敵に従うの勝 
 敵の好むところに従って勝つべし、両刃相対すれば必ず敵を打たん突かんとする思念起こらざるものなし、我が体をすべて敵に任せて敵の好む所に出づるに従いて勝つを真正の勝ちとす。
敵の好むところに任せれば必ず敵の守備に隙を生ず、我心明鏡の如く明らかにして懸待一致の技熟すれば隙の現はるるに従い吾知らず打ち込みて勝ちを得るものなり、敵の斬られ寄る所を斬り突かれに来る所を突くそこに無量の業あり何ぞ無理に勝ちを求めにや、古き教えにも己を明らかにすれば天より勝たしむといえり、但し此境に達するには充分の修業を要するものと知るべし。

明月の波に映ずるや水上到る処波瀾の大小に従いてその影を異にせざるはなし、剣道もそのごとく敵に従いて変転自在恰も月の波に映ずるが如く敵の出る頭起こる頭に乗じて打勝つべし、斯くの如くならざればその妙趣を得べからずこれを水月の矩と謂う。

一刀斎の歌に
 浦風へ波の荒磯の月影は数多の見立てはげしかりけり
 敵をただ打つと思うな身を守れおのづから洩る賎が家の月
宮本武蔵の歌に
 筑波山葉山繁山しげれども木の間木の間に月影ぞする

この歌の意はわが心明らかにして懸待一致の位に居て静かに構え居れば月の光の賎が家に自然と洩れ入るが如く或は木の間木の間を洩れ照らすが如く敵の隙のおのずから出て来たりて勝ちを得るという

露の位という教えあり
草葉の露は僅かにふれるものあれば忽ち地に墜つ、斯くの如く気合満ちて油断なく満を持して構え居れば敵の動くに従って忽ち発動し勝を得る。心明らかなると共に気の充満する事肝要なり。

敵に従えというと敵を押さえよ引き回せといい、或は攻撃ありて防禦なしというと決して矛盾し齟齬(そご)するにあらず能々味うべし。
 根をしめて風にまかする柳みよなびく枝には雪折れもなし