前回の考察の補足と発展です。かなり独断が入っていますので、ヤバイな、
と思ったら適当に読み飛ばしてください。ではどーぞ

 らんまが目的を持たないことが自由さにつながる、という部分は違和感を
感じるひとが多いでしょう。しかし、「目的を持たない」、ということは
「歴史を持たない」、ということと同じレベルのことなのです。「目的も歴史も
持たない」ということは過去にも未来にも存在の根拠がない、ということです
(この「過去」と「未来」とは単なる時間ではなく、現在に対しての意味
ということです)。「目的」というより「将来の夢」といったほうがいいかも
しれません。これが「無責任さ」=「自由さ」につながります。

 実際らんまは男溺泉につかれば永遠にその存在が消滅します。らんまの自由さは
「自殺を覚悟した自由さ」でもあるわけです。考えてみれば『らんま1/2』とは
「ヒロインを殺すことが作品の最終目的」という結構とんでもないマンガなんですね。

 今らんまを「ヒロイン」と表現しましたが、これは「それが存在しなければ
作品世界が成立しないキャラクター」という意味です。
(「主人公の恋人」ではありません)
らんまはキャラクターではありませんから「ヒロイン」と呼ぶのは抵抗がありますが、
「見かけ上」キャラクターとして存在しているのでやむを得ないでしょう。
(「殺されるべき、作品の存在根拠」という意味ではRPGの大ボスにも近いものが
ありますが、『らんま』では「敵」という概念は中心になり得ないような気がします。
ええ、気がするだけです。)
ちなみにキャラクターでなくても「作品の存在根拠」である例はあります。たとえば
 初期『ドラゴンボール』の ドラゴンボール
 『ジョジョ』第一部の 石仮面
 うしおととらの 獣の槍
などが好例でしょう。らんまは、むしろこれらに近いと言えます。
(言えるんだってばっ)

 らんまがキャラクターではない、ということは乱馬やあかねが実在の人物ではない、
ということと同じ意味です。『らんま』がメタ構造(いわゆる「入れ子構造」)を
持つという説がありますが(「五寸釘ファンクラブ」参照)、私はこの意味で
『らんま』はメタ構造を持つと考えます。らんまは「虚構世界」、つまり
「マンガ」を象徴しているのです。
(この「虚構」は「存在の空虚さ」、というより「乱馬の演じている存在」と
 考えたほうがいいでしょう)。

 このとき、虚構と現実とをつなぐ存在、らんまを世界に登場させた存在、すなわち
千五百年前に呪泉郷で溺れた若い娘の名は、高橋留美子その人です。もしかすると、
らんまの自由さは「マンガ表現の自由さ」、「現実からの解放」を象徴している
けも先生のマンガ論そのものなのかも知れません。(「かも」ですからねーーーーっ)

 

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