凡人として生きるということ

いつの間にか「オヤジ」と言われるようなトシになっていた。押井守であれば「パトレイバー」で不遇時代を脱したころである。無論、ただ無駄にトシを食っただけで「オヤジ」になれるわけはなく、せいぜいが「オッサン」であろう。

『凡人として生きるということ』(2008年)は映画「スカイ・クロラ」の公開に前後して刊行された。「スカイ・クロラ」がそうであったように、若者に向けたメッセージという形になっている。「スカイ・クロラ」が「若者向けに作った」というのは大嘘で、いつも通りの押井じゃないか、と当時言われたものだが、何のことはない。「若者が喜ぶ映画」という意味ではなく、「若者に言いたいことを言った映画」ということだったのである。

『凡人として生きるということ』をざっくり要約すると、「引きこもっていても自由とは言えない、いろいろなしがらみを背負っている「オヤジ」は不自由に見えるが、そういう生き方を自ら選び、他者に関わっていくことが真の自由である」というところであろう。

押井の言う「自ら選び取る自由」は極めて近代的な概念である。古代・中世の欧州においては自由人と奴隷の2種が存在し,「自由」とは「強制を受けない」という自由人の特権であった。近代初期において,「自由」を「自由意志」として人間の尊厳の源泉とみなしたのがピコ・デラ・ミランドラである。ピコは、人間は自由意思によって神にも獣にもなれる存在とした。カントにおける「自律」としての自由,サルトルの「アンガージュマン」、生命倫理における「自己決定権」としての自由に至るまで、押井の言う「自由」は西洋近代思想における「自由」観の本流と言える。

そうみると、『わんわん明治維新』(2012年)での格付けは面白い。高い評価を得ている者が勝海舟,伊藤博文,土方歳三であり,低い評価の者が西郷隆盛,坂本龍馬、武市半平太,である。

勝海舟が徳川幕府、伊藤博文が明治政府という違いはあるが、どちらも組織の力を使って社会を動かすという自己実現を果たした点では共通している。土方は敗者なので社会を動かすということはできなかったが、組織を一から創りあげることで自己実現を果たしたということで高評価なのだろう。※注1

※注1
「勝海舟は幕府をある意味利用しているわけだ」『わんわん明治維新』p81
「勝海舟が最後まで徳川の幕臣でいた理由って、自分が思い通りに動きたかったからだよ。それしかない。」『わんわん明治維新』p81-82
「今回調べ始めて意外と伊藤博文はいいなあと思い始めた。……近代化の根本を作ったのは間違いなくこのオジサンです。」『わんわん明治維新』p132
「新選組という組織を実現させた時点で(土方歳三の)自己実現は成就している」『わんわん明治維新』p147
「私が敢えて(土方歳三を)取り上げたのは「ナンバー2論」があるからだよ。それが無かったらやらなかったかも。」『わんわん明治維新』p153

西郷隆盛は当然倒幕軍の総司令官として組織人ではあるのだが、この人にはそもそも実現すべき「近代的な自己」がないので、低いというより評価の枠外である。坂本龍馬は「自己」がない上に組織の力で何かをやったわけではないので、西郷以上に評価外。武市半平太は「自己」があるが、自らの美学に殉じて死んだので、押井の言う社会性のない一人よがりの美学なのだろう。※注2

※注2
「西郷って人間としての芯が見えないんですよ」『わんわん明治維新』p114
「だって西郷自身にテーマがないんだもん」『わんわん明治維新』p115
「大したことやってないんだぜ。この人(龍馬)」『わんわん明治維新』p50
「(龍馬は)メインテーマがないんだ。」『わんわん明治維新』p60
「半平太は自己実現を果たしたんだよね。上士になったんだもん。だからこそ帰って処刑されたんだよ。」『わんわん明治維新』p43
「美学というものは、自分で決める道であるとはいえ、自分勝手なものではいけないということだ。その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、とても重要な要素になる。」『凡人として生きるということ』p78

さて、このような「近代的自己」は言うまでもなく近代の産物であるが、私達が生きているのは「近代」ではなく「現代」である。近代における「人」はエリートとしての都市市民であり,現代における「人」は大衆としての市民である。近代人が「自由」を追求したのに対し、現代においては「自由からの逃走」が指摘される。ナチスを生み出した社会を分析した言葉だが,一般にも当てはまる。現代において,個人の自由意志によって左右できる事柄は極めて少ない。サルトルはアンガージュマンとして自由に伴う責任を説いたが,実際に自らの自由意志によって左右できる範囲が少ない以上,責任を追うことは難しい。政治の責任は最終的には国民が負う,とは言っても,1億分の1の責任でしかない。

押井のように好きなことを仕事として,さらに自らの自由意志で裁量することができる人間はきわめて稀である。押井は自らの才能を否定するが,少なくとも努力に加えて相当の運は必要であろう。大抵において,努力に見合うだけの果実は得られない。若者に「努力すれば自由が得られる」ということ自体,「自分には才能がある」という言葉に匹敵する幻想であろう。若者に向けて「将来に向けて努力しろ」などと言うのは「宝くじを買い続ければいつか当たる」という程度の意味しかない。現代の若者が責任から退避しているのは事実だが,古今責任を引き受けられるものは少数に過ぎない。大多数の「凡人」は「自由」も「責任」も持たなかった。現代の「凡人」たる大衆に向けて、努力して自己実現を目指せというのは土台無理な話なのである。

現代では仕事を通した自己実現は難しい。といっても、現代のオタクがすべて社会性のない引きこもりというわけではない。大部分のオタクはそれなりの正業を持ちながら、それとは別物としてオタク趣味を楽しんでいる。エロ本を買わない男子は稀だが、エロ本を買っていることを公言する男子もまた稀である。おおっぴらにはしにくいが、表の社会生活とは別の世界で実現する自己もある。押井が言う、家族に隠れてプラモデルを楽しむオヤジとなんら変わらない。

確かに、これが「自己実現」と呼べるかどうかには異論があるだろう。酒やパチンコと同じように、現実からの一時的な逃避として消費に依存しているだけと言えば、その通りである。しかし、極端な例ではあるが、ヘンリー・ダーガーの生き方などはある意味オタクとしての究極の姿と言えるかもしれない。彼は単純労働で生計を維持しながら、たった一人でひたすら妄想を続けた。これもまた一つの自己実現であろう。

さらに今では、おおっぴらにしにくい隠れた趣味であっても、同好の士と出会って表の社会生活とは別の人間関係を築くのはさほど難しくない。「家族」よりも遥かに緩いつながりではあるが、互いに人格を認め合い、長く続く関係ともなりうる。

孤独な妄想が自己実現となる場合もあれば、表の社会生活とは別のオタク世界におけるコミュニティで実現する自己もある。仕事や家庭によって実現する自己と比べれば、弱く小さな自己ではあるが、凡人たる我々の身の丈にはこれぐらいで十分ではないか。

(初出:2012年8月12日  WWF  No.46)

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