会誌あかね

 あかね
 あかね第3号の主な記事

 会員の皆様へ-------------------------------------------同窓会会長      中南 忠雄    2

 京一中洛北高校今昔放談
       奥田東(大12)、藤野清久(大8)、荒木益次郎(旧職)、渋谷有教(昭6)
       小林克彦(洛7)、西田元子(洛8)-------------------------------------------------4

 恩師抄

 おもかげ-------------------------------------------洛北高校初代校長 青柳 英夫 12

 追憶----------------------------------------------------数学担当       林     清一 13

 懐想----------------------------------------------------英語担当     東村 久男 13

 母校を去って---------------------------------------------数学担当     前原 国雄 14

 母校を去って--------------------------------------------生物担当     本永 友彦 15

 洛北生によせて-------------------------------------------社会担当     近保 正二 15

 ”私の願い”-------------------------------------博物担当、事務長     荒木 益次郎 17

 サイパン島
 南太平洋玉砕の戦跡を訪ねて------------------------------------------渋谷 有教 18

 見聞録
 ソヴィエトにおける常識的なできごと---------------------------洛4回卒   大(口面)晴子  25

     くらすかい-----------------------------------------洛14回卒          生田 慎吾  6

 なつかしき津の町----------------------------------昭6年卒     (島一綱)   篠塚 梅扇 7

 ”懐かしき恩師の名前”お憶えですか?---------------------------------------------30

 一中動物園数え唄--------------------------------------------------------------31

 松島君と私--------------------------------------------大7年卒   木村 源四郎 32

 愛の母子像--------------------------------------------昭9年卒   山本 恪二  33

 デザイン雑感
   いすずべレットのデザインについて-------------------------洛1回卒       井ノ口  誼   34

 五月雨西征記--------------------------------------------大7年卒       後藤 美彦 39

 母校だより-----------------------------------------------副校長   金井 敏夫   43

 母校教職員異動----------------------------------------------------------------43

 支部だより

    北陸支部結成総会------------------------------------------------------------44

    東北支部総会----------------------------------------------------------------44

 クラス会だより

    大正10年大樹会東京支部-----------------------------------------------------45

    大正13年会-----------------------------------------------------------------45

    京一中あかね会 40周年記念大会----------------------------------------------46

    京一中いちご会---------------------------------------------------------------47

    昭和18年卒 在京クラス会準備会-----------------------------------------------48

    第10回旧2年8組 大島学級会-------------------------------------------------48

    第13回卒 旧3年2組クラス会--------------------------------------------------48

    洛北14回卒 旧3年5組 ともしげ会---------------------------------------------49

    洛北十四回卒商業科生のつどい------------------------------------------------49

    京一中大三会卒業 50周年の集まり--------------------------------------------50

    会務報告--------------------------------------------------------------------50

 おーびーだより

    ラグビー部OB会ーラグビー部創設50周年報告------------------------------------51

    京一中観海流同好会より-------------------------------------------------------52

    求之会のつどい---------------------------------------------------------------52

    洛北高校ひまわり会 創立10周年記念集会---------------------------------------53

    洛北混声合唱団--------------------------------------------------------------53

    洛北陸友会------------------------------------------------------------------54

 京一中クラブ(例会 211-216回)-------------------------------------------------55

 阪神・京一中クラブ---------------------------------------------------------------55

 表紙の言葉 「風景」三輪 晃久(洛2回卒)
 

  風景を画材に選んでも、ただ脚にまかせて題材を探し求め、それを作画するだけでは、
 絵画の内容は希薄である。私は風景を描くことが多いが、日本国内をまわっても、外国へ
 行っても朝から夕べまでスケッチブックをひろげてばかりいるよりも、その土地の人との
 会話の方をどちらかというと重んじたい。
  風景との無言の対話にさらにプラスされたものが、その風景をその土地独特のものに感
 じさせ、生活と自分の体験がより画面に定着されて出てくるように思う。そして、画面の
 中に丘を作り川を流す時に、メカニズムでは得られない画家の喜びを感じる。

    第13回同窓会総会御通知
  昭和40年度
 と き 昭和40年11月3日(文化の日)午後1時より
 ところ 京都府立洛北高等学校 講堂
 もよおし
     ”三木のり平のアメリカトラベルガイド”
     ”ヨーロッパは楽しい”
      世界特許ブラックスクリーン使用
 総 会 アトラクション・・・・・・クイズその他
     ダンスパーティー



 今年は母校講堂で開催します。
 会員の皆様お誘い合わせて多数お集まり下さい
 会員の皆様へ--------------------------------------------- 同窓会会長 中南 忠雄 2
 

  会員の皆様にはいよいよご健勝でご活躍のことと衷心お慶び申し上げます。本同窓会も
 渋谷理事長を中心として、理事各位の献身的なお骨折りと、会員の皆様のご協力によって、
 年々発展して参りますことは、まことにご同慶に存じます。
  先般も立派な同窓会名簿1965年版が発行されまして、本同窓会の偉容を目のあたり
 にする思いがしたのでありますが、今ここに引続いて会誌あかね第3号が発行されること
 になりました。、これら名簿、会誌の発行はもとより、年々趣向をこらした総会の運営と
 言い、又最近は各地に続々と支部の結成を見る等、輝かしい歴史の上にその活発な活動も、
 恐らく他に類の少ないものではないかと信じます。それについても役員の方々の並々なら
 ぬご努力と会員各位のご協力に改めて敬意と感謝を申し上げる次第であります。
  殊に常々感銘を深くいたしますのは、大先輩の方々にも、若い後輩の皆様と一つにとけ
 た和やかな雰囲気でありまして、まことにこれあるかなの思いがいたすのであります。
  学校としましても、こうした同窓会の存在はまことに心強いものを感じますと共に、先
 輩各位に続くべき人達の育成の責を負う物として一層大きな責任を感じる次第であります。
 しかしなかなか思うにまかせず、日々牛歩の慨きを感じている実状でありますが、幸い生
 徒諸君もそれぞれ落ち着いて学校生活を送っておりますし先年来の計画でありました環境
 整備も各方面のご尽力で漸次軌道に乗って参りました。
  殊に本年は新しく体育館を建てていただくことになりまして、来年3月までには完成の
 予定であります。床面積286坪ですが、これによって屋内競技(バスケット・バレー・
 バドミントン・体操等)の施設は一段と充実されることになり、最近ともすれば沈滞気味
 の体育活動に一層の発展を期待いたしております。
  なおご承知の通り高校は先年来の急増期で本校も各学年12学級、2千人近い生徒を収
 容しておりましたが、マンモス学校解消の第一歩を踏み出すことになったのでないかと考
 えています。
  しかし最近高校教育の普及に伴い、いろいろの論議を呼んでおりますが、更に卒業生の
 大学進学といい、就職問題といい、多くの問題を包蔵いたしております折、何かとなお一
 層各位のご後援、ご鞭撻をお願いいたす次第であります。
 
   京一中・洛北高校 今 昔 放 談 ---------------------------------------------- 4
  京都大学総長 奥田  東(大12)
  福井大学学長 藤野 清久(大 8)
  同窓会顧問  荒木 益次郎(旧職)
  同窓会理事長 渋谷 有教(昭和9)
  同窓会理事  小林 克彦(洛北7)
  同窓会理事  西田 元子(洛北8)

 
 小林 本夕は御多忙の中を、会誌”あかね”の為にお集まり頂き有難うございました。最初
   に一中時代の学生と、現代の学生気質の違いといったものを一つ・・・・・
 奥田 そうですねェ昔の一中といいますと、今と非常に違っています。今は中学校は義務教
   育として全員入れるが、一中の時代には非常に入学試験も難しく、ちょうど私達が試験
   を受けて入った時には、5人に1人位。全国的に一中へ集まって来ました。東北の方は
   少なかったが、四国からはずい分来てました。今のちょうど高校の有名校と同じような
   形で、入学試験も小学校の時に受験勉強をやったのですからね。”笑い声”
 藤野 結局今の高校入試より、はるかに難しかったと思う。
 奥田 私は小学校の途中から京都に来たのですが・・・・・・。京極校だったんですが、一
   年後に湯川さんがおられました・・・・・・年に一人か二人しか入れなかったのです。
   錦林校は沢山入りました。小学校の時に熱心な先生がおられて補修授業が有ったのです
   が、野球の選手をやっていたものですから、野球の練習をやって補修授業に出たり出な
   かったりしておりましたが、入学試験は大変難しかった。
    そういう具合で選ばれた者が一中に入ったのです。したがって今の中学とは、そうい
   う点で非常に違います。ちょっと学生の比較と言われても・・・・・
 藤野 今の高校と対応するんじゃないかナ
 小林 京都の場合は高校が地域制ですので日比谷高校位の競争率ではないのでしょうか?
 藤野 東京一中、四中等は非常に有名なところでしたね。
    そう言えば小学校で受験勉強をした事を覚えてますね。しかし今程、切実なものでは
   なくもっと呑気なものでしたよ。
 奥田 小学校の6年生ですから一中へ入れなかったらどうのというほどの事でもなかったで
   すからね。だから野球をやり乍ら出来たわけで一中に入れなかっても、どこかの中学へ
   は入れたたのです。だから今程真剣ではなかったが試験はむずかしかった。
 
 藤野 私は大正3年の入学ですが、競争率は3倍強位だったと思います。
   附属小学校の生徒は多かったですね。すでに小学校で漢文や日本史をやって来ている
   んで驚きましたよ。
 渋谷 僕達の時は口頭試問だけで一字も書かずに入った様に記憶しています。
 藤野 そんな時が有ったんですか?
 渋谷 妹が府一へ入る時には作文だけという年でした。小学校の先生が作文の練習ばかりさ
   せていたのですから。・・・・・・・
 藤野 私達の作文は筆を持って行き、候文等も覚えました。
 荒木 学校の試験も墨汁で書いたんじゃないですか?
 藤野 試験に墨汁を持って行ったのを覚えていますが、作文だけではなかったですね。
 荒木 古い級にあったんです。墨汁で書いたのが・・・・
 藤野 数学は違ったでしょうね。
 荒木 博物の答案は皆墨汁で書いてありましたよ。残しておけば良かったですね。
 奥田 残っていれば、それは宝物ですよ。
 渋谷 奥田先生の頃も筆を持って試験を受けられましたか?
 奥田 僕の時は記憶がないですよ。
    しかしあの時分の一中と言うのは、自由主義と言うのは、進歩的と言うのか、先生方
   がいろんな事やっていたんではないですかね。英語だとか何か思いきって変った事を沢
   山やっていましたね。
 
 藤野 私の一つ覚えている事で愉快だったのは、勝部謙三というアメリカ帰りの先生がおら
   れたんですが、「アメリカではこうなんだ」というのが口ぐせで、我々もよくそれを
   まねしたんです。その先生が和文英訳をやる訳なんですが、例題がついていて、その
   時間に解答した例題を暗記させて次の時間に次々と言わせるわけです。その調子でど
   んどん進みました。それは激しいものでした。よく勉強したものですよ。その割りに
   英語は進歩していませんが・・・・・・ そうかと思うと全員を講堂へ呼んで、一人
   ずつスペルを言わすんです。そして良いのは遊ばせてもらえるのですが、まちがうと
   また逆戻りをやらされました。残った者はいつまでもやらされておりましたよ。”笑
   声”厳しい事をやらされました。しかしあれ程熱心な先生はたいしたものです。
 
 西田 それだったら先生との結びつきも深かったでしょうね。
 藤野 良かったですね。先生の悪口もよく言いましたし、なぐられた先生も居ましたが、勝
   部先生なんか印象深いですね。最近なくなられましたが・・・・・。
 渋谷 奥田先生、何か在学中の傑作など有りませんか。奥田先生でもこういう事があったと
   いう様な・・・・・。
 奥田 僕はあまりそういう経験はないんですが、僕等の同級生で桜会というのをやっていま
   す。その会を年に一度か二度やってるんですが、東京にもあってその方が会員が多いん
   です。
    昔の色んな写真を持って来たり、どんな試験問題が出て困ったとか、結局いろんな事
   言うんだけ、私には何も記憶がなくって・・・・
 
 渋谷 先生、その方が結構じゃないですか。中学時代はそれでも、出世出来るんだという
   ・・・・・。”笑い声”
 藤野 奥田先生の頃はまだ京大の横隣りでしたか?
 奥田 そうです。宿がえする前の古い校舎で廊下や教室なんかもずいぶん破れてました。ス
   トーブがありまして教室の廻りの板張りをはがして燃やしたりしましたよ。”笑い声”
 渋谷 その点は今でも変りませんね。”笑い声”机なんかも燃やしたらしいですね。戦争の
   終り頃は特別ですがね・・・・・・
 小林 今でも戸板を燃やしますからね。
 藤野 私の頃でも誰か知らんが壁に一寸穴をあけときよるんだ。それがだんだん大きくなっ
   て覗ける程になるんだね。また床が穴だらけで、折角買ってもらった大事な万年筆を落
   してガッカリした事がありましたよ。
 奥田 いたずらをするのは、何時の時代でも変らんでしょうね。
 荒木 私は昭和2年に京都に来たのですが、昭和3年でしたが朝行ってみたら(朝、教室を
   廻らないといかんのですが)教室の天井に墨汁で、先生のアダナをズラッと書いてある
   んです。墨汁で三つの教室に・・・・やったのは、三重県から来ていた男なのですが、
   谷岡先生の息子さんも関係してたんです。
 藤野 僕等、オトッツアン(谷岡先生)恐かったナ・・・・・
 奥田 谷岡先生は歴史でも地理でもなんでもやられましたね。僕は地理でした。
 藤野 私も地理でした。
 奥田 憶えているのは地理に教科書が有って読んでいくんですが、変るのは人口だけだ。統
   計を調べると○○県は現在こうなっているが前はこれこれだ。人口だけ訂正される。
   後は教科書通りだというんですよ。”笑い声”
 渋谷 僕は谷岡先生、山根先生、伏木先生、安江先生に習いました。
 藤野 私も伏木先生、安江先生に習いました。そうすると、割合共通の先生が有りますナ
 渋谷 そうですね。藤野先生と余り差が無い様ですが、僕の生まれた2年後に藤野先生は卒
   業されたのですよ。”笑い声”
 藤野 教えた先生が長いという事だ。長いといったら谷岡先生は、私の親父が習ってるんで
   す。親父が一中におった時、谷岡先生は、若い時で助教とかをやって居られたそうで・
   ・・・・・それで良く知ってます。私の息子も習ってますから三代習ってますね。一中
   の先生はたいしたものです。名物と言うてはいかんが、長い事ちゃんとやってられるん
   だから・・・・
 荒木 一中の先生には偉い先生がおられたんです。
 藤野 私はもう一人偉い人、島文治郎先生に習った英語を・・・・。
   島先生は鼻眼鏡を持って来て、ちょんと腰掛けて、眼鏡をかけたりはずしたりしながら
   上品に話をされる人です。
 荒木 アダナは何でしたか?
 藤野 あの人は偉いと云う事、皆知って居たからアダ名は付けられなかったと思う。”笑い
   声”
 奥田 アダ名の話ですが、僕が奥田東と書くでしょう。それで農学部では「ノンキなトンさ
   ン」とか「トントントウサン」とかね。
 渋谷 藤野先生は?
 
 藤野 知らんな。付けとらんやろう。付けようが無いんだね。まだ顔を知らない学生が大勢
   いるからね。実は今年の入学試験に各教室を廻ってみたのですが、後で部長に聞いたら
   今来たのは誰だと云いよったんだ。実にけしらかん”笑い声”
 奥田 それはいかんよ。”僕もね、正門を入った所に、法、経の教室が有るんでいつも学生
   がたむろして居るんだが、毎朝そこを通っても誰もお辞儀しない。ところが5月祭の時
   に柔道部の学生に舞台の上に引っ張り上げられて歌を唄わされたのだが、それから皆顔
   を覚えて、お辞儀するようになりましたよ。
 
 荒木 洛北でも居ますよ。この間洛北でちょっとした会が有って、校長室で机を借りて来い
  と云ったら「断られた」と云うんで「誰が断ったのだ」と云うと「校長室でいばっとっ
  た」と云うんだ。「校長やないか」と云ったら「そんなの知らん」”笑い声”
 藤野 そうかも知れんね。学生と行き違ってもチョコッと頭下げて、お辞儀のつもりらしい
  のだ。
 奥田 それでもましだよ。
 藤野 中にはお早ようございますと云うのもいるね。
 
 奥田 「オース」と云うのはいないですか。
 渋谷 それは居ないでしょう。
 荒木 僕が田舎から一中へ赴任して来ておどろいた事は、教員室以外は知らん顔や。田舎の
   学校では教師や上級生には最敬礼したものですが・・・・・。”笑い声”
 奥田 その点では新しいかったですね僕等の時分から上級生が威張ると云う事は無かった。
 渋谷 上級生にお辞儀すると云う事は無かったですね。
 藤野 しごかれる事も無かったね。
 奥田 後輩が生意気だからどうのと云う事も無かったね。
 渋谷 生徒役員と云うのがありましたが、何となくこわかったね。
 西田 クラブの先輩なんかはどうでしたか?
 渋谷 クラブと云っても今のようなのは無かった様ですね。
 藤野 そうクラブという名前も無かった。でも昔、京都の中学が集まって芙蓉などと云うボ
   −トのクラブが有りましたよ。このクラブはきつかった。
 渋谷 運動部は有りましたか?
 奥田 運動部は有りました。その中では先輩、後輩云うてやってましたワ。
 渋谷 その他博物、天文の同好会が有りました。私も少しやりましたが・・・・・。
 奥田 弁論部は有りましたね。
 渋谷 弁論部に運動部は昔から有りました。
 藤野 運動部は一つになってましたね。
 
 西田 そうですか最近同窓会から各クラブに補助をしようとして、クラブ数を調べてみたら
   あまり多いので、びっくりしてしまいました。
 渋谷 数えてみたら、50以上も有るのですよ。
 小林 無いのは麻雀クラブ位なものでしょう”笑い声”
 藤野 随分多くなったものだね。
 渋谷 奥田先生この頃の男女共学と云うのはどうですか?
 奥田 僕は勿論経験ないのですが、男女共学と云うのはいいと思いますね。大学へ来ている
   学生を見て居ますと、教育制度としてはいいと思いますね。
 西田 私達は共学制度をスゴク自然なものと感じるんですが、昔の方達から見るとそれが変
   った制度と見られがちですね。私達はあたり前の様にして教育されて来ましたから。
 小林 20年前に生まれた価値が有りますね。
 藤野 しかし、それはね、君達が損をしてるんだ。女の人と一緒に居ても、女が男と代って
   も少しもピンとこないでしょう・・・・・ ピンと来ないと云う事は異性であると云う
   意識が薄いと思うんだ。僕等は異性の前へ出たら、ものもいえなかった。
 渋谷 不幸かも知れませんね
 藤野 不幸だよ。マヒしてしまって不幸だよ女の子と一緒に旅行しても平気でしょう。家で
   も娘の所に男の友達が来るのですが、僕等の見る目がいけないので、向こうは普通なの
   ですよ。別にどうって考えてない。
 西田 確かにそうなんですね。
 
 小林 一中の卒業生で作家の西口克己さんが”廓”という小説の中で、通学電車の中での初
   恋のくだりを書いておられますが・・・・・
 渋谷 なにしろ男ばかりなのだから、たまに通学電車の女の子に希少価値が出るんだよ。
 奥田 今でも見染めるのはいるでしょう。
 小林 ありますね。同級でカップルの出来る事もありますから。
 藤野 僕は京都にずっと在住してますが、京都在住の人で正月にカルタ会をやるんだ。これ
   は楽しかった。正月が来るのを待ちかねたものだ。これは男だけでなく妹やその友達な
   んかも出て来るんだ。
 渋谷 僕もそんな事が一中時代に有りましたね。漢文の先生に来てくれと云われて、そうい
   う所へ行った事が無いので困った事が有りましたよ。しかし今の先生とのそういうつな
   がりはどうなのかナ、昔に較べて・・・・・
 
 西田 先生と生徒とのつながりはちょっと薄いですね。
 藤野 薄いですか。学生が多過ぎるからね。
 渋谷 先生とのつながりもなんだけど、同級生同志のつながりも前よりは薄いでしょうね僕
   等の時代は英語も地理も、例えば生物なら荒木先生の所へクラスの50人が博物教室へ
   行く。一年中常に一緒だった訳ですから。
 藤野 渋谷さんの時は、5年間ほとんど変わらないんですか?
 渋谷 いや、一年毎に編成は変わりました。しかしその一年間は全て同じメンバーです。年
   中そのグループで勉強するのです。だが今はそうではなく、一学年600人もいるので
   すから、知らない人の方が多い訳ですよ。
 藤野 僕等の時のクラス編成はひどいものですよ。甲、乙、丙組。3組でね。甲は成績の順
   に1/3とって行くんです。編成が変るたびに乙から丙に、乙から甲に変る奴がおるん
   だよ”笑い声”
 小林 藤野先生は、甲?・・・・・

 藤野 僕は乙組でした。丙組ばかりに居た奴もおるんですよ。しかし今そいつが偉くなって
   ますね。奥田先生の時はどうでした?
 奥田 僕等の時はそれはやらなかった。
 藤野 そうですか、僕等は今でも、わしは丙組だといばるのがいますよ。
 荒木 その後、編成は一番が甲組、二番が乙組と順番に並べ各組平均しました。
 奥田 僕の時もそうでしたね。
 小林 現在と同じですね。
 奥田 今はクラスは変らないのじゃないですかナ。
 小林 クラスは変らなくっても授業の度ごとに変ります。それでも3年になって進学する者
   と就職する者とが出来、進学する者でも工学部系統と分科系統とが有りますから、やは
   り学ぶ科目も異なりますから授業の変る毎にメンバーも変りました。
 藤野 しかしそれではクラス編成も難しいね。
   僕が一年の時、生物を取らなかったのです。そしたらクラス担任が生物の先生だったも
   のですから、一年間はホームルーム以外なんらその先生と接触する事が有りません。
    だから二年目に顔を合わせても先生は僕を覚えてられませんでした。
    家庭科の先生も関係が有りませんからね。
 藤野 今はそういう物(家庭科)が有るんだナ僕等の時分はそれだけは無かった。”笑い声”
 小林 男でも家庭科をとる者が居ますよ。
 西田 お料理等評判がいい様ですね。
 藤野 ほオ・・・・・・・そうですか。僕なんか習っとたら良かった。今僕福井で一人で居
   る事が多いから、やっぱり自分で料理せんならん・・・・”笑い声”
 小林 話は変りますが最近会社でこういう話が出たのです。近々大学へ進学される息子さん
     を持っておられる人なのですが、大学へ入るのもいいが、全学連等でワイワイやられた
   のでは困る。と言うのですが、先生はどうお考えですか?
 
 奥田 そうですね。極少数の職業革命家みたいなのが居て色々やるんですが、そう言う活動
   を・・・・・デモなど家は別としてやっている事は別に悪い事ではないと私は思うので
   す。会社の人達に良く言うんですが、ちょうどツベルクリンで陽転した様なもので大丈
   夫ですよ。全然学生時代にそう云う事を知らないで卒業して、後でそうなるより良いの
   ではないでしょうか・・・・本物になってしまったら親も心配でしょうが・・・・
 渋谷 四回生あたりになると就職の関係であまりそういう事はやらないという傾向はあるで
   しょうか?
 奥田 一、二回生が比較的多いのですが、それは高校から続く大学への入試準備勉強で無理
   してますから、大学へ入ったら一種の虚脱状態の様な時期が有りますね。その時に働き
   かけられるとその様な活動をやる様になるのですが、やっている間に批判力が出来て来
   る。四回生が活動しないのは、就職の為というより自覚に基づくものじゃないでしょう
   か。
 渋谷 荒木先生。一時は洛北も左翼勢力が強かったのですが、此の頃はどうです。
 荒木 京大へ全部入ってくれたから大丈夫です”笑い声”
    藤野先生は長い間、京大におられて後、地方の大学へ行かれたのですが、福井大学あ
   たりの思想的なものはどうですか?
 藤野 私が行く前に奥田先生にも「貴方の行く所はイイナ」と言われたのですが、北陸と言
   う所は真宗の非常に大きな地盤なのです。ですから地方から来る学生も居ますが、大体
   学生はおとなしいですね。
 渋谷 ところで、昔は一中、三高、京大と言いましたが、最近はどうですか?
 奥田 今は灘高、北野高、京都では洛星高ですね。
 藤野 そうですね。あそこらは最初からその準備をしているのですね。
 荒木 今は各県の学校で昔の一中に類する所は本当に勉強してますね。修学旅行も中止で・
 奥田 そういうのが本当にいいのか悪いのか疑問だと思いますね
 渋谷 友達を友情として見るより、競争相手として見る様な傾向なのでしょうね。僕は秀才
   教育とかナントかより、詰め込み主義はどうかと思いますね。唯、或る程度学校の特色
   が出ても良いのではないでしょうか・・・・
    洛北は理科系が良いとか、どこそこは、文科系とか、昔のエリート意識というのでは
   なく・・・・別の意味での特色というものが有っても良いのではないかと思いますね。
 藤野 そうですね。今は少し度が過ぎてるんじゃないかナ
 渋谷 ある学校など、他校で3年の時にやる教科書を2年でやってるいるのはどうもね。と
   言うのは僕等の学年で4年を修了して高校へ行ったものは死亡率が高いようです。だか
   ら僕等見たいなのは、元気で居られるので・・・・”笑い声”
 藤野 ホウ! そうですか。
 荒木 いやね、一中へ入ったら、とにかく勉強をしなくてはならないので夜の2時、3時迄
   やって、朝すまして来る。それが度重なって4年から高等学校へ入ったものは、身体を
   壊したのではないですか。
 藤野 そうかも知れませんね、そりゃ度が過ぎたんだネ。僕も、一中におった時は、勉強し
   たつもりだが駄目なのですよ。この間成績表を見てがっかりしました。ヒドイものだ
   ”笑い声”
 荒木 奥田先生の成績表も、藤野先生のもちゃんと学校に残ってますよ。
 藤野 それはもう出さないでくださいよ。高く買いますよ。本当に一年からみんな残ってま
   すか?
 荒木 残ってます。
 藤野 そりゃ大変だ。二年が一番悪くって”可”ばかり並んだんだ。
 小林 優、良、可だったんですか?
 奥田 ええ、それで不可と言うのが不合格だった様に思います。
 小林 それはやはり点数に比例してなのですか。
 奥田 ええ、そうです。
 小林 そうですか。今は80点取っても”3になる事も有りますし、50点でも”3”と言
   う事があります。
 藤野 それだったら甲の学校の”5”は乙の学校の”3”と同じという事にもなるね。
 小林 だから地域制を廃止して、渋谷さんの言われる様に特色を各校に持たせて・・・
 藤野 という事になりますね。
 小林 色々とお話も尽きませんが、時間も長くなりましたので、この辺で終わらせて頂きま
   す。有難うございました。

 恩 師 抄 ------------------------------------------------------- 12
 
 おもかげ ------------------------------------------------ 青柳 英夫 12
 
  昭和35年3月末に校長の職を辞してから既に5ケ年の歳月が流れた。
  私が昭和25年4月に洛北高校の初代校長として任命されてから辞職するまでが丁度1
 0ケ年だったが、罷めてみれば10年という時間は長いようで短いものだという感慨を当
 時抱いたことを記憶している。それからまた5ケ年半経ったがこれとても烏兎夙々の念を
 禁じ得ないものがある。
  私はいま学校教育とは大分趣のちがう職場で仕事をしているけれど、あの講堂で私の手
 から卒業証書を渡した6千人近くの男女同窓生の諸君は、いまそれぞれにどこでどのよう
 に暮らしておられるか、時につけ折にふれて諸君のおもかげを想い起こすことが多いのは、
 50年を越した私の齢のせいばかりであろうか。「おもかげ」という言葉は面影または俤
 という字を当てているが、広辞苑をひいてみると
 1 かおつき。おもざし。顔かたち。
 2 ほんやり目先に見える姿。伊勢物語「おもかげにのみいとど見えつつ」などと書いて
   ある。
  たとえば高坂正尭君という第2回の卒業生がいた。
   近頃ジャーナリズムの脚光を浴びてあちこちにものを書き放送関係などにもよく顔を
  出している。
  ときたまテレビのスウィッチを入れると、高坂が誰かと対談している。顔かたちは洛北
 高校在学中、生徒会長として校長室に出入りしたり校長公舎へ訪ねてきたりしたときと殆
 んどそっくりそのまま。ああ高坂がいるな、と思いながら話の内容を聞いているうち、こ
 ういう議論なら高坂だったら多分こういうだろうと思っていると、果たしてこちらの予測
 とあまりちがわないことを、例の早口で論じはじめる。
  勿論彼も卒業後10余年の勉学と経験を身につけているので、私にはよく解らない領域
 や水準にどんどん踏み込んで話を進めてはいるけれど、議論の底を流れる基本的な発想法
 というものは、在学中によく私に議論をしかけてきた頃のそれと、そんなにとんでもない
 大旋回があったとも思えない。
  ただに顔かたちのおもかげのみならず、彼の頭の中や心の裡のおもかげもまた私にはな
 つかしく想起される次第である。
  こんな繰り言めいたことを書いてみても果てしがないし、たまたま例に引き出された高
 坂君には大迷惑だったと思うけれど、私の胸底に残っているおもかげの所有者である卒業
 生諸君の御健勝を祈ること切なるものがあって編集子の需めに応じたものである。
  今晩は8月16日。この感想文を書き了えて、京都在住の同窓生諸君と同じように、窓
 辺に倚って大文字の送り火を見ることにしよう。

 
 追 憶 ----------------------------------------------- 林  清一 13
  吉田時代の京一中の姿はなんとしても懐かしい。その名残をとどめてくれているのは、
 現在洛北高校の玄関前の木犀である。移植したがその後やはり秋ともなれば、よい香りを
 放ってくれている。
  正門の道路ぞいの北側に植えてある公孫樹の並木は、吉田時代の生徒は記憶されておる
 ことでしょう。
  大きな花壇の横にあった階段教室の北の裏に植えてあった若木があのように生長した。
  岩森デンデン先生の物理や、島田仁丹先生の化学の時間に、よからぬ生徒がこの木を伝
 ってエスケープしたのである。それが今隆々と育っているのは、まことに懐かしい限りで
 ある。
  ただ武道場の前にあった紅梅を数本移植したが、追々に枯れてしまったことは残念でな
 らない。
  少年の頃の花や樹木にちなむ思い出は、いつ迄も心のかたすみに残っているものである。

 懐 想 ------------------------------------------------ 東村 久男 13
 
  昭和26年4月、体育館の南側のコンクリートの上に立って、20数名の新任の先生と
 共に、青柳校長から着任の紹介を受けた。当時の3年生が洛北第一回の卒業生である。
  その後13年間洛北にお世話になった。同じ学校に13年も在職した経験は、私に取っ
 ては空前絶後である。
  その13年間――それは私の30代の終りから50代の始めであった――には楽しかっ
 た思い出と苦しかった悪夢とが錯綜している。
  昭和30年頃までの洛北には楽しい思い出が多く、今にして思えば「良き時代」であっ
 た。その後、世情を反映して校内にも、波瀾と沈滞とが隣り合わせに共存していた。教壇
 生活最後の場所と内心思っていた洛北も、安住の地ではないと感じ、昨年3月辞して乙訓
 高校へ転出した。
  然し、洛北を去って1年半経った今日、やはり洛北には郷愁を覚える。特に五回頃まで
 の卒業生をもう一度洛北の教室に呼びもどして見たい衝動にかられる。教壇に立って「教
 え」ては居るものの「とても俺はこの男にはかなわない」と感じさせられる生徒がどの組
 にもいた。勿論あの頃の生徒が皆秀才、才媛、美男、美女、善男善女ばかりであったわけ
 ではない。相当の鈍才や手におえない悪童もいた。
  修学旅行では御乱行、教室へ帰れば、合掌して、英語の訳を辞退する生徒もいた。しか
 し生徒がそれぞれ個性を持っていた。先生方も若く、個性を発揮して生徒に接しておられ
 た。あの頃の様な雰囲気は、現在ではどこの学校でも余り見られないのではなかろうか。
  現在私の学校には、一中、洛北関係の者が8人いる。
  千葉尚二先生(一中卒、生物)
  浅田喜代子先生(洛北勤務15年、英語)
  西浜稔彦先生(洛北勤務5年、地学)
  堀部ゆき先生(洛北定時制養護)
  松本 清君(洛北1回卒英語)
  石井 丈夫君(洛北2回卒英語)
  五十川敏男君(洛北2回卒体育)
  それぞれ、大いに活躍していただいている。
  私自身は授業は5時間しか持たず、雑用に追われ、頭が外見内容共に益々薄くなってい
 る。
  無事退職して恩給でもついたら、もう一度洛北の教壇に立って「無給」でも英語の授業
 がして見たい。チップス先生の真夏の昼の夢である。

 母校を去って ------------------------------------------ 前原 国雄 14
 
  「母校を去って」という題で何か書けとのことですが、洛北高校を去ったという感がし
 ないのが偽らざる心境です。
  学校を卒業した昭和25年に洛北高校が復元され、それ以来この3月まで15年間洛北
 高校に勤務致しました。
  4月より教育研究所に勤めることになりましたが私にとっては洛北高校だけが教壇に立
 った学校なのです。
  それだけに洛北高校の15年間の生活は忘れることの出来ない思い出となって何時まで
 も残ることと思います。
  創立の当時は何もかも足らないづくめの中でやらないことだけが多かったが、多忙な中
 にも楽しい充実感がありました。
  然し15年間の永い間には決して楽しいことばかりではありませんでした。
  職員室では口もきかない村八分の陰うつな時もありました。
  そのようなことも今ではなつかしい思い出としてふりかえることが出来るようになりま
 した。
  洛北特有の自由なのびのびとした生活が更に節度を加えたものとなって卒業生の皆がと
 もに洛北高校3年の学園生活をよき時代としてふりかえるようなものとなって欲しいと思
 います。
  諸先生の御努力と同窓生の皆様の暖かい愛情とによって洛北高校が明るい楽しい学園と
 なることを祈ってペンをおきます。

 母校を去って -------------------------------------------本永 友彦 15
 
  一中時代に生徒として5年間、洛北高校の教員として15年間、私の過去の半分を比叡
 の峰を背景にした下鴨の校舎で送って来ました。この事は自分として誠に幸せであったし
 また誇りに思っています。
  昭和25年4月8日、椅子も満足になくガラスの破れた本当に殺風景な講堂で洛北高校
 の開校式が行なわれました。勿論、校歌も校章も出来ていない学校でしたが、生徒諸君も
 先生達も何とかよい校風を作りたい、立派な学校にしたいといういわゆるヤル気が旺溢し
 ていたと思います。
  私が一中に在学していた時には、荒木・金井両先生から博物学を習い、博物同好会に所
 属していたこともありましたが、同じ教室で教壇に立ち生物を教える側になろうとは想像
 もしていませんでした。でも自分の教員生活のスタートが母校であったという事は、何か
 につけて都合よく、恵まれていたと思います。
  さて、3階にある生物特別教室の窓からの眺めは当時と比べて随分と変化しました。
  松ケ崎の山腹にある妙法の妙の字はそのままですが、今のノートルダム学園や自動車教
 習所のあたりは田畑であったし、秋には彼岸花の美しく咲いているのがよく見られたもの
 です。
  しかし今は山の麓まですっかり屋根が続いてしまいました。
  実験用のカエルやバッタはすっかり姿を消してしまい学校の近くでは、もう入手出来な
 くなった様です。十年一昔という言葉がよく分る様な気がします。
  この4月朱雀高校に転勤を命ぜられ、母校を去りましたが、洛北高校は本当におおらか
 で自由な学園であったと思います。先輩から受け継がれたよいものを、より一層磨き上げ
 て真のよき高等学校に発展していく様に心から念願しています。

 洛北生によせて ---------------------------------------- 近保 正二 15
  一昨年、十数年ぶりで学校に出て洛北に勤めるようになりましたが、僅か2年で、今春
 桃山高に転任いたしました。
  この2年間は、私の場合は、学校になじむにも足りなかったほど短いものでした。
  2年間、授業の外は専ら学級担任に関心をもって当たりましたが、両年度とも1年担任
 でした。入学当初は決してそんなつもりではなかったでしょうに、早一学期もたたぬころ
 から、学業を殆んどかえりみなくなってしまうような生徒がきまって出てきましたが、た
 といその人数はごく僅かであっても、これについては、担任であった者としての責任を感
 じているとともに、それ以上に教師としての大きな問題感をもっております。
  このような特殊な場合でなくても、一般に生徒諸君の不勉強なのは案外でした。
 「もちろん、勉強時間の長短をいっているのではなくて、学習したことを完全にマスター
 していく度合いを問題にしているのです。
  概して、勉強に対する考え方や取り組み方がかなり甘いのではないでしょうか。
  学園祭は、大ていの生徒諸君には、いろいろな意味で楽しい期間でしょうが運営の理想
 を追求される努力と併行して、内容的にも、格段と洗練されたもの、充実したものを展開
 して行かれることを切望しています。

 筆者紹介
 ☆青柳英夫先生。(昭和25〜昭和34)
   洛北高校初代校長。現在松下電工(株)
 ☆林 清一先生(昭和3年〜昭和17年)
   数学科担当。現在紫野高校校長
 ☆近保 正二先生(昭和38年から昭和40年)
   社会科担当、現在桃山高校教諭
 ☆前原 国雄先生(昭和25年〜昭和40年)
   数学科担当、現在教育研究所
 ☆東村 久男先生(昭和26〜昭和39年)
   英語科担当。現在乙訓高校副校長
 ☆荒木益次郎先生 (昭和2年〜昭和21年)
   博物科担当
         (昭和25年〜昭和33年)
   洛北事務長

 ”私の願い” --------------------------------- 荒木益次郎(旧職員)17
 
  私は昭和2年4月15日、京都府立京都第一中学校に博物科の教員として三重県から転
 出して参りました。昭和6年4月からは、作業科の授業をも受持ちました。戦後昭和22
 年9月、府下綾部に在る府立城丹実業校に転任、昭和24年4月、京都府教育研究所に転
 出し、翌25年4月、京都府立洛北高等学校が復元されたのでなつかしい思い出深い元一
 中の校舎に帰り、昭和33年10月退職致しました。私の教員生活のほとんどが、下鴨の
 この校舎で過したので、色々楽しいこと、苦しかったこと等が走馬灯のように浮かんだも
 のですが、今では不思議にも苦しかった事などは浮かばず、楽しかったことのみが思い出
 されます。浅学菲才で光輝ある京一中の校史の全貌を描き出せないにしても、私の生ある
 限り、纏めて行く決心で京一中に関するものを目下ノートしています。
  一昨年、渋谷理事長に伴われ東上、植木光教氏(昭和19年)の案内と御紹介で国会図
 図館に参り、京一中に関する文献を4日程漁って参りました。京一中創立70周年記念式
 典の際、初代の今立校長の書かれた『日本一中学校』が京一中である由因が判りました。
  学規全書「八代篇」に「明治3年11月27日、二条城旧所司代邸向後中学黌と可唱事
 」と記され、同年12月7日京都中学校が開校された事が報ぜられています。東京にもこ
 れと前後して駿河台川勝近江邸に中学校が設立されたが、まもなく火災に逢い再建されて
 いない。
  明治6年6月上京区下立売通新町に新校舎の新築が成り、7月1日午前8時から盛大な
 開校式が行なわれた模様が、当時の公報で伺い知ることが出来ました。管内管外から多数
 の参観者があり、花火を打ち揚げ校の内外に、作もの出店等が許可され一日中賑わった様
 子です。
  同年6月文部省補助金が全廃されたので、管内京都小学校取締所と改められたが、明治
 12年には旧名に復しました。此の時代の出身者は城北同窓会を組織したが、後京一中同
 窓会に合併しました。
  明治21年4月、本府が第三高等学校の京都移転の事情等で一旦本校の経費支出を止め
 たので、大谷派本願寺が年六千円の維持費を出して呉れたので、その余命を支えて来まし
 たが、明治26年4月、府が本校経費に地方税を廻すことになり、尋常中学校の再興とな
 りました。その為本願寺はその所属する僧侶生を本願寺内の大谷尋常中学校に移らせまし
 た。
  明治27年4月1日、中興記念式を挙げました。与えられた枚数を超過したので後日纏
 めたものを描くことにいたします。
  憶うに京一中は、日本一中学校であり、天下の一中であります。その校史も又本邦教育
 史の一部として成り立つべきは云うまでもありません。更に中学校教育界の中心をなして
 いるものと信じます。
  各位の内で京一中に関するものがございましたら御貸し下さる事をお願いして擱筆。

 サイパン島
  南太平洋玉砕の戦跡を訪ねて ------------------------------- 渋谷 有教(昭9)18
 昭和19年太平洋戦争も、いよいよ激烈となり、6月15日米軍は大挙サイパン島上陸作
 戦を開始した。南太平洋の最大拠点として陸海空一致しての守備も空しく、7月8日、一
 般在留邦人を含めて、3万数千名の犠牲者を出して玉砕し、其の後は本土空襲の基地とな
 った。終戦後20年、民間団体として始めての南太平洋戦没者慰霊団に参加し、7月31
 日羽田を出発8月7日帰着したが、サイパン島のその後を御紹介したい。

 (1)南海の島サイパン ------------------------------------------ 18

  南太平洋には無数の島々が点在している。その中のミクロネシアと言うのが、戦前には
 日本の委任統治領として、一般には南洋と呼ばれ、南洋庁によって統治されていた。太平
 洋戦争と共に、南海の美しい島々も、一変して軍事基地となり、激戦の末に、玉砕と云う
 悲しい結末となったこのサイパン島は、今は何事も無かった如く、平和な楽園と言っても
 よい美しい小島である。
  面積180平方キロで、淡路島の約3分の1に過ぎない。現在は、国連の信託統治領と
 して、アメリカの民政が布かれている為、アメリカ色に塗りつぶされた感じがある。
  貨物船が日本との間に通っている様ではあるが、一般には、直接結ぶ交通は無く、今回
 もフィリピンのマニラ経由で米領グアム島までは航空路線を利用する他はない。
 
  グアムよりは、民政局の航空機が、週一回程度で各島を廻り、別にマイクロネシア航空
 と云う会社の航空機があり之を利用する他は無いが、機数が僅かな為、実に不便である。
  然し、20年前の戦争を離れて、このサイパンを眺めるならば、ハワイの如き高度の文
 化こそ無いが、誠に静かな南海の楽園である。どうしてこの島に激闘が行なわれ、数万の
 尊い人命を落とし、荒野と化したのであろうかと、現実を眺めると唯不思議と云うより他
 はなかった。
  紺碧の南太平洋、サンゴ礁のすき透る様な青色は、天下の絶景と言ってもよい。椰子の
 木やバナナの木、パンの木、タコの足の様な根を持ったタコの木・・・・内地では僅かに
 温室で見られる珍しい木々、真っ赤な花を一面に咲かせたサイパン桜、細長い葉を持った
 メリケン松。そして原住民であるチャモロ族とカナカ族は、赤黒い顔とはいえ我々日本人
 に対して親しみのある日本語で話しかけて来る。
  この様な緑の島も、21年前は艦砲射撃と、空襲との中で、死闘を続けた死の島であっ
 た。
 (2)サイパンの戦跡 -------------------------------------------------- 19
  サイパン島では正確な事はわからないが、日本陸海軍人の戦死したもの約2万5千と伝
 えられ、これに在留邦人で最後まで戦闘に参加したり、或は協力して玉砕した人々が約1
 万人といわれている。
 
  この莫大な犠牲のもとに戦われたサイパン島の攻防戦では、小さな島全体が戦跡である
 と言っても、決して過言ではない。
  島内到る所、すべて皇軍死闘の戦場であった。今でこそネムの木に似たタンガタンガの
 茂る緑の島も、20年の昔は如何なる姿であったろうか。想像に絶する空襲と艦砲射撃の
 後、アメリカの手に渡った時、恐らくその様相は、この世のものとは思われなかったに違
 いない。
  だが然し、あの時より、20年余の歳月はその傷跡の大部分を葬り去ってしまったのも
 事実であろうが、それでまだ、島内各所には、悲しい現実の姿として、洞窟には遺骨が、
 散乱し、尊い遺品が点々として発見されると云うのは、どうしたことであろうか。
  風雨に曝された遺骨は、無言の中に、散乱しているけれ共、きっと我々に話しかけ、語
 りたい事が一杯であろう。
  胸を締めつけられる様な、悲しい現実。我々が現在を平和に過しているにつけても、こ
 の多くの人達の尊い人柱に、唯々頭を垂れ、静かに香を焚き、合掌するのみであった。
  今私達は、祖国日本より、尊い犠牲の方々を慰めるため、サイパンまで来たけれ共、残
 念乍ら僅かな滞在期間と、少数の力では、何らなす事も知らず、後ろ髪を引かれる思いで
 帰らざると得なかった。
  この悲惨な状況を、我が国の人々に訴え、必ず必ず近き将来に於いて、静かに眠って下
 さる事の出来る様な方法を考えることが、我々今回の慰霊団の責務であることを、心に誓
 ったのであった。

 (3)司令部跡 --------------------------------------------------------- 20
 
  サイパンの島の周囲は、多くのサンゴ礁がある。島も隆起サンゴ礁と溶岩で出来ている
 と聞いたが、目を射る様な白さの旦々たる道路は、その真っ白なサンゴ礁を砕いたものが
 敷きつめてあって、実に快適なドライブウェーであったが、バスを降りて、密林の如きタ
 ンガタンガの森中に分け入ると、全くジャングルであった。
  司令部跡という防空壕に行った。道端には立派な表示板がある。少し行くとそのジャン
 グルの中に司令部跡があった。
  此処はサイパン島の北部、マッピ岬の中にあって、北部に追われた日本軍が、最後まで
 抵抗した地区にあり、最後の司令部があった所、将軍ホラアナと称されている。
  岩山の中腹、石の階段を上って行くと、その岩窟に到った。やはり司令部だけはあって
 自然石の中に、コンクリートで十数坪の防空壕になっている。
  案内の島の警察官ベナベンテ氏が指さす方を見ると、大きなトカゲが岩壁を這っていた
 が、その大きさは30センチ余りであった。まだまだ大きいのが居るそうであるが、激戦
 のさ中には、時にはこれ等も将兵の空腹を幾分かでも満たしたのではないか。
  絶え間の無い艦砲射撃に、次々と倒れて行く皇軍将兵の有様を見乍ら、必死となって作
 戦を練った司令部の人達の心中は、如何に苦しかった事か、今は唯その残骸のみ。
  コンクリートの壁にあけられた、砲弾の跡もうら悲しい。然しこの中は、すっかり整理
 されて、遺骨もなく、遺品すら何もなかった。単に戦争の傷跡の一つとして保存されてい
 る様であった。
  名も判らぬジャングルの枯木を、ポキポキと折り乍ら、再びバスに戻った。バスの屋根
 には、何世紀も変らず輝き続けた如く、南海の太陽が輝いていた。

 (4)バンザイ・クリフ ------------------------------------------- 21
  マッピ岬の一帯は、サイパン玉砕戦にとって、最後の戦場であり、数々の歴史的悲劇を
 生んだ地帯であり、我々にとって忘れる事の出来ない場所であった。
  タンガタンガの林を抜けると、眼前に広大な平原に出た。有名なバンザイ・クリフのあ
 る所である。
 
  この断崖は垂直に切り立った岩の上にあって、海面まで数十メートルもあった。青黒い
 様な海、何百年、何千年も前から、勿論昭和19年の7月にも、やはり同じ様に打ち寄せ
 て居たであろう太平洋の荒波は、この日も同じ様に白波を立てて打ち寄せていた。
  いよいよこれが最後、例えサイパンは落ちたとしても、我が本土の人々、皇軍の将兵達
 は、必らず再度このサイパンを日本のものにするだろう・・・・・・絶え間の無い空襲と
 艦砲射撃に悩まされつつ幾百の人々が、この荒波の中にかすかな希望を抱きつつ消えた事
 であろうか。
  この辺は、サイパンの最北端である。その断崖から、真北には祖国日本があった。絶壁
 の上から、家族と共に、バンザイと叫びつつ波間に消え去った同胞の心の中を思う時、今
 戦後20年にして、やっとの思いで訪れた我が身を省みて、しみじみと戦争の悲惨さを感
 じたのであった。
  そよそよと吹く風に、ともすれば読経の声も、消え去らんとするのであった。そして同
 行の遺族の方々の、悲しみに一杯となった表情を、見るに忍びなかった。
  何時までも去りし日の事どもを思い浮かべて立ち去り難かったのは、私一人ではなかっ
 たと思う。
  先頃出版されたアメリカのロバート・レッキーと言う人の書いた「日本軍強し」の中に
 はこんな風に書いてあった。
 「海兵たちの目の前で、日本人男女が手をつないで崖下の岩に身を投げた。父親が子供を
 刺し殺し、首をしめ、その小さい死体を海になげすてて、自分もその後を追った。
  別の岩の上には、3人の女性がすわっていた。彼女たちは髪の毛をとかしていたが、そ
 れがすむと、手をつなぎあって海の中に入っていった。・・・・・」
  ここに書かれたその岩の上に立って、涙を流さない者があろうか。
  何事もなかった様に、今も波濤は打ち寄せているが、これが歴史と云うものであろう。
 20年前の悲劇が、此の場所でなかったとしたならば、この断崖を見下ろす草原は、一
 幅の絵の如き麗しき南国の風光であった。
  余りにも悲しい投身自殺、バンザイを叫び続けた人々を、忘れない為か、アメリカ人に
 よってバンザイ・クリフと名付けられ、今もサイパン島の地図には、英語でそのまま記さ
 れているのである。

 
 (5)マッピ岬 ---------------------------------------------------- 22
  南北に細長いサイパン島の北部一帯をマッピ岬というのが本当らしい。最北端のバンザ
 イ・クリフを含めた広い地域であるが、其所から又、バスで小道を十分も登ると、正に文
 字通り、二百数10メートルの断崖絶壁の上に出る。
  正確にはシーサイド、クリフと地図に書いてあるが、之も幾多の犠牲者を出した所なの
 であった。米軍によって鉄柵の設けられた先端からは、バンザイ・クリフを含むバルデル
 平原を見渡すことが出来た。
  眼下には、緑一色の平原が横たわり、その中には、最後の力を出し合って作ったと伝え
 られる飛行場らしき跡も見られた。日本の軍用機の残骸も、一機だけ残されていた。
  いよいよ勝利の見込みも無くなった時、あの将軍ホラアナでは、将兵達は、或は切腹し
 或はピストル自殺した。絶対絶命の境地に立った一般在留邦人は、バンザイ・クリフより
 海に身を投じ、この二百メートルの頂上から身を翻がえして密林の中に飛び込んだ。
  我々一行が、この頂上に立って、静かに合掌し、読経した時、感極まった遺族の方たち
 は、思わず涙を流し、慟哭し、何時までも立ち去り得なかった。
  終戦の後、この平原一帯は、将兵や一般人の死体で一杯であった・・・・と案内のベナ
 ベンテ氏も当時を思い出して話してくれるのだった。
  そして、今も尚、この断崖の中腹には、収容し得なかった人々の遺骨が、恐らくまだ残
 っているだろうと付け加えた。
  今はジャングルと化したこの中腹には、とても分け入ることは不可能だった。

 (6)防空壕の跡 -------------------------------------------------- 22
  防空壕は、全島到る所にあって、その数ははかり知れないと云う。然し、実際にはジャ
 ングルの中にある為、発見し難い所も多いらしい。我々は、案内のゲレロ氏、ベナベンテ
 氏によって数ヶ所の防空壕へ行くことが出来た。
 
  最初の防空壕へ入った時、思わず声をつまらせたのは、私一人ではなかった。用意して
 行った懐中電灯に映し出されたのは、話しには聞き、予想はしていたものの、全くこの世
 の地獄・・・・と言ってもよい有様であった。
  散乱した遺骨、うっかりすると足で踏みつけそうになる遺品の数々、暗闇の中は、唯我
 々が歩く音・・・・遺骨を集めるカタコトという音・・・・・この世の姿とは思えぬ悲惨
 な光景であったが、やっと落ち着いた頃、持参したローソクに灯を点じ、線香をあげて読
 経した。
  飲料水が無くて苦しかった事だろう・・・・内地から持参の水も供えた。
  さぞ食料に不自由だったでしょう・・・・と御菓子や数々の食物もお供えし、花を添え
 てお供養したんのであったが・・・・・。
  泣き止まぬ遺族の方々も、やっと気を取り戻して、少しでも散乱した遺骨を整理し様と
 懸命であった。この遺骨を、全部持って帰って、内地で納骨したい。それがこの場に居た
 我々総ての願いであったが、到底これのみは許されることでは無かった。
  こうした遺骨の残された防空壕は、此処ばかりではなかった。極楽谷と呼んで居た所は
 ジャングルの谷間だった。
  バスを降り、点々と建っているチャモロ族の部落を過ぎると次第に傾斜も激しくなって
 いる。道端には、赤さびた旧日本軍の運搬車らしいものがあった。弾薬を運んだらしい車
 もあった。現地人がうまく改造して利用して居るが、明らかにそれと知れる。
  パインアップル畑を通って谷を降りた。ベナベンテ氏の先導で一寸脇道・・・と言って
 も道など何もない・・・・にそれる。「この辺にも随分ありますよ」・・・と言われたが、
 始めは何所にあるか判らなかった。ところがその斜面一帯に、点々と散らばっていた。
 丁度枯木がその辺に落ちている様に・・・・・・。
  一度谷間へ降りると小川が流れていた。一日とて休む時もなく流れるこの水流、きっと
 この水がどれ程将兵や邦人たちの力の源泉となったであろうかと遠き日の事を想った。
  時々ブスッと地面に突き立った爆弾が残って居たが、之には手をふれずにに更に急斜面
 のジャングルを昇った。
  防空壕といっても巨大な岩窟であって、戦争末期に、一般邦人が集結した所らしい。
  恐らく、薬品もなく、弾薬もなしに、最後を遂げたであろう人々。やはり此処も、それ
 らの人々の遺骨が転がっていた・・・・・と表現しても間違いではない。
 
  遺骨は無言で横たわっていたが、余りにも悲しい、無惨な現実の姿に涙なしに立ち去る
 事が出来なかった。
 (7)遺品の数々 ---------------------------------------------------24
  臨時の野戦病院となった防空壕からは、20年後の今日まで、この日の来るのを待って
 いたかの様に、注射器も出て来た。それも使用中に砲撃でも受けたのか、薬品が半分入っ
 たままで残っていた。土の中から出て来たアンプルは、まだそのままであった。緊迫した
 事態は、最後のアンプルを切る時間さえ無かったのか、それ共、注射器の針も欠乏したの
 だろうか。
  司令部跡は整理されて何も無かったが、他の防空壕や谷間には、数知れぬ遺品が残され
 ていた。
  無電機もあちこちに残っていた。「我等の屍を以って、太平洋の防波堤を築かんと欲す」
 有名な最後の内地への連絡も、或はこの無電機だったかも知れぬ。
  哀れなのは非戦闘員の残した遺品の数々であった。小さな子供の靴も見つかった。ボロ
 ボロになった婦人服の一部も、土に埋もれていたのが発見された。
  何の罪もない在留邦人までも、本土防衛の礎として、この防空壕の中で最後を遂げたの
 だと思うと、戦争の悲惨さを再認識し、戦争なき世界、平和な世界を願わざるを得なかっ
 た。
  その他にも、防毒マスクの破片、ナベ、その他の食器を始めとして、最後の苦戦を物語
 る遺品の数々を見て、胸せまる思いをしたのであったが、滞在日数に制限され、時間が無
 くて一部より調査出来なかったのは、誠に残念であった。
 (8)慰霊祭 --------------------------------------------------------24
 
  サイパン滞在4日間、その終りの日に日本人墓地に於いて、慰霊祭を行なった。チャラ
 ンカノアの町はずれ、椰子の木や南国らしい樹々に囲まれた日本人墓地に、内地より持参
 した塔婆を建て、同じく持参した花や、御菓子、日本酒その他多数の品を供え、南国の花
 で造った花輪を供え、在留邦人、現地の人々、その他多数参列のうちに法要を勤めた。
  読経を始めると、はるばる日本よりこの慰霊団に参加した遺族の方々も、涙を新たにし
 てハンカチを目にあて、戦前よりサイパンに在留していた婦人は、人目もはばからず声を
 上げて泣き叫ばれたが、忘れ得ぬ感動であった。
  持参の品も限られたものであり、仏前の荘厳も、ささやかなものであったが、納骨すべ
 き堂もなきこのサイパン島で、心からなる追弔の法要を勤めた我々は、今回の目的の一つ
 を果し得た事に感激すると同時に、まだ島内各所に放置された遺骨が、心安らかに眠れる
 安住の地を何としてでも作らねばならないと、心に決めて式場を後にした。

 《見聞録》
 
 ソヴィエトにおける常識的できごと ------------------ 大(口面)晴子(洛4)25
 
  あわただしい旅の見聞録を書くことになった。だが二ヶ月や三ヶ月の滞在では、現実の
 正しい認識はできないから、何も書けないか、又はプライバシーを少しばかり放棄するこ
 とによって、告白的体験なるものを展開するのがせきのやまであろう。堀田善衛ばりの思
 考旅行の段階には、まだまだ至っていないのである。
  どれがいいかなと思っているうちに、それでもこれだけは書きとめておこうと、心に思
 いあたるものがあったので、そのうちの一つ、二つを述べることにした。これはモスコー
 での出来事である。
  私はアレキサンドリア大学(U・A・R)の夏期国際セミナーの聴講生にもぐりこむ事
 ができ、経済的及び時間的な理由で単身ソ連経由のエジプト行きを認められた。最終試験
 (面接)の時、文化アタシェに、どうしてもそれを許してもらわないと私は参加できない
 であろうと、体当たりの請願をした。彼は率直で勇気があると、却ってこちらの猛虎ぶり
 を理解してくれた。貧乏と無知は強いものであるという認識を新たにしたのであった。
  ソ連のヴィザがおりたのは出発の前々日、8月5日(64年)であった。噂に聞く程手
 間はかからなかった。有名な狸穴という所でそれをもらった。
  しかしまだ二つの関所が残っている。ポーランドと東独である。ヨーロッパに出るのに
 私はモスコーから汽車を使うから、どうしても両国のヴィザが要る。しかし前者は大使が
 夏休みで海に行ってしまった。後者は言わずもがな、特別のケースでない限り10日や2
 0日ではもらえないのである。私はぎょっとした。ヴィザがない。すぐソ連通の代理店で
 いいことを聞くと、なんのことはない、ポーランドはもちろん、バスポートに「通過国許
 可」が入っていない東独も、モスコーでとれるという。そこで持ち越しの仕事が増えたが、
 ともかくも8月7日、私は予定通り船に乗った。ソ連船オルジョ二キーゼ号は、横浜から
 ナホトカまで約52時間の航海を続ける。後は鉄道、飛行機と乗り継いで、約80時間の
 旅から解放されて、10日の午後9時半頃(現地時間)、モスコーの空港に着く。2時間
 半ばかり後の深夜12時過ぎ、田舎の私営バスみたいな空港バスが客を迎えにきた。これ
 で遠来の客をホテルに運ぶのである。待ちぼうけをくわされていた10人ばかりの日本人
 達が全員ゴスツィン二ツァ、レニングラードスカヤ(ホテル・レニングラード)に投げ込
 れるということを、ようやく知ったのである。
  2時間半余、と言うとすぐすんでしまう時間のように聞える。しかし待つ間は長い、お
 まけにどこへつれて行かれるのか誰も知らないのである。言葉は通じない、いらいらしな
 がら、おお東京は今何時頃だ、明日の今頃はどこそこにいる。などとめいめいが口ばしり
 ながら、頼りなさを現さないようにして、インツーリスト(国営の交通公社のようなもの)
 女史の出現を待った。同胞が10人近くいるのであるから気もまぎれるが、これが一人だ
 ったらどうなるか。
  食堂車やレストランで30分、40分のおあずけをくうのは序の口である。今我々は荷
 物とも切り離され、ホテルもわからず、誰として信頼すべき旅客関係者もない。従ってグ
 チの捨て場さえ知らぬまま、不安な数時間を、がらんとした待合室に放任された。「郷に
 入ったら郷に従いなさい」「いつかそのうち何とかなるんだから度胸を据えてまあゆっく
 りタバコでも吸いましょう」と、私のヒステリー症状をなだめんと努めてくれる人もいた。
 西も東もわからぬ娘っ子一人が、初めて母国の島を離れて大陸の土を踏んだ時、まさにこ
 ういうソヴィエトの常識に出くわしたのである、考えてみれば子供じみた情景である。
  しかし、着陸するや否やこの不気味な接待にあずかったのであるから、いささか喫驚し
 た。大国であるが故に、末端までは手が届きかねるのであろう。いずこもお役人気質は同
 じとみえる。
 ”ゴスツィン二ツァ”に着いたところで、部屋もわりあてられていない。大福帳を前にま
 たひと悶着あった。一時間もさわいでいたろうか、最低料金としてお一人さま20ドル也
 をあっさり払わされてきたからには、二人一緒の部屋には入れられたくない。私は「二ェ
 ツト」(ノー)を通してシングルを確保した。いいかげんで平静を得たかったのである。
  やっさ、もっさのあげく9階の一人部屋に落ち着くことができたのは、2時過ぎであっ
 た。鍵をかけてまわれ右をした時、自分の姿が大鏡に映った。打ち明ければ、その時私は
 鏡中の自分の姿にとりすがって大声で泣いた等身大の鏡は、洋服箪笥の戸であった。あん
 なに号泣をしたのは、旅行中のあの一夜だけであったろうと思う。それは一種のカタルシ
 スであるから自らを救助することになった。帰国後、莫大な借金とこの夜の話を臆面もな
 くある筋にしたら、それも才能だと慰めのような返事をちょうだいした。これは駄弁であ
 るが、モスコーの一挿話としてここに記した。
  翌日、ロンドン及びパリ行き国際列車―18時15分発―の時間迄残された数時間は、
 「戦闘」の為にすっかり使われねばならなかった。例のポーランドと東独である。東独の
 領事部はスタニスウフスキィ街20番地にあるのだが、タクシーは簡単にそこを見つける
 ことができなかった。昼休みも中に入って結局ヴィザを得たのは2時であった。
  外国で一日に二つのヴィザをとるという芸当がどんなに困難且つ愚かな事であるかを、
 その時痛く味わされた。「ポーランド」にさんざんの思いでたどり着いた時、領事部は閉
 ったところであった。私は呆然とした。アジア人らしい男女が、おもいおもいの言語でさ
 わいでいた。そして受け付けと同じように「あした、あした」と、私を説得した。そのう
 ちの一人が、私の個人的事情に耳をかしてくれることがなかったら、私はモスコーのホテ
 ル代の為にもう20ドルを払出さなければならず、またアムステルダム行きも断念しなけ
 ればならなかったであろう。彼はモスコー大学に在学中のインドネシアの留学生であった。
 今夜、何が起っても私はモスコーを発たねばならない。予定を変更するわけにはどうして
 もいかないのである。寝台番号しかじか等と詳細にわたって緊急事態に陥らんとしている
 寸前の情況を彼に説明した。
  彼は直ちにインツーリストの本部に電話をかけて何事かうちあわせた。次に急いで私を
 その本部に連行した。私は彼に伴われて、汗ふく間もなくタクシーで、あちこちとび歩い
 た。インツーリストでは、部所のご夫人が私の切符を片手に、ポルケキイ・・・スパスィ
 ーパ・・・・と言って手短かに電話をかける。何かあるらしい。
  やがて私は、4時頃再びあの忌わしいポーランドの領事館に戻っていたのである。とい
 うことは、今直ちにヴィザがもらえる、即ち今夜筋書き通り出発できる。という事なので
 ある。朝からの奮闘の疲れがいっときに出て急に空腹と暑気が襲ってきた。私は花の咲い
 たかなり広い庭を横切って、建物の奥深くへ彼に伴われて行った。
  確かにPolskie----なる一連の文字とサインとがここでパスポートの一頁に書き加えら
 れたのであった。これだけのものを得るのに大切なモスコーの一日がフイになってしまっ
 たのである。とにかく今、それは私のものになった。彼への感謝の言葉も見つからず、ひ
 たすら私は、あなたのご好意はとても忘れられるものではない、といった意味のことをく
 り返していった。今私はこの原稿を、卒業して故国に帰ったであろうインドネシァの一青
 年に贈りたいものだと思っている。
  さて、彼の誠意と友情のお蔭で、私は奇蹟的にポーランドのヴィザもとることができた。
 しかし不思議でならないのは、インツーリストの電話一本で簡単に、「あした、あした」
 以外口を開かなかったポーランドが、ヴィザをくれたという事実である。インツーリスト
 は前夜、私達を空港に2時間半以上も足留めした。その緩慢さは、日本人的神経からみれ
 ば比類のないものといえよう、ケタはずれのお役所仕事なのだ。ロシア的ものさしを使う
 事に慣れていない日本人には腰を据えて待つという処世術の意味がわからなかった。そう
 まで思われた同じインツーリストが翌日こんな機転をみせたのである。インツーリストの
 権限もこれ比類なきものと言わずばなるまい。その「圧力」によってポーランドは一般旅
 行者にヴィザを与えたのであろうか。また、一皮むけば、お役人もポーランドの外交官も
 人間であったということか。
  こういう具合いに容易に「二ェット」が「ダ」(イエス)に変るくらいの柔軟性を持ち
 あわせているなら、何もインツーリストを介して承諾しなくても、直接、申請者の言い分
 を聞けばよい、風土が限りなく広くて単調だから、人間ものんびりとしていて大まかで、
 いわゆるロシア的なのであろう。
  詳しい事のいきさつは、いまだわからないが、インツーリストなるもの、治外法権地帯
 にまでその権威が及んでいるらしい。これもソヴィエトの常識なのであろう。またその権
 威のお蔭でモスコーに於ける困難な作業は感遂し得たのであった。

 
  くらすかい -------------------------------------------- 生田 慎吾(洛14)
 「おっす!」
 ぞうりを履いてアイスキャンディーをかじっていた者が
  ステッキを持ってパイプをふかして来ても
  クラス会の挨拶はこうにきまっています
  特有のムードです。
 課長さんも部長もありません

  10年経ったらそうでしょう
  会ってごらんなさい
  紳士淑女がうようよいます
  何々家の奥さんだ! 何々家の奥さんだっているでしょう。
  笑うことなかれ!
  まだ学生がいるかもしれません 
  「失礼ですがどなたですか」
  「ああ、顔さえよければ男前だった誰々でしょう」
  「ああ、水ぶくれの誰々ですね」
  全部思い出せただけで
  もう楽しくなってしまいます。

  洛北時代が終わってかれこれ半歳
  嬉しかったこと、くやしかったこと、悲しかったこと
  もうほとんど忘れてしまいそうです
  でも思い出だけは、きっといつまでも
  残っているに違いありません
  15年 40年 もっと経っても

 
  なつかしき 津の町 ------------------------ 篠塚梅扇(昭6卒 島 一綱)
  日は東海の天高く 二見の浦に明けそめて
  千里轟く?(とう)々や 松緑の蔭に我立ちて
  健児の叫あぐる時 波にこだまの響あり

   僕が一中へ入学した最初の夏が丁度津浜遊泳30周年記念の年にあたっていたので夏に
  なると津の町がなつかしく思い出される。当時の一年生の殆んどが泳げなかったので、ま
  ず浮く事から教えられ、そして遠泳へと導かれてゆき、みんなが観海流遊泳の合格証書を
  もらって帰った。宿舎にあてられた寺町の寒松院jは藤堂家の菩提寺で広い境内には数十
  年を経た老松が茂り浜風の強く吹く日は松風の音がものすごかった。

  寒松院の星月夜 鐘の音絶えて寂莫の
  木の間の影に照らされて 寝るは誰が子か平安の
  京一中の健男子 夢路いづこをたどるらん

   30周年にちなんで阿漕浦でたてぼしがありひき潮の網に面白い程たくさんの魚がかか
  って来たのも、その時の事だった。又記念歌は多分伏木先生のお作であったと思うが、中
  学1年生にはむつかしい漢字が多くて判読しにくいので毎夜先輩の助教の方々に教えても
  らい一生懸命覚えこんだものだった。
   夕食から消灯までの間、白がすりの着物に兵児帯を胸高に結んで下駄の音をカラコロと
  あまり広くもない津の町を往来した一中生の上品な態度は津の人々も好感をもってむかえ
  られ、又僕達自身も京一中としての誇りをもって行動した。
   それから既に30年の歳月が流れて、津の町に今も残る篠塚流をたづねての帰り寒松院
  のあたりへ立寄ってみた。
   寺は戦火であとかたもなく巨大な墓碑のみが残り、かっては小蟹が静かに這っていた通
  りをトラックやバスが砂浜までの通いなれた道は、すっかり舗装されているものの曲がり
  くねった町角には何かしらの記憶があり掘割にうかんでいる朽ちた舟や小橋の流れに浮草
  の花が咲いている昔と少しも変らない景色だったが、浜へ出て見ると風致がガラリと一変
  した。
   岩田川につき出た競艇場、防波堤にかこまれた白砂の浜には伊勢湾台風でもぎとられた
  のか美しい松原の面影はなく夏にはまだ早いバンガローが色あせたままねむっていた。変
  らないのはあくまで青い海の色と波の音と、たえず視野にあらわれては消えてゆく舟の影
  とであった。
   佇んでいると遠泳の時の苦しかった事や楽しかった思い出がよみがえって来て波の音に
  にまじって先生方が舟の上から僕達を励まして下さった声がきこえて来る様で立ち去りが
  たい思いだった。

  思へばとをし三十年 伊勢の浜萩刈りそぎて
  聞きし庭に君みずや 馴れにし月日思わずや
  今日こそあげん諸共に この歓喜(よろこび)の鬨の声


 ”懐かしき恩師の名前 お覚えですか?” -------------------------------- 30
 ☆ アダナ……つけられた事もあり、つけた事もある。その中でも先生のアダナは、
 ☆ 一度つけたが最後、学校中に広まり、後輩に語りつがれ、一中時代のアダナが今も
 ☆ 洛北で生きている。
 ☆ 先生の名前は忘れてもアダナだけが記憶の中に残っていることもしばしばある。そ
 ☆ こで御登場願う先生には申し訳ないんですが、恩師を思い出して頂くためにここ
 ☆ に一中から洛北迄、先輩、後輩の話の中から集めたものを集録しました。
 ☆ 記憶違い等もありますが、もし御気に障りましたらお許しを……僕にはこんなアダ
 ☆ ナもあるんだと云う時には是非お知らせ下さい。


 相沢 一郎  ……… ヘチャ
 浅田 喜代子 ……… マッタケ
 荒木 益次郎 ……… ウドン
 荒木   亨 ……… ソバ
 青木 一郎  ……… デメキン・アオタン・オフロ・ツリガネ・ショウギ
 赤鉾 林太郎 ……… 蒲鉾
 泉  保夫  ……… マンボ
 池田 正孝  ……… デカマ
 家村 清一  ……… デコスイ
 今井 敏夫  ……… ラッキョ
 岩森 弥助  ……… デンデン
 内海 幸悦  ……… ガム チューインガム
 大沢 清治  ……… カブール
 小川 芳太郎 ……… チクワ
 岡田 幸一  ……… コーチン
 大島 武子  ……… オリーブ
 勝部 謙造  ……… ラッキョ
 金井 千仭  ……… ホロホロ
 金田  董  ……… ボウズ
 木村 高満  ……… コウマン
 木村 英一  ……… キンタマ
 清岡 猛虎  ……… チュートン
 黒本  植  ……… わくどう
 小泉 五郎  ……… ゴロウハン
 小泉 喜代子 ……… ダイコン
 木平 孝男  ……… モッペ
 小宅 歓一  ……… スケカン
 桜井 矩久三郎……… ケー
 島田 熊三郎 ……… 仁丹
 下田 敏男  ……… 敏チャン 赤いネクタイ
 塩尻 安吉  ……… エンケツ
 澄田 道直  ……… オシシ
 竹内 鉄二  ……… チクナイ
 田中 重久  ……… チョーチン
 武田 丑之助 ……… ウシヤン
 竹中 馬吉  ……… タケウマ
 田中 哲之助 ……… ゾウ
 武智 雅一  ……… ブチ
 丹後 昌三  ……… アカタン
 谷岡 安三郎 ……… おとっつあん
 武谷 琢美  ……… カニ、磁場
 高木 春夫  ……… アカフン
 千原 弥三郎 ……… ペシャンコ
 辻 赳夫   ……… オ花
 友岡  迪  ……… 七面鳥
 外村 寿美子 ……… ガスタン
 中島日岳(義一)…… 素寒貧
 中川兼治郎  ……… ダルマ
 中井 寛吉  ……… カンコウ
 新堀  順  ……… ボリサン
 箕田 正武  ……… 消防自動車
 秦 乾太郎  ……… ハタカン
 林  清一  ……… リンセイ
 福井 貞明  ……… 象
 堀 俊雄   ……… ボコ カマボコ
 真坂 忠之  ……… マッサカサマ
 松尾 喜久  ……… 男トンボ
 松本 勲夫  ……… クマ
 三谷 友三郎 ……… 鬼婆
 村高  懐  ……… ユカチャン
 森田 宣道  ……… ドンキー
 山根 好国  ……… ヤマネコ
 山本 安之助 ……… オゴタイ、ハゲヤス、ケンカヤス
 安江 孝治  ……… 丹保屋、タンポ
 山本 正一郎 ……… 兄貴
 山本  実  ……… ニヤマ
 山崎 利子  ……… オバチャン
 山本 郁夫  ……… イクサン
 山内 群雄  ……… ガタバス
 吉江 久弥  ……… 朝鮮ブタ
 吉原 好人  ……… オイラン
 渡辺 勝之助 ……… カバ
 友繁 三二  ……… サンチャン
 辻  貞子  ……… ケミカルバアサン
 小川  勲  ……… ヤカン

 一中動物園数え歌 -------------------------------------------- 31
 一つ ひげ武者山賊先生 お山育ちは だんぜん垢だらけ
    一中の教師ますます盛んに
 二つ 吹けばとぶ素寒貧先生 早稲田文士は 吹けばとぶ自由主義
    早稲田文士は
 三つ 三谷の鬼婆先生 予定許りで 三谷の鬼渉らぬ
    予定許りで
 四つ よしてよ敏ちゃん先生 赤いネクタイ
    よしてよ 困ります 赤いネクタイ
 五つ いやだよ山猫先生 いやな面して
    いやだよ睨みます いやな面して
 六つ 無理だよ うす河馬先生 軍隊と中学校は
    無理だよ違います 軍隊と中学校は
 七つ 何でも精しい牛ヤン先生 卵の数まで
    何でも数えあげる 卵の数まで
  以上は記憶のままを記しましたが、10番まであった様です。間違いがあれば、
 お知らせ下さい。 K・M生

 松島君と私 ------------------------------- 木村 源四郎(大正7年) 32
  松島重信君は綽名を「ドン」と云った。「呑」ともとれるし「鈍」ともとれる。粘り
 強いところがあり、往年神戸高商時代にはマラソンで優勝したこともあった。物事に拘
 泥する所がなく、清濁併せ呑むと云うところもあったので「呑」ともとれるし、晩年俳
 号を「呑舟」と称した事もあった。又一寸愚鈍とも思えるときもあった。仲々良い着想
 をし、良い頭を持っていたが、咄嗟のヒラメキを欠いているので鈍とも思えることもあ
 る。要するに「呑」でもあり「鈍」でもあったのであろう。
  京都一中のクラスは3年から成績順で甲乙丙に分れ一組は40名前後であった其の頃
 から松島君も私も共に甲組に属していたので縁が生まれたのであろう。体操、柔道等で
 は今でも記憶に残る異がある。
  松島君は背の高い右翼の方に並んでおり、私は背の低い左端に衣川君、殿村君、山崎
 君と前後していた。鉄棒や馬飛等の機械体操の時間は右翼側の助手と云うか模範に引き
 出されるのは岡本主将か松島君、左翼の小人組の助手はいつも私であった。或る軍事教
 練の時間に三八銃で武装した一小隊が校庭で整列した時、日露歴戦の下士官が突然「二
 百米前方から敵が猛烈な射撃を開始した。各自は各自の処置をとれ」とどなった。私は
 直ちに「散開伏せ」とどなって自ら伏せの姿勢に移って前方をにらみつけた。そして、
 おもむろに周囲を見渡すと、皆バタバタと伏せに移っていたが、独り松島君はボンヤリ
 立ったままで漸くオモムロに行動に移ろうとする時、下士官先生の「それまで」の声が
 かかって、講評となった。曰く「俺は満州の戦場で幾度かこんな目にあったが、鉄砲だ
 まなどは仲々当るものでないおもむろに周囲の状況を見極めて行動に移るべきである」
 と云った。お蔭で下士官先生は昇進はしなかったが身体には何の傷もなかったらしい。
 松島君の性質と一生はこの寓話が表徴しているのではあるまいかと思うことがある。
  松島君は身体は細作りであったが仲々柔道は強く選手のはしくれをやった。先生は武
 専の磯貝八段で小柄だが渾身の力で絞めても「マダマダ」と云うだけで手離しである。
 絞めている松島君の顔が赤くなって来た事や他校試合はいつも負け相で、必ず引き分け
 を取る事などが記憶に残っている。彼のマラソンと共に何処かネバリ強いところがある
 一端の現われであろう。私は3年生の時から富小路竹屋町の叔母の家から学校に通う事
 になり、松島君も矢張り丸太町堺町の叔母の家から通っていて、丁度登校の道筋であっ
 たのでいつも彼を誘うことが習慣になっていた。それから御所を抜け第一高女の横を通
 り荒神橋を渡って京都織物工場の横側の道をまっすぐに東上して学校に上るのがお成道
 であった。 
  毎度私が玄関の上がり口に待たされるのを彼の叔母は大変気にかけていたらしく大き
 な声で早く早くと叱っていたのを記憶するが、本人は一向平気らしかった。それから学
 校までには20分位かかったろうが、どんな話をし、どんな思想をお互いに交換してい
 たか今は何の記憶もない。京一中は当時全国有名の秀才校の一つで其の頃から仲間で編
 集していた雑誌「級友」5冊の大部のものを後年通読した時には哲学、理学、社会学の
 泰斗の書いたものかと思わせるものがあったが、松島君も私も余り寄稿していない。思
 想的には彼も私も何れも晩成で平凡な生徒であったものと思う。
  120人程の卒業生の内6割は高等学校の受験をめざし、40数名がパスする習いで
 あった。当時は高等学校は全国に8つしかなく、東京の一高、仙台の二高、京都の三高
 と番号を以って呼ばれ又其の試験は同問題で一斉に八高校で行われ、何処で受験しても
 成績と志望の順で割り当てられた制度の時であり、3月に中学校を卒業して受験は7月
 初旬で其の間4ヶ月が受験準備であった。松島君はもともと高等学校を受験して医者に
 なる積もりであったが、7月までが待ち遠しかったものか人に誘われて其の中間にあっ
 た神戸の高等商業学校を受験した。当時高等学校の入学率は私の受けた独法は14人に
 1人であったそうだが神戸高商は実に20人だかに1人の割りの入学率と称せられてい
 た。松島君は一寸本番の為に試して見ようと云う気持で受験したらしい。本人はチョッ
 カイの積りであったが、合格が学校に知れて谷本先生に呼び出され「毎年神戸高商に良
 い成績の奴が受験しないので何時も不成績で、学校の名誉に関すると思っていたが、君
 が合格したのなら是非学校の為めに高等学校を断念して神戸高商にしろ」と厳命されて
 遂に高等学校の受験をしなかった。

 愛の母子像 --------------------------- 新制作協会 山本 恪二(昭和9)作 33
 
  家庭に愛と光を・・・・・・の願いを込めた母子像が、下鴨の京都家庭裁判所の玄関
 にデビューした。これは昨年来、同家庭裁判所設立15周年記念事業として、家裁職員
 及び調停委員240名が、ポケットマネーをさいて計画して完成されたものです。
  作者は昭和9年卒の京都市立美大助教授の山本恪二氏で、先年フランスにも留学し、
 新制作協会会員として活躍されています。
  像は写真の様に、ギリシャ彫刻の味を取り入れたブロンズ等身像です。下鴨葵橋東に
 あって、市バス、市電からもよく見える所にあります。

 デザイン雑感
 いすず”べレット”のデザインについて ------------- 井ノ口 誼(よしみ)(洛1回) 34
 編集室より
  「べレットのデザインについて」
 
  との御要望だが、私のこの様な専門の仕事をはじめる以前の中学、高校時代にふれて
 おきたい。又、べレットについては幾度か関係雑誌に記した為重複をさけたいと思う。
  昭和24、5年頃、新制中学への切換えや新制高校の設置、地域制等の変転期で、旧
 制中学の最終回生から洛北高校の先輩を持たぬ第1回生となった。優秀なクラスメート
 後輩も多かったが殊に、美術教育(油絵、日本画、工作、書道)については既に中学の
 の時から良き先生方に恵まれ自分ながらに歩む道を把握し、自覚しつつあった事は幸せ
 であった。火災後の京都駅ビルの外、形、安定のよいインク瓶、図案文字、ソフトぼー
 ルの手造り等の美術実習の課題を通して当時の言葉では生活美術、応用美術と呼ばれる
 内容をクロッキー、木炭デッサン、油絵と並行して勉強できたことを強い印象とともに
 思い起す。
 
  親しい友人3、4人で4気筒会と称する自動車好きのグループがあったのもその当時
 で彼等程自動車の専門知識がなかった私はそのグループには入らなかったが、スクータ
 ーやサルーン、バスのスタイルを自分なりのイメージで彩色描写していたのは石膏デツ
 サンや、油絵とは異なる興味をそそられていたと言える。高校での美術部の動きはむし
 ろ絵画が主体であった。部室で相撲をとって石膏像を割ってしまったりヴィーナスのお
 へそに誰かが孔をあけてしまったり、デッサンを了えた後の暗くなった中に白い石膏像
 の群立する沈黙に何となく神秘を感じたりもした。
  年一度の文化祭の準備で、校門のアーチ造りや、ポスター描きに校内で徹夜作業する
 のも又楽しい気持で部員一同和気あいあいの中に進行していた。その頃私の中には、ひ
 と頃の応用美術のことは影をひそめていたようだが、もはやデザインが洋裁ファッショ
 ンのことだけではない意味に理解されつつあった時期に芸大入試を直前にひかえインダ
 ストリアルデザイン(以下I・D)を目標にその道を撰んだのである。
  現在自動車メーカー内にI・Dを行いつつ自動車にほれ込み、ひたりきった自分では
 なく非常に興味深い好きなものの一つとして自動車に相対している自分を見い出す。I
 ・Dデザイナーにとっては将来への人間生活の空間、環境の機器が対象であって、自動
 車と他の機器との相対的なデザインコントロールも重要な内容を持つものである。
  べレットの企画に関する大綱が決定されたのは昭和35年2月でI・Dは5月頃から
 始め10月末ボディ基本断面線図を描き了え、昭和36年12月末、1/1モックアッ
 プによって細部にわたるデザインの確認を了えた。
  当時の私の基本的な構想を抜粋すると「著しく発展しつつある都市と道路、そしてま
 たマスコミュニケーションの中にあって、自動車は他のトランスポテーションにない魅
 力を持っているといえよう。それは他のマストランスポテーションのごとく、単に人間
 が運ばれる身ではなく、自ら操縦することによって生活空間を思うままにひろげ得るこ
 とにある。小型乗用車の性格は特にこの内容を掘り下げて研究し、必要十分条件のもと
 に凝縮させることによって明確になってくるものと思われる。この思想のもとに生産性
 のよい、扱いやすい親しみのあるファミリーサルーンとして、いすゞ独自の車格を生み
 出すべくデザインを進めた――小型乗用車として姿にあらわれる魅力とはどのようなも
 のであろうかということと、スケールとスペース、それを構成する材質、これらを形づ
 くる生産性への積極的な参画が意図であった。
  よくLower.Longerが車の形をきめるただ一つの定規のようにいわれるが「べレット
 の場合、要求される性能、使用性、生産性等の諸条件から生れてくる各要素を、規定さ
 れた大きさの中にどのようなバランスを持たせるかがデザインの方向をきめる前提であ
 ったから、車として地面に対する執着――ロードホールディング、走行安定性――を表
 現するための水平方向のテンションによる造形が、将来へのボディシェルの一つの方向
 を示すものと相察しべレットのテーマとした」
  とかくデザインというと美しい描写を行い、楽しい色を彩し、好きな線を用い・・・
 と考えられ勝ちであるが、それだけではI・D本質とは相当の開きがある。造形家とし
 ての自己主張のみの形は絵画彫刻の範疇に入ってくる。
  又自己主張のない、エスプリを感じさせない形はその表現を持たない。形に言葉がな
 くなる。あなたが湯のみを買う時、視覚的に自分に訴える魅力、手ざわりのよさ、飲み
 易さ洗い易い形、手頃な値段――即ち美しさ、使い勝手、価値相応の価格、使用環境の
 調和など検討されるに違いない。機器夫々の目的にかなったたたずまいをそなえ人間を
 満足させてくれる必要がある。
  自動車の場合、自分の使う目的とそれにふさわしい価値判断にもとづいて走らせてい
 るオーナーは何%くらいだろうか。常時の走行距離と乗車人員とスペース、道路状態や
 自分の操縦能力等総合価値を認める前に、その車に関する一般的な風評が自分の判断基
 準の大半を占めていたり、単なる財産的価値としての所有欲を満たしていたりする場合
 が案外多いようである。モータリゼイションの進歩しているフランス、イタリア、イギ
 リス等の国々では、用即美の自動車として欠かせぬ生活の器として自分に合致するアッ
 ピールを持つものを実に無駄なく端知らせている。勿論ゆとりのある人は一台ですべて
 を満足させることをせず、郊外へのドライブと市街地への走行とはその目的にかなう車
 を別に撰んでいる。
  国民所得の差と言えばそれまでだが、それにしても一般的に日本人の車の使い方は何
 処か内容的にポイントがずれているようである。国内市場に於いて、必要以上の装備を
 望むユーザーや先駆需要のユーザーの為に、我々自動車を設計する側にある人種は日夜
 これらの矛盾に悩まされる。一方アメリカでは工場のコンベアラインの如く整然と車の
 量、スピードがハイウェイに詰め込まれる。支線からハイウェイに入る時、その車がど
 のような走行特性をもつ性能のものであっても、とにかくそのハイウェイの流れに瞬時
 に同調出来て走行しなければならない。
 
  同じハイウェイでもヨーロッパの場合一台一台の車は夫々の走行特性によって走れる
 ように見受けられた。I・Dは常にこれら複雑な外的諸条件と車自体の構成要素として
 の諸条件、或は又ユーザー夫々の趣向性に囲まれてデザインを行うのであるが、勿論社
 内的事情に起因してデザインが思うように進まないことも当然起きてくる。
  これらのバランスがどのまとめに既結するかでデザインの成否がきまる。つまり、あ
 らゆる調味料を駆使しておいしいものを料理しなければならないし、塩とこしょうでは
 甘いものはつくれない。
  上手な料理は材料の扱いがうまく、新鮮な素材は調味料で味つけするよりはそのもの
 ずばりの味わいが豊かなようである。
 
  べレットのプロセスでは当時の設計技術関係部門内の動向をみて、レンダリングスケ
 ッチによるスタイリングの方針決定後直ちに扱い易い1/5線図により造形を進めた。
  これはエンジニアサイドのボディ構造上の計画図と並行出来て、各断面を重量軽減、
 ボディ剛性向上、量産性への配慮等の吟味を造形的に行えることがねらいであった。
  このプロセス中には、造形的には良い結論が出ても生産条件の為に譲歩せざるを得な
 いことも起きてくる。ボディ重量に単位面積あたり最もウェイトを占めるのはガラスで
 殊にフロントとバックのガラスはコスト面でも規格寸法内に展開図が収まる場合は割安
 であるが規格ランクのサイズアップは形の大小にかぎらず高くなってしまう為、造形上
 の意図通りにサイドヴューでのプロポーションをコントロール出来なかった。
 
  形の確認の為に1/5クレイモデルをつくったがイメージは実車の姿で頭の中に把握
 しており、むしろ早く1/1線図を描き1/1モックアップ完成によるデザインの確認
 を意図していた。べレットのインテリアはオーナーが主であり内装備はソフトに仕上げ
 高速トルクをあまり犠牲にせず低速トルクを向上させたフラットトルクエンジンのすぐ
 れたフレキシビリティと全輪独立懸架と相まってハンドルをにぎっての操縦性のたのし
 さ、自分の身体を融合して走行してくれるオーダーメイドの感じがねらいであった。
  運輸省の定めている自動車に関する諸々の法規の中でも車巾寸法の規定やホイール・
 ベースの規格程、自動車設計のさまたげになっているものはない。その当時の小型タク
 シー制限の車巾が1500mm内であって、この寸法は当然プロポーションをこわすば
 かりか居住性を無視している。
  自動車工学を進歩させ日本の自動車産業を向上させ、ひいてはユーザーにとって有益
 な法規はむしろ、サイズに対する重量制限とか、外形サイズに対するインテリアスペー
 スの比例値とか、重量に対する課税方法等であると思う。
  ユニタリティコンストラクションボディでは特に、ボディシェルの示す形と設計、生
 産技術面の考察が自ずと表裏一体となるもので、I・Dとしてむしろその必然性にこそ
 デザインの価値を認めこれらを弁証法的な展開の中に昇華させ、それを感覚として造形
 することを意図とした。
  ただ造形意図からみれば、既に述べた通りガラスのコスト別規格サイズの制限がなけ
 れば傾斜角度を撰べたであろうし、又概念的な車のプロポーションを捨て、全長を押さ
 えたままリアーオーバーハングを短くしたホイールベースを延ばしていれば回転半径は
 大きくなる傾向ではあるが、サイドヴューに於けるプロポーションはもっと洗練出来る
 と同時に更に走行安定性の向上と居住性の向上を確保出来たと思う。
 
  一般的に将来の自動車の傾向は、より小さいサイズの中に大きいインテリアスペース
 を確保させたい。
  その為にはホイールをボディの四隅にひろげ、駆動関係は出来るだけ小さな高性能の
 ユニットに収めることにより新しいプロポーションのデザインが可能と考えている。一
 方車に限らずデザインの向上――生活環境の向上は一人一人の自覚にある。
 8月初旬東京に於いて開かれた国際美術教育者会議の中の一討論会で、美的創造力と美
 的価値判断力或は又、デザインする力とデザインされたものの分析力の相対的な重要性
 を顧みず、絵の描けない学生はセンスが悪く、絵の描ける学生はデザインも出来るかの
 如く錯覚に陥る考えをしている教育者があった。
  専門家は創造する力と価値判断、分析の能力を兼ねそなえる必要があるが、少くとも
 現代、又将来に対しても、一般的には美的価値判断力、分析力がすぐれることが大切で
 あると考える。本当によいデザインが造られ、使われるためにも――。
  例えば、ボディパネルには半田盛りしての仕上げを必要としない形の処理であること
 とか造形上の断面がプレスし易くしかも断面剛性の高いものであることや、ボディアウ
 ターパネル枚数の減少をねらうことなどの制限として内容を構成要素として考えた。
  いすず自動車(株)設計第2部工業デザイン課係長代理

 母校に体育館新築
  兼ねてより計画されていた新体育館も、いよいよ着工される事となった。従来の体育
 館は建築以来30数年、現在の生徒数より充分なものでなく、新体育館建設は年来の希
 望であったが、漸く本年度の予算も直り、近く着工する事となった。
  場所は、校庭の西北に位置し、東西26メートル、南北39メートルあり、府下高校
 中での最大のもの、来春には竣工の予定である。

 五月雨西征記 ------------------------------------ 後藤 美彦(大正7年卒)39
  これは今から半世紀前の大正6年5月上旬、5年生の修学旅行に九州方面へ行った時
 の旅行記の抜き書きであります。

 一、序

  必ずしも驚きが旅の目的ではない。然し、人生の旅は驚きによって豊かにされるのは
 確かだ。未知に対する好奇、驚きそのものが、やがて私達の生活を豊富にして呉れる。
  かくして人々は旅を好む。人生の旅に、小さな社会の旅に、そぞろ歩きつつ、そぞろ
 感じつ、あるがままに旅ゆくことに自らを慰められながら・・・・・。旅というものは
 良いものだ、たとえそれがどんなにささやかな旅であってもいろいろの思い出が一極に
 残る。そうしてその思い出は之から先永久に機会がある毎にフト、恰も砂中の宝玉のよ
 うに美しく輝き出すことだろう。
  行く川の流れは絶えずして而も元の水にあらず、淀みに浮かぶうたかたは且つ消え且
 つ結びて暫くも止まることなし。げに、幾月の移り変わりこそ水の流れにぞ似たる。桃
 季、花すでに飛んで新緑まさに肥ゆるの候、昨日東に遊びて江戸に横須賀に鎌倉江ノ島
 に小田原箱根にいたく知識を富ませし我等は、今また西に向かって何をか得んとぞする。

 二、出 航

  午後2時乗船。舷門を潜ったとたん、何とも名状し難い船いきれがムーッと鼻を打つ。
 船の初旅、好奇心にかられておずおずとほの暗い船室に降りて行く、一中の席は中央の
 狭い通路を挟んで両側に高さ5寸、巾6寸の板の間にゴザを敷いたお粗末な3等室であ
 る。順番に並んで席を取り荷物を置いて、足を通路の方に向けて寝ころんでヤレヤレと
 一休みする。みんなは低い天井を挟んだまま無言。
  午後2時30分、我等の中津丸は、それでも猛虎の如き笛声を煙り行く川口の彼方に
 残して静かに動き出した。船は油を流したようなドロドロの水面を滑って行く。右も左
 もぎっしりした船に埋まる安治川尻、煤煙でくすぶった大阪の空が段々遠ざかって行く。
 行けども行けども僅かに中央に水路をあけて、両岸は驚くべき船の群れである。頭の芯
 までかき乱すような中津丸の汽笛が引っ切りなしに唸る。その度に水蒸気が冷たく降り
 かかる。
  檣(ほばしら)に鳴く風の音、轟々たるエンジンの響、時折り空転するスクリューの
 音、海面を這う黒い煙、船尾の彼方に泡立つ白い帯のような航跡など、見馴れぬ景観に
 取り囲まれてうっとりと、何時迄も飽かず眺めていたが。風に追われるように船室に入
 る。
  2時間余りして再び甲板に立つ、六甲の山々を前にして船は神戸港に入った。暫しの
 自由行動を許されて上陸。大地を踏む足許は何となくふらふらする。誠になさけない海
 国男子ではある。

 三、播磨灘の夜

  再び船の人となって港を出る頃は全くの真の闇、空には星影はなく嵐の前の静けさを
 思わせる重苦しい空模様だ。船が進むにつれて港内に碇泊する船の赤い檣(ほばしら)
 灯が、まばたきながら一つ一つ消えてゆく。きらきらときらめく街の灯が段々遠ざかっ
 ってゆく。船の旅路の夜が訪れた。若者のあこがれの海上の夜が。左に淡路島、右に明
 石の灯台の光を見送った頃から、風は益々強くなって来たので船室に戻る。
  海は荒れに荒れて船端を打つ波の音は物凄く響いて来る。船は左に右に上に下に、大
 きく細かく長く短かく揺れに揺れている。そろそろ弱りかけた連中もある。自分も胸が
 むかむかするような、頭がふらふらするような何とも言いようのない不快な感じがして
 来た。之が船酔いというものだろうか。
  やがて夕食が始まった。食欲はなかったが2銭5厘の夕食を缶詰めに助けられて漸く
 食い終わった。海は相変わらず荒れている、船室の淡い電燈が大きく揺れている。我慢
 し切れなくなって、近くで並べられた小間物店の第1号に驚いた私は、あわてて上甲板
 の煙突の蔭へ逃げ出してしまった。
  突風は、太い煙突を廻って遠慮会釈もなくしぶきを頭からぶっかけて行く。煙突の風
 下は温かいが反対側はとても寒い。機械の音と強風と怒涛の音とが呼応する暗黒の甲板
 で、独りぼっちで身体半分を冷たい潮風に吹きまくられていると、実に淋しい恐怖に襲
 われる。ふと向こうを見ると、日頃頑健を誇るS君が欄干を掴んで盛んに詩吟をやって
 流石に偉い奴じゃと感心して見ていると、奴さん時々海に向ってギャッギャッと吐いて
 御座る。何処の灯台の光か、遥か彼方に白い光芒を曳いて幽かに明滅している。
  甲板の寒さと淋しさに堪え兼ねて船室に戻る。むっとする異臭が鼻をつき、いやに生
 温かい風が冷え切った顔を撫でる。さりとて寒い甲板に立つ勇気はなく、仕方なく押入
 れの棚のような三等台に足をまげ、窮屈を忍んでエビのように我慢して寝ることにする。

 四、四阪島

  涼しい風が面を撫でる。驚いて目を酔ます。二人の友が舷窓から彼方を眺めてヒソヒ
 ソ話している。風はその船窓から流れて来る。夜はまさに明けなんとし、船は碧い海面
 を勢いよく白波を蹴立てて走っている淡い靄が立ち込めて島々が薄ぼんやりと青く見え
 る中を船は中国の連峰を右に見て西へと進む。暁前の海の静けさ、何というしんみりし
 た景色だろう。遥か行く手の海上に、無数の電燈がキラキラと明けがたの波間にきらめ
 いている小さな島が見える。皆が評定しているのはこの島である。何だろう? 丁度、
 蛍を籠に入れたような誠に美しい眺めである。
  外套を着て友人と共に上甲板に出る。空は清く晴れ渡り、薄れゆく星影が名残り惜し
 気にまばたいている。風は静まったが波はまだ少し高いようだ。去来する島々、船尾に
 踊る白波、実に目覚めるような心地がする。突然、黒ずんだ大きな島影が魔物のように
 船のすぐ側を通ってゆく。こうした濃い緑の島が過ぎ去る度毎に、遠くの景色は刻々に
 移り変わってゆく。可愛い島々が、現われては消え現われては消えするうちに、誰の蛍
 火は次第に近づいて来る。
  好奇の眼を輝かして眺め入っていると事務長さんが「お早いですね」と肩を叩いて「
 あれは四阪島ですよ」と教えて呉れた。四阪島に近づくに従ってあたりは次第に明るく
 なって、その蛍火も段々薄れてゆく。島は刻々はっきり見えて来る。丁度、戦闘艦のよ
 うな恰好の島だ。太短かい巨大な灰黒色の上に立ち、濠々たる灰褐色の煙が朝霞に棚曳
 き、島の周辺には白帆が連々と浮かんで全く絵のような美しい景色だ。
  やがて四阪島を後えに眺める頃、見よ、東天が次第に明るくなる遂に紅を呈するよと
 見る間に、真っ赤な一大光団が突として島の左方の海に踊り上がる。初めて見る海上の
 旭日!! 何というシンプリーなサブプライムな光景であろう。私はキラキラと
 海面に金波の影を映して、おごそかにさし昇る堂々たる日の出の美しい光景を、我を忘
 れて何時迄も何時迄も眺め入るのであった。

 五、豊後水道の夜

  食事を終えて船首に立ち、朝日に輝く新鮮な空気を心ゆくまで呼吸する。実にうまい。
 播磨灘は昨夜のうちに過ぎ、船は島の多い備後灘を走っている。碧海波静かに、翠緑滴
 るが如き鬱蒼たる島、奇岩に包まれた裸の島、或は草に被われた美しい緑の島、そうし
 た大小さまざまな島々の間を行けば、一島いまだ去らざるに更に一島現われ、水路極ま
 るが如くにして、又忽ち開く、げに飽かぬ眺めは瀬戸内海の勝景である。外人は之をた
 たえて世界の公園といい、むべなる哉である。
  島に迎えられ島に送られて、午前11時伊予の高浜港に入る。程なく高浜を去って輪
 抜け玉転がしに、読書スケッチに或は談笑に人々漸く倦怠を覚えし頃、船は風光明媚の
 別府湾に入る。火山性の高原のなだらかな裾野は遠く海に続いて別府湾を抱く。湾内は
 静かに碧水をたたえ、桟橋の直ぐ前の海岸一帯には珍しい砂湯の風景も見られ、温泉街
 に立ち昇る湯気など、すべてが長閑な春光の裡にあった。
  午後4時半、船は別府湾頭に汽笛の余韻を長く残して、船路を東南にとって進む。や
 がて東洋一を誇る大煙突黄褐色の毒煙を吐く九州佐賀の関の久原鉱業の細長い灰白色の
 煙突を右に見、佐田の岬の突端を南に折れて船は愈々豊後水道に入る。
  さしもに高き大煙突や次第に陸地の奥にかくれ、行く手の海面が段々拡がって来た頃、
 夕陽はかなた北九州の山の端に沈み暮色うたた蒼然、昨日に引きかえ今宵は波至って平
 穏に、船脚動かざるかと疑われ、
  客思如山不解消 嵯峨関畔両停撓
  夜深人空燈火里 自起揚窓看怒湖
 と梁川星巌の詠いし豊後水道の夜は愈々静かに、船上の第二夜は訪れたのである。

 六、日向灘

  朝4時、エンジンの響きと人の囁きに目が醒める。船は日向灘を走っていた甲板に出
 る。冷たい朝風が外套を通して肌を刺す。日照りの朝曇りか、それとも本当に曇ってい
 るのかまだ海は深い朝霞に包まれて浪は油のように静かにうねっている。今度の旅行中
 第一の難所日向灘に、この不安な天候は頗る心細い。
  東九州の灰白色の断崖を背に、大きなうねりに軽く揺られながら果てしなき太平洋の
 雄大な景観に見とれていた折りしも、暁の東天、紅を呈して昨日に勝る一大光団が燦然
 として水平線上に踊り出た。太平洋上の日の出だ。おお、何たる壮観!!、真に
 徳富蘆花の「大海の日の出」の一文そのままである。私達はこうして二度迄も壮麗極ま
 る海上の旭日を観る。幸運に恵まれたのである。
  さすがは太平洋である。遥かなる水平線の彼方から押し寄せて来る大波に、船は大き
 くゆるやかにローリングする。ほど近くをすれ違う可成り大きな汽船が、マスト諸共波
 間にかくれて見えなくなりやがてまた現われる。見上ぐれば紺青の空には真綿のような
 白い雲が点々と浮かび、弱々たる春風が軽く面をはらって暖国の気分が満ち溢れている。
 実に快適な海の旅である。

 七、桜島

  あこがれの桜島は、静かな錦江湾の中央に我等を威圧する如くに巍然と聳えている。
 どっしりと裾を張りながら何処となく軟らか味のある美しい山容である。その桜島がエ
 メラルド色の海と良く調和して夢見るような景色だ。桜島を右に見てゆるく迂回すると、
 行く手に低い緑の山々を背景にした。鹿児島一万数千戸の白壁が、鬱蒼と生い繁る豊か
 な樹々の間に見え始める。そうして程なく我等の中津丸は、最後の汽笛を誇らかに周囲
 の山々にとどろかせながら、その黒い船体を静かに桟橋に横づける。時に午後3時。か
 くして楽しい3日間の船路の旅は、茲(ここ)に目出度く終わったのである。
  船長や事務長等に見送られ、なつかしい中津丸に別れを告げた私達は、3人の先輩に
 迎えられて直ちに三艘の小舟に分乗して桜島に向かう。
  小舟は静かな追風を帆に孕んで滑るように快く進む。琵琶湖のような感じのする海だ。
  先輩も、ここでボートを漕いでいると琵琶湖に居るような錯覚を起こす」語っていた。
 「あの馬の背のような丘の上に新しい噴火口があるのです」と先輩の指差す方を見る。
  煙吐く山頂に近いこの新噴火口附近の、焼けただれた岩肌から吹き上げる白煙に、凄
 まじかった大正3年1月12日の爆発の名残りを僅かに止どめ、そこから黒い溶岩の巨
 大な流れが長蛇の如く、あらゆる人間の力を微塵にへし折り村落を押し包んで、荒々し
 く我々の眼前を流れて海中深く突入し、遥かの沖合まで埋め尽くしている。真に満面荒
 涼、無惨にも怖るべき光景である。話に聞く仏界の地獄の山とはこんな所だろうか。海
 中に長く突入したうず高い溶岩の山からは、噴火後3年を経た今日も尚、白い水蒸気が
 ブクブクと疑問の楕円を画いて立ち昇っている。
  巨大な溶岩の山に登る。剥き出しの岩肌にはまだ温かみが残っている。昔、メキシコ
 のヨルロ火山では、噴火後20余年を経ても煙草に火がつけられたという。恐らくこの
 溶岩の底も灼熱地獄であろう。

 八、鹿児島

  煙吐く山を後にして再び海上に帰る。帰りは小舟の競漕である、腕自慢の学生が船頭
 を押しのけ艪を奪い合い、琵琶湖で鍛えた腕を薩南の海に勇ましく漕ぎ出し、互いに負
 けじとボートレース以上の熱戦ぶりだ。
 「 コラ、オモンシテガー(コラ面白い)」船頭の朴訥な鹿児島言葉にドーッと喚声が
 あがる。「スッテンコッテン、シンシムガイモンデ、アッケンコッケン、エッチ、シモ
 ンダ、シッタイヤイヤイヨ」、途中から競漕を止めて船頭いじめにかかる。一口言わせ
 てドーッと笑う、二口言わせてはキャッキャッと笑い廻る、船頭こそとんだ災難だ。
 「キュワ、スッタイダレシモタ(モーすっかり疲れた)」、全く鹿児島の言葉は英語よ
 りよっぽどむずかしい。昔、薩南の雄、島津公が、幕府の隠密防止の為に特に作ったと
 いう真事か。
 「船が着く着く27艘、さまか御座るかあの船に、チェイヨウ」面白い歌声のする方を
 見ると鹿児島中学の生徒がボートでやって来る。
  こちらも負けずに「獰猛の意気、熱烈の、魂ここに覇となりぬ。碧空こがす火の柱、
 血潮湧き立つ双の腕、王者の誉れ覇者の栄、歴史に栄ある幾とせか、桜花に匂う神陵の、
 我が一中の野球団、ラッラッラッ、ヒップヒップッラララ、KFMS京一中!!」と野
 球のエールを高唱して之に報いる。薩摩隼人も何のそのである。
  舟より上がる。
  ああ、これ薩南の天地!!
  230余里の波濤を越えて我等はここに初めて、九州の南端の一角に立ったのである。

 母校だより ------------------------------------------- 副校長 金井 敏夫 43
  早いもので今年は一中95周年、洛北高校15周年になります。立派な名簿が理事長
 をはじめ係の人たちの御努力によって出来上がりました。学校の方は、いわゆるベビー
 ブームによる急増対策期もピークは過ぎましたが、生徒数は全日制で1850名に及ぶ
 大所帯で、クラブ数は50をこえており、校舎、教室、運動場は100%の利用率を示
 しております。これを旧一中時代の750名から1200名位の状態に比較してみると
 大きな相違です。いわば少数選抜的存在から教育の機会均等、門戸開放の姿へと時代的
 移行が行われて来ました。
  かっての男子専門の学校に800名以上の女子生徒が学んでおり、生徒会の役員や男
 子運動クラブのマネジャーにも女生徒の姿が見られるのも男女共学ならではの状態です。
  今年の修学旅行や臨海学舎生活は模範的に近い状況だったそうで、生徒の団体行動も
 次第に落ち付いてスムーズに行われるようになって来ました。校舎や校庭もずいぶん美
 くしくなったとは、時折学校を訪れる卒業生の言葉です。満員状態ながら次第に落ち付
 きと定着の時代に入ったように思われます。
  もちろん落ち付きといい定着といい、可能性につながるものではなくてはなりません。
  今夏は硬式テニス、男女軟式テニス、バトミントンなどのクラブが九州の全日に出場
 していますが、誇りをもってベストをつくしてくれることを願っている。
  学習意欲の高まりとクラブ活動の正しい隆盛とが平行して進む時こそ学校が健全に発
 展するものと思う。
  変らざる姿であった丹保屋のおじさんが病臥中であるのは淋しいが、家族の方が購買
 部を経営しておられます。
  なにはともあれ生徒の一人一人がその日その日の充実した生活で満たしてくれるよう
 な洛北高校でありたいものだと思っています。

 母校教職員異動 ------------------------------------------------------- 43
 新 任
  本年4月、本校に次の先生が御来任になりました。
 ◎ 服部 儀治郎先生 社会科担当 府立朱雀高校より
 ◎ 片田   清先生 英語科担当 府立嵯峨野高校より
 ◎ 中邨 良和 先生 数学科担当 府立桂高校より
 ◎ 加藤   清先生 社会科担当 府立城南高校より
 ◎ 鷲山 秀夫 先生 当府立東舞鶴高校より
 ◎ 奥田 宣嘉 先生 英語科担当 市立下鴨中学校より
 転 任
 ◎ 近保 正二 先生 府立桃山高校へ
 ◎ 前原 国雄 先生 市立教育研究所へ
 ◎ 本永 友彦 先生 府立朱雀高校へ
 ◎ 浅田美代子 先生 府立乙訓高校へ
 ◎ 小林  茂 先生 京都学芸大学附属高校へ

 《支部だより》---------------------------------------------------------- 44
 北陸支部結成総会 ----------------------------------------------------- 44
 
  6月13日午前11時、小松市小松航空自衛隊前に集合、奥田暢君(昭11)の御
 厚意で昼食には自衛隊の(幕の内)弁当を頂き、航空隊記念飛行、曲技飛行、空挺飛
 行等の妙技に驚き、更に隊内の展示品を見学して午後5時過ぎ小松市大文字町小六庵
 に着き、北陸支部設立の会が開かれました。先ず岡本淳一君(昭12)の挨拶に始ま
 り、岡本啓志君(昭4)の設立経過報告のあと、規約の審議承認、支部長に満場一致
 で外村徳三さん(大7)を推して快諾して頂き北陸支部が成立致しました。
  引続いて懇親会に移り、会員の自己紹介があった後、本部から出席された秦、荒木
 両先生並びに沖(大14)佐藤(洛北11)両理事の御挨拶のあと、学生時代の思い
 出話に、それからそれへと話題がはずみ、時の経つのも忘れ勝ちでした。
 「比叡の峰にあかねさす」の校歌を合唱して散会したのが暗くなった8時頃でした。

 北海道支部
  9月11日札幌に於いて開催渋谷理事長出席
 若丹支部は
  10月頃、同じく東海支部も10月頃開催予定です。
  又京浜支部も、今年中に総会が開かれる予定。
  尚山陰地方にも支部結成の準備を進めています。

   東北支部総会 ---------------------------------------------------------- 44
  昨年6月の設立総会以来はや一年あまり、第2回総会が去る8月24日午後6時に
 仙台のグランドホテルでもたれた。井上泰さん(洛北2回卒)の歓送会を兼ねたので
 すが、幹事がこの会の相談をはじめた頃にわかったために日時の都合がつかず、宮城
 県外の方が参加しにくくなりましたが、ここにおわびします。それでも仙台の人を主
 に昨年とほぼ同数の方(本部からの辻井理事さんを含めて14名)が出席され盛会で
 した。
  支部長挨拶のあと懇親会に移ったが、卒業後はじめて40数年ぶりに顔をあわせた
 他昔を思い出して楽しいひと時を過しました。また東北大学金属材料研究所の井上さ
 んからアメリカ留学のあいさつがあり、最後に京一中校歌洛北高校校歌を歌って別れ
 ました。
  はじめて女性が参加されるはずでしたが、都合により欠席されたのは残念でした。
 今年も昨年と同じくほとんど京一中関係者で洛北出身者は3名でした。東北という土
 地のせいで少ないのは残念ですが、もっと洛北出身者がふえればと思います。(石野記)

 《クラス会だより》 ------------------------------------------------------- 45
 大正10年 大樹会東京支部 --------------------------------------------- 45
  東京に於ける京一中卒業生中大正10年度卒業のもの目下12、3名在京して居り
  4、5年前より参議院法務委員会の増本甲吉君、日本船舶協会の佐野実君や、東宝
 時代からの小生等が中心となりまして婁く会合を行い、食事を共に懐旧の歓談を致し
 て居ります。面々は、増本甲君、佐野実君、永見周蔵君、金子周平、荒木三郎、細木
 繁、林修、市川綱二、安田元七、由比直一、神坂三郎、野々村孝夫、の諸氏が大体い
 つもよく集まるメンバーです。
  残念な事には、此外、増田繁雄氏(旧制竹林)がおられていつもよく集まられたの
 ですが、昨39年2月末日、自火(失火)で成域のお家が焼けて不幸にも同氏は(一
 中時代から責任感の強い真面目な方でしたが)119番へ急報するつもりだったのか、
 一度逃げ出して居りながら孫の安否と通報でもう一度火中に飛び込んで、電話機の前
 で焼死するという不幸に会われました。数日後行われた葬儀には上記の東京大樹会も
 参列し、初盆、一周忌には、各自遺族を訪問し、献花しています。
  会員諸氏と共に御冥福をお祈り致します。

 大正13年会 ---------------------------------------------------------- 45
 
  大正8年に京一中に入学した。132名のクラスが、大正会三年会といって名幹事
 宮崎圭五君のおかげで毎年盛大にクラス会を開催して来た。
  一昨年秋、石清水八幡宮で卒業後40年をかねて、物故者の慰霊祭も行った。とこ
 ろが昨年1月宮崎君が交通事故で入院して、予後の肝炎が長引いてやっと今年の春に
 なって本復された。そんなわけで昨年はとうとうクラス会が開けなかった。ぜひやれ
 との声も出たが、宮崎君の顔を見なくては会が開けない。幹事の宮崎君の本復祝いを
 兼ね、多年の労をねぎらいたいとの趣旨から、宮崎君が幹事からお客さんに廻っての
 本年度の13年会が開かれた。まだ酒を差し控えているというお客さんに無理をさせ
 てもいけないし、秋山君、岩崎君の肝入りで茶歌舞伎(闘茶会)をやることにした。
  時は5月3日、平安神宮の貴賓館で、雨あがりの池や東山を眺めつつ茶を飲んでこ
 れを当てるいう闘茶会で午後の数刻を楽しんだ。渋谷理事長や沖理事も臨時参加で出
 席者18名、ちょうどこの高雅な遊びをやるに適した人数であった。秋山君が万事準
 備して岩崎君が投票箱を持参してくれ、配茶の準備に宮崎、森島、川崎三夫人の応援
 を得た。
  5種類のお茶を同じような出し方で入れて玉露用の小茶碗で各自に配る。これを投
 票して行くのだが、茶の上下に応じ花鳥風月客の札を入れる。お茶は5種だから4種
 出せば残りはひとりで決まるので、1回4杯のお茶を順々にのみくらべることになる。
  全部当れば5点で、以下3点・・・・となるが零点はちょっとという。毎回点数計
 算して5回の競技をやって、最後に総得点を披露した。25点満点だが、秋山君が1
 5点で最高、本職に近いから遠慮してもらって、次は8点が矢野、岩崎、大西の三君
 で「ちょっと」のなかった矢野君が1位全部賞品が出るので昔に帰ってごほうびをも
 らう楽しさに拍手喝采。酒なしでお茶を飲んでミステリーの推理を追ったのがこのク
 ラス会の味噌で、酒抜きの会をやっても和気あいあいで、何をやってもお茶の子さい
 さいというのが、大正13年会の特色であろう。宮崎君に記念品の贈呈をやって散会
 したのが、5月の緑もやや夕影にかげる頃であった。なお6月に金田弘記君が急逝さ
 れて13年会の現員は百名欠けることになったが、現役で活躍している人が多く名幹
 事宮崎、市村両君が健在なので今後の活動に期待を乞うというべきだろう。
 (川崎 記)

 京一中あかね会
 40周年記念大会 --------------------------------------------------- 46
 日時 昭和40年8月7日(土)8日(日)
 会場 ホテル くらま
 出席者 特別会員5名、会員41名 計 46名

 
  東京より新幹線で東京の会員、それに阪神方面、伏見方面よりの会員を乗せた貸切
 バスは、午後4時50分八条駅前を発車、まず第1次停車は、細辻君の永楽屋ビル、
 ここに集合した会員を乗せ烏丸通りを北行、第2次停車場上賀茂大橋西詰へ、ここで
 ゴルフを朝から楽しんでいた5名の会員を乗せ、一路「ホテルくらま」へ、午後5時
 50分到着。
  玄関には、胸章が50音順に貼り付けてあり、各自これをとり、会員名簿、出席者
 名簿、宿泊室割当表等をもらい、それと交換に思い思いの土産物を幹事に渡す。
  割当室で、そろえの特注浴衣(永楽屋製)に着替え各室付けのバスではなく、共同
 浴場に胸きんどころか、全身を開く。
  話がはずんで、ご婦人そこのけの長風呂。
  6時50分会場「東光坊」に集合、舞台上の特製「京一中あかね会40周年記念大
 会」と一字ずつ書いた赤ちょうちん15を背に、記念撮影。
  7時、中川大会委員長の開会宣言。まず、物故者39名の氏名を、読経にかえ、呼
 びあげ、ご冥福を祈る。
 時間が7時を過ぎているので、そろそろ舌がもつれ出すこの緊急動議により、伏見
 より持参の委員長30年間愛飲の「日出盛」の冷酒により乾杯。ついで名簿の末尾に
 印刷しておいた「京一中校歌」を斉唱。委員長より庶務報告後、秋山祝宴委員長にバ
 トン、タッチ。
  祝宴委員長の携帯マイクでの挨拶も、聞き取れない程、各テーブルから早や、騒音
 仲々の元気、一斗の酒、8ダースのビールも見る見るうちに空びん。
  そのうちに、祝宴委員長の指示により、幹事協力、会員相互間での土産物の交換、
 先生方へのギフト贈呈。
  宮永君からは、自家製の印肉入れ陶器、林屋君からはこれまた自家製の宇治銘茶玉
 露「しずか」と「宇治清水」、中川君からは顧問会社日通商事より発売の中性乳液化
 粧石鹸「レモン・ミルキー」を全会員に贈呈。
  祝宴は、余興に移り、ご婦人の舞に始まり、会員の民謡小唄、謡曲、それに下山先
 生のご挨拶の青柳君の英訳、秋山祝宴委員長自らのマジック、ビールびんの中から華
 やかなレイを出し、大会委員長の首にかける。
  祝宴半ばにして、大会委員長よりアンケートの集計を発表。会員にはかり、集計に
 従い次の如く決定した。
 1、次期大会は、昭和43年8月上旬開催。
 2、思い出の写真、および家族の近影を集め、アルバムを作成する。田杉君が委員長
 3、コンサルタント、センターを設立し、よろづ相談に応ずる。貴宝院君君が委員長、
   事務所を京都微生物研究所内に置く。
  下山先生を始め、宿泊しない会員は、10時頃中座、10時半頃第1次会を終り、
  各室にわかれる。最も遅き葉は、4時過ぎまで近況を語り、痛飲。
  翌朝9時、再び大会会場で朝食、10時、大会委員長より閉会の挨拶、3年後の再
 会を約して解散。
  なお、ちょうちんは本会の備品とし、他の一中会に有料にて賃貸することに決定。

 京一中いちご会 ------------------------------------------------- 47

  昭和15年卒業の同窓会を作りたいと云う声は卒業後間もなくから会員の間で交さ
 れて居た。しかし戦争の混乱で思うにまかせず、昭和24年3月27日当時の幹事の
 並々ならぬ御努力の結果、天龍寺内松厳寺の一室を借り、第一回のいちご会が開催さ
 れました。料理は折詰、酒は焼酎と当時の食料難を物語っては居りましたが、31名
 が大いに旧交を暖めたものでした。
  其の後、現在に至るまで、いちご会は17年間春秋二回毎年続けられて居ます。年
 二回は会員180名に葉書を出し、欠席の者も近況を知らして来ますので会員との連
 絡はいつも密接です。
  最近は7月12日に桃園亭で35名が集まりました。
 
  地元の者ばかりでなく遠く東京、東海地方からも参会し、ご来賓の岡田幸一先生も
 お元気で御笑顔、一同和気藹々と一夕を過しました。
  5年前の卒業20周年には母校の裏庭でガーデンパーティを行いましたが、本年秋
 には25周年を記念して一泊旅行でもと案を練って居ります。

 昭和18年卒 在京クラス会準備会 ---------------------------------- 48

  5月26日、18年卒業在京者クラス会準備会を開きました。左記8名参集。懐古
 談に花を咲かせ校歌放吟で幕を閉じました。
  いつ迄も昔を忘れえず、電話一本で気軽に寄り合える若々しさは、母校の育んでく
 れたよき雰囲気かと一同感謝しました。
  酔余各人一筆認めましたので、健在のしるしにお届け致します。山根令一記

 第10回卒旧2年8組 大島学級会 ---------------------------------- 48

 日時  昭和40年3月28日
 場所  アサヒビアホール 二階
 出席者 20余名
  一人、二人と懐かしい顔が、会場に集まり雑談している所へ、先生がおいでになり、
 会食となった。
  しかし、先生は御体の具合が悪いとの事で、早々にお帰りになった。食後は近くの
 喫茶店で、思い出話、将来の計画等、楽しく語らい10時頃、解散しました。
  先生、今はもう御体の方は如何でしょうか・・・・・・。
  御体の方には充分御気を付けになって下さい。又来年卒業の方々、就職試験で、大
 変だと思いますが、頑張ってください。
  次の幹事の方々、御忙しいとは思いますがよろしくお願い致します。
  次の幹事は(森田、占部」です。
  住所変更された方は、幹事迄連絡下さい。では、次の機会には多数、参加される事
 を期待致します。では又・・・・・・。  幹事

 第13回卒 旧3年2組クラス会 --------------------------- 48

  去る6月6日卒業以来初めてのクラス会を持ちました。ハイキングにしようか、コ
 ンパ形式にしようかと迷いましたが、初めての事でもあり、簡単にということで清洲
 旅館で開くことにしました。
  これまで、「クラス会せえへんのか」とたびたびいわれていましたので、クラスの
 半数は集まるだろうと考えていましたが、その予想をみごとに裏切られ返事をよこし
 た者すら半数に満たないという有様でした。最初25名位と交渉していたのを、前々
 日あわてて8名という少数に切りかえ、当日集まったのはそれよりわずか一名多い9
 名でした。先生は用事でこられませんでしたが、すき焼きを囲みながら、近況を語り
 合い、9時に一応打ち切りました。それから、マツダオート京都のセールスをしてい
 る新井さんの車(但し借り物)で、6名の者が、ビヤホールへ喫茶店へと二次会、三
 次会と行き、11時過ぎ、一人ずつ車で送られて帰宅しました。
  少数でしたが、結構楽しいクラス会でした。次のクラス会には、もっともっと多く
 の人達が出席されるよう願っております。最後になりましたが、私達のクラスの清水
 真知子さんが去る7月12日おなくなりになりました。14日にお葬式がございまし
 たが、連絡を受けましたのが13日の晩でしたので皆さんに連絡することができませ
 んでした。そこで、この”あかね”の紙上を借り、皆さんにお知らせするとともに、
 心からのご冥福をお祈りしたいとおもいます。(文責 成田)

 洛北14回卒 旧3年5組 ともしげ会 ----------------------- 49

  4月4日(日)羽衣荘にて
  27名程の出席、まあまあいい方らしい。スキヤキの味は例の如く各テーブルによ
 り様々。話もいろいろ。自分のテーブルを食べ終えるとよそに移っていって第2次を
 始める人もあり。とにかく、このコンパはおもしろい。しかし、それよりグッと愉快
 だったのが二次会ネ。羽衣荘から鴨川の土手を歩いて出町まで。そこでPという喫茶
 店に入ろうとしたところ「満員御礼」。思案にくれていたところへ。誰かが素晴らし
 い意見をだしたのである。「ビアホールへ行こう」「オー」ってな訳で、今度はバス
 に乗って着いた所がアサヒビアホール。女性は至って気が小さいから、ヒヤヒヤしま
 したよ。ジュースを飲むつもりが、皆「ビール!ビール!」っていうもんで男性は勿
 論、女性迄ほとんどの人がビール。生ビールで乾杯!ああ、ビールってのはまたいい
 ものネ。非常に愉快になるからこれ不思議。Yさんなんぞ顔をほんのり赤く染めて、
 一生懸命しゃべるけど、「おいおい、酔ってんのか」なんていわれて、傑作よ、そし
 てまた言い忘れたけど、このクラス会を、「ともしげ会」と命名したところで、命名
 の乾杯をやったのである。帰宅はいい気分で、9時50分頃か(?)何しろ一風変っ
 たクラス会であった。

 洛北14回卒業生商業科生のつどい -------------------------- 49

  梅雨もさなかの6月26日、本年度に卒業した商業科生の学年会を、生産開発科学
 研究所4階会議室に於いて開催す。
  不慣れな事とて、又商業科生全員という大所帯の会だけあって連絡もスムーズに行
 かず集まった者30余名、一生懸命計画、案内状を発送した割に、参加者の少ない事、
 幹事一同がっかり。然しながら卒業以来久し振りに会った面々、ほとんどが就職者に
 て、各々の職場の語らいに花咲き、時間のたつのも忘れたひとときでしたが、淋しい
 事に先生方の出席がなく皆の者何かもの足りなさを感じつつ、またの再会を約し、お
 互い励まし合って午後9時頃解散する。

 ”クラス会だより”募集 ------------------------------------- 49
 ”あかね”は会員の皆様の会誌です。クラス会を開催される時は、本部まで御連絡下
 さい。
  そして会の模様を一筆書いてお送り下さい。
  尚クラス会開催の時は、通信費の補助をしています。
  幹事の方はせいぜい御利用下さい。

 京一中大三会卒業 50周年の集まり ------------------------- 50

  昭和39年11月1日(日)宇治市はなやしき浮舟園で開催。大正三年105名卒
 業の中現在57名の居所が判明しているが大多数は健康に恵まれ元気に活躍している。
  卒業半世紀のつどいというので、東京から6名、名古屋から2名が馳せ参じ出席2
 5名、中に2、3名黒髪豊かな万年青年も見受けられたが白髪光頭の集まりで童心に
 かえって思い出話に花が咲き、なごやかな雰囲気のうちにも有意義な一夕であった。
 (滝本記)

 会則の一部改正

-------------------------------------------------- 50
  昨年度の総会に於いて承認され、左の通り会則の一部が改正されました。
  会則13条第3項
  卒業後11年目より・・・・・・・・・・とあるのを
  卒業後6年目より・・・・・・・・・・・と改正

 会務報告 ----------------------------------------------------------- 50
 第12回総会
  昭和39年度総会は、11月8日(日)タカラビール本社ホールにて開催”歌と踊
 りのページェント”“飲み放題、食い放題”等のキャッチフレーズが大人気となり、
 思いがけない約千名の会員が集まりました。母校よりバスの世話、桂駅と会場間の専
 用バス運行、模擬店のサービス等理事諸君大活躍、楽しい一日を送りました。

 会則の一部変更
  別記事の通りの会則一部変更が総会で承認されたので、該当の洛北卒業の方々へは
 会費納入のご依頼をしました。

 会費前納制
  年々事務も多くなりますので、年度会費を3年間、5年間前納して頂ける事としま
 した。

 新入会員
  本年度洛北高校卒業の方、620名を新入会員として迎え、総会員数18482名
 となりました。

北陸支部結成
  兼ねてから準備中の北陸支部が6月13日発会式を行い、外村徳三氏(大七)が支
 部長に就任されました。これで北海道、東北、京浜、東海、若丹各支部と共に、6支
 部となりました。

新名簿発行
  昨年以来準備中の1965年版会員名簿も漸く完成し、7月下旬よりお申込みの会
 員へ発送しました。

 おーびーだより --------------------------------------------------------- 51
 
ラグビー部帯OB会 −ラグビー部創設55周年報告−
  京一中、洛北高ラグビー部創設55周年記念会は、好天に恵まれ、5月23日午後
 1時から開かれた。会長香山蕃氏、副会長、谷村敬介氏をはじめとして全国から馳せ
 参じたOB・来賓凡そ150名。
 
  午後1時 物故OB(54名)の慰霊祭。
  午後2時 大阪北野高対洛北定期戦
  午後3時 同じく北野OB対本校OB戦
  午後4時 記念式典並びに記念パーティ。
  司会は川越藤一郎氏、香山会長、谷村副会長の挨拶、秦乾太郎、金田弘記、諸先輩
 の思い出話、いずれも感銘の深い半世紀の年輪を偲ばせる一語一語であった。
  現役にとっては、輝かしい伝統につながる感激の一瞬一瞬であった。来賓側からは
 関西ラグビー協会を代表して白崎都香佐氏、ラグビー京都協会長河合道正氏、各校O
 B代表として白狼会長(京一商)植田為之助氏の祝辞があった。
  パーティに移り、懐かしい思い出話に時の過ぎるを忘れるほどの歓談、やがて6時
 半北野高校長のオンドをもって万歳三唱盛会裡に記念会の幕を閉じた。
  尚会場入口にはOB提供の記念写真、ユニホーム、フラグが展示され、今更のよう
 に日本ラグビーの草分けの面影を漂わしめていた。
  古き都の北にラグビーフットボールの種がまかれてから五十有余年、地味ではある
 が絶えず清新発刺の気を漲らせつつ人をはぐくんで来たこのスポーツが更に有為の人
 材を鍛え出すことを心から祈念する。
  尚この会の実現については、京一中洛北高ラグビー部のOB350余名、なかんず
 く発起人の方々の並々ならぬ誠意の御努力に依るものであることを申し添える。

 京一中観海流同好会より --------------------------------------------- 52
  明治29年7月25日、故谷岡先生が津浜で観海流水泳を始めてから来年で丁度7
 0周年になります。
  先生は京一中をおやめになって、おなくなりになるまで、毎夏丹頂鶴のような清楚
 な御姿で津浜にお出でになり、何くれとなく御面倒を見て呉れました。
  一度でも参加された方は、当時の懐かしい思い出であると存じます。
  去る6月、長谷川利一郎さんを中心に10名ほど集まり、いろいろ相談した結果、
 今秋は谷岡先生の追悼の会を催し種々話し合って来年の70周年記念行事を決めるこ
 とに致しました。
  この事柄を津浜に参加された方・・・・に洩れなく御知らせ致したく存じますもの、
 終戦の混乱で記録が紛失し、参加者の氏名が判明していません。
  然し幸い「わだつみ」の紙上で、助教になられた方は判明しているので、それをも
 とにして名簿を作っていますものの、なかなか進みません。
  この際「あかね」紙上を借りて、一度でも参加された方は「京一中洛北高校同窓会
 事務所京一中観海流同好会」充御知らせ下さる様お願いいたします。

 求之会のつどい -------------------------------------------------- 52
  昭和19年春に設けられた「京都府中等学校理数科物象教員臨時養成所」の卒業生
 は、最近毎年会場持ちまわりで、恩師を迎えて楽しい集いを続けている。
  今年は20周年で当番の奈良県諸君の肝いりで記念会誌が刊行され、総会は去る8
 月21日、天王寺の以和貴荘で盛大に催された。
  在学僅か1年であったが一中校舎の一部を借りて、当時御在職の一中の先生方や生
 徒諸君と空襲警報のサイレンを共に聞きながら勉強を続けた故をもって京一中洛北高
 校同窓会に加えていただき、まことに光栄です。
  名簿をごらん頂ければわかるように、当時京大の教授を中心とした立派な先生方の
 熱心な指導を受けて、滋賀、奈良、和歌山、京都の現職の先生方73名が、すべてを
 忘れて自然科学の深究に精魂を打ちこんだ、まことに得がたい人生の一コマであった。
  それだけに、つどうたびに思い出話がつきず楽しい。 京都 佐々木

 洛北高校ひまわり会 創立10周年記念集会 ------------------------- 53
  校内の美化、奉仕、親睦、という純粋な気持より生まれた洛北高校ひまわり会は、
 今年で早や創立10周年を迎え、去る8月15日(日)、嵐山渡月橋下ル「花の家」
 にて記念集会を催しました。現ひまわり会顧問、服部義治郎先生、元顧問本永友彦先
 生(朱雀高校)をはじめとして、OB・OG、現役合わせて約50数名が参集して、
 午前11時より会歌斉唱に始まり、10周年を祝ってのビール、ジュースでの乾杯、
 昼食、各卒業年度の代表者より現役時代の色々な想い出が語られ、雑談、記念撮影と
 進みました。その後かくし芸大会と和気藹々のうちに会も最高潮に達し、記念品(風
 呂敷とペナント)を配布し、洛北高校校歌を斉唱して午後4時散会しました。OB会
 も111名を数えるに至り、よくもここまで大きくなった事を心から喜び、各年を受
 け継いで育ててくれた各OB、OGの方々、及び、今迄後輩現役の方々を暖かく導い
 て下さった本永先生に深く感謝せずには居られません。若さに溢れた純粋な気持で行
 動する事の出来た高校時代をふり返って見ると、誠に尊く、素晴らしいことだったと
 深く、強く感じる次第です。
  OB、OG会は今後とも、服部先生をはじめとする現役の方々を、出来得る限り側
 面より援助していく事を十周年に当り、再確認する事が出来た事を当然のこととは云
 え、何か嬉しさがこみあげて来るようです。
  尚、OB、OG会の役員改選は葉書にて後日行なう事とした事も併せて報告致しま
 す。 洛7回 森本 久光記

 洛北混声合唱団 --------------------------------------------------- 53
  皆様今日は、我が洛北混声合唱団も今年で創立4周年を迎えました。わずか数名の
 合唱部OBではじめたこの合唱団も、今では団員60名の合唱団に発展しました。そ
 していよいよ今年の12月11日に教育文化センターで第一回発表会を開く事になり
 ました。2年程前からぜひ開きたいと団員一同願っていましたが、今まで諸々の事情
 で開けずに来ました。今年は団員も大巾に増え、技術的にもある程度安定してきまし
 たので、ついにここに念願達成となったわけです。なにぶん始めての事なので色々と
 未熟な点はあると思いますが、皆様方の強力な協力と援助をお願いします。
  ここで私達合唱団の日常を少しお知らせします。私達は毎水曜6時半に恵美幼稚園
 に集まって練習をしています。学生、勤めている人、家でぼさっとしている人、それ
 に浪人中の人達。もうお嫁に行った人から今年高校を出たばかりの人まで、皆愉快な
 気の置けない仲間です。夕食も食べずに飛び込んで来る人、練習も終りに近いころ、
 夕食をゆっくりすまして、風呂まで入ってからブラリと来る人、皆大変歌の好きな仲
 間ばかりです。週1回の練習以外に、新年会、コンパ、ハイキング、合唱、ダべる会
 クリスマスパーティ等も行って一層の親睦をはかっています。
  いやな事があった時、皆んな一緒になって大きな声で歌うと気持がスーとしますよ。
 それに健康に大変いいですよ。歌の好きな方ならどなたでも、年令、性別にかかわら
 ず歓迎します。一度練習を見に来て下さい。そして気に入ったらどんどん入団して下
 さい。
 場所  恵美幼稚園(下鴨)
 日時 毎週 水曜日 午後6時半〜8時半
 代表者 西村 肇 (洛11)

 洛北陸友会 ------------------------------------------------------- 54
  洛北陸友会は今年で創立12年目を迎え、会員総数は162名(一中関係賛助会員
 55名、洛北卒正会員107名)となり、ようやく10年の大計がととのいつつある。
  ところで会員数が増大すれば現役の後援とは別に会員の親睦融和を計ることも重要
 になって来たため、今年度は特に会の組織を充実することに重点がおかれ、次のよう
 に機構が強化された。
  すなわち、現在まであった常任理事会に現役強化担当、ニュース通報等編集担当、
 会員相互親睦担当の三部会を新設、それに会計財務担当と常務理事1名を加え理事長
 と合わせて6名で構成しこれらの下に各年度別理事による理事会を直結、常任理事会
 と理事会を理事長の統率する会の執行機関とする。
  これにより、今までの理事長一辺倒から、各常務理事がそれぞれの分野で必要に応
 じて企画立案し巾広い活動を続けて行こうとするもので、すでに今年度発刊予定の会
 誌の編集等を中心に活発に活動をはじめている。
  又、一中関係賛助会員との連絡も密で今後の陸友会発展の大きな原動力となってい
 る。

 お知らせ -------------------------------------------------------- 54
  1965年度版 同窓会会員名簿発行
  京一中洛北高校同窓会会員名簿として第一回目が発行されてから5年、その間次々
 と異動があり、新名簿発行の要望がありましたが、昨年来その準備にかかり、去る7
 月漸く完成しました。何分会員数も1万八千名の事とて索引のみでも100ページと
 なり、総ページ数500ページ、純白に金文字のスマートな表紙です。
  既にお申し込みの方には発送しましたが、未だ申し込まれない方は至急御申し込み
 下さい。
 1965年度版
  京一中洛北高校同窓会会員名簿 金 500円
 内容
  写真(新旧校舎等)校歌、母校の歴史、同窓会沿革、会則役員支部会則役員、
  会員数一覧、索引、特別会員名簿、正会員名簿

 京一中クラブ --------------------------------------------------- 55
  第211回例会 昭和39年10月28日
   中華料理店”大将軍”にて 出席者38名
  第212回例会 昭和39年12月11日
   私学会館にて開催、講師は石清水八幡宮宮司 田中文清氏(大13)出席者34名
  第213回例会 昭和40年2月6日
   東華菜館にて開催、京一中クラブ規約改正の件について討議 出席者44名
  第214回例会 昭和40年5月11日
   久し振りの万養軒にて渋谷有教氏(昭和9年)の「インド仏跡と風物」と題
   する興味あるスライドとお話 出席者 45名
  第215回例会 昭和40年7月2日
   洛北松尾橋の”鳥米”にて開く。桂川の清流に舟を浮かべて楽しい一夕を過
   す。出席者 40名
  第216回例会 昭和40年9月5日
   阪神京一中クラブと合同で家族会を開く、宇治平等院見学、花やしき浮舟園
   にて食事の後、天ケ瀬ダム見学

 阪神・京一中クラブ
  第11回例会 昭和39年11月26日
   美々卯本町支店にて「灘の酒」と題する興味深いお話を坂口遼氏(大13)
   に伺う
 第12回例会 昭和40年3月4日
   阪急百貨店特別食堂にて今年度世話人選任、前年度事業及び会計報告の後渋
   谷有教氏(昭9)の「インドの仏蹟を巡って」楽しいスライドとお話にて時
   を過す
  第13回例会 昭和40年5月27日
   阪急百貨店特別食堂にて稲富吉郎氏(大10)のお世話により「ホーバーク
   ラフト」の映画鑑賞
  第14回例会 昭和40年9月5日
   京一中クラブと合同家族会開催

=会費納入のお願い=
   例年の通り、今年度会費をお納め下さい。
   昨年度より、会報だけでなく、会誌”あかね”を全会員に発送する他、各支
   部、OB後援会等の援助、クラス会への補助等、同窓会活動の活発化と共に、
   費用も莫大なものを必要とする様になりました。
   今年こそ会員諸君の深い御理解によって、全会員よりの御納入をお願い致し
   ます。尚毎年御納入の手数を省く為、3年分、5年分の前納して頂いても結
   構です。
   昭和40年度
     年会費      金 300円
     3ケ年前納(昭和40年〜昭和42年)
              金 900円
     5ケ年前納(昭和40年〜昭和44年)
              金1500円

  事務簡素化の為、振替用紙にて御納入の方は払込票を以って領収書に代えさせ
  て頂きますから御了承下さい。

 ☆「1965年版会員名簿訂正」☆
 京一中校史編集に関して資料をお送り下さい。
先年来、荒木益次郎先生が「京一中90年史」の編集をされていますことは、本誌中の
 荒木先生の原稿にもありますが、それについて、同窓会事務室に保存されている資料も
 ありますが終戦後の混乱期に、散逸したものが相当あります。
  会員諸君の中に、特に明治、大正の頃旧校舎(吉田)時代の資料、写真等お持ちの方
 は、お貸し下さいませんか、事務室までご連絡下さい。

 ●ご注意●
  去る8月末、洛北高校同窓会名でガーデンパーティ開催の案内状が一部会員の皆様に
 送られ、御迷惑をお掛けしたようですが、洛北高校同窓会というのは存在しませんし、
 当同窓会には何等関係ありません。
  当日は代表者も会場である京都、都ホテルのガーデンプールに居らず、都ホテルにも
 何等申し込んでいない状態です。
  また、卒業生をカタって同窓会員宅を訪れサギを働かんとした者があります。
  右のように、当同窓会とまぎらわしい名称を使ったり、卒業生と称し、借金を申し入
 れたりする様な事がありましたら必ず本部宛御連絡下さい。
  右、会員の皆様に御注意申し上げます。
 昭和40年10月10日
  京一中洛北高校同窓会

編集後記
  会誌”あかね”第三号も、漸く編集、校正を終り、印刷にかかったところ、全会員の
 皆様に読まれるため、より良きものと編集委員張り切って作り上げました。毎号予想以
 上の反響があり、今年など寄稿される方が多くて、その全部を紙上にのせる事も出来ず
 止むを得ず一部より載せられませんでした。
 ”今昔放談”には神戸大学学長の柚木馨先生(大8)にも、ご参加願う予定でしたが、
 御病気中であったため、お話を伺うことが出来ませんでした。まだまだ一中時代の懐か
 しい想い出話、珍しい話題が数多く、興味ある座談会でしたが、これ又紙数の関係で、
 残念乍ら省略しました。
  より良き会誌とする為に、会員諸兄の御投稿を期待しています。
昭和40年10月15日 非売品
住 所 京都市左京区下鴨梅ノ木町59府立洛北高校内
発行所 京一中洛北高校同窓会
発行者 中南 忠雄
 京都市南区東九条南石田町34
印刷所 野村印刷工業

 住所その他異動があれば御通知下さい。
  本年7月発行の会員名簿によって、本誌をお送りしましたが、既に住所、職業、電話
 等の変更が相当あります。本年春以後名簿記載事項に変更があった方は、お手数ですが
 お知らせ下されば、事務室原簿の訂正を致します。御本人、知人を問わず、ご連絡下さ
 い。
 京都市左京区下鴨梅ノ木町59
洛北高校内
 京一中洛北高校同窓会宛
 ☆☆☆ 母校図書館に同窓会コーナーを☆☆☆
  先輩の著作を後輩に贈ろう

 母校の図書館も愈愈充実され、日頃後輩の学究に、少なからず寄与して居ります。
  先般来、図書の充実を図るべく先輩会員諸君の著書を集めた「同窓会コーナー」を作
 りましたが、まだまだ会員の著作も多い事と思います。後輩達の勉学の一助として先輩
 諸兄姉の著書を求めて居ります。出来るだけご寄贈下さい。尚著作者本人のみでなく、
 同窓の方々の著書を御存知の方は、同窓会事務室までご連絡いただけましたら、本部に
 て購入、同窓会コーナーに納めたいと考えています。
  専門書、文学書、論文、その他の著書につき、発行社、著書名、著者等をお知らせい
 ただければ右の通り手配いたします。
  京都市左京区下鴨梅ノ木町 洛北高校内
  京一中洛北高校同窓会


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