会誌あかね
 
 昭和62年度 第35回同窓会総会と懇親会
 
 とき  昭和62年12月6日(日)午後4時より
 ところ 京都ロイヤルホテル (中京区河原町三条上)
 かいひ 5,000円
 もよおし ☆総 会
                ☆講演 「これからの日本経済」
                     三和銀行顧問 野々内  孝(洛北1回卒)
         ☆ パーティー
 年に一度の総会ですから、是非ご出席下さい。級友の方々もお誘い下さい
 お願い 同封のハガキにてお知らせ下さい
 表紙 「表紙の浮彫について」
   山本 恪二(昭9卒)
  はたち前から始まった私の彫刻修業も今や半世紀を越えた。私に
 とって彫刻とは生きたモデルから何か未知の自然の構造の神秘を探
 り出す事であり、その時の愕きが私の生き甲斐なのである。此の発
 見の蓄積は外国語を学ぶのに似て、その効果は直ちには目立たない
 が長年月の間に別人の様な能力が身に付いて来るものだ。だから此
 の先どんなに老い込んでもモデルに就くことは止められないだろう。
 表紙の浮彫は遇々息子の結婚式の引き出物に作ったものを流用させ
 て戴いたのだが出来、不出来を含めて私の臍くりの全部をお目にか
 けている筈である。
 あかね第25号の主な記事  ごあいさつ-----------------------------------城戸 秀夫 2

 会長退任にあたって------------------前会長 井上 隆夫 2
 洛北と京都---------------理事長 渋谷 有教(昭9年卒) 3

 学問の自由とよろこび--------西島 安則(昭和19年卒) 4
        (昭和61年12月7日同窓会総会にて)
 ポンソンビー先生の思い出--------------辻  豊(昭和11年卒)8
 第5回 同窓会海外ツアー募集 マヤ遺跡を訪ねて(昭和63年6月2日ー11日)--11
 沖縄への金環食観測ツアー--------------------------------------11
 「ガイジン」考--------------------臼井(小西)祥子(洛4卒) 12
 夢のあとに------------------------------中川 好幸(洛北旧職)14
 龍華行信元校長ご逝去(昭和62年7月17日享年88歳)--------15
 塩尻先生の遺作展(昭和26年ー46年)
 昭和62年度教職員異動 新任12名、転任8名 退任2名--------15
 OBだより
  第12回京一中スポーツOB会(昭和62年4月4日)
  京一中三田会発足 (昭和61年10月20日)京都センチュリーホテル---16
  神戸洛北青柳会 (昭和61年11月22日)神戸元町の中華「別館牡丹園」38名---------16
 クラス会だより
 (大11年3月卒)65周年のクラス会(S62.5.11)北大路橋西詰「みやこ鳥」--------17
  昭五会の記(昭和62年5月24日) 岡崎「今昔」22名----------17
  第44回 大正13年会(昭和62年5月24日)石清水八幡宮青少年研修センター24名-----17
  京一中あかね会(昭9卒)例会報告 昭和62年4月8日 銀閣寺道「白水園」 24名------17
  昭十会 昭和62年5月16日 京都楠荘 37名------------------18
  洛三会卒業33周年記念同窓会 昭和62年5月9日 ホテル京阪・京都 130名-------18
  洛北六回みのり会30周年記念”メインディッシュはスライド上映”
              昭和62年6月14日 都ホテル葵殿 146名--------------------18
  洛北16回卒同窓会 昭和62年8月15日 京都ロイヤルホテル 154名------------19
 支部だより
  北海道支部 昭和62年6月下旬 渋谷理事長が参加 日食観測の8mm映画上映----19
  京浜支部  昭和61年11月7日 国際文化会館 120名
             奥山融氏(昭16卒)講演「キネマの世界」---------------------19
  東海支部  昭和62年8月29日 名鉄グランドホテル 33名
               黒田能子(洛3卒)「より若く、より美しく」-----------------19
   「あかね本文」

 ごあいさつ-----------------------------------------城戸 秀夫 2

   
  本年4月校長に就任いたしました。「同窓会長は母校現校長を以ってする」
 会則に基づき「本会を代表し会務を統括する」重責を担うことになりました。
 「会員相互の友誼を厚くし母校の発展を図る」ため微力を尽くす所存です。
  同窓会誌「あかね」第25号の発刊に際し、本校の近況を会員の皆様にご報
 告申し上げて新任の御挨拶といたします。
  まず、昭和60年度から新しい高校教育制度が導入されて、新一年生から商
 業科が募集停止となり普通科のみとなりました。そして普通科の中にT類(学
 力充実コース)U類(学力伸長コース)V類(個性伸長=体育コース)が設け
 られ、それを選んで受験することになりました。又京都市内を4つの通学圏に
 分けて、その通学圏内においては一定の割合に限り受験校を選択できるように
 なりました。このことにより保護者の学校に対する信託がより明確になりまし
 て、本校でもコースのねらいに沿った授業を進めてきておりますが、いよいよ
 来春は新制度第1期生が卒業いたします。その成果が問われるわけであり、進
 路の保障に万全を期しているところです。
  木造校舎撤去跡に建築されましたしょうしゃな鉄筋2階建校舎も、ようやく
 回りとよく調和するようになり、体育施設もトレーニング場、全天候走路に続
 いて本年度は全天候テニスコート舗装がなされます。
  学校の陣容をととのえ、本校の歴史と伝統に映える教育活動を推進いたした
 いと存じます。
  先輩の皆様のご理解とご協力をお願いしてご挨拶といたします。

 会長退任にあたって--------------------------前会長 井上 隆夫 2
   
  1昨年4月、洛北高校に赴任しましてから2年という短い期間ではありまし
 たが、規約によりまして会長の任に当たらせて頂きましたが、年に一度の総会
 や支部の会合にも出席させて頂き、会員の皆様に親しく接して頂きましたこと
 を、退任に当って厚く御礼申し上げるものでございます。
  洛北高校における2年間は自分の35年間の教職生活を締め括る意味で大切
 な時期であった訳ですが、時恰も新しい高校教育制度の発足の時期とも重なり、
 又、同時に木造校舎を撤去して特別教室棟を新築する工事も併行するとあって、
 ややもすると一日一日が日程に追われて慌しいものとなり、自分の力量不足も
 あって着実な腰の座ったものにならなかったことを残念に思いますとともに、
 申し訳なく思って居ります。
  今年は新制度の完成年度であり、来年の3月には最初の卒業生が巣立ちます。
 新制度によって普通科の中に、一定の制限がありますが、入学校を選ぶことが
 できるようになりました。特に本校には3つのすべての類が置かれることにな
 り、東通学圏内唯一のV類(体育系)設置校となりました。従って、今まで以
 上に学校のあり方が注目されるようになり、今後の進路状況などが関心を持た
 れるようになると思います。学校の長続きする着実な取組みが期待されている
 ところです。
  どうか同窓会におかれましても、新制度に関心をお持ち頂き、温かく見守っ
 て頂きたく願って居ります。最後になりましたが、洛北高校と同窓会活動の今
 後のご発展を祈念しまして、会長退任のご挨拶と致します。

 洛北と京都-----------------------理事長 渋谷 有教(昭9年卒) 3

   
  洛北高校が出来て40年。最初に鴨沂高校で合併授業となった時、これが第
 1次の洛北高校である。即ち昭和23年の4月であった。
  鴨沂高校における合併授業の想い出のあるクラスも多いことだろうが、その
 年の10月15日に洛北高校が閉幕したのは、高校再編成の為であった。その
 翌々年の昭和25年4月に、再び現校舎における洛北高校が発足し、これが第
 2次の洛北高校であり、現在に続いている。こうして見ると、洛北高校も歴史
 を重ねて来たと思う。
  先年京一中が100周年を数え、数々の記念事業をしたが、その時、京一中
 は100周年であるが、洛北高校は20周年、随分とその差があるものだと感
 じたが、実際問題としては、京一中の歴史は、80年位で、洛北高校の歴史を
 入れての100年であった。
  こう考えると、洛北高校も京一中の半分の年月を経て来たのであり、次の世
 代では、洛北高校のみが主となり、京一中は昔の話、これも歴史の年数からみ
 たもので、実際上は京一中の卒業者は、現在数で四千余名であり、洛北卒業者
 は、既に1万八千名近くになっている。
  洛北の地域的な名称は、定着しているのである。
  ところで、私自身として、洛北という名称は京都特有の名称であり、歴史を
 感じさせるものであるが、唯一つだけ残念に思うことがある。日本の歴史、京
 都の歴史、或は地理の上から、洛北は、洛南、洛西、洛東等と共に京都を感じ
 させるにはちがいない。
  だが、最近の様に、世界との交際が身近かになってくると、世界的なスポー
 ツや科学の面で、例えば京一中の湯川、朝永先輩の様に、世界的話題となった
 場合に、洛北=京都という関連性がない。やはり世界的には、東京、大阪、京
 都の名が通っている。・・・・という事を、海外へ旅行した時に痛切に感じた
 のである。洛北高校卒業の皆様が、世界に進出する時には、京都或いは日本で
 知られた名前では如何かしらと思う。

 学問の自由とよろこび---------------西島 安則(昭和19年卒) 4
   
        (昭和61年12月7日同窓会総会にて)
  本日、京一中洛北高校同窓会の総会にお招きいただき、お話をさせていただ
 きますこと、大変光栄に、また、誠にうれしく存じます。
  私は、唯今ご紹介下さいましたように、昨年12月に京都大学総長の任に就
 きまして、約1年になりました。それまで、研究に没頭し、研究室の仲間と語
 り合い、教室で楽しく光の話や高分子の講義をしておりました毎日から、思い
 もかけぬ急激な変化に、十分な心の準備もできないままに、総長という重責を
 負うことになりました。
  何十年もかかって作り上げてきた研究室を去ることは辛いことでしたが、春
 になって、卒業生を送り、新入生を迎える頃には、やっと自分に課せられた新
 しい仕事に全てを捧げる覚悟ができたように思えました。
  そのような中で、4月11日入学式を挙行しましたが、丁度その日はハレー
 彗星が地球に接近し、また、遥かなる宇宙へ旅立って行く日でした。先程、同
 窓会の事業報告の中で、南半球へ皆様でこのハレー彗星を観測においでになっ
 たことを伺いましたが、私はこの入学式での入学生への歓迎の辞で、ハレー彗
 星にその名を残している天文学者エドモンド・ハレー(Edmund Halley,1656〜
 1743) とアイザック・ニュートン(Isaac Newton,1642〜1726) の出会いのこと
 を話しました。ハレーが28歳、ニュートンが42歳の時でした。ハレーはこ
 の時ニュートンから天体の軌道のことについて教えを受け、そして彗星の周期
 の計算をはじめたのです。それ以来、彼等の友情はつづくのですが、ハレーは
 1705年になって、今ハレー彗星と呼ばれている彗星が次に地球に近付くの
 は1758年であると予測した論文を発表しました。彼自身の目でこれを確か
 めることはできなかったのですが、彗星は彼の計算したとおりやって来ました。
 それから、1835年、1910年、そして今度の1986年に地球を訪れま
 した。私は、ハレー彗星に学問を志す者の出会いとよろこびを共にすることの
 素晴らしさ、そして、人類の歴史におけるそのことの尊さが象徴されているよ
 うにも思えます。
  この次、ハレー彗星がまた還ってくるのは2061年になりますが、私は入
 学生諸君に、その時に子供や孫に囲まれて彗星を見上げるとき、この入学式の
 こと、そしてその後の充実した人生を想い起こしつつ彗星と再会してほしいと
 話しました。
 
  同窓会の懇親会で西島京大総長を囲んで記念写真


  さて、京一中時代を想い起こし、そこで学んだことを考えますと、それは「
 学問の自由とよろこび」ということであり、また、そのことが、今日まで私の
 ものの考え方の中心になっているように思います。
  私は大正15年(1926年)の11月17日に、中京区の丸太町府庁前に
 ある梅屋小学校のすぐ前の家で生まれ育ちました。当時梅屋小学校からは、毎
 年一人か二人だけが一中へ入学しました。私は、昭和14年(1939年)に
 この梅屋校から一中へ入学しました。
  その頃も、入学試験のあり方がいろいろ論議され、新しい試みがなされてい
 たようでして、私が一中へ入るときには、入学試験は「綴り方」だけでした。
 何を書いたかは覚えていませんが、与えられた題は「お掃除当番」であったこ
 とはよく覚えています。
  その頃、中国大陸においても、ヨーロッパにおいても、すでに戦争は大きく
 拡がっており、入学の翌々年には、遂に太平洋戦争に突入しました。決して、
 自由を謳歌している明るい時代ではありませんでした。しかし、そのような暗
 黒の戦雲が世界を覆っている中で、「学問の自由とよろこび」を教えていただ
 いたことに、私は教育というものの真の強さをしみじみと感じるのです。本当
 にありがたいことでした。一中では、決して生徒を型にはめるような教育はさ
 れませんでした。今から考えると、生徒の方も、先生方のお話の中にある学問
 への情熱といったものを自然に感じとり、いろいろのものを読み、考え、語り
 合ったものでした。一中生には、何か見るからに勉強しているといったタイプ
 を恥ずかしがるような気風があり、何となく悠々としていて、それでいて、何
 時の間にか書を読み、個性的な考え方が自然にあらわれるような仲間を尊敬し
 たものでした。
  あのような時代に、生徒が知らず知らずのうちに自由に考え、そして学問に
 ふれることのよろこびを感じ、その後の人生において、いつまでもそのことを
 大事に考えるようになる教育の場を維持することは、大変なことであったこと
 と有難く思っています。たとえば、戦時色が日増しに濃くなる中でも、一中生
 は登校の際にゲートルを巻くようには言われませんでした。しかし、朝校門に
 入るときにズボンの折り目はきちっと筋が通っているように、紳士らしく振舞
 うように指導されたものです。
  スポーツも盛んでした。今日は、秦先生においでいただいておりますが、夕
 暮れ迫る運動場でボールを蹴っている生徒が沢山見られました。私は弓をやっ
 ていましたが、その隣はボート部で、その横の方にはテニスコートがあり、バ
 レーボールのコートがありました。いつもそれれらを見て廻りながら校内を歩
 かれている秦先生の真っ白な体操服姿がはっきりと印象に残っています。
  私は英語が不得意で、特に話すことは苦手で、辻先生、菅先生、岡田先生を
 困らせました。ある日、岡田先生に、英語で日記を書くように言われました。
 書いて直していただくうちに英作文が面白くなり、苦心しながら短編小説を翻
 訳することを始め、英語の言葉を選ぶことの面白さが判ってきたのはそのお蔭
 でした。幾何の時間も楽しいものでした。谷口先生が、黒板に円を画いて、真
 ん中にチョンと中心点を正確に打たれるのを感心して見ていましたが、どこか
 ら手掛かりをつかむのか判らない難問も、一本の補助線によって氷解するのは、
 さわやかな喜びでした。安江先生には、印象派の絵についてよくお話を聞きま
 した。「ものの陰は灰色というよりは、紫色に見えないか」と言われ、陰は単
 に暗いのではなくて、それなりの色があることを感じたものです。ある時、裏
 庭にあるねぎ畑を写生していましたが、私はふと目の位置を地面に近くもって
 いったときの景色に興味をもって、何とかしてそれを表現しようと遅くまで四
 苦八苦していました。その絵は結局未完に終わったのですが、安江先生は、校
 舎の一番端にあった図画の部屋の窓からそれを見ておられたようで、あとにな
 って、透視画法やデフォルメのことを画集を見ながら説明していただきました。
 感受性の最も鋭い年頃に、自分の目で美しいものを見る感性を持つことと、そ
 れを自由に表現することの楽しさを教わったものです。
  自然の観察ということの大事さを荒木先生に教わりました。裏庭の温室のあ
 たりで、いつも生徒一緒になって観察と記録をしておられた先生の帽子の下の
 温顔をありありと思い浮かべることができます。どの学科も、ものを覚え込ま
 せるというような授業はなかったように思います。歴史もそうでした。前田先
 生は、一年間ずっと荘園を中心としたお話をされました。教科書を開くことは
 余りなかったのですが、それでいて、奈良時代、平安時代、室町時代から戦国
 時代への時の流れが浮彫りにされて、先生のお話に皆引き込まれていったもの
 です。
  次々に想い出は止めどなく湧いてきます。戦況が日々厳しくなる中で、この
 ような教育が行われていたことは奇跡のようにも思われますが、そこには、京
 一中の伝統を守る教育の信念というものが多くの方々によって支えられていた
 ということを改めて感じるのです。
  昭和18年の12月に、私は海軍機関学校へ入校しました。ここで、そこで
 の教育について詳しく語る時間はありませんが、戦争がその終末に近付く悲愴
 な状況のなかで、海軍機関学校における教育の内容はますます基礎を重視する
 方向へと変わっていったことに触れてお
 きましょう。例えば、軍艦の機関やタービンについての講義では、それらの詳
 細な構造ではなく、熱力学の基礎が講義され、また、魚雷の講義の主体は流体
 力学でした。将来のために、数学・物理・化学そして英語を勉強し、学問の基
 礎をしっかりと身につけるように言い残して、先輩は戦いの場へと征かれたの
 でした。生死の境を越えて、あとを頼むとの意志の伝達をしっかりと胸に受け
 止めたのであります。
  昭和20年の冬から、私は、一中の先輩で京都大学の理学部から機関学校の
 教官に就任しておられた中村秋甫先生の御紹介で、理学部地球物理学教室の雇
 いとして採用していただきました。中村先生の研究のお手伝いをすることにな
 りました。大学の正門を入った直ぐ左側にある赤いレンガ造りの由緒ある建物
 の屋上に日本列島の模型があり、その水を張った太平洋に立って津波を起こす
 役をしました。理学部に入学して海洋学を学びたいと考えていたのですが、翌
 春の入学試験の前になって、占領軍の司令部から、軍人の学校卒業者は、各学
 科の入学定員の一割を越えてはならないといった通達があったということで、
 当時定員10名以下であった地球物理への入学はあきらめざると得なくなりま
 した。
  昭和21年春、京都大学工学部の繊維化学教室へ入学したのは、その頃、新
 しい学問領域として展開しつつあった高分子の科学を勉学することを、近くに
 お住まいの岡田辰三教授から勧めていただいたからであります。この分野での
 先導的な研究を続けて、我が国における高分子研究の基礎を築かれた桜田一郎
 教授のことは、一中の卒業生としてよく御存知と思います。
  繊維化学教室の堀尾正雄教授の研究室で、大学院特別研究生として、高分子
 の形とその運動について研究を始めましたが、昭和28年から、世界の高分子
 研究の中心であったブルックリン工科大学(Polytechnic Insutitute of Brooklyn,
  現在のPolytechnic University) の高分子研究所へ留学しました。この研究所
 の所長、ヘルマン・マーク教授(Herman F Mark1895〜)は、高分子の父とも言
 える学者で、1920年代のベルリン時代から、この学問分野の発展の中心に
 なってこられた方です。長かった世界大戦による学問的鎖国状態から解き放た
 れた活気に満ちた時に、20世紀の後半からの、この新しい学問分野の展開の
 中心となったこの研究所で数年を過ごすことができたことは本当に幸せでした。
 そこでは、数学者、物理学者、化学者、生物学者など、それぞれの学問分野で
 の第一流の研究者が集まり、古典的学問分野を超えて、高分子の研究を軸とし
 た新しい学問分野を創るよろこびを分かち合っていました。そして、それは自
 然に極めて国際的でもありました。
  学際領域ということがありますが、私は学問分野の周辺の重なりから新しい
 学問の領域が生まれるというようには考えません。学問分野の中心間の結合に
 よって、新しい分野の柱が建つものであると思います。知識の専門化・細分化
 がますます進みつつある現在、一方で総合化がますます進みつつある現在、一
 方で総合化ということの重要さが強調されています。
  人類の最も大事な遺産としての学問を乾くことのない泉として、将来にむけ
 て継承してゆくために、短い時間尺度での効率のみにとらわれることなく、知
 識への渇きに本当の意味で応えることのできる教育の場、学問の府を維持する
 ことが大事です。そこは、単に知識をつめ込む場ではなく、知性と感性を磨く
 場でなくてはなりません。何が賢明であり(sensible)何が愚かである(sense
 less)かということを、しっかりと見分けることは、何が出来て(Possible) 何
 が出来ない(Impossible)かを見分けることよりも、はるかに大事なことであ
 ります。
  暗雲のたれこめる時代にありながら、輝かしい自由とよろこびを学ぶことが
 でき、またそのことが、その後の人生の心棒となってきた一中時代の思い出を
 中心に話しました。
 「学問の自由とよろこび」を守った京一中の伝統と、それを受け継いだ洛北高
 校の校風が、ますます力強く栄えることを心から願うものであります。ありが
 とうございました。

 ポンソンビー先生の思い出--------------------------- 辻  豊(昭和11年卒)8
   
  今から55、6年も昔、昭和6、7年ころの京一中に一人、外人の英語の先
 生がいた。ただし、フルタイマーではなく、月に幾度か低学年だけに英会話を
 教えにきていた。
  その人の名は、リチャード・ポンソンビー。イギリスの名門貴族の出身で、
 香港英総督の秘書をしていたとき、ふと訪れた日本の、なにかの魅力にとりつ
 かれて、ついに京都に住みついてしまった。いわゆる、ラフカディオ・ハーン、
 モラレス型外人の一人。日本の神道研究家としても、それなりに知られていた
 学者であったらしい。純に本式の家に住み、日本の着物以外のものは着ず、一
 中へ教えにくるときも、必ず黒い羽織、袴という姿であった。白いあごひげに
 包まれた顔を、いつもちょっと左か右かに傾けて、灰色がかった青いまなざし
 で、遠いところをジッと見つめているような表情。その風貌には、どことなく
 泰西名画的な面影があって、悪ガキが心易く近づけるような雰囲気ではなかっ
 た。そのためか、先生方に片っぱしから、「オゴタイ」、「山ネコ」、「カバ
 」、「チクワ」などと、遠慮会釈のないアダ名をつけて喜んでいた悪童どもも、
 なんとなく勝手がちがって、この先生だけには、ついにアダ名がつかなかった。
  しかし、このポンソンビー先生は、ある意味で、悪ガキどもに非常に強烈な
 ショックを与えていた。それは、風貌や「へんな外人ぶり」からではなく、先
 生のしゃべる英語そのものの「異様さ」によってであった。「あれ、ホンマに
 英語かいな?」と抜本的な疑問を口走った生徒さえいた。「ボッちゃんや、お
 ハナはんの英語と、全然ちゃうやんか」というのである。私自身も、深刻なシ
 ョックを受けた悪ガキの一人であった。特に、「O」の発音の奇怪さにはおっ
 たまげてしまった。「go」は「ゲォウ」に、「so」は「セォウ」と聴こえた。
 「ago」 には「アゲォウー」と、猫がノドを鳴らすような余韻さえついていた。
 だから、日本語でも、京都は「ケォウタゥ」に、東京は「タォウケォウ」にな
 ってしまう。それに、語尾の「r」は全く発音されない。実は、これこそが、
 かの有名な「オックスフォード・アクセント」そのものであって、「キングズ
 ・イングリッシュ」と呼ばれる、最高級の英語の正統的発音であったことなど、
 当時、中学1、2年の悪童どもが、ユメ知る由もなかった。
  ところで、そのころ、私には10才ほど年上の京大生の知人がいた。下宿が
 近くで、わからないことを教えてもらったり、ときには走り使いなどを頼まれ
 たり、その代りときどきはうどんなどをおごってもらう、兄貴分の友人であっ
 た。法学部の学生のくせに、芝居気狂いの、いわゆる「演劇青年」で、当時、
 京都にあった「エラン。ヴィタール」とかいう素人新劇団の同人的メンバーら
 しかった。あるとき、彼に、ポンソンビー先生の”奇々怪々”の英語の発音と
 抑揚の話をすると、いやに昂奮して、「それは、かねがね話しにきいていた、
 シェイクスピア劇のせりふのいい回しに非常によく似ている。ぜび一度、その
 先生に会いたい」と言い出した。そこで、ある日、授業の終わったあと、廊下
 で先生をつかまえて、その旨を伝えた。勿論、日本語である。割合い簡単に、
 承諾してくれた。
  さて、首尾よくポンソンビー先生に会えて、帰ってきた京大生は、まるで気
 狂いのように昂奮していた。そして、先生が懇切丁寧に読んでくれたという、
 ハムレットのせりふを、身ぶり手ぶりで、実演してみせた。その一つに、例の
 有名な「To be,or not to be・・・・」があった。「これが、その訳だ」とい
 って、京大生の渡してくれた、坪内逍遥博士かだれかの訳本には、「生きるが
 益(まし)か、死すべきか、それが思案の据え所」となっていたのを、今でも
 奇妙にはっきりと覚えている。それにもう一つ、彼が恍惚として何回も繰り返
 しうなっていたのは、「There are more things in heaven and earth,Horatio,
 than that are dreamed in thyphilosophy」というせりふであった。このくだ
 りの訳文は、余り正確に覚えてはいないが、なんでも、「この天地の間には、
 喃(のう)ホーレーショウよ、およそ人間の智恵の夢想だも及ばぬ、もろもろ
 のことがあるものじゃよ」というようなことだったと思う。当時、中学1、2
 年の私に、この難しい原文や訳本の正確な理解はムリであったが、余り京大生
 が繰り返すので、英文の方だけが意味不明のまま、記憶に残ってしまったのは、
 フシギであった。こんな阿呆なことに、根気よくつき合っていたのも、どうや
 らその日は、うどん程度ではなく、ひょっとすると、親子どんぶりくらいには
 ありつけるかも知れないと思ったからである。
  それから13、4年後の昭和20年8月、私は香港の啓徳(カイ・タク)飛
 行基地(現香港国際空港)にいた。大学を出て、予備学生として海軍航空隊へ。
 そして、この基地の水上偵察機に乗って、南シナ海で戦っていた。4月、沖縄
 特攻が始まり、部隊は内地に転進したが、私はこの基地の指揮官として残され、
 ここで終戦を迎えることになってしまった。
  8月29日、英極東艦隊が香港沖に到着。午後4時、3機のグラマン「アヴ
 ェンジャー」艦爆が、基地に着陸した。ところが、3番機がタイアをパンクさ
 せて、危うく転覆しかけた。私は心中蒼ざめる思いで、消火器をもって、パン
 ク機に駆けつけようとした。すると、1番機から、この一行の指揮官らしい英
 海軍少佐が飛び降りて、トミーガン(軽機銃)を私に突きつけ、「Keepaway!
 (近寄るな!)と怒鳴った。そこで、私も消火器を示して、「3番機ががパン
 クした。発火の危険があるぞ!」と怒鳴り返した。しかし、英少佐は、それ以
 上私が近づくと、本当に機銃を射ちそうな程、昂奮していた。幸い、発火はし
 なかったが、最初の敵味方の出会いはこのように極めてトゲトゲしいものにな
 ってしまった。私も確かに緊張していたが、英側の方が、もっとコチコチに緊
 張していた。結局、1機がスペア・タイアを取りに、母艦まで帰ることになり、
 それが戻ってくるまで、いくばくか空白の時間ができてしまった。しかし、何
 を話しかけようとしても、英側からは烈しい「No!」 しか返って来なかった。
 しばらくすると、英側の一人が私に近づいてきて、「少し質問したい」といっ
 た。腕のマークを見ると、「War Correspondent」 ―新聞の従軍特派員であっ
 た。相手が軍人でないことに、いささかホッとして、「どうぞ」といった。
 「ではきくが、君たち日本人は、こんな勝ち目のない、初めから負けることが
 わかり切っている戦争を、一体どうして仕掛ける気になったのか?」というの
 が第1問であった。私は返答に窮した。とてもまともに答えられるような質問
 ではない。しかし、いいかげんな返答で逃げるわけにも行かない。イギリス人
 相手には、どんな応答をすればよいのか?イギリス人、イギリス人――そのと
 き、パッと私の頭の中に、私が生まれてはじめて会ったイギリス人、あのポン
 ソンビー先生のひげ面が蘇った。
  そして、連動的に、あの京大生のハムレットのせりふも・・。そこで、一生
 懸命に、思い出の中のポンソンビー先生のオックスフォード・アクセントをマ
 ネながら、こう答えた。「その質問は、私のような下級士官には、およそ返答
 不能の難しい問題ではあるが、敢えて現在の私の心境を告白するならば、貴国
 のかの偉大なシェイクスピアが、ハムレットをしていわしめた如く「There are
 more things in heaven and earth, Horatio,・・・”」英特派員は一瞬、ハト
 が豆鉄砲をくらったように眼を丸くしたが、次の瞬間、腹をかかえて笑い出し、
 笑いにむせ返りながら、仲間の英兵たちに向かって、「ヘイ!このジャップ・
 オフィサ−は、オレの質問に対して、シェイクスピアのせりふで答えやがった。」
 といった。
  そのあと、更にいくつか、余りうれしくない種類の質問が続いたが、なんと
 か、ユーモアで切り抜けた。その内に、「ところで、君ら香港の日本人は、こ
 れから一体、どうするつもりなのか?」ときいた。それは、実は、こちらが相
 手側に一番きいてみたかった質問であった。
 「英海軍は、我々を一体どうするつもりなのか?」と。しかし、そうはいえな
 い。そこで、もう一つのシェイクスピアのせりふ、例の「To be or not to be,
 ・・・」を活用して「What to do, or not to do,that is the question. (何
 をすべきか、止めとくべきか、そいつがわかれば苦労はない)」。いつの間に
 か、私たちをとり囲んで、この問答に耳傾けていた英軍人たちは、いっせいに、
 腹をかかえて笑った。緊張はもう完全に溶けていた。やがて、タイアを取りに
 行った飛行機が帰ってきた。タイア交換は全部、私の部下にやらせた。英人た
 ちは、もう「No」は一切いわなかった。飛行機に乗り込むとき、全員が「サン
 キュウ」を繰り返して握手した。そして、軍使を乗せて、手を振りながら離陸
 し、母艦に帰っていった。
  飛行機に乗り込む前、特派員が最後に、もう一つ質問した。「ところで、君
 は、そのオックスフォード・アクセントを一体どこで習ったのだ?」(これは、
 相当なお世辞であった)
  私は、笑いながら答えた。「中学時代、京都で、ポンソンビーというイギリ
 ス人から」。一部は本当だが、大部分は本当とはいえなかった。なぜなら、私
 がポンソンビー先生から本当に習ったのは「O」と「r」の発音と、イントネ
 ーションのモノマネだけだったのだ。
  後年、私は新聞社の特派員として、何年かをロンドンで暮らした。オックス
 フォード英語は職業上必要になったが、最後まで上達しなかった。そして、「
 オールド・ビック」や、「ストラドフォード・オン・エイヴォンの「ロイヤル
 ・シェイクスピア劇場」で、たびたびシェクスピア劇も見た。しかし、完全に
 覚えているハムレットのせりふは、いまだにあの二つだけである。
  (元朝日新聞記者・朝日放送顧問)

 第5回 同窓会海外ツアー募集 マヤ遺跡を訪ねて(昭和63年6月2日
 ー11日)−11今回の海外ツアーは、メキシコです。古代の遺跡の多い所で
 す。ご希望の方には、返信ハガキでお知らせ下さい。詳細なスケジュールをお
 送りします。

 日程 大阪〜メキシコシティ〜メリダ(ウシュマル、チチェン・イツァ遺跡)
 〜メキシコシティ(太陽のピラミッド)〜タスコ〜アカプルコ〜ホノルル〜大
 阪(10日間)
  参加費 約420,000円・募集人員 20名

 沖縄への金環食観測ツアー-------------------------------------11
  国内では29年ぶりという金環食が、9月23日沖縄で観られる。今世紀最
 後とあって、青柳元校長御夫妻以下20名のツアーを組み、20日から石垣島、
 西表島、竹富島とサンゴ礁の美しい海々を廻りました。23日の午前10時過
 ぎには沖縄のさぼてんパークの真ん中に陣取り、太陽の欠けていく様子を観測
 しました。11時23分太陽は月と重なり美しい輪となりました。周囲の温度
 も幾分下がり、芝生に映る木の葉の影も三日月となり、神秘をさえ感じる3分
 間でした。雲もなく、すばらしい金環食を心ゆくまで鑑賞し、大きな満足感と
 と共に帰京しました。

 
 「ガイジン」考-------------------臼井(小西)祥子(洛4卒) 12
 
  「ガイジンとは英語で言えば黒人をニガーと言うような蔑称なのか?」とア
 メリカ人に尋ねられたことがある。尋ねたのは、ボストンから来た英国系白人
 男性の新進彫刻家である。昨年6月に、私の勤務先、京都アメリカン・センタ
 ーで、彼の小品展を開いたおりのことだ。
  「ガイジン」という言葉は、旅館に予約の電話を入れた時など、「ガイジン
 サンですか?」と敬称をつけて使われることも多く、一種の尊称のように思わ
 れる。しかし、日本の新聞や雑誌の記事に見るかぎり、「青い目のニッポン日
 記」とか「祇園祭に金髪もワンダフル」など、「ガイジン」はおおむね金髪碧
 眼の白人を意味するようだ。同じ外国人でも有色人種の場合には、「インドネ
 シア人留学生」など、各人の国籍を明記していることが多い。また、中国人や
 韓国人がどんなに長く日本に住み、日本語や日本文化に通暁していても、「日
 本語ペラペラのヘンな外人」などとは決して言わない。
  これは、我々の先祖がアジアの各地から来ているから、東洋人はみんな遠い
 親戚のようなもので、日本人でもその出身地により京美人とか道産子と呼ぶよ
 うに、ベトナム人とかフィ
 リピン人など国籍を言うことでそのイメージが浮かんでくるのではなかろうか。
  では白人の場合はどうか。長い鎖国のあと、明治政府が「西欧に追い着け追
 い越せ」政策をとって以来、先進西欧文明イコール白人の文化という図式がい
 つも日本人の潜在意識にあったようだ。大正10年に「小学女生」に発表され
 た、野口雨情の童謡にある「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんに連れられ
 て」行ってしまい、「今では青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるん
 だろう」と歌われている。これは、当時のインテリの「青い目」の白人の国、
 西欧への強い憧れを感じさせる。ここに言う「異人さん」は、単なる外国人だ
 けでなく、常人を越え優れた人の意味すら含んでおり、「夷人」の持つ「野蛮
 人」のイメージはない。これは、古来、島国の農耕民族であった日本人の異質
 の人間に対する過大評価や好奇心を示しているように思われる。
  また、敗戦後、憧れの地西欧は欧米に拡大され、マッカーサーに象徴される
 占領軍のイメージも、白人への権威への恐れと憧れが含まれている。当時の歌
 謡曲「憧れのハワイ航路」には西方浄土に憧れて漕ぎ出した補陀落渡海のイメ
 ージすらダブっているようだ。戦後来日した「外人バイヤー」は戦勝国アメリ
 カの豊かな経済を象徴するかのようであった。したがって、「ガイジンサン」
 のルーツはこの辺りにあり、白人に対する尊称としてのニュアンスが強いよう
 に思われる。
  このような感想を述べて彫刻家と別れた後、気になったので、広辞苑を引い
 てみると、「外人」の項には、(1)仲間でない人、(2)敵視すべき人、(
 3)外国人、と出ている。現代日本のマスコミに扱われた「ガイジン」は、一
 応、この(3)を指しているように見える。しかし、この言葉に、攘夷思想に
 見るような、(1)や(2)の意味が含まれているのを、彫刻家は感じとって
 いたのだろうか。
  私自身、比較的外国との関り合いの深い生活をしてきた。外国政府の機関で
 あるアメリカン・センターに働いて、今年で26年になる。今にして思えば、
 他に選択の余地がなかった時代に生まれ合わせたように見える。大学を出たの
 が昭和34年。アメリカ文学専攻。女子学生亡国論の出る前で、文学部も男性
 優位だった時代。大学院へいけば親からの経済的な独立は難しい。終戦の日を
 境に、180度言うことが変わった先生を見ているから、教職には絶対につき
 たくない。当時、共学の大学の女子学生にきた求人はBBCのアナウンサーと
 NCRの会計機のインストラクターの2件しかなかった。BBCにはいいとこ
 ろまでいったのだが、なにぶん京都生まれの京都育ち、言葉になまりがあるの
 で駄目。結局外資系のNCRに入り、2年近く大阪へ通った。当時としては珍
 しく、男女の賃金格差もなく、仕事も面白かったが、結婚すると、大阪へ毎日
 の通勤もさることながら、突然命じられる地方出張が一週間、10日となると
 つらい。なんでもいいから京都でと、やっと見つけた再就職先がアメリカ文化
 センター(1972年に改称)であった。ここでセクレタリーを約10年、そ
 のあと、文化芸術関係の講演会や展覧会などの企画を16年ほどやってきた。
 この間10人のアメリカ人館長の下で働き、この7月に着任した女性館長で1
 1人目になる。
  一口に、アメリカ人館長と言っても、黒人あり、アイリッシュ系、また、東
 欧ユダヤ系と、人種、性別、出身地、専門分野もさまざまだ。アメリカは広い
 国で、50の州、即ち50の国の連合体で、それぞれの気候風土はもとより、
 歴史的背景や住民の人種民族の混合の割合
 も異なる。従って、人間の気質、宗教、価値観の基準や文化の水準も多様化し
 ている。また州同志の関係も会津藩と薩摩藩くらいの違和感などざらで、それ
 ぞれ外国同志のようなものである。毛色の違った人間がいて当たり前であり、
 違うから「ガイジン」と言う意識はない。
  4分の1世紀にわたり、館長という「米国人役人種」の京都での生態の定点
 観測を続けてきたことになる。彼らの任務や仕事の内容は全く同じなのに、そ
 の事務処理や対外交渉のやリ方、また、日本人との付き合い方や趣味趣向にい
 たるまで、まさに十人十色。前任者と同じやり方は絶対にしたくないという自
 己主張の強さは共通だが、各人の個体差は非常に大きく見える。しかし、いず
 れにせよ、私にとっては上司。強い個性を持つ人間的な魅力が優先し、彼らが
 「ガイジン」などとは思ったこともなかった。
  アメリカンセンターとは、米国政府の海外出先機関で、本庁はワシントンの
 米国広報・文化交流庁(USIA)。1953年、冷戦時代に米国を外国によ
 く理解してもらうため設立された。現在、米国と国交のある125ヶ国の約2
 00の主要都市にその支所(USIS)があり、約7800人の職員の45%
 にあたる約3500人が現地雇用の外国籍職員で、その研修が本庁で時折開か
 れ、私も2度ばかり行かせてもらった。国は違っても、同じ仕事をしている同
 僚同志、英語が共通語で同じレベルの知識や経験があり、すぐに仲良くなれた。
 人種や国籍の違いは個人的な魅力の一部でしかない。
  それにひきかえ、同じ日本人同志でも、価値観や専門の違う人と同じ日本語
 を使って話しているのに、使っている言葉の意味の定義が異なっているから、
 心が全然通じ合わない。異業種間の会合に出ると、まるで異星人と話している
 かのように思われる時さえある。私にとっての「ガイジン」は、人種や国籍の
 違いを言うのではなく、価値観や専門分野の違う人を区別するのに使う言葉の
 ように思われる昨今である。

    夢のあとに-----------------------------中川 好幸(洛北旧職)14
 
  大学を卒業し、洛北高校に着任しましたのが、昭和59年4月のことでした。
 以来3年間非常に充実した教員生活を送れたことを幸せに思います。その間お
 世話になった方々には本当に感謝しております。ありがとうございました。
  私は、3年間で、教職また洛北高校を去ることになりました。この決心をす
 るにあたっては、大変悩みました。大学生活を終える時、私は、「自分に一番
 合うことは何なのか」と、自分に問いかけていました。そして、その答えが見
 つからないまま、教員生活を始めたわけです。
  しかし、洛北高校の校風がぴったり合っていたこともあるでしょうが、授業、
 クラス担任クラブ活動などを通じて、自分の個性を発揮することもでき、自分
 なりに満足のいくものであったと思えます。またそういう私を理解してくれた
 生徒達、理解して下さった先生方、保護者の方々を数多く持てたことは、幸せ
 なことでした。
  が、そういう教員生活を送る間も、自分が本当にやりたいことは何なのかと
 いう模索は続きました。そしてそれを見つけた時、私は決断を迫られたのです。
 その時点で、教師としての楽しい生活の反面、満たされない何かが、自分の中
 に生まれるのを感じました。私が目標として持ち始めたのは、広告制作という
 分野なのですが、当然、教員としての安定した生活を捨て、全く新しい未知の
 世界へ飛び込むのには躊躇しました。けれdも、失敗を恐れていては何もでき
 ないし、今だからこそやれると思ったわけです。25才の自分としては、挑戦
 を選んだ方が、後悔の度合いは少ないだろうと考えたのです。
  さて、私は、8月よりニューヨーク州立大のファッション工科大(FIT)
 で、広告コミニュケションの勉強をし、短期間インターンで就業した後、日本
 で広告制作のため携わるつもりです。道は険しいことはわかっていますが、努
 力には人一倍自信がありますし、何とかやっていくつもりです。
  サッカー部の顧問をしていて感じたことですが、どんなに練習を頑張ってや
 っていても、試合に勝てるとは限りません。だからといって、どうせ勝てない
 かもしれないからと、手を抜いてしまうか、それでも勝てることを信じてやる
 か、どちらに意義があるかは、結果にかかわらず明らかだと思います。さて私
 は、人生最大の賭けにこれから向かいます。結果はわかりません。ただ、夢み
 ることを忘れずに生きて行きたいと思っています。そしてまた夢は実現するた
 めにあるものなのですから。

 御注意! 会員の皆様へ
  最近、新聞広告掲載の件につき、広告代理店より巧妙な語り口で電話で勧誘
 する、と言った事が再三ありました。同窓会としては何ら関係もなく、抗議を
 入れましたが阻止するに至りませんでした。同窓会主催の場合は、本部又は支
 部より直接御依頼状を差し上げます。広告代理店等を通しては致しません。
  ご迷惑を受けた会員も多く、各自が注意し明確にことわる事が一番の防衛策
 かと思われます。くれぐれも御注意ください。

 龍華行信元校長ご逝去 --------------------------------------- 15
  昭和62年7月17日享年88才にて御逝去になりました。昭和21年4月
 より23年3月末日まで短い期間でしたが京一中第10代校長として、終戦直
 後の混乱の中御在職頂きました。
「あかね」にお寄せ頂いた文章に――在任中外部へ出す学校のパンフレットに
 は、京一中校長の前歴を書き込むことを常とした。私がしばらくにもせよ京一
 中の校長であったことを、どんなにも誇りに思っておったかがわかる。――と
 語られています。心より御冥福をお祈り致します。

 塩尻先生の遺作展(昭和26年ー46年)
  昭和26年から、20年間洛北高校に務められた塩尻安吉先生が、60年3
 月に他界されました。現職中は、体育科の先生としてあの情熱と誠実さでその
 教職を全うされると共に、陸上界では、京都陸協理事長、府高体連陸上専門委
 員長を務められ、その功が奏して、勲五等瑞宝章が贈られました。
  その先生は、退職後、動から静の世界に入られ、”書”の道に励まれたこと
 は、あまり知られていなかったと思います。先生の夢は、”喜寿には、個展を
 開くこと”でした。その先生をを陰で支えてこられたみさ夫人が、”もし亡き
 後は、私が代わって実現しますよ”との約束を、この4月18日、19日の両
 日京都府立芸術会館での遺作展として果たされました。
  このことは、京都新聞に大きく報じられ、多くの人達の関心を集め、また別
 の世界の先生の様子が証明されました。
  遺作展では、故人の旧友、卒業生、陸上関係と実に多くの人達が鑑賞され、
 改めて先生の豊かさと、誠実をモットーとされた人柄にふれ、久しぶりに会え
 た旧友との再会を喜び合いました。今は亡き先生のご冥福をお祈り致します。
 (川北 記)
 予告
  洛北高校弓道部創立30周年記念行事
  予定 日時 昭和63年2月下旬
     行事 記念射会(母校道場)、懇親会
  詳細は委員会より通知ふるって参加下さい。

 昭和62年度教職員異動 新任12名、転任8名 退任2名-------15
 新任 城戸 秀夫先生(校長)  鳥羽高校
     西垣 辰馬先生(教頭)  桃山高校
     川合 典子先生(国語)  鳥羽高校
     楠本 繁生先生(保育)
     杉本 修尋先生(数学)  鳥羽高校
     永田 成樹先生(国語)  網野高校
     西岸 秀文先生(社会)  理文センター
     林  慶治先生(数学)  亀岡高校
     宮武由紀江先生(英語)  北嵯峨高校
     四辻 正寛先生(社会)  乙訓高校
     藤井 敬子さん(事務)  北宇治中学
     村田 英光さん(事務)  向日が丘養護学校
 転任 北幸之助先生 (教頭)  洛東高校長
     卯滝 英明先生(社会)  府教委
     相馬  博先生(商業)  南丹後高校
     高木  孝先生(商業)  朱雀高校
     原  悦夫先生(保体)  鴨沂高校
     山下 英市先生(社会)  洛東高校
     梶谷  隆さん(事務)  西城陽高校
     服部 好子さん(事務)  鴨沂高校
 退任 井上 隆夫先生(校長)
     中川 好幸先生(英語)

 OBだより
 
 第12回京一中スポーツOB会 ---------------------- 16
 
  昭和62年4月4日(土)まだ明るさの残る5時半、かつて京一中スポーツ
 界で鳴らした面々80名余が集まった。今回は秦乾太郎先生の米寿を祝い、か
 つ秦先生に講義を御願い致しました。大正2年京一中入学、大正12年より昭
 和23年の永きにわたり、京一中体育の先生として京一中のスポーツと共に歩
 まれた秦先生のお話は、日本のスポーツの歴史でもあり、興味深いものであっ
 た。くわしくは来年の京一中スポーツOB会会場で、小誌を頒布の予定。是非
 ご出席の上、お求め下さい。

 京一中三田会発足 ----------------------------------------------------- 16
  京一中を卒業し、慶応義塾大学に学びし者達の第1回の集いが催されました。
  昭和61年10月20日(午後6時から8時)京都センチュリーホテルにて
 発会式を行い、名称を京一中三田会とし、年2回集まり、名誉会長山本三郎(
 大10)、会長西村源一(昭8)、幹事早田文夫(昭13)、岡本隆之(昭1
 5)が選任されました。当日の出席者は、
 市川格(昭11)、稲葉勝巳(昭14)、岡本隆之(昭15)、鎌田誠次郎
 (昭15)、久保田誠一(昭15)、中西浩(昭9)、中山政直(昭10)、
 西村源一(昭8)、早田文夫(昭13)、宮田暢三(昭14)、松本梭(昭1
 3)、三沢一郎(昭15)、家垣洋(昭15)、山本三郎(大10)、渡辺睦
 久(昭13)、森田福男(昭14)。
  第2回会合は、昭和62年5月16日「たかの川」で行われ、出席は10名
 でした。

 第13回京一中スポーツOB会
  昭和63年4月9日 午後5時30分
  ホテルフジタ (二条木屋町)
  スライドとお話 「京一中観海流泅水団の昔と今」 藤田 大祐氏(昭和13)

 神戸洛北青柳会(昭和61年11月22日)神戸元町の中華「別館牡丹園」38名----16
  昨年11月22日、神戸地区の洛北第1回卒から第10回卒までの同窓会を、
 神戸元町の中華料理店「別館牡丹園」で開きました。
  昨春頃から、各学年毎に世話人を選び準備を始めました。数回の準備会の後、
 白杉氏(洛4)を代表幹事として、神戸地区在住職者で当面連絡の取れる69
 名の方に案内状を送りました。各学年毎の世話人からも誘い合わせて戴き、当
 日の出席者は男子27名、女子11名合わせて38名となりました。
  当日は京都から恩師青柳校長先生も伊達一郎氏(洛1)と御一緒に来神して
 戴き、会の名称も神戸洛北青柳会とする事になりました。
  自己紹介にあたり、青柳先生より旧悪を暴露される者も多く、非常に和やか
 な懇談が進みました。各学年幹事と代表幹事(白杉氏)とを選出し、最後に校
 歌斉唱し、次回の再会を約して散会しました。
  第1回卒の面々は、散会後朝方まで痛飲して若さ(?)を誇示されたとの事
 でした。
  第10回卒の方で、神戸在住在職の方はご連絡下さい。碓井  クラス会だより
 
 (大11年3月卒)65周年のクラス会 ----------------------17
  私達は大正11年3月京都一中を卒業した。
  学校の所在地を偲んで近衛会と称して今日に至っている。老生が至らぬなが
 ら世話役をつとめ適度に会合をもっていた。15年前の50周年の時は30数
 名の出席者があった様に記
 憶している。然し年と共にチョイチョイ物故者が出ていたが、ここ一年程の間
 に次の各位が他界された。(敬称略)池田竜一。貝塚茂樹。井上亀太郎。松尾
 卯一。木村章介の5氏でこれは特に多いので驚いた。それでも65周年の案内
 は22名に出してその内次の9名の出席があった。浅山亮二。磯田五雄。上林
 明(大阪市)。桑原武夫。坂口 遼(神戸市)。芝田伊一郎。鶴沢輝弥(吹田
 市)。林稲苗(岡崎市)。それに老生小林元蔵(宝塚市)。
  今年5月11日午前11時に洛北高校内の同窓会館諄信館に参集して久し振
 りに顔を合わ せ、お互いの無事を祝い合い母校の後身洛北高校の現況も見て、
 正午に鴨川北大路橋西詰め料亭「みやこ鳥」に席を移して会食した。
  物故者の思い出やお互いの近況体調など、話の種はつきることなく楽しい時
 間をすごして午後3時に解散した。これからも2年に1回は開催する様にとの
 ことで引き受けはしたが、年と共にものぐさになっているので、果たして出来
 るかどうか我ながら頼りない次第であるが、唯今のところやるつもりだけはし
 ています。

昭五会の記 -----------------------------------------------17
 
  昨年は4月27日(日)に洛北「蕪庵」で集会を催したが、4月26日より
 延々5月5日まであると報道されたゴールデンウィークの2日目であったため
 か、出席者は11名であった。しかし、楽しい談笑の一夕を過ごし、向後はも
 っと出席者の多いように祈りながら散会した。
  本年は5月24日(日)に岡崎「今昔」に午後3時半に集合、山縣有明の旧
 邸「無隣庵」まで一緒に散策して戻り、後で来られた会員諸氏も加えて22名
 となり、午後5時開宴。関東からも5名の出席を得て懐旧談に花咲き、午後8
 時すぎ再会を期して散会した。

 第44回 大正13年会 --------------------------------------17
  昭和62年5月24日(日)
  石清水八幡宮青少年研修センター
  同級の田中文清名誉宮司の特別肝煎りで総会を開催。前日来の雨も上り山内
 の新緑殊の外美しく、夫人等を含め参会者24名。一同大喜びで賑やかな会だ
 った。(宮崎記)

 京一中あかね会(昭9卒)例会報告 -------------------------17
  昭和62年4月8日
  左京区北白川・銀閣寺道「白水園」
      出席者  24名----17
  昭和9年京都一中卒業生で組織する京一中あかね会は、昭和62年度例会を
 頭記の通り開
 催した。当日は好天に恵まれ、春将に爛漫咲き誇る満開の桜花の下。京洛屈指
 の桜名所哲学
 之道も程近いとあって、午後3時過ぎより大部分の参会者は花見としゃれ込ん
 だ。「古来稀
 なる」年齢の老童連は暫し往年のやん茶坊主に立ち返って、互いに歓を尽くし、
 又再会を期して散会した。(幹事 成宮記)

   昭十会 -------------------------------------------------- 18
  昭和10年一中卒業の同窓生は、風薫る5月16日に京都楠荘に於いて、秦、
 木平両先生の御臨席を仰ぎ、恒例の昭十会の集いを催した。
  参集する者37名、遠方より馳せつける者、始めてや、何10年振りに顔を
 見せる者、等々様々ながら、皆いずれ劣らぬ元気な姿が揃った事は誠に心強い
 限りである。
  特に秦先生には米寿を迎えられた由、この旨一同に披露しお喜び申し上げ、
 我々も先生にあやかる事とした次第。
  毎年の催しとはいえ、やはり旧友は懐かしく大いに懐旧談を咲かせ旧交を温
 めた後、校歌を斉唱して会を閉じた。
  久し振りに歌う校歌全曲が終わった時は、古稀の我々にもかっての溌剌たる
 紅顔の美(!)少年の気概が蘇り、すっかり昂揚して若返った。
  それにしても応援歌の時に振る校章の入った旗があったらとの感しきりであ
 った。
  (竹崎記)

 洛三会卒業33周年記念同窓会 ----------------------------------------- 18
  洛三会(洛北高校第3回卒業生同窓会)の卒業33周年記念同窓会は去る5
 月9日(日)午後5時7時30分まで、ホテル京阪・京都「桜の間」 130
 名の同窓生ともども、懐かしい交歓のときを過ごされました。開会に先立って
 2組に分かれた記念写真撮影ののち、前回(卒業30周年)の記念同窓会以降
 に逝去された旧友のご冥福を祈り、開会の辞、校長先生ご挨拶に続いて、池田
 先生のご発声により乾杯、和やかで賑やかな歓談に移りました。卒業後はじめ
 て顔を合わせた同窓生もいるなか、やがて全員で校歌を斉唱し、万歳三唱のう
 ちに再会を期して閉会しましたが、クラス別、グループ別に二次会、三次会と
 夜の京都へ繰り出して行きました。なお、閉会時の申し合わせにより、次回は
 37周年(昭和66年)に開かれますので、奮ってご参集ください。また、止
 むなく欠席されながら、連絡費をお送りくださった方々、本当にありがとうご
 ざいました。(文責・旧8組 安藤 仁介)

 洛北六回みのり会30周年記念”メインディッシュはスライド上映” -18
 
  昭和62年6月14日都ホテル葵殿は、北は盛岡から1,050キロの汽車
 を乗り継いで5年前の約束通りにやってきた藤居君、西は徳島から船旅の今井
 さんを筆頭に各地より駆けつけた146名の若者たちの熱気でムンムン。
  16人を数えるに至った物故者への黙祷にはじまり、ウィットに富んだ青柳
 校長の挨拶。
  いつまでも若さの塊、垣内先生のお話。ご出席くださった12名の恩師と丹
 保のおばさんへの記念品の贈呈はピチピチギャルからの手渡しであった。吉江
 先生の乾杯の御発声でパーティに移るや、そこかしこで若さが爆発! 会場は
 われんばかりの勢い・・・。
  今回のメインディッシュは、「みのり会」30年を振り返ってのスライド上
 映。川瀬、川口、岡本昌、藤井紀の4実行委員が半年がかりで作り上げた約1
 時間を要する作品。川口君、岡さんの軽妙なタッチの情景説明でくり拡げられ
 た高校時代の迷場面の数々、5組の同級生結婚の紹介、みのり会の回を追って
 の歩み、etc ・・・・。恩師を含め、参加者全員が画面に食い入るように釘づ
 けになった。時として湧き上がる歓声、爆発、我等が青春の一ページであった。
  次回はもっと多くの友を誘い合って参加しようと、楽しい半日を送り充ち足
 りた顔の人達は再び各地へと散っていった。尚、スライドはビデオテープに編
 集し希望者にお分けしようと決まった。世話人一同も盛会を喜び合い次回も頑
 張ろうと決意を新たにした次第です。
  (阪西記)

 洛北16回卒同窓会 --------------------------------------- 19
 昭和62年8月15日、京都ロイヤルホテルに於いて、卒業後20年にして初
 めて学年同窓会を開催しました。関西地区からの参加を中心に、お盆を利用し
 ての関東地区からも多勢の参加あり、生徒数154名ならびに当時お世話にな
 った中南校長をはじめ11名の先生方にも御出席をいただき、楽しいひととき
 を過ごしました。
  20年ぶりの再会とあって、受付でも顔がわからず、名前を聞いてその変わ
 りように驚く一コマもありましたが、ロビーのあちこちで早くも思い出話に花
 が咲き、会場へ入る前から大変な盛り上がりを見せました。会場内でも当時流
 行ったビートルズをはじめ、懐かしい曲がBGMで流される中、懐かしい顔に
 出会うたびにひときわ声も高くなり、気持ちだけは高校生に戻ったようです。
 最後に全員で記念写真を撮り、次回5年後の再会を約束して、別れを惜しみつ
 つ閉会となりました。
  尚、今回新たに名簿を作成し、若干部数が残っておりますので、ご希望があ
 れば、同窓会事務所へお問い合わせ下さい。

 支部だより ---------------------------------------------------- 19
 
 北海道支部 ---------------------------------------------------- 19
  京都からは最も遠く、かつ一番広い支部地区ではありますが、現時点で判明
 している同窓の方々55名あります。
  ここ数年、6月下旬の土曜日に定例的に集いを持っておりますが、本年もま
 た渋谷理事長をお迎えし、旭川からは毎年必ず松野さん(昭和18卒)が馳せ
 参じて下さるといった熱意ある方々に支えられ、幸い年一度の集いを伝統的に
 実施いたしております。
  本年は、理事長が京都からわざわざ南アでの日食観測8ミリトーキーを持参
 くださり、日食の刻々の変動や、ケープタウン風物など、貴重なフィルムを見
 せて頂き、初夏の爽やかな夜のひとときを家族的に語り合いました。
  来年また実りある集いをしたいものと念じております。 (安田 記)

 京浜支部 ---------------------------------------------------- 19
  昭和61年11月7日(金)6時、国際文化会館で開催。松竹副社長奥山融
 氏(昭16)の「キネマの世界」と題する話に、時期を同じくして松坂慶子主
 演の「キネマの天使」が封切られて話題となっている時でもあり、会員の興味
 を強く引いた。出席者120名。

 東海支部 ----------------------------------------------------- 19
  昭和62年8月29日(土)午後3時30分より、名鉄グランドホテルにて
 開催。東京より黒田能子さん(洛3)を迎え、「より若く、より美しく」につ
 いてお話を伺う。
 出席者33名

 「あかね」に広告ご寄付を頂いた方々、並びに発行費のご援助を頂いた下記の
 各氏に厚くお礼申し上げます。
  春名 徳郎(昭和10年)、小倉 賢一(昭和13年)、
  中村 金夫(昭和15年)、見角 修二(昭和15年)、
  嶋田 穣治(昭和15年)、野村 宰平(昭和18年)
  昭和62年11月1日 非売品
  〒606 京都市左京区下鴨梅ノ木町59 洛北高校内
  発行所 京一中洛北高校同窓会
  発行者 城戸 秀夫
  印刷所 キャプ ヘイアン


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