本日の「朝日新聞」朝刊の文化面に『うる星やつら』のことがちょっとだけ載っていたので、それに関して一言。

 その記事は藤子・F・不二雄さんの訃報に際したもので、「ラムは、オバQやドラえもんの末裔」とするものでした。つまり、「日常」に入り込んだ異物、ということです。

 ただ、それは確かに間違ってはいないにしろ、それだけならば自身で言っているように民話の、あるいはもしかたら神話にもあるような「類型」であって、いわゆるトキワ荘世代が作り出した「おはなし」を高橋留美子が受け継いだとするのはやや乱暴に過ぎるとも思えます。

 そして、この大きな「類型」の中で『ドラえもん』と『うる星やつら』の比較をすると、その「日常」の描かれ方に大きな相違点が見いだされます。

 『ドラえもん』の日常が「平凡な日常」であるのに対して、『うる星』のそれは「異常な日常」であったように思われるのです。これは『らんま』の例ですが、パンダが茶の間でせんべーをかじっている、というシュールな光景が、けも先生にとっては「日常」で有り得るのです。ドラえもんもドラ焼きを食べますが、それはその世界の中に完全に受け入れられていて、コタツネコがタイ焼きを食べる時のような不気味な違和感を伴った「日常」とは明らかな違いがあります。

 ドラえもんの「道具」が日常に入り込む「異物」であるのに対し、『うる星』のキャラクター達はこの「異常な日常」である「世界」そのものと対決する、とも言えるでしょう。

 『うる星』のような「異常な日常」はほぼ同時代の『Drスランプ』にも見られ、この「世界そのものの異常さ」はむしろ『バカボン』以来のギャグマンガに由来するものでしょう。けも先生と鳥山先生の力はその異常さに「日常」としての説得力を与えた、ということです。両先生の持つ田舎くささ、ドロくささが大きな力を果たしたわけです。

 もちろん、『ドラえもん』の「日常に入り込んだ異物」の描写もマンガとして価値あるものだし、その功績を見据えた朝日新聞の小論を否定する気も毛頭ございません。念のため。(ただこの人が藤子不二雄を合作だと思っている所はちょっとアレですけどね)

 ちなみにこの日の朝日新聞には『ドラえもん』に関してもう一本、『ドラえもん』に皮肉な批判精神を見る論も載っていました。

 ・・・編集に「ヲ」なひとでもいるのだろーか?

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