「発意の処」に関すること (堀口清先生剣道一夕話より抜粋)
 機を見て打てと云うことは、意に発して色にも形にも表せない処を打つ。

 発意の処とは起り心の動きが形に表れた瞬間、これは拳と剣先に表れる。そこをすかさず打つ起こり頭、出ばな技ですね。
 発意の処は気配を感ずる処と同じです。
 機会は、発意の処、即ち、心に兆して色にも形にも表れない処を見て即打つ。心に映ってこないところを打って出ては、掛り稽古になってしまいます。待中懸、懸中待、静中動(表現は違うが同意義であります)。左足⇒腰⇒腹⇒拳は中心⇒中墨⇒乗って⇒勝って⇒打つ(心で勝って形に表わす)⇒水平移動
 静中の動は無夢剣です。無の境涯は時に静となり、時に動となる。即静、即動、相手によって変化するものです。こうしてやろう、ああしてやろうと物事に拘泥すると止まる。
 懸待一致は無心にならねば掴めない、無心に掛りと待ちがある。攻防不二、これが大切です。極意ですね。
 機会を見るとは以心伝心、映りであります。映りがみえると云うことは機があると云うことです。機を見るのに長すぎると間が抜けます。すると相手は心の糸を切ろうとする。これは気が切れることになる。気を切らさないように繋いでいく。つまり 乗る、これが大切です。

 剣道は満々としたものがなければいけない。切れたものがあると映らない。映るためには澄んでいなければならない。澄むには無心となることです。濁らない四戒を無くすことです。満ちていないと一寸の乱れが隙になりやられてしまう。満々としていれば即応できます。
 満々としたものがないと技を出すことが隙となる。自分から隙をつくらぬ様に、相手が参ったと感ずる様に攻め、心の動揺をさせることが隙です。ここを即応するのですよ。
 剣道は見ては遅い、見た時には相手は立ち直っている。

 心で勝って、発意の処を押さえて技を出させない様につかう。これは「誘う」より上ですね。無理に出てくれば後の先で勝ちをとる。相手の心、気を制することが大切です。
 太刀は押さえるのではなく、乗って使う。乗った太刀は必ず中心にある。中心を攻めるのですね。太刀が相手の中心にあるときは、技の変化が出来る。押さえつけるとかたいですね。これは角があり、止まりに繋がり隙になります。一身二刀の形ではいけません。乗った太刀は即打ちにつながります。
 剣尖5寸の鎬を削る争いをしてもらいたいですね。業のみに走ってはいけません。心で勝った処が形(打)となって現れるのだから巧妙な技は必要ないですね。
 相手を誘い出す、剣尖をはずす等の駆け引きをやってはいけない。それだけ余裕(たくわえ)があるものではない。何時も一杯の処でやる。中墨を取ることに専念することが大切です。切先5分の争いが剣道です。ある人が、攻められたら間をきればいいといいましたがこれは違うと思う。相手が一杯でやっていると、退いた処(間を切った処)を乗られてしまう。
 鎬を削る攻めとは、中墨を取るために表から裏から攻め乗ることです。
 表の強い人には裏を攻める。結局真っすぐ相手の中墨を攻めるのです。
 攻めは技につながらなければいけません。攻めを形に表わしたものが打ちですね。攻めて相手を引き出して打つのは、自分から技を出すよりは上ですね。急がない、先急ぎをしないで攻められたら攻め返し、乗られたら乗り返すことが大切です。
 攻め負けたとき、打ち気に急らず、もう少し錬って、そして機を見て打つことが大切。
 相手が攻める、攻め返した時、相手も何かします。このときは打つ機会ではありません。ここは、飽迄体得体認です。
 攻め、乗って、破って、崩して、そして打突です。前の四つは錬りです。

 目付けは全体を見て気配を感じればそれでいい。鋭い眼は修業の過程ですね。
 目付けは相手の背中を見なさい。静かな気持ちでいれば相手が映ります。明鏡止水のときは映りません。

 打ち間は一点です。相手が出て来る1で来たら9で、2で来たら8、3で来たら7で…と楽に打つことが出来る。その間合まで入って打つのでは相手に打たれてしまう。

 形は打つ突くであるが、形でないものが本当の剣道である。つまり慈悲です。
 心で攻めたのを形に表わす(打つ突く)が本当は形はいらないと思う。
 立合って「一緒に死にましょう」の心境であると迷いがなく崩れない。
 相抜け、勝敗をつけないところだというのがあるのでしょう。相抜き、言い方は違いますが、相抜きのところが剣道の珠玉ではないか。

 高いところの位は、一体になると考えられていますね。相和したところ、そういうことになりますと、結局勝敗はないということになるんじゃないですか。それが人間形成の道ではないでしょうか。一体ですから、何もない。殺そうとして、打つとか、突こうという気持ちを持てば、直ぐ映りますから、何とかそれに対する策が出来るということですから、何とか自分の心を清らかにしておかないといけないと思います。
本当の剣道の珠玉というのは、相和した、一体になった姿ということになりますと平和なものです。
 相手が殺伐な気持ちを持ってかかってくるところに技を起こしたのが、隙を与えたことになりますから、深い境地は相抜け、相打ち、位詰めとなると殺伐を感じられるかもしれませんが、自然の積み重ねで相手を威圧してゆくなごやかな気持ちですね。
 攻めというのは、位詰めという。位詰めで相手を威圧するのが本当の深い攻めではないかと感じます。