会誌あかね
あかね

あかね第47号の主な記事
巻頭言
「よく生きるということ」----------------------------------------------------会長 西島 安則(昭和19年卒)2
 ご挨拶------------------------------------------------------------------特別顧問 宮原 芳久(校長) 3
 第55回 総会講演要旨「洛北女子ハンドボール全国制覇への途」-----------------------------------------4
                                                                    洛北教諭  楠本 繁生監督
記念事業趣意書・事業報告-------------------------------------------------------------------------- 7
京一中140周年洛北高校60周年を前に
                   〜京一中と私・ままに〜----------------------------------------------------------- 8
                   〜洛北と私・そして今〜---------------------------------------------------------- 12
会員著書紹介       「森林はモリやハヤシではない」「レアメタル超入門」-------------------------------- 20
                         「建築現場管理の100ポイント」「ブラームスと芭蕉たち」
村山槐多没後90年いま脚光ふたたび・表紙解説 ------------------------------------------------------ 22
朝永・湯川に先立つ村山槐多という超人がいた -------------------------------- 稲垣 眞美(昭和18年卒) 24
恩師を偲んで ―林正次郎先生・小林滋先生 -------------------------------------------------------- 32
クラス会だより―目次― -------------------------------------------------------------------------- 34
洛北4年間を振り返って -------------------------------------------------- 前洛北高校校長 塩見 均 49
母校だより ------------------------------------------------------------------------------------- 52
洛北高校と源氏物語(その2)-------------------------------------------------- 下田 元美(洛北16期) 56
支部だより(北海道・京浜・東海・乙訓地域会・関活洛有会)----------------------------------------------- 60
OB会だより(陸友会・野球部OB会・京一中あかねゴルフ会・洛北排好会 ---------------------------------- 65
             ・叡水会・局友会・バドミントン部OB会・園芸OB会・京一中洛北クラブ)
平成20年度決算書・会費納入のお願い ------------------------------------------------------------- 70
本部だより -------------------------------------------------------------------------------------- 72
             題字「あかね」は表千家 久田宗也宗匠(昭17年卒)揮毫
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  〒606−0851     京一中洛北高校同窓会
  京都市左京区下鴨梅ノ木町59
  府立洛北高等学校内    Tel&Fax 075−712−0375
  URL:http://www5f.biglobe.ne.jp/~kfrkd              
  E-mail:kf31.rk41.d6@kna.biglobe.ne.jp              
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あかね47号「本文」

巻頭言
 --------------------------------------------------------会   長 西島 安則(昭和19年卒)-- 2



 ソクラテス(469−399BC)が遺し、弟子のプラトン(427−347BC)によって伝えられたこの言葉
は、古代ギリシャで生まれた「哲学」という営為の最も基底にある不動の大原則となりました。
 ソクラテスの死刑が執行される前夜、親友のクリトンが獄舎に忍び込み脱獄をすすめるのを、堅く拒否する場面を
プラトンは対話篇『クリトン』に感動的に述べています。
 静まり返った獄舎の暗い廊下をクリトンはソクラテスの独房に向かっています。衛兵も看守も姿を見せません。実
は、夜明け前に親友を脱獄させて安全な所へつれて行く手筈をすっかり整えて迎えに来たのです。独房に入ると、ソ
クラテスは安らかに眠っていました。クリトンはベッドの横に座って、幼い頃から親しく一緒に育ってきた友の寝顔
を見守っていました。
 やがて、ソクラテスは目を覚まして、クリトンが居るのに気がついて、「クリトン君、いったい何で、こんな夜明
け前に、ここへ来たの?妙だね、どうして看守が君を通したのか?」クリトンはそれには答えずに、「知らせをもっ
て来たのだ。僕にとっても、君の友人のすべてにとっても、なんとも耐えがたく、重苦しい極みの知らせだ。あの祭
使を乗せた船が、デロスでの神事を終えて、今日アテナイへ帰って来るのだ。この船が帰って来れば、死刑が執行さ
れることになっている。ソクラテス君、君の生涯の最後の日は明日ということになる。頼む! 僕と一緒にここを脱
出してくれ、友達も皆準備を整えて君を待っている。さあ、行こう」
 ソクラテスは、このクリトンの切な友愛の叫びにも全く動かされることもないように、「おお、愛するクリトン、
ぼくを助け出そうとする君の熱意はよくわかる。だが君の言うようなことをなすべきか否か、ぼくたちは調べてみな
ければならない」こうして、正、邪、美、醜、善、悪など、哲学的な対話はどこまでも高くまた深く続くのでした。
 クリトンはたまらず悲壮な思いで、「もう何も言わない。ソクラテス君、なんでもいいから、僕の言うとおりにし
てくれ、いやだなんて、どうか言わないでくれ」と、愛する親友の身を案じて、手を取らんばかりに懇願するのでし
た。しかし、終に、ソクラテスは「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなく、よく生きると
いうことだ。この「善く」というのは「美しく」とか、「正しく」とかいうのと同じなのだ」と言い切って、脱獄は
正しいことではないとして断固拒否しました。
 クリトンは「ぼくにはもう言うことがないよ」と力尽きました。ソクラテスは「それなら、クリトン君、これでか
んべんしてくれたまえ。そして、これまでどおりにしようではないか。それが、神の導きだからね」

 そして夜が明けて、ついに来るべき時が来ました。役人が来て、「今日の日没までに毒人参を飲み干すように」と
改めて死刑を宣言し、ソクラテスの足首をしめていた足枷の錠をはずじました。
 朝早くから外で待っていた友人達は許されて、独房に入り、ベッドの上に座って、痛い足首をさすっているソクラ
テスを囲みました。クリトンは、お別れの宴のために、特別のぶどう酒を用意して来ました。耐え難い惜別の思いに
皆沈んでいましたが、ソクラテスだけは自分の生涯をよく生きて達成した思いからか、さっぱりとすがすがしい顔を
していました。
 日が西に傾いて、牢役人が差し出した毒杯を従容としてあおり、ソクラテスは永遠と一つになりました。70歳で
した。

 プラトンが初めてソクラテスに会ったのは、前407年と云われています。そのとき、ソクラテスは62歳、プラ
トンは20歳でした。この師弟が共に「哲学」を語り合えたのは、わずか8年間でした。ソクラテスの裁判と刑死に
ついて、プラトンは『ソクラテスの弁明』や『クリトン』などの対話篇で、「よく生きる」という師の生き方を2千
何百年を経た現代のわれわれの魂に直接ひびく言葉で伝えています。
 プラトンにとって師ソクラテスがどのような存在であったか、そしてその師を失ったときのことを「これらの事態
に目を向け、万事がすっかり転変してゆくのを見ながら、ついには眩暈がしてきたのでした」と語っています。
 それからプラトンの”生の選び”の長い遍歴が十年以上もつづき、ついに、これしかない、という答えに至って正
しく哲学する者による政治の実現を目指す「アカデメィア」と呼ばれる学園をアテナイに創設しました。前387年
でした。

ご挨拶  天の時 ---------------------------特別顧問 宮原    芳久(校長) 3


 同窓会の皆様方には、日頃から本校の教育活動に多大のご理解とご支援をいただいておりますことに、心から感謝
申し上げ、厚くお礼申し上げます。
 4年間の本校勤務の後に定年で退職された塩見校長の後を受け、着任してから6ヶ月が過ぎようとしています。私
にとってはまだ学校の行事が一巡しておりませんが、「あかね」の紙面、毎月開催される同窓会理事会、様々な場面
でお会いする方々からの「私も洛北の出身です」という言葉に接する中で、同窓会の皆様方の学校に対する熱い思い
が伝わって来て、心強く感じております。
 さて、学校の方も、5月末に5月末に京都市域のすべての学校が新型インフルエンザの拡大防止のための臨時休校
という、かつて経験したことのない事態が起きました。
 そのような中にあって、ハンドボール、陸上、囲碁、放送、SSHの研究発表の活動が全国で活躍したこと、その
他の活動でも府下で立派な成績を収めたことをうれしく思っております。(詳細は52頁)
 また、9月には洛北高校文化祭も開催しました。60回目の開催ということで、テーマを「天の時、地の利、人の
和」とし、洛北の地で出会った喜びを共感できる取組としました。年度の後半でも、これまでの伝統を受け継ぎなが
ら充実した取組を進めていきたいと思っております。ご協力の程よろしくお願いします。
 さて、平成21年度(2009年度)は、平成16年度(2004年度)に開校した洛北高等学校附属中学校の入
学生が高校3年生に在籍しており、また、平成19年度に設置類型の変更による普通科第U類文理系の第1期生も高
校3年生に在籍しております。洛北高校の新しい教育システムがいわゆる完成期を迎えます。今年度末には、この新
しい教育システムのもとで学習した卒業生が同窓会に入会してまいります。どうぞよろしくお願いします。
 学校を取り巻く状況も、年々変化しております。その時代時代における生徒・保護者や社会のニーズに合った教育
実戦の中から、社会において存在感のある「洛北」でありつづけたいと思っております。
 同窓会の皆様方におかれましては、今後とも格別のご理解とご支援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

第55回 同窓会総会【講演要旨】 ----------------------------------------------------------------- 4
「洛北女子ハンドボール全国制覇への途」
                                                                    洛北高校教諭  楠本 繁生監督


 私は東京オリンピックが開催された1964年10月10に和歌山で生まれました。このオリンピックに合わせて
開業した新幹線の0系は今年(2008年)に引退し、又体育の日が10月10日から第2月曜日に変わったりと長
い年月が過ぎています。
 昨年、選抜、インターハイと4連覇を達成しました。生徒たちがこの歴史を創ったなかに私も居るということを大
変うれしく思っています。私が洛北高校に赴任してちょうど22年目、人生の半分を過ごしているこの22年間を振
り返ってお話をいたします。

昭和62年4月に洛北高校に赴任 ------------------------------------------------------------------ 4

 高校、大学とハンドボール選手として過ごし、昭和62年3月に大学を卒業後すぐ洛北高校に赴任しました。当時
男子、女子共にハンドボール部は活動していましたが、顧問に専門の先生がおられませんでした。
 「どんな感じか」と一週間ほど黙って見に行きました。時には30人位部員がいたり、時にはグランドに5人しか
来ていなかったりで、部員たちに「自分がハンドボール部員だと思うもの全員集合しろ」と集合させました。男子女
子合わせて60人位集まり、チーム作りを進めるにあたり生徒達に「スポーツは楽しくやるのとチャンピオンを目指
すのと二つの選択があるがどちらを選択するか」と聞いたところ「勝ちたい」という声が圧倒的で洛北ハンドボール
の選択が決まりました。
 当時、私は指導するに当り、今まで色々な指導者を見、又スポーツに携わってきた過程で大きく分けて、けなして
怒るタイプとほめるタイプがあるなと思っていました。私自身は褒めるタイプの指導者が好きでしたが、上を目指す
には激しさがないといけないと思い、あえて、怒るタイプを選びました。その当時の生徒は毎日練習を持続すること
が苦痛だったようです。部員が60人いるのに一番初めの合宿に一人しか来なかったという事実に、あまりにも急発
信しすぎたか? と思い悩む日々でした。
 先ず教えていかなければならないことは身体を科学的に鍛え、技術を身に付け、そして努力をしていく事ですが、
生徒達自身が自分の力がどのくらいなのか解ればより頑張ってくれるのではないかと考え、練習試合をこなし、先ず
は「京都で一番になる」ことを目標にしました。
 その当時、中学でハンドボールをしていた生徒はほとんどおらず、高校から始めた生徒が大半で、意識が低く、頑
張り、努力することで自分達がどういう領域までいけば勝てるかが、なかなか見えない状態でした。目標を定め上の
レベルのチームを相手に一つずつ勝利することで自分達の力を理解したのではないかと思います。生徒達が頑張って
くれたおかげで3年目位に京都で優勝することが出来ました。

京都から近畿大会へ

 次の目標は、近畿のレベルを制覇ということになったのですが、この時私自身も経験不足であったため、なかなか
練習試合をしてもらえませんでした。それが私自身のバネにもなり、勝たなかったら物が言えないのだと痛感させら
れました。
 近畿のレベルでの試合で生徒たちは勝つ喜びを得て、自分達でやれる、本当に強くなれると確信し、欲が出てきま
した。当時、洛北高校に定時制があり、全日制生徒は5時半で完全下校、練習時間がたいへん少なく場所的環境的に
恵まれていませんでした。練習時間がもっと必要と認識が出てきた生徒たちと話し、平成元年頃から朝練習を始め、
もうすこし時間を増やして上を目指そうということになってきました。
 実力がつき、根性もつき、いろいろなことが出来るようになり、あるレベルまでくると大会でも当然鍛え抜かれた
チームが集まります。今度は、なかなか勝たせてもらえなくなりました。難関にぶつかり、精神面のウェイトが大き
く占め、京都で勝っても全国に出た当初はインターハイでも選抜で1回戦で負けて帰ってきました。生徒たちは、「
勝ちたいなぁ」という程度だったと思います。「勝ちたいから勝ってやる」と、どこまでもあきらめずにやる事が大
切だと思いました。また、練習、合宿を含め大会を勝ち抜くまでの長丁場を、生徒も指導者も健康、怪我等含めて、
体力がないやり抜けないと思います。体力が無いと集中力が欠け、妥協してしまうので、指導者自身の健康管理も重
要だと思っています。

スポーツの世界は敗者と勝者だ -------------------------------------------------------------------- 5

 勝負の世界は勝者敗者の二つに分けられます。勝つためには障害を乗り越える努力がいります。努力というのは日
頃生徒にもよく言うのですが、「目標に向かっての行動をじっこうする力」。私自身、人間は一生勉強で、努力とい
う言葉も永遠で、生きるということへの活力だと思っています。
 ハードルが高くなればなるほどレベルアップが必要で、指導者としては基本的な練習を繰り返す努力を生徒たちに
より要求し、情念、気迫、気力を身につけさせる。そして忍耐強く練習を見守り、お互いに信頼関係をより深く築く
ことだと思います。
 全国大会で初めて優勝したのは平成6年、私が29歳の時に、富山で行われたインターハイでした。出場4回目の
ことで目標と現実がどう勝利につながり、どのように太いパイプで結ばれるのか、指導者も生徒も本心でやれると言
える事が、一つの自信にもなると思いました。
 理論と実践という意味では、理屈は解っているが、動けないなど、作戦を練っていても実際コートでやるとお互い
が、特にハンドボールの場合、接触プレーがあるので、相手との間合いや力関係、高さ、スピードといったものは、
作戦では想定できない部分で、コートの中が勝負であり、それが基本だと思っています。又、時間と努力というのが
当然必要不可欠です。日々のトレーニングで常に試合を想定し、多くの色々な困難を練習の中で状況を作り出してい
き、その内容が濃くなればなるほど日本一に近づくのだないかと思います。
 練習では当然、質、密度が大切で、その練習の必要性を生徒自身が把握し、実際ゲームでどういう状況が起きてい
るかという事を指導者自身もしっかり分析し、生徒たちに伝える仕事もあると思っています。

若い頃の指導と挫折 --------------------------------------------------------------------------- 5

 昔若い頃、分析についても随分失敗したなと思っています。当時、全国大会に行っても挨拶をしてもらえる人がほ
とんどいなかったので、対戦相手の情報をもらえずにいました。今みたいに業者が大会でビデオを撮って、お金を払
えば送られてくるということもありませんでした。洛北のビデオは随分売れているらしいですけれども・・・・。
 僕が20代から30代前半ぐらいまでの時代は、なかなか映像としての情報が得られず、耳で聞いた情報を自分が
ミーティングで生徒たちにそれを強調して話してしまいました。そうなると生徒たちは、先生がそういうのだからあ
の選手はやっぱりすごいのだと思ってしまい、結局試合になると変にその選手が活躍してしまったり、変に攻撃され
たり、何か気落ちしたりで、ゲームが終わってしまうことがありました。
 私の監督としての反省は、自分の目で見て冷静に分析し、どう戦うかを自分の感性で判断しなければならない点だ
と思っています。だから、生徒が大会に行くと、次の対戦相手の試合が見られたらそのゲームは見せますが、他の試
合は一切見せず、自分の試合が終われば宿舎に帰らせて休ます、というスタンスを取っています。あまり大会に行っ
て慌てることが無い様に、簡単ななのですが普段の練習から単純なトレーニングの積み重ねをしておきたいと思って
います。これがなかなかしんどいですよね。

技術は練習量に比例、実戦で鍛える --------------------------------------------------------------- 6

 スポーツではこれが正しい、常にこれが正解だというものはありません。その一瞬を状況判断し、これがベストと
思ったことをやっていく。これが大切です。特にハンドボールはサッカーやラグビーと同様に戦術は考えられても思
うようにゲームは運びません。無数の選択肢の中から体が反応するまで反復練習をする、そしてミスを減らし、成功
する確率の高いプレーを体で覚える。これが一番のポイントでありベースであると考えます。技術は練習量に比例、
技術は時間の関数、といつもいっています。また実践で鍛えるのが最も有効との考えから年間100試合の目標を立
て各地の強豪校と対戦しました。そして選手が実践を通じて「ファンダメンタル」を身につけるよう指導しました。
実践こそ具体的課題をいかにクリアするか選手にわからせてくれるかと思います。

生徒は1年1年が勝負 --------------------------------------------------------------------------- 6

 われわれ高校生のスポーツは一年一年が勝負です。一度のチャンスのためにふだんから準備をしておくことを念頭
に毎年「今年しかない」と思って指導して来ました。
 ハンドボールもチームプレーであり、友達つき合いならお互い良い所、良い面だけでつき合えるが、ハンドボール
は、なれ合いではチームをつくれません。最初から本音でやらざるを得ません。そのために相互に良い面、悪い面を
ぶつけていかなければなりません。下級生のうちはチームよりも自分の技量、能力を伸ばすことに全力を費やすよう
教えますが、上級生となれば別です。あくまでチームづくりが主体となります。

関係者の支援に感謝の心 ------------------------------------------------------------------------ 6

 このようにチームづくりをして来ましたが、やはり第一にいい人材、選手の発掘に常に注力しています。第二にハ
ンドボール競技をつづけるための環境が大切です。幸い学校関係者のご支援で練習に試合に全力をあげることができ
ました。そして忘れてならないのは第三に保護者、家庭の理解です。高校のスポーツチームとして学業と両立させな
がら競技をつづける。全国各校との対戦のため遠征を行う。保護者の理解と、応援があればこそ可能となります。常
に感謝の心を忘れずに競技に取り組んでいます。

登った山を下りる ------------------------------------------------------------------------------ 6

 やるからにはとことんやらなければの信念でここまで来ました。スポーツとはそういうものであると思います。高
校生のスポーツとして、スポーツを通して教育に好ましい影響を与えていると確信しています。我慢、思いやり、助
け合い、葛藤、不安、決断、感謝、礼儀作法など人生に必要なことを学んでいると思います。こうしてわれわれ洛北
女子ハンドボール部は成果をあげることができました。
 同窓会誌にも大きく載せていただき、各地での試合では同窓生の方々の思わぬ応援もいただきました。(編集部注
:あかね46号参照)輝かしい結果を出した生徒たちはハンドボールの成績と共に多くのものを得たと確信していま
す。
 今度は彼女たちが、登った山をうまく下りてくれることを望んでいます。

京一中創立140周年・洛北高校創立60周年 記念事業趣意書 ------------------------------- 7

 来る平成22年(2010年)は、今日一中創立140周年・洛北高校創立60周年になります。そして3月には
中高一貫教育6年間の課程を終えた第一期生が卒業します。京一中140周年、洛北高校60周年、中高一貫教育第
一期生卒業を同窓会上げて盛大に祝いたい存じます。
 現在、同窓会会長を実行本部長とした組織が同窓会理事他のメンバーで構成され式典・行事や事業の実施に向けた
具体的計画への取り組みをしております。

 行事については洛北高校が「スーパーサイエンス ハイスクール」指定を受けて実績を積み重ねていることを踏ま
え、「記念式典」にノーベル物理学賞受賞者の京都大学名誉教授・益川敏英先生の招請が決まりました。

 事業については、母校の一層の充実を同窓生として応援いたしたく、今回「記念式典」会場となる室内体育館の機
能整備を図るために、同窓生の皆様に寄付金をお願いするものです。

 昨今経済環境は厳しい情勢でありますが、母校のますますの発展を応援し、同窓会活動を活発に運営していくため
に、何卒この趣旨にご賛同いただきまして、同窓会会員各位の格別のご高配、ご支援を賜りますようお願い申し上げ
ます。

 記念事業
 1.記念式典の開催(式典、教育フォーラム、記念イベント等)
 2.母校への援助
 3.その他

 募金要項
 1.募金総額 2,000万円
 2.募金方法 1口 3,000円 以上

                                   京一中創立140周年
                                   洛北高校創立60周年 記念事業委員会
                                                              本部長 西島 安則
                                                              委員長 中嶋 康喜

京一中140周年洛北高校60周年を前に


                   〜京一中と私・ままに(その1)〜------------------------------------ 8

 京一中が京都府中学として開校したのが明治3年。日本最初の中学である。この中学は3つの源流をもっている。
その一つは明治元年に御所内に再興された学習院。この学習院に始まる大学校が明治3年7月京都府に移管され、閏
10月「中学」の名称のもと認可された。もう一つは京都府が明治3年から5年にかけてそれぞれの開設した独、英
仏の各学校で、まとめて「欧学舎」と称され、京都府中学の組織に組み入れられた。これら二つの源流とは別に京都
府が明治2年に「中学」の構想を発表したことに始まる流れがある。
 二条城北の地に開設された創立時から寺町時代、さらに真宗大谷派経営の新町時代から吉田時代に至る十数年間は
学校の名称や所在地が転々と変わったが、明治30年から、大正年間を経て昭和4年に至る33年間は校舎は吉田近
衛町に所在、いわゆる吉田時代となった。そして昭和4年下鴨新校舎の竣工により下鴨に移転。
 それから昭和、平成と時代が移り変わり、京都府立京都第一中学校は戦後の教育制度の変更により洛北高等学校に
引き継がれたが、来年2010年には創立140周年となる。ここに下鴨新校舎に最初の入学生として過したOBは
じめ一中OBに思い出を語ってもらった。

 下鴨「新」校舎一期生 井垣隆敏(昭和10年)(昭和5年〜10年)--------------------------------- 8

 私が京一中に入学したのは昭和5年。いまや下鴨旧校舎も歴史上の存在との由、下鴨の地に最新の設備をもった鉄
筋コンクリートの校舎が完成したのは昭和4年。従ってこの新校舎で行われた初めての入試を受け、合格発表を家族
に連れられて見に来たことを憶えている。
 通用門から西「植物園電停」にかけての通学路の両側と疎水以南から南部にかけてはすでに住宅地であったが、南、
一本松辺りから北大路辺りまでの西側にはまだ田圃が残っていたし、当時の北大路は拡幅されただけの草茫々の砂利
道だった。
 重厚な京一中の新校舎のまわりは東側に第二下鴨小学校(現葵小学校)が建設中(同年6月開校)で、東は浄水場、
北は松ヶ崎の山々まで一面の田圃、中をゆるやかな弧を描いて疎水が流れていた。その両岸に植えられた桜は当時ま
だ径6〜7センチの若木で、のちの室戸台風(昭和9年(1934年)9月21日室戸岬上陸)では根こそぎ倒れ、
根元には泥土が流れ込んでいた。その復旧作業に一中生が駆り出され、植木職の指導で木を掘り起し、支柱に棕櫚縄
で括り付ける作業などを手伝ったが、その手法を私は今だに覚えている。
 また、時に軍事教練が野外で行われ、元気いっぱいの一中生は、うっかり天然肥料桶(のつぼ)にはまったことも
あった。
 家が吉田の私は丸太町線を利用、河原町か、烏丸で乗り換え、烏丸通りを北上、烏丸車庫前を右折、賀茂川西の終
点植物園前で下車という迂回の通学路だった。このため、2年生からは仲間3人と連れ立って糺の森を通り抜ける徒
歩通学にした。

 すばらしい先生から充実した授業を受ける一方、昼休みには待ちかねたようにラグビーで遊んだ。運動場いっぱい
に各学年ボール1個の5集団が入り乱れてのラグビー。一見無秩序のようだがそれぞれ自分のグループははっきりし
ており、いつか疾走する柔道部の猛者に果敢なタックルをしたことがある。また、雨天のときは体育館でのバスケッ
ト、あの楽しい昼休みが憶い浮かんでくる。
 服装はわれわれの時代と次の学年までが詰襟で、夏は霜降り木綿一重の上下、冬は半ネル裏付きの黒木綿またはガ
ス地の上下だった。その後は折り襟の夏冬ともカーキ色地の制服になった。山本校長は発育期の青少年に巻脚絆は良
くないと教練以外のゲートル着用はさせないという方針を堅持され、一中生は通学、下校時ともゲートルは巻いてい
なかった。

 補習科も充実 ------------------------------------------------------------------------------ 9

 私は錦林小に通っていた頃から桜章のマークを胸にクロスカントリーに励む三高生に憧れ、三高に進学して陸上競
技をしたいと思っていたが、一中を終えたあと補習科に通うことになった。この中浪の間に同窓はもとより他校出身
を含めて心の通う友を得たことが誠に有難く、多くの今は亡き友を含む、永い交友の思い出は誠に楽しく私の無上の
喜びである。(京都・上賀茂)

 びくともしなかった新校舎  霜鳥 正(昭和14年)----------------------------------------- 9

 私が一中に入学した昭和9年秋、室戸台風が襲来、大きな被害をもたらしたが、ちょうど通学途上でそれに遭遇、
折から賀茂川が増水、中賀茂橋(現北大路橋)にも水が溢れそうな勢いで、そのまま学校に行かず帰宅したのを憶え
ている。この台風は雨と共に風が強く、付近の家屋はガラス窓が割れたり被害を受けたが、一中の新校舎はびくとも
しなかった。そして、金網入りの一中の窓ガラスもいささかもゆるぐことはなかった。
 当時住んでいたのは御所の近くであったが、市電で植物園前まで行き、そこから徒歩で府立農林学校の前を通り京
一中の正門に至るのが、通学経路であった。中賀茂橋西詰めの電停から府立、府立一中の生徒が競歩でそれぞれ学校
に向かっていたが、こちらは正門に教練のカバ先生がどんとにらんで立っておられ、思わず駈け足で校門にすべり込
んだものだ。
 市電とは別に京都駅から一中前に折り返す市バス路線もあった。市電は6銭、市バスは10銭だったと思う。
 私たちの頃は徐々に戦時色が出て来て、修学旅行も中止となっていた。もっとも一中生は旅先のあちこちでイタズ
ラをするので一部の旅館で音をあげ引率の先生に強烈なクレームがついて、このため取り止めになったとの説もあっ
たが・・・・・・。
 2、3年前まであった伝統のウサギ狩りも中止となったが、これは山にウサギが居なくなったからだと思う。
 京一中生は大学の先生の師弟も多く、頭の良い生徒ばかりだったが、それでもワルさをして、校庭でも元気にあば
れていたのが眼に浮かぶ。クラス50人の5クラスで250人がクラス替えもあり5年間に交わり一中精神を担い、
一中の伝統を引き継いで勉強に運動に励んでいた。

 京一中洛北との縁再び -------------------------------------------------------------------- 10

 私の両親は東京人で父は東京一中の出身だが、縁あって私の生まれる前に京都に住いを移した。存命中、東京一中
日比谷高校同窓会の方がお見えになり、なつかしそうに東京一中時代の話をしていたのがついこの前のように目に浮
かぶ。
 その後、私は企業勤務、さらに大学教鞭生活を終え、ここ下鴨に居を移し、今はなつかしい母校に隣接して過ごし
ている。京一中を継ぐ洛北生の元気な声、テニスコートの音を聞きながら、ふと京一中時代を想う今日この頃である。
 (京都・下鴨)

 一年生で国語巻三から勉強 高月 一 (昭和18年) -------------------------------------- 10

 (昭和13年〜昭和18年)
 京一中入学は昭和13年だった。そして、昭和16年12月8日の太平洋戦争突入は4年生の時である。寒稽古と
称して寒い時に朝早くから登校して武道の道場で訓練があった。
 当時、配属将校が学校の行事に参加していた。そして「教練」というのが時間割のなかに組み込まれていて、配属
将校の話を聞いたが、内容については全く忘れている。
 さて、国語の授業には、I 書店が編集した「國語」が使われて、一年生の時の第T課は、「牛を牽く」ではなく、
「牛を追う」とするものであるという話であった。この教科書は、中学5年間で全部で10巻を修了する予定で編集
されて、「平家物語」や「枕草子」などの一部分が紹介されていた。当時の京一中では1年生でいきなり巻3から勉
強することになっていて、面喰らった。先生方も苦心されたに違いないが、生徒たちはただ読むだけで精一杯だった。
 泉鏡花の「北国空」という名文は巻4で1年生の後期の分だったが、省略されたようである。1年生でも歯が立つ
ような文章のところだけが教室で読む対象だった。やさしそうな部分を勉強したことになっている。
 そのほか、英語、代数、幾何など色々あったが、見事に忘れているようだ。忘れるということがなかったら生きて
行けないと寺田寅彦が書き残しているが、断片的に記憶しているようで、昭和18年組は、卒業後40周年時に短文
集をまとめた。そして、50周年と60周年に文集を出版した。それぞれ約400頁を超える大作となった。

 今も続く同期会の集まり ------------------------------------------------------------------- 10

 一方、同窓会会合は毎年続いており、「あかね」誌に報告している。東京在住の有志による東八会は、平成21年
秋で有終を迎える予定である。また、夏に鴨川の床に集まっていた会は、会席がインフルエンザのために閉会となり
立ち消えとなったのは残念である。しかし、思い出は尽きず一同元気そうである。(神戸・住吉)

 4年生で繰り上げ卒業 -------------------------------------------- 八木惇夫(昭和20年4修)10

 昭和3年生まれが殆どの私たちは、今で言うアラ傘(サン)やね、と孫に言われました。アラウンド傘寿の略とか
・・・・。
 私たちは大東亜戦争(当時太平洋戦争をこう呼んでいた)開戦の昭和20年に卒業するまで文字通り軍国時代を過
したのでした。

 しかし、さすが一中で、3年生までは、体力章検定、野外教練のほか、近隣農家への勤労奉仕、歩道の防空壕堀り
などに狩り出されはしたが、それでもまだ勉強が主体の中学生活でした。
 しかし、4年生から通年動員となり、終日工場で飛行機製造作業に従事することになり、隔週で夜勤も始まりまし
た。
 そして昭和20年3月、本来5年生だった旧制中学の4年生も繰り上げ卒業と決まり、5年生と一緒に卒業するこ
とになりました。もっともこの特例は、終戦で一年限りの措置となり、我々は伝統ある京都一中の歴史に残る唯一無
二の4年卒業生となったのでした。
 卒業式後も動員は続き、上級学校の門をくぐったのは、終戦も近い7月半ばのことでした。
 思えば、食料は配給制、衣料も点数制と何もかも不足した時代で、「欲しがりません! 勝つまでは」と頑張った
ものです。

 毎年集う二〇四会 -------------------------------------------------------------------------- 11

 今や卒業して60有余年、毎年集う京一中二〇四会の同窓会総会で合唱する応援歌と校歌に、以前にも増して一中
生としての誇りと喜びを感じている今日この頃です。先日、我等が同期の人気者で、京都の著名な錺(かざり)金具
師だった森本安之助君の葬儀に列席した仲間たちと、校旗を模した二〇四会の旗を打ち振り、霊前で校歌を斉唱した
のでした。(京都・下鴨)
 *体力章検定 米俵担ぎ、手榴弾投げなどがあり、その成績に応じて級別に分けて認定された。

 混乱と激動の時を過す ------------------------------------------- 八木 芳治(昭和22年修) 11

第二次大戦敗戦前後、混乱と激動の時を過した京都。往時は茫々として鮮明に記憶していることは少しはあるが、
ほとんどが忘却の彼方に沈んでしまっている。父は内務省で転勤が頻繁にあった。小学6年の時伯父の家から錦林小
学校に通ったが、やがて家族も京都に移り、京一中入学時は私の家は京都にあった。終戦の少し前家族は父の任地の
横浜へ移り、私は近衛町のNさん宅にお世話になった。
 終戦の年の秋、戦災地の混乱を避け落ち着いて教育を受けさそうという父の考えで家族は再び京都に居を定めた。
だが、それも束の間、米軍に家を接収、内部の改修工事が強行され、家族揃って食事中に食堂の天井をはがす工事を
されるなど、問答無用の占領軍の処置に敗戦国の悲哀を実感した。家族は追い立てられるように再び父の任地に去り、
私は北白川の旧家の離れに下宿することになった。
 このような混乱の時期に過した京一中時代だが、ある日の朝礼での一コマを今も思い出す。

 ある朝礼での一コマ(筆者のクラス会誌への寄稿文を転載)

 京都一中での3年目、特別科学学級が編成される直前のときであったが、上級生は全員勤労動員で校舎を離れてい
た。一中では毎朝校庭で朝礼と体操があり、とある朝、命じられて1年から3年生の全員に整列の号令をかけ、隈部
校長を待っていた。
 しかし、なかなか校長が姿を現さない。鬼の教練教官、ドーナツこと吉川先生はじりじりして私に命じた。「おい、
八木、校長室へ一走りして『吉川先生が早く出て来い』と言っていると伝えてこい」
 私は全速力で校長室へ疾走した。校庭から校舎の奥までは結構距離がある。私は、はあはあと息を弾ませながら校
長室の扉をあけた。「校長先生、全員整列しました。吉川先生が早く出て来いと言っておられます」
 しまった、言い直さねばと思ういとまもなく怒声が飛んできた。「吉川先生はそんなことを言ったのか」14歳の
紅顔の少年にはとっさに言い訳する才覚がなかった。
 校長の訓示が終わり、大西先生の掛け声で体操が始まった。校長は部屋にお帰りになる様子だ。私は壇上の様子が
気がかりで、後ろの列で体を動かしながら凝視していた。何と校長が吉川先生を呼びつけて何か話をしている。ドー
ナツ先生は少し頭を垂れてうやうやしく拝聴している。これはきっと私のことだ。全身に冷や汗が噴き出てきた。や
がて体操をする生徒達の間を縫ってドーナツ先生が近づいて来る。両手を後ろに組み、何やら下を向いて厳粛な面持
だ。私は今まで教練の教官に殴られたことがない。しかし、今日は間違いなく彼の鉄拳制裁で私は地面に這いつくば
ることになるだろう。
 ドーナツ先生が私の前に立った。万事窮す。覚悟を決めた。「八木、お前は正直な奴だな。俺の言うことをそのま
ま言う奴があるかい。もっと要領よくやらんかい」苦笑いをかみ殺しながら去って行った。さっき彼が近づいて来る
とき、恐ろしい顔が見えたのは笑いを懸命にこらえていたのであった。
 ドーナツ先生もまた一人の人間であった。(大阪・豊中)

 洛北高校60周年を前に ----------------------------------------------------------------- 12


                〜洛北と私・そして今〜(その1) ------------------------------------------ 12

 昭和20年8月の終戦により、社会制度の多くの分野で変革が行われたが、学校教育制度もそのひとつであった。
 旧制中学が廃止され、新制高等学校が昭和23年(1948年)4月にスタートした。伝統を誇る京都一中もその
例外でなく、昭和21年入学生が、最後の新入生となった。一方、卒業生は昭和23年卒が最後の旧制京一中卒業生
となった。この年、昭和23年に新制の高等学校が全国的に発足したが、京一中の場合最後の卒業生を送り出したあ
と、一時的に校舎は京都府から京都市に貸与され、市立新制洛北中学の校舎に転用された。
 そしていささかの混乱と紆余の後、昭和25年(1950年)4月1日京都府立洛北高校として復活、初代青柳英
夫校長が就任、ここに京一中の伝統を引き継いで新制洛北高校の歴史が始まった。
 爾来60年の年月が過ぎ、新制といわれた母校洛北高校も来年2010年(平成22年)に創立60周年還暦を迎
える。洛北高校還暦の年を前にして、卒業生たちは母校洛北でどのように過ごし、何を思っているのか、それぞれ語
ってもらった。


混沌のスタート新制高校 ------------------------------------------------------ 山城明信(洛1)12

 第2次大戦のあと社会制度が大きく変わる中、学制も例外でなく旧制中学に通っていた我々世代はあっちへ行ったり
こっちへ来たりと右往左往の状態でした。そして昭和25年4月新制洛北高校の開校式がありました。
 1年生と2年生が同時に新入生として入学。なぜか洛北は他校より遅れてのスタートでした。
 京一中の歴史と伝統をいやがうえにも感じさせる校舎、教室。諸設備もまだ十分でないなか、青柳校長先生以下、
一中以来の先生、新進気鋭の先生、そして生徒一体となっての学校つくりでした。そのなかで私は極く普通の生徒と
して2年間を過ごしました。当時の自宅は校庭のすぐ南。始業の鐘とともに生垣をくぐり教室へダッシュ、先生が来
られる前に席に着いていました。

漢詩が結ぶ洛北との縁再び ------------------------------------------------------------------- 12

 人にはそれぞれの運と出会いがあります。
 60年位前に洛北に京大から若い漢文の先生が講師でお見えでした。そうとは知らずにチャンスがあって最近先生
から漢詩の教えを受けることになりました。神戸大学名誉教授一海知義先生です。そして昨年9月大阪で先生の傘寿
のお祝いの会がありました。中国文学の第一人者の足跡が紹介されましたが、なんと碩学の教壇の第一歩が非常勤講
師としての洛北。
 会場には全国からの関係者に交じり洛北からも往年の教え子や同窓会関係者が参加、小生もその輪に加わり高校時
代にもどりました。小生70歳台なかば。身体の自由は覚束なくなりましたが、勉強はまだまだこれからです。手術
した心臓のリハビリのため、杖を突いて歩け歩けです。
 『自愛曳杖声・・・・・蘇東波』 杖の音を聞くのが大好きです。
 『悠然見南山・・・・・陶淵明』『独座敬亭山・・・・ 李白』山登りは私にとって厳し過ぎるので、遠くから山
を眺めるだけです。
 『我舞影繚乱・・・・・李白』自分が楽しい時には、影が繚乱します。
 『起座藤床掻短髪・・・・陸遊』最近特に薄くなった頭を掻いています。
 『多病所須唯薬物 微躯此外更何求・・・・ 杜甫』毎日の薬が大変です。
 『力耕不吾欺・・・・・陶淵明』
 何事に対しても、一生懸命取り組めば、自分なりに出来るところまで道は開けると信じています。(大阪・元会社
役員)

洛北の今昔と私 ----------------------------------------------------------- 山田光二(洛4) 13

 (昭和27年〜30年)

 洛北開校の2年目(昭和27年)に入学した。全学級は12組、女子は約4割である。当時の社会的関心は「朝鮮
動乱」であり、サン・フランシスコ講和条約で敗戦の占領から開放された。校風は青柳校長のもとで、自己責任を持
つ人格形成にあった。各教科の先生たちは、生徒によく考える教育指導がなされた。
 東洋一の校舎が下鴨に完成したのは昭和4年である。今の近衛中学校から移転時には、全生徒が机や下駄箱を歩い
て運んだと云う。この話は故林屋辰三郎先生(京一中卒、京大定年後に京都国立博物館館長」から伺った。私たちは
そうした伝統的なものを受けていたと思う。
 さて、私は現在、洛4の同窓会や行事などの準備員の一人として同級生たちと協力し、論議している。なかでも「
洛4歩く会」が約15年前から始まり、毎月一度の割合で行われ、年一回の旅行である。参加者は十数人から四十数
人であり、70才余りになると、足腰が丈夫であるように願っている。(大阪・名誉教授)


下鴨神社で奉仕の洛北生 ---------------------------------------------------- 椎村悌知(洛7)13

 (昭和30年〜33年)

 「千年の森かげに一頃の緑もえ」と、校歌の歌詞にあります糺の森下鴨神社のお世話をさせて頂いていますが、多
数の洛北高校出身者の方々が神社総代として奉仕されておられます。
 現代の社会では経済的な概念が優先され得か損か、勝者か敗者か、権利か義務か二者択一で考えられることが多く
ありますが、世の中全て、割り切れるものではなく間に潤滑油ともいうべき奉仕やボランティア等が大変重要ではな
いでしょうか。又、下鴨神社のお世話をさせて頂き感じますことは、過去長年に亘り先人達は感謝しながら奉仕に尽
くして来られた事で現代があるわけで、我々の使命としては営々築いてこられた、伝統、文化、奉仕の精神を、後輩
達に伝えていかなくてはならないのではないかと思っています。
 高校時代の思い出といえば初めての数学の授業で、後ろの席に3年生が単位が取れなかったので、我々と同じ授業
を受けておられらたのが驚きでした。中学生と違って勉強はしっかりやらなくてはえらいことになると身を引き締め
たものです。しかし、高校生活に慣れてくると、初心を忘れて授業をさぼり映画によく行ったものです。最後になり
ましたが、社会に出て洛北高出身と云う事で初対面の方とも会話が弾み親密になれたこと感謝申し上げます。
 (京都・自営業)

今はこれでいい ------------------------------------------------------------ 岡 美波(洛10) 14

(昭和33年〜36年)

 嫁いで41年。嫁の立場で、そのうち母親の立場になり、子供たちの独立で、改めて嫁の立場に戻る。古希目前の
私はその段階にあって、舅と夫の3食の賄い婦(師?)である。身体の動きも、思考の回路も全て緩慢になり、頭脳
は忘却の渦で詰まり子供時代の記憶も消え、非常に危なっかしい。それを何とかこなしながらの毎日。
 先日、突然旧友に会いたくなり、男性二人の昼食の段取りをして出掛けた。理由なく誘われもせずに自分から押し
かけたのは、嫁いでから初めてである。お陰で心はすっきりした。夕食を外食で済ましてくれた舅と夫に感謝しなが
ら、風呂の準備をし、洗濯物を取り入れる。
 初めてのことだ、と書いたが、これには伏線があったことに気付いた。かなり以前から、ちょこちょこと誘いがか
かっていたのは、全学年の同窓会に加えて、小さいグループの同級会。旧友たちは遠方で出難い私を、どうにかして
引っ張り出そうと試みてくれ、私も折角の誘いに甘んじられるようになった。遠方に嫁ぎいつの間にか凝り固まって
いた私の出不精を少しずつ溶かしてくれている。
 私は、頑固な性格ゆえか、昔から友人の数は少ない。にも関わらず声をかけてくれる友人たちがいる。会ってみる
と瞬く間に、記憶には断片的にしかないあの時代の雰囲気に戻ってしまう。それが何と幸せなことか。自由な空気に
抱かれて共に教えを受けた時代、とりわけ洛北高校時代の、数少ないけれどいい友人たちに感謝している。  (奈良・主婦)

図書館と司書と部室 -------------------------------------------- 稲垣(成田)比佐子(洛13) 14

 (昭和36年〜39年)

 卒業して半世紀近く。私にとって洛北高校と言えば、図書館。館内にあった生徒の部室がまず浮かんできます。夏
休みも文化祭も大半をそこで過ごしたような気がします。
 今の高校生が多くの制約を受け、過保護に「守られている」のに比べ、当時の私たちは、義務教育を終え大学並み
に自由で、自主性を重んじた大人の扱いを受けていました。掲示板で休講を確認し、部室から講座のある教室へ通い、
昼食も部室で食べていました。横には司書の先生方の部屋があり、その先生方に代わってカウンターで貸出しの手続
きをしていたのが、私の将来の道筋をつけてくれたのかもしれません。
 大学を卒業して教師生活に入り、都合で早めに退職した今は、孫や近所の子供達の遊び友達として、未来を担って
くれるこの子供達が心優しい大人に成長してくれることを願って、毎日を過ごしています。(京都・元教師)

洛北の伝統の恩恵 --------------------------------------------- 佐野(今村)邦雄(洛16) 14

 (昭和39年〜42年)


 今年の3月に、37年間の公務員勤務を定年退職した。
 40年以上も前の洛北高校での3年間は、それに比べると非常に短いが、在学中に洛北の伝統を実感したのは重厚
な校舎のたたずまいくらいであった。
 社会に出てから、業務に行き詰った時に、「僕、洛北の卒業生なんです」と告げた相手の姿勢が一変して、上手く
進んだことが数多くある。所詮、官庁の仕事であるから民間の業務とは性質が異なるが、思惑どおりに事が運ぶ喜び
は同じである。そんな時は、京一中・洛北高校の伝統や同窓会組織の大きさをありがたく感じたものである。勿論、
相手も卒業生であるか、関係者でなければならないのであるが、世間でも、「洛北は名門」と位置づけられているの
は間違いない。これからも、この恩恵を受けられる人生を歩んで行きたいと願うこの頃である。(京都・元公務員)

大事件続発の高校生時代 -------------------------------------------------- 川井 正(洛19) 15

 (昭和42年〜45年)

 私が高校生であった1970年後半には、30年後の今でも印象に残る大きな出来事が数多くあった。大学紛争、
3億円事件、プラハの春、文化大革命等々。しかし、違う意味から忘れられない人類初の月面着陸。
 当時7月の下旬には3年生用に補習授業があった。講師の先生は、こんな受験の勉強をするより、テレビでも見て
歴史的な瞬間に参加するほうが意義があるかとか言われ、宇宙の話を長くされていた。
 また、「都市の論理」(羽仁五郎)が当時のベストセラーであったが、この分厚い本を広げ、授業そっちのけで読
んでいた人が回りに数名いたのも懐かしく思い出される。大学や社会に進んだ時に、何が役に立つかわからない。限
られた学問ではなく、幅広い知識を身につけておくことが重要である。そんなことを学んだ3年間であった。
  (神奈川・会社員)

目に浮かぶ下鴨通りの仮装行列 ----------------------------------- 澤(岩田)友岐子(洛22) 15

 (昭和45年〜48年)


 騎兵隊やインディアン、ゼウスや天使、白雪姫やモンスターなどが、我が物顔で下鴨本通りを闊歩している。時は
1972年、洛北高校学園祭の仮装行列である。目を閉じると今でもその情景が浮かぶ高校時代一番の思い出だ。ク
ラス毎にテーマを決め、全員が何らかの扮装をし学校の周りを練り歩く。テーマに合った『だし』をリヤカーの上に
組み立てたり、近くの染色工場から布を戴き、皆の衣装を考え制作したり。3年生の受験の年だが、皆各々の役割に
没頭し遅くまで学校に残って作業していた日々は懐かしい。わがクラスのテーマは「ギリシャ神話」ヤンチャな男子
を美しいビーナスに変身させて大好評。列の最後はゴミ拾い役がちゃんと道を掃除して美化に貢献。夜はチェンジな
しのフォークダンス。お相手がいるいないでドキドキ。ほろ苦い想い出だ。
 さて、時は移り今の高校生が30余年後に思い浮かべる印象的な行事は何であろうか? 現在ゆとり教育の反動で
公立高校の大学進学が低迷している中、今年度、洛北高校附属中学校生が初の受験を迎える。私学に劣らぬ先取り授
業の成果を期待している。私もそして末息子もお世話になった洛北高校。学業ばかりではなく、高校生活の想い出の
幅が狭くならないよう、私の時代の仮装行列に替わる現在のステージパフォーマンスなどのよき伝統がいつまでも継
承されることを願っている。 (京都・主婦)

洛北で学んだ大切なこと ----------------------------------------------  安井 雅明(洛25) 15

 (昭和48年〜51年)

 高校当時の自宅は賀茂川と北山通りが交わるところにありました。そこから植物園、府立資料館を過ぎノートルダ
ム女子大学の角を曲がると程なく洛北高校の威風ある旧校舎が見える、懐かしい毎日の通学路です。学校では先生方
がそれぞれに個性的な授業をされていました。特に授業の中で「洛北は自由を重んじるが、それは責任に基づいて得
られるもの」「洛北は伝統ある高校だが、それは新しいことにチャレンジしてきた歴史である」「教わることよりも
自ら学び考えることがもっと大切」などのお話をされていたことを覚えています。今思えば生涯にわたってとても大
切で基本的なことを教えて頂いていたのだなあと実感し、あらためて感謝しています。
 洛北高校を卒業後、大学では建築を学び、現在は建築構造設計の仕事をしています。大きな地震や風などに対して、
技術的な検討を行い安全で安心できる建物を、より合理的に皆さんに提供しています。構造設計の仕事においても洛
北で学んだ基本精神に基づき、「自由」な発想を大切にし、自分の設計に「責任を持ち、新しい構造技術にも「チャ
レンジ」するため「自ら学び考える」よう心がけています。
 最後になりましたが、妻は洛北高校の同級生(旧姓吉田)です。いろいろ悩みや心配があるものの5人の子供に恵
ぐまれ、卒業以来33年になりますが、毎日家で同窓会をしていることを報告させていただきます。
 (京都・会社員)


思い出の学校行事・仮装行列 ------------------------------------- 石田(石井)日奈子(洛28) 16

(昭和51年〜54年)

 気がつけば、アラフィフと呼ばれる歳になった。洛北卒業後就職、結婚、子育てとバタバタ20代、30代、40
代を生きてやっとひと息ついたら今の自分がいる。
 今の若い子の学校生活を見てるとかわいそうに思うのはやっぱり私が洛北出身だからなのか・・・・。思い出とい
えば、何といっても自由な高校生活を送れたという事。多分今では考えられない事だろうが、休講という生徒にとっ
たら「贈り物」をもらい、校門から飛び立つ。そういう自由もあったからやる時はやった。
 勉強はできる方ではなかったがいろんな行事は楽しかった。仮装行列も思い出深い。必死で衣装を作って道具を作
ってクラスも盛り上がった。歳はとっても内面はあの時と代わらない気がする。
 同窓会で昔話に花が咲くのは幾つになっても変わらない。きっとこのまま歳をとっていく来がする。洛北高校を卒
業出来た事を本当に誇りに思う。(京都・会社員)

洛北との縁、そして得た宝物 ------------------------------------------- 松室 哲二(洛31) 16

(昭和54年〜57年)

 3年前、長男は洛北の附属中学入試に挑戦した。私と洛北高校の縁は強かったが、期待に反して彼との縁は弱いも
のであった。
 さて、高校時代の私は、放送部に所属した。何故か縁あり入部した部活動であったが、私には人生の羅針盤を見つ
けたそんな出逢いであった。放送部での私の担当はアナウンサーであったが、最初からそれを希望した訳ではない。
 しかし、自分の居場所は何処だろうと考えるうち、自然とこの役回りに落ち着いた。そして日々アナ練をし、マイ
クを通した放送を担当するうち、いつしかアナウンスの持つ面白さの虜になっていた。最後にはアナウンスルームで
一人の時も、聴衆を前にした演壇上でも、緊張せず話せる自分がそこにいた。
 人にわかりやすく、自信を持って自己表現できる能力の修得は、私にとってかけがえのない宝物である。人には色
々な出会いがある。これからも私は出会えた縁を大切にして行きたいと思う。(京都・学校法人事務職)

陸上競技ひとすじ ---------------------------------------------------- 辻 彰彦(洛34) 16

(昭和57年〜60年)

 私たちの学年は普通科と商業科で9クラス、常に開放されていた校門を自由に出入りし、休み時間には前店でお菓
子を買う者、付近の有名なケーキ店に買い出しに行く者、喫茶店に入り浸る者、個々人が自由気ままな高校生活を送
っていたようにおもいます。
 私の高校生活は陸上競技一色でした。選手として特別の記録を残すことはできませんでしたが、グランド南端の直
線路、雨天時の教室の廊下、学校外では賀茂川河川敷、宝ヶ池公園、府立大学グランド、京大農学部グランドなど、
共に汗を流した友人たちの顔とともに懐かしく思い出されます。雲ケ畑合宿、ウルトラクイズ高校生大会に参加した
ことも陸上競技部の仲間達との良き思い出です。
 生徒会活動にも参加しましたが、生涯の伴侶と出会ったこの生徒会活動こそ、洛北高校における最大の奇跡?かも
知れません。また、教職に就くことはありませんでしたが、母校洛北高校での教育実習は、忘れえぬ経験です。
 現在、勤務先の大学において陸上競技部の顧問を、ボランティア活動として京都陸上競技協会の常務理事・経理部
長を務めさせていただくなど、陸上競技とは切っても切れない毎日を過ごしております。このご縁に恵まれましたの
も、洛北高校で陸上競技に出会ったからこそであり、洛北高校での人との出会い、人脈が、自分の人生に大きな影響
を与えてくれています。
 洛北高校陸上競技部の同窓会である「洛北陸友会」の事務局を担当しておりますが、人と人とをつなぐ役割を果た
すことで、少しでも母校洛北高校に恩返しができればと考えております。(京都・大学職員)

洛北の伝統「自由」を伝え ------------------------------------- 永木(加藤)孝志(洛37) 17

 (昭和60年〜63年)

 小学区制が廃止され、普通科に類型が導入、いわゆる高校三原則が崩れた年度の入学でした。母が通っていた高校
に山科区から受験できるんだと喜んだのを覚えています。
 幼少より母から洛北の事を聞いていました。自由であること。この「自由」とは何かと考え続ける3年間でもあり
ました。私服で通い、校則も数少なかったように思います。校門は閉まることはなく、度々外へ晝食に出かけたのを
覚えています。「自由」とは自己責任を伴うことを学びました。
 3年間クラス替えはありませんでした。気心が知れた仲間たちと文化祭で仮装行列。リヤカーに竹組みをしてアラ
ビアンナイト。北大路通りを練り歩きました。型にはめられることも無く、自らの意思を実現するために友人と語ら
い、行動しました。
 私は現在、教師をしています。型にはまり安心したい高校生たちに「自由」を教えています。(兵庫・教師)


洛北で学んだ主体性の意味 ---------------------------------------------- 上田 宗重(洛40)17

 (昭和63年〜平成3年)

 私が洛北に通っていたのは、大学志願者が最も多く、受験戦争などという言葉があった頃でした。クラスには、1
年生から予備校に通う者もおり、私は常に受験に急き立てられているような感覚でいました。
 一方で、洛北での授業は、受験対策一辺倒という雰囲気はありませんでした。古典の高木先生、音楽の松田先生は
学ぶことの面白さをわかりやすく教えてくださいました。
 もちろん、英語の稲葉先生をはじめ、受験に向けた補習を開いてくださった先生もおられました。ただ、参加を強
制されたことはなく、私自身の主体性が試されていたように思います。
 社会人生活も15年目に入りました。サラリーマンとはいえ、仕事が降ってくることはなく、主体的に仕事を創り
に行くことが求められています。洛北で学んだ主体性の大切さを、日々感じています。(岡山・会社員)

教える今思う高校時代 ------------------------------------------------ 小柳 健一(洛43)17

 (平成3年〜6年)

 現在は富山県立大で研究や教育に修行の日々だ。学生のおしゃべりで講義が妨害されることはないが、話を聞いて
いないことに変わりないようだ。試験の採点が終わるたびに、あれだけ何度も強調したのにと愕然とする。
 しかし、自分も高校の頃は授業は上の空で、便覧や資料集の関係ないページばかりをずっと読んでいた気がする。
これも話を聞いていないことに変わりはない。お恥ずかしい限りである。
 高校の頃は、山岳部だったこともあり、頻繁に山に登っていた。京都は日帰りで気楽に行ける山が多く、たいへん
恵まれているように思う。卒業後もしばらくは一人で山に登っていたが、最近はとんとご無沙汰だ。
 富山も、もちろん立山など山には恵まれている。息子がもう少し大きくなったら、一緒に行ってみようかと思う。
 (富山・大学教員)

惜別のおんぼろ校舎 ---------------------------------------------- 丹羽 夏子(洛46) 18

 (平成6年〜9年)

 私が卒業したのは1997年で、この次の年から旧校舎の解体工事が始まりました。卒業式の時「この講堂ともお
別れか」と寂しく思ったのですが、その校舎で実際に学生生活を送っていた頃は「おんぼろ校舎」などと文句をよく
言っていました。
 旧校舎は石造りで天井が高かったので、冬は厳寒の趣があり、限りある灯油をいかに効率よく使うかということを
みんな切実に考えていました。夏は風の通りが悪く暑いこと暑いこと。向かいのお店で売っていたバケツのようなカ
ップに入った大盛りのかき氷をつつくのが楽しみでした。また、築50年の校舎には、時折、蹴飛ばさなければスラ
イドしないドアや、押しても引いてもびくともしない「開かずの窓」がありました。1年生の頃、演劇部顧問の堀田
先生に「窓にお願いしてごらん。心からね」と教えていただいて、本当に開いた時は、不思議に感じ「この校舎には
何やら精が宿っているに違いないと思ったものでした。
 校舎が取り壊される直前、仲の良い友達数人と旧校舎の見納めに行きました。玄関に大理石のホール。見上げた正
面玄関の堂々とした佇まい。「電話・電報」の看板のかかった公衆電話。油の匂いがする教室。最後に、先に工事が
終わっていた新校舎の屋上に上って夕暮れの旧校舎を眺めました。
 屋上の天文台がシルエットになって、校舎の大きな窓に映り本当にきれいでした。文句はあれど、親しく近しかっ
た、あの建物のことをいまでも懐かしく思い出します。(京都・学生)


眞の友だち・あの日のことば ------------------------------------------ 松野 泉(洛49)18

 (平成9年〜12年)

 それは高校生になって最初の授業の日の事でした。担任の先生が初めて教室に集まった生徒達を前にしていました。
「今、あなた達は高校生になりました。きっと仲の良い友達もできるでしょう。でもよく覚えておいてください。あ
なたが今この教室で一番気に入らない人、こいつとは絶対に友達になれないと思う人の顔をよく覚えておいてくださ
い。その人はあなたにとって一番大切な人かもしれません」
 教室はシーンと静まり返っていました。これから気の合う仲間を作って楽しい学校生活を送ろうとしている学生た
ちには全く解せない話でした。
 あれから10年程経ち、私は相変わらず定職にもつかず落ちこぼれの人生を送っていますが、人との出会いには恵
まれてきました。おかげで、お金はありませんが、豊かな毎日を送っています。あの日、あの教室で出会った言葉の
おかげかも知れません。(京都)

洛北で出会ったハンドボール --------------------------------------- 江村 良孝(洛52) 18

 (平成12年〜15年)

 卒業して6年が経ち、高校時代を振り返ると、楽しい日々よりも辛かった事の方が脳裏に蘇ります。そんな私の青
春は、ある先生との出会いから始まりました。入学当時のクラス担任であった楠本繁先生に、男子ハンドボール部を
勧められ入部する事になりました。ハンドボール部が厳しいクラブという事は噂で聞いていましたが、そのような環
境で聞いていましたが、そのような環境で自分がどこまでできるのかチャレンジしようと決意しました。
 しかし、入部したものの練習の厳しさに1年生の頃は、先輩方に付いていく事だけで精一杯でした。弱音を吐き、
楠本先生に何度も相談に行きその度に、励ましの声を掛けて頂きました。
 2年生になり怪我でコートに立てない日々が半年以上続きました。そんなときに、当時の男子ハンドボール部顧問
であった西村純先生から主将を任せられました。チームの目標は「全国制覇」です。私は不安で一杯でしたが、任せ
てもらった限り自分にできる事を精一杯やろうと心に誓い、そこで私はプレイできない分、日常生活やメンタル面で
チームの手本となれる様にと心がけました。全国制覇は叶わぬ夢となりましたが、目標を持ち、高い意識で切磋琢磨
し、クラブを3年間続ける事ができたのは、先生や、先輩方、家族、友人、沢山の人の支えがあったからこそだと思
います。
 現在は、Hondaの広告マンとして愛知県名古屋市で働いています。遠く離れた場所からでもハンドボール部の活躍
を耳にします。その度に勇気付けられ励みになります。
 今日までの25年間は、多くの人に支えられっぱなしの人生でした。この先の人生は、周りの人から頼りにされ、
いつか私も誰かを支えられる様に人として成長していきたいと思います(愛知・会社員)


懐かしい小テスト ------------------------------------------------- 佐野 祐子(洛55) 19

 (平成15年〜18年)

 しょっちゅう小テストに追われていた。10分間休みには友達と渡り廊下で英単語や世界史を暗記した。「やばい、
あと何分?」「この単語マニアック過ぎじゃない?」愚痴をこぼしながらも、結局はきちんとこなすクラス。居心地
が良かった。この環境があったからこそ私は3年間、学生らしくいられた。(北村先生の数学からは逃げたが)
 大学で華のキャンパスライフを送っていると、高校時代の自分をよく振り返る。クラスの環境に甘え、先生方に甘
え、高校生といる肩書に甘え、あらゆる物事に対して受身であった自分。現在では打って変わって主体性が求められ、
何を学び、誰と何をして過すのか、十分過ぎる程の自由を手にしている。「学生」と一言にいえども、高校と大学で
は学ぶことがこんなに違うものかと感心している。
 そんな学生でいられるのも残すところあとわずか。来年から社会人として新たなスタートを切るわけだが、キャン
パスライフで鍛えた主体性を求められつつも、洛北高校のあのクラスのような居心地のいい職場であればと思う。
 (京都・学生)

思い出、中庭でのトランペット ---------------------------------------- 黄の瀬黎(洛58) 19

 (平成18年〜21年)

 青い大空の下、きれいな校舎に囲まれた中庭の大きなクスノキの木陰で私はトランペットを演奏することが好きで
した。
 私は3年間吹奏楽部に所属しており、中庭での昼コンサート、マーチング練習、定期演奏会の練習、パート練習な
ど、中庭は私にとって思い出の深い場所の一つです。
 部活と勉強の両立はなかなか大変だったけれど、先生の熱心な指導があり、仲間の支えがあり、私は部活を続ける
ことができ、また大学進学も果たすことができました。洛北高校に入学し、多くの大切な仲間と出会い、また全力で
サポートしてくれる先生がいて、私は恵まれた環境で3年間過ごすことができたと思います。今でも時々、洛北高校
に顔をのぞかせると温かく先生が迎えてくれ、昔と変わらず笑顔で接してくれます。
 洛北高校に入って沢山のことを学び、充実した3年間を送ることができました。私は洛北高校の生徒でいられたこ
とを誇りに思い、また高校で出会った多くの仲間と先生に感謝しています。(京都・学生)

【会員著書紹介】
------------------------------------------------------------------- 20

「森林はモリやハヤシではない」 --------------------------- 四出井 綱英(昭和5年卒)著 20


 後世に残したい里山の風景といわれるように「里山」は日本特有の美しい景観であり文化としても大切である。こ
の本の著者である四出井綱英先生は里山の名付け親といわれており、その経緯が書かれている。名前としてだけでな
く里山が生態系として重要なことを説明して自然保護の思想を世間に広めた功績は大きい。京都大学で自分の講座を
「森林生態学」と名付けた経緯も描かれている。その後、生態学ブームが起こり優れた研究者が輩出しただけでなく、
市民が先生の著書を読み、野生動物や野鳥のいる森林に興味を持つ人が多くなり、国民的な環境保護意識が芽生える
背景となった。「四出井ファン」の自然愛好家だけでなく多くの方々にお勧めしたい一冊である。
 この本は雑誌寄稿文や講演記録を整理したもので「森林はモリやハヤシではない」はその一節である。平易な文章
で先生の研究や交友、学生指導の姿勢を垣間見ることが出来る。
 面白さに引き込まれて一気に読み終わり、「あとがき」まできて大変に驚かされる。この本の出版を考えた先生は
95歳で、奥様を中心に教え子が手伝い新しく口述原稿を加えてまとめたものである。意欲と記憶力が衰えない一中
・洛北の大先輩は私たちの誇りである。
ナカニシヤ出版
本体 2000円 277頁

「レアメタル超入門」
―現代の山師が挑む魑魅魍魎の世界― ------------------------- 中村 繁夫(洛北15期)著 20


 レアメタル「超入門」と銘打っているが、実は入門書ではなく、中国を始めとするレアメタルの国際的な争奪戦に
日本がどのように関わり、国家的な利益を守り抜くかの方策を示すことが、本書の落とし所である。百戦練磨の「山
師」としての筆者が辿ってきた実践録を、あたかも戦記物のストーリーを読むように、わくわくしながら読破してし
まった。
 小生も電池関係の翻訳で、本書に言及されているLME(ロンドン金属取引所)の資料等を訳した経験があるが、
相場の値動きに現在の経済状況と各国の貿易上の力関係が如実に反映されていて、固唾を呑んで見守ったことがある。
レアメタルに限らず、このようなスペキレーションの世界は生き物であり、的確な分析と判断を要する代物であろう。
 そういう意味においても、本書はメタルに興味ある人だけでなく、広く世界情勢を知ろうとする方々にもお薦めで
きる一書である。
 翻って、本書にも記述されているとおり、日本は世界一の都市鉱山(デジタル機器等に埋蔵されている金属資源)
の宝庫であり、新たな(通常の意味での)鉱山の資源を海外から調達するのもよいが、こういう都市鉱山の資源をリ
サイクルする仕組みを早急に整備すれば、廃棄物の削減、原材料の獲得、産業の活性化を図る一石三鳥の施策ではな
いだろうか。
 発行所 幻冬舎
 本体 740円 185頁

「建築現場管理の100ポイント」
 ―写真マンガでわかる― ------------------------------------------ 玉水 新吾(洛北20期)著 21


 本書のテーマは、「ブロークンウィンドウズ理論」。1枚の壊れた窓ガラスを修繕しないで放置しておくと、どう
なるでしょうか。やがて2枚目のガラスが割れることになります。管理されていないというシグナルを敏感に感じ取
った道行く人がつい悪戯で壊してしまいます。だから少しの壊れでもすぐに修繕して、管理しているというシグナル
にしなければならないという犯罪予防理論です。
 この理論は経験則として様々な分野で応用可能ですが住宅建築現場に応用したものが本書です。30年以上の住宅
現場を経験する一級建築士が、現場におけるブロークンウィンドウズを100項目にまとめて、それぞれ写真マンガ
という手法を取り入れて、解説を加えています。
 例えば、現場に設置される仮設トイレを見れば、管理のレベルや職人の人間性がわかります。現場全体が整理整頓
されないことにつながり、品質低下・コスト上昇・工期遅延・安全阻害・環境劣化につながります。
 本書は建築現場に携わる管理者向けの専門書と受け取る向きも多いと思いますが、これから住まいの計画をされて
いる建築主にとっても是非一読をお薦めします。現場で見るポイントがわかります。また建築現場以外どこでも応用
可能です。皆様の職場でもこの考え方を応用すると、改善点は数多く見つかることでしょう。示唆に富んだ内容です。
 発行所 学芸出版社
 本体 1900円 223頁

「ブラームスと芭蕉たち」

 ―現代に生きる太古の思想― --------------------------------- 吉江 久彌(洛北旧職)著 21


 吉江久彌先生は大正6年のお生まれ。昭和15年東京高師を終えられ旧制中学の教師に就かれたが、さらに東京文
理大に学ばれ昭和26年から33年まで国語科の教諭として洛北高校の教壇に立たれ、授業を受けた生徒も多い。洛
北高校のあとは仏教大学の教授に転じられ、立命館大、大阪外大、武庫川女子大などでも講師をつとめられた。
 思文閣から出版された本著は先生の思索、研究の集大成ともいえる。内容は3部から成り、
 第1部はブラームスを軸として論述、音楽家のブラームスの霊感による作曲のことから老子の思想、列子、荘子、
さらに芭蕉に及ぶ根本を「生きている宇宙の霊妙な働き」に見ている。
 第2部は第一部の内容に深く関わる太古のウパニシャッドの思想を紹介、それが近代になお継承されている事実に
触れている。深淵な思想を要約した格好の文章である。いささか難解な内容であるが、読み進めるうちに何時しか吉
江先生の語りに引き込まれる。
 第3部は先生が新聞やTVで見て感銘を受けられた折々のことが書かれている。比叡山でのダライラマとの出会い
のエピソードも。全体を通じて大昔の人の思想が今も新鮮で現代の世に益することが多いことを説いている。洛北在
学時、吉江先生の授業を受けた方は勿論、同窓生諸兄姉にじっくり読んでよしい一書である。
 発行所 思文閣出版
 本体 2000円 254頁

夭折の画家・村山槐多(大正3年卒)
没後90年いま脚光ふたたび・表紙解説 ---------------------------------------------------------- 22

 大正3年卒の村山槐多。同期生108名と共に明治43年入学、明治から大正へと推移する時代を京一中で過した。
 22歳で急死。没後すぐ出版の「槐多の歌へる」の推賞には有島武郎、芥川龍之介、高村光太郎、与謝野寛などの
名が並ぶ。没後90年今また、脚光を浴びている。

大作「日曜の遊び」槐多作 中日新聞1面で報道

 今年9月10日の中日新聞朝刊、政治記事が占める1面真ん中に大きく「大作やはり槐多作」の横見出し。これま
で洋画家山本鼎の作品とされていた水彩画【日曜の遊び」が科学的分析やデッサン技術などを詳しく調べた結果、い
とこである村山槐多の作であるとする岡崎市美術博物館の研究成果を報ずる記事であった。

毎日、NHKも槐多にスポットライト ------------------------------------------------- 22


 毎日新聞は7月12日から8月16日まで6回にわたり日曜版で「あの人に会う―日本近代史を訪ねて―」と題し
学芸部記者の取材調査記事を連載。第2回は京一中;洛北高校訪問記も。
 また、NHKは昨年9月7日(日)総合TV「迷宮美術館」159回で村山槐多をとりあげ日曜日午後の45分番
組として放送された。(BSでも放送)

芸術新潮は村山槐多特集 ------------------------------------------------------------- 22

 一方、槐多に関する著作には長年にわたる槐多の研究者(佐々木央)による「炎の白面にためらふ如く」が―村山
槐多大正6年作『湖水と女』ノオト―のサブタイトルで1988年出版。
 1996年には「火だるま槐多」(荒波力)が春秋社から発行され、翌97年には芸術新潮(新潮社)3月号が「
村山槐多の詩」の タイトルで、槐多特集を組み、各作品を収録すると共に槐多の生き様など多面わたる特集記事を
掲載。
 今年4月には「早世の天才画家」(酒井忠康)が中公新書として発行され、「宿命の十字路」として村山槐多につ
いても詳述。朝日新聞6月7日付読書蘭でも本著を紹介。


 (写真)卒業生製作品の一部(洋画)
  大正9年12月の「会誌」記念号には京一中開校50周年を祝う祝辞、祝信や祝賀記事が掲載されているが、記
念展覧会の様子も紹介され、卒業生作品の写真には槐多の作品も写っている。(左から3つ目)

   生誕100年槐多展 各美術館で作品展 -------------------------------------------- 23

 村山槐多が急死した直後の11月に、油絵24点のほか水彩画やデッサンなどを集め早くも遺作展が開かれている
が、槐多生誕100年の年に当る1997年には前記芸術新潮特集と並行して「生誕100年槐多展」が福島県立美
術館および三重県立美術館で開催され、美術ファンや関係者の注目、関心を集めた。

「村山槐多のすべて」展 ----------------------------------------------------------- 23

 1982年には「村山槐多のすべて」展が新発見の作品も加えて、出生地横浜の神奈川県立近代美術館で開催、同
時に発行の図録も200頁に近いもので各作品を収録。末尾には資料協力京都府立洛北高等学校の名も見える。

松涛美術館(東京・渋谷)で作品展「村山槐多 ガランスの悦楽」 今年12月から来年1月まで 松涛美術館


 没後90年を機に再び脚光を浴びる村山槐多だが、東京渋谷区立松涛美術館で「ガランスの悦楽 没後90年 村
山槐多」のタイトルのもと作品展が開催される。同美術館の主任学芸員は村山槐多の足跡を各地にたどり、今夏京一
中洛北高校同窓会も訪問、京一中関係資料を閲覧、資料担当理事へのヒアリングなど時間をかけ周到な準備のもと、
久々の村山槐多展に期待と関心が集まっている。開催は平成21年12月1日から平成22年1月24日まで

表紙「乞食と女」 村山槐多(大3)作品 解説 小野 啓亘 -------------------------- 23

 村山槐多は1914年京一中卒業後、日本美術院研究生(のち院友)となるが、翌年には早くも第2回日本美術院
展覧会で「カンナと少女」が院賞。1917年の第4回展で代表作といわれている「乞食と女」で再び院賞を受賞し
た。翌年の日本美術院試作展には「自画像」「男の習作」「樹木」などを出展し、奨励賞。また1919年にも「松
と榎」「松の群」「松と家」「大島風景」など短期間に作品の発表、受賞が相次いだ。
 画風は全体として技巧的でなく、原色を多用した力強い筆致で「庭園の少女」「バラと少女」「湖水と女」などの
女性像や「朱の風景」「信州風景」などの風景をモチーフとしたものなど多様。赤を主調として描いた「尿する裸僧」
は、異様な情熱を感じさせる。もっとも村山槐多らしい作品といわれている。
 特に油絵の具ではガランスといわれる赤色ーあかね色ーを好んだ。京一中校歌の冒頭にある「あかね」。槐多の在
学当時は旧校歌でこの新校歌は槐多の没後制定であるが、卒業後山並みが連なる信州で過ごす槐多が一中の校庭から
北山や、あかねさす比叡の峰を眺めていた姿を想像する。(洛北高校芸術科教諭 ・日展会員)

朝永・湯川に先立つ村山槐多という超人がいた
     稲垣 眞美(昭和18年卒)--------------------------------------------------------------- 24

 すべてにズバ抜け -------------------------------------------------------- 24

 大正3(1914)年、村山槐多は京都府立一中を出た。在学中同級生たちがみな彼を天才だ、鬼才だと信じてい
た。「10歳ぐらい年長に思えた」といった人もいる。
 のちに、かの有島武郎が超人と称えた。たしかに超人だった。そしてだれからも愛された。
 すべてが桁はずれだった。一中に入る前にいた京都師範(現教育大)附属小学校では毎年首席で、「戦友」の歌の
作詞で知られた先生の一人真下飛泉に、作文と絵を激賞された。父が一中の地理の教諭だった縁で、小学校下級のこ
ろから京一中の夏の伊勢の津の泅水会の合宿に参加し、小学5年の夏5町(5000メートル)の遠泳に合格。一中
に進んで、2年の時この津の遠泳で5里(20キロ)の試験に合格した。入学時も成績抜群で、必修の学科は全科目
90点以上、級長か副級長を務めたが、間もなくいたずら好きと分かり、修身が丙となり、級長の座を降りる。

 ここに、その一中2年の夏、津の海岸で観海流の遠泳仲間と撮った彼の写真がある。白いふんどしにメランコリー
とローマ字で書いている。まだ12歳だった彼は、すでにストリンドベルなみに「メランコリー」(憂愁)の語を知
っていたのだ。
 体操の時間、彼は平常の癖でグニャグニャ歩いて、軍人あがりの教師に殴られる。しかし、マラソンになると、槐
多は落伍した友達を引っ担いでトップを走った。友達はみな「槐多」「槐多」と親しんだ。
 一中3年になった明治44年(1911)年4月、新しい校長に森外三郎が就任した。
 一高と東大の理科を首席で終え、学習院教授となったが、それを蹴って欧米に留学、帰朝してすぐ一中の新校長と
なった。イギリスの誇るイートン、ハローに匹敵する学校たれと、生徒を紳士扱いし、一人一人と面談した。槐多の
番が来た。
「村山槐多君か。槐多とは面白い名前だね。お父さんがつけてくれたのかね」
「いや、鴎外さんがつけてくれました」
「オウガイ? おうがいって、森鴎外のことですか?」
「そうです。森鴎外です」
「ご親戚か何かですか」
「母が一時森家にいたものですから。長男の於都菟君とは兄弟みたいに文通しています」
「それは、それは――せっかくの名前に恥じないように、好きなことをどんどんやりたまえよ」
 槐多は、森校長の生徒の自由尊重の方針の中で、思う存分羽ばたき始めた。友人たちと同人雑誌も出した。その誌
名が「強盗」「魔羅」「アルカロイド」「青色廃園」等、まさに超えていた。槐多は表紙、カット、誌、短歌、怪奇
小説、戯曲を書いて注目される。その間母方の叔父のいた信州に旅して、信州風景の絵を描き、校内展に出品して、
森校長を感嘆させ、学校買い上げとなったが、槐多は寄贈して永久保存となった。
 病気で休学して同学年となり、特待生だった木村素衛(のち哲学者、京大教授)は、自分も絵を描いたが、この信
州風景に感動して、弟の木村有香(大正8年卒)、のち植物学者、牧野富太郎門下、東北大教授)と槐多を写生に誘
い、その折のスケッチも、学校に寄贈した。
 槐多の一年下に林達夫がいた。林も偉材で、一高に進んで全寮一の蔵書家として知られ、ロマンローランの「ジャ
ン・クリストフ」なども全巻原書で読破し、文芸部委員としても活躍したが、飽き足らず、退学して京大哲学科に学
び、ドイツ観念論一辺倒だった日本で、フランスのディドロ、ダランベール、ヴォルテール流のエンサイクロぺディ
スト(百科全書学者)と呼ばれる存在となり、和辻哲郎夫人の令妹をめとった。
 この林が、一中4年ごろ英語の特別教授をしてもらおうと、紹介もなしに堂々と京大文学部に英文科の上田敏教授
を訪ねた。上田敏は会ってくれて、教えてあげたいが時間がない、助教授の厨川白村君に頼んでみようと言われて、
林は内心厨川白村では物足りないと、そのアドヴァイスを断った。上田敏はその時「君の学校に村山槐多ってのがい
るだろう。おっかさんが時々家に来るんで知っているんだ。鴎外さんの紹介でね」といった。林はハッと思った。
 林達夫は個人的に上級の村山槐多を知っていた。同人雑誌の作品も畏敬しつつ読んでいたし、岡崎の図書館で英訳
のプラトン全集を借りて読んでいるのも目撃していた。ニーチェや、ベルグソンの生の哲学にも親しんでいた。上田
敏の「海潮音」もともに愛読する仲だった。しかしその著者に個人的な接触があると知って、先を越された、かなわ
ないな、という気がしたのだ。
 槐多のほうでも林をよく知っていて、林と同学年で、吉田の家の近くに住む美少年の一人に手紙を届ける役を頼ん
だりした。
 ところが、同じ時槐多は、相国寺の自分の家の近くの、昔の殿上人の家柄の友人を訪ね、友人が外出中だったのを
待つ間、目の前に真新しい襖があるのを見て、持っていた木炭をとり出すと、一気に美少女の絵を描き、「伏見のあ
の人」と添え書きした。
 そこへ帰ってきた友人は、あっけにとられたが、絵の顔を見てびっくりした。それは以前ただ一度槐多が賀茂川の
堤で友人とすれ違ったある女学生の顔の特徴を、そっくりとらえて輝くほど美しい。たまたま友人はその女学生と家
同士知り合いでよく知っていた。(彼女の妹は後に朝日新聞の大記者、社会部長として知られた鈴木文史郎夫人とな
る)一度すれ違っただけでここまで記憶する槐多の心眼に驚いたのだ。
 そういう話も伝え聞いて、林達夫は京一中随一の天才は村山槐多だ、と確信した。

 ここまでは、いわば彼についてのエピソードを通じてのことである。それよりも、一中卒業後5年足らず、22歳
で村山槐多が夭折したのち、友人たちが必死で集めて出した詩文集「槐多のうたへる」に収録された詩の中に、すぐ
れた天才の片鱗を見ることができる。一中在学中から卒業する前後の多くの詩文が載っているが、次の「京都人の夜
景色」と「にぎやかな夕ぐれ」の二編から一、二節を引用しよう。どちらも京ことばで書かれ、槐多17歳の作であ
る。


  京都人の夕景色

 ま、綺麗やおへんかどうえ
 このたそがれの明るさや暗さや
 どうどっしゃろ紫の空のいろ
 空中に女の毛がからまる
 ま、見とみやすなよろしゅおすえな
 西空がうっすらと薄紅い玻璃みたいに
 どうどしゃろえええなあ

  にぎやかな夕ぐれ

「ほんまににぎやかやおへんか」
 たどりゆくは女の群
 宝玉でそろえた様な多情な群
 美しいお白粉にきらきらと

 灯が灯が灯が加茂川の岸べに
 金色に、アークランプも桜色に
「ほんまににぎやかやおへんか
 きれいな夕ぐれやおへんかいな」
 長い詩篇をすべてご紹介できれば、もっとこれらの詩の素晴らしさが伝わるのにと思うが、これだけでも槐多の京
ことばのむせるような艶麗さが迫ってくる。まだ、烏丸四条から祇園の八坂神社へかけてが京都のメインの通りであ
った大正期の、たとえば初夏の物憂いような胸に迫るような情緒をも、その言葉はむせるほどに伝えているではない
か。
 槐多は中学時代、友人山本二郎の誘いで市内の小ホールで吉井勇の戯曲を上演し、背景画を受け持って、ショーの
戯曲やシングに詳しかった先輩山本修二(明治45年京一中卒、三高、京大教授、劇評家)に激賞され、新聞の批評
でも好評を博したというが、これらの詩の持つ京情緒こそは、たとえば吉井勇の祇園の歌や、谷崎潤一郎の耽美の諸
篇の表現すらもしのぐ。

 まっしぐらに生き尽くす ------------------------------------------------------- 26

 このような事蹟を京一中時代に残した村山槐多には、将来の可能性はいろいろあったはずである。文学を志すもよ
かろう。常々軍人や俗悪な富者、凡庸の世間を嫌っていたというから、愛読したプラトンの「国家」編やニーチェの
「ツアラツストラはかく語りき」のイデーによる経綸によって超人的革命家たらんと志しても、その体力、意志力、
気力から見れば、おかしくはなかった。
 また、特に母方の実家は旧岡崎藩の藩医だった家柄で、血続きの従兄嶺田丘造は、一高時代、のちに国会図書館長
となり新憲法制定にも参画した金森徳次郎、谷崎潤一郎、末広厳太郎(後東大法学部教授)らと同期で、独法科の2
番で卒業し、東大を経て大蔵省局長にもなった。この従兄とはその一高時代から槐多はしばしば文通して気心もよく
知っていた。どっちみち槐多は中学卒業後上京することになるのだから、同じく一高進学の選択肢もあった。
 だが、彼は、1914年3月一中を出ると、進学せず、まず信州のやはり母方の従兄で医者の子で画家の山本鼎を
頼り、その紹介で、3ヵ月後東京田端の日本美術院同人の洋・日本画家小杉未醒(放庵)の家に止宿して、絵画一筋
に精進することになった。
 プロの画家を志したのは、従兄の山本鼎がフランス遊学中、中学3年の槐多のよこした絵はがきを見て、並々なら
ぬ才能を認め、積極的に画家になれと勧めたことにもよる。槐多自身も自負するところはあったに違いない。
 いま一つ家庭の事情がある。父村山谷助は、一中教員から五中(のちの三中)へ移っていたが、不幸な汚職事件に
からんで失職した。家計不如意となり、母のたまは今出川寺町角の家で小間物屋を開いて店に出るなどしていた。場
違いな美しい姿を友人は見ている。
 父は槐多の進学を考えなかったわけではない。しかし、農大実科へいったらどうかと勧めたそうである。当時東京
駒場に東大農学部(農科大学)があったが、実科というのは実習本位の専門学校みたいなものだった。無論槐多は猛
反対して、進学などしない、画家になって自立してみせると、さっさと家を飛び出し上京しようとしたのである。
 一人前の画家になるというのは、現在でも美術の大学など出ても容易ではない。昔はなおさらだったが、槐多はま
っしぐらに突き進んだ。
 槐多を預かった小杉未醒は、同じ田端に住んだ芥川龍之介とも親しかったが、後に述懐している。
「彼(槐多)は悍馬、それ以上であった。御(ぎょ)そうと思っても到底手に負うものではない。精神の発展も鮮や
かであった。彼はたちまち少年より青年となり、単純より複雑となり、しかも又青年にして少年を兼ね、複雑にして
且つ単純であった」

 未醒の一美術見習生の如く出発したが、4ヵ月後の大正3年10月初めて二科展に出した「庭園の少女」が入選。
しかも日本美術院の大家横山大観が注目して買い上げてくれた。翌年から院展(日本美術院)に出品するようになり、
10月「カンナと少女」を出品して、いきなり院賞を得、新人のトップに躍り出た。日本美術院は、先に岡倉天心を
中心に、横山大観、菱田春草、下村観山、平櫛田中らが官製の帝展に対して革新運動を起して創設、小林古径、安田
靭彦、前田青邨らに引き継がれていた。
 そして翌々年(大正6年)9月、「乞食と女」を出品して、二度目の院賞を受け、院友に推挙される。新進の画家
として認められたのである。この「乞食と女」の絵こそ槐多生前の傑作、名作となり、死後母校京一中に贈られる因
縁を持つことになった。
 翌大正7年(1918)年3月には、槐多は「樹木」などで美術院奨励賞も受ける。それまでわずか4年。だが、
その間に20歳前後の槐多は、励みに励んだ精神と、真新しい下駄を一日ですりつぶすほどの彷徨と放浪を繰り返し、
天国から地獄まで見た。さしもの体力も無理がたたり、いつしか結核を病んで、友達に臥床させられる日もある。そ
れでも終日何十枚もデッサンをし、自画像を描きまくる。
 お玉さんという浅草下町の理想のモデル女に出会い、「一心にあたいを思いなさい」といわれて、死ぬほど恋する。
有名な「一本のガランス」の詩もそんなとき生まれた。当時文壇トップの有島武郎も読んで感激し、自作の戯曲「ド
モ又の死」に引用したぐらいだ。ガランスとは、鮮烈で深みのある茜色の絵具のこと。当時チューブ入り1本2円(
現2万円以上)した。

    1本のガランス

 ためらふな、恥じるな
 まっすぐにゆけ、
 汝のガランスのチューブをとって
 汝のパレットに直角に突き出し
 まっすぐにしぼれ
 そのガランスをまっすぐに塗れ
 生(き)のみに活々と塗れ
 一本のガランスをつくせよ
 空もガランスに塗れ
 木もガランスに描け
 草もガランスにかけ
 魔羅をもガランスにて描き奉れ
 神をもガランスにて描き奉れ
 ためらふな、恥じるな、
 まっすぐにゆけ
 汝の貧乏を
 一本のガランスにて塗りかくせ。
  (原文ママ)

 余談だが、槐多は一中の前、京都師範附属小学校の出身。大正7年以後、その附属小学校に第二教室という特別教
室が出来、毎年5年修了の早教育の生徒が十数名一中に進学するようになった。第1回に後に経済学で文化勲章を受
けた大塚久雄、地理学の織田武雄(京大教授)、外科医石野琢二郎、美学の井島勉(京大教授)、気象庁長官となる
宇宙物理の柴田淑治、第2回以後に湯川秀樹の弟で中国文学の小川環樹(京大教授)等々みな一中を優秀な成績で終
えて、全員が博士の学位を持った。昭和18年まで学級は存続。
 その附属第二教室の最初の教員になった能勢朝次は、東京高師(現筑波大)の文科を首席で出てすぐにこの学校に
赴任し、一回生を送り出すと京大大学院に進み、のちに「能楽源流考」の学術研究で学士院恩賜賞を受けたが、槐多
の死後まもなくの詩文、日記など集めて刊行された「槐多の歌へる」(1920年刊、アルス)を読んで感激し、特
に上述の「一本のガランス」の詩をとり立てて、第二教室の会誌「樫の実」に特筆し、
「村山槐多は君たちの先輩。この詩には彼の気魄が躍動している。私は今切にこの気合を欲している。君らにもこの
気魄がほしい」と激励した。大塚久雄、織田武雄、小川環樹等みなこの言葉によって槐多のガランスの詩を知り、困
難な学究のへの道を生涯貫く。
 なお、「槐多の歌へる」の初版は有島武郎、芥川龍之介、高村光太郎等諸家こぞって絶賛し、版を重ねた。
 しかし、槐多自身は、前年の大正8年(1919)の冬2月、東京代々木の鐘下山房と名付けた終の棲家で、流行
性感冒のため肺疾患をこじらせつつ、吹雪の中へ写生への衝動で深夜に飛び出すなどして、筆舌に尽くしがたい苦患
と闘いつつ倒れ、2月20日午前2時30分22歳5ヶ月で息を引き取っていた。
 それまで2年余り、槐多は、絵画の主題としてはともかく、実生活では実らなかった恋の懊悩や、東京の神楽坂に
移ってきて、三弦の師匠をした母たま(杵屋の名取、弟子に芸妓衆のほか後に芸術院会員、文化勲章も受けた若き日
の日本画家片岡球子もいた)や父とのドメスティックな問題などにも苦しみ、住居も小杉家を出て、根津、吉原土手、
四谷、神楽坂など転々とし、友人の下宿に同居したりした。

 先天的な不幸の血統の宿命など思い過ごして、おびえることもあり、飛騨山中、伊豆大島の放浪の旅にも出た。そ
れやこれやで、健康を兼ねて行った房州の海辺で夜陰痛飲し、沖の岩の上で喀血して、危ういところを猟師に救われ
たこともあった。

 神よ、神よ
 この夜を平安にすごさしめたまえ
 この腕のままこの心のまま
 この夜を越させてください
 あす一日をこのままに置いてください
 描きかけの画をあすもつづけることの
 出来ますように

と祈った夜もあった。そして、少年の日のミケランジェロ、ピカソ、ヴァン・ゴッホ、舞踏の天才ニジンスキーらに
よってもたらされた夢を最後まで見続け、デッサンを続け、斃れた。
 最期の時、画学生時代の苦楽をともにした友人たちが枕頭に集まり、彼がうわ事のようにかすかに言ったのを聞い
た。
 飛行船・・・・物憂い光・・・・お玉さん・・・・永遠の女性だったともいえる人の名が最後の言葉になった。
槐多のデスマスクが画家仲間の一人・石井鶴三によって採られた。
 死後8ヶ月後の大正8年11月、友人たちの手によって、散逸していた槐多の作品が集められ、東京神保町の兜屋
画廊で十数点の遺作展が開かれた。このとき、当時の代表的総合雑誌だった「中央公論」の編集主幹・滝田哲太郎(
樗陰)が「尿(いばり)する禅僧」など数点を買い上げてくれた。
 同じく友人たちの手によって「槐多の歌へる」の遺文集が刊行されたのも、前述のとおりである。
 さらにこの度、京一中洛北高校同窓会三輪新造常任理事の熱心な探索によって、次の文書が村山槐多の死の翌大正
9年7月発行の京一中同窓会誌に掲載されていたことがわかった。「故村山槐多の墓碑建設」の題で、執筆者は、槐
多と一中時代一緒に芝居もし、早稲田に入って生活も共にした山本二郎である。冒頭の部分を引用しておきたい。
 『母校出身の画家、日本美術院院友、故村山槐多の遺作を一部購入して母校へ保存し、一方槐多の墓碑をも建設す
ると云う計画が、彼と(一中)同期の卒業生横地静夫氏に依って提案され、同林博一、二見貴知雄氏等の熱心な賛同
によって漸く此の程、此の二つの目的が完成された。
 即ち、槐多が可成りの自信を有していた大作で、嘗て院展に当選した『乞食と女』と云う油画と木炭紙全紙の素描
自画像とを母校に贈ることとした。而して又彼の墓碑は東京の雑司ヶ谷の共同墓地に、天然石を方形の芝草の上に横
たへた欧風の形式によって作られることになった。』
 文末に、東京に在学中で母の肖像を槐多が描いた笠原二郎や、京大哲学科にいた木村素衛等京一中時代の同級生、
下級の友人52人、ほかに旧師谷岡安三郎や山根好国の両恩師、先輩で劇評家の山本修二等も賛同募金者に名を連ね
ている。
 なお、このとき、笠原二郎が持っていた槐多の「カンナと少女」の絵を、有島武郎が100円で買ってくれたので、
それも募金に加えられた。「乞食と女」のほうは、槐多の日記に予価200円と書かれていたから、その価格で購入
したのち、母校に寄贈されたみられる。

「乞食と女」の絵について --------------------------------------------------------------------- 29

 槐多の「乞食と女」の油絵と木炭の自画像が寄贈された大正9(1920)年は、ちょうど京一中は創立50周年
に当たっていた。10月下旬記念の式典や行事が行われ、槐多の「乞食と女」も先輩たちの作品を展示した教室に掲
げられた。大正9年12月に刊行された同窓会誌の口絵の写真に、陳列準備中の生徒たちが、この絵を壁に掲げてい
るのが写っている。

 「乞食と女」の絵は、その後、吉田にあった旧一中校舎では、図書館だった静思館内に掲げられていたという。
 その後、昭和4(1929)年に現在洛北高校の位置の左京区下鴨梅の木町の校舎が新築されて移ってからは、講
堂の正面舞台脇の、ぴったり縦5尺x横2尺のこの絵のはまる空間に掲げられていたことがある。私は、昭和13年
の入学であるが、入学直後から、この「乞食と女」の絵を、式典や音楽の授業で講堂に入るたびに目にして、世にも
不思議な感銘を受けた。
 私は、幼時、父がヨーロッパ留学から持ち帰ったルーブル美術館の絵ハガキの無数の名画や、ドイツのゼーマンの
画集も日常に見て育ち、岡崎の美術館での帝展(のち文展、日展)や二科展にも小学校時分から欠かさず行っていた
から、多少の絵を見る目はあったと思う。(のちに大学は美学美術史学科に進み、専攻は音楽学とギリシャ美学だっ
たが、大学院時代後に西洋美術館長となった高階秀爾君等と一緒だった)
「乞食と女」の絵説きも私なりにやった。身に襤褸をまとって手をさし伸べているようであり、切なる美への憧憬を
持っている。いましもコインをこの少年に与えようとしている。長身の、驕慢とも見える青白んだ表情の美しい女性
こそは、少年の美の理想の化身なのだ――。
 今日の犀利な研究では、この女性の面影は、槐多の描いたお玉さんの顔のクロッキーを彷彿させるとのことである
が、それはともかく、少年の私たちを瞠目させたこの絵が、戦後の混乱期以後に、母校から消えたままなのである。
 いま記した通り、私の在学した昭和13年から18年の間は、「乞食と女」の絵は講堂に掲げられていたことがあ
る。一年上の現在俳人のS氏の記憶によると、講堂正面舞台の向かって右側脇の空間にかかっていたという。ただし、
昭和11年から16年まで在学し、図画工作同好会に属して絶えず図画の準備室に出入りしていた別の先輩の話では、
この絵は準備室のドアを開けて入った右側の壁面の下部に掲げられて、それが定位置だったとのことである。
 ただ、私も一年上のS氏も美術の準備室には出入りしていないので、講堂に掲げられた時もあったのだと思われる。
 昭和15年に京一中は創立70周年を迎え、このときも10月19日から21日まで記念の行事が行われ、一つの
教室が先輩の画家となった方々の作品展示に当てられ、須田国太郎氏や川端弥之助氏らの作品とともに、村山槐多の
「乞食と女」も展示された。当時5年に在学中だった尾崎牧夫さん(のち日本キリスト教団牧師)がその見て歩きの
記事を校友会誌に書き、「乞食と女」について「ぼくたちがいつも見ている」絵と紹介している。これが、美術の準
備室でなのか、講堂でなのかは、判然としないが、こうして昭和18年度までは、間違いなく京一中に所蔵されてい
た。
 失われたのは、戦後昭和21年以後のことであろう。どの時点でかは特定しにくいが、昭和23(1948)年京
一中が終焉し、一旦校舎を新制洛北中学に明け渡した前後の間と学校関係者は推測している。
 この間、一中所蔵の絵についての消息に最も通じておられたと考えられるのは、我々も習った美術のY先生である。
Y先生は、大正7年のご就任で、村山槐多の「乞食と女」および自画像が寄贈されたとき、受け取られた当事者であ
る。以後、美術担当並びに後々の図画工作同好会の指導教官で、美術準備室の管理責任者でもあったはずであるから、
責任を持って保管されていたはずである。Y先生は昭和21年まで在職となっているが、実際は昭和23年に、新制
洛北高校となった旧一中の教職員が、荒神口の旧府立第一高女の校舎に移って、その年10月まで過した間も、やは
り、美術の教官でおられたようである。
 その間に「乞食と女」が失われたとすれば、何かそれについて言われるべきであろうし、知っておられねばならな
い。しかるに、その後学校から離れられて、昭和41年に亡くなられたが、この絵のことに関しては一言のコメント
も残されていないのはまことに残念である。「乞食と女」だけではない。自画像についてもそうであるし、講堂入口
上には、昭和10年頃から前田青邨の笠置山の後醍醐天皇を描いた大作も掲げられていた。中村不折の書もあったと
記憶している。それらもいつどうなったのだろうか。お話になりたくない事情でもあったのだろうか。
 事情があって、もし、学校当局の方針上のことでどこかへ移管されたのなら、「乞食と女」などもみな額縁ごと公
式あるいは非公式にどこかへ移されたと考えられる。だが、そういう公式の記録はない。
 「乞食と女」の消息については、昭和7年頃から、図画工作同好会の実習などのことに、非職員ながら関わってき
た人があり、この人が何か知っていたのではないか、と関係者の間で伝聞されてきた。
 このA氏もとっくになくなっており、戦後1965年に刊行の一中・洛北高校同窓会名簿以後は一中の旧職員とし
て扱われているが、われわれが在学した同時期の職員録にはその名はなかった。一中に長く博物の先生でおられた荒
木益次郎氏が、昭和25年以後洛北高校の事務長職となられてから、事務室に絶えず出入りしていたA氏を、戦前、
昭和10年ごろ、在学中だった「宮さま」家彦王に陶器の手ほどきをした、との理由で、一中同窓会の特別会員に編
入されたらしい。しかし、65年版の名簿では、終戦直後の昭和21、2年ごろに在職された職員の方々と同じブロ
ックに入れられている。となると、戦後のその時期にも美術の準備室に出入りして、Y先生とはもとより戦前から昵
懇であったはずだし、そこには長く掛けられていた「乞食と女」についても熟知していたはずである。
 すでにA氏がなくなってのちのことであるが、未亡人を訪ねて、突然村山槐多の名前を出したところ、「槐多、槐
多、主人はようその名前を言うてました」という言葉が返ってきた。
 昔の一中の図画工作同好会で、実際にA氏を知る人は、画材なども扱っていたが、清廉清伯の士であったという。
戦後荒木事務長のもとに出入りしたころのA氏を見た人は、姑息で如才ない出入り商人の感じだったという。
 荒木氏は「乞食と女」について、だれが持っていったか、知っているが、言いたくない、と語ったという。何か話
し合いがあり、そこにA氏の介在する余地もあったとするなら、同窓会事務局で新たに調査される必要があろうかと
も思う。
 全く無関係なだれかが、持ち去ったとすると、これは盗難であって、見当がつかない。その場合、額縁は残して、
木枠ごと持ち去るか、ぐるぐる巻いて持ち去ることもあるそうである。美術館の絵が持ち去られる場合にある手口だ。
 しかし、昭和25年以後新しい洛北高校の美術担当であった新見孝氏は、美術の準備室に、「乞食と女」の額縁ら
しいものが残されていて、やや乱暴に絵を取り去った跡があったと語った、とも聞く。
 今年は、村山槐多先輩の没後90年に当たる。もう40年もの昔になるが、槐多と同期の大正3年出身の森安正先
輩が、当時東京世田谷の成城に住んでいた私のところへわざわざお出でになり、「どうぞ、槐多のことを書いてくだ
されや」といわれた。森さんは「乞食と女」寄贈の時の基金を出されたお一人。
 今回、京一中洛北高校同窓会の、堀江、平岡、三輪各常任理事、奥村文代他の方々の一方ならぬお世話により、よ
うやくこの稿をまとめあげた。種々アドヴァイスをいただいた、京都のマリア書房の高野省也氏、星野画廊、ギャル
リー宮脇、福島県立美術館、三重県立美術館、山田稔氏、栗塚旭氏、岸村朝氏、木村富士子氏。木村桃子氏、小橋茂
戸子氏、佐々木央氏等各位に御礼申し上げたい。
 東京渋谷の松涛美術館でも槐多没後90年記念の展覧会が近々開かれる。それを機会に「乞食と女」の出現するサ
プライズがあるかもしれない。という消息通もいる。それならば結構なことだが、その場合、どこからどのような経
緯で出現に至ったかが明らかにされる必要があろう。もし出ないならば、われわれの探索はこれから始まる。
  (作家、評論家)

恩師を偲んで ―林正次郎先生・小林滋先生 -------------------------------------------------------- 32

 産業革命と林先生 --------------------------------------------------------- 田中 貞夫 32

 林先生と、私は特にお親しくさせてもらった訳ではない。それでも非常に印象に残る先生のお一人だ。
 印象に残る理由の一つは、生徒の校内規範に対してうるさかった。と言うか、非常に厳しかった。特に覚えている
のは、校内での下駄履きと喫煙の取締りに関してだ。当時先生は、クラス担任を持たず、生徒課の担当として生徒の
規律遵守を役目としておられたのであろう。
 印象に残っているもう一つは、その授業である。洛北高校に入学した昭和25年、私は「一般社会」で林先生の授
業を受けた。これまでの中学時代にはない、やや取っ付き難いが新鮮な授業だった。先生は経済史がお得意だったよ
うで、これまで聞いたことのない外国の学者の名前がしばしば出てきた。中でも、一寸気取った口調でアダム・スミ
スの名前を口にされたのは今でもよく覚えている。
 林先生と結びつく最も深い思い出は、年度の授業の最終段階で、生徒全員にレポートの提出を求められたことであ
る。テーマは「産業革命」。ただこれは共通テーマであり、その中に幾つかの「サブ・テーマ」があった。与えられ
たサブ・テーマの中から一つを選択し、同じテーマを選んだ生徒数人が組んで自分たちで勉強し、その結果をレポー
トとして提出するのである。高校一年生にとってはかなり高度な要求である。
 私の選んだのは、正確な言葉は覚えてないが、「(産業革命前史として)のエンクロージャー=牧羊地の「囲い込
み」運動について」である。何故このテーマを選んだのか。こんな難しい言葉を知っている訳はなく、よくは覚えて
いない。同一テーマを選んだのは、佐々・八木・山内の諸嬢で、女性中心のチーム。さあこれからが大変。
 レポートの提出期限は恐らく1、2ヶ月はあったと思う。岡崎の図書館に皆で何回通ったか。そして、回り持ちで
各員の家に集まり、夫々勉強した内容を報告し合い、一つのレポートに纏めて行く。
 出来上ったものは、先生にとっては、恐らく読むに耐えないものであったであろう。内容的には専門書の丸写し。
それも4人のメンバーが夫々数冊の本から抜き書きしてきたものを一つに纏めたものである。
 しかし、今になって、想像してもそれは大変な作業だったと思う。
 レポートにどんな点数が付いたかは聞いていない。しかし、その作業に報いてかどうか、通知簿の評価はそれほど
酷いものではなかったと記憶している。それと、この時勉強したことは、直接的ではないが、その後の物事の理解に
少なからず役にたったと思う。例えば現在の資本主義の形成へと繋がった産業革命にも、資本の初期蓄積をうながし
た前史があったということ。
 考えて見れば、当時の社会は子供或いは青少年に対して非常におおらかな社会であった。理由はどうであれ、下駄
履きで校舎内を闊歩する。隠れてではあるが校内で煙草を吸う。今ならば、その事実だけで、いったいどれほど乱れ
た学校かと評価が世間から下されたか。しかし洛北高校は府下でも一・二の名門校と評され、県外からの寄留生も多
かった。一般的には、少々の「悪さ」には目をつぶるが、度を越したものには厳しく対処する。生徒の方も自然と善
悪の判断基準を身に付けて来る。
 洛北高校には、生徒にとっては所謂「いい先生」が沢山おられたが、「厳しい先生」も結構おられた。その筆頭が
林先生であったろう。懐かしい先生である。
 ご冥福をお祈りします。
 (洛北四期ーー但し入学は二期)

小林先生と私 --------------------------------------------------------------- 木寺 州介 33


 小林先生の訃報が年賀状欠礼の挨拶として奥様より届いたのが平成20年12月のことでした。最近体調が優れな
いとは洩れ伺っておりましたが、改めて訃音に接して惜別の情ひとしおの感がありました。
 小林先生と初めてお会いしたのは昭和21年京一中の数学の教師として赴任して来られた時でした。京都大学在学
中ブレストの水泳選手として活躍された実績によって、我々水泳部の部長に就任して頂き、キャプテンである私にキ
ャプテンシーを親しく、そして熱しにご指導を頂きました。先生と学業について話し合ったのは、最初の数学のテス
トに関してだけで、後は専ら水泳の技術論ばかりでした。又、小林先生のコネで滋賀県の膳所中学や、奈良県の郡山
中学と対抗試合をしたのも懐かしい思い出です。
 某日、先生の薫陶を受けた往年の水泳部員一同が、ゴルフの好きな先生を招待しようということになって、1日京
都ゴルフ上賀茂コースでプレイしたことがありました。私は先生と同じ組でプレイしましたが、池の岸辺の赤いライ
ンの内側に止まった私のボールを指して、「州介ここはウォータハザードだぞ。判っているだろうな」と念をおされ
て、何時まで経っても先生と生徒かと苦笑したものでした。プレイ終了後神殿町の東華菜館で昔の思い出話に花を咲
かせながら会食したことも楽しく思い出されます。
 先生はフィールズ賞に輝いたあの広中平祐氏を輩出した京都大学の数学のご出身で、同じ出身である私の叔父(旧
安田生命アクチュアリイ・保険計算人)がアクチュアリイの試験官として資格試験を一番で合格された小林先生を素
晴らしい秀才だと褒めておりました。後に先生も東京生命の取締役アクチュアリイとなられました。何時だったか私
が仕事で東京に出張した際、先生にお会いすべくお電話した時、これからアジア地区のアクチュアリイの試験官とし
て東南アジア諸国に行くところだと聞き、益々のご活躍を知った次第でした。
 私の京一中卒業に際し、在学スポーツ選手として唯一の京都府体育連盟体育賞を授与されましたのも、先生のご尽
力の賜物と深く感謝し、ここに哀悼の意を表してご冥福をお祈り申し上げます。先生本当に有難う御座いました。
 (昭和23年卒)

 ===============================

 小林 滋 先生
    平成20年11月21日 ご逝去
    昭和21年9月30日〜昭和23年4月まで在任(数学)

 林 正次郎 先生
    平成20年11月1日 ご逝去
    昭和25年4月〜昭和53年3月まで在任(社会)

 岡田 寛 先生

    平成20年1月1日 ご逝去
    平成1年4月1日〜平成4年3月まで在任(教頭)


クラス会だより
    ―目次― ---------------------------------------------------------------------- 34

 関東昭十三クラス会(昭和13年卒)
 いちご会(昭和15年卒)
 昭和18年卒クラス会(昭和18年卒)-------------------------------------------------- 35
 昭和20年同期会最終総会
 京一中204会総会(昭和20年四卒)--------------------------------------------------------- 36
 昭和20年入学(昭和20年入り)------------------------------------------------------------- 37
 府一・京一中21N合同同窓会(昭和21年入学)
 洛一会(洛北一期) -------------------------------------------------------------------------- 38
 洛二会(洛北二期) -------------------------------------------------------------------------- 39
 洛北四期の近畿会(洛北四期)----------------------------------------------------------------- 40
 洛五会(洛北五期)
 みのり会(洛北六期)------------------------------------------------------------------------- 41
 洛北七期
 ラッキュー会(洛北九期)--------------------------------------------------------------------- 42
 洛北十二期同窓会 ---------------------------------------------------------------------------- 43
 洛歳会(洛北十四期)
 洛北十五期同窓会 ---------------------------------------------------------------------------- 44
 洛北二十一期同窓会
 積木の会(洛北二十三期)--------------------------------------------------------------------- 45
 洛北二十七期
 洛北二十八期 -------------------------------------------------------------------------------- 46
クラス会の予定

 昭十会
   平成21年秋開催予定
 関東昭和十三年クラス会
   平成22年5月開催予定
 いちご会
   平成22年5月19日(水)
   会場・・・京都タワーホテル
 京一中二〇四会
   平成21年10月29日(木)13時開宴
   会場・・・京都ホテルオークラ
    幹事 沓水 宏 八木 惇夫
 京一中二三会
   「傘寿の集い」を来春開催。 幹事一同
 特別科学学級第一期生クラス
   平成21年11月29日(日)
   レストラン ラ・トゥール
   世話人 宇多小路豊、高山宥一郎、片岡 宏
 洛三会
   平成22年4月9日(金)
   センチュリーホテル
 洛四回同窓生の会
   平成22年4月18日(日)
   ホテルグランヴィア京都
   洛北4回同窓会の会準備会
 洛五会
   平成23年6月25日(土)開催予定
 みのり会(洛北六期)
   平成22年5月29日(土)
   京都タワーホテル
 洛七会
   平成22年6月6日(日)
   「旅亭 紅葉」
 ラッキュー会(洛北九期)
   平成22年2月 開催予定
 ニコニコ会(洛北25期)
   平成22年6月6日
   マリアージュ(八条口)

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 お知らせ
 会員名簿の管理・運営をしています事務局は同期会幹事の方々のお手伝いをいたします。案内状、往復はがき、宛名
シール(同窓会管理の最新データによる)、封筒差出人などの印刷。また会の準備、打合せなどに会議室もご利用いた
だけます。
 また、ホームページのクラス会だよりに同期会の予告を随時掲示しています。
URL http://www5f.biglobe.ne.jp/~kfrkd
 詳しくは事務局までお問い合わせください。
 TEL&FAX 075-712-0375

 次号(48号)は発行を9月初旬の予定にしております。従いまして原稿の締切は6月末日と考えております。事務
局までお問い合わせください。

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 関東昭十三クラス会 ----------------------------------------------------------------------- 35
 「まだ、頑張っています」
 5月26日、会員5人が集まり今年のクラス会を開催しました。

 去年は米寿と卒業70年。来年は卒寿の祝い。さて今年は?と出席者で相談した結果、冒頭の一語に尽きると一致し
ました。
 出席者5人のこの一年。欠席者から寄せられた近況短信。みんなの健康を祈念して乾杯歓談。短い時間でありました
が、この年齢になって、たとえ僅かの時間でも70年も前の話題を語り合う時間を持てたことは貴重であり、再会を約
して解散しました。(服部 俊夫)

 京一中いちご会 -------------------------------------------------------------------------- 35
 平成21年5月13日(水)
 従来通り京都タワーホテルのご援助を得て、会の案内状の発送をしましたが、欠席の返事が多く、昨年出席して頂け
た方からも欠席に変更の方が3名あり、同級生の健康の衰えを痛感致しました。
 散会時に受け取れる様に最初に全員の写真をとり、懇親に移りましたが、飲む量、食べる量共に減りました。
 近松門左衛門についての話は聞けませんでしたが、塚本君の友人の奥 彬氏の話を聞き、全員の発言を得た後、来年
は平成22年5月19日(水)に「いちご会」での再会を約し、散会しました。(小畠 洋)

昭和18年卒クラス会 ---------------------------------------------------------------------- 35

 平成21年5月27日、ブライトンホテルに28名が参集、久闊を叙して健闘を祈った。
 小酒井君から10月8日、日比谷での東八会に再会を期待したいと。稲垣君から大正3年卒の村山槐多さんの絵「乞
食と女」の行方について、「あかね」10号に紹介したとおり、今も所在不明で、心当たり情報提供が呼びかけられた。
 この絵は、戦前に講堂のあたりにかかげられていたが、戦後すぐに行方不明となった。曽って院展で受賞した名作で
あった。
 「床の会」始末記
 昭和18年に卒業した有志が、毎年納涼に8月の第3木曜日のあたりに鴨川の床に集まった。
 昭和61年から平成20年まで計23回継続した。もちろん、「送り火」の日は避けて懇談し、東京からも参加して
いた。新型インフルエンザウィルスの影響もあり、膝腰の都合も出てきて、終宴となった。数々の名句が作られ、賑や
かな二次会と思い出は尽きない。
 出席者は平均して約10名前後で、約1/3は医業の人で一同安心して愛飲した。まことに奥床しい会で、目板鰈の
焼物なども忘れがたいが、急にメンバーのなかに他界する人が増えて、追悼話が多くなった。残念ではあるが、名残の
老いを自戒して終止符が打たれた。(高月 一)

昭和20年卒同期会最終総会 ----------------------------------------------------------------- 36
平成21年4月25日
 ホテル・セントノーム京都


 毎年のように開催してきた私達の総会を少しでも永く継続したいという希いも強かったが、さすがに傘寿を迎える頃
から参加者が減少し、気力体力の低下も否めず、今回をもって長い歴史に幕を引くことになった。
 さて当日、11時の受付が始まる頃から雨脚が激しくなり、参加者の難渋が懸念されたが、記念写真の撮影前には3
7名全員が元気な顔を揃えた。また4名のご婦人方も悪天候を厭わずに参加され、最後の集いに華を添えて下さった。
 定刻、開会挨拶と物故者への黙祷の後、乾杯・校歌斉唱と進んで宴会に移り、遠来のA君や久し振りの諸君が次々と
立って近況報告などのスピーチ。揃って年齢を感じさせない元気さに、これを最後の総会とすることが悔やまれる盛り
上がりとなった。心残りなく語り尽くせるようにと時間的余裕を見込んであったが、H君やM君の放談がとび出したり
懐旧の写真などを繞(めぐ)って思い出話が弾むうちに時間が経過し、応援歌高唱の後、惜別の思い濃い中に、お互い
の健康を祈念して散会となった。
 尚、今回もまた、面倒な準備万端を常田君が処理してくれたお陰で、心に残る会となった。同君の苦労に対し、閉会
前に全員が拍手をもって謝意を表した。
 総会は消えてしまって一抹の淋しさを覚えるが、今後は毎月20日の昼食会で都合のつく諸兄と交歓出来る筈である。
厳しかった戦時中の一中生活に対してそれぞれ様々な思いがあろうが、先行き折にふれて六十数年前のあれこれなどを
語り合いたいものである。(五十嵐 定義)

京一中 二〇四会 --------------------------------------------------------------------------- 36
     第27回総会報告


 世と人の移り変わりの速さを眺めていると、やがて「京一中二〇四会?」Who?という時代が来るかも知れません。
ここらで改めてご紹介しますと、我々は昭和16年、京都一中に入学して、4年生時代には学徒動員であちこちと軍需
工場で働かされ、「切り上げ」て昭和20年に4年卒業したので、それをもじって二〇四会ということになった。
 いねば第2次世界戦争のために、早産で押し出された特異な学年。それだけに「自由・京一中」への愛は歳ふるほど
に深まり、結束も固く、年の総会に加えて、毎月第2木曜の夜の集まり(この二木会は京都、東京同時開催で通算20
0回を超える)、旅行会、ゴルフ会などの交流も活発です。
 今年の総会は平成20年11月20日、京都ホテルーオークラで開催。総勢58人(内6組は夫婦出席)とゲスト2
人が、今年秋一番の冷え込みの京都に集合した。
 毎年の名司会、外賀徹郎君による開会の辞、ついで京一中校歌の斉唱。昨年から1年間の物故者、7人へのしめやか
な黙祷。  その後、西谷幹事より歓迎の挨拶。そこで一転して、サプライズの「友情コンサート」。故鳥居一郎君のお嬢さん、
西松甫味子さんによるメソソプラノの熱唱でオープニングに華を添えて頂いた。続いて。和嶋一郎君の元気溢れる乾杯
の音頭で開宴。
 さて、懇親の宴か始まると、思いは直ぐに何年も前に飛んで、話し合えるのが同窓会。和気藹々。喧々諤々。時間は
あっという間に過ぎて、宴会もコーヒータイムに入り、東京二木会、(田淵君)、京都二木会(元廣君)、関東ゴルフ
の会(泉君)関西ゴルフの会(高塚君)の活動紹介がされた。ついで森本君の旗(最近新調された紫紺の二〇四会旗が
ハレた)で京一中応援歌(♪獰猛の意気ネーツレツニ、)と一中マルセーユの全員合唱でお開き。
 舞台はビアー・ホールでの二次会、京料理「いたどり」での三次会、更に翌日の有志によるゴルフコンペまで交歓の
輪は広がり再会を約して別れた。

 21年度の幹事役を引き受けて元気そのものだった森本安之助君の急逝は(3月23日)ショックだったが、その盛
大な法要の席には多数の同級生が駆けつけて、ご遺族の希望で、故人が愛してやまなかった京一中校歌が涙と共に斉唱
された。痛恨の極みだが、後事は沓水宏君に託されて万端準備されている。(西谷 裕)

昭和二十年入学
   第九回同期会
 ----------------------------------------------------------------------- 37


 喜寿を祝する記念の同期会は4月22日(水)京都ロイヤルホテルに41名が集まり開催されました。終戦の年に京
都一中に入学した私たちは今年喜寿をむかえました。3年終了とともに学制改革により新制高校に進み、そこで学友た
ちは住まいの地域により鴨沂、朱雀、山城など新しくできた新制高校に分かれてしまいました。今回の同期会にはそれ
らの高校へ進学した学友が再び集まることとなりました。
 当日は仲谷君の司会で始まり、岩佐君の開会の挨拶、乾杯は恒例になっている遠隔地からの参加者、東京の井嶋一友
君(元最高裁判事・平成16年旭日大綬章受賞)の発声で杯を捧げました。そのあと各々のテーブルではこの一年の問
に鬼籍に入られた人を忍び、また今日元気にこの会に出られたことを喜びあうなど、健康のこと、家族のこと、政治の
話、今の世相の事などに話は弾み、途中今春、静岡から京都へ転居された金沢宏君からこの会への初参加の挨拶があり、
また1994年に世界文化遺産に登録された上賀茂神社の社家でもある西池成晃君から平成27年に斎行される国宝に
指定されている社殿遷宮桧皮奉納への協力依頼の話がありました。
 地域社会のために色々と活動をしておられる方も多いようですが、この会に元気で参加された方々がおられる一方、
ご本人や連れ合いの病気看護などで苦労されている方も多いと伺い、何とか平穏な余生を送りたいとの思いを強くしま
した。
 瞬く間に予定の時聞か過ぎ最後に恒例の「校歌」「応援歌=一中マルセーユ・抑猛の意気、等」を全員で高吟し、西
岡信之君の閉会挨拶で2011年、傘寿記念同期会での再会を約して散会しました。 (仲谷 喬)

府一・京一中21N 合同同窓会 ------------------------------------------------------------ 38

 去る5月23日(土)にいつもの京都Hオークラで開催された。インフルの影響で最後まで出席者の確定が難しかっ
たが両校約同数で計134名が集まった。

 定刻11時半に島津光一代表世話人の案内で開会され、本年は府一側世話人の主導で会を進める旨を説明され、引続
き神谷治美司会者に交替し、西千代子代表世話人の挨拶を受けたがそのなかに含まれた「日本人の平均寿命は毎年少し
ずつ延びているが今年の発表では男性が79才、女性86才となったが、更に平均余命でみると75才の男女は11年
加算できる。」という事実は参加者に一抹の喜びをあたえた次第であった。食事中には中村淳君制作の前回DVDを楽
しみ、最後に府一が校歌「加茂川つづみに……」を一中が「比叡の峰に……」を4番まで歌うと女性から一中は長過ぎ
るとの声が出たのも愛嬌に感じた。その後、席を替えて二次会を楽しみ終了した。
        (佐藤 惺)

洛一会 ------------------------------------------------------------------------------------ 38
第15回「仙台の集い」
 昨年の琵琶湖畔での洛一会で、何となく来年は「仙台へ行こう」との声が出てそれが実現となりました。10月14
日〜15日の一泊二日の遠出にしてはややタフなスケジュールでしたが両日とも絶好の旅日和でそれが何よりでした。
 仙台駅に29名が2時に集合し、初日はそのまま仙台の奥屋敷と云われる日本三大大御湯の”秋保温泉”(ホテル岩
沼屋)に直行、再会の乾杯と懇親と談笑そしてカラオケ、温泉とみちのくの長秋の雰囲気を楽しみました。


 翌日は大型バスを貸し切って仙台市内の青葉城跡欅並木の青葉通り等々を散策観光し、一路塩釜港のマリングートヘ、
ここから遊覧船に乗り日本三景の松島湾めぐり。仁王島鐘島兜島等々の変化に富んだ島々が浮き彫り、。松島やああ松
島や松島や”(芭蕉)、松島に着桟し直ぐ向いの瑞巌寺へ、奥州随一の臨済禅寺伊遠家代々の菩提所、勿論国宝です。
そして五大堂、国の重文坂上田村磨の建立伊達政宗が修営した観光松島の象徴です。処々散策の後現地ホテルで遅い昼
食をとりバスにて仙台へ3時頃仙台駅で解散。オプショナルで平泉中尊寺等へ「北の旅人」と洒落たグループもありま
した。ハードな旅でしたが「牛タン」「笹カマボコ」等々の仙台土産を買いながら引き続きの健康と溌潮とした元気さ
と”生きている限り青春”の再会を約しました。案外希薄な関西と東北の交流に意義の有る洛一会であったと嬉んで切
ります。
       (槌田明朗)

洛二会 ------------------------------------------------------------------------------------ 39
   平成21年3月21日
   於 リーガロイヤルホテル
   出席者数 103名


 例年通り3月の最終土曜日に催す予定が、どうしても会場の都合がつかず、三連休の中日の開催となりましたにも拘
らず、100名を越す会員が参集し、幹事一同ホッと致しました。之も会員、諸兄、諸姉の協力と会に対する思いと感
謝しております。例年通りの進行にて先ず難病を乗り越えて無事現役復帰の三輪見久君の挨拶、和多田隆夫君の乾杯か
ら始まり、赤滝淳君の中〆めにて無事散会となりました。今回は久方振りの出席者も多く充分に久開を叙する事が適へ
られて、充分にその意に沿へる会であった事と思います。
 当、同窓会もお互い夫婦の仕事、棚卸し?次いで住宅に移り、女性は老親の介護、最近はお互いの健康が主たる話題
となっている様に思われます。今回の出席者も老醜をさらす事なく元気な様子を見せた事は同慶の至りでありました。
願わくば次回も今回以上の成功を願って、報告の一端と致します。 (窪寺守彦)
洛二会幹事
西田(越後)昌弘、窪寺守彦、鈴木聡顕、瀬川保、香山(半井)すみ子、大角(西田)深雪、藤本卓

 洛二会から同窓会にデスクトップのコンピュターとプリンターを寄贈いたしました。
 同窓会中嶋理事長から感謝の言葉をいただきました。

洛四期の近畿会 ------------------------------------------------------------------------------ 39
 洛四同窓生の会近畿会が4月25日、京都タワーホテルで開催され出席は女性20名、男性44名の計64名でした。
 近年は京都駅に近い場所、会費も比較的参加し易い設定がなされているようで、準備委員の気遣いが感じられます。
 宴会でのフリードリンクは2時間でしたが、その時間が近付いた時「ホテルのご厚意により時間制限は設けない」と
司会者が告げました。厚意よりも余裕があるからではとの囁きがあり、さすがの洛四の面々もいささか酒量が減り気味
と察しられます。

 来年は卒業55周年となり、5年に一度の洛四同窓生全員の会となります。多くの方々、そして一度も出席されてな
い人も是非ご参加ください。70代の前半はまだまだゴールドエイジです。決してシルバーなんかではありません。
 もし10年先に現在を振り返る事があったら、あの頃は旅行も出来た、ゴルフもダンスも麻雀も観劇も恋も、の正に
ゴールドエイジだったと思うはずです。嬉しいことに、食べること喋ることによく動く口も至って健在です。
 同窓会は単に懐旧に浸る場ではありません。現在を語り合い、明日を生きて行くための情報交換の機会でもあります。
 スナップ写真にあるように今年も全員で大きく輪になって手を結び、「星影のワルツ」を歌いながら名残を惜しみつ
つ宴を締めくくりました。(高本 収)

 洛北四回洛翠会の旅 ------------------------------------------------------------------------ 40

 5月19日〜20日の2日間、関西からも5名の参加を得て、総勢23名で恒例の洛翠会一泊旅行をしました。
 今回は「河口湖・西湖周辺の旅」と称し、東京駅には1年ぶりに元気な顔が集まりました。午後1時貸切バスで出発。
出発早々から車内のにぎやかな事。2時間後に川口湖畔に到着。幸いにも好天でカチカチ山ロープウェイで富士山の神
様・木花咲耶姫命が祀られている天上山に登る。一片の雲も無く長く裾を曳いた富士の眺望に一同大感激でした。
 翌日は今回の旅の目玉であり皆が楽しみにしていた青木ヶ原樹海の散策。先ずは富士山麓最大級の溶岩洞窟である「
西湖コウモリ穴」の見学。入口でヘルメットを渡され暗闇の洞穴におそるおそる足を踏み入れる。天丼は低いところで
は腰を90度に折ってもヘルメットをぶつける事数回、洞底は濡れていて足を滑らせる人もいましたが何とか無事脱出。
 そのあと一段と濃くなった木々の緑の中、木洩れ日を浴び鳥の声を聞き乍ら約一時間半の樹海散策。視界の開けた根
場浜で湖と富士をバックに写真を撮りり合い、西湖いやしの里へ。そこは茅葺屋根の集落で地域の文化や伝統工芸に触
れることが出来ました。
 河口湖畔の与勇輝館で心暖まる人形達に出会い、帰路につきました。快晴に恵まれ富士山の美しさを堪能した2日間
でした。
         (瀬川崇子)
 彩いろの雲の皆留守皐月富士
       (田中幸子吟)
洛 五 会 ----------------------------------------------------------------------------------- 41
   洛五会開かる
 洛北5期の同期会の集まりが6月13日二条城向いのホテルで開かれ、東京はじめ関東地区、東海地区など全国から
100名を越える参加者。恩師5名を含め計118名という盛会となった。
 今年は梅雨が長引き雨がちの天候だったが、この日は晴れ間も覗き、久し振りの京都の街を懐かしく歩きながら会場
入りする関東からの参加者も。会が始まると川北利子会員の絶妙の司会進行で天候不順、世相の悪さ、憂さ、そして寄
る年の体調不良も吹き飛ばし、元気いっぱいの同期生。
 来賓の恩師臼井先生からは修学旅行で第1班がさんざん悪行を重ねたため、後続の第2班にそのとばっちりがかかり、
苦労したと秘話が暴露され、出席者も皆急に2班所属のふり。
 乾杯の音頭の小泉先生からは5期生より一回り上だが、今も変わりなく過ごしている。元気に俺について来いと現役
時代を思い起こさせる発破。大内、大島、吉江の3先生からもお話しをいただき、それぞれ洛北時代に戻った雰囲気で
テーブル毎に談論風発が続いた。 (柴野克彦)
 次回は平成23年6月25日(土)開催。大きな盛り上がりの中、終始和気藹々の洛五会。次はいつかとの突き上げ
に柴野世話人より、適当に楽しく生きて元気があってもなくても次回も会いましようとの呼びかけと、平成23年6月
25日(土)の次期開催が早々と発表された。

みのり会 ------------------------------------------------------------------------------------- 41
       (洛北六期)
京生まれスカイクロスを習得

 六期同期会みのり会(平岡猛男代表)は6月27日、今年度の総会を挙行。京都駅前のタワーホテルで一昨年は卒業
50周年、昨年は古希の会を銘打ち、賑やかに開いたが、節目の会のあとにもかかわらず今回も恩師5名同期生93名
総員98名の盛会。何かにつけ集まり、山歩き、小旅行をする6期同期会は七十を超えてもますます元気な様子。
 今井先生のピアノ伴奏で「千の風になって」を歌い故人のご冥福を祈った。平岡会長から恒例の母校同窓会本部の状
況報告のあと、久し振り参加の同期生から近況報告など一言。小畠先生からのご祝辞、田代先生からはご持参のパッチ
ワークなどの作品の説明吉江先生からは「ブラームスと芭蕉たち」を贈呈していただきました。このあとはシルバーワ
ゴンのCDをBGMにいつもながらクラス毎のテーブルで。そしてテーブルを越えて交流の会話。

 今回は京都で生れたニュースポーツの「スカイクロス」の会長もされている恩師の犬島武子先生、協会の幹部で競技
の現役でもある中山より選手による本競技の紹介。先般チェコを訪問、両国の親善をはかり、併せスカイクロスの親睦
試合を行って来た訪問記を披露のあと早速手ほどき。最初はぎこちなかった6期生もやがて持前の好奇心と器用さでマ
スター。ホテルの宴会場で競技具のディスクが飛び交う状況に会場のホテルマンもいささか心配顔。
 全国から寄せられた出席できなかった同期友人の東のたより西のたよりを見たり。歓談がすすみ、いつもの通り「千
年の森かげを…」を全員で歌いお開きとなりました。  (堀江 博)
卒50年記念同窓会 盛大に開く ------------------------------------------------------------------ 42
        (洛北七期)


 記念同窓会は2008年11月16日、グランドプリンスホテル京都(宝ヶ池プリンスホテル)、ゴールドルームに
て、26名の先生方にご案内し、体育の犬島武子先生、数学の臼井照代先生、生物の本永友彦先生、商業の木村陽吉先
生、国語の藤森完治先生、国語の吉江久弥先生、音楽の今井(上池)春子先生、地学の小泉五郎先生と8名の先生方の
ご出席を賜り、総勢150名にて賑やかに開催する事ができました。又、吉江先生からは、参加者全員に「ブラームス
と芭蕉たち」現代に生きる太古の思想。思文閣出版、先生のご本を頂戴致しました。本永先生には京一中洛北高校の校
舎が新築されるにあたり、一中時代からの校舎の歴史を記した記念の本について、一言解説頂きました。 さて、同窓
会は記念写真の後、12時に開会宣言、今井先生のピアノの演奏で校歌斉唱、物故者への黙祷と続き、1組の中川雅夫
氏の「どうなる高齢者医療」と題して講演をして頂き、乾杯にうつり、和やかにに懇談会が始まりました。ビンゴゲー
ムでは、9組幹事の西村文雄君が中心となり、沢山の賞品を用意して頂き、多くの諸氏が賞品を頂戴していました。
 卒50年記念のお土産クッキーが全員に配られました。このクッキーは私達同窓の娘さんが、このプリンスホテルで
修業し、クッキー店を開業したばかりなのに、予算的にもご無理をお願いし、お世話になりました。ありがとうござい
ました。閉会の後はホテルで二次会を開くクラス、四条へ出て二次会を開くクラス、ロビーの喫茶部で一時を語り合う
クラスと三々五々に再会を期して家路につきました。
 無事盛会に終了出来た事、幹事の皆さん、そして総会の案内状を始め、10数回の幹事会をお世話になった同窓会事
務局員の皆様ありがとうございました。
        (渡遁 尭)
 第10回洛七会開催を予告します。昭和33年に卒業して早、50余年「喜寿」を迎えることとなりました。これを
記念して「洛七会」を2010年6月6日(日)旅亭「紅葉」にて開催することとなりました。多数のご参加をお待ち
いたしております。

ラッキュー会 ------------------------------------------------------------------------------------ 42
      (洛九会)


 紅葉のさなか、11月22日に京都ホテルオークラに62名が集合しました。今まで同窓会で顔を合わせながら残念
ながら亡くなられた人もおり、初めに皆で黙祷。
 話題提供ということで同窓生の中から船で世界一周をした人の話、パイロットで世界を飛び回った人の話を聞き、賑
やかに歓談が始まりました。現役で活躍中の人もまだまだおりますが、カルチャー教室や趣味の世界で忙しくしている
人も多いようです。ラッキュー会も最近ではほぼ毎年のように開催していますが、同窓会のおかけで学校時代に話をし
なかった人だちとも気軽に話ができるようになり、交流が広がったのはうれしいことです。会の中とろには同窓生の知
り合いのカナダ人Keith Hills 氏の演奏するパーカッションの演奏が場を盛りあげてくれました。最後に幹事役から「
元気で同窓会に集まれたことに感謝しつつ、次回また元気で会いましょう」の挨拶で締めくくり、再会を約しました。
紅葉の見頃とあって、会が始まる前に十数名が東福寺、泉涌寺を訪れ、紅葉と人波?を楽しみました。なお次回は20
10年2月を予定しています。卒業して50年の節目の年、今回都合のつかなかった人、同窓会ご無沙汰の人もぜひ集
合下さい。(内田正博)

 臼井先生を囲む会 ----------------------------------------------------------------------------- 43
    (洛9期、3年5組クラス会)


 平成21年2月24日、臼井先生を囲む会が山縣有朋の旧別邸(無隣庵)にて開催され、先生を含む17名がお庭に
面した和室に集い、先生のお礼の言葉に始まり近況報告やらプレゼント、記念撮影など明るく楽しい一夜でした。

洛北十二期同窓会 ------------------------------------------------------------------------------- 43

 卒業後45年目を迎えた昨年の10月11日に、ホテルゲランヴィア京都で5年ぶりに開催致しました同窓会でした
が、会社勤めを卒業して今迄に参加できなかった人や随分と遠方から、かけ付けてくれた人もいました。
 少しはみんな時間にゆとりが出来た様子です。司会者からこの5年間に天国に旅立った同級生が、前回の5年間より
はるかに多いのを司会者から告げられて、黙祷を捧げ終えるまでのなんとも言い表せない時空間を除いて、賑やかな雰
囲気で45年前の学生時代にひたって楽しいひと時をごすことが出来ました。
 あちこちのテーブルを訪問し、健康上の理由や自由時間が出来たことを理由に5年を3年に縮めて開催しろの声の多
いのに年を感じた同窓会でした。校歌を大合唱し、記念撮影の後、別室での2次会を楽しみ再会を約束して散会となり
ました。
    (宮本郁男)

楽歳会第34回ゴルフコンペ --------------------------------------------------------------------- 44
      (洛北14期)


 今回は34回になり、ゴールデンウィーク初めの4月29日開催で参加者が少なくなりましたが、好天に恵まれ楽し
いラウンドになりました。今回もセンチュリーシガゴルフでの開催でしたが、我々も年齢的に体力の限界?を感じるよ
うになってきたのも事実です。プレーはまあまあ、スコアもぼちぼちといったところでしょうか。でもアフターゴルフ
は元気ハツラツです。同窓生がオーナーのゴルフ場でプレーの後は、同窓生オーナーの「牛おおた」にて食事会(表彰
式)を開催、飲んで食べて会話に花が咲き大満足でした。
当日の参加者は、井口照雄、井上徳二、太田健二、後藤浩之、滝西清吉、土橋孝一、徳井義弘、三島康之、古滓俊二、
奥野敦子(旧姓田中)の10名でした。次回の担当幹事は土橋孝一で、11月3日センチュリーシガゴルフで開催の予
定です。参加者募集中!参加してみようかなと思ったらすぐに連絡して下さい。大欲迎いたします。連絡先は斉藤甚太
郎(722‐xxxx)まで。
        (井口照雄)

洛北15期 -------------------------------------------------------------------------------------- 44
   第四回同窓会

 平成20年10月18日(土)午後3時から5時、京都市下京区のホテル日航プリンセス京都にて、還暦記念の同窓
会が90名の参加を得て開催されました。事務局で把握できている20名の物故者に黙祷を捧げた後、代表幹事八田忠
一君の元気な乾杯の発声で賑やかに祝宴はスタートしました。
 クラスメートごとに円卓を囲み、おいしいお酒と料理をいただきながら、卒業後42年の歳月が経ち、それぞれの姿
かたちが変わっても、当時の話をすれば瞬間的にその時代に戻れる同窓生ならではの特別な関係を、昔話やスライドに
よる新校舎案内ツアー、全員による校歌斉唱など、昔と今をタイムスリップする不思議な感覚とお酒に酔いながら楽し
く過ごしました。
 次回の同窓会は3年後の平成23年に開催すること、そして代表幹事には奈良磐雄(5組)、クラス幹事は可能な限
り継続していただくことが決まり、次回の再会を約束しながら全員で記念撮影をしてお開きとなりました。
 石崎宏男、大島武子、本永友彦の3先生からは事前にご祝辞を頂戴していました。誌面をお借りしてお礼申し上げま
す。
        (奈良磐雄)

洛二十一期 ------------------------------------------------------------------------------------ 45

 前回の予告で「55歳記念開催」を発表しておりましたが、諸般の事情で年度末が近くなり、新たな集客の期待から
例回とは異なる季節の正月休み(1月3日)に実施しました。いつものお盆季とは違うメンバーが加わりましたが、絶
対数を確保できず参加者のみなさまにはお詫び申し上げます。
 さて私たちも卒業年までの倍年齢以上の38年目を迎え、子育てピークから孫持ち年代へと入ってきました。こども
たちの結婚や孫の数の競い合いに話が咲くなど隔世の感かおりますが、アラカン近くになってもお互いの呼び方は□□
くん△△△ちゃん、友情と親愛は今も変わることはありません。3年後、5年後、10年後も同級生を観て、元気と活
力が湧く、そんな存在であり続けることを期待しております。来年10月23日(土)に予定しております京一中14
0周年洛北高校60周年記念事業には、10年前の記念事業同様、同期のみなさんのおチカラを是非お貸しいただくよ
う誌面をお借りしてご報告とお願いをいたします。

積木の会 ------------------------------------------------------------------------------------- 45
    (洛北23期)
  平成20年11月2日
  からすま京都ホテル


 前回、4年に一度、オリンピック開催の年に積本の会を開催しようと決めたことから、北京オリンピックが開催され
た昨年11月2日に学年同窓会を開催しました。
 11月の連休の開催ということで、当初は、なかなか出席の返事が集まらず、幹事一同やきもきしていましたが、当
日は二次会への飛び入り参加も含めて90名近い参加がありました。
 昭和40年代のフォークソングをバックに、プロジェクターで卒業アルバムや持ち寄った当時の写真をスクリーンい
っぱいに映し出した会場では、旧友と会った瞬間から気持ちは高校時代にタイムスリップ、当時の思い出話に花がさき、
東京在住の連健夫君(旧5組)が行った京浜支部の活動報告も、残念ながら耳に入らない状態でした。
 最後は恒例となった田中嘉一君(旧8組)のエールでお開きとなりましたが、ほとんどのメンバーが二次会へ参加し、
ここでもテンションは下がらず、本当に話が尽きない同窓会となりました。
 次回は4年後のロンドンオリンピック開催の年に再会することを誓って漸く散会となりました。

洛北二十七期(昭和五十三年卒) ---------------------------------------------------------------46
        第三回同窓会


 輝かしき充実の五十代スタートとなる記念の年に、27期第3回同窓会が2009年7月4日にマリアージュゲラン
デで行われました。母校・洛北高校で青春時代を過ごした懐かしい友達や、大変お世話になった恩師の先生方もご参加
いただき、有意義な時間を過ごしました。
 今回も世話役・幹事一同、努力させていただき、また高校同窓会事務局にも多大なるご協力をいただき無事、盛況の
内にとり行うことができました。
 第2回から2年しかたっていないからか、前回より少数となったことは非常に残念です。しかし健康である今を大切
に、昔の友人、恩師の先生方とお話ができ、また新たに友人となれる同窓会のすばらしさを、もっともっと知ってもら
えたらと幹事一同、希望しております。当日、どうしても参加できなかった同級生のために、27期のホームページを
開設しました。同窓会事務局のご協力を得て、公式ホームページからリンクできます。
 「京一中洛北高校同窓会」で簡単に検索できますよ!
 次回はもっともっと参加して、もっと元気になろうよ!
        (西村佳哲)

洛北二十八期 --------------------------------------------------------------------------------- 46
 卒業30周年同窓会


 洛北28回卒の卒業30周年同窓会を8月15日に京都国際ホテルで開催しました。金森、中邨、西村、松根、河野
の各先生方にもご参加頂き約百名の旧友が懐かしい顔を揃えました。
 メタボが心配される友。皆が年齢を重ねたので逆に若く見えるかつて老け顔だった友。いつまでも万年青年、万年マ
ドンナのような友。そして先生方のテーブルの周りには直立不動でお話を伺っている友の輪が有りました。それぞれ3
0年の年輪をひととき脱ぎ捨て楽しい時間を過ごしました。
 旧校舎、私服、学区制……で過ごした高校生活を思いながら合唱部のリードで校歌を斉唱し5年先の再会を期して盛
会のうちに終了しました。(大橋 晃)

洛北4年間を振り返って ----------------------------------------------- 前洛北高校校長 塩見 均 49

  塩見均前校長(前同窓会特別顧問)に聞く


塩見前校長はこの程退任され京都府高校校長会事務局長に就任されたが、在任四年間を振り返り語っていただいた。
◆ 在任中は、同窓会には、新しい学校づくりや特色ある教育活動の展開などにおいて、御理解、そして物心両面にわ
 たる御支援をいただきましたこと厚く感謝申し上げます。特に、教育活動の推進の際には、「京一中・洛北」という
 名の精神的な支援は大きかったと、改めて感じているところです。

◇ 洛北への辞令を受けた時のご感想は?
◆ やはり、緊張と責任を感じました。そして覚悟を決めて取り組まねばという凛とした気持ちになりました。
  特に、京都府も大きな教育改革のうねりの中にあり、大きな柱の一つである中高一貫教育校が伝統ある洛北に設置
 され、私自身も課長としてその設置に係わったこともありました。設置時の期待やその過程での困難など経緯を知っ
 ておりましたので、与えられたミッションを理解し何としても新しい洛北を創り、成果を出さなければという意識を
 強く持ちました。
  赴任した平成17年附属中学校が併設され、また文部科学省よりスーパー・サイエンスーハイスクール(SSH)
 の事業に指定され、前任の勝間校長先生が「洛北改革元年」と位置付け、新しい歩みを始められた2年目の年でした。
 本当に新しい洛北高校・附属中学校の草創期であり、中高一貫教育の理念の理解やその具体化への取組を如何にして
 推進するかなど、ジワジワと多くの課題が頭の中を巡るのを感じました。

◇ 洛北に着任されての印象は?
◆ 校長として、北稜高校、桃山高校そして洛北高校と3校経験したわけですが、洛北高校は、東洋一と言われた京一
 中の校舎の面影を取り入れた建物にその歴史を彷彿させる偉容さと、アカデミックな雰囲気を強く感じました。本当
 に落着いた環境にあり、確かな存在感のある学校との印象を持ちました。
  勿論、歴史とか伝統の重みはプレッシャーとして感じました。特に、学校に来られる同窓の方は、何期の卒業です
 と言われます。やはり、卒業生の母校への愛着、誇りを感じました。一度、ある新書「名門高校人脈」の本の一節に、
 『洛北高校の進路の合格実績は今は昔の感が否めない』と書かれているのを見せられました。卒業生の方の母校への
 眼差し、思いが痛いほど理解できました。洛北を預かる校長として正直悔しい思いを持つとともに、生徒にそのよう
 な思いを持たせたくない、誇りを持てる学校にする。そのことにより、自然と自覚を促し、自律的な自己の成長、向
 上につながるようにしなければという気持ちを強く持ちました。
 「伝統」とは、歴史の長さを有すること、優れた人材を輩出していること、その中で培われた精神性、学問への希求
 などが教育風土としてあることにあります。洛北はそれらを有してますが、ただ最後のところが昔の時代と比べて弱
 くなっていることは否めないと思います。附属中学校設置を契機にして、中高一体となり教職員・生徒たちが、学校
 づくりに頑張っているところです。

◇ 在任中の出来事や思い出などは?

◆ 基本的には、意欲的で前向きな生徒と目標や方向性を共有し、一緒に汗を流すことのできる教職員に囲まれて楽し
 く学校運営に携わることができた4年間であったと思っています。何回かは、雷も落としましたが……。自分が歳を
 とった、また立場上直接的な指導を殆どしないことによる適度な距離感が生徒との間にあるのかもしれませんが、学
 校祭や体育祭、鴨川でのマラソン大会、オーストラリア研修旅行、学校行事、部活動など生徒が生き生きと教育活動
 に取り組んでいるのを見るのは楽しいものです。勿論、生徒を誇りに思う裏返し、校長としての見栄にも似たプライ
 ドの所為かも知れませんが、府内の関係の方々の視察、他府県や外国からの学校訪問などの時は、「ネクタイ、服装、
 しゃきっとしろよ」と思う時もありましたが(笑)。挨拶や講演など聴く態度、質問の内容など賞めていただいたこ
 とが多かったと記憶しています。
  個別的には、部活動や進路関係などで、校長室にまで結果の報告に来てくれたことなど嬉しかったですね。やはり
 生徒なんですね、一人一人の表情に満足感、決意、悔しさそして涙ありと、いい顔していました。
  特筆すべきこととして女子ハンドボール部のインターハイ4連覇、2年連続年間3冠。女子囲碁部の選抜選手権で
 の優勝、陸上競技部、男子ハンドボール部、弓道部の全国大会出場、府下では、サッカー部、女子バレーボール部の
 準優勝、野球部、ラグビー部など「洛北」の名に値する活躍をしてくれました。各部の活躍は、学校に一体感をもた
 らすだけではなく、人間教育の側面にも大きな役割を果たしてくれたと感謝しています。次の飛躍を目指して、第V
 類体育系を柱として確固たる位置を築いてきた部活動も新たな位置付けと態勢づくりが求められるところにきている
 とも感じます。

◇ 気を遣ったり、苦慮されたことは?

◆ やはり、中高一貫教育の6年間の教育内容の策定、SSHの教育内容の策定、そして高校からの大学生に対して、
 その成果と方法を教育課程にどのようにいかしていくのか、生徒に学校「洛北」としての一体感を如何に持たすのか
 が大きな課題でした。「融和」と「創造」をキーワードにして「洛北」を創ろうと考えました。即ち附属中学校と高
 校の組織面、教職員の意識面の「融和」を図り、率直な議論を深め、洛北の教育を「創造」する。それは、経験から
 くる否定しがたい教育観や指導方法、教材観、評価観などの違いを学校組織としては乗り越えなければ、新しいもの
 は生まれないという意識でした。平場の議論も多くありましたが、生徒を目の前にして、前に向かって創り上げなけ
 ればという意識は持っていただいたと思っています。
  でも一年毎の積み重ねが中高一貫教育6年の中身、成果ではなく、やはり6年目を6年間の総体として見るんです
 ね。卒業生を出し、成果を確認するまでは不安になります。一巡するまでは、取組に対する確固たるものは生じ難い
 ところがあります。その意味では、第一、二期生の結果が問われ、ここ2年が正念場と意識しました。 しかし、最
 初の6年間は長いです。卒業しはじめれば毎年のことになりますが……。でも中学入学時の声変わりしていない生徒
 が6年間でこんなに肉体的にも精神的にも成長するのですから、6年間の持つ意義は大きいと思います。節ありて竹
 強し、どの時期にどのような「節」を作るのか。高校から入学する生徒は、高校受験という強い「節」を経て入学し
 ています。その意味では、大きな課題として議論して来た「中高接続」の問題は大きいと今でも思います。
  SSHも最初の3年間の指定が終わり、次の指定では、正に本校の取組の中身や成果、つまり「洛北の教育」その
 ものが問われるので随分気を遣いました。平成18年の洛北高校で開催のまとめの発表会では、多くの参加者があり、
 高い評価を受けることができました。幸い、翌年更に5年間の指定を受けることができ、今年の文部科学省・JST
 主催の中間期の発表会では、最高の賞「文部科学大臣賞」を受けたと聞いています。本当に名誉なことでSSHの取
 組の質の高さや発想などが評価されたと思っています。偏に関係の方々の御指導は勿論、生徒諸君・先生方の今まで
 の努力の賜と敬意を表したいと思います。
  何れにしても、洛北の生徒が、勉学は勿論、行事や部活動など、互いに切磋琢磨しながら、集団として一体感を持
 って取り組んでいる現状があります。また教職員の意識なども変化し、授業の方法の工夫や質の改善、中高を越えて
 互いの成果を生かしながら教育を推進しています。PTAも中高一体の組織で活動をしていただき大きな支援をいた
 だいております。現在、総体としての学校力もアップし、新たな飛躍を期待できるところにあると思っています。

◇ 色々な方が訪問、講義などに来校されますが、印象深かった人は?

◆ 国内や外国からの教育視察や国際交流、京都賞受賞者の講演、SSH関係での大学の先生の講義など本当に多くの
 方々が来られました。やはりそれぞれの専門分野の第一人者の方々はその道に造詣が深く、経験や知識に裏付けされ
 た含蓄のある話が多く、しかも奥行きや拡がりもあり、楽しい有意義な時間を持たせていただきました。お一人お一
 人印象に残っていますが、無理をお願いして色紙に書いていただいたお言葉を紹介します。

 「ことばは 心の 美しい結晶である」
 「激しく考え 優しく語る」
 「ゴリラに習って 向かい合うコミュニケーションを大切に」
 「玉は砕くべくも その白さを改むべからず」
 「信じる心を大切に」
 「太陽、地球、宇宙人が大好きです」。
 本当に色々な世界が拡がっています。
◇ 旧制中学と今の中高一貫との違いは?

◆ 時代や社会状況が著しく異なり、社会から教育に求められるものも違い、また教育制度や進学率なども異なってる
 ので、一概に論じることは無理だと思いますが。
  戦前の中等教育制度は、複線型であり、旧制中学校(京一中など)は修業年限5年のエリート校でした。一方、戦
 後の中等教育制度は、6・3・3単線型であり、前期中等教育を中学校が、後期中等教育を高校が担うシステムです。
  時代を経て、戦後の単線的で画一的な学校制度を変えようということで、公立にも6年間の中高一貫教育校がつく
 られました。今は、義務教育の上に、高校進学率が97%を超える中での中高一貫教育校ですので、制度、置かれて
 いる状況、意識面で大きな差はあると思います。
  戦前は義務教育でもないし、少数でもあり、国家・学問のために、正に星雲の志を抱いて学校生活を送っておられ
 たと思います。また、校長など教職員も専門性など高く知識量も多かったと思っています。司馬遼太郎の本の中に、
 第2代目校長 清沢満之先生のことが記してありました。校長室にある「京一中洛北高校百年史」を読みましたが、
 立派な校長先生がおられたことと感心し、改めて己の未熟さを再認識しました。
  確かに、今の時代は、生徒も教職員もすることや求められることが多すぎるのかも知れませんが。その点では、今
 の生徒も、理想を求めたり、いい意味で知への「背伸び」があっても…。また、教職員一人一人が今以上に専門性や
 人間性を高め、「師」となる何か魅力を待った個として存在し、全休として、懐の深い奥行きのある森のような豊か
 な集団であらねばと思います。

◇学習する教科・科目など昔と比べて変化がありますか?

◆ 旧制中学校時代と直接は比較できませんが、戦後でも教育課程の変更は、今回の公示を含めて、実質7回になりま
 す。戦後六十余年では、その時代時代の反映、教育思想、進学率等の影響を受けながら、教科・科目名、内容などが
 変遷しています。でもやはり「臨教審」の影響が大きく、「ゆとりと充実」といわれた頃から大きく変わったように
 思います。
  また、学校五日制で土曜日が休業日になったことなどの変化により、時間数や単位数など減少してきています。必
 修科目でも新しく「情報」「オーラルコミュニケーション」などがあります。また同じ科目でも教科書の内容も千差
 万別で種類も多くなっています。
  私の頃は、理科は「生物」「化学」「物理」「地学」など必修であり、また理系でも「古典」「漢文」などあり、
 理解は別にして最低限の教養的なものは学ぶ方向であったと思います。必修科目の内容の多様化、選択必修の扱いな
 どは、教育の大衆化が進行する中で一つの危機でもあります。私個人としては、高校が殆ど義務教育化していること
 を考えるとき、国民としてのアイデンテティとなる最低限の素養となる必修科目は、内容をもう少し量を多くし質を
 高める必要があるのではないかと思います。学ぶということに対してハードルを上げる、国民一人一人の文化、教養
 を高めることが、人としての品性や豊かさを育て、延いては、文化の維持継承、国の発展にもつながることと思いま
 す。形や結果としての高学歴を求めるよりもそれぞれの段階での教育の充実を図るなど十分な対応が求められる時代
 にきていると思えます。
  今年度は、洛北高校・附属中学校も6年間の最後の仕上げの年。着実に歩まれ、取組が成果として花開くことを願
 っております。

母校だより -------------------------------------------------------------------------------------- 52

平成20年度卒業証書授与式
   58期生274名が卒業


  洛北高校第58期生卒業証書授与式は本格的春の訪れはまだ早いが、寒さの和らいだ平成21年2月27日(金)
 午前10時より母校体育館で行われ、全過程を終了した274名の卒業生が出席、塩見校長から卒業証書を授与され、
 はなむけの言葉が送られた。式典には京都府教育委員会関係者・PTA役員・府会議員などが来賓として参列、PT
 A会長が代表して卒業生、保護者に祝辞洛北高校第を述べた。同窓会からも中嶋理事長・倉知常任理事が参列し、祝
 意を表した。また生徒自治会と共同で同窓会から卒業生全員に記念品贈呈を行なった。
  例年式場の体育館の「冷え」に悩まされていた出席者も、今回は学校当局の気遣いで貼るカイロの準備があり、保
 護者などからは好評。
  卒業式後の中庭や正門前には学業を終えて晴れ晴れとした卒業生を中心に在校生・諸先生・保護者が混じり、記念
 撮影や、母校に名残りを惜しむ姿など、いつもながらの惜別の光景。

同窓会賞にハンドボール他、四選手

  卒業式では成績優秀者や皆勤賞受賞者に対し、それぞれ賞が授与されたが、同窓会からは同窓会賞として年度にお
 ける活躍が顕著だった女子ハンドボール部とサッカー部の選手に賞状と記念盾を理事長から手渡した。
  女子ハンドボール部は前年度に引き続き「選抜」「高校総体」「国体」で優勝し、2年連続三冠の偉業を達成した。
 (「あかね46号」所載)
  選ばれたのは女子ハンドボール部では全日本選抜に選出された乾彩友美さん、高山綾乃さん、竹中梨沙さん、秋田
 紗貴さん。そしてサッカー部の上田健太郎君。

同窓会入会式も行なう
      学年幹事も委嘱


  卒業式の前日の2月26日(木)に母校体育館で、中嶋理事長、三輪常任理事出席のもと同窓会入会式が行われた。
 卒業生に対し、中嶋理事長より卒業のお祝い、入会歓迎の辞とともに京一中洛北高校同窓会の歴史、現状などを説明、
 今後は同期会など活発な活動を期待する旨表明。また学年幹事として次の各氏に委嘱状が交付された。
  学校側の諸行事が終了のあと、早速学年幹事一同が同窓会会議室に集合、お互いの自己紹介を行い、理事長ほか同
 窓会本部事務局専任者との顔合せ。そのあと理事長、三輪理事を囲み懇談、最近はクラス替えも少なく違うクラスの
 生徒間相互の交流が減り、初めて学年幹事として一同に会した機会に全員で連絡名簿を作成し、そして今後の同窓会
 活動への抱負をこもごも述べた。
  次の諸氏が58期学年幹事に就任した。
 1組 大久保 彩希 奥村 翔子
 2組 竹中 朝美  山田郵也
 3組 池上 正太郎 藤川 さつ紀
 4組 小山 千紘  森 彩乃
 5組 木村 祥吾  森 由紀恵
 6組 倉重 美香  矢野 佐季
 7組 金田 真樹  清水 咲弥
(代表学年幹事) 山田 郵也

平成20年度高校・付属中学合同
       入学式も行われる


  平成21年度母校入学式は高校及び附属中学合同で陽春の4月8日(水)午後2時母校体育館で行われた。今年入
 学を許可された新入生は高校284名、附属中学80名で、宮原新校長より式辞、園田PTA会長より祝辞を受け、
 晴れて洛北生としてのスタートを切った。
  高校大学生の内訳は第T類79名。第U類83名、第V類42名、中高一貫コース80名。
 主な出身校および入学者数( )内、
 下鴨(48)・修学院(22)・洛北(14)・近衛(7)・烏丸(7)・高野(6)・ 旭丘(6)・西賀茂(6)
 ・上京(6)・京都御池(6)・勧修(5)。
  尚、今年高校へ入学した付属中学生は第3期生で、これより高校3年(附属中1期生)から中学1年(6期大学生)
 まで、名実ともに中高一貫校となった。
 体育系 ----------------------------------------------------------------------------- 53
 陸上部
  インター杯近畿予選
 長田有司 男子走り幅跳び 第5位
 山田亜古 100mH 第4位
 伊達愛美 100m・200m 第6位
 全国インターハイ(まほろば総体)
 長田有司 男子走り幅跳び 第10位

サッカー部
平成20年度新人大会
  1月31日からの新人大会では1回戦で東山、2回戦で洛東を下し準々決勝では立命館宇治を1−0破り、準決勝に
 進んだ。山城との準決勝では1−1のあとPK戦に敗れ、決勝戦には進めずベスト4となった。
平成21年度インターハイ京都府予選
 3回戦 洛北 3ー1 桂
 4回戦 洛北 6−0 同志社国際
 5回戦 洛北 2−I 京教大附属
 準決勝 洛北 0−1 立命館宇治
 第3位  中埜恵二君が平成21年インターハイ京都府予選ベスト11の選手に選ばれた。

弓道部


 第27回全国高等学校弓道選抜大会に出場。
   12射7中で惜敗。
 京都府高等学校弓道20射会に出場。
 優勝・山田義和選手の成績20射18中。

ラグビー部

 平成21年度京都府総合体育大会
  2回戦  洛北 29−0 京都学園
  準々決勝 洛北 6ー6 桂
  抽選の結果、惜敗。

女子バレーボール部

 平成21年度全国高校総体京都府予選
  1回戦 洛北 2−O 福知山
  2回戦 洛北 2−O 京都西山
  準決勝 洛北 Oj2 北嵯峨
  第3位

ハンドーボール部


 インターハイ京都府予選で男女とも優勝。
  男子は4年連続10度目、女子は19年連続19度目の優勝を決め、男女ともインターハイに出場。まほろば総体は
 京田辺市で開催。
 男子
  1回戦 洛北 44−22 学法石川(福島)
  2回戦 洛北 39−21 長野南 (長野)
  3回戦 洛北 27(前半16−17、後半11−11)28 瓊浦(長崎)
  男子3回戦は長崎の強豪チーム瓊浦と準々決勝進出をかけ大接戦。前半は1点差で、後半での逆転をねらったが、一
 進一退で同スコアで終了。結局1点差で涙をのんだ。

 女子
  2回戦  洛北 22−20 大曲農(秋田)
  3回戦  洛北 36−10 今治東中教校(愛媛)
  準々決勝 洛北 37−18 氷見(富山)
  準決勝  洛北 21(前半13−14、後半8−11)25 四天王寺(大阪)

    ハンドボール女子で史上初の5連覇をねらい順調に勝ち上かって来たが、準決勝で四天王寺に敗れた。前半は1点差、
 後半は残り12分30秒でいったん20−20となり、逆転の好機となったが、ここから相手に守備を崩されて、3連続
 失点となり、必死の追い込みも結局後半8−11、計21−25で洛北は姿を消し試合会場がどよめいた。

 文科系 -------------------------------------------------------------------------- 54

放送部


 第48回京都府高等学校放送コンテスト
朗読部門
   岸田優さん優良賞獲得。
アナウンス部門  小西真央さん第2位入賞。

 7月21日東京で開催された第56回NHK杯全国高校放送コンテスト出場。

吹奏楽部
  第46回京都府吹奏楽コンクール 銀賞
  京都府マーチングコンテスト 金賞

囲碁将棋部 ----------------------------------------------------------------------------------- 55


  第33回文部科学大臣杯
  全国高校囲碁選手権大会の団体戦初優勝
  46校出場の女子部で洛北は7月27日の予選リーグを3戦全勝で突破。続くトーナメント準々決勝で鶯谷(岐阜)
 を3−0、準決勝で宮崎学園(宮崎)を2−1で下し、決勝に臨んだ。
  翌28日東京・日本棋院の決勝では神奈川県代表の日本女子大付属高に3−0で堂々の勝利。団体女子で京都が優勝
 するのは初めて。メンバーは主将の高山逞杏子、副将渾村なつみさん、3将稲垣薫さんでいずれも2年生。

スーパーサイェンスハイスクール研究発表会

 最優秀賞(文部科学大臣表彰)受賞
  理数科教育を重点的に行なっている全国の高校が集まり研究成果を発表するSSH研究発表会が横浜市で開かれ、洛
 北高校のグループが最優秀賞を受賞、文部科学大臣表彰を受けた。洛北高校のグループは布への印刷技術を応用、イン
 クジェットプリンターのカートリッジに金属イオンの溶液を入れ、吹付量や濃度を調整しやすくする仕組みを研究し、
 その結果複雑な模様を手軽に印刷できるようにした。本研究は洛北高に近い京工繊大の浦川宏教授の指導・助言を受け
 ながら進めたが、会場に出席の関係者も洛北高生徒による研究発表のレベルに賞賛の声をあげていた。
  発表会には入江加奈子さん、堅田恭平君、島村干菜美さん、竹村慶子さん、野田瑞穂さんが出場した。

古典の日推進フォーラム開催

 ―洛北附属中学校の紀田君が宣言―
  昨年制定の古典の日が11月1日と制定されたが今年も「古典の日推進フォーラム2009」として宝ヶ池の国立国
 際会議場メインホールで式典が行われる。式典は最後の宣言で締めくくられるが発表者の一人に洛北高校附属中学三年
 の紀田心一君が選ばれた。

平成21年度 教職員移動 ------------------------------------------------------------------------ 55

       (右下は前任校または新任校)

転出(高等学校)
 塩見 均先生(校長)       京都府立高校校長会
 竹内 千香先生(国語) 嵯峨野高
 渡邉 博司先生(英語)      山城高
 野村 康隆先生(数学)      研修
 港  義喜先生(地歴・公民)   退職
 村田 英一先生(地歴・公民)   退職
 吉田 由美子先生(英語)     退職
 田中 陽子さん(事務職員)    洛北高附属中

転出(附属中学校)
 山口 洋典先生(副校長)     東宇治高
 畑山 晃一郎先生(英語)     外部転出
 瀬津 陽介さん(事務職員)    本庁

転入(高等学校)
 宮原 芳久先生(校長)      北稜高
 古川 奈保子先生(国語)     桃山高
 大場 さやか先生(地歴・公民)  網野高
 川津 英昭先生(数学)      菟道高
 三宮 富友志先生(理科)     北稜高
 平井 朋美先生(英語)      西舞鶴高
 植村 容子先生(地歴・公民)   新任
転出(附属中学校)
 能登谷 宏一先生(国語)     男山中
 日下部 博之先生(英語)     八木中
 田中 陽子さん(事務職員)    洛北高

洛北高校と源氏物語(その2)---------------------------------- 下田 元美(洛北16期) 56

  元千年紀委員会事務局長

〜 偶然が重なるのは必然? 〜 ------------------------------------------------------------------- 56
 昨年、編集部からの依頼で拙い一文を載せていただきました。
 千年紀の事業が佳境のおり、十分に書けなかったと申し上げたら、今年は暇だろうからもう一度書くように、ということ
になってしまいました。で、源氏物語千年紀のエピソードを(その2)として記しておきます。
 偶然のエピソードは洛北高校1年の失敗談と源氏物語の最後の帖の舞台について「あかね」前号に一件だけ書いています。
この千年紀に従事している間、私にとって不思議な偶然が立て続けにおきたのですが、正直これを同窓のそして在校の皆様
にお伝えしても、けっして面白くもなんともないと思われまったく申し訳ないことですが、お許しをえて私か経験した個人
的記録を本誌に残させていただくことにします。

 −偶然その1− ----------------------------------------------------------------------------- 56

そんなことかあっていいのだろうか

 まず、そんなことがあっていいのだろうかと云う出来事、いや事件です。これまでいくつかこのような記念イヴェントを
動かしてきましたが、成功の秘訣は事業に関わる組織や人を出来る限り増やし、そのために何でもよいからメディアに載せ
ることにあります(誤解されないようにまだ他にもあります)。ところがある大手のメディアが、千年紀をこともあろうに
一年間違えて前年からキャンペーンをはじめました。結果としてまだ認知度が低い2007年の段階で、よそにさきがけて
進めていただくことになり、早い時期から一般の方々にアピールしただけでなく他社を刺激し、力不足の私たちにとって頼
もしい支援となりました。

 −偶然その2− ----------------------------------------------------------------------------- 56

「天皇はん帰ってきはったらよろしいやん」
 事業全休をはっきりとした輪郭をもって見えるようにすることも不可欠でした。たくさんある催事の中核となる記念式典
を、人がなるほどと思える姿に構築することが求められていたのです。源氏物語が千年昔の宮中を舞台とし、当時の天皇を
はじめ藤原公任ら公達が物語を評価していたことが「紫式部日記」によって明らかにされていることから、記念式典にはぜ
ひとも行幸啓いただきたいと京都の人なら大概思うところです。記念式典は、合唱や雅楽を配しつつ記念講演(瀬戸内寂聴
氏、ドナルドーキーン氏)を行い、有り難いことに、天皇皇后両陛下のご臨席のもと「古典の日」宣言を発表するものとな
りました。この行幸啓を可能にする切っ掛けは全くの偶然からです。ご承知のようにそんな簡単に「天皇はん帰ってきはっ
たらよろしいやん」と宮内庁に声をかけられません。しかし次のようなA氏との雑談から物事が動き始めました。式典の1
年半前のことでした。

下田 「平安建都1200年の式典には両陛下が来られてね」
A氏「ふーん」
下田「源氏でもお越しいただくと、事業全体が引き締まるんだけどもねえ」
A氏「……」
下田「お願いに行けそうな人もいないんでね」
A氏「あっそう」
下田「まあお願いそのものに無理がありますから……」
A氏 「ボク来週行ってくる。資料ください」
5日後、彼はホントに宮内庁の幹部を訪ねました。私が作った怪しげな資料を抱えて。おそらくこのやりとりがなければ行
幸啓はなかったことでしょう。
 式典当日、両陛下には40名ほどの内外の源氏物語研究者・作家・翻訳家・詩人とご歓談いただき、式典に続いて翌日か
ら3日間行われた源氏物語国際フォーラムにも弾みがつきました。頂点をなすのが式典とこのフォ上フムでしたから、全国
への影響も絶大で、この年に開催された源氏関連事業全休の質的イメージが数段向上したと思います。

 −次いでにー -------------------------------------------------------------------------------- 57

式典と洛北高校との関連を一つ
 在校時に私は合唱部に在籍していて、ハレルヤなどを歌っていましたが、そのなかで好きな曲に「いろはうた」(信時潔
作曲)がありました。誰でも知っている「いろはにほへと〜」の歌詞は平安時代の平仮名と同じ時期に成立しています。そ
もそも源氏物語は平仮名があってはじめて書くことが可能になった物語なので、この記念式典にこそ演奏するに相応しいと
考えました。当日は、両陛下のご入退場にあわせて京都市少年合唱団に歌っていただき、懐かしい思い出と現実の仕事が交
差する一瞬となりました。
 さて、不思議なことはたくさんあって別掲の経過の一つひとつに偶然がありました。これを全てこのように紹介すると紙
面がたりなくなりますので、箇条書きできそうなエピソードのみをを記しておきます。

▽干玄室氏に重要なお願いをしようとしている矢先に、ご本人にばったり出会って(2006・9)その場で解決した。千
 玄室氏には「千年紀よびかけ人代表」に就任いただいた。
▽瀬戸内寂聴先生に「千年紀呼びかけ人」記者会見をお願いした(2006・9)ところまもなく先生の文化勲章受賞の発
 表(10月)があり、記者会見(東京:11月)は満席となった。
▽無しの礫となっていたシラク大統領のメツセージのことを友人に話したところ、たまたま彼は大統領側近の友人であった。
 その後速やかに大統領のメッセージをいただいた。(2007・4退任直前)
▽源氏物語国際フォーラムでお世話になるべくロイヤルータイラー先生(源氏物語を英訳)と打合せていた(2007・3)
 ところ、半年後に国際交流基金賞を受賞された。(2007・10)授賞式での先生の挨拶「この受賞は紫式部のおかげ
 です。」先生には同フォーラムの基調講演をしていただきました。
▽若手の国文学者で各種の事業でお世話になった山本淳子先生は、初めてお会い(2007・6)して半年後にサントリー
 学芸賞を受賞(2007・12)された。
▽国際フォーラムなどで大変お世話になった伊井春樹先生(国立国文学研究資料館館長:当時)は、学術的に貴重な大沢本
 を発見された。2008年7月22日の各紙に一面に掲載。
▽全体を通じてご指導いただいたドナルド・キーン先生は。記念式典(2008・11)の二日後文化勲章を受賞され、「
 紫式部に感謝します」とコメント。
▽どうしても利用したかった「源氏物語車争図屏風」を挨拶先で偶然に発見。(2007・7)無償で利用可能となり、さ
 らに印刷会社のN社の協力で拡大印刷により5.5×17.1メートルのパネルを無償で作成。これを上賀茂神社、下鴨
 神社などに掲出(2008・5〜6)。洛北の校区なのでご覧いただいたかもしれない。(同屏風は物語に書かれた葵祭
 での事件を描写しています。)
▽記念式典の数日後、同屏風を所管しているB先生に道でばったり出会い、春にお世話になったお礼を申し上げると、「い
 やいや有り難いのはこちらで、11月1日に大宮御所におよばれしました。」とのこと。
−偶然は輪のごとくー ---------------------------------------------------------------------------- 58

 偶然は続くだけでなく輪のごとく循環していました。これは必然であったかのように。お陰さまで事業は海外での催事を
含め、3777件の事業がこの2年間に行われ、約1030万人の参加者を得ました。新聞に掲載された記事の数は約24
00本となり、専門家による経済効果の推計は1087億円に達しています。ただし事業件数は私たち事務局が2009年
2月末までに調べた限りで、実態は把握し切れていないのが本当です。新聞記事も京都で私たちが切り抜いた数で、他所で
発行された新聞記事は掴みきれていません。
 振り返ってみると源氏物語千年紀を話題に出したのは2004年の夏(経過参照)ですが、どうしても忘れられないこと
がひとつありました。1995年頃です。当時関わっておりました文化関係者のお集りの席上、後に「千年紀のよびかけ人
」に就任いただくことになる冷泉貴実子氏から「京都府の文化政策に王朝文化が抜け落ちている」とのご指摘があって、そ
れ以来ずっと仕事上の課題として頭の片隅に残っていました。藤原俊成、定家を祖とし八百年続く和歌の名門からの注文で
すから重く受け止めると同時に迂闊に答えをだせないこともその時点で私なりに理解しました。
 その俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と記しています。前号に少し書きましたが源氏物語には、物語の進展に
あわせて散文に交互するよう歌が795首詠み込まれています。(前号では私の字が汚くこの数字が誤って印刷されました。
ついでに紫式部の詠んだ歌も「夜半の月かな」と正してください)今も多くの読者を得、源氏物語が日本人の美意識の絶え
ることのない源泉となっているのは、登場人物の心の微妙な揺れや贈る相手への気遣い、愛情や期待、嫉妬そして諦念が詠
み込まれた歌を物語のなかに絶妙にちりばめ、書き進んだからでしょう。
 もしほかならぬ冷泉氏から課題として王朝文化をいただいていなかったら「千年紀」という発想そのものが2004年の
夏になかったと思います。冷泉氏の発言の場に居合わせていたことが必然なのか偶然なのか、必然だとすると千年の糸が繋
がっていることになります。

 さて、この間に事業の成功にむけて、私達が心がけたのは理念かぶれないこと、巾広く事業を行ってもらうため多様な組
織・個人・研究者・企業・行政機関・メディアヘの呼びかけ、そしてお願いであったと思います。理念には、源氏物語その
ものの価値と、読み伝え、描かれた美意識を様々な美術や芸能にとり入れてきた千年間の営み、この二つのことがらを千年
紀に際して見つめ直そうとする訴えを掲げてきたつもりです。最後に紙面をとって恐縮ですが、「古典の日」宣言を載せま
した。この宣言は、2006年11月1日の記者会見での千玄室よびかけ人代表の発言がもとになって、ポスト千年紀を睨
んでの制作となりました。

 偶然に後押しされて、千年紀事業は大規模な展覧会や物販を伴う全国的催しに加え、全国に小規模・多発・分散型の極め
てまれな事業展開になったようです。振り返って、ひとつの文学を巡りこのように拡がりを得、正面切って「古典」を大切
にしようという流れを京都からつくれたことはとてもよかったと思います。そして同窓の皆様には「古典の日」宣言を読ん
でいただければ幸いです。最後にまた在校生の方々にはキーン先生にお願いした「古典の日」同宣言の英訳も一読願います。
山紫水明をどのように訳すのか興味あるところです。深まる秋の夕暮れに校舎の屋上からごらんください。比叡山から大文
字にかけての山並みを。私たちはなんと贅沢な時空に育まれてきたことでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「古典の日」宣言


 「源氏物語は日本の古典であり、世界の古典である。
  一千年前、山紫水明の平安の都に生まれたこの作品は、文学はもとより美術、工芸、またさまざまの芸能に深い影響を
 及ぼし日本人の美意識の絶えることのない源泉となってきた。1930年代に英訳されて以来、近年では20余の外国語
 に翻訳されて、世界各地の人々に愛読され、感銘を与えている。
  この物語について「紫式部日記」に記された日から数えて一千年。この源氏物語千年を言祝(ことほい)て、私たちは
 今後11月1日を「古典の日」と呼ぼう。

   古典とは何か。

 風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの、人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表
 現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、「人間とは何
 か、生きるとは何か」との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である。
  揺れ動く世界のうちにあるからこそ、私たちは、いま古典を学び、これをしっかりと心に抱き、これを私たちのよりど
 ころとして、世界の人々とさらに深く心を通わせよう。
  そのための新たな一歩を踏みだすことを、源氏物語千年紀にあたって、私たちはここに決意する。  愛のゆかり、ふたたび。


 平成20年(2008年)11月1日
  源氏物語千年紀よびかけ人
   代 表 千 玄室(茶道裏千家前家元)
       秋山 虔(東京大学名誉教授)
       梅原 猛(哲学者)
       瀬戸内寂聴(作家)
       ドナルド・キーン(コロンビア大学名誉教授)
       芳賀 徹(京都造形芸術大学名誉学長)
       村井 康彦(京都市美術館長)
       冷泉貴美子(冷泉家当代夫人)

  源氏物語千年紀委員会
会 長 村田 純一(京都文化交流コンベンションビューロー理事長)
   副会長 山田 啓二(京都府知事)
   副会長 門川 大作(京都市長)
   副会長 久保田 勇(宇治市長)
   副会長 立石 義雄(京都商工会議所会頭)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 最後に、この場をお借りしてご支援いただきました皆様にお礼を。同期(16期)の宮崎又行さん、清水博子さんには下
鴨神社で素晴らしい催しを実施していただきました。また中塚重樹さんにはメディア用の写真を撮るためにショーウィンド
ウをお借りしました。クラスメートの名前がすでに怪しくて思い出せない歳ですから、気がつかないままお世話になってい
たことも多々あったと思います。先生方や在校生の何人かの方々には足を運んでもいただきました。そしてなによりも本誌
編集部の堀江博さん、奥村文代さんの両先輩からの激励に感謝いたします。

<経過>
1008年 霜月
 「紫式部日記」に当時宮中で源氏物語が読まれ、評判になっていることが記される。
2004年 8月
 京都の文化行政関係者間で1008年の千年後となる2008年を「千年紀」として文化催事を進めようとの協議がはじまる。
2004年 10月
 河合隼雄文化庁長官(当時)が講演会で千年紀が近いことを述べる。
2005年 11月
 京都・滋賀の知事会議で2008年の源氏物語千年紀が話題となる。(「千年紀」がはじめてメディアに載る)
2006年 11月
 千玄室、秋山虔、梅原猛、瀬戸内寂聴、ドナルドーキーン、芳賀徹、村井康彦、冷泉貴実子の諸氏がよびかけ人となり、
 2008年の「千年紀」をアピール。
2007年 1月
 源氏物語千年紀委員会設立


支部だより ---------------------------------------------------------------------------- 60
北海道支部 --------------------------------------------------------------------------------------- 60
   支部活動継続へ決意

 第46回北海道支部の集いが7月18日(土)、札幌市内のパークホテルで聞かれました。参加者は本部から三輪新造常
任理事を迎え、道内は旭川から松野宏一、札幌から安田泰次、安藤久男、武田昭龍、丸谷和豊、遊座一正の6氏。和気藹々
2時間余り、楽しいひと時を過ごしました。

 今年の北海道は6月から長雨と低温が続くエゾ梅雨模様。農作物の出来が心配されています。最初に今年2月に亡くなら
れた塩谷達さん(一中=昭和16年卒)のご冥福を祈り、黙祷を捧げました。安田泰次支部長(昭和23卒)からは「昭和3
9年支部結成以来、今回で46回目を迎え、このところ少し参加者が少なくなったとはいえ、参加者がいる限り支部活動を
続けてゆきたい」と今後への思いを表明されました。

 三輪常任理事からは「2010年に一中は140年、洛北は60年を迎え、準備が進められている。来春は中・高一貫体
制となって初めて卒業生を送り出し、その成果が楽しみ」など母校の動きが伝えられました。
 この後は、食事をしながらの近況報告。安田支部長はこの春、北海道水泳連盟の会長となり、このところ道内から毎回、
オリンピック選手を送り出しているだけに、「次回ロンドン五輪にも北海道から」との意気込みを。武田昭龍さんは札幌の
隣町当別町・大成寺の住職。息子さんに跡を譲ったもののまだまだ近隣の住民から親しまれ、忙しい様子を。遊座幹事は尺
八(新郡山流)のお師匠さん。道新文化センターで3教室を開くほか、最近は札幌吹奏楽連盟とのコラボレーションで話題
となった。
 丸谷幹事は、流通から外れる規格外野菜と果物を応援する会(ポロの会)を立ち上げ、札幌市南区で、士・日限定で野菜
・果物を販売している。安藤久男さんは北大山岳部OBとして、今も北大内にある山岳部の展示ルームの当番で通っており、
この秋にもヒマラヤに行く。松野宏一さんは在学時代の北山の思い出を話されるなど、興味深い話が次々と飛び出し、時間
はあっという間に過ぎてゆきました。
 この会合の直前、北海道の大雪山国立公園内の秘境、トムラウシ山と美瑛富士周辺で暴風雨の中、10人が亡くなるとい
う北海道の登山史上にない痛ましい遭難事故が発生、ひとしきり話題となりました。
 最後は恒例の一中・洛北校歌の斉唱、「比叡の峰にあかねさす」「千年の森かげに」を高らかに、最後まで歌い上げ、楽
しいひと時を終えました。      (丸谷和豊)

京 浜 支 部 ------------------------------------------------------------------------- 61
平成20年支部総会開かる
 恒例のフォークダンスも


 平成20年度支部総会は10月25日(土)東京ドームーオーロラの間で行われた。前年から会場も開催曜日も変更とな
ったが、ようやく秋らしい天候の週末の午後、東京勤務者や神奈川など近在の在住京一中、洛北同窓生130名が集まり消
息など語り合う姿も。

 木下副支部長の開会の挨拶の後、本部から出席の平岡常任理事が挨拶と本部の状況などを報告、母校や京都の様子なども
紹介し、参加者も耳を傾けた。続いて総会議事に移り野々内支部長より京浜支部規則改訂に関し議案の背景と主な変更点を
説明、提案通り承認。同じく前年度の決算も報告通り承認された。
 乾杯の後はいよいよ歓談。母校恩師かつ洛北1期の伊達先生の挨拶に後輩の教え子も懐かしく当時を思い出す。京浜支部
恒例のフォークダンスもすっかり板についた参加者一同、音楽に合わせて軽やかなステップ。年長者から順次撮影の記念撮
影には近藤次郎(昭9)斎藤雅男(昭11)奥山融(昭16)など一中OBの元気な様子に皆感嘆。
 懇談たけなわのもと、京一中洛北高校の校歌を全員で斉唱、「比叡の峰」「千年の森かげ」の歌声がこだました。
 まだまだ語り尽くせぬ京浜支部会員、松井副支部長の閉会挨拶のあと、各グループに分かれ会場をあとにした。
平成21年支部総会は10月31日(日)

 今年度の支部総会は30期卒が世話人となり左記の通り開催。京浜支部幹事会での大枠決定のあと30期学年幹事会を数
度開き、内容についてきめ細かく打合せ。
 これまでおなじみの京浜支部定番のフォークダンスは今年度は都合により休止となったが、母校所在地京都に因む「京都
カルトクイズ」を企画、年代を超えたペアによる競い合い。
 30期が智恵をしばったクイズに挑戦して成績上位には豪華景品を用意とのこと。
京浜支部総会  日 時    平成21年10月31日(土)15時開始
        (受付は14時15分から)
 於 品川プリンスホテルメインタワー

第三回洛北倶楽部卓話会開く ---------------------------------------------------------------------- 62
「住」の安全について ------------------------------------------------------------連健夫(洛23)

 平成19年発足の京浜支部洛北倶楽部の第三回の卓話会が6月5日(金)銀座・経済産業調査会会議室で行われ、仕事を
早く切り上げた都内勤務者や神奈川、埼玉在住者など京浜支部会員が定刻午後7時に集まり総勢30名が、昨年秋の「食の
安全」の卓話につづく、今回のテーマ「住の安全」について、同窓の専門家の話に耳を傾けた。
 講師は日本建築家協会登録建築家の連健夫さん・23期。「あなたの家は大丈夫か」の演題のもと先年の耐震偽装問題も
ふまえ最近の建築基準法、建築士法、住宅瑕疵、担保履行法の内容を詳しく説明、一級建築士ならではの中身に熱心にメモ
をとる姿も。
 つづいて、安心できる建築とは何か、に移り設計者と施工者の顔が判る関係、即ち信頼性について設計者の立場からの具
体的な発言に皆納得の表情。施工状況を見ることが出来るかどうか、また第三者によるチェックの必要性など具体的なポイ
ントにうなずく。
 最後に「あかね45号」所載の会員著書紹介欄「心と対話する建築・家」の内容を敷街しながら連方式ともいうべきコラ
ージュの実例の解説を聴きながら参加者一同しばし、連建築士の世界に入った。

東 海 支 部 ----------------------------------------------------------------------- 62
 宇宙飛行船打上の話などに耳傾ける


 東海支部総会は昨年と同じく、まだ暑さの残る9月6日(日)名駅通りの名鉄グランドホテルで開催。場所も便利なおな
じみのホテル内レストランとあって定刻前から参加者が顔を見せ、田村隆太郎(洛6)支部長以下、一中会員3名、女性会
員4名を含む総勢28名の出席。新支部長と共に9期を軸とする世話人が昨年選出されたが、会は大澤世話人(洛9)の司
会で始まり、先ず本部から来名の三浦理事(洛9)が母校の近況を報告、東海支部関係者の「あかね」への広告支援に謝意
を伝えると共に来年の京一中140周年洛北高校60周年記念事業への理解・協力を呼びかけた。
 恒例の支部会員スピーチでは先ず島田洋一郎会員(一中19入)から種子島での宇宙飛行船打上げの話があり、基地選定
に係わる立地の話をはじめ事故防止の仕組みや、準備段階での苦労話、また宇宙船の排泄物処理の秘話など、実際に打上に
従事した関係者ならではの興味深い話に、皆耳を傾けた。続いてスポーツ選手の多い東海支部とあって、中田有紀会員(洛
44)から女子七種競技全日本陸上選手権大会の報告があり、8連覇の偉業に全員拍手。さらなる活躍へ向け激励しつつよ
ろこびを分かちあった。

 またラグビー選手として全日本で活躍した居島信二会員(洛9)からは全国で覇をとなえた同大時代のラグビーの思い出
をひとこまひとこま語り、皆往年の名試合を思いうかべた。
 多士済々の東海支部とあって、これまた恒例の出席者全員の次々と出て来るとっておきの話がそれぞれ興味深く、活発な
質問もあり、司会進行の大澤世話人(洛9)も調整に大わらわ。
 あっという間に時間が経ち、また次回の集まりと互いの健勝を祈り合い各参加者は名駅通りをあとにした。
>乙訓地域会 ------------------------------------------------------------------------ 63
第9回地域会開かる
 緑の東山を望み家庭的な雰囲気のもと
 第9回京一中洛北高校乙訓地域会は6月14日、四条大橋たもとの東華菜館で聞かれました。緑滴る東山を望み、鴨川に
鮎を釣る漁師の傍らに佇む青サギを眼下に、ヴォリーズの設計によるレトロな会場と、またとない素晴らしい雰囲気の中、
さながら大家族の昼食会のような集まりでした。
 昭和23年京一中をご卒業の辻賢治氏から昭和47年洛北高校卒業の木原千津子氏までの20名に洛北7回卒特別講演者
の中川雅夫氏、同窓会本部の武田健一氏を加えて総勢22名の出席でした。
 来賓の挨拶の後、「健やかな老いに向けて」というタイトルで元京都府立医科大学付属病院院長、現明治国際医療大学学
長の中川雅夫氏からお話を伺いました。医師不足、医療保険制度、年金制度などの現状が如何に厳しいものであるか、国の
財政、政策の問題点などを指摘され、健康で豊かな老後は自らの老いを自覚し、生活機能の低下を予防することが第一。何
時までも夢、理想を抱き続け、それを行動へと移すのが豊かな老後の姿とのお話でした。国などを当てにしてはいかれない
と身の引き締まる思いで拝聴しました。
 とはいうものの、その後の北京料理はとても美味しくメタボのことをひとまず忘れて、話題も弾みました。ハイキングな
どのサークル活動の報告、自己紹介、校歌斉唱、記念撮影をして閉会となりました。
 こじんまりとした地域の会ですからお話がし易く、共通の先生の話題もあり、世代を超えて同じ学舎に学んだ喜びを味わ
った会でした。若い方々のご参加を大いにお待ちいたします。      (速水孝子)

乙訓地域会新会長に
   宮川氏(京一中昭20入)就任 ----------------------------------------------------------------- 63
  2010年は10周年記念会


 乙訓地域会は6月14日の例会でこれまでの福田逸彦会長(京一中昭20入)から宮川良男会長への交代を決めた。福田
会長は乙訓地域会の前身長岡京地域会から向日、大山崎など旧乙訓郡へ対象地域を拡げた乙訓地域会の会長として、最近は
対岸の八幡市からの参加者もあるなど京一中洛北高校同窓会の各支部の中でもユニークな地域に密着した地域会への発展に
努力された。
 宮川新会長は京一中昭20入、ニチユの元社長として経済界で活躍の後、現在は地域の発展にも寄与されている。
 本会も発足以来会員も400名となり、
来年は10周年を迎える。洛北還暦の年と併せ、記念行事を現在世話人にて企画中。地域会節目の年の来年も大勢の参加を
役員一同呼びかけている。

関活洛有会 --------------------------------------------------------------------------- 63
 大阪で卓話会・懇談会などで交流

 平成14年に発足した大阪を拠点として活躍の企業人、団体幹部の集まり「関西活性化洛北有志の会」(略称 開活洛有
会)も会を重ね、平成21年に人った今年度は2月20日に第25回、6月19日に第26回例会が行われた。25回会合
は昨年設立のサイエンス映像学会(理事長 養老孟司東大名誉教授)に設立から運営まで事務長として携つている畑祥雄会
員(洛17)が計画段階から現在の活動内容まで説明。
 26回はエス・バイ・エル株式会社で生産管理の責任者として活躍の王水新吾会員(洛20)が最近出版の著書「写真マ
ンガでわかる建築現場管理の100ポイント」(あかね本号会員著書紹介13頁参照)を敷衍して、日常生活でも役に立つ
示唆に富む理論(教訓)を説明。住まいのドクター玉水会員の話に、参加者の関心も高く、卓話のあと活発な質問が寄せら
れた。

 写真 上段左から 新室良子、奥村文代、岡村 真(洛15)、八住保則(R17)、山下勉(R115)、玉水新吾(R20)、
原征武(R13)、林芳樹(R20)、写真中段、谷本健一(R15)、下段左から、本田陸士、林哲彦、山下研介、本津絢子、(R10)
毛利勝一(R17)計14名 2009年6月19日
 週末金曜日の会合とあって、その後会場の京町堀クラブから場所を換えての懇談。本部から出席の新室理事(洛15)、
奥村本部専任(洛15)から来年予定の京一中140周年洛北60周年記念事業の計画を説明、協力・支援を要請のあと、
それぞれ日常の多忙から開放され、同窓、同世代の仲間の集まりを満喫しつつ、おそくまで交流懇談がつづいた。

OB会だより ------------------------------------------------------------------------- 64
野球部OB会

会長川口氏(洛6)から堀智氏(洛21)に引継

 伝統の京一中洛北高硬式野球部OB会は川口昇会長(6期)が長年会長としてOB会の運営に当って来たが、世話人の若
返りをはかることとなり、会長に堀智氏(21期)副会長に愛甲博明(22期)・佐竹三夫(22期)の両氏が就任、今年
度からOB会の世話役として運営する。愛甲副会長は会計を、佐竹副会長は500歳野球担当も兼務。

 川口前会長は川辺元会長(2期)より会長職を引受けて以来、OB会の要として運営に当り、母校野球部と緊密な連絡を
とりつつ、現役選手の支援を推進、夏の西京極球場(現わかさ球場)では猛暑の下、応援をする姿が印象的だった。またO
B会の活動としては年度初めの総会、懇親会、春の500歳野球、OB会員の親睦ゴルフ会などでもOB世代間の交流をは
かった。また野球部現役の指導に当たる部長、監督との意思疎通に意を尽くした。さらに夏の選手激励会ではOB・現役の
相互意思疎通を促進した。また野球部OB会会報「球魂」の定期発行に努力、母校野球部の活躍を伝えると共に全国に活躍
のOB間を結ぶ紙面を作りつづけた。

陸 友 会 -------------------------------------------------------------------------- 65
  全国総体出場選手壮行会

 洛北高校陸上競技部同窓会・洛北陸友会は7月26日(日)午後、アピカルイン京都で今年度全国インターハイ出場の3
選手の壮行会を開いた。今年府代表として出場の3選手は男子走幅跳・長田有司(3年)、女子100mH・山田亜古(3
年)、女子100m200m・伊達愛美(1年)の3人で辻世話人の司会のもと会は進行し、田川さなえ、岩城達哉両顧問
はじめ、卒業生、現役部員など60名の出席のもと、会場も熱気。先輩からのお祝いの言葉や激励を受け3選手も決意をあ
らたにした。
 昨年は日程調整がつかず、折角の壮行会開催が出来なかったが、今年は2年振りの壮行会とあって名門洛北陸友会の先輩
・後輩が一同に会し、壮行の場をとらえ久しぶりの出会いをよろこび、お互いの消息を語り合った。

塩尻先生没25年の集い
  洛北高校陸上競技部有志 --------------------------------------------------------------------- 65

 洛北高校が創立されると同時に、いち早く陸上競技部を発足させ、初代の顧問をされたのが、今は亡き塩尻安吉先生であ
る。
 在職20年間に京都の高校の中で最強のチームに育て、また京都陸上界の発展にも大きく寄与された。その先生を偲んで
「没25年の集い」を指導を受けた第4回〜第19回のOB・OGが全国から43名参集して2月28日に行われた。
 当日は先生の愛娘であり日本を代表する名スプリンターであった裕子さんと恵子さんの姉妹も出席され、先ず先生の眠っ
ておられる随心院霊園へ行き、それぞれの思いを胸に墓前に手を合わせた。引き続き平安会館に場所を移して懇親会。現役
時代の思い出話に花を咲かせ、校歌を斉唱して散会した。これからも先生の教えを胸に元気で頑張っていくことを誓い合っ
た1日であった。           (澤田保男)

陸上競技部へ「祝・激励」 ---------------------------------------------------------------------- 65

 前記(有志会)の会合の際活躍する現役選手支援の形としてカンパの声があがり、出席のOB・OGがそれぞれ浄財を拠
出。集まった金一封は7月9日同窓会事務室で本部事務局担当理事立会いのもと澤田陸友会世話人より陸上競技部顧問の先
生に手渡された。

   叡 水 会 ------------------------------------------------------------------- 66
洛北高校水泳部OB会


 8月9日、この時期には珍しく小雨ぱらつく日でしたが、母校のプールに午後1時14名が集合、今世界の競泳界で騒が
しく話題になっている水着ではなく、従来の慣れ親しんだ水着でゆったりと泳ぎを楽しんだ。
 さて今年7月18日から8月2日の16日間に亘りローマ世界水泳大会が開催され、今回は男子が活躍、金―個、銀2個、
銅―個を獲得した。
 最近、泳法が進化、近年はさらに水着の進化が著しいが日本選手記録の進化を85年前と比較してみた(下記表)。大正
13年当時はプールでの競泳大会が盛んになった頃で全日本競泳大会の一着のタイム、(尚この記録は日本、世界の記録と
大差は無い)。
 京一中生選手の活躍した時代である。
 水泳は単純な運動だけにこの大幅な進歩にはどのような背景があるのか首をかしげたくもなる。
 二次会は酔いにまかせて思い出話で楽しんだ。
   (三島康之)


            ローマ世界大会   全日本競泳大会
自由型 50m         21秒       31秒
   100m       46秒08     1分12秒
   200m      1分42秒      2分41秒
   400m      3分40秒      5分51秒
平泳 200m      1分58秒      3分20秒
背泳 100m        52秒      1分30秒

京一中・洛北高校    あかねゴルフ会 ---------------------------------------------------------------- 66
 伝統ある「京一中あかねゴルフ会」(昨年一年間は京一洛あかねゴルフ会と仮称)を今年(平成21年)から「京一中・
洛北高あかねゴルフ会」と名称及び規約を改訂し、再出発しました。

 京都の気候を配慮し、年7回京都ゴルフ倶楽部舟山コースで開催しています。第301回目となる本年3月の開催より、
会員登録も一新、年度単位の得点方式としてスタートして、まだ間もありませんが参加率が急上昇しておりますので、秋口
から年度末にかけての盛会を楽しみにしております。
 現在の会員数は38名。内京一中入学生を含むOB25名、洛北高OB13名(概ね第3回卒まで)で運営しております
が、皆さん大変お元気で、今尚多忙な会員も。当あかねゴルフ会の日程を最優先しようと、同学年同志の声かけ等、運営に
ご協力を頂いている事に感謝しつつ、新しい体制の事務局を担当しております。
 当面の運営は、会員40名、コンペは8組32名(参加率80%)を目指しています。
 ご関心のある方は京一中洛北高校同窓会事務局にお尋ねください。
 京一中・洛北高あかねゴルフ会
 会長 木村磐根(昭和20入)
事務局 波多野元三郎(洛北3回)以上ですが、また何かあれば木村会長か私へご連絡ください対応いたします。
 (波多野 元三郎)

平成21年4月6日(第302回例会) 舟山コース)スタート前の21名

  洛北排好会 --------------------------------------------------------------------------------- 67
洛北排好会平成21年度総会及び京都・神戸両一中、洛北・神戸高OB・OG
        定期戦開催される!


 洛北排好会定例年次総会は7月26日(日)午前、京一中洛北高校同窓会会議室で聞かれた。冒頭、波多野元三郎会長(
洛3回卒)から洛北排好会と京都一中バレーボールOB会の合体(平成22年4月予定)の提案があり、仮称「京一中・洛
北排好会」としての運営を全会一致で採択した。
 通常の総会内容としては20年度の活動報告、会計報告で監査を含め承認され、21年度の活動計画、予算案も審議の上、
了承された。中でも年会費収入が伸び悩む中、経費削減し、現役への支援は出来る限り継続する旨、補足確認された。会長
からは「継続は力なり」の教えを信じ、我が会はバレーボールを通して地道な活動を続けていることに誇りを持ち乍ら、O
B会運営をしようとの。〆の言葉で総会は無事終了。
 隣では神戸高校バレーボール部OB会総会も無事終了し、互いの近況など話しながら、昼食を共にした。今年は神戸高校
バレーボール部の新型インフルエンザ報道で、対外試合などが制限され大変だった旨のお話も話題の中で聞かれた。

 昼食のあとは会場を新体育館に移し、いよいよ洛北・神戸両校の現役男女選手による試合開始。双方のOB、OGの応援
にも熱が入った。試合結果は男女とも洛北高校の勝利となった。双方に優勝カップを贈呈後、洛北側は恒例の現役選手に対
して京一中バレーボールOBクラブと洛北排好会の連名において、活動支援の金一封の贈呈式が行われた。
 その後、両校OBによる親善試合が勝敗にこだわることなく?和気藹々の中始まった。日頃の体調管理にあった動きの中
で、熱戦が繰り広げられた。京一中、神戸一中のOBはもっぱら応援にまわったが、今年も湯浅忠繁先輩(一中・昭19)
はプレーに加わり、お元気な姿を披露されました。

 このあと、徒歩圏内の北山通りの中華料理店白龍を二部会場にして、京都・神戸両校バレーボール部懇親会を行った。会
場では懇親会に先立ち、波多野会長の挨拶の後、神戸高校OB会長の柿崎則男氏(昭和42年卒)からもご挨拶をいただき、
続いて京一中OB会村田成幸氏の乾杯で懇親会は始まった。今年は例年に無く、梅雨が明けずに北山はあいにくの雨模様で
あったが、会場は盛り上がり、各位、思い思いの楽しいスピーチで和やかな内に2時開かあっという間に経過しました。懇
親会の最後は恒例の双方の一中校歌、高校校歌を全員で斉唱。
 これは、互いの校歌が吉川幸次郎氏作詞の為に校歌による交流も出来ているからです。延べ40余名にのぼる、伝統ある
毎年の両校バレーボール部の定期戦はこれで終了。来年夏の神戸での再会を約束して、閉会しました。
 あかねの掲載により多くの排好会会員が参加されるよう願ってここに報告いたします。
洛北排好会幹事  豊嶋徹・平塚泉

バドミントン部OB会 ------------------------------------------------------------------ 68
 バドミントン部OB会は暑さの残る8月29日(土)河原町三条のビアホールレストランで行われ、遠く仙台から駆けつ
けた山本一夫OB(洛6)など18名が参加、久し振りの集まりに現役時代の思い出など話がはずんだ。
 バドミントン部OB会8期同期OB会の形で小島正紀OB(洛8)が長年世話人を続けて来たが、十年程前から縦断的O
B会に発展し、昨年世話人も小川雅輝OB(洛9)にバトンタッチ。
 今やオグシオ両選手の出現で女子バドミントンも人気のスポーツだが、この日はコートで活躍の往年の女子選手などOG
も当時のエピソードなど語りつつ感慨深け。男子も山田雅博OB(洛9)は乙訓地域で現役チームの監督をしながら、白身
現役選手で試合に出場、皆その元気に感心。
 その他同立両大学に洛北出身者が活躍の話など暑さを忘れ、遅くまで語り合った。

園芸部OB会 -------------------------------------------------------------------------- 68
 今年のOB会は2回目の一泊旅行で、2期〜9期までの16名が参加し、貸切バスで東海地方へ出かけました。
 3期で元愛知県農業綜合試験場長の米村浩次氏(元NHK趣味の園芸講師)のご案内に甘え、どんな所へ連れてって下さ
るのと全員楽しみにしてきました。


 初日は西尾の切りバラ組合のハウス農園と知多半島の3軒の専門栽培園芸農家を訪問した後、海上タクシーで日間賀島へ
渡り一泊しました。新鮮な魚貝類に舌鼓をうちつつ、美酒とカラオケで深夜まで旧交を温めました。
 翌日「豊明花き卸売市場(鉢物日本一の取扱高)」を見学した後、中京競馬場への類とも世界一のバラ園で約4時間アン
ネのバラなど数々のバラを楽しみました。今回は2日間とも好天に恵まれ、また米村氏の周到なご準備のお陰で、普段は見
られない所へ行けて充実したOB会でした。

 洛北高校新聞 ------------------------------------------------------------------------ 68
  発行所 洛北高高校生徒自洽会新聞局


 このところ早春の例会が定着化してきた「洛北高校新聞局OB会」第6回局友会が今年も2月22日(日)に京都駅前の
京都タワーホテルで開催された。


 当日は谷川邦宏会長(洛1)をはじめ、遠路仙台からの参加を含む洛13期のOGまで19名が参加。いつものように、
草創期の1、2期のメンバー8人の後期高齢者入りをしたと思えぬパワーが話題をリードする形で会は始まった。
 今回、入局時は京一中で卒業時には洛北と鴨沂にわかれたころのメンバーであり卒業は鴨沂高校となった加藤豊氏の代理
として鴨沂新聞OB安井冽氏の出席もあり、旧制から新制への学制改革当時の両校の話に花が咲いた。
 局友にとって一番のさびしいことは、新開局が現在休局状態になっていることで、ここ30年あまりは後輩が誕生してい
ないこともあり、復活を望む声をどう母校へ伝えるかが引き続いての課題となった。
 また前回、話題となった洛北高校新聞縮刷版(昭和51年に昭和25年6月創刊号から昭和51年9月発行の127号ま
でを収録したものが発行された)の再発行に関しては、当面見送りとなった。
 参加者全員の近況報告や昔話が時の経つのを忘れさせたが、より多くの参加を呼びかけることを決意して、本年度はお開
となった。
 来年は22年2月21日(日)に同じ場所で、開催予定。

京一中洛北クラブ ------------------------------------------------------------------------ 69
多彩な講話と懇談で会を重ねる

 京一中クラブ発足からは79年の年月を経た同窓会関連クラブとしては全国有数の「京一中洛北クラブ」も会を重ね、平
成20年も多方面からの講師による例会があり、11月第464回例会で森本安之助講師(昭20・4)の「玉虫厨子の復
元と平成の玉虫厨子」と題する法隆寺文化財の復元の歴史的偉業の披露と苦労話で締めとなった。
 今年は1月、国連広報センター勤務の後、大学で国際関係論の教鞭をとる福田菊講師(洛4)の講話に始まり隔月のベー
スで開催。3月の466回例会から会場を聖護院御殿荘に移し、小林宏史(洛10)講師による麺から見た京の食文化と題
する京野菜との関係など話した。5月には笹部忠嗣(洛10)講師による救急車が来る迄の応急処置、7月には京都新聞の
現状と将来と題してメディアの第一線の立場から尹徳均(洛26)講師が新聞界の現状を詳述・解説した。

塩見前校長の「洛北の思い出」に耳傾ける -------------------------------------------------------------- 69
 9月19日の469回は塩見均・府立高校校長会事務局長(前洛北高校校長)による伝統と創造・洛北中高一貫教育の実
践の話があり、会場には同窓会西島会長、西村(前)、中嶋(現)両理事長も出席、一中関係者も往年の中学時代を思いつ
つ附属中学校の現状の紹介、説明に熱心に耳を傾けた。

世話人川北代表からバトンタッチ
 長年にわたり京一中洛北クラブの世話人をつとめて来た川北利子(洛5)小西和夫(洛15)の両世話人は此度、退任し、
新しく若林卯兵衛(洛10)田中義則(洛10)小林宏史(洛10)の各氏が会の運営に当ることになった。新世話人は新
しい会場でさらに多彩な講師による講話と会員相互の交流を続けたいとしている。
 川北、小西世話人は京一中クラブから京一中洛北クラブヘの移行、拡大にも携わり、同窓会の各種団体でも歴史と伝統の
ある同クラブの運営、発展に大きく寄与、貢献した。その退任を惜しみつつ、これまでの活動に感謝しその労を多とする声
が各方面から寄せられた。

川北世話人の話……
 由緒ある京一中クラブから京一中洛北クラブヘの移行を含め、いささかお世話させていただいたが、皆様からねぎらいの
言葉を受け、有難く思っている。講話の選定・講師へのお願いなどが一苦労だった。しかし京一中・洛北の卒業生には、多
方面に多彩な専門家がおられ、さすが、伝統の母校だとあらためて認識を深め、誇りを感じた。
 クラブの益々のご発展をお祈りしたい。

平成20年度決算書・会費納入のお願い ---------------------------------------------------------------------- 70


会費納入のお願い

 京一中洛北高校同窓会は会員相互の友誼を厚くし、一層の親睦を図ることを目的としています。その事業活動は会員の皆
さまよりお納めいただく会費によって運営されております。会員名簿の維持管理、各支部、地域会、OB会、母校への支援、
そして会誌「あかね」を発行し、お手元にお届けするために使われております。また会員の皆様が開催される学年会のお手
伝いなどもさせていただいております。
 同窓会費の前納割引制度もご利用いただき、同窓会の活動と発展のために趣旨をご理解いただき会費納入へのご協力をお
願い申し上げます。

郵便払込口座 01050−4−1043(郵便ATMも払込可能)
京都銀行下鴨支店 振込口座142−19950
京一中洛北高校同窓会 理事長 中嶋康喜
 払込取扱票にてご納人の方は、払込票兼受領証を以って領収書とさせていただきます。尚、あかねの郵送封筒の表の貴方
様の住所、氏名の下に[会費前納済]とされている方は本年度の会費払込みは済まされております。誠にありがとうございま
した。

       年度会費 平成21年度分     2,000円
     3年前納会費 平成21年〜23年度分 5.500円
     5年前納会費 平成21年〜25年度分 9,000円
〒606-0851 京都市左京区……
     京都 一郎 様
     R00−00
      会費前納済
下鴨校舎 70年の軌跡 600円
平成15年5月1日発刊
同窓会徽章       500円(送料込)
「下鴨校舎70年の軌跡」「同窓会徽章」とも払込取扱票にてお申込みください。

あかね47号発行に際しご寄付をいただいた方々に厚くお礼申し上げます。  谷口成之氏 藤村和正氏、古潭俊二氏
本部だより ------------------------------------------------------------------------------ 72

【平成20年度第55回総会】 12月6日(土)

京都タワーホテル 出席者100名 16時開始
 西島会長挨拶 塩見特別顧問(母校校長)より同窓会に謝意、母校の現状報告。下田議長(洛16)、山田副議長(洛17)
選出後、議事。中嶋理事長より会務報告。武田経理担当理事より会計報告につづき、監査報告。
 講演会は楠本繁生講師(母校女子ハンドボール部監督)の「洛北女子ハンドボール全国制覇への途」。18時20分より
懇親会。

 冒頭、安藤仁介副会長の瑞賓重光章の受章に対し祝意をあらわし、花束贈呈。年度幹事28期により懇親会進行。土笛と
シンセサイザーの演奏や福引抽選で過す。その間ハンドボール部及びトライアスロン上田藍さん(洛51)の活躍に対する
支援カンパを呼びかけ集まった浄財5万7千円をハンドボール部に、1万8千円を上田藍さんに手渡した。

【平成21年度 理事会】 ------------------------------------------------------------------------- 72
第1回・3月1日(日)
 議題 20年度決算見込、21年度予算、あかね編集方針、今年度総会方針、会費増収対策委員会報告ほか。

第2回・6月7日(日)
 議題 20年度決算報告、監査報告、今年度総会開催要領、洛北高校60周年記念事業の件協議、あかね編集等説明ほか。

第3回・9月6日(日)
 議題 今年度総会実施要領、総会議長・副議長決定、会費増収対策今後の進め方 協議、会員管理ソフト開発の件報告ほ
か。

記念事業へ向け委員会発足 -------------------------------------------------------------------------- 72
[記念事業委員会]
 来年2010年は京一中140周年洛北高校60周年の節目の年に当たるため、かねてより理事会で取組みにつき討議し
て来たが、より機能的に活動を進めるため中嶋理事長を軸に検討の結果、記念事業実行本部(本部長・西島会長)を立ち上
げ、行事の具体的立案、実行には記念事業委員会(中嶋委員長)が当たることが決まった。

日程は平成22年10月23日(土)
ノーベル賞益川敏英博士招請も決まる
 記念事業日程については来年2010年10月23日(土)とすることが決まり、当日昨年度ノーベル賞物理学賞受賞の
益川京大名誉教授・京産大教授の招請、来訪も本決まりとなった。

第1回打合せ 4月26日(日)
 記念事業検討委員会として理事長から委嘱の各委員が集合。今後の取組みにつき 打合せ。

第2回打合せ 5月24日(日)
 これまでの周年記念式典行事をふりかえり記念事業委員会の組織を設定。総務、催事、募金、広報の各部会を設置。

第3回打合せ 8月2日(日)
 委員長より本部組織、記念事業案、募金計画など説明。学年会(同期会)や各支部へのPR、勧誘協力依頼など打合せ。

第4回打合せ 9月26日(土)
 式典・行事に関し会場の設定など打合せ。募金口座の開設や趣意書の作成など報告。各部会の進捗を促す。

本部事務局にコンピューター増強
     2期卒業生から備品寄贈
 同窓会活動の拡大に伴うコンピューターの設備増強については昨今の財政情勢もあり、実現化が遅れていたが、状況を伝
え聞いた2期同期会(洛二会)から此の程新鋭コンピューター及びプリンター一式の寄贈があった。洛二会の世話人が事務
局業務の現状をヒヤリング、その要望をふまえ、6月に製品が搬入され早速稼働。処理能力の向上拡充により事務作業もス
ムーズになったと事務局も感謝。
 同窓会本部にはこれまでも4期卒業生からは卒業50周年を記念してコーヒーカップ2ダース、衝立、裁断機。そして京一
中洛北クラブの有志からはプロジェクターが寄贈され、日頃同窓会本部で活用されている。

後藤一郎さん所蔵資料を同窓会に寄贈
    湯川博士の書面も -------------------------------------------------------------------------- 73

 同窓会員・後藤一郎さん(大13卒)は長寿を全うされ今年平成21年1月21日逝去、享年102歳。
 後藤さんは大正8年の京一中入学で、湯川(小川)秀樹らと同期。当時の級友との交流を「思い出の級友たち」と題して
あかね誌上(45号)で語ってもらった。この度ご家族から故人がずっと大切に保存して来られた一中、同窓会関係の資料
のご寄贈の意向があり、同窓会事務局に移管された。
 今回の寄贈資料には「あかね」過去号のほか一中同期会(大正13会)の会員名簿(7版、8版)もあり、同名簿は同期
生一覧にとどまらず頻繁に聞かれていた同期会の記録も収録。また母校京一中の吉田校舎全図や写真など当時の様子を伝え
る貴重な資料が含まれる。
 さらに同期生との交信など個人的資料には湯川博士からの直筆書簡もあり、京一中同期生の卒業後もつづく親密な交流を
示している。

貴重な資料大切に 三輪史料担当理事の話
「あかね」誌のバックナンバーや同期会の写真は極めて保存状態が良く、後藤先輩が格別の思いで保持されて来たことがわ
かる。
 これまでも一中のOB、ご遺族の方々からは貴重な史資料をご寄贈いただいており、あらためて同窓会本部として謝辞を
申しあげたい。同窓会本部収録の史資料と併せ、大切に役立てたい。

[編集室から]
◇母校洛北も夏から秋へ季節の移ろい。夏季にはハンドボール、陸上などが高校総体に出場。さらに囲碁で女子が全国優勝、
スーパーサイェンス発表会では最優秀となり共に文科大臣表彰など現役も各方面で活躍。

◇中高一貫も附属中1期生が高校3年となり、中高がつながった。この時点で塩見前校長に4年間を語ってもらった。

◇大正3年卒の村山槐多がこのところ脚光。年末から東京で作品展があるが稲垣OBから特別寄稿をいただいた。

【47号編集委員】
堀江博(担当理事)・奥村文代・新室良子・平岡猛男・八田香津子・三輪新造・河原敏明・高田敏尚。

お願い 住所変更などの情報は、総会案内、学年同窓会案内、会誌あかね発送に重要ですので是非お知らせください。
ご注意 母校卒業生を対象に、新聞広告・週刊誌掲載広告申し込、または業者による同窓会開催など、さまざまな勧
誘がありますが、充分ご注意ください。

あかね第47号

平成21年10月20日発行 非売品
発行所 京一中洛北高校同窓会
    京都市左京区下鴨梅ノ木町59
         京都府立洛北高校内
電 話 075−7120375(FAX共同)
発行者  西 島  安 則
印刷所  (有)森田美術印刷

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