「いい飛行機を作りたいだけだ。」

主人公のモデルっていうのは堀越二郎や堀辰雄や、自分の父親も混ぜたものって言ってますが、明らかに宮崎監督自身の投影ですよね。ああいう部屋で図面引いてる姿って一昔前のアニメーターそのものですし。庵野さんが声当てたのも、本来なら自分がやりたかったんですよ。そういうわけにはいかないから庵野さんを持ってきたというだけで。

投影というより、一種の理想像かな。一人の職人としてかくありたい、というような。だから黒川というのはすごく重要ですね。売り込みもしないのに自分の才能をすぐに認めてくれて、これ作れって仕事くれて、クライアントやスポンサーとの面倒な交渉は全部やってくれる、という。宮崎監督にとっての鈴木プロデューサーみたいな人。しかもちょっとバカなところがいい。ポイント高いですね。職人というのは自分が一番正しいと思ってるから、第一声は「そんなのダメだ」と、言いたいんですね。

押井監督は自分でプロデューサー的なこともやってるから、そのへんの違いはありますね。これは本人の資質もあったんだろうし、めぐり合わせもあったんだろうけど。

庵野監督といえば、ポスト・エヴァンゲリオン期にはセカイ系というのが流行りました。最近さすがに聞かなくなりましたが。一般的にはセカイとキャラがあって社会がない、という感じですが、個人的には、SFの大道具を使った私小説、と理解してました。エヴァからして、SF設定に社会に対する批評性とか一切ないんですね。単にカッコいいものという記号なだけで。キリスト教とかのギミックを使ってみても、キリスト教への批判とか思想とかそういうのは全然ないですし。

セカイ系ついでに、「まどか☆マギカ」がセカイ系かどうかという話。確かに、物語構造だけを見るとセカイ系とやってることは同じです。政治とか国家とか、そういう社会性が一切ないままセカイが終わったりする。しかし、やはり「まどか☆マギカ」はセカイ系ではない。セカイ系の私小説的な自意識というのはむしろ少女漫画から移入したものなので、ロボットアニメとかのSFアニメの社会性を少女漫画の自意識に代替したものがセカイ系です。「まどか☆マギカ」は、「セーラームーン」や「ウテナ」もそうなんですが、もともとの土台が少女漫画ですから、テーマとして社会性よりも自意識や人間関係が打ち出されるのはむしろ当然です。

宮崎監督の場合、社会に対する批評性というのが過剰なまでにあって、そういう作家性の部分で評価されてきたというのは確かです。「ヤマト」や「ガンダム」が「戦争」を批評の対象にしたのに対して、「環境」をテーマにしたのは新しかった。いわゆる「戦後民主主義」が、共産主義から環境問題にうまくシフトしたなという感じですね。反戦とか市民運動をテーマにしてたら目も当てられなかったでしょう。

押井監督は場合は批評性はあるけど理想像がない、という感じかなぁ。ニヒリストというべきか、リアリストというべきか、微妙なところですが。宮崎監督の場合、いまだに全共闘的な理想を堂々と言ってますからね。

いわゆる「公害国会」が1970年で、「ゴジラ対ヘドラ」が1971年なんですが、それ以外は意外と環境をテーマにしたSFってないんですね。「ヤマト」と「ガンダム」は1970年代ですが、1980年代は「マクロス」とか「トップをねらえ」とか、もうパロディって自己批評に入ってます。「パトレイバー」も企画としてはパロディの部類ですね。「ナディア」もギリギリバブル世代なので、同じくくりでいいでしょう。パロディって結局内輪の世界だから、広がりはないですよね。戦争ってテーマがパロディ化してしまったときに、環境って普遍性のあるテーマをもってきたのは大成功だった。環境と開発ってテーマはガンダム以前の「コナン」でもうやってるんで、単なる偶然でしょうけど。

環境テーマの二番煎じアニメが出てこなかったのはなんででしょう? ガイナックスの「オネアミスの翼」(1987年)が「ナウシカ」の二番煎じやらされそうになって全力で拒否したという話はありますが。あと、ドラえもんの映画で2本ほど(「のび太とアニマル惑星」(1990年),「のび太と雲の王国」(1992年))環境テーマのがありますが、「ナウシカ」の系譜ではないでしょう。「ナウシカ」自体、興業としてはそんなに大成功というわけでもなかったので、売れる作品ということならパロディ作ってたほうが堅実だということなんでしょうか。

で、作家として評価されてきた本人が一種の自画像として描いた姿が、作家でなくて職人だったというのは、言われてみればそうだよなぁ、と。作家性や社会批評というのは無論本気なんでしょうが、実際にモノを作ってるのは職人としての宮崎監督ですからね。別に本職の思想家でもないですし、床屋政談のレベルだといえばそうなんです。本気で政治をやりたかったらとっくに立候補してますよ。なんだかんだ無責任に言いっぱなしてるのって、自分はただの絵描きだという自負の表れと見れば分からなくもないです。

タイトルのセリフは本庄のものですけど、堀越も宮崎監督もそうですね。上から作れと言われたものを作ってるから、別に「芸術家」ではない。やっぱり「職人」だな、と。

映画としてはめちゃくちゃ質は高いですね。作画はもちろんですが、台詞がすごくいい。必要なことを必要なだけ台詞にしてる。脚本のクレジットは宮崎監督ですけど、「アリエッティ」や「コクリコ坂」のときはそれほど脚本がいいとは思わなかった。なんでだろう。コンテ段階で相当手を入れてるみたいだから、やっぱり演出と並行じゃないと駄目なのかなぁ。

別な言い方すれば老人が自分の人生を全肯定したような映画だから、そこに共感できないと厳しいのかもしれない。家族を犠牲にしてやりたいことをやったという話ですから。堀越が女房を死なせてまでやったことって、国のためでも正義のためでもなく、単に自分がそうしたいというだけですからね。ただ、男性はああいう職人的な生き方に対するあこがれはどこかしらあるもんだから、これだけお客さんも入ったんだろうけど。

女性客はどういうふうに見てるのかなぁ。私が見たときも半分近くは女性客だったと思う。普段アニメ映画見るときはほとんど男しかいないから、さすがジブリとは思った。駄目な男に対する母性本能みたいなもんでしょうか。いかがでしょう?

(初出:2013年12月31日  WWF  No.49)

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