導を受け
た。
 教練教科書の内容は、大半は陳腐化した兵器の操作方法など、当時でも首をかしげる内容のものだった。
教練で使用していた三八式歩兵銃は、日露戦争直後に制定された旧式銃で、当時主要国陸軍が採用していた
自動小銃には、太刀打ちできないと、中学生にも感じられた。しかし、教科書の冒頭部分だけは、今でも教
訓とはなる。私は83歳の今日でも、この部分は健康長寿の基本だと考え、日々これを思い出すことにして
いる。
■課外活動、天文班
「屋上の天文台」
                   
 入学して間もなく、私は外活動のグループとして天文班を選び、これに加えてもらった。課外活動では、
何も強制されることは無かったが、驚いたのはすべてが一流の設備と、専門家の知識で固められていたこと
で、正規の授業とは雲泥の差だった。
 旧校舎屋上には、設立当初から立派なドームがあったが、その中には当時としては珍しい、口径10cm
の屈折望遠鏡が、時計仕掛けの追尾装置付き赤道儀として、設置されていた。また、先輩が使っていた星図
は英語表記であり、惑星の位置計算には、ベルリン天文台編集の、ドイツ語で書かれた簡易計算表を使って
いた。観測記録も国際天文連合に報告できる表記法を使用していた。
 中学1年生だったにもかかわらず、先輩から示された参考書は、ことごとく当時の大学教科書レベルの専
門書で、私はそのおかげで球面三角法という、新知識を身につけることができた。
 天文班に所属したお陰で、1年生の間に真夜中の屋上で何度も天体観測をした。校歌にある、「比叡の峰
にあかねさす・・・」という光景にも一中の屋上から接している。
 教室では到底味わえなかった一中時代の思い出は、この課外活動に繋かっている。

■京一中決戦歌集 ----------------------------------------------------------------------------------14

「決戦歌集」
                   
 京一中の重要文化財と、私が勝手に決めているのが、この「京一中決戦歌集」である。戦争の末期、昭和
20年3月20日に発行され、歌詞と楽譜6篇を収録、B7判13ページ、活版、オフセット印刷による小
冊子だった。作詞者はすべて当時の一中生で、応募作品から選定され、作曲はすべて「ピストン」こと音楽
の堀口謹治先生によるものだった。
 米軍のB29による、連日・連夜の空襲で目本全国が苦難を味わっていた最中に、よくこのような教材を、
準備されたと思う。
 私の記憶では、3年生の4月にこれが全校生徒に配布され、早速堀口先生がこれを授業で全曲歌唱指導さ
れた。その直後、私たち3年生は工場動員となったので、最後の授業の思い出にもなっている。
=学内のできごと=つづき -------------------------------------------------------------------------- 14

▼昭和21年(1946年)  =京一中4年生=
   ・2月15日秦先生復員帰任
   ・3月19日米国教育使節団第3班来校、文部省教育局長視察
   ・3月30日54回卒業式
   ・4月20日隈部校長退任、龍華校長に
   ※連日授業は昼まで
   ・8月12日「奉安殿」撤去
   ・10月28日 創立76周年記念式
   ・10月29日文化祭、
   ・   30日体育大会
   ※スポーツ・文化両面の中等学校全国大会など復活
   ・校内実力試験行われる (英・数・国など)

=社会のできごと=つづき
▼昭和21年(1946年)    ・1・ 1 天皇人間宣言の詔書
   ・1・ 4 GHQ、軍国主義者の公職追放・超国家主義団体の解散指令
   ・1・− 「中央公論」「改造」など復刊
   ・2・ 3 マッカーサー日本国憲法の草案作成を指示
   ・2・ 8 憲法改正要綱をGHQに提出
   ・2・17 金融緊急措置令(新円発行など)
         食糧緊急措置令を施行
   ・2・26 極東委員会、第一回会議
   ・2・−  第一次農地改革を実施
   ・3・ 1 第一回日本美術展(日展)
   ・3・ 3 物価統制令施行
   ・3・ 6 政府、憲法改正草案要綱発表
   ・5・ 1 メーデー再開
   ・5・ 3 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷
   ・5・22 第一次吉田茂内閣が成立
   ・7・ 1「尋ね人の時間」放送開始
   ・9・ 6 三井・三菱・安田など財閥に解体指令
   ・9・27 労働関係調整法公布
   ・9・−  国民学校用国史教科書「くにのあゆみ」刊
  ・10・21 第二次農地改革(農地調整法改正など公布)
  ・11・ 1 国民体育大会(第一回、京都・大阪)
  ・11・ 3 日本国憲法公布
  ・11・18 当用漢字・現代かな遣い告示   ・12・ 3「話の泉」放送開始
  ・12・21 南海大地震
■工場動員のこと ---------------------------------------------------------------------------------------15

 昭和19年以降、3年生以上は全員、軍需工場に動員されていた。私たちも、昭和20年の春には、三菱重
工業(株)京都製作所(当時右京区桂、現在の陸上自衛隊桂駐屯地付近)へ配属された。当時、ここは海軍
の監督工場となっていて、航空機用に空冷二重星型14気筒の「火星」発動機を製造していた。毎日、自宅
を午前5時半に出て、帰宅は午後7時を過ぎるという、一中通学とは打って変わった、きびしい通勤だった。
 6月には、軍需省の「工場秘匿令」により、全国の軍需工場は、コードネームで呼ばれるようになった。
桂の工場も「神武第八製作所」という新しい看板が掛けられ、工場内からは三菱マークが払拭された。
 その後、工場の一部は市内の幾つもの建物に疎開された。私のクラスは、幸い一中の体育館内に疎開され
た工場に、勤務することとなり、通勤も大幅に楽になった。
 体育館は基礎もしっかりしていて、建物が鉄筋コンクリート構造だったので、1階には数トンから数十ト
ンもの、各種工作機械が何十台と持込まれた。こうした機械類の搬入・搬出も、私たち中学生が大勢でロー
プを引張り、文字通り人海戦術で行った。
 終戦の8月には、私は12馬力のタレット旋盤を使って、軸承筺(ベアリングケース)の切削加工を任さ
れた。15歳という年少者にもかかわらず、8月15日の週は前夜10時から翌朝6時までの深夜勤務だっ
た。
 工場動員は、一中時代に経験した本当の実務経験となり、後に製造工業に就職してからも、大いに役立つ
こととなった。
=学内のできごと=つづき ------------------------------------------------------------------------------ 15

▼昭和22年(1947年)  =京一中5年生=
  ・2月 京一中新聞刊
  ・1部 4年修了者

  ・天野利武・府学務課長が一中校長を兼任
  ・5月1日京都市立洛北中学 に校舎の一部を貸与する
  ・文化祭京都新聞社ホールで
  ・運動会の仮装行列が人気
  ・10月25日創立77周年祝賀式挙行、本校最後の祝賀式となる

=社会のできごと=つづき
▼昭和22年 1947年
  ・ 1・ 1 新聞見出しの横書きが、右書きから左書きになる
  ・ 1・ 9 全官公労、2.1ゼネスト実施宣言
  ・ 1・31 マッカーサ一 2.1ゼネスト中止命令
  ・ 3・31 衆議院選挙改正公布(中選挙区・単記制)
  ・ 3 31 教育基本法・学校教育法公布、小学・中学が義務教育となる
  ・ 4・ 1 六・三・三・四制の新学制発足
  ・ 4・ 5 第一回知事・市町村長選挙
  ・ 4・ 7 労働基準法公布
  ・ 4・14 独占禁止法公布
  ・ 4・17 地方自治法公布
  ・ 4・20 第一回参議院選挙
  ・ 4・30 地方議会選挙(第一回統一地方選挙)
  ・ 5・ 3 日本国憲法施行
  ・ 5・20 第一回特別国会開会
  ・ 6・ 1 片山内閣成立(初の社会党首班.社・民・国協の連立)
  ・ 6・ 8 日本教職員組合(日教組)結成
  ・ 8・ 4 最高裁判所設置
  ・ 8・14 浅間山爆発
  ・ 9・ 1 労働省設置
  ・ 9・14 キヤスリーン台風で関東大水害
  ・10・21 国家公務員法公布
  ・10・26 改正刑法公布(不敬罪・姦通罪廃止)
  ・11・25 第1回全国共同募金運動
  ・12・17 警察法公布(警察地方分権化)

■昭和20年の一般事情 --------------------------------------------------------------------------------- 16

 昭和20年(1945年)は、世界史的にも変動が激しく、反面記録の極端に乏しい年であった。戦勝国で
すら、刊行物が少なく、現代史の盲点となっている。トイレットペーパーや、炊事の燃料等として、使い尽く
された。
 こうした一般的状況下では「京一中決戦歌集」も、残っていないのが当然だろう。私はこの昭和20年の出
来事を、「記憶」から「記録」に移す作業に取り組んでいる。それは、歴史的事実を後世に残す、私たちの使
命ではないかと思うからである。(一般財団法人切手の博物館相談役・前館長 産業能率大学名誉教授)

=学内のできごと=つづき ------------------------------------------------------------------------------ 16

▼昭和23年(1948年)
  ・「一中」消滅の報伝わり一中前・出町などで反対を 訴え街頭署名運動を展開
  ・3月5日 卒業式
「卒業式に授与された体育賞(木寺氏所蔵)」
                   
  ・龍華校長辞任、奥谷校長就任
  ・四月一日京都府立洛北高等学校(第一次)発足、鴨沂高校内に移転同居
  ・併設中学校(新制3年)発足
  ・10月15日高校再編成、洛北高校(第一次)閉幕

昭和20年5月20日号「週刊朝日」と2月11日号「週刊毎日」魚水氏所蔵 「週刊朝日、週刊毎日」

                   
=社会のできごと=つづき
▼昭和23年(1948年)
  ・ 1・26 銀行員12名毒殺、現金強奪(帝銀事件)
  ・ 2・10 片山内閣総辞職
  ・ 2・10 芦田均内閣成立
  ・ 4・10 新制高等学校発足


  ・ 6 13 太宰治、入水自殺
  ・ 6 19 衆参両院、教育勅語など失効・排除の決議
  ・ 6・28 福井大地震(死者3,769人)
  ・ 7・15 教育委員会法公布、
  ・ 7・20 国民の祝日法公布、九つの新祝日を決める
  ・ 8・19 東宝砧撮影所で争議(東宝争議)
  ・ 9 15 主婦連結成
  ・10・ 1 警視庁「110番」設置
  ・10・ 7 昭和電工の贈賄事件で芦田内閣総辞職
  ・10・19 第二次吉田内閣成立
  ・11 12 極東国際軍事裁判判決(東条ら7名絞首刑執行)

「年表はわれらが一中時代より抜粋」

                   
「学園は自由の永久の幸」=戦中・戦後の一中に学んで= 玉村文郎-----------------------17

■去にし繁栄=偉大な先輩
 国語は岩波の『中等國語巻三』から教わった。よそでは2年が使う教科書だった。文法の教科書が別にあり、
『新文典口語篇』を使った。高橋貞一先生は最初の授業で「この本の著者は君たちの大先輩だ」と言われた。
東大教授橋本進吉博士であ名。後年自分が言語学・国語学を専攻することになろうとは、その時は思ってもいな
かった。高橋先生の文法の時間は面白くはなかったが、3年の秋から冬にかけて『平家物語』の終章小原御幸を
習ったときは違った。先生は平家の専門学者で、すでに大部の研究書を出されていた。
 1年生の秋、湯川秀樹先生が講演に来られた。物質の構造に関する話だが、よく理解できなかった。「エナジ
ー」という言葉とお顔の白さだけが印象的だった。
 橋本・湯川の大先輩をはじめとして、一中にはすばらしい先輩が多い。教員にも一中卒が多く、一中から旧制
の高校・大学に栄転される方も少なくなかった。三高や京大よりも早く、明治3年に創立された京一中の伝統な
のか。

 いつも、
      去(い)にし繁栄(さかえ)に、憧憬(あこが)れて
  行手ヽ忌るゝものをらじ


   という校歌の一節が胸中にあった。

■敗戦までの日々

 入学した昭和18年(1943年)は、日本の敗色が濃くなり始めた年であった。政府は食糧統制・軍事教練
の強化、学徒出陣・学童強制疎開・学徒動員などを行って、持久戦に備えた。3年生以上が動員対象だったので、
通学するのは1・2年生のみであった。
 1年生の秋から学業を離れて高野川堤などの防空壕掘りや近郊農家援助などに動員された。2年生になると登
校日はさらに減り、街路造成などにも動員された。現在の拡幅された堀川通などは、わたしたちが家々を壊して
成ったもので、大黒柱にワイヤをかけて30人ぐらいが一気に引っ張って倒した結果現出したものである。爆撃
による民家延焼の防止と軍用機離着陸のための道路拡張であった。10日ほどで家を明け渡した西陣の織屋さん
たちは大変だった。
 2年生の晩秋から毎夜20人ずつが学校に残り、夜警にあたることになった。校舎3階の教室に被災者救援物
資が収蔵されたために、5人ずつが木銃をかついで、暗い廊下を15分ごとに巡回した。物資は寝具だと聞かさ
れていたが食糧もあったらしい。

■軍需工場で玉音放送を聴く

「昭和18年津浜泗水訓練の記念写真 玉村さん、前田さん、川端さんも」
                   
 3年進級前の3月半ばから桂の三菱重工海軍工廠に動員された。当初は工場移転のため、旋盤やレンガなどを、
旧逢坂山トンネルや高野や一中に、トラックで運び続けた。初夏の頃から1、2組は一中の体育館の工場で、3
〜6組は修学院小学校の工場で、航空機の部品製作を始めたが、もちろん製品は使用されるには至っていない。
 8月15日正午、学徒と工員は重大放送があるので校庭に整列しろと言われた。「耐がたきを耐」「乏しきを
かち」という玉音は理解でき、いよいよ本土決戦の覚悟をせねばと思った。が、工員たちの反応は違った。工場
長は「追って本部の指示があるまで、職場に戻り作業を続けよ」と指示したが、機械の前に戻る工員はいなかっ
た。
 難解な漢語の多い勅語を、性能の悪いラジオで聞かされた工員たちは、肌で日本の敗北を感じ取った。前年1
2月に名古屋大空襲と東海大地震で大打撃を受けていて、日本が早晩負けることを知っていたのである。漢文を
少々習っていたのに放送の意味が解せなかったのはなぜかと今もわたしは自問している。

■学閲は自由の永久の幸−戦後の学校− ----------------------------------------------------------------- 18

 9月上旬、学校に戻った。夜も電灯に黒いカバーを付ける必要がなくなり、ゲートル(巻脚絆)を巻かなくて
もよい生活になり、4・5年の上級生も学舎に帰ってきた。
 4年生になってクラス委員も選挙制になった。全校生か揃った運動会の仮装行列、文化祭などが楽しく行われ
た。
「22年秋、京一中名物仮装行列も開催(柳昭一氏所蔵)」
                   
「買い出し列車は超満員」
                   
 戦争は終わったが食糧事情は悪化する一方で、冒頭に記した橋本進吉先生は栄養失調でなくなられた。あちこ
ちにヤミ市が出現し、ヤミの米、麦、芋を運ぶ買い出し列車という文字が新聞によく登場した。授業がほとんど
昼までだった。弁当を携行できなかったためである。一番困ったのは2・3学期の期末試験時の勉強である。病
院・公園・進駐軍用建物以外は時間配電だったので、暖を取る電熱器と電気スタンドが継続しては使えない。
〈蛍雪の功〉ではないが、数個の皿や缶に蝋を溶かし芯を入れて、順に火をつけて復習した。それでも、防空壕
に急ぎ避難するだの、寒風吹きすさぶ校庭で〈三八式小銃〉の銃底を掌で支えて駆けさせられるだのがなくなっ
て、はるかにましてあった。
 戦後着任の龍華校長は短い在任中に。欠員教員の補充に尽力された。弁論部やラグビー部が全国大会で優勝す
るなど、学園らしい活動が展開された。卒業直前の昭和23年(1948年)早春、進駐軍教育顧問の命により、
一中が閉校になり、校舎が新制中学に使われるという噂を聞き、級友と街頭で反対署名集めを展開したが、効果
はなかった。六・三制の義務教育重視策のあおりを食ったわけである。
 思えばわが京一中時代は修学旅行がない、写真がない、自由がない、ナイナイ尽くしであった。数年先輩は、
隔年に4・5年生合同で朝鮮半島・旧満州(現中国東北部)・華北を1ヵ月かけて周遊する豪華版の修学旅行を
していた。戦後の物資欠乏のタケノコ生活の中では考えられないことであった。万事配給制だったので、切符な
しで買えたのは漬物ぐらいであった。戦争に翻弄され、5年の学業も実質4年に満たないものであった。
 しかし、戦後、校歌の「学園は輝く永久の幸」が「学園は自由の永久の幸」に復元された。選択科目で〈創作〉
などが設けられ、課外の蜂矢宣朗先生による『万葉集講話』読書会などに参加でき、楽しい学園生活が送れたの
は幸いであった。近衛に学校があった頃、湯川秀樹、新村猛(『広辞苑』編集協力者)らの先輩が出していた同
人誌『近衛』を復刻、同人の末席に連なったこともなつかしく思い出される。淡いものながら、その頃は「光の
海に帆を揚げて」という自負もあった。わが京一中時代は、やはり良き学び舎、良き師、良き先輩、良き友に恵
まれたものであった。
 教育制度史を研究する人の間ではわたしたちの年代が、常に関心の的になるが、資料乏しく調査が困難である
と聞く。学制改革の影響を最も深刻に受けた学年であった。
(一般財団法人 新村出記念財団代表理事・同志社大学名誉教授)

「学制改革と23年卒業生」  柳昭一 -----------------------------------19

■学制改革は戦前から

 我々の年代は終始学制改革の渦の中で学校生活を過ごして来た。私は一中の同期の皆さんと共に過ごしたのは
2年半の短い期間だったが、私の経歴を通じて、学制改革を振り返って見たいと思う。
 昭和5年3月大阪で生まれ、昭和11年4月尋常小学校に入学する。2年生のとき支那事変が始まり、間もな
担任の先生が陸軍中尉で勇ましく出征していった。昭和16年から小学校が国民学校となり、その年の暮れハワ
イ、攻撃によって米英との闘いの火蓋が切られた。翌17年に小学校に入学しながら国民学校卒業ということに
なり、これが最初の学制改革との出会いとなった。
 中学校に入学して、最初のうちは通常に授業が行われていたが、2年生、3年生になるにつれ、勤労動員の回
数が増え、1週間、2週間の単位で市内の防火用貯水池掘りや、日立造船所・八尾飛行場などに駆り出された。
昭和19年4月には中学の修業年限が5年制から4年制に短縮され、1年上の先輩は4年で卒業していった。更
に20年4月からは授業停止となり、フルタイムの勤労動員が始まった。ほとんどの仲間は工場へ行かされたが、
私たち5名は阪大理学部の数学教室へ派遣され、コンピューター代わりに、毎日ソロバンと手回しのタイガー計
算機に7桁の数表を相手に単純な計算を1日中やることになった。後に聞いた話によるとジェツトエンジンのタ
ービン羽根型の計算だったらしい。8月15日の玉音放送は中之島の阪大理学部で聴いた。
 9月になって授業停止もなくなり、4年制も元の5年制に戻り、半年間の空白を埋めるべく、詰め込み授業が
始まった。6月に空襲で焼け出され、幸い京都烏丸通一條に祖父が隠居していたので、そこへ家族全員移り住み、
毎日京都から大阪まで片道3時間弱かけて通った。空が白み始める頃家を出て、北山のねぐらから南へ向かって
何万羽とも知れず天の川のように連なって飛んで行く雀の群れと共に京都駅へ向かう毎日だった。当時京都から
大阪へ通う人も大勢いたが、高槻から先は超満員で乗り切れない人がホームに溢れていた。帰りは通勤用の米原
行き貨物列車が来ることもあった。貨物の車両は満員では無かったが、扉を閉めると真っ暗で、話声もほとんど
無く、ただ車輪の音を聞くだけの京都までの1時間弱は異様な雰囲気だった。ときには牛馬を運ぶ家畜車やトロ
ッコのような小さな無蓋貨車の事もあり、冬は寒かったが最高に開放感があった。京都駅からは市電だが、下り
は快調でも、上りは電圧低下で薄暗い電灯を灯しながらあえぎあえぎの走行、烏丸中立売と今出川の中間でほん
の僅か勾配が急な所へ差し掛かると速度が落ち、うまくゆけば家の近くで飛び降りることも出来た。こうして家
へ帰り着くのは毎日8時頃だった。こんな状態で後1年大阪まで通い続けるのも大変だと考え、京一中への転校
を決めた。

■京一中との出会い、そして一中の終焉 ------------------------------------------------------------------- 19
 昭和21年3月京一中への手続きをして、転入の許可を得たが、4年生への転入だった。大阪で4年を終了し
て再度4年生かと、校長官舎へ出向き隈部校長に直談判に臨んだが、本校は最高学年への転入は一切認めないこ
「隈部校長」

                   
とにしていると、若造の転人生には取り入る隙も無かった。親父も「戦争に負けてしもうたのや、1年ぐらいえ
えないか」と言うこで、4年編入に決着した。
 4月から京一中生として通学を始めてみると、私は早生まれなので仲間との年齢差はあまり感じ無かったが、
同じように大阪や神戸などからの転校生や海兵予備校や陸軍幼年学校などからの編人生もいて、年上の親父顔も
混じっていた。翌年5年生になった年から、学制改革の6・3・3制への移行が計画的に始まり、我々は5年卒
業後、旧制高校などへの進学か、そのまま新制高校三年に移行するかという道が示されていた。
 昭和22年の暮になって、新制中学が義務教育となったため、小学校卒業生全員を収容する校舎が無いという
理由から、旧制中学から新制高校への移行時に学校を集約し、空いた校舎を新制中学に振り向けることになり、
一中下鴨校舎も新制中学への明け渡しが具体化してきた。先生方も反対を表明し、我々生徒会でも反対運動を始
めた。この方針は鳥丸四條のGHQ内のCIE(民間情報教育局)の指示で進められた。平穏に新制高校に移行
を望んでいる他の中学校・女学校も大なり小なりの被害は避けられず、それぞれの反対運動を集約しようと、市
内の中・女学校に呼びかけた。正式の名称は忘れたが「京都公立中等学生徒会連合会」を発足させ、当時一中生
「当時の生徒会長牛込邦三君」

                   
徒会会長の牛込邦三君が、連合会会長も引き受け、反対運動の進め方の相談や情報交換をして、府庁、市役所、
GHQへの陳情を行った。また、旧制中学まで手を出さなくても、小学校の範囲で賄えるのではないかと、手分
けして市中の全小学校の教室数と机の数を調査集計したこともあった。これらの生徒会の自主的な行動には、生
徒会担当の中井寛吉先生、田代善信先生等の支援も大きかった。しかし泣く子とGHQには勝てず、強引に推し
進められ、下鴨から追い出される結末となった。これらの折衝では当時の岡田教頭が立場上最も苦労されたので
はなかろうか。
 とにかく京都一中の卒業式を終え、下鴨校舎とのお別れに、プールの中でファイヤーストームをしていたら、
「卒業証書 柳昭一氏」

                   
途中で消防自動車が運動場に入ってきたという事件もあった。また、もう時効になった話だが、生徒会の仲間で
どぶろくをぶら下げて校長官舎で校長を交えて前代未聞の打ち上げ会も開いた。当時の中学生は悪ふざけもよく
やったが、他人に迷惑を掛けることは無く、世間からも大目に見てもらえる時代だった。

■命短き洛北高校へ ----------------------------------------------------------------------------------- 20

「昭和23年に洛北高校発足後、牛込生徒会長から2年生の新生徒会長に引き継いだときのもの、小寺暢部君か?」
                   
 4月になって新制高校が発足し、二中は洛南高校(現在の洛南高校ではい)、三中は山城高校となり、洛北高
校は鴨沂高校と嵯峨野高校と共に元府一校舎に同居し、午前は鴨沂と嵯峨野が、午後は洛北が使うという変則的
な授業が始まった。校長も3人いて、鴨沂と洛北の校長室は教員室の傍にあったが、嵯峨野の校長室だけは何故
か玄関脇の小部屋があてがわれていた。この校長室へは隣の放送室から出入りするようになっていた。校長不在
だと思って放送室でバカ話をしていたら、話が筒抜けで、オイランこと吉原校長が笑いながら「お話が弾みます
ね」と出てきて、こちらも赤面する一幕もあった。鴨沂での洛北時代、当初は広い運動場がない、男子便所が少
ない、階段の段差が低すぎるなど不便を感じる事も多かった。洛北の先生方は概ね大らかだったが、鴨沂の先生
や特に府一同窓会の面々は、神聖な校舎に男子が土足で入っで来たと些か刺々しい雰囲気もあった。そんな中で、
結論は忘れたが、生徒大会で校舎内での下駄履きは可か否かといった討論会もあった。
 それやこれやでなんとか高校生活はスタート、次は男女共学、学区制、学校再編がこれもCIE(民間情報教
育局)主導で進められた。その結果、九月末を持って、洛北・嵯峨野は廃校となり、生徒の大部分は鴨沂高校に
残ったが、御所を挟んで烏丸通から西、今出川から上で鴨川以西の居住者は、朱雀、山城などの他校へ転校させ
られた。私は元府二の朱雀高校へ変わるこになった。朱雀高校には僅か半年で、あまり記憶に残っていない。男
女18歳で席を同じくしたが、洛北高校時代の準備期間もあり、それほど違和感は無かった。しかし驚いたこと
に、各組は男女2人の先生が担任で、先生方の方が男女の生徒の扱いに戸惑っていたのでは無いだろうか。朱雀
では、洛北・鴨沂・嵯峨野から移った仲間以外とはほとんどつきあいも無く、放課後は昔仲間のいる鴨沂高校へ
しばしば出かけていった。こうして私の継ぎ接ぎの中学・高校生活は終わった。
 洛北高校は半年で消滅したが、幸いにも一年半後に下鴨校舎に復活した。新制中学校の教室が足りないとあの
とき大騒ぎをしたのは何だったのか。元二中の洛南高校も洛北と同じ運命をたどったが、こちらは気の毒にも、
鳥羽高校として復活するには30数年の歳月を要した。

■80路の23年卒 --------------------------------------------------------------------------------- 21

 大学卒業後、私は石川県小松市に勤務したが、数年たって現地の一中大先輩と知り合い、同窓会をやるから出
席しろといわれて出かけたところ、石川県知事、金沢大学教授、金沢の老舗の旦那など蒼々たるメンーばかりだ
った。同窓会北陸支部は富山・石川・福井3県で構成されていたが、集まるのは石川県のメンバーが主体で、名
簿を見ると洛北高校卒業生も入っていたが、同窓会への出席者はなく、当時の私は永遠の最下級生だった。
 昭和41年に東京に転勤になり、その間、同期の仲間とはほとんど音信不通だった。しかし、いつ誰から声を
掛けられたのか記憶にないが、新橋の第一ホテルの地下のバーで久しぶりに再開した。そこで誰かの提案で、一
中23年卒にちなんで、1月23日の夜は、この場に誰かが来ているということで都合の付く人が集まるという
ことになった。その後次第に人数も増え、幹事を決めて開催することにし、「東京123会」という名称も決め
た。東京近郊の在住者、出張などで東京を訪れる人をメンバーにして、かたくなに1月23日にこだわりながら
今日に至っている。
 平成11年からは関西からの出席者の便も考え、毎年会場を東京會舘に決めている。
 定年で関西へ帰った仲間や、体調不良での欠席者が増える中、22年には常連の亀井龍夫、小堀鉄夫、中村康
雄の3君が逝去され、急に淋しくなった。このまま会を続けるかの話し合いもしたが、出席出来ない仲間とも毎
年便りを交わすことにも意義があり、出来るかぎり続けようということになった。しかし、10数年毎年世話に
なってきた東京會舘も再来年からビルの建て替えのため使用出来なくなり、新しい会場への移転を余儀なくされ、
我々にとって再び試練の場がやってきたが、23年卒の絆を保つため、最後の一人になるまでこの会を続けるこ
とこそ、80路を歩む我々の生きがいではなかろうか。

「学制改革の混乱の中」        前田 理 ------------------------------------- 21

 私が入学したのは昭和18年4月、日米開戦から日本が東南アジア地域を占領し、戦況が落ち着いていた時期
であった。この頃京都府では中学入学の完全な地域制が実施され、私の在学していた第二錦林国民学校は京都一
中の学区と見られていた。入学選抜は内申と口頭試問で、二錦の私の組は全員合格、一中で私の配属された1年
6組には二錦からの数名と小学5年まで在学していた北白川校からの数名がいて、全く心強かった。1年の間は
全く正常の授業が進んだが2年になると戦況が緊迫してきて上級生はどこかの工場へ動員された。男手を応召で
失った農家への手伝いをする農業動員が始まり、我々も稲刈りなど全く今まで経験したことのなかった農業作業
を手伝った。
 昭和20年3月になると学徒動員で三菱重工の桂工場に動員された。この工場では海軍戦闘機のエンジンを製
造しており、戦況が厳しくなってきて工場を各地に疎開する作業にたずさわり、一中の体育館などにも工作機械
が運び込まれた。それがほぼ完了すると我々は修学院小学校へ配属され、1日3交替の勤務、8月15日は午後
3時から勤務の日で、終戦の放送は家族とともに家で聴いた。
 9月からの授業再開後については、その内容など不思議にも入学当初の頃に比べてあまり覚えていない。教科
書はなかったのか、英語だけは小泉八雲の「怪談」が使われたのを覚えている。戦争中に応召を受けられた先生
も多く、先生がめまぐるしく替わった。戦中にはすべての先生に一中独特のユニークなあだ名がついていたが、
戦後になるとこの伝統が続かなくなった。カリキュラムも教練、武道などが無くなり、各先生が工夫して教科内
容を作っておられたようで、先生によってはかなり高度の内容があったように思う。
 戦後は米軍占領化で次々と施策が打ち出され、上級学校への入学試験に進学適性検査(昭和22年〜29年ま
で文部省管理の下で行われた)が加わった。これは全国共通のテストであるが、現在の共通一次試験とは全く異
なる。詳しくは覚えていないが、読解力中心の心理テストだったように思う。私はこれが不得意で、良い成績を
とれなかったと記憶している。旧制高校の入学試験で私は三高を受験して落ち、新制度への移行の混乱をまとも
に受けることとなる。洛北、鴨沂、嵯峨野の3高校が府一女の校舎で午前、午後の2部授業から始まり、9月に
は高校再編成で桃山高校に移り、西京大学(現京都府立大学)、京大大学院農学研究科農林生物学専攻と研究者
の道を進む。大学卒業時の昭和28年には旧制大学と同時卒業、朝鮮戦争で景気は上向いたとはいうものの、ま
だ就職難時代であった。我々は当用漢字を全く教えられたことはないし、今でも間違って古い漢字を書くことが
あるが、便利なことにはパソコンを使えば当用漢字に書き換えてくれる。何れにしても旧制新制の境の我々の世
代が戦後の復興を支えてきたという自負心を私は持っている。
 一中に人学して開もなく湯川博士の文化勲章受賞が発表された。その朝の朝礼で校長が報告されたのを覚えて
いる。後に来校されて講堂で講演されたが、内容はさっぱりわからなかった。中間子の存在を予言する論文を発
表されたのは28歳、文化勲章が昭和18年、ノーベル賞受賞は戦後の昭和24年、42歳の時で、戦前に既に
36歳で博士の業績が日本国内で高く評価されていたのは興味深い。
「京一中先輩、湯川秀樹博士氏昭和24年ノーベル賞受賞」
                   
 もう一つは入学直後から弁当を盗まれる事件がたびたび起こった。私の組は出入り□近くの特定の人が被害を
受けたので私の組ではないと思ったが、隣の5組のある生徒が捕まり、退学処分となった。現在の飽食の時代で
は考えられないことだが、一流の伝統ある中学に入りながら、その後どのような人生を送られたか、仲間として
残念な気持さえする。

■大学教員級の先生に教え受く --------------------------------------------------------------------------22
 私は一中1年からクラブ活動で生物班に所属していた。入学時の生物の先生は金井千仭(ちひろ)(ホロ)、
荒木益次郎(うどん)の両先生、金井先生は脊椎動物から原虫まで多くの動物の種類を系統的に一年をかけて詳
しく説明された。荒木先生は教科書に準じた授業だったと思うが、戦中から手薄になった一中の事務方を支えて
おられた。奥野春男先生は戦争中特別学級が創設された際赴任してこられたと思う。電子顕微鏡を使っての先駆
的研究をされており、珪藻の写真を多く見せていただいた。後に京都工芸繊維大学に移られる。小学生時代から
昆虫を集めては図鑑で名前を調べてきたが、高学年になるとそれだけでは満足できず、将来のことも考えいろい
ろ模索した。このころ大学教授級の先生が次々と赴任され、千野光茂(前京大理学部動物の助教授)、大垣昌弘
(後に大阪府立大学教授)、正垣幸男(後に名古屋大学医動物学教室助教授)伊藤盛次(前京都繊維専門学校教
授)の諸先生、3高校寄せ合い時に嵯峨野高校、鴨沂高校におられた森下正明(後に京大理学部教授)、伊藤五
彦(後に京都教育大教授)の諸先生には共に接した期間は短かかったが、私白身も当時の生物班の人たちもかな
り影響を受け、研究者の道を進んだ人が少なくない。
 当時の生物の先生の中に復員されたばかりの千葉尚二先生が昭和23年、礼文島での皆既日食の観測に参加さ
れた。研究者の友人の手伝いで同行されたとのことで、帰られた後土産話を聞かされた。当時の新聞記事から自
分が80歳を越えて間もなく日本列島横断の日食があるとの情報を覚えていて可能なら中心線上のどこかで見た
いと思っていた。幸い昨年5月21日その時がやってきて、静岡県御前崎近くの海岸で500oの望遠レンズに
デジタルカメラを取り付け午前7時30分から1分間雲の晴れ間から6枚の写真を撮影できた。その幸福な人生
のひととき、私は干葉先生の笑顔を思い浮かべていた。

静岡県御前崎近くの海岸で500oの望遠レンズで(前田氏撮影)
「日食」
                   
「1945年の春秋」 ----------------------------------------------------  安田 泰次 23

■稚内で漁業に従事
 私は昭和20年(1945年)4月、一中3年6組になってから、父の仕事の都合で北海道最北の北海道庁立
稚内中学校(現稚内高校)へ転校した。丁度その日は勤労動員出発日で、教室でのあいさつが終わるや、西も東
もわからないまま、私は、初めて会った級友一人と私の2名で、野寒布岬を日本海側へ回り、さる漁家へ配属さ
れ5月20日までの凡そ40日あまり住み込みで鰊漁場に従事した。
「小樽の鰊御殿」

                   
 午前4時”アンちゃん起きれ”の号令で起床、直ちに磯船に乗って前夜の9時過ぎ仕掛けておいた刺し網を引
き上げに行く。真ツ暗な海に4人乗りの磯船は木の葉のように揺れ、当初は仕事どころか船酔いばかりで京都か
らきた青白き痩せた少年は足手まといだったであろう。肌を刺す寒風と時としてやってくる猛吹雪の中での作業
は船縁りと海面がすれすれになる大漁で、海岸一帯が乳白色と化した群来、数の子や白子を取出して作る身欠き
鰊、大釜で鰊を煮て圧搾し、油を搾りとったあと農耕肥料に仕立てるなどなど、見る聞く為す総てが晴天の霹靂
だったが、不思議と苦に思わなかったのは眼前に屹立する利尻富士の美しいシルバリーや雄大さに魅かれ、言葉
は荒いが気は至って大らかな人達が、ともすると孤独に陥りそうになる私を助けてくれたのであった。
 一旦、学校に戻った級の生徒は3班に分けられ、私の班はオホーツク海岸の頓別にある水産加工場へ赴いた。
ここでは海から揚がってきた魚類を、とりわけ困惑したのは淡緑色の肌をした体長1 5〜2m程の鮫を刃渡り
40センチの包丁で腹を切り、軍手をはめた手で内臓物を取出して鮫を切り、澱粉や小麦粉と練り合わせて竹輪
を製造する仕事であった。初めは気持ち悪かったが半日もすると慣れてくる。これは陸軍へ納入するとのことで
あった。
 7月に入って頓別からオホーツク海岸を北上し最北端の宗谷岬の近くにある寺の本堂で寝泊まりしながら眼前
の海に膝まで入り、出来る限り海藻の付いた石を拾い上げる仕事であった。夏ではあったが宗谷の海は冷たい。
海軍将校の指揮で5〜6分毎に交替して海岸に薪を積み燃やしながら暖をとる。これは宗谷海峡に出没する敵の
艦船迎撃用砲台の台場であったが、私達の作業場近くで橙色の、更にその向こうには青色の、それぞれ作業服の
一段が厳しい監視のもとで作業をしていた。ここでも4週間で作業は終り、そのまま列車を乗り継いで網走管内
の留辺蘂(るべしべ)で下車し各自の寝具や衣類を入れた手荷物(1986年国鉄がJRになる時に廃止になっ
たチッキ)をトラックに積み、その上に我々が乗って20数粁山中にはいった裏大雪にあるイトムカ水銀鉱山へ
行った。
 ここでは山から掘り出した土を剣先スコップで鋼鉄製の箱に入れ、空中ケーブルで選別工場まで運ぶ労働であ
った。生徒の居室は畳敷きでなく疏敷きで蚤と風に悩まされ、痒いので無意識に掻き上半身は傷だらけとなった。
砲台の台場を築く作業から鉱山に来ても新聞は読めず、ラジオは一切聞けない状況が続き、あの戦争の終止符が
打たれた8月15日も過ぎた18日に知らされポツダム宣言も広島・長崎の惨状も空爆された程度で、よくわか
らないまゝ晩夏となった。
 9月2日、今は原発廃棄物処理で一躍有名になっている幌延村(今は町)へ移動し、私の班は分散して村内の
問寒別(といかんべつ)の農家へ級友2名と私が住み込みで農作業に従事することになった。母屋の茶の間に入
って先ず驚いたのは身長が2bをゆうに越す黒の毛皮が敷かれていて、4年前に母屋のすぐ傍の食糧納屋に冬眠
前の餌を求めに来たところを、ハンターでもある主人が射止めたという。米作北限を超えた畑作農家で、当時は
未だ機械化されておらず、馬鈴薯は鍬で、燕麦や蕎麦刈りの外に家畜飼料用の牧草やトウモロコシ(北海道では
トウキビという)の茎等をサイロに詰め込んでいく作業が主であったが、一番難渋したのは牛馬の扱いであった。
初めは主人から扱いのイロハを教わっでも私など見透かれているのか、不機嫌な時は牛は私に向かって突進し、
馬は前足を高く上げ鼻息が荒い。競走馬と違って胴体や脚は大きく太く重量運搬軌馬で、一人で手綱をもって作
業する時は恐怖心を憶える時もあったが、幾度も振り落とされながらも裸馬に乗れるようになった。 一日の仕
事が終わると級友と交代で200m程離れた小川へ裸馬に乗り水を飲ませに行く。10月も中旬になると道北は
夕闇が早く寒い。冬眠前の羆(ひぐま)が越冬に備え、山葡萄やどんぐり等の餌を求めてやってくると聞くと、
馬が急に動かなくなったり、放牧中の牛を連れ戻しに行った時、急に失踪し始めたりすると羆が近くに来ている
のではないか、「絶対に背中を見せて逃げては駄目だあ」と聞かされていたので、缶を叩いて思わず知らず一中
の校歌や決戦歌集の「健児の歌」(壮行歌)など無我夢中になって歌いながら震えている自分を支えているので
あった。
 10月下旬、根雪となったあと馬鈴薯でんぷん製造専門となり、11月15日勤労動員は終わった。11月下
旬から授業が始まったが、家族で私のみ12月20日京都へ向かって発ち25時間かかって函館着、函館では米
軍の北海道進駐が優先の為、空襲であちこち天井に穴が開き夜空の見える函館桟橋待合室で4泊5日足止めされ、
秋田・新津の駅待室で寝泊まりして京都についたのは暮れもおしせまった29日であった。
 明けて昭和21年(1946年)1月の3学期から京一中へ復級した。この7ヵ月余の勤労動員中に家族の元
へは一泊二日しか帰宅出来なかったが、北海道の漁家や林業・酪農業の子弟たちは私の体験など特別な事ではな
いことを時の経過とともに知るに至った。
 併し、寝食を共にして、時には苦しい辛かった事もあったが、互いに助けあい励ましあい乍ら過した中三時代
の春秋は貴重な体験を通して心身を鍛えてくれたと今でも思っている。

 「戦争とともに歩んだ大学校生活とその〜思い出」   藤田 清 --------------------- 25

 私の生まれたころ、満州事変が始まり、小学5年生の12月8日、真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争となり、
一中3年生の8月15日、学徒動員で飛行機のエンジンを造っている時終戦となった。夜勤明けの正午ごろ、寝
ぼけ眼をこすりながら聞いたことを覚えている。
 天皇陛下のお言葉は、まったく意味が分からず、あとで解説を聞きながら、母親に「戦争はまけたんですよ」
と云われても、只、唖然としているだけだった。
 翌年、遠足で比叡山に登った時、峠を越えていくと広大な琵琶湖が見えてきた。そしてそのむこうにははるか
にかすむ富士山が・・・終戦直後ですべての産業活動が止まっていたからであろう。
 その風景に打たれた私は、早速、琵琶湖でヨットで遊びを始めた。ヨットの操縦は復員して来た浜岡先輩が教
えてくれた。夏休みになると意気込んで出かけたが風がなくて動けなくなった。
 翌年懲りずに挑戦した。今度は野洲まで行けたが、そこで風が止まって動けない。
 漁師さんの家に泊めてもらって1週間風が吹かない。諦めて帰った。そこで気象の勉強をして、夏休みの前半
は、梅雨明けの10日、といって1年中での吹かない時季なのだ。と解った。
 それなら・・・蔵の中で埃をかぶっていたジョンソン9.8hP(馬力)の船外機(1928年型で私の生まれる
前に親父が遊んでいたものだが終戦直後で新品は手にはいらなかった)を持ち出して自分で修理してヨットのト
ランサム(後尾)につけて走ってみた。(モーターボートは最後にジープのエンジンを使って自作した。この話
も面白いがまたの機会に話そう)
「ジョンソン船外機」

                   
 そんな頃、瀬田の唐橋を潜って瀬田川を少し下ったところにある京都大ボート部の艇庫まで行ってしまった。
そこで高木公三郎先生と運命の出会いをしたのである。ここで先生ご自作のファルトボートに乗せてもらって、
カヌー遊びを始めたのである。最初の一漕ぎは瀬田川添いの柳の下、燃えるような若葉をかきわけるように、自
分自身も燃えるような若葉色に染まりながら、漕いだことを覚えている。
 高木先生はベルリンオリンピックに派遣され、次回1940年に開催される筈であった東京オリンピック(戦
争が始まって中止になったが)で当時まだ我国で誰もやっていなかったカヌー競技を視察してこられたのである。
そこで先生は引き受けねばならず、そのためオープン競技で御婦人や子供たちが遊んでいたファルトボート(折
り畳み式の2人乗りカヤック)に興味を持たれた。
「1936年頃のドイツの風景。高木先生が持ち帰られたアルバムより」
                   
 これは当時クレッパーという会社が遊用のツーリングカヤックを折りたためるようにして売り出したもので、
当時、ドイツで休日になると、市民が我も我もと、この折り畳みボートを担いで出かけ、ファルトボーと専技用
カヌー各種目一隻づ「合計5隻とこの遊び用折り畳みカヤックも持ち帰られた。
 しかし翌年、日中戦争がはじまり、この艇も先生のご自宅の倉の中に埃を被ったまゝ放置されたのである。
 先生は大戦争中から9年間、中国で過ごされその間汪兆銘主席とお付き合いがあり、その中で先生は中国の教
え「遊ぶ事と仕事をする事、そしてお付き合いの3つのバランスを考えてやりなさい」というのに感服された。
 戦争が終わって翌々年、帰国されると早速、倉の中で埃を被っていたクレッパーのファルトボートを持ち出し
て奥さんと2人で試されたが、ドイツ製は欧州大の汽船も往き交う大河に合わせて造られた舟の為、島国のせせ
らぎのような我が国の川では底が支えて下ることもできなかった。そこで先生は我が国の川、当時まだ小さかっ
た日本人の体格に合わせて小型のものを作られたのである。我が国のカヌーの遊びは先生のこのファルトボート
から発展してしてきたのである。そして、その後の経過は”フジタカヌー”の歴史そのものといってもいいだろ
う。

「思い出す京一中在学5年間」 ------------------------------------------------- 武石 靖彦 26

 旧制京都師範学校付属小学校から、晴れの京一中生になれたのは昭和18年まさに太平洋戦争の戦局が厳しく
なった時で、それから終戦までの2年半はほとんど授業はなく勉強らしい勉強もせずに過ごしたことを思い出す。
「昭和18年入学式(1年6組)」
                   
 1年生から2年生にかけての2年間(太平洋戦争末期)は、朝校庭に整列して校長先生の訓辞を受けた後、将
来の軍隊行きに備えて体力増強のために比叡山「きらら坂」をかけ登って息をきらし乍ら降りてきた後渡辺先生
(カバ先生)の訓練の授業の毎日。広い運動場に腹伏せになってきびしい号令のもと匍匍訓練を何度ちゃらされ
たことが印象に残っている。体調が悪い時、体が弱い生徒は「きらら坂」を登る代わりに山中越のコースを選ぶ
ことも許されたので私も時々(さぼり心?)このコースを願い出たことを覚えている。こちらは勾配が緩やかで
距離はあるがほっとしたものだ。
 その後、昭40年ごろから比叡平に住むことになり、毎日この山中超えの道を通って京都の会社へ通勤するこ
とになったのも何かの因縁かも!!
 先日なつかしい母校(洛北高校)を訪れた時、運動場に出てみたが現在の高校生が放課後の各科目の部活に励
む姿を見て、ありし日の校庭での訓練を思い浮かべ感慨深いものがあった。
 また、この頃(昭18年後半〜20年初め頃)「農耕動員?」の一環として、担任の先生の号令の下一田んぼ
の草取や主要道路沿いの防空壕作りに動員されたり、「家倒し」と呼ばれていた空襲に備えての「家屋解体作業
」に駆り出されたことも印象に残っている。家の天井に綱をかけ、みんなで掛け声をかけ合って直前まで人の住
んでいた家を何軒も引き倒しに行った事を思い出す。
「戦後直後の堀川通り」

                   
 3年生になるといよいよ戦雲急を告げ、我々も「学徒動員」として京都南部にあった大手の軍需工場への派遣
生となった。当時の軍需工場は戦火による全製品の一括生産停止を避けるため製品ごとにその工作のための工作
機械が京都周辺各地の小学校等へ疎開されており、私達のクラスは修学院小学校に疎開されていた工作機械を使
う作業(ボール盤による部品の穴あけ作業などに従事することになった。とにかく食糧のない時代で食べ盛りの
中学生も毎日ひもじさと戦いながらの作業であった。修学院へ通う道すがら、さつまいもやカボチャが道にはみ
だして実っているのを横目に見ながら通ったものだ。時には一つ二つ失敬してかじり乍ら修学院の疎開工場へ通
った事を思い出す。
 そして昭和20年8月15日。私はこの日の前日が修学院小学校での勤労奉仕の夜勤の日に当り、前日の夜か
ら翌15日の午前中までの当番で、深夜の作業と暑さから修学院の現場から自宅(北大路堀川)へ帰る途中、学
校に立ち寄り校内のプールで泳いでいたら学校の誰だったかに”戦争は終わった”と教えられたのを思い出す。
当時全く実感がなく何がなんだか判らなかったことを覚えている。
 その後戦争の終った秋からやっと学校での本来の中学の勉強が始まった”3年生の1年生”という時代であっ
た。国語のノース先生(高橋先生)や、英語のコーチン先生(岡田先生)ペチャ先生(歴史の井上先生)に難し
いことを教えられたような記憶があるが、何せ教科書もろくになく寸前まで先生も生徒も勤労奉仕が中学生の生
活になってしまっていたので授業という実感がなかったし、私は難しい勉強になかなかついていけなかった劣等
生であったので、先生がら「図書館で勉強してこい!」と諭され続けたのを思い出す。一中には立派な図書館が
あり私はそこへ入り込んで勉強に努め、やっと卒業できた次第である。
 当時の先生方が京一中の衿持をもって生徒に接して下さった事を思うと、いまありがたい気持ちで一杯である。
この戦中・戦後の京一中のプライドに裏付けされたこれらきびしい訓練や説教が今日までの私の生き方・仕事に
つながったものと思う。83歳近くの今まで山登り・ウオーキングやゴルフに趣味を抱くことができ、人生の大
半を昔扱った機械工業の進歩発展につながる仕事(発明や特許に関わる仕事:弁理士業務)を歩んでこれたこと、
京一中時代の工場動員や厳しい教育の賜であり感謝々々である。            (現弁理士 談)
「戦後65年が経った」

                   

第59回総会講演 「外交を語る」 田中 均(洛北14期)--------------------------------------------28
第59回同窓会総会【講 演 録】
「外交を語る」
                                    田中 均(洛北14期)

 今回は、外交官人生を通じて出会った人たちを紹介しつつ、それが私の外交官人生を語り、日本の外交を語る
ことになればと思う。
  「昨年母校オックスフォード大学セントエドモンドホールカレッジにて」
                   
 京都大学を卒業し外務省に入り、最初の任地はイギリスだった。私か外交官人生で最も影響を受けた人は、オ
ックスフォード大学での研修時代の恋人で、ポーランドから難民ビザを持って亡命をしてきた女性だった。彼女
から、共産主義における監視社会やヨーロッパの民族の争いなど、様々な歴史観のようなものを学んだ。京都と
いう山に囲まれた閉鎖的な社会から出て、突然大きな海に放り込まれた感じがした。
 その後、インドネシアに配属になり、1974年に田中角栄首相が訪問した時に反日暴動がおこった。
1969年に日本が世界で2番目の経済大国になり、どんどん日本が大きくなっていた頃だった。三日三晩総理
とともに迎賓館に閉じ込められ、総理がヘリコプターで脱出した後、大通りを戦車に守られつつ、群集が無言で
凝視しているのを意識しながら自分で車を運転しながら出て行った時の恐怖心は忘れられない。若い時に修羅場
にいたことが自分の外交官人生で役に立った。
 インドネシアから東京に戻り、経済協力局で諸外国への援助を担当した後、東南アジア諸国の担当になった。
6年間日本にいて、結婚してワシントンヘ赴任し4年間勤務した。その後帰国して北米二課長となり、日米経済
摩擦の担当者としてアメリカと交渉し、26の協定を作った。
 その後、朝鮮半島担当の課長となったが、その時に会った二人の人物がその後の外交官人生で常に思いだす人
だった。一人は韓国人のおじいさん。日本の朝鮮半島統治時代に一部の人々がサハリンでの強制労働に駆り出さ
れたが、戦後、日本国籍を放棄したことによりどの国からも保護を受けられず、そこに残った人々を韓国に帰す
プロジェクトを実施した。その第1号で帰国した70歳ぐらいのおじいさんは、私の外務省の部屋にやってきて、
日本語が話せるにも関わらず無言でただ涙し、翌日の飛行機で韓国に戻った後、1週間後に亡くなられた。その
とき感じたのは、日本がとった行動について地域の人々に大きな被害を与えたという歴史の重みだった。
「時の人金賢姫著の手記(文春文庫も)」
                   
 もう一人は、1987年の大韓航空機爆破事件の実行犯の一人である金賢姫という女性。当時日本政府は北朝
鮮に制裁を発動しようとしたが、私はその証拠を確かめるためソウルに派遣され、金賢姫と面談した。1998
年1月に彼女の口から日本からきた女性に日本語を習ったという話を聞いた。私は北朝の日本人拉致の濃厚な疑
いを北朝鮮人から聞いた初めての日本人であり、その時に外交官として拉致の問題を何としてでも解決しなけれ
ばいけないと感じた。京都人は反骨的なところがあるが、同時に使命感が強い。
 その後の北米局審議官時代に影響を受けた人物は、現在アメリカ国務次官補で知日派として知られている、当
時国防次官補代理であったカートーキャンベルだった。彼はアメリカ人の典型で非常に野心的で、自分の仕事を
通じて業績を残すという思いが強い。アメリカ人は、他人の評価する際に結果を作れるかを見ている。彼と2年
間仕事をして学んだことは、物事を動かすためには、大きな絵を描かなければならないということだった。彼と
普天間基地の返還合意を作った際に描いた大きな絵は、沖縄に集中している基地は縮小し、普天間基地は日本に
返還をしてもらうが、米軍の役割のうち、日本が憲法の枠内でできることは日本が負担をするということだった。
それで作ったのが日米防衛協力のガイドラインだった。
 アジア局長の時に小泉総理の訪朝につながる北朝鮮との1年間の事前交捗を行ったが、交渉相手は相当高いレ
ベルの人たった。週末を使っての交渉は全人格をかけた闘いであり、拉致被害者を生きて返すことができるか、
北朝鮮との関係で一定の枠組みを作って安全性を担保することができるかという国の運命を背負った厳しいもの
だった。
 北朝鮮の人と交渉をして得た結論は、結果を作るためにやはり最後に大事なのは個人と個人の信頼関係だとい
うことだ。
                   
 小泉純一郎総理は、物事に対する確信が強い人だった。訪朝は一つ間違えると内閣が飛ぶ危険性があり、私は
リスクを説明したが、総理は自ら結果に対して責任をとる姿勢を示し訪朝を決断した。小泉総理はポピュリスト
といわれるが、そうではない。イラク戦争の対米支持でも郵政民営化でも、彼がそれに踏み切って世論が後から
ついてきた。つまり、世論を作るという意識を持っていた。今の政治家も、世論を気にするのではなく、世論を
作る気概を持つ人が出てきてほしい。
「59回講演会風景」
                   
「59回講演会風景」
                   
 ほかにもミャンマーのスーチー女史や軍政時代のキンニュン首相など外交官時代に出会った人々は沢山いる。
 最後のところ、外交の基本は、個人と個人の信頼関係である。嘘を言わない、相手を説得するだけの迫力、き
ちんとしたロジックで物事を伝えることができる、などが外交官としての大事な資質だと思う。

「田中均氏」
                   
Hitoshi Tanaka
田中 均
国際戦略研究所理事長
1969年京都大学法学部卒業後、外務省人省。
北米局北米二課長(1985−1987)
アジア局北東アジア課長(1987−1989)
英国国際戦略問題研究所研究員(1989−1990)
在連合王国日本国大使館公使(1990−1993)
総合外交政策局総務課長(1993−1996)
北米局審議官(1996−1998)
在サンフランシスコ日本国総領事館総領事(1998−2000)
経済局長(2000−2001)
アジア大洋州局長(2001−2002)を経て、2002年より政務担当外務審議官を務め、
2005年8月退官。
2005月9月より(公財)日本国際交流センターシニアーフェロー、
2006年4月より東京大学公共政策大学院客員教授を兼務。
2010年10月に(株)日本総合研究所国際戦略研究所理事長に就任。
オックスフォード大学より学士号・修士号(哲学・政治・経済)取得。
著書に『国家と外交』(共著・講談社)、『外交の力』(日本経済新聞出版社)、
『プロフェッショナルの交渉力』(講談社)等がある。

OB会だより -----------------------------------------------------------------------------------30

京一中龍球部OB会
 「京一中籠球部OB会」
                   
 昭和4年近衛より下鴨の新校舎に移転した京一中には当時関西一と言われた体育館が完成し、関西でのバスケット
ボールの大試合はほとんど京一中体育館で行なわれたものです。
 このように恵まれた環境のもと競技をしてきた伝統ある京一中寵球部OB会も会員が除々に高齢化し平成19年度
以降休会をつづけ、今後、会を開くことが一層困難となり、残念ながら止むなく解散せざるを得なくなりました。
 つきましては、平成15年3月に前任の吉田群生氏から引き継ぎ、繰り越し残金113,646円は京一中洛北高
校同窓会に寄付することにし、平成25年3月22日(金)に藤井済と津田明の2名が同窓会に持参いたしました。
                                       (津田 明 昭22)
京一中・洛北高 あかねゴルフ会
 「京一中・洛北高校あかねゴルフ会」
                   
 平成21年から名称及び規約を改め、舟山コースをベースに再出発して5年目を迎えています。
 平成24年度は7回の開催で延べ190名の参加によって交流を深めながら、年令相応のプレーを楽しんでいます。
年度の締めくくりとして恒例となりました納会を12月5日に31名の参加のもとに開催、1年間の成果を発表、あ
わせて来年度の日程及びハンディ改訂を確認し、昼食懇談会に移りまして、来年もやるぞ!と意気を高めて散会しま
した。
 尚、当ゴルフ会は会長が運営にあたり大切にされている「マナーとルールを守りあかねゴルフ会らしく品格あるプ
レーを心掛けよう」を合言葉にみんなで協力しあい乍らひいてはプレーの進行に協力しています。
 現在は40名を限度に最高齢は昭18年京一中卒業(86才)の岸田さん、榊田さんから洛北高11回卒業(70
才)の若手まで幅広い層のゴルフ愛好者で活発に運営しておりますが、欠員の出た場合には年度の途中であっても補
充の募集を行っています。
お問合せは同窓会の事務局まで。
京一中・洛北高あかねゴルフ会
    会 長 木村磐根(昭20年人)
    事務局 仲谷  喬(昭20年人)
    事務局 波多野元三郎(洛3卒)

北 山 の 会 ------------------------------------------------------------------------30

 2013年4月20日(土)春の北山荘にて観桜会を行いました。桜はちょっと八重で木も大きくなりました。い
ずれもっと豪勢に咲くでしょう。さて中村さんが大きく手を開いて張り切っています。小屋の後ろを見て下さい、誰
やら御用を足して戻るところです。
 次は小屋前の集合写真・・・・・・

この日は天気も良かったので、小屋からストーブを出してきて、みんな持ち寄っ
たものを焼いたり、温めたり、そして飲んだり好きなようにやっていますね。まるで絵巻物です。
山小屋「北山荘」
                   
そろいも揃って10人にこやかです。こんなに全員が笑顔である写真はなかな
か見られません。みんな至福の気分なのです。春の一日、皆が雲ヶ畑出合橋に集まって、適当に車や三々五々歩いて
小屋を訪ねて、みなさんが持ち寄った食べ物を食べ飲み物を飲み、語り休む。それでみんな至福になる。小屋があれ
ばこそ。この小屋が先輩から70年余受け継がれ、見事に整備される方々が居られる。来る途中に通る森本次男さんの
麗杉荘を見るにつけ、その有難さが身に沁みます。小屋を気兼ねなく利用できる。それに何と言っても語る仲聞かい
る。それも同じ高校山岳部に属しただけ、年代も別、歳もパラパラ、山行きを共にしてなくとも共通の話題がある。
こんなさわやかで気楽で楽しい機会が気負わずに持てる。当然至福にならざるを得ません。上記の写真はそれを如実
に物語っています。又今夏も、秋も参りましょうか。是非ご参加ください。  (会誌「北山の会」より)

排 好 会 --------------------------------------------------------------------------- 31

 京一中洛北排好会(バレーボールOB会)は例年行事である神戸一中、神戸高校との定期戦を平成25年7月28
日(日)午後に洛北高校体育館において行なった。
 定刻に神戸高校のOBの方が我が校の同窓会館会議室に参集され、先ずは総会をされました。我が方もその後、総
会を行い昼食を済ませ、揃いのユニホームに着替えて、いざ体育館へ。毎年の事ながら体育館の中はサウナのように
なっており、団扇や扇子をひっきりなしに動かす人々でいっぱいであった。
 京一中バレー部と神戸一中バレー部との関係は、戦前にさかのぼる歴史があり、さらに新制高校になった後も、卒
業生の親睦試合も行われるなど両校の交流は継続しています。最近は両校のOB会の構成メンバーも高齢化の中、少
しずつ世代交代が進んでいます。
 いよいよ洛北・神戸両校の現役選手による試合開始、現役女子は洛北の勝利、男子は神戸の勝利でそれぞれ優勝杯
を手にしてから、京一中・洛北排好会から現役選手に対し活動支援のための金一封を豊嶋会長が代表して贈呈された。
 「神戸高校・京一中洛北高校バレーボール部定期戦」
                   
 「バレーボール部OB談笑」
                   
その後、両校OBによる親善試合が始まりました。現役の頃にはなかった男女混合の試合もあり、和気藹々と熱気あ
ふれるプレーが続きました。京一中、神戸一中のOBはもっぱら応援にまわったが、今年も洛北3回卒の前会長の波
多野先輩はプレーをされ、お元気な姿を披露されました。
 このあと、試合でひと汗かいたあと、恒例二次会会場(洛北高OBの「白龍」)へ、懇親会では若いOBから定期
戦の起源への質問に両校一中の先輩は、丁寧に答えていただき、時にはイベント担当の楽しい趣向が披露されたりし、
あっという問に時間が過ぎていきました。両校バレーボールの歴史を軸に話がはずんだところで、双方の校歌を全員
で(歌詞の小さい字に目を凝らし?)、斉唱して、無事、二次会を閉会いたしました。
 この日の参集者は両校OBで交流試合、懇親会など含め延べ40余名にのぼり、伝統ある毎年の両校バレーボール
部の交流は暑い夏の一日の行事として、無事に終えることができました。来年は神戸での開催です是非OBの方は、
来てください。
               nbsp;   &               (平塚泉洛22)

叡 水 会 ---------------------------------------------------------------------------- 32

 8月11日、猛暑の中、母校プール集合にて第63回叡水会を催しました。今回体調不良等の方が重なり、参加者
が少なくもありましたが、楽しく過ごしました。
 「叡水会」
                   
 叡水会は昭和25年に発足毎年続けて来ましたが、若い世代との連継ができず不安があります。我ら水泳部という
呼び方は大正末期からで、それまでは京一中の泳法として観海流が水連とされており昭和19年まで続いた。大正中
期ごろから25mプールにてのタイムによる競泳が始まり、遊泳部と言っていたが、やがて水泳部、水泳クラブに固
定した。当時、京一中水泳部が日本の競泳を前進させた事は言うまでもない(三島康之 洛14)

局 友 会 --------------------------------------------------------------------------- 32

 洛北高等学校新開局が復活して10回目の局友会が、平成25年2月24日(日)に京都駅前の京都タワーホテル
で開催。当日は開校以来「洛北の自由」を育て、支えてきたと自負する創設期のメンバーを中心に、東北大震災で被
災された宮城・仙台や横浜、熱海からの参加者を含めて16名が集まった。今年、傘寿に到達しようかという1回卒、
2回卒は毎回のことながら元気そのもので会をリードし、昔話から現代社会への注文まで談論風発の3時間であった。
 「新聞局OB会」
                   
 出席者の悩みはここ数回限定されかかっている参加者の拡大と若返り化であり、さらにOB局員の願いは昭和55
年から休局状態になっている新開局の復活である。
 若者の活字離れが進む中で現在でも一番信頼される言論媒体として「新聞」の存在が挙げられており、その復権を
望む声は多い。こうした世論を背景に何らかの形で新聞局の復活を呼び掛けていこうとの強い思いを確認し、次年度
(平成26年2月23日)の再会を約して散会した。  (西村 健一 洛9)

図書部諄信会 --------------------------------------------------------------------------- 32

 図書部のOB会は2年に1度、曜日にかかわらず4月10日正午に京都植物園北門に集合。会員への案内はありま
せんので、OB、OG会員の多数の参加をお待ちいたしております。次回は
  第4回図書部OB「辞儒会」
  平成26年4月10日(木)正午
  京都府立植物園・北門前集合
会費なし・昼食喫茶代各自負担(近郊でランチ)
 ・ 〔お問い合わせは8期卒・田中郁二 090‐2389‐----〕まで。

クラス会だより -------------------------------------------------------------------------------33

       目次と予告
目 次
関東昭十三年クラス会     (昭和13年卒) ---------------------------------------------------- 34
京一中昭十八年クラス会    (昭和18年卒)
京一中一九会         (昭和19年卒)
京一中二〇四会        (昭和20年4年卒) ------------------------------------------------- 35
京一中昭十九年入学      (昭和19年入学)
府一・京一中21N合同同窓会 (昭和21年入学) ------------------------------------------------- 36
洛一会  (洛北1期)------------------------------------------------------------------------- 37
     伊達君を偲ぶ
洛二会 (洛北2期)-------------------------------------------------------------------------- 38
洛四会 (洛北4期)-------------------------------------------------------------------------- 39
みのり会 (洛北6期)
ラッキュー会(洛北9期)----------------------------------------------------------------------- 40
洛歳会 (洛北14期)------------------------------------------------------------------------- 41
雑草会 (洛北15期)
関東圏R20還暦同窓会    (洛北20期)------------------------------------------------------- 42
還暦歳の学年会を開催     (洛北21期) ----------------------------------------------------- 43
昭和四十八年卒・学年同窓会  (洛北22期)
積木の会            (洛北23期) --------------------------------------------------------- 44
第5回洛北二十七期同窓会   (洛北27期)----------------------------------------------------- 45
クラス会の予定

関東昭十三クラス会 平成26年5月
京一中一九会    平成25年10月月27日
            会場:ホテルゲランビア京都  幹事 下聞頼一
京一中二〇四会   平成25年10月27日
            会場:京都ホテルオークラ 幹事 八木 惇夫
京一中21Nの会  平成25年12月7日
            会場:四条  美濃古
            出席の方は中村まで連絡を。 090−5895−
洛一会       平成25年10月7日
            会場:ホテル日航プリンセス京都
洛二会       平成26年3月15日
            会場:リーガロイヤルホテル京都
みのり会      平成26年6月28日
            会揚:京都タワーホテル
洛七会       平成26年5月11日
ラッキュー会    平成26年4月8日
第3回にこにこ会(洛北25期同窓会)
          平成26年6月15日昼頃
            会場:詳細未定

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お知らせ
 事務局は会員名簿の管理・運営や同期会幹事の方々のお手伝いをしています。案内状、往復
はがきや封筒の宛名(同窓会管理の最新データによる)差出人などの印刷。また、会の準備、
打ち合わせなどに会議室もご利用いただけます。また、ホームページではクラス会だより、同
期会の予告を随時掲示しています。
※同窓会HPはQRコードからも入れます。詳しくは事務局までお問い合わせください。
お願い
 住所変更などの情報は、総会案内、学年同窓会案内、会誌あかね発送に重要ですので是非お
知らせください。
ご注意
 母校卒業生を対象に、新聞広告・週刊誌掲載広告申込、また、業者による同窓会開催など、
さまざまな勧誘がありますが同窓会はいっさい関与していませんので充分ご注意ください。
TEL・FAX075・712・0375
       本部事務局より

関東昭十三年クラス会 (昭和13年卒)---------------------------------------------------------- 34

 「関東昭和13年クラス会」
                   
 5月28日、平均年齢93歳の4人が一堂に会し、健康を祝いました。私たちの年代は戦争、戦後の混乱期をフルに
体験しました、その中を生き抜き、今ここに集まり、思い出を語り合う喜こびは、何にも勝るひとときでありました。
 話は在学中のことから、現在の健康法まで・・・・・・服部はなぜボート部に入ったかと聞かれたが、実は村上君と
二人で相談して、深い考えもなく揃って部室へ。ただ私の今の丈夫な体はその時期に基礎ができたと思って感謝してい
る、等々・・・・
 やがて時と共に「比叡の峰にあかねさす」を合唱し、来年を約して帰途につきました。    (服部 俊夫)

京一中昭十八年クラス会 (昭和18年卒)-------------------------------------------------------- 34

 「京一中昭和18年クラス会」
                     
 四条縄手のロシア料理店「キエフ」に集まったのは、付添3名を含めて計21名。昨年よりも少し減ったが、一同元
気でまだしばらくは参会できそうに思った。医師が4名も含まれており安心度が高い。回顧すると入学が、昭和13年、
そして昭和18年卒業だったから軍事訓練で鍛え卒業だったから軍事訓練で鍛えられていた時代である。校舎には銃器
庫があり亜麻仁油の臭いがしていた。錆防止用だそうで戦後、奉安殿とともに消えた。
 このクラスでは、卒業50周年の平成5年に「光の海に帆を揚げて」と題した文集が発行された。約290ページ、
約1 3s。
 そして、平成15年には続編が約410ページ、約1.2kg今回の平成25年は卒後70年の最終節目になるので
続々編をという声もあったが、実現は見送った。過ぎたるは及ばざるが如しを心得てのことらしい。奥ゆかしいのがこ
の昭和18年組の特徴で、高度成長の縁の下の力持ちだった。しかし自慢話を聴いたことがない。(高月 一)

京一中 一九会 (昭和19年卒)--------------------------------------------------------------- 34

 「京一中一九会」
                   
 
                  
 平成24年度の一九会は好天の10月21日12時からホテルグランビア京都『今昔の間』で開催、同伴夫人1名を
含め28名が出席した。最初は3卓にわかれて着席し、京料理に舌鼓を打ち美酒を酌み交わし、和気あいあいと近況な
どを語り合った。そのうちに席を入れ替わって旧交を温める者が続出、一中時代のエピソードなどを不思議なほど鮮明
に思い出し披露する者あり、年齢を忘れた意気軒昂のうちに15時解散まで時間の経つのを忘れた。年々参加者が減る
のは淋しい限りであるが、平成25年は下間頼一君を当番として10月27日(日)に同じ会場で行うこととなった。
 平成26年は卒業70周年であり、米寿にあたる者も多く、特徴のある記念一九会を行って、最後とするという案も
出されたが。一九会は2人になるまで続けようという意見もあり、決定は持ち越しとなった。  (清水 祥二)

京一中 二〇四会 (昭和二十年四年卒)--------------------------------------------------------- 35

 京一中昭和20年4年卒業の「二〇四会」の第31回総会を平24年10月25日京都ホテルオークラで開催しまし
た。出席者は昨年とほぼ変わらず30名となり関東地区から10名を数えました。
 例年通り外賀君の流暢な司会により開会となり、会の冒頭で9月に急逝された故元廣理君の子息哲也君ヽ剛巳君の両
君より生前故人に寄せられた厚情並びに「二〇四会」に対する謝辞が述べられ、両君退席後、校歌斉唱、物故者追悼の
黙祷、幹事挨拶と続き関東地区より出席の栗原君より、健康に留意して本会が末長く開催できます事を念願しますとの
挨拶、乾杯の音頭で懇親の場に移りました。宴席では久方ぶりの旧交を温め懐かしい京一中時代の思い出話など、併せ
て年齢相応の健康談議に花が咲きました。
 「京一中二〇四会」
                   
 宴半ばを過ぎて関東、関西の有志による月一回の二本会の近況報告が田淵、西谷の両君よりあり、続いて司会の外賀
君より10月3日に実施された故元廣理君の葬儀時の友人代表西谷君の弔辞が披露されました。故人が社業の発展と併
せて「二〇四会」の成立時からの発展に尽力された様子が詳細に語られ、温かい友情に感じ入りました。続いて応援歌
斉唱、来年度幹事八木君の挨拶で再会を楽しみに閉会しました。
 二次会は本年より木屋町の滞洒な雰囲気のクラブ「フランボー」に移して15名の参加となり楽しい気分で盛り上が
りました。      (植村 三郎)

京一中昭十九年入学 (昭和19年入学)--------------------------------------------------------- 35

 平成25年5月31日(金曜日)正午から、京都ホテルオークラで開催。既に逝去した多くの同期生に黙祷した後、
集まった53人の81歳以上と、同伴者3名、同窓会担当1名で、青春を語らい、校歌、応援歌を合唱し、医師や専門
家の健康保持の意見も聞き、楽しく若返った3時間を過ごした。
「京一中19年入」
                   
 

 同窓会誌「あかね」50号にも詳述されていたように、昭和19、20、21年度入学の京一中生は、第2次世界大
戦後の学制改革の影響を受け、「入学すれども卒業せず」の状況になり、非常に残念に思っている。2年の後半は工場
や倉庫になった京一中の校舎を守り、3年には学制改革のために、一中の校舎から府一(現鴨沂高校)の校舎に移され、
午前、午後の2部制の授業。後半は新制度の洛北高校。更に12クラスの男女共学の鴨沂高校に替わった。これらの制
度の改革に学区制が導入され、山城、朱雀、嵯峨野、堀川などの他校に移された生徒も非常に多かった。
 京一中・洛北高校の同窓会が設立された頃は、これらの状況が理解されず、会費が未納、卒業学校が違うなどの理由
で、名簿から削除される人があったと聞く。旧一中の校舎の建て替えの時にも寄付に応じ、我々は京一中を深く愛し、
京一中の卒業生になりたかったのが、不本意にも中学も卒業せず、現在に至っているのをご理解戴きたい。
 我々は、この複雑な状況の中で常に京一中の生徒であったことに誇りを持ち、入学時の同期会を2、3年に一度の間
隔で開催して来た。東京でも年一回の東京同期会が開催され、次回は7月初句に丸の内で開催される。
 今後は、年々歳を取ることも承知の上で、さらに2、3年に一度、京都でも開催することになったが、何時まで続け
られるのか?、神のみぞ知るところ・・・・・・       (武居 三郎)

府一・京一中21N合同同窓会 (昭和21年入学)------------------------------------------------- 36

 平成25年4月7日、車寿記念同窓会を開催。府一74名、一中55名、計129名がホテル日航プリンセス京都に
> 集いました。
「府一・京一中21N合同同窓会」
                   
 10年前の第1回出席者に比べると一中の方が府一より多かったのがすっかり逆転されていました。平均寿命通り女
性が優位となったのは致し方ないことではありますが、この10年間に鬼籍に入ってしまわれた同級生たちに思い出を
馳せると寂しさがこみ上げて来るのを禁じえません。
 手品、日舞、歌など和気あいあいの中に閉会後、問もなく新校舎に建て替えらえられるため、あと数力月後には壊さ
れる旧府一(現鴨沂高校)の見学が用意され、日曜日にもかかわらず校長先生が説明して下さいました。
 あの「間借り」をした校舎を見て、とても懐かしく65年前を思い起した貴重なひとときでした。当時府一の校舎が
あまりにも美しく、カルチャーショックを受けたものですが、3日も経たぬうちに、一中の腕白坊主たちによって、壁
に大きな穴があいて隣の教室が丸見えになったことなどを思い出して一同苦笑しきり・・・・・・。
 しかし、全国唯一といわれた府一と一中の男女2部制授業で、少年少女たちが胸を躍らせた素敵な思い出は感無量で
ありました。      (高野 省也)

洛 一 会(洛北1期) ------------------------------------------------------------------------- 37

 予定していた洛一会の関東での開催が、東日本大震災の発生で延期され、第19回の今回は関東の世話人にお願いし
て、「今秋は熱海で会いましょう」と題して、平成24年10月1日〜2日、熱海の伊豆山温泉「ハートピア熱海」で
開催されました。
 8月に届いた案内状に「相模湾を一望できる伊豆山温泉で日頃の疲れを癒し、新鮮な海の幸を味わいながら、旧友と
の再会のひと時を楽しみましょう」とありました。今回は各地から25名が参加し、女性10名、男性15名でした。
 前日の台風一過で天候が回復し、予定通りに出発しました。京都から新幹線に乗り、しばらくすると伊達一郎さんが
各車両を回って来て、再会の挨拶をすることができました。この列車には関西方面の14名が乗っていました。
 熱海着午後1時2分、ここで関東の同僚と合流し、シャトルバスでホテルに入りました。懇親会の開始までの自由時
間があり、ゆっくりと温泉につかり、相模湾の眺望を楽しみました。
 午後7時過ぎに懇親会会場「天翔」へ行き、席札を引くと隣が伊達さんでした。越智百合子さんと山崎一徳さんの司
会で始まり、坂本龍彦さんの挨拶で開宴しました。
 海の幸のご馳走をいただき、杯を重ねて談笑のひとときを過ごしました。皆さんの近況報告が一巡したところで、伊
達さんが「少し時間をください」と立ち上がって、自分の生い立ちを話してくれました。辛かったこと、嬉しかったこ
と、いろいろお聞きしました。最後に大きな声で「友よ」を歌ってくれました。
 来年、皆さんが満80歳になるのを記念して、10月7日に傘寿の会を開催することを決めました。再会を約束して、
田中康夫さんが挨拶、中締めとなりました。
「洛一会」
                   
 翌朝、記念写真を撮りました。この写真の右端に写っている伊達さんが3日後に交通事故で他界されました。
                                                              合掌         (中村 淳)

「追悼」 故伊達一郎君を偲ぶ -------------------------------------------------------------------37

 再会の約束 3日後のお別れ 平成24年10月1日、第19回洛一会が熱海で開催され、各地から25名が参集し、
親しく旧交を温めることができました。
 翌朝、次回開催の傘寿の会での再会を約束して別れた伊達一郎君がその3日後、バイクを運転中に自動車と接触転倒
し、帰らぬ人となりました。
 まさかこのようなお別れをしようとは! 信じられませんでした。
 伊達一郎君とは戦後の混乱期を共に過ごしました。最初の出会いは、京都第一中学校の最後の学年生の時でした。昭
和23年4月の学制改革で、京都一中が廃校となり、洛北高校併設中学校に移りましたが、6ヵ月後に学区割が施行さ
れ、鴨沂高校に合併されました。更に2年後に、旧一中の下鴨校舎に復活した洛北高校に移り、第1回卒業生となりま
した。戦後の教育改革に翻弄された中学・高校時代でした。卒業後はそれぞれの道を歩み、君は教育者として母校で教
鞭をとり、数多くの人材を世に送り出しました。
 君が26年前に「洛北1期生が集まろう」と呼びかけて、昭和62年に洛一会が発足しました。会場の「からすま京
都ホテル」に青柳校長先生他8名の恩師を招待し、総員187名の盛大な会となりました。洛一会の今日があるのは、
君のおかげです。
 ありがとう。
 熱海の懇親会場で君の隣に座り、酒を酌み交わし語りあった思い出が今も鮮明に残っています。宴席での皆さんの近
況報告が一巡したところで、君は「少し時間をください」と発言を求めました。立ち上がって自分の生い立ちを話して
くれました。
`辛かったこと、嬉しかったこと、いろいろお聞きしました。
 話の終わりに君は大きな声でフォークソング「友よ」を歌ってくれました。

 ♪友よ 夜明け前の闇の中で
  友よ 戦いの炎をもやせ
  夜明けは近い 夜明けは近い
  友よ この闇の向こうには
  友よ 輝くあしたがある

 いい歌でした。君は僕たちに、元気と感動を与えてくれました。その時の君の歌声が、今も耳に鮮明に残っています。
 翌朝、熱海駅で送迎バスを降りた君は「さよなら」と一言いって、ひとり別れて行きました。
 バスの向こうに消えていく君の後姿が、なぜか気になりました。
 これが君の最後の姿になるとは! 何となく僕は、熱海での君の言動が気になりました。もしかしたら、これは僕た
ちへのお別れのメッセージだったのかも知れません。
 この3日後の10月5日に他界された君の無念な思いが、僕の心に響きます。
    ご冥福をお祈りします。 (中村 淳)

洛 二 会 (洛北二期)------------------------------------------------------------------------ 38

 平成25年3月16日60周年記念としてりーガロイヤルホテル京都で開かれ101名が出席しました。
「洛二会」
 
 久し振りに遠路出席された友松康夫君の開会の挨拶に始まり、”万年司会役”の鈴木聡顕君の要領の良い司会で進行
されました。メインイベントのビンゴゲームでは、瀬川保君の巧みな話術で盛り上がり、童心に帰って楽しいひととき
となりました。
 名残り惜しくはありましたが、水内巧君の開会挨拶で幕を閉じました。
 次回は1年後の3月15日(正午〜15時)に予約済みです(於リーガロイヤルホテル京都)。
 来年はほとんどの会員が「傘寿」を迎えられます。何とぞ健康には留意され、大勢の方にご参加いただけますよう心
よりお待ち申し上げます。(藤本 卓)

洛北四回同窓生の会 (洛北4期)---------------------------------------------------------------- 39

 洛北4回同窓生の会近畿会が平成25年4月21日(日)に京都タワーホテルで開催された。
 参加者は68名(男42名、女26名)、昨年より少し減ったが、急な用件で来られなくなった人が数人出たのは残
念だ。
 最初に全員を2組に分け記念撮影をしたあと、定刻1時少し前に岩佐昴君の司会で開会。今年はみな喜寿になるが元
気で集まっていただきうれしいとの発言のあと、この1年間で亡くなった5名の同窓生の名が読み上げられ、全員で黙
祷した。(ちなみに同期で死亡が判明している人数は116名となったという)この間照明も暗くされた。
 そのあと現役時代、商社で海外勤務が長かった馬渕春一君があいさつ、「竹島や尖閣諸島の問題に対し韓国、中国で
の学校などでの教える内容や力の入れ方が全然違い、国民一人ひとりの意識も高く、日本のように領土問題は存在しな
いと言っているだけでは解決する問題ではない」との話が海外での経験からの指摘があり一同耳を傾ける。
 そのあと、学生のころから阪神タイガースの猛烈なファンであること、映画も大好きで今年は阪神も強いので今は幸
せだ、皆さんも楽しくやりましょうとの話で締めくくった。
 松井醇一君の乾杯の音頭で宴会がスタート。料理も従来のバイキング方式でなくテーブルに数だけ持って来てもらう
方式に変えたので、従来のように取りに行く手間が省けると好評で、その分各テーブルで話が弾んだようだ。ひととお
り食事が腹に収まってくると、立ちあがって各テーブルをまわる人が増え、自分の席にもどっても他人に占領され座る
席がないとウロウロする人も出はじめる。話が盛り上がるなか、楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、お開きの時間
がせまる。
「洛北四回の同窓生が手をつないで高校三年生を歌う」
    
 お開きの前には参加者全員が手を握り合い、輪になり歌を歌うのが恒例だが、昨年までの「星影のワルツ」が少し陰
気だからと、今年はもっと元気な「高校三年生」に変えて歌った。
 そして午後4時前、まだ日も高く、赤い夕陽がまだ校舎ならぬホテルを染めてはいなかったが、「僕ら離ればなれに
なろうとも、クラス仲間はいつまでも・・・・・・」の歌詞の気分に浸りながら来年も元気で再会を誓い合い、三々五
々夕暮れ迫る街に消えていった。  (粟辻 康夫)

み の り 会(洛北6期)---------------------------------------------------------------------- 39

 本年度は昨年より1ヵ月早い5月24日(金)の開催となったが、開始時間の11時には交通至便の京都駅前京都タ
ワーホテルの会場に、新快速の大阪・神戸組や新幹線で駆けつけた関東、中京組など90名が参集。今年もご参加いた
だいた犬島先生と話し込んだり、久し振りの出会いに近況報告で話はずむグループなど、時間前からいつもの6期みの
り会の面々。世話人の作成した欠席者の「東のだより・西のたより」(H25版)に旧友の言葉を見つけ、読みふける
姿も。
「みのり会写真1」
                   
「みのり会写真2」
                   
 定時に杉田世話人(3組)の司会で会がはじまり物故者への黙祷で当時に思いをはせ、平岡会長(4組)は挨拶の中
で最近の母校の状況を報告。
 全国的に活躍の運動部や囲碁部の様子に皆うなずく。続いて会員講演は神谷孜子さん(1組)の「極楽島病棟」。同
期生の厳しい体験談に聞き入る。
 世話人に促されて今年も女子、男子グループに分かれて記念撮影のあとは、食事を共にしながら懇談。当初のクラス
別テーブル着席もいつの間にか混然となり、在校中の思い出、近頃のトピックなどそれぞれ話題に花を〜咲かせるいつ
もの風景。
 いつのまにか時間が経ち、元気いっぱい校歌を斉唱し、また来年との合言葉で、まだ明るい駅前へ三々五々散会とな
った。
 世話人より来年2014年は6月28日(土)の開催とする旨発表あり。会場、時間は今年通り、詳細は追って案内
される。

東みのり会も活発な集まり

 一方、京浜地区、千葉、埼玉方面に在住の会員で集まる「東みのり会」(折戸、石原共同代表世話人)も定期的に集
まりを持ち会員相互の親交を深めている。
 このところ単独では訪問しにくい首都圏の場所を訪問、食事を共にし懇親するスタイルの定例会となっており、昨年
は春には築地市場見学、秋には新装なった東京駅見学、今年春は皇居訪問の催しを行なった。

ラッキュー会(洛北9期)------------------------------------------------------------------------- 40

「ラッキュー会の参加者」
                   
 平成24年4月9日(火)、フオーチュンガーデン・キョートにて開かれ、50名が参加しました。本会の前に20
名ほどの希望者で、高瀬川沿いにある島津製作所創業記念資料館を見学。近代科学発祥の地でもあり、日本初のレン
トゲン装置やノーベル賞受賞の田中耕一氏の功績など日ごろあまり見られないものを興味深く見学しました。
 今年の本会は女性が少しでも多く参加していただけるように昼の時間帯に計画したため、半数近くも女性の参加があ
りました。外の桜は一足早く散り始めていましたが、会場内は遅咲き桜が満開の感で、華やかな雰囲気に包まれて本会
が始まりました。乾杯の前に、残念ながら恒例となってしまった物故者(4名)への黙祷をささげました。
 続いて「ミニお勉強会」。今回は八木さんに専門分野の繊維について、天然繊維や合成繊維、最近話題のボーイング
787などにも使われている炭素繊維について面白い話をしていただきました。その後お酒がまわるにつれて、雰囲気
は一気に盛り上がり、近況、健康、趣味など話題の尽きないまま、あっという間に中締めの時問となってしまいました。
 校歌斉唱、記念撮影を行い、次回の再会を約しながら閉会となりましたが、ほとんどの方がまだ話し足りず喫茶店に
席を移して話の続きを楽しみました。
 次回は平成26年4月8日(火)に本年同様、昼の時間帯で計画いたしますので、今回参加できなかった方も含め多
くの方のご参加をお願いいたします。        (久山 正道)

洛歳会 (洛北14期)---------------------------------------------------------------------------- 41

 平成24年10月6日、宝ヶ池のグランドプリンスホテルにて第5回洛歳会を参加者100名で開催しました。昭和
40年卒業いわゆる団塊の世代第1号であり、66歳であり、老人の域を自覚しがらも老人・高齢者の書類が来ると戸
惑う、そんな話しに、今回はイベントを無くし、全て談話時間の会にした。
 現在の事、相心い出の事、未来の事、懐かしい友と話すには時間はいくらあっても足りない。
二次会も歌と談話で一日を過した。
「洛歳会」
                   
 2日後の10月8日は第41回洛歳会ゴルフコンペを楽しんだ。好天のセンチュリーシガGCはすばらしかった。賞
の発表会はいつも通り天王町の「牛おおた」で行った。この時元気たった太田健司君が今年2月に急死されたのが残念
だ。                                                                      (三島 康之)

第9回「雑草会」 (洛北15期)------------------------------------------------------------------ 41

 平成24年11月3日、京都タワーホテルにて開かれ44名が出席しました。「お久しぶり」「お元気ですか」とに
ぎやかな声が飛び交う中で、2年ぶりの同窓会(第9回)がスタート。
「雑草会の参加者」
                   
 早いもので私たちも還暦を過ぎ、どうしても健康のことや孫のことなどが話題の中心になりがちでしたが、飲むほど
に、酔うほどに、いつしか青春時代にタイムスリップし、高校時代のことが懐かしく思い出され、「あの時、こういう
ことがあったよね」といった話に花が咲きました。
 このような中で、今回は、同窓生の一人である山本龍彦さんが趣味で始められたテナーサックスの自慢の腕前を披露
していただき、当初は3曲程度との約束が、もう一曲、あと一曲と増え、最終的には7〜8曲も演奏していただき、出
席者全員に喜んでいただきました。
 そして、名残は尽きませんでしたが、最後には全員で校歌を斉唱するなど、楽しいひと時を過ごすことができました。
 また、次回は、卒業後50周年となる4年後に開催することとし、全員参加を目標に計画することにして、本日出席
の全ての者が幹事役であるとの意識をもって取り組むことを誓って散会しました。  (多那瀬光夫)

関東圏R20還暦同窓会 (洛北20期)---------------------------------------------------------- 42

 初めての幹事。まずは案内メール発信、いきなりエラー、前途多難です。資料添付忘れ発信、しまった!慣れない封
書をポストヘ。でも少しずつ返信が来るようになりました。参加のうれしいお返事。残念ながら不参加でも近況を教え
てくれる人。「グアテマラに住んでいるから行けないよ」と写真同封。(この写真は当日披露しないとね!祝電みたい
なものだよね!参加と同じだよね!)そうかと思うと、卒業以来初めてなので不安です。あの子を呼び出してくれよな。
働いているので夜の宴会にしてよ! 三重県なので東京出張画策したけどダメで不参加。歯医者だ、山のような患者で
欠席・・・・・・。色々な人が居て、なかなか幹事って楽しいなあ。私か連絡に悪戦苦闘している間に幹事団が宴会場
など全て準備してくれました。
「関東圏R20還暦同窓会参加者」
                   
 2013年2月23日土曜日、晴れ、クラシックな内装の新丸の内ビルのエスカレーターに少し緊張気味に乗る。い
よいよ6階の「四川豆花飯荘」で関東圏R20同窓会が始まりました。茶芸士のパフォーマンスと本格四川料理。23
名がそれぞれの想い出に花を咲かせて。でもやっぱり宴会は酒の勢い、笑と歌と拍手と体育会系とセクハラ系と・・・
終盤は周りのお客さんなど無視、まことに楽しい時を過ごすことが出来ました。
「また会おうね」同窓会が終わっても、なぜか胸がどきどきしたままです。名簿も完成。(でも関東圏に住んでいる方
はもっといますよね?)関東圏同窓会の礎は思いやり。イケメンR46西川晃平さんを誘惑して手伝って貰う、謝々。
 きっと還暦とは、皆でこれからの道を元気で楽しみながら歩いていく道標だ!参加された方、幹事団の方、本当に有
難うございました。                                    (原 龍雄)

還暦歳の学年会を開催(洛北21期)-------------------------------------------------------------- 42

 その日、時間を待ちきれない友たちが昼から茶話会に集まり賑やかな時を過ごした後、本会場に体育の大島武子先生
をお迎えして『三度目の成人を祝って乾杯!』戸井田朋之くんのユニークな発声で宴は始まりました。
 人数は居るけど 前には出たがらない団塊の世代を支えてきた私たちも、年度中にそれぞれが60歳を迎えることに
なります。
「還暦歳の学年会(R21)参加者」
                   
『あれから40年!』どなたかの漫談の台詞ではありませんが、TV放映開始・東京五輪・万博・オイルショック・大
震災やバブル崩壊、電卓や携帯電話の普及、とインターネットが社会全体の構造を変えてきた時代を全て観(視)てき
た学年です。
 在学中の2学年時には京一中洛北高校100・20周年、47歳年には同130・50周年、57歳年にも140・
60周年に関わることができました。母校の建物は変わりましたが、佇まいやそよ風に乗って流れてくる自由な校風は、
今も変わらなく迎えてくれます。
 生活や人生は卒業してからバラバラになりましたが、母校という心の柱が私たちのキモチを支えているんですね。
         (谷口 光男)

昭和48年卒・学年同窓会  (洛北22期)------------------------------------------------------ 43

 平成25年5月18日(土)、京都国立国際会館にて開かれ、参加者は130名でした。
 当日受付が終わった後、10年ぶりの再会で話の種が尽きない面々に、集合記念撮影準備のための、点呼もままなら
ない中、まるで当時の学生気分ですが、スタッフは四苦八苦です。
 遠方から、車椅子での参加を決めてくれた同窓生が少し遅れ気をもみましたが、無事家族と共に到着し、何とか撮影
場所まで案内し、同窓生の本職カメラマンの巧みな話術で、本人も含め写真撮影が無事終わりました。実は前回も同じ
く、この会場でしたが、6月中旬に開催したため、雨で外での集合写真が撮れませんでした。今回は5月で思惑通り晴
れて、国際会館の庭園での撮影に全員満足な気分でした。(スタッフだけかも?)
「昭和48年卒(R22)参加者」
                   
 さて、宴会場に入り、総合司会から10年ぶりの同窓会のため、「黙祷をする友人が多く残念でなりません」との挨
拶から始まり、特に「あかね43号」に同期の長谷君が現場救急医療の大切さを語って掲載記事にしていただいたのに
かかわらず、本人が亡くなり、参加者も驚きを隠せませんでした。
 一方、遠方から車いすでの参加を決めていただいた同窓生に感謝し、また、同窓生が「あかね」広告掲載に長年寄与
していただいていることも披露し、来賓の臼井照代先生、河田義孝先生、犬島武子先生方を代表して河田先生に祝辞を
お願いし、同窓会が開宴しました。早速、乾杯の発声を同じく来賓の大島先生にお願いし、京都府の条例にのっとり、
日本酒にて乾杯!!。
 食事の際に、総合司会が国際会館の現館長が我々の先輩である、R10卒の木下博夫氏である旨を伝えました。(事
前に開催の連絡をしましたので、お目添え?メニューが豪華になりました。後日、参加者の女性からも美昧しくいただ
けたとの感想もいただけました。スタッフにとっては、とてもうれしいて一言です!)
 宴も盛り上がり、まずは恒例の当時のフォークソングをスタッフ自前のギターで3曲歌い、恒例のイベントに!!
 今回は前回行った、クラス対抗歌合戦に替えて、スタッフが役員会でいろいろなイベント案を出し、「洛北トリビア
クイズ大会」を計画し実行しました。
 例えば、洛北高校前のパン屋の店名を解く問題や、当時の某先生の渾名を解く問題や、当時の仮装行列の道順を解く
問題など、10問を事前取材した内容で択一問題として、プロジェクターで写真を交え、披露しました。各クラスのテ
ーブル対抗戦でしたので、大いに盛り上がりました。結果及び講評を来賓の臼井先生にお願いし、各クラス成績上位順
に豪華賞品(?)を手に手に皆笑顔でした。
 宴も終盤になり来賓の先生と共に、全員で校歌を斉唱し、最後に出席していただいた先生に記念品と花束を贈呈し、
閉宴いたしました。閉宴する際に「次回の開催は?」と全員に問いかけて次回は5年後ということになりました。スタ
ッフ全員、「明日から計画しないと5年はアッという間にすぎるよな〜」と愚痴ならぬ、うれしい悲鳴でした。
 まだ話が尽きない面々に役員が用意した二次会場へは、100名程参加し、日付が変わるまで、思い出話に花を咲か
せ続けました。
 帰りに参加者たちが口々に「ありがとう!」の言葉をかけてくれ、スタッフ達もひと安心、いままでの苦労も吹っ飛
びました。5年後に再びこのような記事をお届けできる事を願い、同窓会の報告といたします(平塚 泉)

積木の会 (洛北23期) ---------------------------------------------------------------------- 44

 オリンピック開催の年に学年全体の同窓会を開催しようと決めたことから、ロンドンオリンピックが開催された昨年
11月24日に京都祇園ホテルで4年ぶりの積木の会を開催しました。
「積木の会(R23)参加者」
                   
 11月の連休の開催ということで、なかなか出席の返事が集まらず、幹事一同やきもきしていましたが、当日は二次
会への飛び入り参加も含めて80名近い参加がありました。当初は集まるだけでも十分盛り上がるからと特別なイベン
トは考えていなかったのですが、旧5組のメンバーが中心になって結成したおやじバンドが懐かしのフォークソングを
演奏したのをきっかけに、大いに盛り上がり、最後は参加者全員で「わがよき友よ」の大合唱となりました。
「積木の会(R23)おやじバンド」
                   
 2016年リオデジャネイロオリンピック開催の年に行う次回の積木の会は、全員が還暦を迎える記念の同窓会とな
ることから、一人でも多くの同窓生が集まることを願っています。        (河原 敏明)

第5回洛北二十七期同窓会 (洛北27期)--------------------------------------------------------- 45

 それまでの国内最高気温を破る、猛暑・酷暑のなか、平成25年8月10日(土)東山区蹴上のウェスティン都ホテ
ルにて同窓会を開催しました。
「R27期同窓会参加者」
                   
 前回に続いて寺石先生に出席いただき、さらには村田先生も出席いただくことができました。
 校歌斉唱し、出席いただいたお二人の恩師・先生のスピーチと進み、乾杯のあと、洛北高校での懐かしい3年間を思
> い出し、同級生同士、冷えたビールで昔話に盛り上がりました。
 士の匂いの校舎、一体化していた机と椅子、登校後まず休講の札を確認に走ったこと、3時限目と4時限目の間に食
堂へ大盛りそばを食べに走ったこと、購買部の着物姿のおばちゃんにお世話になったこと等々、つい昨日のことのよう
だったと話し合いました。
 参加人数が「コンパクト」なことで、先生とじっくり話をさせていただき、また高校時代には全くしゃべらなかった、
あるいはケンカ別れしてしまった同級生と今こうして「同窓会」をきっかけに話をし、日を改めて会う約束をし交流を
深めてゆくことができるのは、素晴らしいことだと実感しています。        (西村 佳哲)

アンサンスーチーと私 ----------------------------------------------------------47
    「ロンドン・オックスフォードそして京都・・・」 大津典子(洛北6期)
「アウンサンスーチーと私」
     47

I 洛北高校の同窓に支えられて ------------------------------------------------------------- 48

 私の人生の後半は、1974年の洛北高校第6期同窓会みのり会の総会から始まった。早くに母を失くし、弟妹の母親役
から解放されたのは34歳であった。看病を通じて人の命の侈さを痛感した私は、チベットの尼僧院で余生が送れたら
と思い、まずはチベット詰を学ぶべく、ロンドン大学アジアーアフリカ学研究所のチベット語学科に留学手続きを済ま
せた。そして、折しも開催された「みのり会」に出席した。
 就職、結婚を経て、子育て中の同窓生たちは、これからの人生の展開に期待を膨らませ、まぶしいくらいに輝いて見
えた。ひとり場違いな疎外感を抱いていた私に伊佐太一君が声をかけてくれた。「これからロンドンに行かれるのなら
堀江博君がいますから、僕が彼に連絡を取っておきます」。心配しないでとばかりに伊佐君は微笑んでくれた。
 充分な資金もなく、英語力に自信のない私は、伊佐君の心配りに救われ、伊丹から何度も乗り継ぎロンドンヘ。何も
かもが目新しかったが、下宿探しの折りなどに、東洋人蔑視の差別感情を意識せざるを得なかった。ロンドン金融街シ
ティのオフィスに堀江君を訪ねた。彼は親戚を迎えるかのように、自宅にまで招いてくれた。奥さんの瑛子さんは、今
もなお、私にとってはもう一人の妹のような存在で、庭で戯れる坊やたちの無邪気さに癒されていた。
 そのうち授業が始まった。下調べに追われ、大学と下宿を往復する毎日で、堀江家にも行けなくなったが、伊佐君の
思いやりと堀江夫妻の暖かい支えがなければ今の私はないと常に感謝している。

U オックスフォードのマイクル、スー、そして私たち ----------------------------------------------- 49

 秋も深くなると、夕方の4時にはとっぷり暮れる陰穆なロンドンにも慣れたある日、講師室で、スーチーの夫、チベ
ッ飛学研究者のマイクル・アリスに会った。「僕の妻はビルマ人です」と彼は嬉しそうに言った。1974年12月の
ことであった。
 そうこうするうち、幸か不幸かロシアを専門とする日本人経済学者と私は知り合った。静謐(せいひつ)の尼僧生活
に入るつもりが、混乱のソ連東欧をドサ回りする運命に陥った。翌年、マイクルー家と私たちは偶然にもオックスフォ
ードに研究の場を移し、そこでの再会が今に至る交流の始まりとなった。
 オックスフォードでのスーと私は、学者の卵のパートナーとして、家事労働と赤字財政のやりくりに終始した。それ
でも龍谷大学の専任講師だった私の彼には、寡少ながら毎月の定収入があったが、マイクルはセントージョンズーカレ
ッジの研究生で収入はなかった。まだ月半ばなのに、「ノリコ、あと10ポンドしかない。どうしよう」と言いながら、
スーは懸命にやりくりしていた。
 マイクルはお客を招くのが好きだった。スーは嫌がりもせず、手作りのフルコース料理で夫の願いを叶えていた。そ
んなスーがいじらしくて、給料が入るたび日本食の好きなスー一家を、テンプラやすき焼き、しゃぶしゃぶでもてなし
た。
 当時のスーと私の息抜きはウインドウーショッピングであった。彼らの長男のペビーカーを押しながら二人とも大好
きなリバティープリントを見に行った。気に入りの柄を、セールが始まると買いに走った。スーはその生地を使ってビ
ルマ服のプラウスとスカートのロンジーを縫い、外出着として愛用していた。普段はもっぱらジーパンに白いブラウス、
鼠色のカーディガンかセーター姿であったが、地味であることがかえって天性の芙しさを際立たせていた。
 79年以降、私は夫の研究に同伴し頻繁にモスクワに滞在した。極端な物資不足やソ連社会の息詰まる閉塞感は、帰
りにぺち寄るオックスフォードに癒された。77年にはスーの次男も生まれた。子供のない私たちは、スーの子供たち
の悪戯に振り回されるのも、彼らと肉の取り合いをしながらすき焼きをつつくのも楽しみの一つであった。
オックスフォード:アウンサンスーチーの家族」
    
>
     
V 京都滞在のスー ------------------------------------------------------------------------------ 48

 85年9月、日本学術交流センターの奨学金を受け、スーは京都大学東南アジア研究センターに次男を連れてやって
来た。独立寸前に暗殺された彼女の父、アウンサン将軍を研究するためであった。京大宿舎のコンクリート建築に馴染
めないと、琵琶湖を一望できる和混の我が家によく泊まりがけでやってきた。彼女持参の饅頭に手を伸ばしながら、亭
主の悪口から政治まで、話の種は尽きなかった。ある時、スーは深いため息をつき、「ノリコ、エコノミストはマルク
ス主義者が多いから、社会には有害よ。それに比ベチベット学者には害がない。それなのに何故エコノミストに職があ
り、チベット学者にはないのかしら」と漏らした。屁理屈もいいとこだが、夫へのスーの思いが切なかった。マイクル
がオックスフォードのセントーアントニーズーカレッジの教授職に就いたのは、スーが自宅に軟禁された後のことであ
った。
1985年京都:アウンサンスーチーの家族」
    
 彼女が京都を去る頃は、ゴルバチョフのペレストロイカやチェルノブイリの原発事故などで、ソ連が世論を賑わせ、
私たちのソ連詣でが続いた。彼女のノーベル平和賞受賞の報道もモスクワで知った。

W スーの軟禁 ---------------------------------------------------------------------------------- 49

 スーが母の看病でビルマ滞在中の1988年8月8日、学生主導の反政府運動が起こった。抗議する学生や市民に軍
は次々と発砲した。その非道を許せなかったスーは学生たちの要請を受け、反政府運動のリーダーとして立ちあがった。
看病と政治の両輪を回転させつつ、一躍ビルマ社会に彼女は踊り出た。しかし1989年7月、騒乱罪で学生たちは逮
捕、投獄され、スーは自宅に軟禁された。
 スーの解放を求める女性の会が東京で結成された。私は1991年8月のクーデターから国の崩壊を守ったモスクワ
市民の動きに参加した時の体験を、みのり会で語る機会が与えられ、その折り、女性の会を支えるカンパをお願いした。
それ以来、もう20年近く、スーに関する報道があるたび、同窓の誰かが「よかったな」とか「心配やね」と連絡をく
れる。会長の平岡猛男君は、スーに関する地元新聞掲載の記事をすべて切り取り、送ってくれている。
 世界はスーの解放を求めたが、私は内心、「軟禁は彼女にとって最大のチャンス」と捉えた。彼女はインドやイギリ
スで教育を受け、軍政下にあえぐビルマ庶民の貧困と辛苦を共有していない。まして、スーはイギリス人と結婚するこ
とで、イギリス嫌いのビルマ軍政と国民感情を逆なでしている。中世さながらのビルマ社会の民主化に彼女が本気で取
り組むつもりなら、不条理であってもこの軟禁に耐えなければ、真の意味でのビルマの市民権は得られない。市民権を
獲得しさえすれば、民主主義の何かを熟知するスー以外にこの国をリードできる人物は他にないと確信していた。
 スーは1988年の帰国以来、25年のビルマ滞在中、15年に及ぶ自宅軟禁に耐え、子供との離別、夫の死を乗り
越え、一昨年から態度を軟化させた軍政に協調の姿勢を示した。そして、少数派ながら国会議員として政治活動の表に
立った。世界は民主化の兆しを見せたビルマ政府の後戻りに視を打つ意味で、制裁を解除し、ビルマ政府もスーの外国
訪問を認めるようになった。

X 27年ぶりの京都のスー ----------------------------------------------------------------------- 51

 日本政府もスーを大臣待遇で招くことにした。「京都には大津さんという友達がいますから、すべてをお任せするこ
とにしています」と、在ミャンマー日本大使館の人にスーは言ったという。京都でだけは自由でありたいというスーの
メッセージだったのかも知れない。
 そんな折、新聞に掲載された外信記事の切り抜きを、例のごとく、平岡君が同窓会報とともに送ってくれた。「最近
のスーチー女史は、物見遊山の外国訪問にばかり熱心で、国内政治はうわの空。それに反して、テイン・セイン大統領
の国内での人気が高まっている」という内容であった。政府系英字新聞が伝えるプロパガンダだけを頼りに現地から送
られてくる類の記事である。
「外遊が物見遊山だというのならこちらにも覚悟はある。受けて立とうじやない」。
 夫はビルマ農村の80%に電気のない現状に心を痛めていた。なんとか明かりを届けられないものだろうか。昨年
10月、2度目のスー宅訪問の折、小水力発電に関する英語版の論文を宿題として夫はスーに手渡した。スーは関心を
寄せ、発電現場を桜の中で見たいと伝えてきた。
2013年京都:アウンサンスーチー」
    
 夫が選んだのは嵐山。嵐山は天下の名勝だけに終わらない。嵐山保勝会の人々は、川の流れを利用して発電すること
を思いついた。渡月橋の灯篭をはじめ、観光地の灯りをすべて小水力発電でまかない、余った電力を関電に売り、利益
を地域に還元している。日本初の小水力発電である。古い文化の担い手が環境に優しい科学を導入し時代を先取りして
いる。
 スーはロンジー姿のまま、コンクリートの堤防を乗り越え、発電機を具に観察、蓄電された電力の配電方法まで知ろ
うと走り回った。警護の人たちも、ただ後を追うばかり。観光が目的と思いこんでいるマスコミを煙に巻き、スーも夫
も痛快だったろう。
 スーの秘書のニェゲさんが、昨年10月、スーから習った日本語で、京都の「お寺参り」が楽しみと言った。友人の
徳正寺住職夫妻のご厚意で、昼食後、ご本尊の阿弥陀如来の前で、政治亡命を余儀なくされたビルマの子供たちとビル
マの母、スーとの避遁の場が設けられた。それはまるで慈母と仏弟子たちとの極楽絵図さながらであった。
 お寺参りはさらに続いた。叡山坂本の自坊、霊山院のご本尊であるビルマの仏様にもう一度スーを会わせてやりたい。
ビルマこそが、スーの生きる場所と私に悟らせ、スーにもそう実感させてくれたに違いない仏様である。
 本来なら、要人待遇のスーとニェゲさんは、日本情緒豊かな京の宿を楽しめたはずなのに、二人は床の半ば傾いた、
古いプレハブの和邇の我が家で夜を過ごした。昔と同じ部屋の、古い畳の上の布団の中でスーはひとり何を思ったので
あろう。
 我が家近くの桜が満開の状態でスーを待っていてくれた。時遅しと桜見物を諦めていたスーは、嬉しさを隠しきれず
花より輝いて見えた。京都へ向かう道すがら、SPも一緒の車の中で、スーと私は、むかし子供に歌った子守歌を歌い
だした。本当は失恋の歌だったのであるが。
「アウンサンスーチーへの手紙」(毎日新聞社刊)
    
会員著書紹介「--------------------------------------------------------------------------------------52
「道遥かなり奥吉野」
=林業と山村に再生の光を!= 芝 房治(昭和18年卒)著    
紹介者 稲垣真美(昭和十八年卒)

 昭和18年ともに京一中を出た芝房治君は、平成25年1月19日夜88歳の生涯を閉じた。その3日前に分厚い手
紙と署名入りの自署『道遥かなり奥吉野』が届いた。これは芝君が一生かけてくまなく訊ねた奥吉野の山村と、ひいて
は日本すべての山林を衰亡から救え、と呼びかけた畢生(ひっせい)の書である。
 一中時代の芝君はバレー部の名選手であり、また5年1学期の校内弁論大会では、日本とアジアのあるべき姿を熱弁
して優勝した。歴史学者となった同級の門脇禎二君とも親しかった。
 戦後芝君は故郷の奈良県桜井に帰り、市街の復興開拓に尽くす一方、奥吉野の山村と森林の救援に赴き、献身した。
一昼夜に100`も自転車で山坂を走り、深夜迷って遭難しそうになったとき、一中山岳部の先輩・土倉九三さんの
「沢に近づくな、死ぬぞ」の言葉が閃き、崖を撃じて一軒の山家の灯りに助けられた話も、本に出てくる。土倉さんの
祖父で吉野の山林王・庄三郎翁の川上村の碑へ案内してくれたのも晩年の芝君だった。
 最後は悪性の血液リンパ癌と闘いつつ、なおも奥吉野をはじめ山村と村人の甦りを、日本の山々の森と林業の再興を
叫びつづけた芝君の声を、この本から皆さん聞いてください。

発行所 奈良新聞社 本体 2000円 351頁

「トルストイ版老子」
 =共鳴し合う二人の先人= 加藤智恵子(洛北5期)有宗昌子共訳    
紹介者 新宮秀夫(洛北5期)

 120年ほど昔に小西増太郎という日本人が、今はウクライナ共和国のキエフで「老子」を中国語からロシア語に訳し、
モスクワでトルストイに4ヶ月間かけ徹底的に監修してもらい、それが「トルストイによる老子道徳経」というタイトル
で1913年にモスクワで出版された。このロシア語の日本語訳が畏友加藤智恵子さんと有宗昌子の共著として昨年末に
出版された。
 老子もトルストイも、人間の生き方について深く考えた人である。あるがままの自然の摂理を重視し、倹約や節度の大
切さを説いている。その意味では、景気を活性化させて生活レベルの向上をはかるなどという昨今の社会の風潮からは大
きく離れている。1月にレストラン「キエフ」で聞かれた出版記念会は大盛況で皆が本の内容に深く感銘させられた。
本著は10年以上も、同レストランで続けてきた勉強会(月読の会)の成果でもある。
 人は何で生きるか?という小話も書いたトルストイが。道”を説く老子をどのように受け入れ、受けとめたか?本署に
は、トルストイが理解したロシア語版の老子、それの分かりやすい日本語訳、中国語の原典、さらにアメリカ人による英
語訳の4ヶ国語が載っている。まさに希有の本であると思う。(購読希望の方は「キエフ」075・525・0860)
発行所 ドニエプル出版 発売元 新風書房 本体 2100円 270頁

「極楽鳥病棟」

 =ジャカルタでの壮烈な体験= 神谷孜子(洛北6期)著    
紹介者 坂本重夫(洛北六期)
 1970年代後半、インドネシア共和国首都ジャカルタのある所を「極楽鳥病棟」と称ぶ。
 神谷さんは夫君・JICA(Japan International Cooperation Agency・略称ジャイカ 国際協力事業団=当時)の技
師と家族共にジャカルタに在住。突如、夫君が原因不明の腹痛に倒れ、極楽鳥病棟で検査・治療を受ける。しかしそこで
展開された信じがたい医師達の行動。夫君は病状の悪化に耐えつつ業務を気にかける。
 やがて下血、吐血の繰り返しに帰国申請を出す。だが在外公館もJICAもくだらないメンツ、予算などの制約をたて
に帰国許可を出さない。夫君の病状を見守りいらいらと不安な日々を送る神谷さん。手の施し様のない病状が判明して出
された帰国許可はなんと「全てのリスクは自己負担とする」という念書と引き換えであった。
 日本へ戻って半年、夫君は遂に帰らぬ人となる。残された家族の無念な気持ちは当時の在外公務員のみせたまずい対応
に向けられる。
 37年を経て今、真実を明らかにする神谷さんが吐露するのは「残り少なくなった時間と向き合い、これからの毎日を
悔いの少ないものとしていきてゆきたい」(あとがきから)その心情であろう。
 同級生の一人として神谷さんのその頃の気持ちを心で感じつつ今、静かに味わいたい一冊である。
発行所 宮帯出版社 本体 13,000円  175頁

表具の事典
 =京都発信、価値ある事典=  港さちよ(遠山祥子洛北20期)編著    

紹介者 川谷 聡(洛北20期)

 本書の表題を見ただけでは、ほとんどの方が自分には無関係と思ってしまうだろう。「表具」とは「表装」のことであ
り、鑑賞や保存のための掛軸・額装等に仕立てることである。私も編著者と同期でなければ、この書を手にすることはな
かっただろう。しかし本書に目をとおして、驚いた。確かに表具にまつわる詳細な言葉解説は記されているが、京都基点
の書・絵画・歴史・人物にまでその収録範囲は広がる。言葉を調べる書でありながら「超短編読み物集」とも言える。
 著者はライターを生業としており、表装の専門家ではない。20年以上前に「京都表装協会のあゆみ」の出版にかかわ
り、この世界に魅せられてしまった。そこで自ら本書を企画、苦労の末京都表装協会の全面協力を取り付ける。その後足
掛け4年の歳月をかけ、31人もの京表具師と検討を重ね、表装の現場へも通い、”事典”としてのすべての文章をまと
めあげ本書を完成させている。編著者の視点と努力が、わかりやすい構成と文章となり、専門家だけでなく、表具に縁遠
い人にとっても非常に興味深い書に仕上かっている。
 インターネットで何でも調べられると思ってしまう今日においてもなお、異色の事典として存在価値は大きい。残念な
がら現在は京都表装協会を通じてしか購入できないが、多くの方々に手に取っていただきたい京都発信の永久保存版であ
る。
発行者 協同組合京都表装協会 本体 3800円 426頁

恩師を偲んで   =伊達一郎先生=       長坂寿哉(洛北29期)-------------------------------------54
「ぽすけ〜!」

    
 「ぽすけ〜!」高校時代よく伊達先生からこう言って怒られました。ラグビー部だった私は不思議なくらい伊達先生と
ご縁があり、51歳になるこの年まで色々な形でお世話になってきました。
 伊達先生とは私か中学1年生の時初めてお会いしました。それまで父の仕事で米国LAにいた私が日本に帰って来て、
3つ上の姉が洛北高校へ編入したことをきっかけにお会いしたのです。その繋がりから、当時先生が御自宅で数学を教え
られていた通称「伊達塾」へも顔を出させて頂き週1回の数学の手ほどきを受ける機会にも恵まれました。当時洛北高校
で一日勤務され、へとへとに疲れて帰って来られる先生を、何十人もの生徒が待っていて、そこから授業が始まるのです。
小さな黒板に伊達先生が書かれる『数字』のきれいだったこと・・・。本当に美しい文字で、そしてテンポよく次々と難
題を解いていくその様を今でもはっきりと覚えています。それも一度に複数の上級レベルの問題を順々にこなしていかれ
る姿に、中学1年生だった私は「すごいなあ〜」といつも感心させられました。
 そうこうするうちにこの伊達塾はなくなってしまい、伊達先生に教えてもらう機会がなくなったのです。しかし、私が
受験を経て洛北高校へ入学した際、当該学年に伊達先生がおられ再び授業でも教えてもらうチャンスが訪れました。さら
に不思議なことに、ラグビー部の顧問という立場にもおられて、顧問と部員という関係でもお世話になることになったの
です。そんな中ラグビー部1年生は毎週1回昼休みに伊達先生にある教室に呼び出されました。「今週は何回サボつた?」
と一人ずつ聞かれ、サボった回数を正直に言うと「ぽすけ〜!」と言われ拳骨で頭を叩かれました。それは愛情いっぱい
の拳骨で「あ、サボったらあかんなあ。きちんと授業に出なあかんなあ。」という気にさせられるのですが、すぐに悪い
誘いにのってしまい、次の週でもまた「ぽすけ〜!」を喰らう日々でした。
 高校2年では、乗鞍高原での気球を飛ばす研修旅行にも一緒に行きました。卒業する際にも、私か教員を目指している
ということから、伊達先生のお知り合いのラグビー関係の方に紹介して頂いたことも覚えています。(後にその方が私の
仲人になろうとは誰が予想したでしょうか?!)
 今、教員として30年近く働いてきて「伊達先生のような生徒との距離感を持っている先生」はそういないと感じてい
ます。「休み時間も教員室に戻るより教室で生徒と話をしている方がよっぽど楽しい!」ということもよく言っておられ
ました。とても先生らしい言葉だと思います。また卒業してからも私達第29期同窓生が学年同窓会を開催する際には必
ず出席して頂きお話をして頂きました。先生も「この29期の同窓会は楽しい!だから毎回何かあっても駆けつける。み
んなの成長した姿を見ると本当に嬉しいんだよ」とおっしやって下さいました。
 卒業後20年で行った同窓会から連続4回の同窓会全て参加して頂き、そして昨年8月の同窓会では御自身の「金婚式
のお祝い」とたまたま日が重なってしまったにも関わらず、当日同窓会に駆けつけてスピーチをして頂き、とてもお元気
なお姿をみんなに見せて頂きました。そしてすぐにそのお祝いの会に向かわれたのです。タクシー乗り場まで見送らせて
頂いた私は、先生の最後のとっておきの笑顔をまぶたに焼き付けました。『次の同窓会もまた呼んでくれな〜。何かあっ
ても顔を出すしな・・・・』
 残念なことに、その後お会いすることはなく、10月に息子さんである義博さんから事故の連絡を頂くこととなってし
ました・・・・。
 先生からは本当に様々なことを教えて頂きました。同じ職業をする私にとって、生徒との関係、距離、接し方、さらに
は年をとってからの人生の楽しみ方まで様々なことを日頃の先生のお姿を通じて学ばせて頂きました。また、先生との運
命的な繋がりも大いに感じています。息子さんである義博さんが、京教大に合格され報告に来られた時、野球部たった彼
を強引にラグビー部に引き込んだのも私です。しかし、義博さんがその後ラグビーに打ち込み、指導者として向陽高校、
桃山高校のラグビー部監督として頑張っておられる話を先生は本当に嬉しそうに私にされていました。このことも私にと
って本当に嬉しい事です。
 伊達先生のあの満面の笑みを今でも忘れません。我ら29期の同窓生の中に伊達先生のあの笑顔は永遠に残るでしょう。
そしていつも先生は我々のことを見続けて下さっていると確信しています。心よりご冥福をお祈り致します。『伊達先生、
本当にありがとうございました!!』          (京都学園高校教諭)

============================================
伊達 一郎 先生

 平成24年10月5日ご逝去
 昭和46年4月〜昭和55年3月まで在任(数学)
 再開を誓い3日後にお別れ 洛北同期・中村淳(1期)追悼文 記37頁

塩竃 義弘 先生

    
 平成25年6月13日ご逝去
 昭和32年9月〜昭和51年まで在任 (国語・漢文、定時制主事、教頭)
 塩竃先生と塩竃市の縁 谷田貝勲 東北支部長 記57頁

支部だより ---------------------------------------------------------------------------56

=北海道支部= -------------------------------------------------------------------- 56

  設立50周年記念のつどい開く

 支部結成50年を祝って「記念のつどい」が、6月29日札幌第一ホテルで聞かれました。昭和39年(1964年)
7月27日、諸先輩の尽力で支部がうぶ声を上げて50年。この日は本部から安藤仁介同窓会長を迎え、支部からは14
人。安藤久男会員の奥様や、森本淳子会員のお子様も参加して家族ぐるみの和気あいあいの思い出深いひとときとなりま
 
した。
 安田泰次支部長が、開会の挨拶を兼ねて経過報告。ここまで続ける上で支えとなってくれた諸先輩のさまざまな努力、
結束に感謝の意を述べるとともに、今後について「続けることに意味がある。例え参加者が少なくなっても続けてゆきた
い」と強い決意を示しました。来賓の安藤同窓会長からは「本部から離れたところでいちはやく支部を作られ、50年も
続けて来たことは驚嘆に値する。心から祝福したい」と賞賛の言葉を頂きました。
 このあと支部恒例の会員による講演。今年は洛北1回卒の安藤久男さんがネパールの国際山岳博物館の初代館長として
設立に至った経緯や、同博物館の概要、最近訪問したベトナムの模様を話されました。
 興味をひいたのは、同博物館内に「イェティ(雪男)」の像があるのですが、安藤さんの奥様、祥子さんが「毛糸など
をかき集め、苦労して作ったのよ。来た人は皆、そこで記念写真を撮っていく」と裏話を披露されて、みんな大爆笑。講
演を盛り上げていました。このあと、祝宴に移り、参加者ひとりひとりが、北海道に移ってきた経緯や北海道に住んでの
感想を述べ合いました。北海道での過ごし方や思いはさまざまですが、長い人で50年余、最近来られた学生さんも含め、
それぞれに充実した北海道暮らしをされていることがうかがえました。
 
 つどい恒例の校歌斉唱では今回50周年記念特別版として、安田支部長が「述志の歌」を、続いて全員で京一中、洛北
校歌を高らかに歌い上げ、最後は旭川から参加の松野宏一さんの一本締めで幕を閉じました。

*50年記念誌を発刊

 
 北海道支部では設立50年を記念して『北のあしあと』二号を発刊しました。A4判・40頁。会員の寄稿21編、エピ
ソード編として2007年に北大で行われた「湯川、朝永生誕記念展」の模様、京一中(楽譜付き)・洛北高校校歌、述
志の歌、北海道支部略史などが収録されています。非売品ですが、ご希望者には、1部1000円でお分けします。「記
念誌」の申込み締切りは今年末まで。連絡先は支部幹事、丸谷 和豊。
  電話 011(667)ーーーー
 『北のあしあと』(1号は、平成12年7月に発刊されています。

=東北支部= ------------------------------------------------------------------------ 57

塩竃と京都(本塩竃町)時空を超えて塩竃義弘先生ご逝去の報に際し
   東北支部長 谷田貝 勲(洛5)

 
 平成25年7月2日同窓会特別会員(洛北旧職)の塩竃義弘先生の表葬(告別式)が京都市下京区本塩竃町・上徳寺
(塩竃先生が住職)であり、宮城県塩竃市からも市長はじめ市の幹部が参列、そして佐藤塩竃市長の弔辞では本塩竈町所
在の同寺と宮城県塩竃市との交流についてふれられた。
 これを受けて塩竃市長はじめ市当局の関係者は私か嘗て地元バス会社(宮城交通(株))に在職中ご縁のあった方々で
あることもあり、8月7日に塩竃市役所を訪問。佐藤市長、内方副市長、阿部担当課長に快くお会いしていただき、今日
までの京都と塩竃の交流について次のような経緯をお聞きすることができました。
 きっかけば平成17年11月塩竃市当局が観光情報として塩竃の名称を各地で調べたところ、京都市下京区本塩竃町に
塩竃山上徳寺があり、ご住職の名前も塩竃様ということから、雲上寺(塩竃市内 浄土宗)を介して、副市長を含め市民
有志15名で塩竃義弘先生を訪問したことによる。
 上徳寺の由来や近所に「籬(まがき)の森」があること、向かいの本覚寺に源融の御像や鹽竃神社の額が所蔵されてい
ることなど伺い、京都と塩竃の1100年以上も前からの縁(えにし)を確認したのが、今回の交流の始まりとのこと。
翌年塩竃市青年4団体連絡協議会と「NPOみなとしほがま」で上徳寺塩竃住職を再訪問、塩竃での講演を依頼し、同年
11月に鹽竃神社大講堂と塩竃市亀井邸に講師として出向いていただき、両市の縁を広めていただきました。
 以降、活発な交流が始まり、塩竃先生のはからいで当時の桝本京都市長を塩竃市長が表敬訪問するなど、自治体問の交
流に発展し、今日まで毎年、記念事業、講演会、シンポジウムなどに併せて、史跡調査や文化交流を重ね、平成22年に
は下京区130周年を記念して「鹽竃神社の鹽竃桜」を京都駅西側の梅小路公園に植樹するなど、両市の縁に花を咲かせ
ました。
 また東北震災では京都市民から復興のエールが送られ絆を太くしてきましたが、塩竃と京都(平安京)の関係ははるか
昔にさかのぼり、もともとは西暦864年(平安時代)嵯峨天皇の皇子源融(822〜895)(光源氏のモデル)が陸
奥出羽按(あぜち)察使として国府多賀城に赴任、塩竃の融ヶ岡に邸宅を建て、そこから千賀の浦(塩竃湾)の風景を愛
し、帰京後京都六条に千賀の浦を模した大庭園「河原の院」を築いたとのことで、東本願寺の別邸「渉成園(しょうせい
えん)(枳殻邸)はこの大庭園の一部で、江戸時代に復元されたものと云われています。
 塩竃は西暦724年に「国府多賀城」が築かれた際、その港町「国府津」としてつくられ現代まで港町、門前町として
東北で最も長い歴史をきざみ、源融の話もそのひとこまと云えます。そしてその「河原の院」が本塩竃町や塩竃町の地名
で残り、上徳寺もその地にあり、ご住職も塩竃さまだったわけです。
 以上、今世紀に入ってからの両市の交流の歴史はまだ浅いのですが、平安時代からの悠久の時の流れをふまえて民間か
ら行政も含めて、文化・観光へと広がり、とくに東北震災後より絆を太くしてきたところです。
 突然塩竃義弘先生を失い、戸惑いは隠せませんが、先生の功績と今まで培ったものを活かしてこれからもより交流を深
めていきたい、との佐藤塩竃市長の締めくくりのお話でした。
               合 掌

(付記I)
 上徳寺は慶長8年(1603年)徳川家康建立、塩竃山(えんそうざん)が山号。
 塩竃山上徳寺に由来する「河原の院」の話は、源氏物語千年紀を背景に「河原の院」が光源氏の館「六条院」のモデル
であると認知され、塩竃が源氏物語ゆかりの市であることが広まりました。

 
(付記2)
 塩竃義弘先生は大正12年生まれ。仏教大学・龍谷大学文学部卒業。昭和22年上徳寺住職に就く。洛北高校では定時
制主事、教頭を歴任。昭和52年城陽高校校長、昭和58年京都文教短期大学教授。総本山知恩院執事(文化財保存局長)
ライフワークは浄土曼陀羅の研究。

=京浜支部= -------------------------------------------------------------------------- 58

 平成24年度年次総会 品川で開く
 平成24年の京浜支部総会が11月17日(土)品川プリンスホテルにて開催されました。当日関東地方は昼ごろから
雨風が強くなって大荒れの天気。自宅から出るのに苦労した方もおられたようですが、約130名の同窓生が集まりまし
た。
 
 昨年就任の木下博夫支部長(洛10)の開会の辞のあと来賓として京都から参加の三島康之本部事務局長(洛14)の
挨拶、そして石津支部事務局長による支部会計報告が承認されました。続いて連健夫さん(洛23)と前原眞知子さん
(洛19)から2012年9月7日に開催された第5回洛北倶楽部 講師川谷聡さん(洛20)による【今さら聞けない
IT入門】の内容の報告がありました。
 
 田中康夫さん(洛1)の乾杯の発声で懇親会がスタート。その後は同年代のみならず世代を超えて皆さん会話が弾みま
す。歓談タイムのBGMは那須野奈緒子さん(旧姓:藤瀬 洛33)によるピアノ生演奏。
会場の入り□近くでは港さちよさん(本名:遠山祥子さん 洛20)編著の「表具の辞典」の紹介コーナーもありました。
 余興第一弾は洛33幹事団制作の京都今昔ムービーを上映。過去と現在の母校の写真を重ね合わせた映像は評判だった
ようです。第二弾のPCを使った抽選会は若年層に当選者が多かったような気もしましたがもちろん仕込みはございませ
ん。最後は田中均副支部長(洛14)による閉会の辞で閉幕。外に出ると、もう雨と風は止んでいました。
 
 今年度の洛33幹事団は、これまで総会に出席したことがないメンバーも多く、不安だらけでしたが、諸先輩方のご支
援とメンバーの結束力により無事総会を終えることができました。準備段階では無駄話一切ナシで2時間打ち合わせした
ときもあり、今思えば会社の会議でもあんなに集中したことありません。
 でも本当に同窓会はいいですね。総会後しばらくはジョギング中にアタマの中で流れてきましたよ
 ♪ せんねん〜の〜もりかけ〜に〜。
  洛33幹事団一同

「追悼」 金井務・元京浜支部長 --------------------------------------------------------- 59

=思い出の金井さんと京浜支部=

                                                                                前支部長 野々内 隆  京一中21入・洛1)

 金井さんは「自分の一族は 一中・洛北に8名居る」とおっしやっていました。お父さんは「ほろほろ」こと金井千切
先生で、一中に山岳部を作り、西堀栄三郎さんなど後の京都大学学士山岳会に発展する人材を育てた有名な先生でした。
このため、金井さんは一中の敷地内にあった職員宿舎で育ったので、直ぐ傍の葵小学校の卒業生です。
 金井さんは同窓会が好きでした。葵小学校のクラス会を招集したり、一中のクラス会を一中の校舎の理科教室で開催し
たりしていました。
 私が日立製作所に勤務した8年間は、金井さんは副社長・社長の時代で会社の業績も良く、私はおかけて給与カットは
なく、賞与も通常のレベルでいただいていました 今から思えば有難い時代でした。
 
 金井さんの同窓会好きを示す二つの会合があります。一つは「日立洛北会」です。事務局長役は5回卒の多田弘君、会
員は金井務・萱島興三・関田勇・笹田昌邦・上田八重子・野々内隆など34名ほどが登録されており、時々、グループ会
社の施設で会合を開いていました。時には坂本龍彦さん、田中均さんなど一中・洛北の仲間を招待する事もありました。
今、京浜支部の事務局長を務めてくれている石津君もメンバーの一人でした。もう一つの会は上場企業で活躍している役
員の同窓生の会でした。金井さんと同期の椹木脩さん、ノリタケ岩崎隆社長(洛5)等10名以上が登録されて、時々集
まっていました。今は同窓会全体の名簿が無いので、このような集まりが出来ないのは残念です。 金井さんが京一中・
洛北高同窓会京浜支部長に就任した経緯などについて少し書いておきます。西堀栄三郎・稲葉秀三さんの支部長お二人が
相次いで亡くなり、支部長の選任が問題となりました。かねて中村金夫さん(一中昭和15年卒・興銀頭取)にお願いし
ていたのですがなかなか受けて頂けなく、細見卓さん(昭和12年卒・大蔵省財務官・ニッセイ基礎研会長)と話をして
みるようにとの中村さんのご意向でした。細見さんも多くの役職を兼ねておられ難しかったのですが「興銀の中村さんの
推薦です」と言って、一期限りの約束で強引に引き受けていただきました。
 2年経って細見さんから後任選びの催促がありましたが、肝心の中村さんが急逝され、やむを得ず金井さん(昭和20
年4卒)を口説きにかかったのですが、なかなか受けていただけません。そこで左近友三郎さん(昭和13年卒、中小企
業庁長官、共同石油社長)にお願いに上がりました。左近さんは優しい方で「金井さんが受けるまで、自分がつないであ
げましょう」と引き受けていただけました。左近さんは京都・仏光寺さんのお隣の材木屋の息子さんで、終戦の時はシベ
リア抑留で苦労されたと伺っています。ところがその左近さんが病気入院となり、病床から私に電話があり、「今度はど
うも駄目らしい。自分が死んだら、金井さんに左近の遺言だと言ってお願いしなさい」とのことでした。そこで左近さん
が亡くなられた後、遺言を執行しにまいりますと、今度は金井さんは黙って支部長を引き受けてくださいました。一中の
先輩後輩の関係には頭が下がります。
 金井さんが支部長になって3年近くなった頃、京都下鴨神社の宮司さんから、糺の森保存財団の関東本部を作りたいの
で、本部長の人選をして欲しいとの意向が高坂節三君(洛4)経由で伝わってきました。金井さんから「子供の頃、下鴨
神社・糺の森でよくボールをけって遊んだ」と聞かされていましたので、すぐ本部長就任をお願いに上がったところ、「
わかった引きうけよう。その代わり京浜支部長は野々内君だ」とあっさりボールを投げ返されてしまいました。金井さん
は平成14年から17年まで3年間京浜支部長を引き受けていただいたことになります。なお、下鴨神社の方の後任は宮
原賢次さん(一中ではなく山城高校・京都大学・住友商事社長・経団連副会長)が就任されました。
 このように見て来ますと、人集めの好きな、或いは人間の好きな金井さんの性格が良く分かります。同窓会本部のコン
ピューター・システムがうまく動かなかった時、改良の為に資金集めをされたのも金井さんで、今、膨大な会員のデータ
がうまく処理されているのは金井さんのおかけです。
 最後にゴルフの事を書いておきます。金井さんが「一中・洛北でゴルフをやろう」とおっしやって、金井夫妻・梅田貞
夫(洛1・鹿島社長)夫妻・野々内夫妻でプレーしたことがありました。ずいぶん昔の事なのでスコアや組み合わせは忘
れましたが、多分、場所は大洗であったろうと思います。楽しい同窓のプレーでした。今頃は金井さんは天国で小学校か
ら大学まで仲間を集めて同窓会を楽しんでいらっしやる事と思います。御冥福をお祈りします。

=東海支部= -------------------------------------------------------------------------- 60

新支部長に大渾武雄氏(洛9)

 厳しい今年の夏の猛暑の余波の残る9月14日(土)今年度東海支部総会が例年通り、名駅通りの名鉄グランドホテル
で聞かれた。
 支部幹事の地道な呼びかけもあり昨年を超える30名の参加。支部長や幹事団同期の6期、9期の出席も例年通り多い
ものの、20期以降が5名の出席で一中長老の参加と共に全員から歓迎の声。
 会は定刻正午に始まり田村隆太郎支部長の挨拶、児玉副支部長の活動報告会計報告があり、その後、辞意の表明があっ
た田村支部長の後任に大澤武雄幹事を選んだ。
 大澤支部長からは、平成20年から支部長を務め、東海支部の活動を活発化し、発展に導いた田村前支部長に謝意表明
あり。支部総会に先立ち行なわれた支部幹事会で内定の支部役員が次のとおり紹介され、全員の柏手で承認された。
 支部長  大澤 武雄(洛9期)
 幹 事  鈴木 達雄(洛10期)
      香西  朗(洛18期)
 会計担当 小山 節子(洛26期)
               (敬称略)
 
 なお、田村支部長のもと幹事として支部運営に当った岡崎逸夫、児玉信男、居島信二(各洛9期)の3氏は引き続き支
部運営に助言、支援を行なうこととなった。
 このあと本部から出席の三島康之理事長(洛14)により同窓会本部の報告があり、同席の本部理事からもそれぞれ母
校の現状や関連事項の報告紹介があった。
 次いで、最年長参加の名和弘視さん(京一中昭21年入)による元気な掛け声の乾杯のあと、食事をすすめながら懇談
に移り、卒業期を超えた東海支部会員同士の気のおけない会話が続いた。各テーブル毎のリーダーの司会により、出席者
全員の近況報告、話題提供となりひとりおよそ2〜3分との司会のことばもものかは、大半が5分以上の長弁舌にテーブ
ルの司会者もやきもきの一幕も。それでも程よい参加者の会合にて世代・体験もさまざま、住まいも各地に散らばる支部
仲間、名古屋住まいが50年を超える会員や最近東海支部へ参加の同窓生など、京一中洛北の共通点のもと、普段聞けな
いとっておきの話題などお互いの話に耳を傾けた。
 女子7種競技で9連覇の偉業を成し遂げた中田有紀選手は参加者中最年少の44期。東京五輪への意欲を示す一方、最
近手がけた小・中学校の児童・生徒への指導など新しい活動も披露あり、一同から応援の拍手。
 
 東海支部は支部総会のほか折に触れ洛北倶楽部の名称のもと昼食会を開きフリートークの場を持っているが、今秋には
浜名湖ヘー泊で出かけようとの声があがり、さっそく新幹事の仕事が出現。
 予定の時聞かせまり一中・洛北の校歌を全員で歌い、いつものとおり場所を移して夕暮れが迫るまで懇親がつづいた。

=乙訓地域会=(熊谷かおり卓話)--------------------------------------------------------- 61

第13回乙訓地域会 「はリ清」で開催

 
 京一中洛北高校同窓会乙訓地域会は、6月1日に五条大橋近くの「はり清」にて22名の参加を得て開催されました。
私はJR京都駅から高瀬川沿いを七条から五条までぶらぶらと歩きました。日頃通ったことのなかった道でしたが、住民
の努力でとても風情のある道でした。皆様も一度行かれてはどうですか。
本部から出席の高木常任理事の挨拶
 
 今回は「源平合戦の熊谷直実と光明寺について」と題し、直実の31代子孫にあたられる熊谷かおりさん(洛31)の
講演がありました。「源頼朝を洞穴にかくまったところ、2羽の鳩が飛び出し、難を逃れた話」「この鳩は八幡さんのお
使いで、熊谷の家紋にいただいた話」「開平の一の谷の戦いで、息子小次郎と同年代の平敦盛を泣く泣く討ち取った話」
「戦いの生活を悔いて、法然上人の教えに救われ、長岡京の光明寺を聞かれた話」などを情感たっぷりにお話しいただき
ました。
 
 講演後「直実は京都と関東を 布教の名目で頻繁に往復しているが、鎌倉幕府の隠密ではないか?」とのびっくりする
質問に「それはありません」とピシャリー会場の笑いを誘っていました。
 このあとは「乾・パーイ」で和やかなムードで話に花が咲きました。この会は「山歩き」を楽しむ方が多く「今度は何
日にどこそこやで」と、楽しげな声が飛び交っていました。お開きのあと、祇園(方面?)へ行く人、帰る人、いずれも
次の会を約して別れました。幹事の皆様、いつも楽しい会を企画・開催いただき、ありがとうございます。(松丼 徳雄)
=京一中洛北クラブ゛= ------------------------------------------------------------------ 62

 京一中時代からの伝統を踏まえ、全国でも屈指の高校同窓会のクラブとして着実に活動を積み重ね、ここ数年は聖護院
御殿荘を会場として隔月の第3土曜日(変更あり)の昼に例会を持っている。
 参加申し込み、問い合わせは同窓会本部もしくは世話人(洛10若林、田中、小林各世話人)まで。あかね50号にて
報告以降の例会内容は次のとおり。

・第388回 平成24年11月17日
 デザインで世の中を元気づける男 奈良磐雄  講師 奈良磐雄氏(洛15)
・第489回 平成25年1月19日
 自然災害と防災               講師 冨田武満氏(洛10)
・第490回 平成25年3月16日
 アウンサンスーチー・民主主義聖像への道   講師 大津典子氏(洛6)
・第491回 平成25年5月18日
 京都のまつり==祇園祭を中心に==     講師 島田崇志氏(洛6)
・第492回 平成25年7月20日
 防災を核とする自治会(町内会)づくり
 とトータルーリーダーシップ論        講師 伊藤 昭氏(洛10)
・第493回 平成25年9月21日
 鴨川と水害                 講師 勝矢淳雄氏(洛9)

=関活洛有会= -------------------------------------------------------------------------- 62

10周年を超え次の10年へ

 
 昨年発足後10周年を迎えた「関活洛有会」は支部とは趣を異にしたユニークな洛北生の集まりとして活動を続けてき
たが、記念例会の35回を盛況裏に終え、11年目に入った。
 本会は発足時の経緯から大阪に拠点をおいて仕事をしている企業人、官公庁勤務者などが中軸となっているが、最近は
京都在住の学究者の参加もあり、洛北生という共通のベースのもと、幅広い分野の仲間の集まりとなっている。
 例会は2月、6月、10月の第3金曜日の夕刻で大阪京町堀のクラブに集まり、最初に話題提供者が卓話を行い、その
あと夕食を共にしながらのフリートーク。
 勤務の終わった金曜の夕刻、厳しい仕事のあとリラックスしながらの談話の場となっている。
 数人の幹事でテーマの選定や運営を行っているが、会への参加や問い合わせは世話人代表幹事の林哲彦(10期)、
木津絢子(10期)、毛利勝一(17期)まで

第36回例会(2012年10月19日)
          話題提供 河前康夫氏(洛15期) 「妙徳山華厳寺(鈴虫寺)で説教をして」
第37回例会(2013年2月15日)
          話題提供 大野正晴氏(洛20期) 「NPO法人を設立して何か面白いことあるのか」
第38回例会(2013年6月21日)
          話題提供 毛利勝一氏(洛17期) 「新人社員の特徴をキーワードから。生産性本部発表に因んで」

母校だより ---------------------------------------------------------------------------------63

平成24年度卒業式
 62期生275名が卒業、同窓会入り
 
 平成25年3月1日(金)午前10時より卒業式が母校体育館で挙行され、第62期生275名が卒業しました。卒業
式では井関校長は62期生が入学の際贈った「挑戦」のことばを再度引用し、洛北高校を卒業し次のステップへ進む卒業
生を激励した。また、PTA半井達弥会長(洛30)からも祝意がありました。
 卒業式の前日の2月28日には午後1時30分から同体育館で同窓会人会式が執り行われました。同窓会からは三輪
新造常任理事、山川富士夫常任理事が出席し、祝意を表し、伝統ある同窓会についてお話をいたしました。同時に、62
期生の学年幹事委嘱状が渡され、同窓会活動の一翼を担うことを期待する旨の表明がありました。

洛北高校第62期生幹事(敬称略)
1組 井関  桃   大塚 優希
2組 窪田 優一   土井ひかり
3組 伊佐 知輝  ◎行部  黎
4組 橋本 実果   渡邉  空
5組 藤田 菖子   山元 健士朗
6組 香田 あかり  中嶋  桜
7組 新井  佑   清水 颯太
(◎印は62期生学年幹事代表)

平成25年度入学式が挙行

 母校入学式が高校及び附属中学校合同で4月8日に実施されました。285名が洛北高校に、80名が附属中学校に入学
しました。入学式では、井関校長と来賓を代表して佐々木彩子PTA会長(洛北34期)より祝辞を受け、洛北生としての
一歩をふみだしました。
 今年度の高校への大学生の出身中学校は洛北附属中(79)、下鴨中(46)、洛北中(15)、西賀茂中(12)、修
学院中(10)、京都御池中(7)、高野中(7)、近衛中(6)その他京都市域全体から、V類体育系においては府内広
域に出身中学校が広がっています。

平成24年度進路状況
 京大11名、阪大7名、神大4名、東大1名、立命館大79名、同志社23名

 今春の大学進学については、学校の発表によると国立大では京大に11名合格、阪大7名、神火4名、北海道大2名、
奈良女大2名、東大にも1名合格など。公立大では京府大に9名、京府医大にも1名合格など国公立大に延べ105名が
合格しました。
 また防衛医科人にも合格しています。私立大では立命館大に79名、同志社大に23名。


●大学別合格者数は次のとおり(2名以上)
《国立大学》京都工繊大(14名)、京都大(11名)、大阪大(7)、京都教育大(5)、神戸大(4)、信州大(4)、
鳥取大(4)、筑波大(2)、横浜国立大(2)、岐阜大(2)、滋賀医大(2)、大阪教育大(2)、奈良女子大(2)、
岡山大(2)、滋賀大(2)
《公立大学》京都府立大(9)、滋賀県立大(7)、大阪市立大(2)、創価大(2)
《私立大学》立命館大(79)、京都産業大(47)、龍谷大(40)、佛教大(35)、関西大(32)、同志社大(23)、
近畿大(17)、大谷大(14)、京都外大(8)、大阪経大(8)、摂南天(8)、京都精華大(6)、大阪産大(6)、
大阪工大(6)、京都薬大(5)、花園大(5)、大阪国際大(5)、関西学院大(5)、帝塚山大(5)、天理大(5)、
早稲田大(4)、京都学園大(4)、京都橘大(4)、京都女子大(3)、京都光華女子大(3)、同志社女子大(3)、
京都文教大(3)、大阪体育大(3)、中央大(2)、金沢工大(2)、長浜バイオ大(2)、大阪薬大(2)、神戸学院大(2)、
神戸芸術工科大(2)、創価大(2)

2013年度前期部活動報告 --------------------------------------------------------------- 64

【体育系】

 
●サッカー部
全国高等学校総合体育大会京都府予戦 《優勝》
全国高等学校総合体育大会
 1回戦 洛北 3−O 今治西(愛媛)
 2回戦 洛北 0−1 鹿児島城西(鹿児島)
近畿高等学校総合体育大会  《準優勝》
天皇杯サッカー選手権京都府予選《第3位》
第68回国民体育大会少年男子 大川聡一郎 《出場》

●男子ハンドボール部
全国高等学校総合体育大会京都府予選 《優勝》
全国高等学校総合体育大会
 2回戦  洛北 26−34 浦和学院(埼玉)
近畿高等学校ハンドボール選手権大会 《3位》
第68回国民体育犬会 (出場)

●女子ハンドボール部
全国高等学校総合体育大会京都府予選 《優勝》
全国高等学校総合体育大会
 1回戦  洛北 34−17 札幌月寒(北海道)
 2回戦  洛北 24−15 佐世保商(長崎)
 3回戦  洛北 26‐21 埼玉栄(埼玉)
 準々決勝 洛北 17‐16 星城(愛知)
 準決勝  洛北 20−23 四天王寺(大阪)
第68回国民体育大会 (出場)
日韓中ジュニア交流会日本代表
   岩見桂音、片山愛梨、杜氏千紘

●女子バレーボール部
全国高等学校総合体育大会京都府予選《準優勝》
近畿高等学校総合体育大会 《ペスト16》
天皇杯・皇后杯 京都府予選《第3位》
全国高等学校体育学科コーススポーツ大会《第6位》

●ラグビー部
 
平成24年度第92回全国ラグビーフットボール大会京都府予選大会 (トーナメント)
 洛北 32− O 東山
 洛北 15−24 京都成章     《3位》
平成24年第64回近畿高等学校ラゲビーフットボール大会京都府予選
 洛北 79− O 合同D(嵯峨野、田辺、立命館)
 洛北 40‐ 5 同志社
 洛北  7‐26 伏見工業
      《洛北はAブロック 準優勝》

2012年度高校日本代表 森田慎也《選出》
平成25年度第66回京都府総合体育大会 《第3位》
 2回戦 洛北 70− O 京都外大西
 3回戦 洛北 42− 0 東山
 準決勝 洛北  O−26 京都成章
国民体育大会京都府代表
 岩井真人、徳田敬登、村岸誠教、吉田将吾《出場》

●陸上競技部
京都府高等学校総合体育大会陸上競技の部
 女子I百mハードル 藤本 瑠依  《2位》
 女子4百m     岐美 結愛  《2位》
           鈴木 礼衣  《3位》
 男子4百mハードル 小松原健人《2位》
京都府高等学校陸上競技対校選手権大会
 女子2百m     岐美 結愛  《6位》
 女子4百m     岐美 結愛  《6位》
全国高等学校陸上競技対校近畿地区予選会
 男子4百mハードル 小松原健人  《8位》

【文化系】
●囲碁将棋部
全国高等学校囲碁選手権京都府予選
女子個人戦  準優勝 大隅 絢加
京都府高等学校芸術文化連盟囲碁部門
夏季大会   優勝  大隅 絢加
全国高等学校囲碁選手権京都府予選
女子団体   優勝  大隅 絢加、本島 瑠夏、森本 綾
全国高等学校将棋京都府選手権大会
男子個人戦  優勝  田中 悠暉

スーパーサイェンスハイスクール(SSH)事業 -------------------------------------- 65

研究室訪問
 平成25年度前期も多くの事業を展開し、理数教育を進化させています。7月29日〜8月9日の期間に実施された
「研究室訪問」では、2年生62名が数名のグループ単位で京都大学、京都工芸繊維大学、京都府立大学の13の研究
室におよそ1週間滞在し、最先端研究などそれぞれのテーマで実験実習を行い、テーマ研究を深めました。この研究室
訪問は本校のスーパーサイエンスハイスクールの運営指導委員である洛北高校OBの京都工芸繊維大学堤直人(洛北2
2期)教授にもコーディネートをしていただいております。
 来年2月には生徒の成果発表会を予定しております。

グローバル人材の育成の取組

日本経済のグローバル化が言われて久しい中、グローバルに活躍できる人材を育成するために、洛北高校でも様々な取
り組みを進めています。

日英サイエンスワークショップに参加!

 
 これは、科学の研修を通して日本と英国の高校生が寝食をともにしながら交流するプログラムです。平成25年8月
4日〜9日の期間に実施されました。今年は日本開催の年に当たり、京都大学を会場に開催されました。本校からは5
名の2年生が参加し、最終日には日英の高校生が協力し、プレゼンテーションを行いました。科学的な見方や考え方の
みならず、英語力も必要とされました。

アジアサイエンスワークショツプ・in シンガポールに参加!

 
 平成25年7月29日〜8月3日に、シンガポールで実施されました。本校からは4名の生徒が参加しました。これ
は、将来科学者として国際的な共同研究を実施するのに必要な資質能力の基礎を養うと共に、国際的リーダーを育成す
る目的で府立のSSH校が集まって実施したプログラムです。
 シンガポールでは現地高校生との共同研究やシンガポール国立大学での研修など、充実した中身の研修でした。

エディンバラ語学研修に参加

 京都府教育委員会の事業として平成25年7月26日〜8月20日に英国エディンバラカレッジでの語学研修やホー
ムステイなどが実施されました。洛北高校からも2名が参加しました。

医学薬学系人材の育成の取組

「洛北ヒポクラテス倶楽部」発足

 本校では、かつてより医学薬学など医療系への進学希望者が多くいましたが、最近さらに増加しています。そこで、
全学年を対象とする「洛北ヒポクラテス倶楽部」を発足させました。この倶楽部は授業でもなく、部活動でもない、志
を同じくする集団として活動しています。顧問に吉岡伸治教諭が着き、日本医学のリーダーとなる人材を育成したいと
いう壮大な思いで、名称も古代ギリシャの医学の父ヒポクラテスにちなみました。卒業生の医学生や薬学部生等を招い
て、高校時代の勉強や大学での学びなどを紹介しています。
 今後も大学見学など幅広い活動を展開していく予定です。

ラグビー高校日本代表に森田選手

 
 平成24年度卒業生のラグビー部森田慎也君が平成24年度のラグビー高校日本代表に選出されました。森田君は平
成25年度の本校パンフレットにも原稿を寄せていただいており、「何よりも各クラブの先生方がとても熱心に指導し
てくださいます。それでも私自身も辛くしんどいときも沢山ありました。しかし、そんな時はV類の仲間やクラブの仲
間達にいつも支えられました」(卒業生からのメッセージより抜粋)現在、森田君は京都産業大学に進学しておられま
す。今後の益々の活躍を期待しています。

京都市・乙訓地域の高校改革に伴う「洛北の単位制」を実施 --------------------------------- 66

 下鴨の地に
    〜時代の風を吹き込んで〜


 
 平成26年度京都市・乙訓地域公立高校の新しい教育制度の実施に伴い、洛北高校は改革を行います。「洛北の単位
制」と「3つのコース」そして、「京都府内全域からの募集」。本校は平成26年度入学生から単位制を導入します。
学年制を基本とする単位制で、各自の興味関心じて学習する科目を選択し、単位取得します。また大学での研修を単位
認定したり、海外留学においても帰国後、秋に卒業が可能になる場合もあります。このような単位制の良い点を活かし
て教育活動を展開することを総称して「洛北の単位制」といいます。
 また、新設する「文理コース」では「めざせ 知の創造!」をキーワードに「洛北総合選択」において、「アカデミ
ックイングリッシュ」や「サイエンス研究」などの新しい科目を設置し、一人一人が学問を極めたり、興味を深める学
びや進路実現のための学習ができるようになっています。
 この「文理コース」とトップアスリートを目指す「スポーツ総合専攻」、全国でも極めて評価の高い6年間の一貫教
育を実践している「中高一貫コース」の3つのコースが三位一体となって新しい洛北高校は形つくられます。それぞれ
のコースで用意されている教科科目の学習が一人一人の生徒の目標の実現を具現化し、科学、文化、芸術、スポーツな
どで世界をリードするクローバルな人間を育てます。
 また、志願地域が従来の京都市内ら京都府全域に拡大されます。古くは京都一中の時代がそうであったように、京都
府全域から志願できるようになります。

洛北高校は伝統と創造を基盤に将来の夢や目標に「チャレンジ」する生徒一人一人をより一層伸ばします。そして、創
造性あふれる心豊かな人間をこの下鴨の地から育てることに学校はチャレンジします。

平成25年度教職員移動 ------------------------------------------------------------------------- 67

(注・右は前任校または新任校。高は高校、中は中学、敬称略)
《転出》

*高校
上垣 昌之先生 (副校長) 西乙訓高副校長
豆野はるみ先生 (国語)  嵯峨野高
澤井 洋一先生 (国語)  城南菱創高
高木  聡先生 (地歴公民)桃山高
大場さやか先生 (地歴公民)指導部高校教育課
森田 知法先生 (数学)  東稜高
山口 幸雄先生 (理科)  西城陽高
西野 正人先生 (保健体育)東稜高
高田奈津子先生 (音楽)  鳥羽高
足立 有美先生 (英語)  鴨折高
渋谷 善史先生 (英語)  洛西高
伊藤  淳さん (事務職員)京都八幡高
谷口由紀枝さん (技術職員)嵯峨野高

*中学

八木 義宏先生 (数学)  向日市立勝山中
大垣 裕史先生 (理科)  京丹後市立網野中
杉浦 律子先生 (英語)  退職

《転入》

*高校
小川 雅史先生 (副校長) 嵯峨野高
板倉 真史先生 (国語)  木津高
金山 顕子先生 (地歴公民)桃山高
村山 光弘先生 (地歴公民)東宇治高
山本 育夫先生 (数学)  嵯峨野高
山  了悟先生 (数学)  亀岡高
大坂 勇市先生 (理科)  桃山高
吾郷 隆平先生 (保健体育)新任
東 久美子先生 (音楽)  南丹高
高井アヤ子先生 (英語)  桃山高
小田 晃史先生 (英語)  新任
倉西 宏明さん (事務職員)西乙訓高 奥山千恵子さん (技術職員)盲学校
松本  恵さん (技術職員)朱雀高

*中学(高校から配置)
赤井 裕先生  (理科)  京都教育大附属高
菊地真梨恵先生 (英語)  新任

 
 

会計報告・会費納入のお願い ------------------------------------------------- 68
 
会費納入のお願い ------------------------------------------------------------------ 69
 
記念石碑募金のお知らせ --------------------------------------------------------70
京一中記念碑建立へ計画理事会で具体化取組み

   1口1000円の募金開始

 同窓会では6月9日開催の本年度第2回定例理事会で本部より提案のあった校内に「京一中記念の顕彰碑などを
建立する計画議案」を討議し、取り進めにつき担当理事へ計画具体化を求める決議を行なった。これを受けて常任
理事会で具体化につき検討を進めて来たが、9月8日の第3回定例理事会で三島理事長より取組状況につき報告が
あった。それによると、校内敷地のしかるべき場所に京一中コーナーとして、京一中ゆかりの記念物を集め、さら
に顕彰碑を新しく設置建立する。
 
 京一中関連事物としては既に100周年記念に際し、「明治3年創立京都第一中学」の石碑、京一中130周年
洛北50周年の記念年に設置の「記念モニュメント」および平成14年に近衛から移植の「京一中の柳」があるが、
さらに先年千葉県で発見され、母校に移送された明治42年卒業生の刻字のある碑(「あかね」49号68頁参照)
なども集め、整備したいとしている。
 実際の建立に至るまでには学校当局との協議や話し合いなど詰める点が多いが、平成22年に挙行された京一中
140周年洛北高校60周年の記念事業の継続として実現に向けさらに取組を進めたいとしている。
このため本部理事会では一口千円の募金開始、同窓生あげての協力を呼びかけている。

三島康之理事長談
 平成22年に母校の周年記念事業を行なったがその継続事業として本取組を成功に導きたく同窓生各位のご支援
をお願いしたい。

 
校内に京一中ゆかりの事物 -------------------------------------------------------- 71

 明治新政府が樹立され人材の必要に迫られた政府は明治3年京都府中学を開校、そして明治15年には京都中学
校にゆかりの深い有志者が相寄って京都中学同窓会を創立した。
 時の槇村正直京都府知事が自らすすんで会頭に就任、今立校長が副会頭となった。その後京都府中学(京一中)
は所在地を替え、それぞれの場所に所在を示す石碑が建っている。一方同窓会は大正8年母校創立50周年記念祝
賀会を開くなど節目の年に周年記念行事を行なってきた。昭和28年京一中、洛北高校同窓会がそれぞれ同窓会総
会を開き、合体を決議し、「京一中洛北高校同窓会」が発足した。以後も周年行事は続けられ昭和45年には「京
一中100周年・洛北高校20周年」記念事業が盛大に行われた。その後も周年記念行事が節目の年に行われてい
るが、前頁に関連して洛北高校敷地にある京一中関係事物を紹介する。

 

                                       
 
           
 
須田国太郎回顧展 ------------------------------------------------------------------------ 72
須田国太郎(一中明治42)回顧展 全国を巡回

  =時代を背景に価値増す芸術性=

                                                       
 須田国太郎画伯(京一中明治42年卒)生まれて120年亡くなって50年の2012年から今年4月まで、神
奈川県立近代美術館を皮切りに島根県立美術館まで全国6力所の美術館・博物館で「没後50年賀顧みる須田国太
郎展」が開催された。地元京都では2012年12月から本年2月にかけて岡崎の京都市美術館での開催となり会
期中多くの美術ファンが詰めかけた。
 須田画伯は京一中卒業後、三高を経て、京都帝人で美学・美術史を修め、また関西美術院にも通って理論的研究
と共に実技の修練も重ねた。後、ヨーロッパに渡りベネチア派の色彩理論やバロック絵画の明暗法を研究する一方、
欧州各国を訪ね、西洋絵画の探求にも努めた。
 須田国太郎の芸術はこれまで高い評価を得ているが、その作品の画風と時代背景については同窓会西島会長(当
時)が同窓会誌で詳述されている。
注(*)
 2011年東日本大震災や原発問題による不安定な情勢のもと、自然や人間の本質を追求したその絵画は時代と
共にますます価値が増していくのではないか、と会期中何度も美術館を訪れたという、京一中洛北高校生のひとり
は「あかね」誌の西島会長の文にもふれつつ感慨深げに語っていた。
 今回の回顧展は昭和7年東京銀座で開催の第1回個展出品作や独立美術協会展出品作を中心に須田国太郎の風景
や草花、島や動物などを描いた主要作品で構成され、訪れた多くの美術ファンや京一中洛北高校同窓生にも、その
深遠な境地に到達の須田国太郎の世界を印象づけた。
注(*) 同窓会誌あかね43号(平成17年版)会長巻頭言「学徒出陣の図」

  佐々木高明(昭22)民博元館長偲ぶ会開かる
=梅棹忠夫(昭12)初代館長と創設から発展へ=

 
 4月4日逝去の佐々木高明(京一中昭22)国立・民族学博物館第2代館長の「しのぶ会」が6月12日(水)
吹田市の民博を会場として行なわれ、京天元総長をはじめ、各大学の教授や研究者など内外から多くの関係者が弔
問に訪れ、佐々木元館長の専門分野における学問的業績と足跡を偲んだ。エントランスでの献花のあとは講堂ロビ
ーでの写真類の展示があり、参列者は照葉樹林文化論を早くから唱えた同博士の広い地域におけるフィールドワー
クの記録に見人っていた。
 会場でじっくりと故人をしのぶ京一中で共に学んだ同窓生のひとりは、「戦時下、そして敗戦直後の混乱期の学
校での授業はほとんどなかった。しかし極端な状況下勤労奉仕の僅かな隙間に我々は自主的に勉強した。その時に
佐々木君の既成観にとらわれない歴史的見解など早くも彼の学問の片鱗がうかがえた」と語り34回同窓会におけ
る佐々木講師講演を思い出し、懐かしく語った。(*)
 
 民博館階上のセミナー室では梅棹忠夫初代館長、佐々木高明2代館長の記念座談、講演の映像が公開され、熱心
に視聴の参列者も多く、そのひとりは「おふたりは共に創設準備から携わられ、初代、2代と館長を務められた。
着想の梅棹さん、具体化の佐々木さんの京一中コンビが世界一流の民博をつくり、発展させられた。まさに京一中
の教育の具現化ではないか」と感慨深げにコメントした。(*)「あかね34号」(平成8年版)参照。

PTA新会長に佐々木彩子氏(洛34)半井達弥前会長(洛30)から引継ぎ
 洛北同窓生が2代つづいて会長に ---------------------------------------------------------- 73

 平成25年度PTA会長に洛北34期の佐々木(重乃)彩子氏が選ばれ各役員と共に学校側に協力し生徒を見守
り支えることになった。前年度会長として1年間母校の教育環境の向上に努力してきた半井達弥氏は洛北30期。
保護者の立場から会長を務めた。

日々の小さな積み重ねを大切に ------------------------------- 前会長・半井達弥氏(洛30) 73
 2011年は東日本大震災により多くの方々の命や生活が奪われました。また、福島の原発の事故で、人類が今
まで培ってきた科学への信頼感が大きく揺らいだ年でもありました。現在でも放射能汚染の問題は解決の方向性す
ら見出せず、また、原発の再稼動問題など私達の日常生活にも大きな影響を及ぼしています。これらの社会情勢は、
多感な生徒たちの目にはどのように映るのでしようか。
 洛北高校は、SSHとして文部科学省から「将来の国際的な科学技術系人材の育成」指定を受けています。私は、
生徒の一人ひとりが、「真理を思う気持ち」を持って、これらの問題を見つめ、自分たちの意見を友人や先生たち
とぶつけ合い、高め合える、一つの機会として欲しいと考えています。 また、そのことが進路の決定に影響を与
え、自ら志した道を選択し歩むことで、これからの日本を支える人材となるよう育って欲しいと思います。
(PTA会報より)

大樹を思う ------------------------------------------------------ 現会長・佐々木彩子氏(洛34)

 高校生だった時、ある日の体育の授業中に急な雨が降ってきたことがあり、校庭の大本の下で一時の雨やどりを
しました。その際に先生が言われた「寄らば大樹の陰」という言葉が今日でも強く残っています。「今、こうして
雨をさけて、皆自然にこの木の下に集まってきたでしょう。こういう大樹にあなた方はなりなさい。
」  それまでこの言葉が、権力や地位のある人におもねるという、印象のよくないものと考えていた私は、初めて物
事を多面的にとらえることの大切さに気づかされ、深く心に沁み入るものを覚えました。
 雨やどりの木は今でもここ洛北の運動場に立っていて、かたわらには下草の萌える時節です。その将来がより豊
かで幸せであることを願い、学校と保護者とが一丸となって生徒たちを見守り支えるのがPTAの役割です。全校
生徒が安心、安全のもとに充実した学校生活を送れるよう、また意欲を持って向上していけるよう、取組みたいと
思います。  (PTA会報より)

本部だより --------------------------------------------------------------------------- 74

〔平成24年度第59回総会〕

 12月1日(土)京都タワーホテルで出席者148名のもと開催。安藤会長、井関特別顧問の挨拶のあと議長に
今井秀明(20期)副議長藤井輝基(21期)両氏を選出。三島事務局長より会務報告、山川常任理事より会計報
告、予算説明があり、古澤監事より監査報告のあと承認された。続いて講演会に移り、田中均講師(14期)によ
る「外交を語る」(別掲)。そのあと懇親会に入り各年次毎のテーブルに別れ懇談。30期年次当番によるビンゴ
ゲームなどアトラクションで楽しみ、時間と共に会場を動きながら年次を超えた懇談が続いた。
〔平成25年度理事会〕

第1回 3月9日(土)同窓会会議室
平成25年度予算内容について
平成25年度総会(12月7日開催)取進め(31期が年次当番)
あかね51号編集・広告打合せ

第2回 6月9日(日)同窓会会議室
特別顧問による母校近況報告
平成25年度総会開催要項打合せ
京一中記念碑について説明

第3回 9月8日(日)母校コモンホール
今年度総会内容につき打合せ
京一中記念碑建立へ審議

【51号編集委員】
堀江博(担当理事・6期)、、三輪新造(11期)、奥村文代(15期)、新室良子(15期)、岡本由美子(16期)、
高木重介(16期)、八田香津子(19期)、遠山祥子(20期)、武居三郎(特別委員・一中)

あかね第51号
平成25年10月10日発行 非売品
発行所 京一中洛北高校同窓会
    〒606‐0851 京都市左京区下鴨梅ノ木町59
          京都府立洛北高校内
電 話 075−712−0375(FAX共用)
発行者 安 藤  仁 介
印刷所 (有)森田美術印刷


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