「Pの悲劇」「専務の犬」に収録されたビッグコミックオリジナル発表
 作品群は、その多くが「日常生活への非日常の侵入」という構図に沿って
 創られています。

 その「非日常」は「記憶喪失」(おやじローティーン)や超能力(百年の恋)
 といった形をとることもありますが、大半は動物を始めとするキャラクター
 の形態で表現されています。
 当然、個々の作品ごとに「非日常」と「日常」とのギャップには違いが
 あります。
 図としてまとめると、

  九ちゃん     (非日常度)低い
  ゴージャス          ↑
  妻の幽霊
  座敷童            ↓
  ピットくん          高い

 といった形が挙げられます。

 この中で最も非日常度が低いのは九ちゃん(お礼にかえて)であることは
 異論はないでしょう。ストーリーの構造からいえばピットくんと同様の地位で
 あるにも関らず、それが非日常の象徴であることすら疑われるほどです。

 これは「お礼にかえて」の作品世界そのものが「日常」ではなく「ちょっと
 ズレた日常」を描いていることに起因しています。この世界の描き方が
 「お礼にかえて」をこの作品集の中で異質な印象、すなわち「めぞん」や
 「らんま」などの連載作品に近い印象を与えているといっていいでしょう。

 加えて言うならば、登場人物がすべて鳥にちなんだ名字を持ち、マンションの
 名前が「烏合マンション」であるという符号も、この世界が「つくりもの」で
 あることの暗示として見ることも可能です。(マンションを一つの鳥籠と
 見なして、逃れられない閉鎖社会の象徴とみるのは穿ちすぎでしょうが)

 表題作である「専務の犬」のゴージャスでは問題はもう少し複雑になります。
 前作品集「Pの悲劇」と同様の構図を持ち、また同じように作品集の表題作、
 巻頭収録作となりながら、ピットくんとゴージャスとは作品における支配力に
 かなりの差があります。ゴージャスはマユゲという「非日常の徴」を持ちながら
 作品の中途でその暴露が行なわれ、なおかつ作品の最後で「日常」の中に回帰
 してしまっているのです。「Pの悲劇」でなされたように、この暴露は作品の
 クライマックスに持ってくるのが普通で、物語が終われば日常から立ち去るのが
 セオリーであるはずです。

 これはこの作品における「非日常」が実はゴージャスではなく、祭田専務が
 引き起こす「状況」そのものであることを意味します。
 祭と暮、すなわちハレとケが「非日常」と「日常」を暗示することは明白
 でしょう。祭田専務をとりまく「状況」から離れた時、ゴージャスは非日常の
 象徴という役目を終えて、「日常」へ回帰する資格を得たといえます。

 私がゴージャスに対置されるピットくん(Pの悲劇)を非日常度の最も高い
 ものとして分類したのは、この作品が最も典型的な「日常への非日常の侵入」
 であるという以上に、ピットくんが常に純粋な「他者」であり続けたという
 理由からです。ピットくんの感情移入を許さない黒い瞳は、彼が「日常」
 ではない「むこう側」の住人であることを意味します。彼には彼の日常が
 あり、その本質的に決して交わることのない二つの世界を描くことによって
 「非日常」が先鋭的に表現されています。

 「犬夜叉」における飛天、タタリモッケ、奈落などの妖怪たちもその意味に
 おいて本質的に「他者」であり、「こちら側」とは別の完結した世界を
 持っていると考えられます。
(だからこそ、その接点としての犬夜叉の存在が注目されるわけですが)

 そして、この「他者」性に着目したとき、最も注目されるべき作品が
 「君がいるだけで」です。ここに登場するアッチャラーさんは、すべてを
 許し、受け入れる「女神」としての存在でありながら「日本語ワカリマせーん」
 として「他者」で在り続けます。ちなわち、「女神」が「女神」としてある
 ためにはこの世界の「断絶」と、それによる男の幻想が不可欠であることを
 この作品は示しているといえます。

 このように、一方の世界にのみ視点を置かないで世界を相対化する視点を
 持って作品を描くことができるのが高橋先生の資質でしょう。そして、
 「他者」と「断絶」という極めて残酷なテーマを見据えながら、それを
 一概に否定していないところに高橋先生の作品の特徴があります。
 「断絶」をそのまま「断絶」として肯定してしまえる強さが高橋先生の
 作品を魅力あふれるものにしていると言っていいでしょう。
 
 また、「犬夜叉」においてこのテーマがいかなる帰結を遂げるのか、
 その点から言っても「犬夜叉」はるーみっくわーるどにおいてひとつの
 大きなターニングポイントになるような気がします。

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