『らんま』の連載が終了しました。ということは、これ以上新事実が発覚する
 心配はないわけで、ここらで呪泉郷の変身システムについていくつかの仮説を
 提示してみたいと思います。これによって『らんま』における物理的世界観が
 あからさまになり、さらにそれの持つ意味を考察、検証することによって
 『らんま』という作品の持つ構造の意味にまで言及することが可能となる
 でしょう。(大ウソ)

1 「変身」の過程
 「呪泉郷」はいかにして犠牲者の肉体を変化させるのか。これについては
 諸説ありますが、もっとも一般的なものは細胞レベル、またはDNAレベルで
 影響を与える、というものでしょう。しかし、DNAとは体を作る際の設計図、
 レシピのようなものなので、DNAだけを書き換えた所で既にできあがって
 いる体が変化するわけではありません。それに年齢にかかわらずDNAの配置は
 変わりせんから童子溺泉の存在によってもDNA説は否定できます。
 また、細胞一つ一つの構造や配置が変化する、という説でも質量の変化までは
 説明しきれません。

 これらの説は「体を作るもの」が変化することによって肉体が変化する、という
 論構成ですが、「呪泉郷」の意志(これは後述します)からするとこれは順序が
 逆ではないでしょうか。実は「肉体が変化することによって結果的にDNAや
 細胞も変化している」のです。極論すれば変身前と変身後の肉体が同じ物質である
 必要もありません。「肉体が変化している」のではなく、「別の次元の肉体と
 交換されている」と言い張ることも不可能ではないのです。

 質量の変化は別次元説でも解決できますが、逆にいえば説明するだけなら
 なんとでも言えます。たとえば「精神エネルギーと質量の相互変換が
 行われている」という説です。『らんま』には「気」という概念があります。
 たとえば二の宮ひな子の変身です。彼女の場合闘気を質量に変換させること
 によって変身しています。(細胞変化説はむしろ彼女の変身原理となりうる
 でしょう。細胞の一つ一つが巨大化するのか、眠っていた細胞が活性化する
 のかはわかりませんが。)また、もっと端的な例では「獅子咆哮弾」があります。
 これはまさに「気」が「重さ」、質量となりうる証明です。

 その他、「水中、空中の物質を素粒子レベルで固定している」などの説が
 ありますが、実はこれらの説を弄することはほとんど意味がありません。
 呪泉郷の呪いはまず一番に結果のみをそこに現前せしめるのであって、
 質量の由来などは「どこでもいい」のです。そう、考えるべきは「呪泉郷」が
 犠牲者の肉体を何に変化させようとしているか、なのです。

2 変身の目的
 変身の過程がどのようであるにしろ犠牲者の肉体は、たとえば乱馬の場合なら
 「女として生まれていた場合」の肉体へと変化します。すなわちifの世界、
 パラレルワールドです。ここで重要なことは、変身前の傷などは変身後も
 受け継がれるという点です。ただのパラレルワールドなら平行する歴史がある、
 と考えればすむのですが、これでは説明できない事例も存在します。それは
 桜モチ編の足型です。この時、良牙の額にはブタの足型が残っていました。
 これは作品世界と平行する別の歴史は存在しない、ということを意味します。
 あくまで水、または湯をかぶった瞬間の状況をそのまま別の存在へと置き換える
 のです。すなわち先の事例では「ブタの足型がついたブタ」を「ブタの足型が
 ついた人間」に置き換えているわけです。

 また、足型の大きさが変化していないことからも、単なる細胞の変化ではない
 ことは証明できるでしょう。拳印編のペコちゃんマークも大きさは変化
 していますが形はゆがんでいません。「絵が描かれている」という状況が
 ダイレクトに移し替えられています。このことから考えると、良牙が腹一杯
 食事した直後に変身したとしても胃袋の許容量をオーバーすることはなく、
 「ブタとして」満腹の状態に変化するはずです。

3 呪いをかけるもの
 このように「変身」は恣意的な変化ですから、「呪い」をかける主体としての
 意志があるはずです。また、この呪いは水と湯をスイッチとして繰り返し発動
 するものですし、水と湯との区別を判断するものでもありますから(本人が
 気絶して水をかけられた意識がなくても変身しています)、この「意志」は
 一種の霊として犠牲者に憑依しているものと思われます。この「意志」が
 溺れた本人の精神とイコールでないことは「茜溺泉」で明らかにされています。
 「茜溺泉」の描写から推測すると、この「意志」はあかねが死の寸前に発した
 強い「生への渇望」が泉に焼き付いたものでしょう。これは人格を伴わない純粋な
 「意志」そのものと考えられます。(呪泉郷は一度涸れたのち復活しているので、
 フィルムの役割を果たすのは水ではなく泉という「場」です。この泉がまず
 「水」に呪いをかけ、それによって「〇溺泉の水」ができるのです。)

 そして、呪泉の水はその「意志」を実現させる触媒ともなります。呪泉洞編の
 あかね人形を思い出してください。水分が飛んだだけで普通は人形には
 なりませんし、その状態で意識が残るわけもありません。
 あそこは金蛇環をつかんだときに肉体は四散したと考えるべきでしょう。
 つまり、そこで残った人形は、魂や肉体を含めた「人間の核」と言うべきもの
 です。だから呪泉の水以外をかけても元にはもどりません。呪泉の水のみが
 「意志」の肉体を現前させる力を持ちます。最終回のあかねの全裸シーンは
 「復活」ではなく「再生」なのです。(某美少女戦士の変身シーンと原理は
 同じです。)

 なぜあかねが落ちた泉が娘溺泉でなく茜溺泉なのか、についてもさまざまに
 考えられますが、「焼き付けた直後だったため劣化(安定?)していなかった」
 というあたりが妥当なところでしょう。

 また、呪泉郷の水も循環しているでしょうから、水の呪いを解く機能も
 呪泉洞付近にあるはずです。つまり、呪泉郷の秘密は「水」ではなく、
 あの「土地」にあるのというわけです。止水桶でどの水を汲んでも「神秘の水」
 となった、という例もありますし。

 変身の仕組みを順をおって説明すると、こうなります。まず、最初に誰かが
 呪泉郷で溺れ、その意志を(呪泉の力を持った水を媒介としてか、その土地の
 力によってか)泉に焼き付けます。そしてその意志は水に乗り移り、呪泉の水に
 宿る「精神を具現化する力」を手に入れて「〇溺泉の意志」となります。
 そして、最初の犠牲者が泉に落ちると、その「意志」は水を媒介として憑依し、
 めでたく変身体質のできあがりというわけです。その後犠牲者に水がかかると、
 その「意志」は再び水を媒介として「力」を発揮することになります。つまり、
 呪泉の力は常に水を媒介として移動したり、力を実現させたりしているわけです。
 「湯」は呪泉の力の発現をキャンセルする働きを持つようですが、「呪泉の湯」
 につかった乱馬達の変身体質が直らなかったことから、憑依した意志を引きはがす
 力はないようです。おそらく「力」を逆回転で発動させる働きをもつのでしょう。

4 虚構としてのらんま
 以前私は「さおとめらんまは虚構である」という説をupしましたが、これは
 この呪泉郷解釈とも関係があります。らんまは「乱馬が女として存在していた
 場合」という、「もしも」の世界の人物なのです。この変身によって「乱馬」
 として生きたこれまでの歴史は「存在しないこと」になり、らんまは
 「だれでもない人間」という特殊な地位を占めることが可能となるのです。


 これまでの理論によって、誰もが一度は考えた妊娠問題などの諸問題を
 予測することも可能ですが、「理論にそった」回答を出すのは不毛でしょう。
 「まず理論ありき」ではなく、『らんま』世界の中でなにが自然か、という観点
 で回答されなければなりません。「理論」はそのための「手段」であって「目的」
 ではありません。「理論」は常に現実を追いかけるのみなのです。

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