今さらとゆーか、今だからこそとゆーか、らんま論、変身論です。お気楽にどーぞ

  
 さおとめらんまという存在は、虚構です。「作品世界の中で」虚構なのです。
 
 この女性は早乙女乱馬が呪泉郷の泉に落ちた瞬間、この世界に登場しました。
この時彼女は世界の中になんの根拠も歴史も持っていません。ついさっきまでこの
世界に存在していなかったのですから。このことは彼女が独立した「人格」を持って
いないことを意味します。社会的に存在していない、と言ってもいいでしょう。逆に
もし乱馬が生まれた瞬間に呪泉郷に落ち、その場で止水桶を使われたなら、「乱馬」
という人格は存在せず「らんま」という別人格が存在したでしょう。
(男と女という問題はとりあえず黙殺します。「一つの肉体に固有の人格」という点
のみが問題です)

 いずれにしろ呪泉郷自体に二重人格を作り出す機能が無く(このことは後で少し
触れます)、一つの人格を二つの肉体が共有する以上(そんなマンガあったな)、
どちらかは人格を持たない「虚ろな肉体」であらざるを得ません。これが「存在が
虚構である」という言葉の基本的な意味です。(実際はもう少し広がりを持ちますが)

 自分の肉体が突然「虚ろな肉体」になるというのは乱馬にとっては大変な危機
だったはずです。自分の根拠と歴史が消滅するわけですから。言ってみれば全存在の
危機です。乱馬も事件から二週間ごろの時期はその危機を実感していたようですが、
その後、お湯をかぶれば容易に回復できること、男溺泉という解決法の発見、さらに
生来の性格が影響してこの「虚ろな肉体」が新たな意味を持ち始めます。

 らんまは社会的に存在していない、言い換えれば「誰でもない」存在です。逆に
言えば社会や人生に対して何の責任も負わない、ということでもあります。つまり
「完全に自由な存在」でありうるのです。私がらんまに感じる魅力は、この初期の
ラムにも似た強烈な自由さにあります。さらにいえばらんまはほとんど目的を持って
いません(「あかね」は男でなければ意味のない目的ですし、「格闘」も既に達成
されているか、容易に手の届く目的です)。これは「自分自身からも自由である」
ということです。そこが嫌だ、と叫ぶ人は多いでしょうが、この点だけを見れば
らんまはラムをも凌ぐ、あらゆる意味で自由な究極のスーパーヒロインといえます。
乱馬が男溺泉を必要としながらあえて急がないのも、以上のような理由であると
思われます。
 
 なお、ハーブ編で「男に戻らなくなった」というのは乱馬の存在の危機であると
同時にらんまの存在の危機でもあります。「天道家からお嫁に出してあげるからねー
ーーーーーーー!!」というのはらんまの人格として人生と社会に責任を持つという
ことですから。
(この自由さは周囲に「乱馬」=「らんま」が知られていては機能しないはず
ですが、乱馬は自身のキャラクターと周囲のいいかげんさによってうやむやの内に
それを認めさせています。そうでなければスクール水着は着ないでしょう)

 これによってらんまは社会的に免罪されていながら社会に好きなだけ干渉できる、
という特権を得たことになります(ここでいう「社会」とは「人間関係の総体」
というほどの意味です)。良牙や九能の心を好きなだけ弄べるわけです。(女性の
心を弄ぶことは、少なくとも意識的にはしていませんが、これはらんまの肉体が女性
であることと、男としての乱馬の性格が原因ですので、いずれにしても本質的な問題
ではありません。)

 呪泉郷帰りの面々でこの境地に達したのは乱馬だけです。おそらくマンガ界全体を
見渡しても彼だけでしょう。自分が存在の危機にあるのにそれを気にせず、逆に利用
する、というのはちょっと信じられない性格です。そこで比較のため他のメンバーの
状況をここで考察してみます。

☆良牙
 ブタです。まごうことなくブタです。動物、とくに小動物に変身する場合社会に
対して能動的に動くことは、まずできません。すべて受動的です。彼の場合その立場
によってペットという地位を得たわけですが、良牙が乱馬の境地に至ることはあり
ません。彼の性格を始めすべての要因がそうさせています。(良牙の性格は本質的に
乱馬と同じですが、彼はじつによく悩みます。悩むのは本人の自由ですが、彼の場合
走りながら悩むので、とても迷惑です。悩む時には座ってください。)

☆シャンプー
 ネコです。だれが見たってネコです。(もーいー) 彼女の場合乱馬に対する攻撃
手段という以外メリットはありません。

☆ムース
 アヒルです。思い切りアヒルです。(しつこい) 彼の場合まったくメリットは
ありません。

☆玄馬
 パンダです。力いっぱいパンダです。(すいません、もうやめます) さすが
親子、乱馬と同レベルの境地です。受動的だろうと自由がなかろうと全然気に
しません。人生に対する無責任さを最大限以上に利用しつくしています。(周りは
たまったもんではありませんが。)らんまと正反対の意味で希有なキャラクターと
いえるでしょう。

☆パンスト太郎、ルージュ
 パンスト太郎の場合、モビルスーツのように兵器として利用しているだけで
社会的な意味はありません。ルージュも同様ですが、彼女は別の意味で注目すべき
存在です。変身時の性格の変化が群を抜いて大きいのです。記憶の断絶が無いので
二重人格とは言えませんが、それを錯覚させる変化です。これは「多面性」という
言葉で説明できるでしょう。もともと人格は相当多面性を持ったものです。(特に
るーみっくでは多面性がキャラの重要な要素になっています。)変身によってその
隠された面が現れ、ルージュは特にそれが顕著なのでしょう。ということは変身に
よって各面が完全に分離し、多重人格となることはあり得ます。その場合変身が
強烈なストレスとして作用しますが。ただし、これは呪泉郷の責任ではないでしょう。
(私はまともに心理学を学んだわけではないので上数行に根拠はありません。いつ
でも謝罪して訂正する用意はあります。)

☆ハーブ
 パス

 このように、乱馬は異常です。その異常さの真骨頂が、女装でしょう。彼は女装する
時は無節操に愛想をふりまく少女を演じます。これが「虚ろな肉体、さおとめらんま」
の表面上の人格といえます。彼女は乱馬の貧しい女性観が生み出した、「虚構」の
人格であり、乱馬に演じられることでしか存在できません。一方乱馬はらんまを
意識下に置くことでセックスのみならずジェンダーをも支配する立場に立てます。
セクシャリティの支配に手を出さないのは幸運でしょう。(あ、黙殺したんだった…)

 以上のように、さおとめらんまは虚構であり、キャラクターですらありません。
どんなに譲歩しても「空虚なキャラクターの器」です。そしてこの器の所有者である
乱馬は自らのいいかげんさによって「空虚」を「自由」に転化させるという離れ業を
やってのけました。そしてこのいいかげんさが乱馬の時には災難の原因であるところが
面白い所です。(無論この差異は男女差ではなく社会的立場の違いです。)

 ちなみに、「虚構」という言葉は私の呪泉郷システムの解釈とも関係しますが、
それはまた別の機会に

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