館長の話<仮題>

 

仲良く 楽しく 正しく 生涯剣道

 剣道って、どういうことをするか?となるとね、「命のやり取り」っていう表現がいいかなぁ。メン・コテ・ドウ・ツキっていう部位の決まった急所を狙うんだけど、レベルが高くなればなるほど、まさに真剣勝負になっていくんだな。一般社会で命のやりとりはご法度でしょ。それに生きてるのは一回だけだよね。それを何度も何度もやり直しができる。つまりね、同じ失敗を繰り返さないような訓練でもあるんだな。別な言い方をすれば、成功させるために何度も何度も工夫ができるということ。人生の縮図がここに凝縮されてるように思えるな。だから、剣道を続けるということは、「成長し続ける」とか、「生きてる」っていうことになると思ってる。「生涯剣道」ってとってもいい言葉だね。


 剣道で正しいってどんなことか?となるとね、「今の時点では理想に近いかな」っていう程度のことなんだなぁ。子供達の指導をしてるとね、腕の筋力が全く足りない子や太りすぎで素早く行動できない子やそれはもうみんな全く違うわけ。それに同じ子だって、例えば一年前と今とでは理想というのも変わってくるんだな。だから学校の勉強のように満点も無ければ、勿論、零点もないし、答えも一つじゃなくて無限にあるということになる。指導している先生達や見守ってる親御さんたちは、そういうところもよく理解してあげることが大切だと思うな。もうひとつ付け加えるとね、ひとつひとつ段階を経ないと、理想には近づかないということ。「正しく剣道」って点や線ではなくて、幅があるってことだね。


 うまくいかなかった時に如何するか。これがその人の本当の姿ということになると思っている。うまくいっている時は何の問題もないわけだけど、知らないからうまくいってる状態というのも多いんだな。実社会では失敗はつきものでしょ。失敗するっていうのは、「知らなかった」、「知ってたけど理解できてなかった」、「理解できてたけど実行できなかった」。この三段階からきてると考えてる。「知る」ことと、「分かる」ことと「できる」ことっていうのは大きな違いなのは知ってるよね。幼児でも学生でも大人でも、みんなこの三つの段階があらゆるものに対して存在するわけ。「楽しく剣道」っていうのは、知ることによる楽しさ、分ったことによる楽しさ。また、最後のね、できたときの楽しさっていうのは格別のものでしょ!楽しくないことがあるから、その先に楽しいこともあるわけだよね。そうなると楽しくないことに感謝。負けた相手には感謝だよね。


 日本剣道形は大小の太刀で計10本。最初は大上段からの大技で、息の根も止める。これでもかぁ!っていう形。勝負の付いた後も二度も追い込むような残心の形から始まります。五つの構えでそれぞれ理論で勝つように進んではいくけど、最後の10本目は、なんと無構え。心の構えだけから短い刀で勝つわけ。しかも相手を傷つけることなく位詰(くらいづめ)だけで終わり。勝負のついた相手を斬らないで許しちゃう。人間としての究極の姿がここにあるとすれば、最後は、慈悲ということなんでしょうかね。確かに日本剣道形はそう表そうとしているみたいね。勝たせてもらう相手というのは日本剣道形では師匠なんだけど、実戦なら相手は実力伯仲のライバルということになる。こんな真剣勝負に反則すれすれのずるい行為も遊びの無駄も微塵も出てこないから、形の稽古は価値があるんだよね。同じ仲間といっても、力関係のはっきりしている者同士っていうのは、片方が遠慮する空気があるから真の友にはなかなか成り難いといつも皆に言うんだけど、ライバルと全力をかけて戦い、そして真の友達となれたら最高でしょ。「仲良く剣道」っていうのは、ただ一緒にいる同門の仲間ということだけではなくて、本当はそういう相手のことを指していると思ってる。



いろは道場訓

「い」:一期一会 誠を尽くす
 この方にお会いするのは一生のうち今日が最後という気持ちで接するということなんだけど、そういう気持ちでその方と剣を交えてみると、とっても気持ちが良いことがあります。お相手もそう感じてくれたかも知れません。初めての相手に自分に今できる最高の状態で立合ってみると、不思議とお相手の今までの修行の道のりが想像できたりもして、素晴らしく感動することもあります。たまには早く終わらせたいと思うこともあります。勿論、普段の生活においてもそうありたいものですね。


「ろ」:朗報はその日に報告
 「昇段しました」、「高校に合格しました」、目標にしていた「大会で優勝しました」。なんていう報告は、その日のうちが良いですよ。それも会場からだったら連絡受けた方もとっても嬉しいと思います。連絡するまでの時間が相手との絆の距離でもあると感じるからです。同じことなのに何日も経ってからとかになると、せっかくのいい報告が先に相手に噂で伝わったりして「あいつ連絡もよこさなかった」になっちゃうから注意だね。お世話になってた時期から年月の経っている場合でもそういう連絡は誰々にはするって整理しておきたいですね。結婚しましたとか、就職しましたっていう連絡は、新生活が落ち着いてからでいいのですが、必ず、葉書きくらいは出すようにね!直接の電話が無理な場合は、その日のうちにメール位は入れておくのが間違いないんじゃないかな。そうしたら、次にあった時に「おめでとう」「有難うございました」っていう最高の場面が待ってるから。


「は」:反動を付けた打突は狙われる
 相手にこちらのやることが分ってしまうと失敗します。反動をつけると動きやすいですが、それは自分勝手なんです。普段の生活においても自分のやりたい感情のままに行動してしまうと、実は相手にはとっても嫌な想いをさせているものです。成功させるためには必ず段取りが必要ですが、相手に気づかれないようにそっと準備するのが秘訣。そこにサプライズが存在します。


「に」 :苦手な相手から逃げない。
 失敗するのはたいてい同じところ。それがもし克服できたなら、急激な進歩ですよね。そこを避けようとすると結局つまづくことになります。苦手な剣風は大体みんな同じかな。難剣とか変剣とかいう言葉もあるけど、個性が強い人だと思います。それゆえ、試合でもし頂点まで勝ち進みたいのなら、初めてのタイプが無いくらいに試合数をこなし続けるのが今は流行のようです。しかし、自分の剣道は崩れます。従って、基本を修正する正しい打ち込み稽古も並行して行うことが必須となります。それだけの時間の無い人は、苦手の克服よりも、基本中心で良いのです。しかし、諸事情でその基本の時間まで減らしてしまうとちょっと無理かな。


「ほ」 :暴力が最悪
 私は子供達の指導において曲げない点があります。身体の大きな者や学年の上のものが、例えば体当たりをして相手を倒した場合。叱ります。試合でもそこを一回だけ打突してよいというルールがありますが、「絶対に打つな!」と指導してます。賛否両論でしょうが、これは私の信念です。でも、身体の小さな者が相手なのにバランスを崩した大きな相手には「打て!」なんです。それは逆に素晴らしい勝負です。
 うちの道場で育った子が学校剣道において、体当たりして小さな相手を転ばせて、そこを打てと怒鳴られてる光景を見たこともあります。それぞれの指導者の考えもありましょうが、ただルールだから良いという行為は、権力や立場を利用するという陰湿な行為に繋がっていくと思ってます。ただ勝てば良いのか。世の中ではこういうことは平然と行われていることでもありますから、それに対しては打ち勝たないといけません。しかし、弱者は救うというのが本来の姿ではないでしょうかね。
 「子供を叱らない親」っていうのがよく話題になります。暴力と教育的体罰の区別(境)は意外とはっきり線引きできるものです。目的を持って叱るのは正しいことのはずです。怪我をさせないという条件つきで、殴る行為も許容範囲と思ってます。手を出せば全て悪者扱いというイメージではありますが、教育的体罰を指導と理解できなければ、剣道を続けるのは難しくなりますよ。ただ、残念なことに剣道の世界にも暴力やいじめが存在することも事実なのです。


「へ」 :平常心は心が止まらぬこと
 「平常心で行こう!」なんて思うこと事態、すでに心が固まりかけているね。平常心なんて、私もとても無理なんだけども、何の気なしに淡々としている状態が良いのでしょう。剣道的には「先(せん)」をかけ続ける、気迫、攻める、乗る、さらす、溜める(ずらす)、無(考えない)。このあたりがプラス要素かな。最悪なのが、相手が○○したらとかの待ち、ハッっとして避けちゃう、下がる、結果を頭で考えちゃう。かっかして血が昇ってる。こういう時は、打たれるよね。
 「水」が流れてる時と淀んでる時に例えると分りやすいですね。自分自身のこと(相手もかも)を空気とか宇宙とか神様とか、そういう存在だと思えたらね、人間的には強いと思います。でも、完成しすぎると人として逆につまらないかもね。ちょっと欠点がある位で丁度良いのでは。


「と」 :遠間からの稽古
 間合いというのは、遠間・一足一刀・近間という3つに分けられていて、基本的には一足一刀が打突の機会のように言われていますよね。実際には相手との距離というよりは、心の間合いですから、自分には遠い間であっても相手からは一足一刀であることもあリます。
 遠間というのは、一太刀では届かないはずですが、一番最初の打つ機会は一足一刀の間合いよりも前に存在するのです。相手が近づこうとした時、攻めようとした時ですね。攻め端。まだ技を出そうとはしていないここが最初。時間にすれば、ほんの一瞬、まさしく瞬きくらいでしょうか。ご指導頂いている師範の先生が自ら遠間で打ってくることは稀ですよね。最初は攻めから入りますから、その攻め端の瞬間に真っ直ぐな色の無い捨て身の打ち。「よろしくお願いします」という気持ちの表れの一打でもありますね。ここから後の近い間合いは、歩合の争いとなります。実際には練度の高い方、即ち、心の駆け引きと技の修錬が上手な方が絶対有利なのです。試合の時に遠い間合から打つと大抵負けます。しかし、いわゆる番狂わせが試合で起こるのは、こういった遠間からの捨て身の技のことが多いのも事実です。トップ選手と言われる人は、ここを打つことも上手い。攻め端を打たれると、それから先の剣道の理合も理論も通用しません。一番最初の相手の心の変化を打てるという滅茶苦茶強い人が存在するのです。
 稽古の際、一足一刀から始めると、この機会を無くして、二番目の機会という途中から開始することになります。ということはトップ選手には成れないということになるよね。一番大切なのは、遠間から一足一刀の間合いに入るまでの空間。そしてさらに高度になると、その一足一刀からその先の空間の心の間と断言していいんじゃないかな。


「ち」 :中心を攻め、中心を守る
 道場を開設するにあたり、いろは道場訓を作った頃は私は30代でした。中心というのは、「中墨」。これは、大工さんが、柱の中心に糸のようなもので印を付けますよね。ど真ん中のぶれないもの。そんなイメージでした。剣先は、相手の咽頭部。そこの取り合いだぁ!と。
 しかし、10年の月日というのは恐ろしいものです。今はそうは思いません。大阪の賀来先生は、歯科医師の稽古会で2年に一度講話をして頂いてくれています。その中で、剣道をたどると「宇宙の起源」に行き着くと話されました。全く、意味不明でした。その前の講話では、「神様になりなさい」と。わかるはずがありません。
 そのうち、心(腹)の中に中心というものが点で存在すると思うようになりました。その点が浮くと心がバラバラに動くのです。そこがぶれなければ打たれるとは微塵も思わないのです。相手の心を動かすと打てる機会が生まれるというのは、その中心の一点を移動させることなんじゃないかな。賀来範士がビッグバーンと剣道を結びつけられた理由は他かも知れませんが、私の解釈では今時点では中心というのはそういうことと思うのです。構えは勿論、真ん中が良いでしょう。しかし、見せかけのものは二の次。この一点というのは、その人の人生の根源、凝縮されたものなのです。ここが無くなれば死んだも同然というもの。私は、剣道家としては大したことがない。しかし、「自分の生き様としてこれが自分の全てですが、さぁ、動かしてみて下さい」というものが出きれば、そろそろ中心が安定してきているのではないでしょうか。「丹田」。お臍のちょっと下にあるらしいですが、私は何処かわかりません。ここに気を落とすとすうっと力みが消えて、邪念が沸いてこない。そんな心の中心はなんとなく、このあたりに感じることはありますね。ちょっと難しい話でした。


「り」 :理法の修錬による人間形成が剣道


 「ぬ」 :抜き、すり上げ、返し技は引き出す
 剣道は基本的には全身全霊の気迫をもって望み、攻めて崩して仕掛けて打つことが大切なことは周知のとおりです。しかしながら、相手も充分な気迫で戦ってきますから、ただ仕掛けて打つだけでは成功しなくなります。また、加齢と共に自分の体力はピークを過ぎ、速さだけでは相手を捕らえられなくなってきます。相手の動きを利用したり、相手との調和の中で機会を作り出して勝負することが必要となります。いわゆる試合巧者というのは、この仕掛けと応じのバランスが小さい頃から上手ですね。
 さて、応じ技となると得てして「相手がこうしたら…」となりがちですが、これでは完全に後手になります。苦しい応じで一本にならないばかりか、逆に利用されてしまいます。何事においても先手必勝です。ここでは、引き出すということが先手。引き出すということは、相手をそうさせる、そう仕向けることです。メンに対する応じ技であれば、メンを打たせればよいのです。ドンピシャで応じるには、その打ってくる瞬間をこちらが作り出すのです。(本当は仕掛け技も理論的には応じ技と同じ機会に成功しています。)
 引き出すというのは、それほど難しいことではありませんが、いいかげんに誘うとそこを打たれます。相手が打ちたいと高まる気持ちのところにホッと差し出すのがコツです。差し出すのは自分の命?でしょうかね。技術的には色々な先生方がお書きになっているお話が沢山ありますから、自分に合ったものを何度も練っていけば良いと思います。私の場合は、足腰は打てる状態にしておいて、攻めの剣を僅かに緩めています。
 さらに上のレベルになるとこういった引き出しには全く乗ってきません。そこから先の理論はもっと面白い世界です。七段位になったら少しずつ理解できるのだと思います。このいろは道場訓を作った頃は私はそこから先のことは全く理解していなかったので、当然のことながら道場訓には出てきません。


 「る」 :ルールは自分に厳しく
 あの一本はこっち?と思うことって多いです。また、たまにあれを取ってもらった?と思うこともありますよね。ビデオを観ていても、普通に意識しないでいると自分の方を重点に見ているものです。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という有名な言葉もありますが、自分を不利にしてみて丁度第3者からみて平等くらいということなんですけどね。なかなか出来ないことです。


 「を」 :男らしく正々堂々
 生き様として、真っ向から、正面から。そういう気持ちが自分を成長させ、また、人を見る眼も養うと思ってます。
 以前、日本フェァープレイ賞にある剣道の試合が選ばれたことがあります。秋田県のインターハイ予選。相手の選手が竹刀を落としたのですね。そこを打てば、インターハイに行けるくらいの究極の場面。秋田商業の選手は、竹刀を作法通り拾って、相手に返したんです。インターハイにはいけませんでした。当時の監督は目黒先生。数年後、私は目黒範士にそのことを聞いたことがあります。「どちらが正しかったのか今もよく分らない」とのことでしたが、「倒れた相手に打突して一本にしても、手を差し伸べて起してあげる」そういう指導が良いのでは?とおっしゃってました。ご参考まで。


 「わ」 :忘れることも大事
 忘れることは人間の特権とも言われてます。失敗を恐れず、嫌なことは流すことが意外と大切なのです。でも、忘れないで欲しいことを忘れるのはどうかなぁ。


 「か」 :懸かるところに待つ心、待つところに懸かる心
 剣道は、懸待一致(けんたいいっち)、気剣体一致(きけんたいいっち)、事理一致(じりいっち)など、一致させないとダメなものは多いですね。
 懸待一致は心の部分が重要なんだけど、ピアノで例えると、右手と左手を別の意識にして同時に弾く感じかなぁ?剣道では、仕掛けて打つ心と応じて打つ心を同時に持って先をかけるという極意。相手からすると、そのままでも打たれるし、打って出ても返されるってことになるね。

 剣道の段位では四段以上で要求されますが、小学生でも自然と懸待一致をやってる子は多いのです。昔は、三段止まり、五段止まりという言葉が使われてました(最近はあんまり聞かないかな)。その段位から上に上がれない大きな壁があるのだそうです。だから三段と五段の人は多い。稽古を一生懸命やってもなかなか昇段できない方というのは、剣道が悪いのではなく、心が硬さが原因の場合が多いと思ってます。打つと決めたら打つ、打たないときは打たないなどなど、心が固定しているはずです。相手にとっては分かりやすいものです。
 剣体一致も懸待一致も「けんたいいっち」なんで、ごちゃごちゃになりやすいです。気剣体一致は入場行進のようなもので、とにかく揃えろっていう上からの命令によって出きるようになるものです。しかし、懸待一致は自分で会得するものです。 「さぁどうぞ、っていいながら先に食べちゃうか食べさせない」みたいなものでしょうかね。剣道の面白さは懸待一致に始まると思います


 「よ」 :四つの戒めは驚懼疑惑
 四戒という言葉があって、「驚く、懼れる(=恐れる)、疑う、惑うことはいけない」。というのは昇段審査の学科試験にも出てきますので、言葉は知っている人が多いのです。ペーパー試験では文書で書ければ満点です。しかし、そういうのが悪いと知っていることが大事なのではなく、どうすればそうならないかが大切で当然満点も有り得ません。私もできません。これは机の上の勉強では身に付かないのです。頭が良くてもそれを活かすすべは机の上ではできないのです。そして四戒で心が壊れる人や、頭が良いことを鼻にかける嫌な自分に気が付かない人が育っちゃうのです。人間関係の修行として部活動などが奨励される由縁です。ジムで身体を鍛えるのではダメ。ひとりでやるものは心が育たないから、文武両道にはならないのです。
 四戒は自分がそうなってはいけないということですが、そう思うと後手です。後手の結果はそうなってしまうのです。また、何も感じないのは鈍感といいますが、鈍感にするということは対人競技では意外と大切なのです。自分をわざと相手にとって鈍感にすることで相手に逆に四戒を持たせたり、相手の気持ちを察することも可能です。敏感に対応するには集中することですが、集中に眼を使うだけでは完全に守りですね。眼は緩く見て心は鈍感にする方が上のように思いますね。剣道では、攻め、外し、誘い、攻め返し、超え、無。そういう流れかな。
 野球の野村監督がキャッチャーが一番面白いって言いますよね。野球は打つのが楽しいけど、心法で討ち取ることも楽しいということなんですよね。



 「た」:誰にでも通用する得意技
 「中心を攻め、溜めて、ど真ん中に面」なんていうのは、誰もが目指しているところ。そういう軸となる技以外の得意技を数種類。勝ち上がるためには必要不可欠だと思ってます。稽古では、相手の強い部分と勝負。試合では相手の弱点をつけと言われます。
 誰にでもその技が通用するというのが肝心なところ。初めての人なんかには試してみると良いのです。出し過ぎると逆にそこを狙われます。私の場合、ここ一番の前は絶対封印だったけど、そのうちにすく゛覚えられちゃって通用しなくなってました。ということは、誰にでもじゃなくて単なる得意技ですね。プロの選手はここがアマと違うのです。警戒されても取るところです。


 「れ」:連続打突は相手より一本多く
 技の起こり頭だけが打つ機会ではありません。技を打ち終えたところ(打とうとして止めたところも含む)も心の引きはなとして打つべき機会なのです(私は「心の引きはな」=「居つき」だと思っている)。いつも自分の技で終わるようにしていると自然と身についてきます。相手より一本多く技を出す。他の人より一本多く稽古をするという心掛けが全ての物事に対する成功の鍵です。小・中学生時代に特に必要なことは、相手よりも必ず沢山努力をするということ。人より努力が少なくて勝ったのは価値が無いのです。上級者・高段者はちょっと違いますよね。稽古の質と研究の深さだと思ってます。



 「そ」:育ててくれた人を大切に
 物事ってなかなか思うようにはいかないよね。壁があるから成長し、逃げるとそれを越えることはないようです。結局は、どうすればよいのかの繰り返しなのですね。
 自分を一番理解しているのは誰なのかがわかれば、自分のとるべき方向も足りないところも見えてくるのです。自分の知らないことを教えるのは無理なんです。
 職業にしても、職人の子は職人、政治家の子は政治家、役者の子は役者、警察官の子は警察官。その流れは命が受け継がれていると同じように自然で大切なことだと思うことがあります。


 「つ」:常に向上心を持つ
 「三摩之位」は、習う・練る・工夫するということが、丸い円のような関係にあるという極意ですが、その中でも「工夫」が個性や成功を生むと思ってます。
 今の自分には練るという部分が少ないですが、正しいことを学ぼうとか習いたいという求める気持ちと、少ない時間の中でも研究しようという意欲は昔から何ら変わるものはありません。継続ということは、単なる繰り返しではなく、向上心を持つということだと思ってます。時々、がっかりしたり、大きな失敗をします。そういう時は「習う」に戻って、また一から再開です。今度は工夫が変わってますよね。 


 「ね」:年齢より十歳若い体さばき
 体力の低下を技法と心法で補っていくということが武道の真髄なのでしょうが、「技法と心法により、スピードや勢いがあるように見える」ですね。しかし、頭では理解していても、身体が反応しなければその瞬間に打つことは出来ません。正しい基本稽古が必須と言われる由縁でしょう。心技体の比率を上手く変えていくことが、「落ちない生涯剣道」につながります。
 剣道は武道ですが、格闘技でもあり運動でもあります。健康な身体いうことが根底にあります。中学高校生の場合、逆に稽古の比率は体の部分に多く行きます。しかし、強い子は技法に優れ、トップ選手は心法までも優れてます。十年後に知るべきようなことを今気づければと思いますが、「それなりの年齢にならないとなかなか理解できるものではない」のが奥深いところでもあり、剣道の魅力でもあると思ってます。

 「な」:生ものと人ごみは体調の敵
 大事な行事の前には、閉め切った会場への参加をなるべく控えるべきです。一週間前にコンサートに行ったなんてのは最低レベルかな。
 予防ワクチンの注射は受けて欲しいです。予防注射に否定的な考えの親御さんはいらっしゃいますが、団体戦ではみんなに迷惑がかかりますからね。体調を整えるのも実力です。
 また、前日は食べ物にも注意することです。私はついつい飲み過ぎてしまいます。勧められたら断われない性格なものでね。
 私が経験した中で一番予想外だったのは、「水」あたり。昔はペットボトルなんて無かったので井戸水をガブガブ。夏の遠征先で下痢が続発し、試合は惨敗でした。


 「ら」:楽は苦の種、苦は楽の種
 自分に負荷をかけるという部分が進歩に繋がるのです。例えば、筋肉痛は一度目は辛いが、一旦治ると一度目にかけた負荷では筋肉痛は出ないのです。
そしてもう少し負荷をかけてみる。段階を経て徐々に身体が出来てくるのです。

 剣道は右足・右手が前。それなのに相手に正対です。足先の方向、左右の脚の張り具合を意識しないと、真っ直ぐには動けません。楽な体勢は間違っていることになり、悪癖になります。無意識のうちにしっかりと形を固めるには、基本が大切なのです。



 「む」:無理な打突は捨身ではない
 心のこもっていない言葉は相手には伝わらないですよね。
剣道では打突の瞬間、相手に調和して、気持ちが上回っている時だけ、有効打になるようです。
心がまとまっていなかったり、気持ちが引いているときに大胆に出ても、それは捨て身どころか無謀な行為になってしまうのです。
成功するのにはそれなりの理由がある。一番は稽古そのもののように思うかもしれませんが、それを操るのは心。
心の置き所が一番でしょうね。

大先生は心の修行の深さが違うのです。だから、対等に勝負しようとしても成功しません。
その場合、果敢に打って出て、勝負は二の次という「懸かる稽古」というのが存在することになります。



 「う」:後姿を美しくする
 能の世界では世阿弥の「後見の見」という言葉がありますが、自分のうしろ姿がわかるようにという教えと私は理解しています。本当の意味は自分の人間的な部分であるのでしょうが、簡単に言えば、目の前の相手に自分の前面だけでの勝負ではまだまだ未熟ということではないのかな。
 剣道で後ろ姿の綺麗な人って、引き込まれるような魅力を感じます。私が目指しているものは、背筋がピンとした、腰が据わったものなのです。ただ、中学生や高校生では、ちょっと前傾した方が攻撃型には適していると指導される方も多いと思います。どちらが良いのかは私が言っても始まりませんね。生涯剣道的には、前傾もその逆も正しくないはずです。すっと立てる。これが一番だと思ってます。



 「ゐ」:居つかせて打突する


 「の」:のけ反るより間を切る
 打たなくても勝っている。ということなんですが、打たないときに受ける、のけ反って体制を崩すということは、打たなくても勝っているではないですね。引きながらも攻め勝っている状態をつくることによりその次の打つ機会はこちらに来ていると思われます。


 「お」:起こり頭が最高の機会
 打とうの「う」が起こり頭です。起こり頭、受け止めたところ、技の尽きたところ。これを「三つの許さぬところ」というのは有名な言葉ですよね。許さぬところとは、打たなくてはならない機会ということです。ということは、打つべき機会でないと打つなでもあります。さらに進化して、打つべき機会が無ければ「つくれ」ですよね。打つべき機会をつくるのは、先をかけたり、攻め返したり、虚をついたりして、相手の気持ちを動かすことにより生まれるようです。言葉では簡単なようですがね、、、。


 「く」:腐らないこと、審判も難しい
 大会の質は審判で決まると言われます。それ程審判は大切で難しいのです。当然のことながら、一本では無いと思っていても旗が揚がったり、その逆もあることを充分覚悟の上試合をすることです。重要なのは判定が意外だったとしても、どうするかなんですね。誰もが認める一本を打てるように修行すればよいことなんですが、判定に腐っているいるレベルでは心の完成度はあまりにも未熟です。心技体全てが備わって初めていい審判をしてもらえるようになります。
 大切な試合では、なかなか思い切った打ちが出せないもので一本になりづらいのです。また、打たれたように見えるような体勢はたとえ打たれてなくてもそう見られるものです。避けたから一本では無いととるか、体制を崩されたことを負けととるか、その差はとてつもなく大きいのですよ。
ただし、審判団の質があまりにも低い大会には参加しないということも指導者側としては一つの選択肢と考えます。


 「や」:遣り手の剣さばきを盗む


 「ま」:負けた相手に感謝、勝った自分に反省<H22.10.18.>
  「勝って反省、負けて感謝」という言葉。30代半ば頃からよく耳にするようになりました。その年齢になって、やっと今まで聞き流してしたのを気に留めるようになったのかも知れません。
負けて反省じゃないところがこの言葉の素晴らしいところだね。打たれたところは自分の弱点。そこを素直に受け止めて今度はそこを克服しようとするところに勝負の良さがあります。「弱点を教えてくれて有難う」なんですね。負けて興味を無くすようなら、所詮心の成長度もその程度ということですね。
「勝って驕らず、負けて腐らず」ならよく聞く言葉だけど、これを「感謝」でまとめたところ、不平不満の文句を並べる人とはよく遭遇しますが、自分の成長に「感謝」がいかに大切であるか。感謝の気持ちなくして頑張っても次々と遭遇する壁を結局は超えられず、挫折となること必至という現実があります。


 「け」:怪我したときは休む勇気


 「ふ」:不用意な一本が命とりになる


 「こ」:後輩には正しい理論と大きな愛情で接する


 「え」:遠山の目付


 「て」:手元が浮いたら負け<New H22.10.20.>
 手元が動かないと技は出せませんが、自分から動いたのと、相手から動かされたのは同じ動作でも全く違うのです。相手の強い攻めや緩めた誘いにふっと動いてしまうことがあります。これは後手にまわっている証拠。本当はその時点で一度負けなんです。
ただし、この後の結果は必ずしも打たれてしまうとは限りません。自分の打ちがたまたま有効打突になる場合もあり得ます。まさかそれに満足する人はいないでしょうがね。


 「あ」:相手の気持ちを考える


 「さ」:三殺法、三手の読み


 「き」:気剣体一致の打突に残心


 「ゆ」:指の力は小指と薬指


 「め」:明鏡止水


 「み」:三つの先


 「し」:生涯剣道


 「ゑ」:縁を切らない



 「ひ」:左足、左腰、左手、膕、左胸を意識する


 「も」:もう一息、もう一息


 「せ」:攻め勝っての打突であること


 「す」:捨てきった技をいつ出せるかが鍵


 「ん」:あうんの呼吸




 剣道の続け方 


 お稽古事を継続させるのに何が大切か?となるとね、「一番は親」と断言できるくらい例外は少ないでしょう。苦学生から偉人になってた昔の時代と違って、お父さんの仕事の安定度というのも子供の気力を大きく左右するようですよ。次はというと、家族の健康と絆かな。家族みんなが応援してくれてる状態っていうのが何よりプラスになることには間違いありませんね。「子供の意思を尊重したいので…」という話を親から聞くことがありますよね。定番になりつつある体裁の良い便利な言葉ですが、親が逃げるときに出る言葉と分析されているようですね。子供の気持ちには毎日波があるでしょ。壁やトラブルも自分で乗り越えて欲しいのですが、そこには親の強い意志も必要だということでしょう。いつも見守ってくれた親に対して必ず感謝の気持ちを抱くようになってきますよ。長い年月をかけた後でしょうがね。時折、立派な親御さんに遭遇します。きっとその方もそう育てられたのだと思います。





 「かかりつけ医制度」という言葉が定着しましたね。かかりつけ医というのは、その人の健康の経過というものを長い年月をかけて把握しているわけです。だからある病状が出たときに、その時の症状だけでなく、その人の性格から家庭環境から、訴えのある頻度とか、そういうもの全ての情報から判断するわけです。たまには誤診するときもあるでしょうが、初めての医者やお付き合いの始まったばかりの医者よりも、患者本人のことを充分理解しているのは絶対なんですね。重い症状の時、かかりつけ医は、自分で処理できるのか、他の専門医を紹介するべきかも当然判断することになります。
 剣道も全く同じでしょう。普段、教えてもらっている先生がかかりつけ医になりますね。その方は自分の今の力だけでなく、長い経過を知っているのです。指導してもらう先生を転々とするのは得策ではありませんね。指導する側も初めて会った相手に色々深い指導をすることも無いでしょう。
 学校進学などで、指導者が変わる時は、今までの先生は新しい先生のことをよく理解したうえで進路を考えてくれるはずです。それが成功の秘訣。ところが、表向きの派手な情報に飛びついてしまったりすると、悲惨な結果もあり得ます。もし、あまりお勧めできないと言われたら、お付き合いするなということと理解すべきと思います。あの医者はよくないとは言いませんからね。


  

 雑 感 

<H21.9.16.>
 9年連続200本安打を大リーグで達成したイチロー選手の話から
 「達成したことは開放感」とイチローは言う。大記録にたどり着くとその成績だけがクローズアップされてしまうが、そこに近づいていく過程を本人は必死になっている。だから開放感なんですね。何事においてもまずは一つずつ積み重ねられるようなもので目標を立てたいと思う。例えば、稽古の皆勤とか、一年間これこれするとかがいいのかな。そのうち、自分だけが到達できなそうなものでも探そうかな。。
 「逆」。打つための方法を考えるのが普通の選手だが、イチローは「いかにして打たなくするかを考えてる」とコメントした。相手の攻めや誘いをこらえ、確実に捕ららえる瞬間を呼び込んでくるような感覚なのでしょうかね。剣道もどんどん打つ稽古が大事だが、いかにして無駄に打たなくするかの稽古の方がもっと難しい。私は七段になってしばらくしてから、一度、大きく進化したと感じた瞬間があります。打って出てはいけない機会というのは小学生の頃から知ってました。しかし、それは唯の我慢だった。でも、打たないことで相手の気持ちの上にポッと乗れる瞬間が存在する体感を知りました。剣の極意って凄いと思っていますが、野球と剣道の理論はすごく似てますね。イチローの9x200でのこの話は私にとってはそこが一番でした。